ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:有職故実

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 今日は、鎌倉時代の1242年(仁治3)に、第84代の天皇とされる順徳天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月7日となります。
 順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、1197年(建久8年9月10日)に、京都において、後鳥羽天皇の第三皇子(母は寵妃藤原重子・修明門院)として生まれましたが、名は守成(もりなり)と言いました。1199年(正治元年)の3歳の時、父院の御所に引き取られて親王宣下され、翌年には、土御門天皇の皇太弟となって東宮となります。
 1208年(承元2)に莫大な八条院領の相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とし、元服してから、翌年には、故九条良経の息女、立子(東一条院)が入台しました。1210年(承元4)の14歳の時、後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚しで第84代とされる天皇として即位したものの、父・後鳥羽上皇の院政下にあり、実権の備わらないものとなります。
 1211年(建暦元)に、昇子内親王の死後、八条院領を相続し、有職故実の研究や和歌、詩、管弦など芸能の修練に傾倒、1212年(建暦2)に内裏詩歌合、1214年(建保2)に当座禁裏歌会、1215年(建保3)に内裏名所百首、1216年(建保4)には、百番歌合、1217年(建保5)に四十番歌合・中殿和歌御会を主催、また有職故実書『禁秘抄』を著したりしました。1218年(建保6)に中宮立子との間にもうけた懐成親王を皇太子とし、1221年(承久3)には、懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退きます。
 同年5月に後鳥羽院と共に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わり、7月に佐渡島へ配流となりました。1232年(貞永元)に佐渡で『順徳院御百首』を成し、藤原定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請い、1237年(嘉禎3)に藤原定家は『順徳院御百首』に評語を添えて進上しています。
 在島21年の後、1242年(仁治3年9月12日)に佐渡において、数え年46歳で亡くなりましたが、翌年に遺骨は京都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置されました。尚、特に和歌に優れ、自撰の『順徳院御集』や歌学書『八雲御抄』を成し、『続後撰和歌集』初出(17首)以後、勅撰集に計159首入集、新三十六歌仙、小倉百人一首にも歌を採られています。

<代表的な歌>

・「ももしきや古き軒端の忍ぶにもなほ余りある昔なりけり」(小倉百人一首)
・「ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰の白雪」(風雅和歌集)
・「佐保姫の染めゆく野べはみどり子の袖もあらはに若菜つむらし」(順徳院御集)
・「夢さめてまだ巻きあげぬ玉だれのひま求めてもにほふ梅が香」(順徳院御百首)
・「夕立のなごりばかりの庭たづみ日頃もきかぬかはづ鳴くなり」(玉葉和歌集)

〇順徳天皇の主要な著作

・和歌集『順徳院御集』
・歌学書『八雲御抄(やくもみしょう)』
・有職故実書『禁秘抄(きんぴしょう)』
・日記『順徳院御記』

☆順徳天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1197年(建久8年9月10日) 京都において、後鳥羽天皇の第三皇子(母は寵妃藤原重子・修明門院)として生まれる
・1199年(正治元年) 3歳の時、父院の御所に引き取られる
・1199年(正治元年11月) 親王宣下される
・1200年(正治2年4月) 土御門天皇の皇太弟となって東宮となる
・1208年(承元2年8月) 莫大な八条院領の相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とする
・1208年(承元2年12月) 元服する
・1209年(承元3年) 故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所する
・1210年(承元4年11月) 14歳の時、後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚しで即位する
・1211年(建暦元年11月) 昇子内親王の死後、八条院領を相続する
・1212年(建暦2年) 内裏詩歌合を主催する
・1214年(建保2年) 当座禁裏歌会を主催する
・1215年(建保3年) 内裏名所百首を成す
・1215年(建保3年) 俊成卿女出家の際に歌を贈答する
・1216年(建保4年) 百番歌合を主催する
・1217年(建保5年) 四十番歌合・中殿和歌御会を主催する
・1218年(建保6年11月) 中宮立子との間にもうけた懐成親王(後の仲恭天皇)を皇太子とする
・1219年(承久元年) 内裏百番歌合を主催する
・1221年(承久3年4月20日) 子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退く
・1221年(承久3年5月) 後鳥羽院と共に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わる
・1221年(承久3年7月21日) 京都から佐渡へ配流となる
・1232年(貞永元年) 佐渡で『順徳院御百首』を成し、藤原定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請う
・1237年(嘉禎3年) 藤原定家は『順徳院御百首』に評語を添えて進上する
・1242年(仁治3年9月12日) 在島21年の後、佐渡において、数え年46歳で亡くなる
・1243年(寛元元年) 遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置される
・1249年(建長元年) 順徳院の諡号を贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細


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 今日は、平安時代中期の1041年(長久2)に、公卿・歌人藤原公任の亡くなった日ですが、新暦では2月4日となります。
 藤原公任(ふじわら の きんとう)は、966年(康保3)に関白頼忠の長男(母は醍醐天皇皇子代明親王の娘厳子)として生まれました。980年(天元3)に清涼殿にて円融天皇出御の元で元服し、正五位下に叙され、翌年に従四位下、982年(天元5)に従四位上、983年(天元6)に讃岐守を兼ね、985年(寛和元)には正四位下に昇叙します。
 漢詩・和歌・管弦に優れ、986年(寛和2)には、円融上皇の大井河遊覧に参加し、3舟(漢詩・和歌・管弦の3艘の舟)に併せ乗る名誉を得ました。989年(永延3)に蔵人頭となり、992年(正暦3)には、27歳で参議となって公卿に列します。
 藤原道長と親しくなり、道長主催の歌合や遊興にはよく出席し和歌を披露し、999年(長保元)秋の嵯峨遊覧では大覚寺の滝がなくなったのを惜しみ、「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ」と詠じたことは有名で、後に「小倉百人一首」にも採られました。1001年(長保3)に中納言兼左衛門督となり、正三位に昇叙、1005年(寛弘2)に従二位、1009年(寛弘6)には44歳で権大納言、1012年(寛弘9)には正二位に昇叙されます。
 有職故実に通じて『北山抄』を著し、『新撰髄脳』、『和歌九品』などの歌学書を書き、秀歌選として『金玉集』、『深窓秘抄』を撰び、『和漢朗詠集』の撰者となり、名筆家としても知られました。しかし、1024年(万寿元)に権大納言を辞し、1026年(万寿3)には洛北長谷(現在の京都市左京区岩倉長谷町)の解脱寺で出家を果たします。
 多才博識で知られ、道長全盛時の歌壇を代表する指導者の位置を占めていましたが、1041年(長久2)1月1日に、数え年76歳で亡くなりました。尚、勅撰集には『拾遺集』以下に91首入集しています。

<藤原公任の代表的な歌>

・「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」(小倉百人一首)
・「小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき」(大鏡)
・「春きてぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ」(拾遺集)
・「うき世をば峰の霞やへだつらむなほ山里は住みよかりけり」(千載集)

〇藤原公任の主要な著作

・故実書『北山(ほくざん)抄』
・私選集『拾遺抄』
・歌学書『新撰髄脳(しんせんずいのう)』
・歌学書『和歌九品(くほん)』
・秀歌選『三十六人撰』
・秀歌選『金玉集』
・秀歌選『深窓秘抄』
・私撰集『和漢朗詠(ろうえい)集』
・私撰集『如意宝集』
・家集『公任集』

☆藤原公任関係略年表(日付は旧暦です)

・966年(康保3) 関白頼忠の長男(母は醍醐天皇皇子代明親王の娘厳子)として生まれる
・980年(天元3年2月25日) 清涼殿にて円融天皇出御の元で元服し、正五位下に叙される
・980年(天元3年3月3日) 禁色となる
・980年(天元3年7月1日) 侍従となる
・981年(天元4年1月7日) 従四位下に昇叙される
・982年(天元5年5月8日) 従四位上に昇叙される
・983年(天元6年1月26日) 兼讃岐守となる
・983年(天元6年12月13日) 左近衛権中将、讃岐守如元
・984年(永観2年2月1日) 兼尾張権守となる
・985年(寛和元年11月21日) 正四位下に昇叙される
・986年(寛和2年3月5日) 兼伊予権守となる
・986年(寛和2年10月) 円融上皇の大井河遊覧に参加し、3舟に併せ乗る名誉を得る
・989年(永延3年2月23日) 蔵人頭となる
・990年(永祚2年4月5日) 兼備前守となる
・992年(正暦3年8月28日) 参議となってて公卿に列する
・993年(正暦4年1月13日) 兼近江守となる
・993年(正暦4年) 一条天皇の大原野神社への行幸に不参する事件を起し、一時参内を止められる
・994年(正暦5年) 藤原道兼の養女(実は昭平親王の娘)と結婚する
・995年(長徳元年8月28日) 兼左兵衛督
・995年(長徳元年9月21日) 兼皇后宮大夫(皇后・藤原定子)となる
・996年(長徳2年1月) 兼讃岐守となる
・996年(長徳2年7月14日) 兼右衛門督・検非違使別当となる
・998年(長徳4年1月25日) 兼備前権守となる
・998年(長徳4年10月23日) 兼勘解由長官となる
・999年(長徳5年1月7日) 従三位に昇叙される
・999年(長徳5年閏3月29日) 勘解由長官を辞する
・999年(長徳5年5月6日) 藤原道長邸の改築に伴う祝宴に参加する
・999年(長徳5年9月12日) 道長に随行して西山に紅葉を尋ねる
・999年(長徳5年10月27日) 藤原彰子入内に際して、屏風歌を詠進する
・1001年(長保3年8月25日) 中納言となる
・1001年(長保3年10月3日) 兼左衛門督となる
・1001年(長保3年10月10日) 正三位に昇叙される
・1001年(長保3年12月7日) 検非違使別当を辞する
・1001年(長保3年12月16日) 皇后宮大夫(藤原定子崩御)を辞し、兼皇太后宮大夫(皇太后・藤原遵子)となる
・1005年(寛弘2年7月21日) 従二位に昇叙される
・1009年(寛弘6年3月4日) 権大納言となる
・1012年(寛弘9年2月14日) 兼太皇大后宮大夫(藤原遵子太皇太后贈号)
・1012年(寛弘9年4月) 長女を藤原教通に嫁がせる
・1012年(寛弘9年12月22日) 正二位に昇叙される
・1017年(寛仁元年6月1日) 太皇太后宮大夫を辞する
・1021年(寛仁5年1月28日) 兼陸奥出羽按察使となる
・1023年(治安3年) 次女(遵子の養女)を亡くする
・1024年(翌治安4年) 長女(藤原教通室)を亡くする
・1024年(万寿元年12月12日) 権大納言を辞し、陸奥出羽按察使となる
・1025年(万寿2年1月) 邸宅の四条宮が焼亡する
・1026年(万寿3年1月4日) 洛北長谷(現在の京都市左京区岩倉長谷町)の解脱寺で出家を果たす
・1040年(長久元年12月) 瘡湿に罹る
・1041年(長久2年1月1日) 数え年76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)改新の詔」が発布される(新暦1月22日)詳細
1946年(昭和21)昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)で自己の神格を否定する詳細
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 今日は、室町時代の1481年(文明13)に、公卿・古典学者一条兼良の亡くなった日ですが、新暦では4月30日となります。
 一条兼良(いちじょう かねよし)は、1402年(応永9年5月7日)に、関白だった父・一条経嗣(つねつぐ)の子(母は東坊城秀長の娘)として生まれましたが、名は「かねら」とも呼ばれてきました。
 1412年(応永19)に元服して正五位下に叙位、翌年従三位に叙せられて公卿に列し、翌々年に正三位・権中納言となり、1416年(応永23)に権大納言となって家督を継ぎます。その後も昇進を重ね、1429年(永享元)に従一位左大臣、1432年(永享4)には摂政へと昇りつめました。
 しかし、実権は従兄弟の二条持基に握られ、一端辞任に追い込まれたものの、1444年(文安元)に、足利義政が室町幕府第8代将軍になると、1446年(文安3)に太政大臣、翌年には関白へと返り咲きました。
 その後、1450年(宝徳2)に太政大臣を辞し、1453年(享徳2)に関白も辞任、同年准三宮に叙せられました。学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与、歴史・有職故実・文学等に通じ、当代随一の学者と言われるようになります。
 1467年(応仁元)に関白に還補しましたが、同年に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」を焼失、奈良興福寺大乗院門跡に疎開することになりました。ここでは講書、著作の生活を送ったものの、1470年(文明2)に再び関白を辞して、1473年(文明5)に美濃(現在の岐阜県)に下向し、奈良に戻ってまもなく大乗院で出家します。
 1477年(文明9)に、応仁の乱が終息し、京都に戻って、第9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうけるようになりました。古典を研究し、源氏物語注釈書『花鳥余情』、『日本書紀纂疎』などを著し、有職故実や歌学書、紀行等多くの著作を残し、1481年(文明13年4月2日)に、京都において、数え年80歳で亡くなっています。

〇一条兼良の主要な著作

・『公事根源』
・教訓書『樵談治要(しょうだんちよう)』(1480年)
・『桃華蘂葉』
・『日本書紀纂疏(さんしょ)』(1472年頃)
・『伊勢物語愚見抄』
・『尺素往来』
・『花鳥余情(かちょうよせい)』(1472年)
・『源語秘訣』(花鳥余情の秘伝書)
・『源氏和秘抄』
・『源氏物語之内不審条々』
・『口伝抄』(源氏物語の注釈書)
・『源氏物語年立』
・『世諺問答』
・『梁塵愚案抄』(神楽歌と催馬楽の注釈書)
・『江家次第抄』
・『古今集童蒙抄』
・歌学書『歌林良材集』
・教訓書『文明一統記』
・『代始和抄』
・『世諺問答』
・『二判問答』
・歌学書『連珠合璧集』
・教訓書『小夜寝覚』
・紀行文『藤河の記』
・『桃華老人申楽後証記』
・『勧修念仏記』
・『多武峰縁起』
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