ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:有機化学者

tsudakyousuke01
 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、薬学者・有機化学者津田恭介の生まれた日です。
 津田恭介(つだ きょうすけ)は、台湾・基隆庁基隆(キールン)保仙洞(セントウ)において、父・津田宗助、母・フサの子として生まれました。1917年(大正6)に父の転勤で台北に転居し、1919年(大正8)に台北中学へ入学し、1923年(大正12)に4年で卒業後、旧制浦和高等学校理科乙類に入学します。
 1925年(大正14)に母・フサが亡くなりましたが、1926年(大正15)に東京帝国大学医学部薬学科へ入学し、1929年(昭和4)に卒業後、薬化学教室の無給副手となりました。1930年(昭和5)に薬化学教室の助手に昇格し、1936年(昭和11)に論文「マトリンの構造研究補遺」で、東京大学より薬学博士を得て、翌年には、落合英二との共著『有機微量小量定量分析法』が刊行されます。
 1938年(昭和13)に東京帝国大学助教授に昇格し、1939年(昭和14)に伝染病研究所の長谷川秀治教授の研究室で実験化学療法を学び、1941年(昭和16)には東大薬学と伝研と兼任し、合成と動物実験とを連結してスルホンアミドの研究を行ないました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に父・宗助が亡くなり、1949年(昭和24)にフグ毒の研究を開始、1951年(昭和26)には、九州大学医学部教授となります。
 1954年(昭和29)にノルデヒドロ-α-マトリニジンの合成に成功し、チューリヒ工科大学ルジーチカ教授の下に留学、1955年(昭和30)には、東京大学応用微生物研究所教授・薬学部教授併任となりました。1956年(昭和31)にステロイドの微生物転換に関する研究に取り組み、1957年(昭和32)に日本薬学会学術賞を受賞、1961年(昭和36)頃から、モルフィン塩基の微生物による転換の研究に移り、坦子菌のヒイロタケによる水酸化反応を見出します。
 1963年(昭和38)に日本学術会議会員(~1966年)に選ばれ、1964年(昭和39)には、テトロドトキシンの構造決定に成功し、「フグ毒の単離と化学構造決定」で、朝日文化賞を受賞しました。1965年(昭和40)に東京大学応用微生物研究所研究所所長、東京大学評議員となり、1966年(昭和41)には、「苦蔘(くしん)塩基を中心とする荳科(とうか)アルカロイドの化学的研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1967年(昭和42)に東京大学を定年退官し、共立薬科大学学長(~1984年)に就任、1968年(昭和43)には、国際誌の「テトラヘドロン」、同速報誌のアジア地区編集委員(~1976年)として、編集・審査に取り組みました。1975年(昭和50)に厚生省中央薬事審議会会長(~1981年)、1977年(昭和52)に勲二等旭日重光章を受章、1979年(昭和54)には、宮内庁から依頼されて、宮中の講書始の儀で御進講をします。
 1979年(昭和54)にスイス工科大学の招待によりスイスへ出張、1980年(昭和55)に文化功労者となり、1982年(昭和57)には、文化勲章を受章します。1986年(昭和61)には、ヒューマンサイエンス振興財団会長に就任しましたが、1999年(平成11)6月17日に、東京都において、92歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇津田恭介の主要な著作

・落合英二との共著『有機微量少量分析法』(1937年)
・『植物塩基』
・『薬品合成化学』
・『医薬品合成化学』

☆津田恭介関係略年表

・1907年(明治40)2月10日 台湾・基隆庁基隆(キールン)保仙洞(セントウ)において、父・津田宗助、母・フサの子として生まれる
・1917年(大正6) 父の転勤で台北に転居する
・1919年(大正8) 台北中学へ入学する
・1923年(大正12) 旧制浦和高等学校理科乙類に入学する
・1925年(大正14) 母・フサが亡くなる
・1926年(大正15) 東京帝国大学医学部薬学科へ入学する
・1929年(昭和4) 東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、薬化学教室の無給副手となる
・1930年(昭和5) 東京帝国大学医学部薬化学教室の助手に昇格する
・1936年(昭和11) 論文「マトリンの構造研究補遺」で、東京大学より薬学博士を得る
・1937年(昭和12) 落合、津田共著『有機微量小量定量分析法』(南山堂書店)が刊行される
・1938年(昭和13) 東京帝国大学助教授となる
・1939年(昭和14) 伝染病研究所の長谷川秀治教授の研究室で実験化学療法を学ぶ
・1941年(昭和16) 東大薬学と伝研と兼任し、合成と動物実験とを連結してスルホンアミドの研究を行なう
・1946年(昭和21) 疎開先の福島で、父・宗助が亡くなる
・1949年(昭和24) フグ毒の研究を開始する
・1951年(昭和26) 九州大学医学部教授となる
・1954年(昭和29) ノルデヒドロ-α-マトリニジンの合成に成功し、チューリヒ工科大学ルジーチカ教授の下に留学する
・1955年(昭和30) 東京大学応用微生物研究所教授・薬学部教授併任となる
・1956年(昭和31) ステロイドの微生物転換に関する研究に取り組む
・1957年(昭和32) 日本薬学会学術賞を受賞する
・1961年(昭和36) この頃から、モルフィン塩基の微生物による転換の研究に移り、坦子菌のヒイロタケによる水酸化反応を見出す
・1963年(昭和38) 日本学術会議会員に選ばれる(~1966年)
・1964年(昭和39) テトロドトキシンの構造決定に成功し、「フグ毒の単離と化学構造決定」で、朝日文化賞を受賞する
・1965年(昭和40) 東京大学応用微生物研究所研究所所長、東京大学評議員となる
・1966年(昭和41) 「苦蔘(くしん)塩基を中心とする荳科(とうか)アルカロイドの化学的研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1967年(昭和42) 東京大学を定年退官し、共立薬科大学学長に就任する
・1968年(昭和43) 国際誌の「テトラヘドロン」、同速報誌のアジア地区編集委員(~1976年)として、編集・審査に取り組む
・1975年(昭和50) 厚生省中央薬事審議会会長(~1981年)となる
・1976年(昭和51) 日本学士院会員となる
・1977年(昭和52) 勲二等旭日重光章を受章する
・1979年(昭和54) 宮内庁から依頼されて、宮中の講書始の儀で御進講する
・1979年(昭和54) スイス工科大学の招待によりスイスへ出張する
・1980年(昭和55) 文化功労者として顕彰される
・1982年(昭和57) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) 共立薬科大学学長を辞める
・1986年(昭和61) ヒューマンサイエンス振興財団会長に就任する
・1999年(平成11)6月17日 東京都において、92歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)鎌倉永安寺で第4代鎌倉公方足利持氏が叔父満貞と共に自害し、鎌倉府が滅亡する(新暦3月24日)詳細
1657年(明暦3)儒学者・政治家新井白石の誕生日(新暦3月24日)詳細
1903年(明治36)病理学者吉田富三の誕生日詳細
1904年(明治37)「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられて、日露戦争に対して正式に宣戦が布告される詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立大会が開かれる詳細
1940年(昭和15)「津田事件」により、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』等の著書4冊が発禁となる詳細
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mukaiyamateruaki01
 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、有機化学者向山光昭が生まれた日です。
 向山光昭(むかいやま てるあき)は、長野県上伊那郡手良村(現在の伊那市手良)において、父・向山幹夫と母・あき子の次男として生まれましたが、幼児期に東京へ転居しました。成蹊学園を経て、1945年(昭和20)に東京工業大学化学科に入学したものの、戦中から戦後の食糧難に苦しみます。
 その後、星野敏雄教授に師事し、1948年(昭和23)に卒業後、星野研究室に特別研究生として残り、1953年(昭和28)には、学習院大学理学部化学科講師となりました。1957年(昭和32)に助教授に昇任し、東京大学より博士号を取得、「置換尿素とウレタン類の熱解離反応の研究」で、第6回日本化学会進歩賞を受賞します。
 1958年(昭和33)に東京工業大学理学部化学科に移り助教授となり、1963年(昭和38)には教授に昇任しまた。1973年(昭和48)に東京大学理学部化学教室に移り、向山アルドール反応と呼ばれる化学反応を発見、第25回日本化学会学会賞を受賞します。
 1975年(昭和50)に第6回内藤記念科学振興賞、1978年(昭和53)に東レ科学技術賞、1983年(昭和58)には、日本学士院賞恩賜賞を受賞しました。1986年(昭和61)に日本化学会会長となり、コペルニクス・メダル(ポーランド)を授与され、1987年(昭和62)には、東京大学を定年退官し、東京理科大学理学部応用化学科に移り教授となり、「有機合成化学の新手法開拓に関する研究」で、藤原賞を受賞します。
 1989年(平成元)に有機合成化学協会会長となり、1991年(平成3)に有機合成化学協会会長を辞め、東京理科大学研究所長に着任、1992年(平成4)には、東京理科大学特任教授に着任、文化功労者となりました。1994年(平成6)に日本学士院会員となり、「有機合成化学における新機軸の確立」で、第10回有機合成化学協会特別賞を受賞、フランス共和国国家功労章「シュバリエ」を受章、1996年(平成8)には、アメリカ化学会想像的有機合成化学賞を受賞します。
 1997年(平成9)に文化勲章を受章、1998年(平成10)にテトラヘドロン賞(英国)を受賞、2002年(平成14)に東京理科大学を退職し、北里研究所基礎研究所有機合成化学研究室室長となり、2004年(平成16)には、全米科学アカデミー会員となりました。2006年(平成18)にバートン・ゴールドメダルを授与され、2009年(平成21)に北里研究所を退職し、東京化成工業株式会社基礎研究所技術顧問となりましたが、2018年(平成30)11月17日に、東京都内の病院において、肺炎により91歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇向山光昭の主要な著作

・『有機化学 (基礎化学シリーズ)』(1970年)
・『有機合成反応―新しい可能性を求めて』(1987年)
・『有機合成反応〈2〉さらなる可能性を求めて』(2010年)

☆向山光昭関係略年表

・1927年(昭和2)1月5日 長野県上伊那郡手良村(現在の伊那市手良)において、父・向山幹夫と母・あき子の次男として生まれる
・1933年(昭和6) 成蹊小学校(成蹊学園)へ入学する
・1939年(昭和14) 成蹊小学校から旧制成蹊中学校へ進む
・1943年(昭和18) 旧制成蹊中学校から旧制成蹊高等学校へ進む
・1945年(昭和20) 旧制成蹊高等学校を繰り上げ卒業し、東京工業大学化学科に入学、星野敏雄教授に師事する
・1948年(昭和23) 東京工業大学化学科を卒業後、星野研究室に特別研究生として残る
・1953年(昭和28) 学習院大学理学部化学科講師となる
・1957年(昭和32) 学習院大学理学部化学科助教授となり、東京大学より博士号を取得、「置換尿素とウレタン類の熱解離反応の研究」で、第6回日本化学会進歩賞を受賞する
・1958年(昭和33) 東京工業大学理学部化学科助教授となる
・1963年(昭和38) 東京工業大学理学部化学科教授となる
・1973年(昭和48) 東京大学理学部化学教室に移り、向山アルドール反応と呼ばれる化学反応を発見、第25回日本化学会学会賞を受賞する
・1975年(昭和50) 「生理活性物質の新合成法に関する研究」で第6回内藤記念科学振興賞を受賞する
・1978年(昭和53) 「新しい有機合成反応の開拓と天然有機化合物の合成」で、東レ科学技術賞を受賞する
・1983年(昭和58) 「有機合成化学の新手法開拓と生体関連物質の合成」で、日本学士院賞恩賜賞を受賞する
・1986年(昭和61) 日本化学会会長となり、コペルニクス・メダル(ポーランド)を授与される
・1987年(昭和62) 東京大学を定年退官し、東京理科大学理学部応用化学科に移り教授となり、「有機合成化学の新手法開拓に関する研究」で、藤原賞を受賞する
・1989年(平成元) 有機合成化学協会会長となる
・1991年(平成3) 有機合成化学協会会長を辞め、東京理科大学研究所長に着任する
・1992年(平成4) 東京理科大学特任教授に着任、文化功労者となる
・1994年(平成6) 日本学士院会員となり、「有機合成化学における新機軸の確立」で、第10回有機合成化学協会特別賞を受賞、フランス共和国国家功労章「シュバリエ」(Chevalier de l’Ordre National, France)を受章する
・1996年(平成8) ACS Award for Creative Work in Synthetic Organic Chemistry(アメリカ化学会想像的有機合成化学賞)を受賞する
・1997年(平成9) 文化勲章を受章する
・1998年(平成10) テトラヘドロン賞(英国)を受賞する
・2002年(平成14) 東京理科大学を退職し、北里研究所基礎研究所有機合成化学研究室室長となる
・2004年(平成16) 全米科学アカデミー会員となる
・2006年(平成18) Sir Derek Barton Gold Medal(バートン・ゴールドメダル)を授与される
・2009年(平成21) 北里研究所を退職し、東京化成工業株式会社基礎研究所技術顧問となる
・2018年(平成30)11月17日 東京都内の病院において、肺炎により91歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(正平3)楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との四条畷の戦いに敗れ自刃(新暦2月4日)詳細
1593年(文禄2)第106代の天皇とされる正親町天皇の命日(新暦2月6日)詳細
1963年(昭和38)「三八豪雪」が始まり、日本海側に記録的大雪をもたらす詳細
1974年(昭和49)中国の北京において、「日中貿易協定」が締結(同年6月22日発効)される詳細
1978年(昭和53)陶芸家・人間国宝濱田庄司の命日詳細
1995年(平成7)地球物理学者・歌人和達清夫(筆名:西須諸次)の命日詳細
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majimatoshiyuki01
 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、有機化学者で大阪帝国大学総長だった真島利行が亡くなった日です。
 真島利行(まじま としゆき/りこう)は、明治時代前期の1874年(明治7)11月13日に、京都府京都市において、医者の子として生まれましたが、2歳の時に父と死別しました。京都府中学を経て、1888年(明治21)に上京して、共立学校など数校の進学予備校に学び、第一高等中学校に入学します。
 1896年(明治29)に、東京帝国大学理科大学化学科に入学し、有機化学を専攻、1899年(明治32)には、同大学を卒業後、大学院へ進み、助手となりました。1903年(明治37)に東京帝国大学助教授に昇進し、1905年(明治39)頃よりウルシの研究に着手します。
 1907年(明治41)に、ヨーロッパ留学に出発、ドイツ、スイスの大学、イギリスの研究所などで有機化学を研究して、1911年(明治45)に帰国、東北帝国大学理科大学教授に就きました。1917年(大正6)に、漆の主成分ウルシオールの構造決定および合成による確認により帝国学士院賞を受賞、理化学研究所主任研究員を兼任します。
 1926年(大正15)に東北帝国大学理学部長となり、1927年(昭和2)に、明治以来の化学文献を集めた「日本化学総覧」を創刊、1929年(昭和4)には、新設の東京工業大学教授を兼任しました。1930年(昭和5)に北海道帝国大学理学部創設に際して教授を兼任、さらに、1932年(昭和7)には、大阪帝国大学の理学部創設に際して教授・学部長を兼任します。
 1933年(昭和8)に大阪帝国大学専任教授となり、1934年(昭和9)には、東北帝国大学名誉教授の称号を授けられました。1936年(昭和11)に、日本化学会は有機化学分野で優れた業績を挙げた個人に対して贈る「真島利行賞」を制定、1943年(昭和18)には、大阪帝国大学総長(~1946年)となります。
 日本における有機化学の草分け的存在であり、1949年(昭和24)に文化勲章を受章、1951年(昭和26)には、文化功労者となったものの、1962年(昭和37)8月19日に87歳で亡くなりました。

〇真島利行関係略年表

・1874年(明治7)11月13日 京都府京都市において、医者の子として生まれる
・1876年(明治9) 2歳の時、父と死別する
・1888年(明治21) 14歳の時、上京する
・1896年(明治29) 東京帝国大学理科大学化学科に入学する
・1899年(明治32) 東京帝大理科大学化学科を卒業、同大学助手となる
・1903年(明治37) 東京帝国大学助教授となる
・1905年(明治39) この頃よりウルシの研究に着手する
・1907年(明治41) ヨーロッパ留学に出発、ドイツ、スイスの大学、イギリスの研究所などで有機化学を研究する
・1911年(明治45) ヨーロッパ留学から帰国、東北帝国大学理科大学教授に就く
・1917年(大正6) 漆の主成分ウルシオールの構造決定および合成による確認により帝国学士院賞を受賞、理化学研究所主任研究員を兼任する
・1926年(大正15) 東北帝国大学理学部長となる
・1927年(昭和2) 「日本化学総覧」を創刊する
・1929年(昭和4) 新設の東京工業大学教授を兼任する
・1930年(昭和5) 北海道帝国大学理学部創設に際して教授を兼任する
・1932年(昭和7) 大阪帝国大学の理学部創設に際して教授・学部長を兼任する
・1933年(昭和8) 大阪帝国大学専任教授となる
・1934年(昭和9) 東北帝国大学名誉教授の称号を授けられる
・1936年(昭和11) 日本化学会は有機化学分野で優れた業績を挙げた個人に対して贈る「真島利行賞」を制定する
・1943年(昭和18) 大阪帝国大学総長となる
・1946年(昭和21) 大阪帝国大学総長を辞める
・1949年(昭和24) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1962年(昭和37)8月19日 87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1680年(延宝8)第108代の天皇とされる後水尾天皇の命日(新暦9月11日)詳細
1863年(文久3)八月十八日の政変による七卿落ちで、三條実美ら公家7人が長州へ向かう(新暦10月1日)詳細
1881年(明治14)文部省によって「師範学校教則大綱」が制定される詳細
1944年(昭和19)第12回御前会議で「世界情勢判断及戦争指導大綱」を決定する詳細
1946年(昭和21)全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成される詳細
1969年(昭和44)小説家中山義秀(なかやま ぎしゅう)の命日詳細
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nakanishikouji01
 今日は、大正時代の1925年(大正14)に、有機化学者中西香爾が生まれた日です。
 中西香爾(なかにし こうじ)は、イギリス領時代の香港で生まれ、1944年(昭和19)に旧制甲南高等学校(甲南大学の前身)の理科を卒業しました。その後、名古屋大学理学部へ進学し、天然物化学の権威である平田義正の薫陶を受け、1947年(昭和22)に卒業します。
 1950年(昭和25)からハーバード大学に留学し、1952年(昭和27)に帰国、1954年(昭和29)には、名古屋大学から理学博士号を取得しました。1955年(昭和30)に名古屋大学助教授となり、「ロゼオスライシン構成成分およびその他の天然物の構造決定」で、第5回日本化学会進歩賞を受賞、1958年(昭和33)には、東京教育大学教授となります。
 1963年(昭和38)に東北大学教授に転任し、1967年(昭和42)には、「植物からの昆虫変態ホルモンの発見」で、竹本常松と共に朝日賞を受賞しました。1969年(昭和44)にアメリカコロンビア大学教授、ケニア国際昆虫生体研究所主任研究員となり、1973年(昭和48)に米国芸術・科学アカデミー会員、1978年(昭和53)には、食品化学研究所所長となり、アメリカ化学会よりアーネスト・ガンサー賞、センテナリー賞を受賞します。
 1980年(昭和55)にニューヨーク科学アカデミー会員、1981年(昭和56)にレムセン賞を受賞、1986年(昭和61)にチューリッヒ大学より、パウル・カラー・ゴールドメダルを得、1990年(平成2)には、「機能性天然有機化合物の構造および生体内機能発現に関する研究」で日本学士院賞・恩賜賞、アメリカ化学会賞(アーサー・C・コープ賞)を受賞しました。その後も、1992年(平成4)にシェーレ賞、ウィリアム・H・ニコルズ賞、1994年(平成6)に米国科学アカデミー賞化学部門、1995年(平成7)にイタリア化学会より、キラリティーメダル、1996年(平成8)にロバート・A・ウェルチ財団より、ロバート・ウェルチ化学賞を受賞するなど国際的に業績が評価されます。
 さらに、1999年(平成11)に文化功労者、2003年(平成15)にキング・ファイサル財団より、キング・ファイサル国際賞、2004年(平成16)にテトラヘドロン賞、2005年(平成17)‎MSD生命科学財団より、名古屋メダル(ゴールドメダル)、2007年(平成19)には、文化勲章を受章、名古屋大学名誉教授となりました。2018年(平成30)に「重要な生理活性天然物の発見とスペクトル構造解析法の先駆的開発」で、第34回有機合成化学協会特別賞を受賞しましたが、2019年(平成31)3月28日に、アメリカのニューヨーク市内の病院において、93歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇中西香爾関係略年表

・1925年(大正14)5月11日 香港で、生まれる
・1944年(昭和19) 旧制甲南高等学校(甲南大学の前身)の理科を卒業する
・1947年(昭和22) 名古屋大学理学部を卒業する
・1950年(昭和25) ハーバード大学に留学する
・1952年(昭和27) ハーバード大学留学から帰国する
・1954年(昭和29) 名古屋大学から理学博士号を取得する
・1955年(昭和30) 名古屋大学助教授となり、「ロゼオスライシン構成成分およびその他の天然物の構造決定」で、第5回日本化学会進歩賞を受賞する
・1958年(昭和33) 東京教育大学教授となる
・1963年(昭和38) 東北大学教授となる
・1967年(昭和42) 「植物からの昆虫変態ホルモンの発見」で、竹本常松と共に朝日賞を受賞する
・1969年(昭和44) アメリカコロンビア大学教授、ケニア国際昆虫生体研究所主任研究員となる
・1973年(昭和48) 米国芸術・科学アカデミー会員となる
・1978年(昭和53) 食品化学研究所所長となり、アメリカ化学会よりアーネスト・ガンサー賞、センテナリー賞を受賞する
・1979年(昭和54) サントリー生物有機科学研究所所長となり、「生物活性天然物の構造および生物有機化学的研究」で第31回日本化学会賞を受賞する
・1980年(昭和55) ニューヨーク科学アカデミー会員となる
・1981年(昭和56) レムセン賞を受賞する
・1986年(昭和61) チューリッヒ大学より、パウル・カラー・ゴールドメダルを得る
・1990年(平成2) 「機能性天然有機化合物の構造および生体内機能発現に関する研究」で日本学士院賞・恩賜賞、アメリカ化学会賞(アーサー・C・コープ賞)を受賞する
・1992年(平成4) シェーレ賞、ウィリアム・H・ニコルズ賞を受賞する
・1994年(平成6) 米国科学アカデミー賞化学部門を受賞する
・1995年(平成7) イタリア化学会より、キラリティーメダルを得る
・1996年(平成8) ロバート・A・ウェルチ財団より、ロバート・ウェルチ化学賞を受賞する
・1999年(平成11) 文化功労者となる
・2003年(平成15) キング・ファイサル財団より、キング・ファイサル国際賞を受賞する
・2004年(平成16) テトラヘドロン賞を受賞する
・2005年(平成17) MSD生命科学財団より、名古屋メダル(ゴールドメダル)を得る
・2007年(平成19) 文化勲章を受章、名古屋大学名誉教授となる
・2018年(平成30) 「重要な生理活性天然物の発見とスペクトル構造解析法の先駆的開発」で、第34回有機合成化学協会特別賞を受賞する
・2019年(平成31)3月28日 アメリカのニューヨーク市内の病院において、93歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(寿永2)倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る(新暦6月2日)詳細
1333年(元弘3)小手指原の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府軍を破る(新暦6月23日)詳細
1473年(文明5)武将・守護大名・室町幕府管領細川勝元の命日(新暦6月6日)詳細
1942年(昭和17)詩人萩原朔太郎の命日(朔太郎忌)詳細
1955年(昭和30)宇高連絡船の紫雲丸と第3宇高丸が衝突し紫雲丸が沈没して死者167名を出す(紫雲丸事故)詳細
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nozoetetsuo01
 今日は、平成時代の1996年(平成8)に、有機化学者野副鉄男が亡くなった日です。
 野副鉄男(のぞえ てつお)は、明治時代後期の1902年(明治35)5月16日に、宮城県仙台市で生まれました。宮城県仙台第一中学校、旧制第二高等学校を経て、1923年(大正12)に東北帝国大学理学部化学科に入学します。
 1926年(大正15)に卒業後、翌年に台湾総督府中央研究所の助手となり、1929年(昭和4)に台湾に台北帝国大学が新設されると理農学部化学科助教授となりました。1936年(昭和11)に「高級テルペン類似体及び其の配糖体の研究」により、大阪帝国大学理学部から理学博士号を取得、台湾檜の色素成分からヒノキチオールを分離、その基本構造が七員環化合物(トロポロン)であることをつきとめます。
 1937年(昭和12)には、台北帝国大学理学部化学科教授に昇任し、1942年(昭和17)には、日本化学会真島賞を受賞しました。1945年(昭和20)に、台北帝国大学は中国側に接収されて国立台湾大学となったものの、中華民国側の要請を受けて、引き続き教授として留任します。
 1948年(昭和23)に帰国後、東北大学理学部化学科講師を経て教授となり、翌年には、七員環化合物(トロポロン)の合成にも成功しました。これらの研究により、1952年(昭和27)に朝日賞、1953年(昭和28)に日本学士院賞を受賞します。
 1958年(昭和33)に文化勲章を受章、1959年(昭和34)に仙台市名誉市民となり、1966年(昭和41)には、東北大学理学部化学科教授を定年退官し、名誉教授となるなど数々の栄誉に輝きました。さらに、1972年(昭和47)に勲一等瑞宝章を受章、1975年(昭和50)に日本化学会長となり、1979年(昭和54)には、日本学士院会員となり、台湾から中華民国文化褒章を授与されます。
 1981年(昭和56)にドイツ化学会ホフマン賞、1983年(昭58年)には、「非ベンゼン系芳香族化学への貢献」で、有機合成化学協会賞特別賞を受賞したものの、1996年(平成8)4月4日に、東京において、93歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇野副鉄男関係略年表

・1902年(明治35)5月16日 宮城県仙台市で生まれる
・1921年(大正10) 宮城県仙台第一中学校を卒業し、旧制第二高等学校へ入学する
・1923年(大正12) 東北帝国大学理学部化学科に入学する
・1926年(大正15) 東北帝国大学理学部化学科を卒業する
・1927年(昭和2) 台湾総督府中央研究所の助手となる
・1929年(昭和4) 台北帝国大学理農学部化学科助教授となる
・1936年(昭和11) 「高級テルペン類似体及び其の配糖体の研究」により、大阪帝国大学理学部から理学博士号を取得、台湾檜の色素成分からヒノキチオールを分離、その基本構造が七員環化合物(トロポロン)であることをつきとめる
・1937年(昭和12) 台北帝国大学理学部化学科教授となる
・1942年(昭和17) 日本化学会真島賞を受賞する
・1945年(昭和20) 中国に留用され台湾大学教授となる
・1948年(昭和23) 帰国後、東北大学理学部化学科講師を経て教授となる
・1949年(昭和24) 七員環化合物(トロポロン)の合成にも成功する
・1952年(昭和27) 「ヒノキチオールの研究」で、朝日賞を受賞する
・1953年(昭和28) 「ヒノキチオール及びその関連化合物に関する研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1958年(昭和33) 文化勲章を受章する
・1959年(昭和34) 仙台市名誉市民となる
・1966年(昭和41) 東北大学理学部化学科教授を定年退官し、名誉教授となる
・1972年(昭和47) 勲一等瑞宝章を受章する
・1975年(昭和50) 日本化学会長となる
・1979年(昭和54) 日本学士院会員となり、台湾から中華民国文化褒章を授与される
・1981年(昭和56) ドイツ化学会ホフマン賞を受賞する
・1983年(昭58年) 「非ベンゼン系芳香族化学への貢献」で、有機合成化学協会賞特別賞を受賞する
・1996年(平成8)4月4日 東京において、93歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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