
『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)は、近松門左衛門によるの世話物浄瑠璃の初作で、江戸時代中期の1703年(元禄16)に、大坂の竹本座で初演されました。摂津国西成郡曾根崎村(現在の大阪市北区曽根崎)の露天神の森で起きた相愛の若い男女の心中事件を脚色したものです。
近松世話物浄瑠璃の初作として近世戯曲史上画期的な意義があり、心中物流行の先がけとなり、文学作品としても高く評価されてきました。大坂内本町醤油屋平野屋の手代徳兵衛は、堂島新地の遊女お初と深く契り、主人の姪との縁談を拒絶したため、主人の怒りを買い、さらに主人に返却すべき金を友人九平次にだまし取られて、ついに曾根崎天神の森でお初と心中するという物語です。
世話物浄瑠璃の初作として、近世戯曲史上画期的な意義があり、心中物流行の先がけとなりましたが、文学作品としても高く評価されてきました。竹本座の経営不振を一挙に挽回し、負債を一気に返すほどの大当りをとったと言われ、歌舞伎でも上演されています。
以下に、『曽根崎心中』道行きの冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照ください。
近松世話物浄瑠璃の初作として近世戯曲史上画期的な意義があり、心中物流行の先がけとなり、文学作品としても高く評価されてきました。大坂内本町醤油屋平野屋の手代徳兵衛は、堂島新地の遊女お初と深く契り、主人の姪との縁談を拒絶したため、主人の怒りを買い、さらに主人に返却すべき金を友人九平次にだまし取られて、ついに曾根崎天神の森でお初と心中するという物語です。
世話物浄瑠璃の初作として、近世戯曲史上画期的な意義があり、心中物流行の先がけとなりましたが、文学作品としても高く評価されてきました。竹本座の経営不振を一挙に挽回し、負債を一気に返すほどの大当りをとったと言われ、歌舞伎でも上演されています。
以下に、『曽根崎心中』道行きの冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照ください。
〇近松門左衛門】(ちかまつ もんざえもん)とは?
江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者です。江戸時代前期の1653年(承応2)に、越前国において、吉江藩士の父・杉森信義(のぶよし)の二男として生まれましたが、名は信盛(通称は平馬)と言いました。父が浪人となったため、15、16歳の頃に家族と共に京都に移り、堂上貴族の一条恵観、正親町公通らに仕えます。
後に近江の近松寺に遊学し、近松の姓の由来になったともされてきました。京都の宇治加賀掾のもとで修業、1685年(貞享2)に竹本義太夫(筑後掾)のために『出世景清』を書いて名声を博し、以後二人の協力関係が始まったとされます。
1693年(元禄6)から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供、『傾城仏の原』(1699年)、『傾城壬生大念仏』(1702年)などの傑作を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きましたが、1709年(宝永6)の藤十郎没後は歌舞伎を離れました。一方、1703年(元禄16)に義太夫のために執筆した『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年(1705年)には竹本座座付作者となり、『冥途の飛脚』(1711年)を書いています。
1714年(正徳4)に義太夫が没した後も、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天の網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)などの代表作を書きました。時代物、世話物ともに優れ、従来の古浄瑠璃と一線を画した功績は大きかったのですが、1725年1月6日(享保9年11月22日)に、大坂において、数え年72歳で亡くなっています。
後世には、井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ江戸文学界の巨頭とされるようになりました。
後に近江の近松寺に遊学し、近松の姓の由来になったともされてきました。京都の宇治加賀掾のもとで修業、1685年(貞享2)に竹本義太夫(筑後掾)のために『出世景清』を書いて名声を博し、以後二人の協力関係が始まったとされます。
1693年(元禄6)から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供、『傾城仏の原』(1699年)、『傾城壬生大念仏』(1702年)などの傑作を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きましたが、1709年(宝永6)の藤十郎没後は歌舞伎を離れました。一方、1703年(元禄16)に義太夫のために執筆した『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年(1705年)には竹本座座付作者となり、『冥途の飛脚』(1711年)を書いています。
1714年(正徳4)に義太夫が没した後も、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天の網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)などの代表作を書きました。時代物、世話物ともに優れ、従来の古浄瑠璃と一線を画した功績は大きかったのですが、1725年1月6日(享保9年11月22日)に、大坂において、数え年72歳で亡くなっています。
後世には、井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ江戸文学界の巨頭とされるようになりました。
<主要な作品>
・『出世景清』(1685年・大坂竹本座初演)
・『傾城阿波の鳴門』(1695年・京の早雲座初演)
・『傾城仏の原』(1699年・京の都万太夫座上演)
・『傾城壬生大念仏』(1702年・京の都万太夫座上演)
・『曾根崎心中』(1703年初演)
・『薩摩歌』(1704年・大坂竹本座初演?)
・『用明天王職人鑑』(1705年・大坂竹本座初演)
・『心中重井筒』(1707年・大坂竹本座初演)
・『丹波与作待夜の小室節』(1707年・大坂竹本座初演)
・『けいせい反魂香 (はんごんこう) 』(1708年・大坂竹本座初演)
・『心中刃は氷の朔日』(1709年・大坂竹本座初演)
・『心中万年草』(1710年・大坂竹本座初演)
・『堀川波鼓』(1711年以前・大坂竹本座初演)
・『冥途の飛脚』(1711年初演?)
・『長町女腹切』(1712年秋・大坂竹本座初演)
・『嫗山姥』(1712年・大坂竹本座初演)
・『阿波鳴門物』(1712年・大坂竹本座初演)
・『国性爺合戦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『大経師昔暦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『生玉心中』(1715年・大坂竹本座初演)
・『鑓の権三重帷子』(1717年・大坂竹本座初演)
・『山崎与次兵衛寿の門松』(1718年・大坂竹本座初演)
・『日本振袖始』(1718年・大坂竹本座初演)
・『博多小女郎波枕』(1718年・大坂竹本座初演)
・『平家女護島』(1719年・大坂竹本座初演)
・『双生隅田川』(1720年・大坂竹本座初演)
・『心中天の網島』(1720年・大坂竹本座初演)
・『女殺油地獄』(1721年・大坂竹本座初演)
・『信州川中島合戦』(1721年・大坂竹本座初演)
・『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』(1722年・大坂竹本座初演)
・『関八州繫馬』(1724年・大坂竹本座初演)
☆『曽根崎心中』道行きの冒頭
この世の名残り、夜も名残り。死に行く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く夢の夢こそ哀れなれ。 あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり。 鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星。必ず添ふとすがり寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩も勝るべし。 心も空も影暗く、風しん/\と更くる夜半、星が飛びしか稲妻か、死に行く身に肝も冷えて、 「アヽ怖は。いまのはなんの光ぞや」 「ヲヽあれこそ人魂よ。あはれ悲しやいま見しは、二つ連れ飛ぶ人魂よ。まさしうそなたとわしの魂」 「そんなら二人の魂か。はやお互は死にし身か。死んでも二人は一緒ぞ」 と、抱き寄せ肌を寄せ、この世の名残りぞ哀れなる。初は涙を押しぬぐひ、 「ほんに思へば昨日まで、今年の心中善し悪しを余所にいひしが、今日よりはお前もわしも噂の数。まことに今年はこなさんも二十五の厄の年、わしも十九の厄年とて、思ひ合ふたる厄祟り、縁の深さの印かや。未来は一つ蓮ぞ」 と、うちもたれてぞ泣きゐたる。 徳兵衛、初が手を取りて、 「いつはさもあれこの夜半は、せめてしばしば長からで、心も夏の短夜の、明けなばそなたともろともに浮名の種の草双紙。笑はゞ笑へ口さがを、なに憎まうぞ悔やまうぞ。人には知らじわが心。望みの通りそなたとともに一緒に死ぬるこのうれしさ。冥途にござる父母にそなたを逢はせ嫁姑、必ず添ふ」 と、抱きしむれば、初はうれしさ限りなく、 「エヽありがたい忝い。でもこなさんは羨ましい。わしが父さん母さんはまめでこの世の人なれば、いつ逢ふことの情けなや、初が心中取沙汰を明日は定めて聞くであろ、せめて心が通ふなら夢になりとも見て下され。これからこの世の暇乞ひ、懐しの母さまや、名残り惜しやの父さまや」 と、声も惜しまずむせび泣き。 「いつまでかくてあるべきぞ。死におくれては恥の恥。いまが最期ぞ。観念」 と、脇差するりと抜放つ、馴染み重ねて幾年月、いとし可愛としめて寝し、今この肌にこの刃と 思へば弱る切先に、女は目を閉ぢ悪びれず、 「はやう殺して/\」 と、覚悟の顔の美しさ。哀れをさそふ晨朝の、寺の念仏の切回向。 『南無阿弥陀仏、/\/\』 南無阿弥陀仏を迎へにて、哀れこの世の暇乞。長き夢路を曾根崎の、森の雫と散りにけり。