ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:書家

aoyamasanu
 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、書家青山杉雨の生まれた日です。
 青山杉雨(あおやま さんう)は、愛知県葉栗郡草井村大字村久野において、次男として生まれましたが、本名は文雄(ふみお)といいました。1916年(大正5)、4歳の時に上京して、東京向島の養母太仁(たに)に育てられ、親戚の大池晴嵐から書の手ほどきを受けます。1930年(昭和5)に旧制芝中学校を卒業後、1934年(昭和9)に東横百貨店に勤務したものの、1937年(昭和12)には退職して、世田谷区尾山台で書道塾を始めます。1941年(昭和16)に第12回泰東書道院展総裁東久邇宮賞を受賞、1942年(昭和17)には、中国留学から戻った西川寧に師事したことが、独自の書風を確立するうえで大きな転機となりました。1945年(昭和20)に横須賀海兵団に入営しましたが、太平洋戦争後の1948年(昭和23)には、「李太白詩」で日展に初入選します。1950年(昭和25)に日展特選となり、1951年(昭和26)に毎日書道展審査員に就任、1954年(昭和29)には、日展審査員となりました。1955年(昭和30)に大東文化大学講師となり、1957年(昭和32)に第1回現代書道二十人展招待作家として出品、1961年 (昭和36)には、謙慎書道会初代理事長に就任しています。1963年(昭和38)に「周易抄」で、第6回日展文部大臣賞を受賞、1965年(昭和40)に全日本書道連盟改組に伴い、特別顧問に就任、1966年 (昭和41)には、「詩経の一節」で、日本芸術院賞を受賞しました。1972年(昭和47)に大東文化大学教授となり、1974年(昭和49)に全国書美術振興会を創立し、顧問となり、1983年 (昭和58)には、日本芸術院会員に選出されます。1984年(昭和59)に読売書法会を創立し、総務に就任、1985年(昭和60)に勲三等旭日中綬章を受章、1986年(昭和61)には、大東文化大学教授を辞め、日本書道教育会議を創立して副会長となりました。1988年(昭和63)に文化功労者となり、1990年(平成2)に成田山書道美術館設立を発議、1992年 (平成4)には、文化勲章を受章しています。篆書、隷書をもとに独自の表現様式を確立してきましたが、1993年(平成5)2月13日に、千葉県において、81歳で亡くなり、従三位と銀杯一組を追贈されました。尚、2010年(平成22)に、遺族の寄付により大東文化大学に青山杉雨賞が設けられたものの、2019年(平成31)で終了しています。

〇青山杉雨の主要な著作

・『青山杉雨書法』(1976年)
・『中国書法名蹟』(1979年)
・『書の実相 中国書道史話』(1982年)
・『江南遊 中国文人風土記』(1983年)
・『明清書道図説』(1986年)
・『文字性霊』(1991年)
・『青山杉雨作品』(1994年)
・『青山杉雨文集』(2005年)

☆青山杉雨関係略年表

・1912年(明治45)6月6日 愛知県葉栗郡草井村大字村久野に、次男として生まれる。
・1916年(大正5) 上京して、東京向島の養母太仁(たに)に育てられる
・1930年(昭和5) 旧制芝中学校を卒業する
・1934年(昭和9) 東横百貨店に勤務する
・1937年(昭和12) 東横百貨店を退職後、世田谷区尾山台で書道塾を始める
・1941年(昭和16) 第12回泰東書道院展総裁東久邇宮賞を受賞する
・1942年(昭和17) 西川寧に師事する
・1945年(昭和20) 横須賀海兵団に入営する
・1948年(昭和23) 「李太白詩」で日展に初入選する
・1950年(昭和25) 日展特選となる
・1951年(昭和26) 毎日書道展審査員に就任する
・1954年(昭和29) 日展審査員となる
・1955年(昭和30) 大東文化大学講師となる
・1957年(昭和32) 第1回現代書道二十人展招待作家として出品する
・1961年 (昭和36) 謙慎書道会初代理事長に就任する
・1963年(昭和38) 「周易抄」で、第6回日展文部大臣賞を受賞する
・1965年(昭和40) 全日本書道連盟改組に伴い、特別顧問に就任する
・1966年 (昭和41) 「詩経の一節」で、日本芸術院賞を受賞する
・1972年(昭和47) 大東文化大学教授となる
・1974年(昭和49) 全国書美術振興会を創立し、顧問となる
・1983年 (昭和58) 日本芸術院会員に選出される
・1984年(昭和59) 読売書法会を創立し、総務に就任する
・1985年(昭和60) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1986年(昭和61) 大東文化大学教授を辞め、日本書道教育会議を創立して副会長となる
・1988年(昭和63) 文化功労者となる
・1990年(平成2) 成田山書道美術館設立を発議する
・1991年(平成3) 第23回日展・天皇陛下御参観の解説をする
・1992年 (平成4) 文化勲章を受章する
・1993年(平成5)2月13日 千葉県において、81歳で亡くなり、従三位と銀杯一組を追贈される
・2010年(平成22) 遺族の寄付により大東文化大学に青山杉雨賞が設けられる(2019年で終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本画家・俳人川端龍子の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家新田次郎の誕生日詳細
1915年(大正4)焼岳(長野県・岐阜県)の噴火により、泥流が梓川をせき止め、堰止湖である大正池を形成する詳細
1949年(昭和24)「土地改良法」公布され、土地改良事業が一本化される詳細
1952年(昭和27)文部省に中央教育審議会(中教審)が設置される詳細
1979年(昭和54)日本が「国際人権規約」の批准を国会で承認する詳細
2019年(令和元)小説家・随筆家田辺聖子の命日詳細
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nishikawayasushi01
 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、書家・中国書道史家西川寧の亡くなった日です。
 西川寧(にしかわ やすし)は、明治時代後期の1902年〈明治35〉1月25日に、東京市向島区において、明治の書家、西川春洞の三男として生まれました。幼少より書に親しみましたが、13歳の時に父と死別し、東京府立第三中学校を経て、1920年(大正9)に慶應義塾大学文学部予科に入学します。
 1926年(大正15)に慶應義塾大学文学部支那文学科を卒業、同予科講師となりました。1929年(昭和4)に中村蘭台主催の萬華鏡社に加わり、1930年(昭和5)に泰東書道院結成に参加、1931年(昭和6)には、最初の訪中を行い、『六朝の書道』を著します。
 1933年(昭和8)に謙慎書道会を創立、1938年(昭和13)には、外務省在外特別研究員として北京に留学し、中国文学、金石学を研究して、1940年(昭和15)に帰国しました。1941年(昭和16)に『支那の書道(猗園雑纂)』を印行し、1943年(昭和18)には、慶応義塾大学予科教授となり、田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催します。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に慶応義塾大学文学部講師となり、1947年(昭和22)には、東京国立博物館調査員となって、中国書跡の調査・研究にあたりました。1948年(昭和23)に日展審査員となり、1949年(昭和24)には、松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊し、編輯主幹を務めます。
 1950年(昭和25)に日展運営会参事となり、1955年(昭和30)に「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞、1958年(昭和33)には、日展評議員となりました。1959年(昭和34)に東京教育大学教授となり、1960年(昭和35)には、「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で、慶應義塾大学より文学博士を得ます。
 1962年(昭和37)に東京国立博物館調査員を辞め、1964年(昭和39)には、國學院大學、東京大学文学部講師となりました。1965年(昭和40)に東京教育大学教授を辞め、1969年(昭和44)に日本芸術院会員、日展常務理事となり、1972年(昭和47)には、勲三等瑞宝章を受章しています。
 1977年(昭和52)に文化功労者、日展顧問となり、1985年(昭和60)には、日本の書家として初めて文化勲章を受章しました。中国書道全般に関する深い造詣と学識により高い評価を得ましたが、1989年〈平成元〉5月16日に、東京都目黒区の病院において、87歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇西川寧の主要な著作

・『六朝の書道』(1931年)
・『書の変相』(1960年)
・『書というもの』(1969年)
・『猗園雑纂』(1985年)

☆西川寧関係略年表

・1902年〈明治35〉1月25日 東京市向島区において、明治の書家、西川春洞の三男として生まれる
・1920年(大正9) 東京府立第三中学校を卒業し、慶應義塾大学文学部予科に入学する
・1926年(大正15) 慶應義塾大学文学部支那文学科を卒業、同予科講師となる
・1929年(昭和4) 中村蘭台主催の萬華鏡社に加わる
・1930年(昭和5) 泰東書道院結成に参加する
・1931年(昭和6) 最初の訪中を行い、『六朝の書道』を著す
・1933年(昭和8) 謙慎書道会を創立する
・1938年(昭和13) 外務省在外特別研究員として北京に留学する
・1940年(昭和15) 留学先より帰国する
・1941年(昭和16) 『支那の書道(猗園雑纂)』を印行する
・1943年(昭和18) 慶応義塾大学予科教授となり、田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催する
・1946年(昭和21) 慶応義塾大学文学部講師となる
・1947年(昭和22) 東京国立博物館調査員となる
・1948年(昭和23) 日展審査員となる
・1949年(昭和24) 松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊し、編輯主幹をつとめる
・1950年(昭和25) 日展運営会参事となる
・1955年(昭和30) 「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞する
・1958年(昭和33) 日展評議員となる 
・1959年(昭和34) 東京教育大学教授となる
・1960年(昭和35) 「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で、慶應義塾大学より文学博士を得る
・1962年(昭和37) 東京国立博物館調査員を辞める
・1964年(昭和39) 國學院大學、東京大学文学部講師となる
・1965年(昭和40) 東京教育大学教授を辞める
・1969年(昭和44) 日本芸術院会員、日展常務理事となる
・1972年(昭和47) 勲三等瑞宝章を受章する
・1977年(昭和52) 文化功労者、日展顧問となる
・1985年(昭和60) 日本の書家として初めて文化勲章を受章する
・1989年〈平成元〉5月16日 東京都目黒区の病院において、87歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1623年(元和9)囲碁名人・本因坊家初代本因坊算砂の命日(新暦6月13日)詳細
1689年(元禄2)松尾芭蕉が『おくの細道』に旅立った日の新暦換算日(旅の日)詳細
1889年(明治22)東京・上野の宮内省博物館を帝国博物館に改称し、京都・奈良にも設置する官制が出される詳細
11944年(昭和19)北海道の三菱鉱業美唄炭鉱でガス爆発事故が起こり、死者109人を出す詳細
1951年(昭和26)世界保健機関(WHO)が日本の加盟を承認する詳細
1968年(昭和43)1968年十勝沖地震(M7.9)が起き、死者50人・行方不明者2人・負傷者330人を出す詳細
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 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に、書家金子鷗亭が生まれた日です。
 金子鷗亭(かねこ おうてい)は、北海道松前郡小島村字雨垂石村(現在の松前町静浦)において、父・金子賢治と母・カクの4男として生まれましたが、本名は賢藏と言いました。1921年(大正10)に松城尋常高等小学校高等科を卒業後、札幌鉄道教習所普通部業務科入学、翌年に大塚鶴洞宅を訪れ、書の世界の広大さを知ります。
 1924年(大正13)に札幌鉄道教習所を卒業し、南小樽駅に勤務、川谷尚亭主宰の『書之研究』誌を購読して入門しました。1926年(大正15)に小樽駅に転勤、川谷尚亭の通信教育を受けるようになりましたが、翌年には、健康優れず札幌鉄道局を退職、松前の次兄のもとで静養します。
 1928年(昭和3)に函館師範学校本科二部へ入学、翌年卒業後、札幌北光小学校へ赴任しました。1932年(昭和7)に上京して、本所高等小学校代用教員となり、天来の書学院にて書の研究に励むようになります。
 1933年(昭和8)に上田桑鳩が結成した書道芸術社に参加すると共に、雑誌『書之研究』誌上に「新調和体」、「漢詩偶像」、「会場芸術」などの論文を発表、近代詩を書にする近代詩文書運動を起こしました。一方で、六朝北魏の楷書、木簡などを研究、1936年(昭和11)に『書之理論及指導法』、『大字臨範』(共著)、1940年(昭和15)に『唐太宗・虞世南』を刊行しています。
 太平洋戦争後、壊滅状態にあった書道界を再建するため、飯島春敬らと共に第1回全日本書道展(のちの毎日書道展)創設に尽力しました。1964年(昭和39)に創玄書道会を創設して理事長に就任、のち会長となり、1966年(昭和41)には、『丘壑寄懐抱 (きゅうがくかいほうをよす) 』で日展文部大臣賞、翌年芸術院賞を受賞します。
 1973年(昭和48)には、近代詩文書作家協会が創立され理事長に就任、1983年(昭和58)からは会長となり、近代詩文書運動を発展させました。一方で、1969年(昭和44)に日展が改組されて理事に就任、1975年(昭和50)に常務理事、1982年(昭和57)に参事となっています。
 また、1952年(昭和27)から1993年(平成5)まで毎年「全国戦没者の霊」の墓標揮毫を続けました。その中で、1987年(昭和62)に第22回創玄展出品作「交脚弥勒」が昭和61年度毎日芸術賞を受賞、文化功労者ともなり、1989年(平成元)に北海道開発功労賞受賞、1990年(平成2)には、文化勲章を受章、松前町名誉町民となるなど数々の栄誉にも輝いています。
 1994年(平成6)に東京都名誉都民、1997年(平成9)には、新宿区名誉区民となり、天皇より従三位にも叙されましたが、2001年(平成13)11月5日に、東京において、95歳で亡くなりました。尚、検定教科書『小学書方』、『標準中学習字』、『標準高等書道』も執筆してます。

〇金子鷗亭の主要な作品

・『丘壑寄懐抱(きゅうがくかいほうをよす)』(1966年)日展文部大臣賞受賞
・『翔鸞』(1972年)
・『リオデジャネイロ』(1975年)
・『交脚弥勒』(1987年)毎日芸術賞受賞

〇金子鷗亭の主要な著書

・検定教科書『小学書方』
・検定教科書『標準中学習字』
・検定教科書『標準高等書道』
・『金子鷗亭の書業』
・『入門毎日書道講座・近代詩文書』
・『古碑帖臨書精選巻』
・『書とその周辺』

☆金子鷗亭関係略年表

・1906年(明治39)5月9日 北海道松前郡小島村字雨垂石村(現在の松前町静浦)において、父・金子賢治と母・カクの4男として生まれ
・1915年(大正4) 松前郡江良町に転居する
・1916年(大正5) 江良町尋常小学校4年生の時、新任の飯田吉次郎教師に習字作品を激賞され、書に関心を寄せる
・1921年(大正10) 松城尋常高等小学校高等科を卒業、札幌鉄道教習所普通部業務科入学する
・1922年(大正11) 大塚鶴洞宅を訪れ、書の世界の広大さを知る
・1923年(大正12) 父・賢治が58歳で亡くなる
・1924年(大正13) 札幌鉄道教習所を卒業し、南小樽駅に勤務、川谷尚亭主宰の『書之研究』誌購読して入門する
・1925年(大正14) 伊藤東海が現代書道名家30余名の展覧会を小樽、札幌、旭川にて開催する
・1926年(大正15) 小樽駅に転勤、川谷尚亭の通信教育を受ける
・1927年(昭和2) 健康優れず札幌鉄道局退職、松前の次兄のもとで静養する
・1928年(昭和3) 函館師範学校本科二部へ入学する
・1929年(昭和4) 函館師範学校を卒業、札幌北光小学校へ赴任する
・1932年(昭和7) 上京して、本所高等小学校代用教員となり、天来の書学院にて書の研究に励む
・1933年(昭和8) 上田桑鳩が書道芸術社を結成し、手島右卿、桑原翠邦、大澤雅休らと共に同人となる
・1936年(昭和11) 『書之理論及指導法』、『大字臨範』(共著)を刊行する
・1937年(昭和12) 第1回大日本書道院展覧会で特別賞を受ける
・1938年(昭和13) 東山農事(三菱)株式会社へ入社する
・1940年(昭和15) 『唐太宗・虞世南』を刊行する
・1946年(昭和21) 第1回日本書道美術院展覧会、理事出品(以降18回展まで出品)
・1948年(昭和23) 毎日新聞社主催毎日書道展創設、第1回展覧会に運営委員、審査部長として出品する
・1949年(昭和24) 随鷗社を結成、東京都美術館運営参与となる(2年間)
・1950年(昭和25) 東山農事を退職する
・1951年(昭和26) 桑原翠邦との共同執筆にて『高等臨範』4冊を刊行する
・1952年(昭和27) 「全国戦没者追悼之標」を揮毫する
・1953年(昭和28) 三省堂新活字デザインのため入社(1957年退職)、東京都美術館運営参与となる(以降35年間)
・1954年(昭和29) 文部省高等学校芸術科書道指導要領小委員会委員となる(2年間)
・1955年(昭和30) 溝口健二監督映画「赤線地帯」のタイトルを揮毫する
・1956年(昭和31) 黒澤明監督映画「蜘蛛巣城」のタイトルを揮毫する
・1957年(昭和32) 銀座松坂屋で、第1回随鷗現代書展を開催する(~1970年)
・1958年(昭和33) 第1回訪中日本書道代表団(団長豊道春海)に参加する
・1959年(昭和34) 銀座松屋で第1回現代詩書展を開催(~1962年)、『書の古典研究』を刊行する
・1960年(昭和35) 日展会員に推挙される
・1961年(昭和36) 北海道学芸大学札幌分校講師となる(7年間)、日展審査員となる(~1981年)。
・1963年(昭和38) 「全国戦没者追悼之標」を揮毫する(以降歴年)
・1964年(昭和39) 日本書道美術院を円満退会、創玄書道会設立し会長に就任、日展評議員となる(~1969年)
・1965年(昭和40) 東京都美術館で第1回創玄展が開催される(以降歴年)
・1966年(昭和41) 日本橋三越で「金子鷗亭近作書展」を開催、第9回日展出品作「丘壑寄懐抱」が文部大臣賞を受賞する
・1967年(昭和42) 昭和41年度日本芸術院賞を受賞する
・1969年(昭和44) 日展改組され、理事に就任する
・1970年(昭和45) パリ・チェルヌスキー美術館にて「日本の書と絵画展」開催、『書法究尋』を刊行する
・1971年(昭和46) 硫黄島慰霊碑を揮毫する
・1973年(昭和48) 比島戦没者の碑を揮毫、近代詩文書作家協会が創立され理事長に就任する、訪中書道代表団(団長中村梅吉)に参加する
・1974年(昭和49) 中部太平洋戦没者の碑を揮毫する
・1975年(昭和50) 日展常務理事となる(~1979年3月)
・1977年(昭和52) 日展代表の1員としてナショナル・ギャラリー建設に関する請願書を関係政府機関に提出する
・1978年(昭和53) 文化庁国立文化施設整備調査研究会委員となる(委員会5回)、日本書道家友好訪中団団長として訪中する
・1979年(昭和54) 日展参事となる(~1981年)、『金子鷗亭の書業』を刊行する
・1980年(昭和55) 『古碑帖臨書精選』(共著)を刊行する
・1981年(昭和56) 財団法人毎日書道会理事となる、日展常務理事となる(~1982年)
・1982年(昭和57) 沖縄戦没者墓苑題字銘文を揮毫する、日展参事となる、紺綬褒章を受章する
・ 勲三等旭日中綬章を受章、近代詩文書作家協会の会長に就任する、文部省より社団法人創玄書道会が認可され、理事長に就任する
・1984年(昭和59) 『書とその周辺』を刊行する
・1986年(昭和61) 道立函館美術館開館し、鷗亭記念室が開室する
・1987年(昭和62) 第22回創玄展出品作「交脚弥勒」が昭和61年度毎日芸術賞を受賞、文化功労者となる
・1989年(平成元) 北海道開発功労賞を受賞する
・1990年(平成2) 文化勲章を受章、松前町名誉町民となる
・1992年(平成4) 全国戦没者追悼式の標柱揮毫30年連続に際し政府より感謝状が贈られる
・1993年(平成5) 板橋区立美術館で「北海道立函館美術館コレクションによる金子鷗亭—四季を謳う」展が開催される
・1994年(平成6) 松前町に金子鷗亭銅像が建てられる、東京都名誉都民となる
・1995年(平成7) 日本橋高島屋で「金子鷗亭小品展」が開催される
・1997年(平成9) 新宿区名誉区民となり、天皇より従三位に叙される
・2001年(平成13)11月5日 東京において、95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)江戸幕府が派遣した文久遣欧使節により、ロンドン覚書が締結される(新暦6月6日)詳細
1876年(明治9)明治天皇行幸で東京の上野公園の開園式が行われる詳細
1904年(明治37)小説家武田麟太郎の誕生日詳細
1915年(大正4)中国・袁世凱政府が日本の「対華21ヶ条要求」を受諾詳細
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murakamisantou01

 今日は、平成時代の2005年(平成17)に、書家村上三島の亡くなった日です。
 村上三島(むらかみ さんとう)は、大正時代の1912年(大正元)8月25日に、愛媛県越智郡瀬戸崎村大原(現在の今治市上浦町大字甘崎)で生まれましたが、本名は正一(まさかず)と言いました。1915年(大正4)の3歳の時、両親と共に大阪府三島郡吹田町(現在の吹田市)に転居し、大阪府吹田第一小学校を経て、大阪市立泉尾工業学校応用化学科へ入学しましたが、1年生の時体操で怪我をし、股関節カリエスに罹り、約半年間入院、これが書道へのきっかけとなります。
 1927年(昭和2)の15歳の時、片山万年に師事、書道の道に入り、1931年(昭和6)に工業学校卒業後は、山中月山にも師事、漢詩・漢文を学び始めました。1932年(昭和7)に平安書道会で優等賞を受賞(以後3年連続)、1943年(昭和18)の31歳の時、大日本書道報国会近畿支部展で漢字部門最高賞(第一席)を受賞します。
 1945年(昭和20)から、辻本史邑に師事、1948年(昭和23)に日本芸術院が発足すると審査員となり、1948年(昭和23)の第1回毎日書道展には審査員として出品しました。また、この年第4回日展に書の部門が初めて設置され、「杜甫九日詩」を出品し初入選を果たします。
 翌年の第5回日展で「杜甫寄弟詩」が特選となり、1952年(昭和27)の第8回日展では、「陸放翁<暁歎>」が特選朝倉賞を受賞しました。一方、1955年(昭和30)に書道研究集団「長興会」会長、1957年(昭和32)に第9回毎日書道展運営会委員、審査部長、1958年(昭和33)に第1回訪中書道代表団参加、1960年(昭和35)に社団法人日展評議員、1961年(昭和36)には日本芸術院理事長など要職に就いています。
 さらに、1964年(昭和39)の第7回新日展で「柴静儀<秋分日憶子用濟>」が文部大臣賞、1968年(昭和43)の第10回新日展で「杜甫贈高式顔詩」が日本芸術院賞を受賞、翌年には社団法人日展理事ともなりました。1982年(昭和57)に「村上三島記念館」(愛媛県上浦町)が開館、1985年に日本芸術院会員、1988年(昭和63)に勲三等旭日中綬章、1993年(平成5)に文化功労者、1998年(平成10)には文化勲章と数々の栄誉にも輝いています。
 中国の王羲之や王鐸を研究し、独特の解釈を加えて、流麗で躍動感に富んだ独自の書風を確立、また篆書・隷書・楷書・行書・草書・かなを書き分けることのできる書家としてはもちろん、読める書「調和体」を提唱したことでも知られたものの、2005年(平成17)11月20日に、大阪府吹田市において、93歳で亡くなりました。

<代表的な書>

・「杜甫九日詩(とほきゅうじつし)」(1948年)第4回日展入選
・「杜甫寄弟詩」(1949年)第4回日展特選
・「陸放翁<暁歎>」(1952年)第8回日展特選朝倉賞受賞
・「柴静儀<秋分日憶子用濟>」(1964年)第7回新日展文部大臣賞受賞
・「杜甫贈高式顔詩(とほこうしきがんにおくるし)」(1968年)第10回新日展日本芸術院賞受賞

〇村上三島の主要な著作

・『元好問詩』
・『連綿草草枕抄 三島書』
・『書とともに』
・『三島條幅百選』
・『現代書道教室』
・『王鐸の書法』

☆村上三島関係略年表

・1912年(大正元)8月25日 愛媛県越智郡瀬戸崎村大原(現今治市上浦町大字甘崎)生まれる
・1915年(大正4)4月 3歳の時 大阪府三島郡吹田町(現吹田市)に移る
・1919年(大正8)4月 7歳の時、大阪府吹田第一小学校へ入学する
・1926年(大正15)3月 14歳の時、大阪市立泉尾工業学校応用化学科1年の時体操で怪我をし約半年の入院、これが書道へのきっかけとなる
・1927年(昭和2)8月 15歳の時、片山万年に師事、書を学び始める
・1931年(昭和6)3月 19歳の時、 大阪市立泉尾工業学校応用化学科を卒業する
・1931年(昭和6)3月 19歳の時、山中月山に師事、漢詩・漢文を学び始める
・1931年(昭和6)5月 19歳の時、京都・平安書道会に隷書作品を初出品する
・1932年(昭和7)5月 20歳の時、平安書道会で優等賞を受賞(以後3年連続)
・1940年(昭和15) 28歳の時、第1回冰心会に王鐸調の草書連綿作品を出品する
・1943年(昭和18)4月 31歳の時、大日本書道報国会近畿支部展で漢字部門最高賞(第一席)を受賞する
・1945年(昭和20)4月 33歳の時、辻本史邑に師事する
・1948年(昭和23)4月 36歳の時、日本芸術院が発足、審査員となる
・1948年(昭和23)8月 36歳の時、毎日書道展(第1回)に審査員として出品する
・1948年(昭和23)10月 36歳の時、第4回日展で「杜甫九日詩」が入選する
・1949年(昭和24)10月 37歳の時、第5回日展で「杜甫寄弟詩」が特選となる
・1952年(昭和27)10月 40歳の時、第8回日展で「陸放翁<暁歎>」が特選朝倉賞を受賞する
・1955年(昭和30) 43歳の時、書道研究集団「長興会」会長となる
・1956年(昭和31)6月 44歳の時、日展会員となる
・1957年(昭和32) 45歳の時、第9回毎日書道展運営会委員、審査部長となる
・1957年(昭和32)1月 45歳の時、第9回現代書道二十人展に出品する
・1957年(昭和32)12月 45歳の時、日中交換書道展に出品する
・1958年(昭和33)5月 46歳の時、第1回訪中書道代表団に参加、中国各地を巡る
・1960年(昭和35)6月 48歳の時、社団法人日展評議員となる
・1961年(昭和36)2月 49歳の時、日本芸術院理事長となる 
・1964年(昭和39) 52歳の時、第7回新日展において「柴静儀<秋分日憶子用濟>」が文部大臣賞を受賞する
・1965年(昭和40) 53歳の時、日本芸術院理事長を辞める
・1968年(昭和43)2月 56歳の時、第10回新日展において「杜甫贈高式顔詩」が日本芸術院賞を受賞する
・1969年(昭和44)6月 57歳の時、社団法人日展理事となる
・1971年(昭和46) 59歳の時、第23回毎日書道展総務部長となる
・1972年(昭和47) 60歳 このころ岡山美術館・良寛展の「君看雙眼色、不語似無憂」に衝撃を受ける
・1973年(昭和48)2月 社団法人日本書芸院理事長に再任される
・1977年(昭和52)3月 65歳の時、「書業五十年記念 村上三島展」愛媛県立美術館を開催する
・1979年(昭和54) 67歳の時、社団法人日本書芸院理事長を辞める
・1981年(昭和56)10月 69歳の時、中国河南省を旅行する
・1982年(昭和57)4月25日 70歳の時、村上三島記念館(愛媛県上浦町)が開館する
・1982年(昭和57)6月 70歳の時、「村上三島古稀記念書展」大阪大丸が開催される
・1982年(昭和57)10月 70歳の時、「生誕三九〇年記念王鐸書法展」、河南省博物館・大阪が開催される
・1983年(昭和58) 71歳の時、読売書法会が創立され総務に就任する
・1983年(昭和58) 71歳の時、毎日書道会を退会する
・1984年(昭和59) 72歳の時、読売書法会、総務・企画委員、審査部長、関西展実行委員長となる
・1984年(昭和59) 72歳の時、「村上三島学習王鐸書法展覧」を河南省博物館で開催する
・1985年(昭和60)11月 73歳の時、日本芸術院会員となる
・1986年(昭和61)4月 74歳の時、「日本芸術院会員就任記念 村上三島書展」を村上三島記念館で開催する
・1987年(昭和62)9月 75歳の時、「日中国交回復十五周年記念 村上三島書業六十年書法展」を上海博物館で開催する
・1988年(昭和63)11月 76歳の時、勲三等旭日中綬章を受章する
・1989年(平成元)5月 77歳の時、「書画巨匠 董寿平・村上三島展」を大阪で開催する
・1991年(平成3)6月 79歳の時、「書業六十五年記念 村上三島展」を東京・大阪で開催する
・1993年(平成5)11月 81歳の時、文化功労者となる
・1994年(平成6)6月 82歳の時、「川端文学を書く 村上三島展」を茨木市立川端康成文学館で開催する
・1994年(平成6)8月 82歳の時、「文化功労者顕彰記念 村上三島展」を大阪市立美術館で開催する
・1995年(平成7)8月 83歳の時、読売書法展に調和体部門を新設し「漱石の言葉」を出品する
・1996年(平成8)11月 84歳の時、「書業七十年記念 村上三島展」を東京で開催する
・1997年(平成9)1月 85歳の時、「書業七十年記念 村上三島展」を大阪で開催する
・1998年(平成10)11月 86歳の時、文化勲章を受章する
・2001年(平成13) 89歳の時、読売書法展最高顧問となる
・2002年(平成14)5月 90歳の時、「村上三島展」を愛媛県美術館で開催する
・2005年(平成17)11月20日 大阪府吹田市において93歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1858年(安政5)政治家尾崎行雄の誕生日(新暦12月24日)詳細
1942年(昭和17)日本文学報国会が企画・選定した「愛国百人一首」が情報局より発表される詳細
1959年(昭和34)国連総会において「児童の権利に関する宣言」が採択される(世界こどもの日)詳細


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 今日は、江戸時代中期の1776年(安永5)に、南画家・書家池大雅が亡くなった日ですが、新暦では5月30日となります。
 池 大雅(いけの たいが)は、1723年(享保8年5月4日)に、京都銀座役人の下役の父・池野嘉左衛門の子として生まれましたが、幼名は又次郎(のち無名)と言いました。1726年(享保11)の4歳の時、父と死別し、教育熱心な母の手で育てられて、1728年(享保13)の6歳の時、素読を始め、翌年から本格的に唐様の書を学び始めます。
 神童と称されるほどでしたが、1737年(元文2年)の15歳の時、扇絵を描いて生計の足しとするようになり、1741年(寛保元)には、終生の友の篆刻家高芙蓉、書家韓天寿に出会いました。日本画の伝統と西洋絵画の表現法をとり入れた独自性と風格に富んだ画風を形成していき、1748年(寛延元)の26歳の時、江戸から東北地方に遊んで得意とする指頭画に評判をとり、帰洛後さらに北陸地方を遊歴、各地を描いた詩情豊かな作品をうみ出していきます。
 1750年(寛延3)の28歳の時、紀州藩に文人画の大家祇園南海を訪れ、翌年には、白隠慧鶴に参禅、この頃祇園の歌人百合の娘町と結婚し、真葛ヶ原に草庵を結びました。その後、京都・萬福寺の『五百羅漢図他』(1756年頃)、『柳下童子図』(1760年頃 )、『倣王摩詰漁楽図』(1762年頃)、『蘭亭曲水・龍山勝会図』(1763年)、『十二月離合山水図』(1769年)など代表作を描いていきます。
 1771年(明和8)には、与謝蕪村との連作『十便十宜画冊』の内の『十便画冊』(国宝指定)、『洞庭赤壁図巻』(国指定重要文化財)などを描き続けたものの、1776年(安永5年4月13日)に、京都において、数え年54歳で亡くなりました。

〇池大雅の主要な作品

・『前後赤壁図』六曲一双(1749年)文化庁蔵 国指定重要文化財  
・『陸奥奇勝図』巻子1巻(1749年)九州国立博物館蔵 国指定重要文化財  
・『五百羅漢図他』(1756年頃)京都・萬福寺蔵 国指定重要文化財  
・『柳下童子図』八曲一隻(1760年頃)京都府蔵  国指定重要文化財  
・『倣王摩詰漁楽図』掛幅(1762年頃)京都国立博物館蔵 国指定重要文化財  
・『蘭亭曲水・龍山勝会図』六曲一双(1763年)静岡県立美術館蔵 国指定重要文化財  
・『山水人物図・老松図』襖絵10面(40代の作)高野山 ・遍照光院蔵 国宝   
・『楼閣山水図』六曲一双(40代前半の作)東京国立博物館蔵 国宝 
・『白雲紅樹図』掛幅(40代半ばの作)相国寺承天閣美術館蔵 国指定重要文化財
・『十便十宜図のうち十便図』画帖(1771年)川端康成記念会蔵 国宝  
・『洞庭赤壁図巻』巻子1巻(1771年)京都国立博物館蔵 国指定重要文化財  
・『西湖春景・銭塘観潮図』六曲一双(40代の作)東京国立博物館蔵 国指定重要文化財   
・『瀟湘勝概図』六曲一隻(40代の作)個人蔵 国指定重要文化財 
・『瀟湘八景図(東山清音帖)』扇面16面(最晩年の作)個人蔵 国指重要文化財

☆池大雅関係略年表(日付は旧暦です)

・1723年(享保8年5月4日) 京都銀座役人の下役の父・池野嘉左衛門の子として生まれる
・1726年(享保11年) 4歳の時、父と死別する
・1728年(享保13年) 6歳の時、素読を始める
・1729年(享保14年) 7歳の時、本格的に唐様の書を学び始める
・1737年(元文2年) 15歳の時、扇絵(おうぎえ)を描いて生計の足しとする
・1741年(寛保元年) 19歳の時、終生の友の篆刻家高芙蓉、書家韓天寿に出会う
・1748年(寛延元年) 26歳の時、江戸から東北地方に遊んで得意とする指頭画に評判をとり、帰洛後さらに北陸地方を遊歴する
・1749年(寛延2年) 27歳の時、『陸奥(むつ)奇勝図巻』を描く
・1750年(寛延3年) 28歳の時、紀州藩に文人画の大家祇園南海を訪れる 
・1750年(寛延4年) 29歳の時、白隠慧鶴(はくいんえかく)に参禅、この頃祇園の歌人百合の娘町と結婚、真葛ヶ原に草庵を結ぶ
・1756年(宝暦6年)頃 京都・萬福寺の『五百羅漢図他』を描く    
・1760年(宝暦10年)頃 『柳下童子図』(八曲一隻)を描く
・1762年(宝暦12年)頃 『倣王摩詰漁楽図』(掛幅)を描く
・1763年(宝暦13年) 『蘭亭曲水・龍山勝会図』(六曲一双)を描く
・1769年(明和6年) 『十二月離合山水図』(六曲一双)を描く   
・1771年(明和8年) 与謝蕪村との連作『十便十宜画冊』の内の『十便画冊』を描く
・1771年(明和8年) 『洞庭赤壁図巻』(巻子1巻)を描く
・1776年(安永5年4月13日) 京都において、数え年54歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1818年(文化15)商人・測量家伊能忠敬の命日(新暦5月17日)詳細
1903年(明治36)「小学校令」が改正され、教科書検定制から国定教科書制になる詳細
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