ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:普通選挙運動

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 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に日本社会党[明治期]の第1回党大会が開催され、結成届けを提出して受理されて日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生した日です。
 日本社会党[明治期](にほんしゃかいとう)は、明治時代に結成された日本で最初の合法社会主義政党でした。2月24日の第1回党大会(於:東京京橋区・平民病院)で、党則第1条を「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」とし、評議員は、片山潜・幸徳秋水・堺利彦・西川光二郎・田添鉄二・大杉栄ら13人、党員は200人として発足し、結党以前から刊行されていた『光』が機関紙となります。
 その後、東京市電値上反対運動や普通選挙運動、足尾鉱毒事件などの闘いを展開しました。同年6月23日に、幸徳秋水がアメリカから急遽帰国すると議会政策派と直接行動派の対立を招き、翌年1月15日に創刊された日刊『平民新聞』紙上で、論争が展開されます。
 同年2月17日に開催された第2回党大会で、議会政策派(田添鉄二・片山潜ら)と無政府主義的直接行動派(幸徳秋水・山川均・大杉栄ら)と中間派(堺利彦ら)ら3派が論争、採決の結果、20票対2票で、党則第1条の文言を「本党は社会主義の実行を目的とす」と改めました。その結果、2月22日に内務大臣は「安寧秩序ニ妨害アリト認ムル」として、「治安警察法」の適用による結社禁止を命令し、これに伴い解散となります。

〇日本社会党[明治期]関係略年表

<1905年(明治38)>
・11月20日 西川光次郎、山口孤劔らか凡人社を設立して、半月刊誌『光』を発刊する

<1906年(明治39)>
・1月7日 西園寺公望内閣が誕生し、内務大臣は原敬となり、「社会主義もまた世界の一大風潮であり、みだりに弾圧すべきでなく、その穏健なものは善導して、国家の推運に貢献さすべきである」との社会主義取り締まりの新方針を発表する
・1月14日 『光』派の社会主義者は、「普通選挙の期成を図るを目的とする」を綱領に日本平民党の結社届を提出して、受理される
・1月28日 堺利彦らは、日本社会党の結社届を提出して、受理される
・2月24日 堺利彦・西川光二郎らは、第1回党大会を開催、日本平民党と日本社会党が合同して、日本社会党の結成届けを提出して受理され、日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生する
 ①党則第1条を「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」とする
 ②評議員は、片山潜・幸徳秋水・堺利彦・西川光二郎・田添鉄二・大杉栄ら13人、党員は200人となる
・3月1日 東京市内の東京市街鉄道、東京電車鉄道、東京電気鉄道の3会社が各3銭均一の電車賃を3社共通5銭均一に値上げする申請を府知事と警視総監に提出、値上げ反対の世論が高まる
・3月15日、日本社会党の直接行動派は、東京市電値上げ反対運動を組織して、1,600人が市庁・電鉄会社を襲撃し、軍隊が出動して鎮圧され、西川光二郎・大杉栄ら10人が逮捕・起訴されたものの、市電の値上げは撤回され、市街鉄道を市有化する決議案が東京市会で可決される
・6月23日 幸徳秋水は、アメリカから急遽帰国する
・6月28日 幸徳秋水は、日本社会党の帰国歓迎会で、議会主義か直接行動かの問題を提示し、党内対立のきっかけとなる

<1907年(明治40)>
・1月15日 日刊『平民新聞』が創刊される
・2月5日 幸徳秋水は、日刊『平民新聞』で、「真に社会革命を断行し労働者階級の地位、生活を向上し保存せんと欲せば、議会の勢力よりもむしろ全力を労働者の団結訓練に注がねばならぬ。労働者自身も議員、政治家などに頼らず、自身の直接行動でその目的を貫く覚悟がなければならぬ」と直接行動を主張する
・2月7日 足尾銅山で大暴動がおこり、事務所など65棟が破壊され、軍隊が出動し、600人を検挙する
・2月10日 堺利彦は、日刊『平民新聞』で「社会党運動の方針」を発表し、「議会をして真に平民労働者の噴火口たらしめるためには、我々は実力を持って政府と政党に肉薄して、普通選挙権を獲得しなければならぬ。そこに直接行動の必要がある」と直接行動を議会主義には必要な手段であるという併用論を主張する
・2月12日 福田英子・菅野スガらは、「治安警察法」第5条改正案(女子の政治結社・集会への参加を認める)を衆議院に提出、衆議院で可決され、貴族院で否決される
・2月14日 田添鉄二は、日刊『平民新聞』で「議会政策論」を発表し、直接行動を批判する
・2月17日 第2回党大会で、議会政策派(田添鉄二・片山潜ら)と無政府主義的直接行動派(幸徳秋水・山川均・大杉栄ら)と中間派(堺利彦ら)ら3派が論争、採決の結果、20票対2票で、綱領の「本党は国法の範囲内に於いて社会主義を主張し」という文言を「本党は社会主義の実行を目的とす」と改める
・2月20日 日刊『平民新聞』第28号が告発される
・2月22日 内務大臣は「安寧秩序ニ妨害アリト認ムル」として、「治安警察法」の適用による結社禁止を命令し、これに伴い解散となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1610年(慶長15)絵師長谷川等伯の命日(新暦3月19日)詳細
1704年(元禄17)俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の命日(新暦3月29日)詳細
1933年(昭和8)国際連盟総会のリットン調査団報告書採択に抗議し日本全権大使松岡洋右が退場、連盟脱退宣言をする詳細
1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
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 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、自由民権運動家・政治家河野広中の亡くなった日です。
 河野広中(こうの ひろなか)は、江戸時代後期の1849年(嘉永2年7月7日)に、磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれました。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになり、1868年(慶応4)の戊辰戦争では討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助の知遇を得ます。
 明治新政権成立後は、若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉の戸長、石川の区長を務め、その頃にジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み感化されました。1875年(明治8)に石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなり、1877年(明治10)に西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議します。
 1878年(明治11)に、三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導、翌年には、三春町戸長ともなりました。1879年(明治12)に大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加、翌年には片岡健吉と共に、政府に国会開設意見書を提出したものの、受理されずに終わります。
 1881年(明治14)に福島県会議長に就任、自由党結成に参加し、自由党幹部となり、翌年に福島県令に着任した三島通庸と対立を深めました。同年12月の福島事件により国事犯として拘引され、翌年に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告されます。
 1889年(明治22)の大日本帝国憲法発布の大赦により出獄、翌年の第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)しました。1897年(明治30)に自由党を脱党しましたが、翌年には、自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見ています。
 1902年(明治35)に第11代衆議院議長に就任、1902年(明治35)の第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散(奉答文事件)に至ります。1905年(明治38)に日露講和反対運動を起こし、日比谷焼打ち事件で投獄されたものの、翌年に無罪判決が出されて釈放されました。
 1909年(明治42)にアジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加、1913年(大正2)に桂太郎の立憲同志会に入り、1915年(大正4)には、第2次大隈内閣の農商務大臣となります。1916年(大正5)に農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力したものの、議員在職中の1923年(大正12)12月29日に、東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなりました。

〇河野広中関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1849年(嘉永2年7月7日) 磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争には討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助を助ける
・1869年(明治2年11月) 若松藩(若松県)へ出仕する
・1870年(明治3年12月) 三春藩(三春県)庁捕亡取締となる
・1873年(明治6年)2月 磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)の副戸長に任命される
・1873年(明治6年)10月 磐前県第14区の戸長となる
・1874年(明治7年)1月 第5大区区長となる 
・1875年(明治8年)8月 石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなる
・1877年(明治10年) 西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議する
・1878年(明治11年)1月 福島県属・庶務課民会掛となる
・1878年(明治11年)11月 三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導する
・1879年(明治12年)2月 三春町戸長となる
・1879年(明治12年)7月 共愛同謀会を結成する
・1879年(明治12年) 大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加する
・1880年(明治13年) 国会開設の請願書を政府に提出する
・1881年(明治14年)4月 福島県会議長となる
・1881年(明治14年)10月 自由党結成に参加し、自由党幹部となる
・1882年(明治15年) 福島県令に着任した三島通庸と対立、
・1882年(明治15年)12月 福島事件により国事犯として拘引される
・1883年(明治16年)9月 高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告される
・1889年(明治22年)2月 大日本帝国憲法発布の大赦により出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)する
・1897年(明治30年) 自由党を脱党する
・1898年(明治31年)6月 自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見る
・1902年(明治35年) 第11代衆議院議長となる
・1902年(明治35年)12月 第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散に至る(奉答文事件)
・1905年(明治38年)11月 日露講和反対運動を起こし日比谷焼打ち事件で投獄される
・1906年(明治39年)4月 無罪判決が出されて釈放される
・1909年(明治42年) アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加する
・1913年(大正2年) 桂太郎の立憲同志会に入る
・1915年(大正4年) 第2次大隈内閣の農商務大臣となる
・1916年(大正5年) 農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力する
・1923年(大正12年)12月29日 東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1964年(昭和39)詩人・童謡作家・歌人・随筆家三木露風の命日詳細
1965年(昭和40)作曲家・指揮者山田耕筰の命日(山田耕筰忌)詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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