ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:昭和24年台風第2号

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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、デラ台風(昭和24年台風第2号)が来襲、鹿児島県鹿児島市に上陸し、甚大な被害をもたらし始めた日です。
 デラ台風(でらたいふう)は、昭和24年台風第2号(国際名:Della)といい、1949年(昭和24)6月17日にフィリッピン東方海上に発生し、南西諸島に沿って北東に進み、20日に沖縄、奄美大島、屋久島を順に通過して、鹿児島県鹿児島市に上陸、翌日にかけて、九州を縦断し、対馬海峡に出て朝鮮半島の東で停滞し、温帯低気圧に変わった台風です。これによって、台風接近前の18日から梅雨前線の活動が活発となり、九州、四国、近畿、東海などでは、日降水量が200mm以上の大雨となり、愛媛県では、宇和島市で29.2m/s、佐田岬で38.5m/sの最大瞬間風速をそれぞれ観測し、被害は、九州(鹿児島県が甚大)から東北地方までの広い範囲に及びました。
 全国で死者252人、行方不明者216人、負傷者367人、住家全壊1,410棟、半壊4,005棟、床上浸水4,627棟、床下浸水52,926棟などの大きな被害をもたらしています。特に、愛媛県の宇和海で出漁中の漁船などは甚大な被害を受け、門司(福岡県門司市)~高浜(愛媛県松山市)航路の旅客船「青葉丸」の沈没(青葉丸転覆事故)により、多数の死者が出ました。

〇青葉丸転覆事故(あおばまるてんぷくじこ)とは?

 昭和時代中期の1949年(昭和24)6月21日に、瀬戸内海の門司(福岡県)~高浜(松山市)航路の定期旅客船であった川崎汽船の「青葉丸」(599総トン、昭和22年12月に進水した鋼船)が、デラ台風(昭和24年台風第2号)によって、転覆沈没した事故です。「青葉丸」は、デラ台風(昭和24年台風第2号)が奄美大島付近にあって接近中であることを知りつつも、進路が逸れ、航行に支障はないと判断し、1949年(昭和24)6月20日21時に高浜港(愛媛県)を出港、門司港(福岡県)に向かって、乗客99人と乗組員47人の計146人を乗せて航行中、翌日午前2時半頃、大分県姫島東方18.5kmの洋上で、東南東の激風と高浪を受けて、転覆沈没したものでした。
 この事故によって、5人は救助されましたが、乗客69人と乗組員47人が死亡、乗客28人と乗組員25人が行方不明となる大惨事となります。出航直前の気象予報では、デラ台風(昭和24年台風第2号)は、奄美大島付近にあり、太平洋上の土佐沖を経て、伊豆半島方面に向け進行するので、航行進路に大きな影響はないと判断されたものの、その後、台風の進路が急に変じ、九州を縦断北上したため、暴風雨に巻き込まれることとなりました。
 船長は、伊予灘掃海水路に入ると、いよいよ台風の接近せることを感じ、総員を配置につかせ、万一を憂慮して、旅客に救命胴衣を配布しましたが、大分県姫島東方18.5kmkで、激風とこれに伴う高浪のため、船体が大傾斜して安定を失い横転するに至ったものです。この事故については、1960年(昭和29)9月7日に、神戸地方海難審判庁の裁決があり、「船長が高浜を発してから汽船青葉丸が沈没するにいたるまで採った措置については、同人及びその他の運航責任者の全部が死亡又は行方不明となっているので、詳かにすることができず、従って、その可否についても断定することはできない。」としました。

☆戦後の台風で死者・行方不明者が多い台風ワースト12(1945年以降)

① 伊勢湾台風(昭和34年台風第15号) 死者・行方不明者5,098人
② 枕崎台風(昭和20年台風第16号) 死者・行方不明者3,756人
③ カスリーン台風(昭和22年台風第9号) 死者・行方不明者1,930人
④ 洞爺丸台風(昭和29年台風第15号) 死者・行方不明者1,761人 
⑤ 狩野川台風(昭和33年台風第22号) 死者・行方不明者1,269人 
⑥ ルース台風(昭和26年台風第15号) 死者・行方不明者943人
⑦ アイオン台風(昭和23年台風第21号) 死者・行方不明者838人
⑧ ジェーン台風(昭和25年台風第28号) 死者・行方不明者539人
⑨ 昭和28年台風第13号 死者・行方不明者478人
⑩ デラ台風(昭和24年台風第2号) 死者・行方不明者468人
⑪ 阿久根台風(昭和20年台風第20号) 死者・行方不明者451人 
⑫ 昭和41年台風第24号・26号  死者・行方不明者318人 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1495年(明応4)飯尾宗祇ら編集による『新撰菟玖波集』が完成する(新暦7月12日)詳細
1587年(天正18)天正遣欧使節がローマから長崎に帰港する(新暦7月21日)詳細
1654年(承応3)江戸市中に水を供給する玉川上水が完成する(新暦7月21日)詳細
1730年(享保15)京都で「西陣焼け」が起こり、134町、3,810軒を焼失する(新暦8月3日)詳細
1887年(明治20)二葉亭四迷著の小説『浮雲』の第一篇が刊行される詳細
1947年(昭和22)片山哲内閣によって、「新日本建設国民運動要領」が閣議決定される詳細
1963年(昭和38)「観光基本法」が公布・施行される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、川崎汽船の旅客船「青葉丸」がデラ台風(昭和24年台風第2号)により大分県沖で転覆し、死者・行方不明者141人を出した日です。
 青葉丸転覆事故(あおばまるてんぷくじこ)は、瀬戸内海の門司(福岡県)~高浜(松山市)航路の定期旅客船であった川崎汽船の「青葉丸」(599総トン、昭和22年12月に進水した鋼船)が、デラ台風(昭和24年台風第2号)によって、転覆沈没して引き起こされました。「青葉丸」は、デラ台風(昭和24年台風第2号)が奄美大島付近にあって接近中であることを知りつつも、進路が逸れ、航行に支障はないと判断し、1949年(昭和24)6月20日21時に高浜港(愛媛県)を出港、門司港(福岡県)に向かって、乗客99人と乗組員47人の計146人を乗せて航行中、翌日午前2時半頃、大分県姫島東方18.5kmの洋上で、東南東の激風と高浪を受けて、転覆沈没したものです。
 この事故によって、5人は救助されましたが、乗客69人と乗組員47人が死亡、乗客28人と乗組員25人が行方不明となる、大惨事となりました。出航直前の気象予報では、デラ台風(昭和24年台風第2号)は、奄美大島付近にあり、太平洋上の土佐沖を経て、伊豆半島方面に向け進行するので、航行進路に大きな影響はないと判断されたものの、その後、台風の進路が急に変じ、九州を縦断北上したため、暴風雨に巻き込まれることとなります。
 船長は、伊予灘掃海水路に入ると、いよいよ台風の接近せることを感じ、総員を配置につかせ、万一を憂慮して、旅客に救命胴衣を配布しましたが、大分県姫島東方18.5kmkで、激風とこれに伴う高浪のため、船体が大傾斜して安定を失い横転するに至ったものでした。この事故については、1960年(昭和29)9月7日に、神戸地方海難審判庁の裁決があり、「船長が高浜を発してから汽船青葉丸が沈没するにいたるまで採った措置については、同人及びその他の運航責任者の全部が死亡又は行方不明となっているので、詳かにすることができず、従って、その可否についても断定することはできない。」としています。
 以下に、「汽船青葉丸遭難事故に関する神戸地方海難審判庁の裁決」1960年(昭和29)9月7日言渡を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

「汽船青葉丸遭難事故に関する神戸地方海難審判庁の裁決」1960年(昭和29)9月7日言渡

昭和24年第134号
汽船青葉丸遭難事件

言渡年月日 昭和26年9月7日
審判庁 神戸地方海難審判庁(増田、木村、椎原、参審員徳永、松平)
理事官 中沢佐久三

損害
船体沈没、旅客69名乗組員19名死亡、旅客28名乗組員25名行方不明

原因
不可抗力(デラ台風)

主文
本件遭難は、汽船青葉丸が予報と著しく相違した進路をとったデラ台風に遭遇したことに基因して発生したものである。

理由
(事実)
船種船名 汽船青葉丸
総トン数 599トン
船質 鋼
機関の種類・数 往復動3聯成汽機2個
推進器の種類・数 螺旋推進器2個
船級及び航行区域 第3級軽構船、沿海区域
船舶の用途 貨客船
造船者 A株式会社泉州工場
進水年月 昭和22年12月
完成引渡年月 昭和23年3月

完成傾斜試験成績
項 目                軽荷状態       満載状態
排水量(瓩)            510.54     682.41
前部喫水(メートル)        1.603      2.491
後部喫水(メートル)        2.654      2.863
平均喫水(メートル)        2.129      2.677
トリム(メートル)         1.051(船尾)  0.372(船尾)
KM(メートル)          4.180      3.765
KG(メートル)          3.431      3.183
GM(メートル)          0.749      0.582
乾舷の高さ(メートル)       1.621      1.073
最大GZ(メートル)        0.310      0.210
最大GZを与える角度        29度        25度
GZ消滅角度            45度        43度
同上角度迄の動的復原挺(メートル) 0.149      0.096

風圧面積及び水中側面積
項 目      軽荷状態    満載状態
風圧側面積㎡  301.0   275.0
水中側面積㎡  102.5   128.5
同 比      2.93    2.14

事件発生の年月日時刻及び場所
昭和24年6月21日午前3時30分ころ
内海周防灘

 青葉丸は、A株式会社が戦事中、自家用引船として計画建造に着手し、船体工事の約60パーセント外殻板張り方終り進捗にして終戦をむかえ工事中止となっていたものを昭和21年末B株式会社の注文により、これを小型貨客船に製作替し、船台にあった船体をその中央にて切断して、之を約20メートル引延し、船首楼甲板、遊歩甲板、短艇甲板、船室を新設し、前後に倉口を設け、上甲板下を貨物倉となし、揚貨装置を、併置したものであって、固定バラストとして、フェロメント合計25キロトンを助骨番号54乃至70及び12より26間の船底助骨間に、各その半量を配置し、昭和23年2月18日、近畿海運局の第1回定期検査を、又、同年8月16日、日本海事協会の入級検査を受けたものである。本船は、今治、高浜と、関門港間の貨客輸送に就航していたが、昭和24年6月20日午後7時30分ころ今治から高浜に入港した。当時天候は、弱雨で風なく、海上は平穏であったがデラ台風が内地に接近しつつある警報を受けていたので、船長Cは続航するや否やを決するにあたって、その進路状況を確める必要を感じたので、直ちに、松山測候所に照会したところ、台風は奄美大島付近にあり、土佐沖を経て、伊豆半島方面に向け進行する中心付近では風速40メートル同日午後12時ころ、姫島付近においては、風速10乃至15メートルの北西風が吹くであろうとの報告を得たので、船内幹部及び代理店員と協議検討した上、出港することに決し、旅客合計99人(内身許不明6人)貨物8トンを載せたまま、船首2.30メートル船尾2.90メートルの喫水で同9時、関門港に向け、高浜を発した。その後の状況について、船長以下当時の運航責任者が全部死亡、又は、行方不明となっているため、確認することが出来ないが、後述する諸証拠により推定するに、高浜を発航するや、機関を1時間10海里ばかりの全速力にかけ、やがて、伊予灘掃海水路に入り、折柄吹きはじめた東北東の軟風を船尾に受けて進航し、同12時ころ屋島灯台を通過したが、そのころから風力は急に増勢して強風となり波浪これに伴って高まり、之に加うるに豪雨となって展望不良となった。その後風浪は次第に増大するとともに風向は右方に回り、翌21日午前2時ころには、東に転じた。姫島灯台通過は同時30分ころと推定されるが、このころ船長は、いよいよ台風の接近せることを感じ、総員を配置につかせ、万一を憂慮して、旅客に救命胴衣を配布した。姫島通過後の針路については、船体の沈没位置が掃海水路から約4海里も南方に偏在している点から、
1、風浪の関係上、周防灘掃海水路に沿う針路を保持することが出来ず西(磁針方位)に向けスカッデングしたものか、
2、針路はそのままであったが、風圧と台風による異常の潮流のため、船位がかくも偏寄されたもの
3、D及びEの両証人が午前3時ころ、急に船体の横動が大きくなったと供述している点から同時ころ船長は風向が次第に南方に変るので国東半島のかげに避泊する目的で、かなり、大角度に船首を左転して進航したものか
の三様に考えられる。
 沈没時刻は同時30分ころで折柄の東南東の激風と高浪を左舷正横に受け、瞬時にして横転沈没したものであって、何が故に風浪を左舷正横に受けるようになったかについては、確証はないが潜水夫の報告により舵のクオード・ランドが左舷に約15度偏したまま船首が東方に向き沈没している点から船長は風浪を船尾に受けることが危険となったので、船首を風浪にたてるため左舵を命じ左回頭中であったのではないかと推察される。
 当時天候は曇天にして東南東の激風吹き風速30メートル以上に達し、波浪高く潮候は、張潮の末期であった。
 船体はその後捜索の結果、同年11月6日、姫島西端三ツ石鼻から略真方位280度11海里半の地点に船首を東方に向け、右舷に約45度傾斜したまま沈没しあるを発見したが、本件遭難により、旅客69人、乗組員19人は死亡し旅客28人乗組員25名は行方不明となった。
 デラ台風の経路については、同月11日、西カロリンに発生した熱帯性低気圧は、13日には、ゆっくり、北西に動き始め、18日ころから、急に中心示度を深め、フィリッピン北東海上でデラ台風と名付られた。19日午前3時ころには中心示度は980ミリバール以下となり、北に進路を変じ、その後、次第に中心示度を深めつつ、進路を右方に転ずるとともに速度を加え、琉球列島に沿って北東方に進み、20日午後9時ころには屋久島に達した。同島を過ぎてから、突然、進路を真北に転じ毎時60キロの速さで佐田岬に達し、揖宿をかすめ、20日午後11時過ぎには鹿児島の最低気圧は、970.2ミリバール最大風速は、北東24.4メートル瞬間風速は31.3メ-トルに達し、非常な暴風雨であった。21日午前0時には人吉の西方を通り、九洲背梁山脈に沿って毎時50キロの速さで北上し、同1時ころ熊本に達した。その後次第に、中心示度を弱めるとともに、速力を減じつつ毎時35キロ位で北に進み、同2時ころ阿蘇山を通過してから進路を北北西に転じ同3時ころ英彦山の南西方に達した。このころから台風は衰弱の度を強め、同4時には飯塚市西方を通り、福岡市をかすめて、同5時、海上に出たものである。而して、前示屋久島通過の20日午後9時ころまでは、一般気圧状況から台風は、そのまま、北東方に進行し、四国、本州、南方洋上を東進するものと観測され警報の放送もまた、そのように発せられていたもので、屋久島から突如進路を北に転じ九州南部に上陸した警報が初めて発せられたのは、21日午前2時乃至2時30分であった。

(原因判断)
 本件遭難は、海難審判法第2条第1号及び第2号に該当し、汽船青葉丸が愛媛県高浜を発し、関門港に向う航行中、発航当時、九州南方に在り北東方に進行して、四国及び本州南方海上を通過する旨の予報を受けていたデラ台風が、その後、急に進行方向を変じ、九州を縦断北上したため、同船は、その暴風圏内に入り、激風とこれに伴う高浪のため、船体大傾斜して安定を失ひ横転するにいたったことに基因して発生したものである。船長Cが高浜を発してから汽船青葉丸が沈没するにいたるまで採った措置については、同人及びその他の運航責任者の全部が死亡又は行方不明となっているので、詳かにすることができず、従って、その可否についても断定することはできない。

 よって主文のとおり裁決する。

☆太平洋戦争後(1946年以降)日本近海での主な海難事故(死者・行方不明100名以上)

・1948年(昭和23)1月28日 - 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)
・1949年(昭和24)6月21日 - 川崎汽船「青葉丸」がデラ台風(昭和24年台風第2号)により大分県沖で転覆し、死者・行方不明者141名を出す(青葉丸転覆事故)
・1954年(昭和29)9月26日 - 青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で洞爺丸台風の暴風により転覆・沈没し乗員乗客1,155名が死亡する(洞爺丸事故)
・1955年(昭和30)5月11日 - 宇高連絡船「紫雲丸」と「第3宇高丸」が濃霧の中で衝突し「紫雲丸」が沈没して死者・行方不明167名、負傷者122名を出す(紫雲丸事故)
・1957年(昭和32)4月12日 - 瀬戸内海の定期客船「第5北川丸」が暗礁で座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)
・1958年(昭和33)1月26日 - 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)
・1963年(昭和38)8月17日 - 那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出す(みどり丸沈没事故)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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