1965年(昭和40)に、新潟市下山など阿賀野川下流域に有機水銀中毒症患者が発生していることが、新潟大学医学部教授らによって公表されます。1967年(昭和42)6月12日に、患者らが、昭和電工を相手に、損害賠償を求めて提訴(新潟水俣病第1次訴訟)しましたが、1971年(昭和46)9月29日に、新潟地裁から判決が出され、原告が勝訴し、判決が確定しました。これは、水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病とならんで四大公害訴訟と言われています。
その後、1973年(昭和48)6月21日に、新潟水俣病被災者の会・新潟水俣病共闘会議と昭和電工が、要求を全面的に獲得した「新潟水俣病問題に関する協定書」に調印しました。しかし、この間に認定を棄却された患者および新たな申請者合わせて232人が国と昭和電工を相手取り、第2次訴訟を起こしています。
1992年(平成4)3月31日に第2次訴訟の新潟地裁判決が出され、原告の大半を水俣病と認定したものの、国の責任は否定しました。そこで、原告側と昭和電工側の双方が東京高裁に控訴しましたが、原告の高齢化が進み、死亡者が増えたため、早期和解を求める声が強まり、政府・与党の最終解決案を受けて1995年(平成7)12月に、被告の昭和電工が救済対象者に対して、一律260万円の一時金の支払い、被害者団体に4億4000万円の加算金の支払い、新潟県へ地域振興策として2億5000万円の寄付金の支払いを行うなどの協定が締結されています。
それからも、2007年(平成19)に提訴された第3次訴訟など、主なものだけで3つの裁判が起こされてきました。