ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:昭和天皇

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)に、昭和天皇臨席の第14回御前会議において、国体護持を条件として「ポツダム宣言」の受諾を決定した日です。
 御前会議(ごぜんかいぎ)は、「大日本帝国憲法」下の日本において、天皇臨席の下に行われた元老、主要閣僚、軍部首脳の合同で実施された最高会議です。広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、大本営会議なども含まれますが、狭義には、対外戦争等に際して、天皇臨席の下に開かれる会議を指しました。明治時代の1894年(明治27)6月22日に、第2次伊藤博文内閣の下で、対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初とされ、以後、日清講和、三国千渉、対露開戦、日露講和等で開催されます。しかし、それ以後大正時代には開かれず、昭和時代になり、日中戦争に関わって、第1次近衛文麿内閣の下で、1938年(昭和13年)1月11日に復活し、「支那事変処理根本方針」が決定されました。以後、1年に数回のペースで計15回開催され、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争の開戦、ポツダム宣言の受諾などの重要方針を決定しています。太平洋戦争後は、開催されませんでした。

〇御前会議一覧

<明治天皇臨席の御前会議一覧>

・第1回 1894年(明治27)6月22日(第2次伊藤博文内閣)対清開戦(日清戦争)
・第2回 1895年(明治28)1月27日(第2次伊藤博文内閣)日清講和に関する方針
・第3回 1895年(明治28)4月24日(第2次伊藤博文内閣)三国千渉に関する処理方針
・第4回 1903年(明治36)6月23日(第1次桂太郎内閣)対露交渉に臨むことが確認される
・第5回 1904年(明治37)2月4日(第1次桂太郎内閣)対露開戦(日露戦争)
・第6回 1905年(明治38)8月28日(第1次桂太郎内閣)日露講和成立方針

<昭和天皇臨席の御前会議一覧>

・第1回 1938年(昭和13)1月11日(第1次近衛文麿内閣)「支那事変処理根本方針」
・第2回 1938年(昭和13)11月30日(第1次近衛文麿内閣)「日支新関係調整方針」
・第3回 1940年(昭和15年)9月19日(第2次近衛文麿内閣)「日独伊三国同盟条約」
・第4回 1940年(昭和15)11月13日(第2次近衛文麿内閣)「支那事変処理要綱」に関する件他
・第5回 1941年(昭和16)7月2日(第2次近衛文麿内閣)「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」
・第6回 1941年(昭和16)9月6日(第3次近衛文麿内閣)「帝国国策遂行要領」
・第7回 1941年(昭和16)11月5日(東條英機内閣)「帝国国策遂行要領」
・第8回 1941年(昭和16)12月1日(東條英機内閣)「対英米蘭開戦の件」
・第9回 1942年(昭和17)12月21日(東條英機内閣)「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」
・第10回 1943年(昭和18)5月31日(東條英機内閣)「大東亜政略指導大綱」
・第11回 1943年(昭和18)9月30日(東條英機内閣)「今後採るべき戦争指導の大綱」他
・第12回 1944年(昭和19)8月19日(小磯国昭内閣)「世界情勢判断及戦争指導大綱」
・第13回 1945年(昭和20)6月8日(鈴木貫太郎内閣)「今後採るべき戦争指導の基本大綱」
・第14回 1945年(昭和20)8月10日(鈴木貫太郎内閣)「ポツダム宣言」受諾の可否について
・第15回 1945年(昭和20)8月14日(鈴木貫太郎内閣)「ポツダム宣言」受諾

☆ポツダム宣言(ぽつだむせんげん)とは?

 昭和時代前期の1945年(昭和20)7月に開かれたポツダム会談(ドイツのポツダムで開催)で協議の上、7月26日に、アメリカ、イギリス、中国、3ヶ国政府首脳の連名で日本に対して発せられた宣言です。正式名称は、「日本への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)」といい、日本の戦争終結条件を示した全13項から成っていました。その内容は、軍国主義の除去、領土の限定、武装解除、戦争犯罪人の処罰、日本の民主化、連合国による占領などを規定し、無条件降伏を求めたものです。日本政府は、一端は拒否を通告したものの、広島・長崎への原子爆弾の投下、ソ連の参戦を経て、8月14日の御前会議において、この宣言の受諾を決定しました。

☆ポツダム宣言 (全文) 1945年(昭和20)7月26日

Potsdam Declaration
Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender
Issued, at Potsdam, July 26, 1945

We-the President of the United States, the President of the National Government of the Republic of China, and the Prime Minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that Japan shall be given an opportunity to end this war.
The prodigious land, sea and air forces of the United States, the British Empire and of China, many times reinforced by their armies and air fleets from the west, are poised to strike the final blows upon Japan. This military power is sustained and inspired by the determination of all the Allied Nations to prosecute the war against Japan until she ceases to resist.
The result of the futile and senseless German resistance to the might of the aroused free peoples of the world stands forth in awful clarity as an example to the people of Japan. The might that now converges on Japan is immeasurably greater than that which, when applied to the resisting Nazis, necessarily laid waste to the lands, the industry and the method of life of the whole German people. The full application of our military power, backed by our resolve, will mean the inevitable and complete destruction of the Japanese armed forces and just as inevitably the utter devastation of the Japanese homeland.
The time has come for Japan to decide whether she will continue to be controlled by those self-willed militaristic advisers whose unintelligent calculations have brought the Empire of Japan to the threshold of annihilation, or whether she will follow the path of reason.
Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.
Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan's war-making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the Allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth.
The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.
The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.
We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese participation in world trade relations shall be permitted.
The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.
We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.
(The Ministry of Foreign Affairs "Nihon Gaiko Nenpyo Narabini Shuyo Bunsho : 1840-1945" vol.2, 1966)
 
<日本の外務省による訳文>

千九百四十五年七月二十六日
米、英、支三国宣言
(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)

一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ
四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ
五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊より

<現代語訳>

ポツダム宣言

日本に手渡すために用語を定義する宣言
ポツダムに於いて、1945 年 7 月 26 日

われわれ、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席、イギリスの総理大臣は、われわれ数億の同胞を代表し、協議の上で、日本はこの戦争を終結する機会を与えられるものと同意した。

アメリカ合衆国、大英帝国と中華民国の陸・海・空軍は、何度も西からの陸軍及び航空編隊の補強を受けて巨大になっており、日本に最終的な打撃を加える態勢を整えている。この軍事力は、日本が抵抗をやめるまで、すべての同盟国の決意により持続されている。

世界の自由の人々が立ち上がった。無駄、無意味なドイツの抵抗の結果は、極めて明快に日本の人々に例として示されている。今日本に集中する可能性がある力は、ナチスの抵抗に適用された場合のもの、すなわちドイツの人々の生活、土地、産業全体を破壊するのに必要だった力に比べても計り知れないほどより大きい。われわれの決意に裏付けられた、軍事力をすべて投入すれば、完全に壊滅された日本軍と同じように、日本本土が必然的に、全く荒廃することを意味するだろう。

日本帝国は、消滅の淵にあり、その頭の悪く身勝手な軍国主義的な顧問によって制御され続けるのか、それとも理性の道に従うのかどうかを決定する時が来ている。

われわれの条件を次に示す。それらから逸脱がないものとする。選択肢はなく、一切の遅延も許さない。

日本の人々を惑わさせて、世界征服に乗り出させた影響勢力や権威・権力は、永遠に除去されなければならない。われわれは、無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和・安全・正義の新秩序は実現不可能であると主張する。

このような新しい秩序が確立されるまで、日本の戦争遂行能力が破壊されたとの説得力のある証拠があるまで、連合国軍によって指定される日本の領土内の諸地点は、基本的な目的の達成を確保するため占領するものとする。

カイロ宣言の条項は実施されなければならないし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国および、われわれの決定する周辺小諸島に限られるものとする。

日本軍は、完全に武装を解除された後、彼らの家に戻し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を許可されるものとする。

われわれは、日本人を民族として奴隷または国家として破壊するつもりはない。しかし、われわれの捕虜に残虐行為を行った者を含めて、すべての戦争犯罪者には正義による鉄槌が与えられるものとする。日本政府は、日本人の間での民主主義的傾向の強化、復活にあたり、すべての障害物を除去しなければならない。言論、宗教、思想の自由および基本的な人権の尊重が確立されなければならない。

日本は、その産業を維持し、経済を持続するが、これらは再戦争を可能にするためのものではなく、正当な賠償の取り立てに充てるものとして許可される。このため、支配と区別して原料の入手は許される。世界貿易関係で将来的な日本の参加は許可するものとする。

連合国の占領軍は、これらの目標が達成された後、日本の人々の自由に表現された意志に従って、平和的傾向を帯び、責任ある政府が構築されるにおいては、できるだけ早く日本から撤退するものとする。

われわれは、日本政府に対し、すべての日本軍の無条件降伏の宣言を要求し、そのような行動が誠意をもって行われる適切かつ十分な保証を提供するように求める。日本の他の選択肢は、迅速および完全な破壊だけである。

 *英語の原文より筆者が訳しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1232年(貞永元)鎌倉幕府3代執権北條泰時が「御成敗式目(貞永式目)」を制定する(新暦8月27日)詳細
1693年(元禄6)俳諧師・浮世草子作家井原西鶴の命日(新暦9月9日)詳細
1920年(大正9)日本初の近代的な道路整備計画が決定する(道の日)詳細
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1956年(昭和31)日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成される詳細
1968年(昭和43)日本初の長距離カーフェリーである阪九フェリー(神戸~小倉)が運航開始する詳細
2003年(平成15)沖縄都市モノレール(ゆいレール)那覇空港~首里が開業する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1942年(昭和17)に、昭和天皇臨席の第9回御前会議で、「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」が決定された日です。
 「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」(だいとうあせんそうかんすいのためのたいししょりこんぽんほうしん)は、太平洋戦争開戦から1年が過ぎた、昭和天皇臨席の第9回御前会議で決定された、太平洋戦争における主に中国対策に関する方針でした。その主要な方向は、「国民政府参戦ヲ以テ日支間局面打開ノ一大転機トシ、日支提携ノ根本精神ニ則リ専ラ国民政府(注:汪兆銘政府のこと)ノ政治力ヲ強化」し、重慶の国民党政府(蒋介石政権)や対アメリカ・イギリスとの戦争を遂行して行こうとするものです。
 具体的には、①国民政府の政治力强化(汪兆銘政府との間での「戦争遂行に関する日華共同宣言」の締結および租界還付および治外法権撤廃等の協定など)、②経済政策(戰爭完遂上必要な物資獲得の增大を主眼とする生産の増強)、③対重慶方策(蒋介石国民党政府とは一切の和平工作をしない)、④戦略方策(今までの方針による)とからなっていました。これに基づいて、翌年1月9日に、中国の南京において、重光葵全権大使と南京政府(汪兆銘政府)との間に、「日華共同宣言」がなされ、両国がアメリカ、イギリスに対する共同の戦争を完遂するために軍事、政治、経済上完全に協力することとし、同時に「租界還付および治外法権撤廃等に関する日華協定」が調印されています。
 同日に、南京政府(汪兆銘政府)はアメリカ、イギリス両国に宣戦を布告、これに対し、アメリカ、イギリス両国は国民党政府(蒋介石政権)との間に新条約を締結、在華特権を放棄して対処することになりました。
 
〇「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」 (全文)  1942年(昭和17)12月21日御前会議決定 

大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針

第一 方針 

一、帝國ハ、國民政府參戰ヲ以テ日支間局面打開ノ一大轉機トシ、日支提携ノ根本精神ニ則リ專ラ國民政府ノ政治力ヲ强化スルト共ニ、重慶抗日ノ根據名目ノ覆減ヲ圖リ眞ニ更新支那ト一體戰爭完遂ニ邁進ス 

二、世界戰局ノ推移ト睨合セ米英側反攻ノ最高潮ニ達スルニ先チ前項方針ニ基ク對支諸施設ノ結實ヲ圖ル 

第二 要領 

一、國民政府ノ政治力强化 
  (イ)帝國ハ國民政府ニ對シ、勉メテ干涉ヲ避ケ極力ソノ自發的活動ヲ促進ス 
 (ロ)極力占據地域內ニ於ケル地方的特殊性ヲ調整シ國民政府ノ地方政府ニ對スル指導ヲ强化セシム 
 (ハ)支那ニ於ケル租界、治外法權ソノ他特異ノ諸事態ハ、支那ノ主權及領土尊重ノ趣旨ニ基キ速ニ之カ撤廢乃至調整ヲ圖ル、九龍租借地ノ處理ニ關シテハ、香港ト併セ別途之ヲ定ム 
 (ニ)國民政府ヲシテ、不動ノ決意ト信念トヲ以テ各般ニ亘リ自彊ノ途ヲ講セシメ廣ク民心ヲ獲得シ、特ニ戰爭完遂ノ爲必要トスル生產ノ增强、戰爭目的ニ對スル官民認識ノ普及並ニ治安維持ノ强化等ノ確實ナル具現ヲ圖リ、戰爭協力ニ徹底遺憾ナカラシム 
 (ホ)帝國ハ、將來國民政府ノ充實强化並ニソノ對日協力ノ具現等ニ照應シ、適時日華基本條約及附屬取極ニ所要ノ修正ヲ加ウルコトヲ考慮ス 

二、經濟政策 

  (イ)當面ノ對支經濟施策ハ、戰爭完遂上必要トスル物資獲得ノ增大ヲ主眼トシ、占據地域內ニ於ケル緊要物資ノ重點的開發取得並ニ敵方物資ノ積極的獲得ヲ圖ル 
 (ロ)經濟施策ノ實行ニ當リテハ、勉メテ日本側ノ獨占ヲ戒ムルト共ニ、支那側官民ノ責任ト創意トヲ活用シ、ソノ積極的對日協力ノ實ヲ具現セシム 

三、對重慶方策 

  (イ)帝國ハ、重慶ニ對シ之ヲ對手トスル一切ノ和平工作ヲ行ハス 
    狀勢變化シ、和平工作ヲ行ハントスル場合ハ別ニ之ヲ決定ス 
 (ロ)國民政府ヲシテ、右帝國ノ態度ニ順應セシム 

四、戰略方策 

  帝國ノ對支戰略方策ハ、旣定方針ニ據ル

         「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省偏より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1854年(安政2)「日露和親条約」が締結される(新暦1855年2月7日)詳細
1917年(大正6)大之浦炭鉱(福岡県)でガス爆発事故があり、死者・行方不明者369人を出す詳細
1943年(昭和18)東條内閣が「都市疎開実施要綱」を閣議決定する詳細
1946年(昭和21)昭和南海地震(M8.0)が起き、死者1,443人を出す詳細
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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、昭和天皇臨席の第8回御前会議で「対英米蘭開戦の件」を決定した日です。
 「対英米蘭開戦の件」(たいえいべいらんかいせんのけん)は、同年11月5日の第7回御前会議決定「帝国国策遂行要領」に基く対米交渉はついに成立するに至らず、同月27日の「ハル・ノート」の手交により、日本政府はアメリカとの交渉による事態打開の可能性を断ち切ることとし、昭和天皇臨席の第8回御前会議でアメリカ・イギリス・オランダとの開戦を正式に決定したものでした。この会議は、14時5分から16時にかけて開催され、東条英機内閣総理大臣兼内務大臣陸軍大臣、東郷茂徳外務大臣兼拓務大臣、賀屋興宣大蔵大臣、嶋田繁太郎海軍大臣、岩村通世司法大臣、橋田邦彦文部大臣、井野碩哉農林大臣、岸信介商工大臣、寺島健逓信大臣兼鉄道大臣、小泉親彦厚生大臣、鈴木国務大臣兼企画院総裁、杉山元参謀総長、田辺盛武参謀次長、永野軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、原嘉道枢密院議長、星野直樹内閣書記官長、武藤陸軍省軍務局長、岡海軍省軍務局長が出席しています。会議の冒頭、東条首相が天皇に、開戦やむなしに到る経過を説明、続いて東郷外相、永野軍令部総長、東条内相、賀屋蔵相、井野農相がそれぞれ所管事項について説明しました。内相説明で、東条は非常事態に備えて「共産主義者」「不逞鮮人」、一部宗教上の要注意人物の取り締まりを厳しくするなど治安対策の現状と方針を説明します。賀屋蔵相は「財政金融の持久力判断」について、巨額の戦費は「国民が国家の興亡の岐(わか)るる所なることを自覚し極度の忍耐努力を為すに於いては」可能と説明しました。各大臣の説明は、万全ではないが、戦いつつ建設策を進めていけば対米英蘭戦を遂行し得る、というもので、原枢密院議長は、米側の態度は「唯我独尊頑迷不(無)礼であり」開戦はやむをえないと所見を述べています。その上で、アメリカ・イギリス・オランダとの開戦を正式に決定し、12月8日の太平洋戦争開戦へと至りました。以下に、第8回御前会議決定「対英米蘭開戦の件」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇御前会議とは?

 「大日本帝国憲法」下の日本において、天皇臨席の下に行われた元老、主要閣僚、軍部首脳の合同で実施された最高会議です。広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、大本営会議なども含まれますが、狭義には、対外戦争等に際して、天皇臨席の下に開かれる会議を指しました。明治時代の1894年(明治27)6月22日に、第2次伊藤博文内閣の下で、対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初とされ、以後、日清講和、三国千渉、対露開戦、日露講和等で開催されます。しかし、それ以後大正時代には開かれず、昭和時代になり、日中戦争に関わって、第1次近衛文麿内閣の下で、1938年(昭和13年)1月11日に復活し、「支那事変処理根本方針」が決定されました。以後、1年に数回のペースで計15回開催され、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争の開戦、ポツダム宣言の受諾などの重要方針を決定しています。太平洋戦争後は、開催されませんでした。
 
〇ハル・ノートとは?

 昭和時代前期の太平洋戦争直前の日米交渉の際、1941年(昭和16年)11月26日に米国国務長官ハルが提示した覚書です。その内容は、日本軍の中国および仏領インドシナからの全面撤兵要求、蒋介石の中華民国国民政府以外の中国における政府、政権の否認などを主張し、アジアの状態を満州事変前に戻せというものでした。その前に、日本側の北部仏印進駐、日独伊三国同盟の締結、汪兆銘政権の承認との動きがあり、それに対抗して米国側の対日経済制裁が強められる中で日米間での交渉が継続されていましたが、これによって、事実上の最後通牒とみなされ、日本に開戦を決意させるに至ったとされています。この後、12月1日に昭和天皇臨席の第8回御前会議で「対英米蘭開戦の件」を決定、12月8日に日本側が真珠湾奇襲攻撃等を行って太平洋戦争開戦へと突き進むことになりました。

〇「対米英蘭開戦に関する件」1941年(昭和16)12月1日

    十二月一日御前會議決定

十一月五日決定ノ帝國々策遂行要領ニ基ク對米交涉遂ニ成立スルニ至ラス

帝國ハ米英蘭ニ對シ開戰ス

  總理大臣說明

御許シヲ得タルニ依リマシテ本日ノ議事ノ進行ハ私カ之ニ當リマス

十一月五日御前會議決定ニ基キマシテ、陸海軍ニ於テハ作戰準備ノ完整ニ勉メマスル一方、政府ニ於キマシテハ凡有ル手段ヲ盡シ全力ヲ傾注シテ、對米國交調整ノ成立ニ努力シテ參リマシタカ、米國ハ從來ノ主張ヲ一步モ讓ラサルノミナラス、更ニ米英蘭支聯合ノ下ニ支那ヨリ無條件全面撤兵、南京政府ノ否認、日獨伊三國條約ノ死文化ヲ要求スル等新タナル條件ヲ追加シ帝國ノ一方的讓步ヲ强要シテ參リマシタ、若シ帝國ニシテ之ニ屈從センカ帝國ノ權威ヲ失墜シ支那事變ノ完遂ヲ期シ得サルノミナラス、遂ニハ帝國ノ存立ヲモ危殆ニ陷ラシムル結果ト相成ル次第テアリマシテ、外交手段ニ依リテハ到底帝國ノ主張ヲ貫徹シ得サルコトカ明カトナリマシタ、一方米英蘭支等ノ諸國ハ其ノ經濟的、軍事的壓迫ヲ益々强化シテ參リマシテ、我國力上ノ見地ヨリスルモ、又作戰上ノ觀點ヨリスルモ到底此ノ儘推移スルヲ許ササル狀態ニ立チ至リマシタ、事茲ニ至リマシテハ帝國ハ現下ノ危局ヲ打開シ、自存自衞ヲ完ウスル爲米英蘭ニ對シ開戰ノ止ムナキニ立至リマシタル次第テアリマス

支那事變モ旣ニ四年有餘ニ亙リマシタル今日、更ニ大戰爭ニ突入致スコトト相成リ、宸襟ヲ惱マシ奉ルコトハ洵ニ恐懼ノ至リニ堪エヌ次第テコサイマス

然シナカラ熟々考ヘマスルニ國力ハ今ヤ支那事變前ニ數倍シ、國内ノ結束愈々固ク、陸海將兵ノ士氣益々旺盛ニシテ、擧國一體一死奉公、國難突破ヲ期スヘキハ私ノ確信シテ疑ハヌ所テコサイマス就イテハ別紙本日ノ議題ニ付テ、御審議ヲ願ヒ度イト存シマス。尙外交交涉、作戰事項其他ノ事項ニ關シマシテハ、夫々所管大臣及統帥部側等ヨリ御說明申上ケマス

  外務大臣說明

本日ハ主トシテ十一月五日御前會議以後ニ於ケル日米交涉ノ經過ニ付御說明申上ケマスカ其レ以前卽チ十月末ニ於ケル交涉ノ狀況ヲ極メテ簡單ニ要約致シマスルト米側ハ國際關係ノ基礎トシテ

一、一切ノ國家ノ領土保全及主權尊重

二、他國ノ内政不干涉

三、通商上ノ無差別待遇

四、平和手段ニ依ルノ外太平洋ニ於ケル現狀ノ不變更

ノ四原則ヲ堅持シ之カ適用ヲ强要セムトシ、尚帝國ノ平和的意圖ニ關シ疑惑ヲ表示シ、支那ニ於ケル駐兵ニ異議ヲ唱ヘ、通商上ノ無差別原則ヲ無條件ニ支那ニ適用スヘシト主張シ、又三國條約問題ニ付テモ之ヲ事實上死文タラシメムコトヲ求メ、交涉ハ之カ爲メ難關ニ逢著シ遂ニ停頓セル次第テアツタノテアリマス

斯ノ如ク兩國ノ見解對立ヲ來シタル所以ノモノハ、米國カ國際關係處理ニ付其ノ傳統的ニ堅持スル原則的理念ヲ强硬ニ固執シ、東亞ノ實情ヲ顧ミス之ヲ其ノ儘支那其他ニ適用センコトヲ主張シ居ルコトニ起因スルモノテ、米側ニシテ右ノ態度ヲ改善セサルニ於テハ、本交涉ノ妥結ハ極メテ困難ナリト認メタノテアリマス

然シ乍ラ現內閣トシマシテモ公正ナル基礎ニ於ケル日米國交調整ヲ計ルヲ妥當ト認メ、帝國トシテ能フ限リノ讓步ヲ試ミ以テ日米衝突回避ニ最後ノ努力ヲ傾ケルコトニ致シタノテアリマス。卽チ右ノ見地ヨリ當時交涉ノ主要難點タリシ三國條約ニ基ク自衞權ノ解釋、通商無差別原則竝ニ支那及佛印ヨリノ撤兵ノ三問題ニ付從來ノ帝國提案卽チ九月二十五日案ヲ緩和シ、(一)三國條約ニ基ク自衞權問題ニ付テハ米側カ自衞權ノ觀念ヲ不當ニ擴大セサルコトヲ言明セシメ其ノ場合我方ニ於テモ同樣ノ言明ヲナスコトトシ、(二)無差別原則ニ付テハ右原則カ全世界ニ適用セラルルモノナルニ於テハ右カ支那ニモ適用セラルルコトニ異議ナキコトトシ、(三)撤兵問題ニ付テハ支那事變ノ爲メ支那ニ派遣セラレタル日本軍隊ハ北支蒙彊ノ一定地域及海南島ニ關シテハ日支間平和成立後所要期間駐屯スヘク、爾餘ノ軍隊ハ平和成立ト同時ニ日支間協定ニ從ヒ撤去ヲ開始シ、治安確立ト共ニ二年以內ニ撤兵ヲ完了スヘク又佛印ニ付テハ領土主權ノ尊重ヲ約シ、佛印ニ派遣セラレ居ル軍隊ハ支那事變解決スルカ又ハ公正ナル極東平和確立スルニ於テハ直ニ之ヲ撤去スヘシト修正スルコトトシ、右ハ十一月五日ノ御前會議ニ於テ御決定ヲ得マシタ次第テアリマス

政府ハ右ノ御決定ノ次第ニ基キ野村大使ニ對シ事態急迫セル此ノ際破綻ニ瀕セル日米國交ノ局面ヲ轉換スル爲ニハ本案ニ依リ急速妥結スルノ外ナク、帝國ハ難キヲ忍ヒテ最大限ノ讓步ヲ敢テシタルモノナルニ鑑ミ、米國側モ猛省シテ太平洋平和ノ爲メ我方ト協調センコトヲ切望スル旨申入方訓令致シマシタ。爾後交涉ハ華府ニ於テ行ハレタルカ東京ニ於テモ右交涉ヲ促進スル意味ニ於テ本大臣モ屡々在京米英大使ト折衝ヲ遂ケマシタ。而シテ野村大使ハ七日「ハル」國務長官トノ會見ヲ手初メトシ、十日「ルーズヴェルト」大統領十二日及十五日「ハル」長官ト會談ヲ重ネ、銳意交涉進捗ニ努力スル所カアリマシタ、此ノ間政府ハ時局ノ重大ナルニ鑑ミ外交上十全ノ努力ヲ試ミンカ爲メ、五日來栖大使ヲ米國ニ急派スルコトトシ、同大使ハ十五日華府到著十七日ヨリ野村大使ヲ援助シテ交涉ニ參加致シマシタ。交涉ハ當時旣ニ酣ニシテ米側ハ七日以來我方ニ對シ幾多ノ點ニ付質疑ヲ提出シ帝國ノ眞意ヲ探ラントスル樣子ヲ示シマシタ。米側ハ夙ニ所謂「ヒツトラー」主義ノ打倒ヲ標榜シ、帝國ニ對シ武力政策ノ抛棄ヲ要求シテ居リマシタカ、三國條約トノ關係ニ於テ帝國ノ政策ニ對シ依然疑惑ヲ抱キ居リシモノノ如ク、今回モ帝國ノ平和的意圖ニ付前述ノ八月二十八日帝國政府ノ平和的意圖ノ聲明ニ付再確認ヲ要求スルト共ニ、日米協定成立セハ帝國ハ三國條約ヲ保持スルノ要ナカルヘク右ハ消滅若クハ死文トナルコトヲ希望スル旨反覆力說致シマシタ。通商無差別原則ニ付テハ我方ノ提案セル「全世界ニ適用セラルルコト」云々ノ條件除去ヲ希望シ、米國カ由來自由通商回復ノ爲メ努力シ來レル次第ヲ强調致シマシタ。同時ニ米側ハ別ニ「經濟政策ニ關スル共同宣言案」ナルモノヲ提議越シ、兩國協力シテ全世界ニ通商自由ノ回復ヲ計ルコト、日米通商協定ノ締結ニ依リ正常通商關係ヲ回復スルコトノ外、支那ニ於テハ經濟財政通貨ニ關スル完全ナル統制權ヲ支那政府ニ回收スヘキコト列國協同下ニ支那ノ經濟共同開發ヲ行フコト等ヲ提案致シマシタ。尙又支那ヨリノ撤兵問題ニ付テハ特ニ深ク之ヲ論議セス唯永久乃至不確定期間ノ駐兵ニ對シ難色ヲ示スニ止マリマシタカ、帝國カ平和政策ヲ採ルニ於テハ米國ニ於テ日支直接交涉周旋ノ用意アル次第ヲ申出テマシタ。政府ハ右ニ對シ八月二十八日ノ帝國ノ平和的意圖闡明ニ關シ米側カ確認ヲ希望スル點ハ九月二十五日付我提案中ニ包含セラレ居リ、從ツテ現内閣モ其ノ趣旨ニ於テ之カ確認ニ異議ナキコト、又通商上ノ無差別原則ニ付條件ヲ附シタルハ我方ニ於テハ同原則カ全世界ニ一律ニ適用セラルルヲ希望シ、右希望ノ實現ニ順應シテ支那ニ對シテモ同原則ノ適用ヲ承認ストノ意味合ナルコト、共同宣言案ニ付テハ右カ支那ノ現實ヲ無視シ殊ニ支那共同開發ノ提案ハ支那國際管理ノ端諸トナル惧アルヲ以テ受諾シ難キコト、及米側ノ日支和平周旋申入レニハ異議ナキ旨回答セシメタノテアリマス。來栖大使ハ此ノ段階ニ於テ交涉ニ參劃セルモノテアリマシテ、野村來栖兩大使ハ十七日大統領ト、十八日、二十日、二十一日、二十二日、二十六日ト引續キ「ハル」長官ト會見ヲ重ネタノテアリマス。然ルニ十七、十八兩日ノ會見ニ於テハ大統領ハ日米平和ヲ希望スル旨ヲ述ヘ、支那問題ニ付テハ干涉モ斡旋モスル意圖ナク單ニ「紹介者」タラント欲スルモノナリト言ヒ、他方「ハル」長官ハ帝國カ獨逸ト提携シ居ル限リ日米交涉ハ至難ナルヲ以テ、先ツ此ノ根本的困難ヲ除去スル必要アリト縷々力說シ、双方論議ヲ盡セルモ難關ハ依然トシテ三國條約、無差別原則及支那問題ニ在ルコト明カトナリマシタノテ、二十日ニ至リ我方ハ從來交涉ノ基礎タリシ案文カ宣傳的色彩ニ滿チ居タルヲ簡略化シ、且意見容易ニ一致セサル無差別原則問題ヲ除去シ、更ニ三國條約問題ハ先方ヨリノ提案ニ俟ツ趣旨ヲ以テ是又一應我提案ヨリ除去シ、尚又支那問題ハ主トシテ之ヲ日支直接交涉ニ移スノ趣旨ヲ以テ米側ニ於テハ單ニ日支和平妨碍ヲ差控ヘシムルコトトスル新提案ヲ提出致サセマシタ。卽チ同案ノ内容ハ左ノ通リテアリマス

一、日米兩國政府ハ孰レモ佛印以外ノ南東亞細亞及南太平洋地域ニ武力的進出ヲ行ハサルコトヲ確約ス

二、日米兩國政府ハ蘭領印度ニ於テ其ノ必要トスル物資ノ獲得カ保障セラルル樣相互ニ協力スルモノトス

三、日米兩國政府ハ相互ニ通商關係ヲ資產凍結前ノ狀態ニ復歸スヘシ米國政府ハ所要ノ石油ノ對日供給ヲ約ス

四、米國政府ハ日支兩國ノ和平ニ關スル努力ニ支障ヲ與フルカ如キ行動ニ出テサルヘシ

五、日本國政府ハ日支間和平成立スルカ又ハ太平洋地域ニ於ケル公正ナル平和確立スル上ハ現ニ佛領印度支那ニ派遣セラレ居ル日本軍隊ヲ撤退スヘキ旨ヲ約ス

 日本國政府ハ本了解成立セハ現ニ南部佛領印度支那ニ駐屯中ノ日本軍ハ之ヲ北部佛領印度支那ニ移駐スルノ用意アルコトヲ闡明ス

右ニ對シ米側ハ帝國カ三國條約トノ關係ヲ明カニシ平和政策採用ヲ確言スルニ非サレハ援蔣行爲停止ハ困難ナリ、大統領ノ所謂「紹介者」タラントノ提案モ日本ノ平和政策採用ヲ前提トスルモノナル旨ヲ述ヘマシタカ、之ニ對シ我方ハ米側申出ノ趣旨ニ基キ大統領ノ紹介ニ依リ日支直接交涉開始セラルルニ於テハ、和平ノ周旋者タル米國カ依然援蔣行爲ヲ繼續シ、平和成立ヲ妨碍スルハ矛盾ナルヲ指摘シ米側ノ反省ヲ要望致シマシタ。然ルニ其ノ後モ米側ハ日米兩國カ夫々東亞及西半球ニ於テ指導的立場ニ立ツニ異議ナク親善裡ニ太平洋協定ヲ結ヒ度シト述ヘ乍ラモ支那ニ付米國ハ蔣介石援助打切リヲ應諾セサルノミナラス、三國條約ニ關スル從來ノ主張ヲ固執反覆シ、更ニ讓步ノ色ヲ示サナカツタノテアリマス

此ノ間米國政府ハ英濠蘭及重慶代表ト協議スル所アリ、二十二日「ハル」長官ハ右諸國ハ日本カ平和政策ヲ採ルコト明確トナラハ通商常態復歸ヲ實行シ得ヘキモ、差當リ漸進的ニ之ヲ行フ意圖ノ如ク、又南部佛印ヨリノ撤兵ノミニテハ南太平洋方面ノ急迫セル情勢ヲ緩和スルニ足ラストナシ居レリト述ヘ、更ニ大統領ノ日支間「橋渡シ」ハ時機未タ熟セスト思考スル旨ヲ洩スニ至リマシタ然ルニ米國政府ハ其ノ後モ右諸國代表ト協議ヲ重ネツツアツタノテアリマスカ、二十六日「ハル」長官ハ兩大使ニ對シ二十日ノ我新提案ニ付テハ愼重研究ヲ加ヘ關係國トモ協議セルモ遺憾乍ラ同意シ難シト述ヘ、米側六月案ト我方九月案トノ調節ナリト稱シテ第一所四原則(但シ第四項ハ紛爭防止ノ爲ノ國際協力及調停ニ變更セラル)ノ確認ヲ求ムルト共ニ第二別ニ兩國政府ノ採ルヘキ措置トシテ

一、日米兩國政府ハ英帝國、蘭、支、蘇、泰ト共ニ多邊的不可侵條約ノ締結ニ努ム

二、日米兩國政府ハ日、米、英、支、蘭、泰國政府トノ間ニ佛印ノ領土主權ヲ尊重シ佛印ノ領土主權カ脅威サルル場合必要ナル措置ニ關シ卽時協議スヘキ協定ノ締結ニ努ム

右協定締約國ハ佛印ニ於ケル貿易及經濟關係ニ於テ特惠待遇ヲ排除シ平等ノ原則確保ニ努ム

三、日本政府ハ支那及佛印ヨリ一切ノ軍隊(陸、海、空及警察)ヲ撤收スヘシ

四、兩國政府ハ重慶政府ヲ除ク如何ナル政權ヲモ軍事的、政治的、經濟的ニ支持セス

五、兩國政府ハ支那ニ於ケル治外法權(租界及團匪議定書ニ基ク權利ヲ含ム)ヲ抛棄シ他國ニモ同樣ノ措置ヲ慫慂スヘシ

六、兩國政府ハ互惠的最惠國待遇及通商障壁低減ノ主義ニ基ク通商條約締結ヲ商議スヘシ(生糸ハ自由品目ニ据置ク)

七、兩國政府ハ相互ニ資產凍結令ヲ廢止ス

八、圓弗爲替安定ニ付協定シ兩國夫々半額宛資金ヲ供給ス

九、兩國政府ハ第三國ト締結シ居ル如何ナル協定モ本協定ノ根本目的卽チ太平洋全地域ノ平和確保ニ矛盾スルカ如ク解釋セラレサルコトニ付同意ス

一〇、以上諸原則ヲ他國ニモ慫慂スルコト

等ノ各項ヲ包含セル案ヲ爾今交涉ノ基礎トシテ提案致シマシタ、右ニ付兩大使ハ其ノ不當ナルヲ指摘シ、强硬ナル應酬ヲナシマシタカ「ハル」長官ハ讓步ノ色ヲ示サナカツタ由テアリマス。越エテ二十七日兩大使カ更ニ大統領ト會見セル際ニハ大統領ハ今猶日米交涉ノ妥結ヲ希望スト述ヘ乍ラモ去ル七月本交涉進行中日本軍ノ南部佛印進駐ヲ見タル爲メ冷水ヲ浴セラレタルカ、最近ノ情報ニ依レハ復々冷水ヲ浴セラルル懸念アルヤニ考ヘラルト云ヒ、暫定的方法ニ依リ局面打開ヲ計ルモ兩國ノ根本主義方針カ一致セサレハ一時的解決モ結局無效ト思フ旨ヲ述ヘタ趣テアリマス

然ルニ右米側提案中ニハ通商問題(第六、七、八各項)乃至支那治外法權撤廢(第五項)等我方トシテ容認シ得ヘキ項目モ若干含マレテ居リマスカ、支那佛印關係事項(第二、三項)國民政府否認(第四項)三國條約否認(第九項)及多邊的不可侵條約(第一項)等ハ何レモ帝國トシテ到底同意シ得サルモノニ屬シ、本提案ハ米側從來ノ諸提案ニ比シ著シキ退步ニシテ且半歳ヲ越エル交涉經緯ヲ全然無視セル不當ナルモノト認メサルヲ得ヌノテアリマス要之米國政府ハ終始其ノ傳統的理念及原則ヲ固執シ東亞ノ現實ヲ沒却シ而モ自ラハ容易ニ實行セサル諸原則ヲ帝國ニ强要セムトスルモノニシテ、我國カ々幾多ノ讓步ヲ爲セルニ拘ラス七ケ月餘ニ亙ル今次交涉ヲ通シ當初ノ主張ヲ固持シテ一步モ讓ラナカツタノテアリマス

惟フニ米國ノ對日政策ハ終始一貫シテ我不動ノ國是タル東亞新秩序建設ヲ妨碍セントスルニ在リ、今次米側回答ハ假ニ之ヲ受諾センカ帝國ノ國際的地位ハ滿洲事變以前ヨリモ更ニ低下シ、其ノ存立モ亦危殆ニ陷ラサルヲ得ヌモノト認メラレルノテアリマス。卽チ

一、蔣介石治下ノ中國ハ愈々英米依存ノ傾向ヲ增大シ帝國ハ國民政府ニ對スル信義ヲ失シ日支友誼亦將來永ク毀損セラレ延テハ大陸ヨリ全面的ニ退却ヲ餘儀ナクセラレ其ノ結果滿洲國ノ地位モ必然動搖ヲ來スニ至ルヘク斯クノ如クニシテ我支那事變完遂ノ方途ハ根底ヨリ覆沒セラルヘク

二、英米ハ此等地域ノ指導者トシテ君臨スルニ至リ帝國ノ權威地ニ墜チテ安定勢力タル地位ヲ覆滅シ東亞新秩序建設ニ關スル我大業ハ中途ニシテ瓦解スルニ至ルヘク

三、三國條約ハ一片ノ死文トナリテ帝國ハ信ヲ海外ニ失墜シ

四、新タニ蘇聯ヲモ加ヘ集團機構的組織ヲ以テ帝國ヲ控制セントスルハ我北邊ノ憂患ヲ增大セシムルコトトナルヘク

五、通商無差別其他ノ諸原則ノ如キハ其ノ謂フ所必スシモ排除スヘキニ非スト雖モ之ヲ先ツ太平洋地域ニノミ適用セントスル企圖ハ結局英米ノ利己的政策遂行ノ方途ニ過キスシテ我方ニ於テハ重要物資ノ獲得ニ大ナル支障ヲ來スニ至ルヘク

要スルニ右提案ハ到底我方ニ於テハ容認シ難キモノテ米側ニ於テ其ノ提案ヲ全然撤去スルニ於テハ格別右提案ヲ基礎トシテ此ノ上交涉ヲ持續スルモ我カ主張ヲ充分ニ貫徹スルコトハ殆ト不可能ト云フノ外ナシト申サナケレハナリマセヌ

    「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

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gozenkaigi002

 今日は、昭和時代前期の1944年(昭和18)に、小磯国昭内閣の下で、昭和天皇臨席の第12回御前会議(御前に於ける最高戦争指導会議)において、「世界情勢判断及戦争指導大綱(第3回戦争指導大綱)」が決定された日です。
 「世界情勢判断及戦争指導大綱(せかいじょうせいはんだんおよびせんそうしどうたいこう)」は、太平洋戦争下において、昨年9月30日の第11回御前会議で決定した『今後採るべき戦争指導の大綱』の「絶対国防圏」の一画であるマリアナ諸島が1944年(昭和18)7月に陥落し、日本周辺地域へのアメリカ軍の進攻作戦が切迫化したことに対処するためのものでした。欧州において、ドイツは期待していたよりも戦争指導上困難の度を加えつつあるとしつつ、欧州情勢に拘らず、それまでの戦争指導大綱を変更し、重大時局を克服突破する戦争完遂を決定すると同時に政治決着も考慮するとします。
 これに基づいて、「捷号作戦」が進められ、フィリピン、台湾、南西諸島、本土、千島の防衛を強化し、そのいずれかの地域にアメリカ軍が来攻した場合、陸海空の戦力を随時結集して決戦を行おうとするものであり、捷一号作戦(フィリピン方面決戦)、捷二号作戦(台湾、南西諸島方面決戦)、捷三号作戦(北海道を除く本土決戦)、捷四号作戦(千島、樺太、北海道方面決戦)が計画されました。この会議の出席者は、昭和天皇と侍従武官長他、構成員(小磯首相、米内海相、重光外相、杉山陸相、及川軍令部総長、梅津参謀総長)、列席者(参謀次長、軍令部次長)、幹事(内閣書記官長、海軍省軍務局長、陸軍省軍務局長)となっています。
 以下に、「世界情勢判断及戦争指導大綱」の全文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「世界情勢判断及戦争指導大綱」 1944年(昭和19)8月19日第12回御前会議決定

 昭和十九年八月十九日御前ニ於ケル最高戰爭指導會議決定

世界情勢判斷

帝國ハ、昭和十八年九月決定ノ「今後採ルヘキ戰爭指導大綱」ニ基キ、米英必死ノ反攻ニ對シ戰爭目的ノ完遂ニ邁進シツツアリタルモ、其ノ後ニ於ケル世界情勢ノ推移ニ鑑ミ、茲ニ當時ノ世界情勢判斷ニ所要ノ修正ヲ加ヘ昭和十九年末頃ヲ目途トスル情勢ノ推移ヲ觀察シ、戰爭指導ノ方策確立ニ資セントス

  第一節 東亞ノ情勢

敵ハ、帝國ニ對シ短期終戰ヲ目途トシ各方面相策應シツツ組織的總攻勢ヲ續行スヘク、特ニ本土空襲及ヒ本土ト南方地域トノ分斷ヲ目的トシ太平洋及ヒ大陸方面ヨリスル攻勢作戰ニ依リ戰局ノ急速ナル進展ヲ企圖スヘシ、又右戰局ニ伴ヒ本土上陸ノ機ヲモ窺フコトアルヘシ
尙敵ハ、其ノ武力攻勢ニ策應シ政謀略ヲ益々激化シテ我カ戰意ノ喪失ヲ企圖スルト共ニ大東亞諸國家諸民族ノ對日離間ヲ激化スヘシ

一、本土空襲

帝國本土ノ生產設備、交通施設及ヒ主要都市ノ徹底破壤ヲ以テ我カ戰意ノ喪失、國力ノ低下、國民生活ノ混亂ヲ企圖シ併セテ本土上陸作戰ノ機ヲ作爲セントスル敵ノ空襲企圖ハ、支那及ヒ太平洋基地ノ整備ト機動部隊ノ活動トニ依リ槪ネ八月以降逐次連續執拗且ツ大規模ニ實施セラレ、其ノ空襲被害ノ帝國戰爭遂行力ニ及ホス影響ハ輕視ヲ許ササルモノアルヘシ

二、海上交通破壞

今後敵ノ我カ海上交通破壞作戰ハ、在支航空部隊ノ活動ト相俟ツテ南西諸島、比島方面ニ對スル潜水艦ノ集結使用、機動部隊ノ挺進行動等ニヨリ益々活潑化シ船舶ノ被害ハ增加スヘキモ、比島及ヒ南西諸島方面ニ對スル敵航空基地獲得ノ企圖達成セラレサル限リ本土ト南方地域トノ海上交通ハ槪ネ維持シ得ヘシ

三、太平洋方面

中部太平洋方面ノ敵ハ、隨時我カ艦隊トノ決戰ヲ企圖シツツ、マリアナ及ヒ西部カロリンノ要衝ニ海空ノ基地ヲ推進シ南太平洋方面ヨリノ進攻ニ策應シ、比島及ヒ南西諸島方面ヲ攻略シ帝國本土ト南方地域トノ交通遮斷ヲ企圖スルナラン、右來攻ハ、槪ネ十月頃迄ニ實現スルノ算大ナリ
此ノ間小笠原方面及ヒ千島ノ要地攻略ヲモ企圖スヘシ

四、緬甸及ヒ印度洋方面

北緬並ニイムパール方面ニ對シテハ、雨期中ト雖モ依然壓力ヲ加重スヘク特ニ印支ルート啓開ニハ全力ヲ集中スヘシ、又太平洋方面ノ攻勢ト策應シ有力ナル機動部隊ヲ以テスルアンダマン、ニコバル等ニ對スル上陸作戰トスマトラ油田地帶ニ對スル空襲ハ其ノ實現性大ナリ

五、支那方面

重慶ハ、極力抗戰ニ努メ特ニ南支那方面航空基地ノ維持ヲ圖リツツ我カ奥地進攻ヲ阻止スルト共ニ、印支地上ルートノ啓開作戰ヲ執拗ニ繼續シ爾後戰力ノ恢復增强ニ伴ヒ反攻ヲ實施スヘシ又米、支空軍ノ增勢ハ依然繼續スヘク、本土及ヒ鮮滿北支等ノ要域ニ對スル空襲並ニ海上交通ノ破壞企圖ハ愈々增大スヘシ
尙在ソ及ヒ外蒙ヲ通スル援蔣ルートノ啓開ニ關シテハ、ソノ今後ノ動向トモ關連シ警戒ヲ要スヘシ

六、大東亞諸邦ノ動向

大東亞諸邦ハ、滿洲ヲ除キ現情勢ニ於テ旣ニ其ノ對日協力的態度消極化ノ兆アリテ、今後東亞並ニ歐洲ニ於ケル樞軸側戰局ノ推移ト敵側政謀略ノ激化ト相俟ツテ政府及ヒ民衆ノ動搖、治安ノ惡化等ハ漸次增大スヘシ、就中支那ニ於ケル我カ占據地域民衆ノ對日非協力化、比島民衆ノ離日敵性化、泰國內ノ動搖等ヲ逐次招來スルノ虞大ナリ
印度假政府ノ對日動向ニハ變化ナカルヘキモ、印度ニ於ケル英印相剋ノ度ハ戰局ノ推移ニ應シ上下スヘシ

  第二節 歐洲ノ情勢

歐洲戰局ハ、米英軍ノ北佛上陸及ヒソ軍ノ夏季攻勢開始ニ伴ヒ漸ク本格的決戰段階ニ突入シ其ノ大勢ハ一般ニ獨側ニ不利トナリツツアリテ今後獨側ニシテ政戰局ノ轉機ヲ有利ニ把握セサル限リ其ノ戰爭指導ハ愈々困難ノ度ヲ加フルニ至ルヘシ

一、 獨ソ戰線

 獨ソ戰線ニ於テハ、ソハ今後主トシテ政略的見地ニ基キ自主的作戰ヲ指導スル算大ナルモ本年後期ニ於テハ失地ノ大部ヲ恢復スルノミナラス、更ニ西部波蘭並ニ東プロシヤ及ヒ洪牙利ノ一部ニ侵入スルト共ニ羅馬尼及ヒ芬蘭ノ大部ヲモ掌握スルノ事態ヲ見ルコトナシトセサルヘシ

二、西歐第二戰線

 西歐第二戰線方面作戰ノ成否ハ、獨ノ運命ニ最モ重大ナル影響ヲ及ホスヘク、獨ニシテ今後好機ニ投シタル反擊ヲ實施スルカ或ハ米英軍ノ補給ヲ充分ニ遮斷シ得ル場合ニ於テハ戰勢ノ挽回可能ナルヘキモ然ラサル場合ニ於テハ米英戰線ハ逐次內陸ニ擴大スルニ至ルヘシ

三、獨ノ傘下諸邦並ニ中立國ノ動向

 今後ニ於ケル獨ノ軍事的情勢ハ樂觀ヲ許ササルモノアリ、特ニ第二戰線方面ニ於テ斷乎タル決勝的攻勢ヲ採リ作戰ニ成功ヲ收メサル限リ東部戰線ニ於ケル相次ク後退ト相俟ツテ、獨ノ傘下諸邦並ニ中立國等ハ漸次反樞軸側ノ策謀ニ屈服スルノ事態ヲ見ルコトナシトセサルヘシ

  第三節 ソノ對日動向

東亞及ヒ歐洲ノ情勢樞軸側ニ不利ニ進展スル場合、「ソ」カ依然從來ノ如キ對日中立態度ヲ堅持スヘキヤ否ヤハ疑問トスル所ナルモ、特別ノ事態發生セサル限リ自ラ求メテ對日參戰ハ勿論對米軍事基地供與ノ擧ニ出ツルコトナカルヘシ

  第四節 世界政局ノ動向

交戰各國ハ死鬪ヲ續ケツツアルモ今ヤ內在スル窮狀漸ク表面ニ露呈セントシ、茲ニ彼我戰勢ノ均衡破綻及ヒ豫想スヘカラサル異變等ヲ生センカ直チニ政局轉機ノ動因ヲ包藏シアルノ狀顯著ナリ
從テ今後ノ狀勢推移ニ依リテハ、歐洲ニ於獨ソ又ハ獨英米和平問題ノ發生及ヒ中立諸國ノ背反又ハ獨傘下諸邦ノ脫落ヲ見ルコトナシトセサルヘク嚴ニ警戒ヲ要スヘシ
又重慶ハ、戰局ノ推移、米英ソノ動向及ヒ日本ノ態度如何ニヨリテハ、將來政局轉換ヲ考慮スルノ可能性ナシトセス

  第五節 綜合判斷

今ヤ敵ハ、戰爭ノ主動性ヲ把握シアルノ現狀ニ乘シ全力ヲ傾倒シテ政戰兩略ニ亘ル眞面目ナル決戰攻勢ヲ續行强化セントシ、今夏秋ノ候ヨリ戰政局ノ推移ハ愈々重大化スヘク、之ニ對シ帝國ハ歐洲情勢ノ推移如何ニ拘ラス決戰的努力ヲ傾倒シテ敵ヲ破摧シ、政略施策ト相俟ツテ飽ク迄モ戰爭完遂ニ邁進セサルヘカラス

今後採ルヘキ戰爭指導ノ大綱

  方針

一、帝國ハ、現有戰力及ヒ本年末頃迄ニ戰力化シ得ル國力ヲ徹底的ニ結集シテ敵ヲ擊破シ、以テ其ノ繼戰企圖ヲ破摧ス
二、帝國ハ、前項企圖ノ成否及ヒ國際情勢ノ如何ニ拘ラス、一億鐵石ノ團結ノ下必勝ヲ確信シ皇土ヲ護持シテ飽ク迄戰爭ノ完遂ヲ期ス
三、帝國ハ、徹底セル對外施策ニ依リテ世界戰政局ノ好轉ヲ期ス

  要領

一、本年後期國軍戰力ヲ最高度ニ發揮シテ決戰ヲ指導シ敵ノ企圖ヲ擊摧ス
 之カ爲槪ネ左記ニ據リ作戰ヲ遂行ス
 イ 太平洋方面ニ於テハ、來攻スル米軍主力ヲ擊滅ス
 ロ 南方重要地域ヲ確保シ且ツ萬難ヲ排シテ圏内海上交通ノ保全ヲ期ス
 ハ 印度洋方面ニ於テハ、槪ネ現態勢ヲ保持ス
 ニ 支那ニ於テハ、極力敵ノ本土空襲企圖ヲ封殺スルト共ニ海上交通ノ妨害ヲ制扼ス

二、速カニ左ノ施策ヲ斷行ス
 イ 國體護持ノ精神ヲ徹底セシメ、敵愾心ヲ激成シ鬪魂ヲ振起シテ飽ク迄鬪フ如ク國內ヲ指導ス
 ロ 統帥ト國務トノ連擊ヲ愈々緊密ニス
  之カ爲最高戰爭指導會議ノ運營ヲ愈々活潑ニス
 ハ 決戰戰力特ニ航空戰力ノ急速增强ヲ期ス
  之カ爲各般ニ亘リ生產隘路ヲ强力ニ打開ス
 ニ 國內防衞態勢ヲ急速ニ確立ス
  之カ爲特ニ重要ナル生產機關ノ防空施設ヲ促進ス
 ホ 極力日滿支ヲ通スル地域及ヒ南方地域ノ自活自戰態勢ヲ促進ス
  之カ爲先ツ日、滿、支ノ開發ヲ重視ス

三、世界各國ノ動向ヲ注視シツツ、作戰ニ呼應シ左ノ對外施策ニ依リ世界政局ノ變轉ニ對處ス
 イ 「ソ」ニ對シテハ、中立關係ヲ維持シ更ニ國交ノ好轉ヲ圖ル尙速カニ獨ソ間ノ和平實現ニ努ム
 ロ 重慶ニ對シテハ、速カニ統制アル政治工作ヲ發動シ支那問題ノ解決ヲ圖ル
  之カ爲極力「ソ」ノ利用ニ努ム
 ハ 獨ニ對シテハ、緊密ナル連絡ノ下ニ共同戰爭完遂ニ邁進セシムル爲凡有手段ヲ講ス
  但シ日ソ戰ヲ惹起スルコトナシ
  萬一獨カ崩壞若クハ單獨和平ヲ爲ス場合ニ於テハ機ヲ失セス「ソ」ヲ利用シテ情勢ノ好轉ニ努ム
 ニ 大東亞ノ諸國家諸民族ニ對シテハ、其ノ民心ヲ把握シ帝國ニ對スル戰爭協力ヲ確保增進スル如ク强力ニ指導ス
  比島ニ對シテハ、比島大統領ノ希望ヲ容レ適時米英ニ對シ參戰セシム
  將來東印度ヲ獨立セシムルコトヲ成ルヘク速カニ宣明ス
 ホ 對敵宣傳謀略ハ、一貫セル方針ノ下ニ組織的且ツ不斷執拗ニ之ヲ行ヒ、其ノ重點ヲ我カ戰爭目的ノ闡明並ニ米英ノ戰意喪失、米英ソ支ノ離間ニ指向スルト共ニ敵側ノ政謀略攻勢ニ對シテハ機ヲ失セス之ヲ破摧ス

     「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1680年(延宝8)第108代の天皇とされる後水尾天皇の命日(新暦9月11日)詳細
1881年(明治14)文部省によって「師範学校教則大綱」が制定される詳細
1946年(昭和21)全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成される詳細
1969年(昭和44)小説家中山義秀(なかやま ぎしゅう)の命日詳細 
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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、 第33回大本営政府連絡会議において、「南方施策促進に関する件」が決定され、同日上奏裁可された日です。
 「南方施策促進に関する件(なんぽうしさくそくしんにかんするけん)」は、第33回大本営政府連絡会議において、南部仏領インドシナへ(南部仏印)への進駐を決定したもので、同日に昭和天皇に上奏し裁可されました。しかし、松岡外相は、3日前の6月22日に勃発した独ソ戦の緒戦の状況が伝えられるに及び、ソビエト連邦への攻撃を主張、南部仏印進駐の延期を求めて陸海軍首脳と対立するようになります。
 松岡外相は、「節操ナキ発言言語道断ナリ」、「国策ノ決定実行ニ大ナル支障ヲ与フルコト少カラズ」(『機密戦争日誌』)というように軍部首脳から激しく批判され、結局、6月30日に原案通り南部仏印進駐を行うことが決定されました。そして、7月2日の昭和天皇臨席の第5回御前会議において、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定され、海軍が主張する南方進出と、陸軍が主張する対ソ戦の準備という二正面での作戦展開を目指すものとなります。
 この決定を受け、対ソ戦の準備としては、7月7日に「関東軍特種演習」を発動して演習名目で兵力を動員し、また、南方進出では、7月28日の南部仏印進駐が実行されました。ところが、これによりアメリカの経済制裁を受け、石油の対日輸出が全面禁止されるなど困難な状況に追い込まれ、12月8日の太平洋戦争開戦へと至ることとなります。
 以下に、第33回大本営政府連絡会議の「南方施策促進に関する件」と第5回御前会議の「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「南方施策促進に関する件」1941年(昭和16)6月25日

南方施策促進ニ關スル件

昭和十六年六月二十五日

大本營政府連絡會議決定

一、帝國ハ現下諸般ノ情勢ニ鑑ミ旣定方針ニ準據シテ對佛印泰施策ヲ促進ス特ニ蘭印派遣代表ノ歸朝ニ關聯シ速ニ佛印ニ對シ東亞安定防衛ヲ目的トスル日佛印軍事的結合關係ヲ設定ス

佛印トノ軍事的結合關係設定ニ依リ帝國ノ把握スヘキ要件左ノ如シ

(イ) 佛印特定地域ニ於ケル航空基地及港灣施設ノ設定又ハ使用竝ニ南部佛印ニ於ケル所要軍隊ノ駐屯

(ロ) 帝國軍隊ノ駐屯ニ關スル便宜供與

二、前號ノ爲外交交涉ヲ開始ス

三、佛國政府又ハ佛印當局者ニシテ我カ要求ニ應セサル場合ニハ武力ヲ以テ我カ目的ヲ貫徹ス

四、前號ノ場合ニ處スル爲豫メ軍隊派遣準備ニ着手ス

  「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より

〇「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」 1941年(昭和16)7月2日御前会議決定

  第一 方針

一、帝國ハ世界情勢變轉ノ如何ニ拘ラス大東亞共榮圏ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與セントスル方針ヲ堅持ス

二、帝國ハ依然支那事變處理ニ邁進シ且自存自衛ノ基礎ヲ確立スル爲南方進出ノ步ヲ進メ又情勢ノ推移ニ應シ北方問題ヲ解決ス

三、帝國ハ右目的達成ノ爲如何ナル障害ヲモ之ヲ排除ス

  第二 要領

一、蔣政權屈服促進ノ爲更ニ南方諸域ヨリ壓力ヲ强化ス情勢ノ推移ニ應シ適時重慶政權ニ對スル交戰權ヲ行使シ且支那ニ於ケル敵性租界ヲ接收ス

二、帝國ハ其ノ自存自衛上南方要域ニ對スル必要ナル外交交涉ヲ續行シ其ノ他各般ノ施策ヲ促進ス

 之カ爲メ對英米戰準備ヲ整へ先ツ「對佛印泰施策要綱」及「南方施策促進ニ關スル件」ニ據リ佛印及泰ニ對スル諸方策ヲ完遂シ以テ南方進出ノ態勢ヲ强化ス

 帝國ハ本號目的達成ノ爲メ對英米戰ヲ辭セス

三、獨「ソ」戰ニ對シテハ三國樞軸ノ精神ヲ基調トスルモ暫ク之ニ介入スルコトナク密カニ對「ソ」武力的準備ヲ整ヘ自主的ニ對處ス此ノ間固ヨリ周密ナル用意ヲ以テ外交交涉ヲ行フ

 獨「ソ」戰爭ノ推移帝國ノ爲メ有利ニ進展セハ武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北邊ノ安定ヲ確保ス

四、前號遂行ニ當リ各種ノ施策就中武力行使ノ決定ニ際シテハ對英米戰爭ノ基本態勢ノ保持ニ大ナル支障ナカラシム

五、米國ノ參戰ハ旣定方針ニ從ヒ外交手段其他有ユル方法ニ依リ極力之ヲ防止スヘキモ萬一米國カ參戰シタル場合ニハ帝國ハ三國條約ニ基キ行動ス但シ武力行使ノ時機及方法ハ自主的ニ之ヲ定ム

六、速カニ國內戰時體制ノ徹底的强化ニ移行ス特ニ國土防衛ノ强化ニ勉ム

七、具體的措置ニ關シテハ別ニ之ヲ定ム

  「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1943年(昭和18)学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定される詳細
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