
御前会議(ごぜんかいぎ)は、「大日本帝国憲法」下の日本において、天皇臨席の下に行われた元老、主要閣僚、軍部首脳の合同で実施された最高会議です。広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、大本営会議なども含まれますが、狭義には、対外戦争等に際して、天皇臨席の下に開かれる会議を指しました。
明治時代の1894年(明治27)6月22日に、第2次伊藤博文内閣の下で、対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初とされ、以後、日清講和、三国千渉、対露開戦、日露講和等で開催されます。しかし、それ以後大正時代には開かれず、昭和時代になり、日中戦争に関わって、第1次近衛文麿内閣の下で、1938年(昭和13年)1月11日に復活し、「支那事変処理根本方針」が決定されました。
以後、1年に数回のペースで計15回開催され、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争の開戦、ポツダム宣言の受諾などの重要方針を決定しています。太平洋戦争後は、開催されませんでした。
明治時代の1894年(明治27)6月22日に、第2次伊藤博文内閣の下で、対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初とされ、以後、日清講和、三国千渉、対露開戦、日露講和等で開催されます。しかし、それ以後大正時代には開かれず、昭和時代になり、日中戦争に関わって、第1次近衛文麿内閣の下で、1938年(昭和13年)1月11日に復活し、「支那事変処理根本方針」が決定されました。
以後、1年に数回のペースで計15回開催され、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争の開戦、ポツダム宣言の受諾などの重要方針を決定しています。太平洋戦争後は、開催されませんでした。
〇昭和天皇隣席の御前会議一覧
第1回 1938年(昭和13)1月11日 第1次近衛文麿内閣「支那事変処理根本方針」
第2回 1938年(昭和13)11月30日 第1次近衛文麿内閣「日支新関係調整方針」
第3回 1940年(昭和15)9月19日 第2次近衛文麿内閣「日独伊三国同盟条約」
第4回 1940年(昭和15)11月13日 第2次近衛文麿内閣「支那事変処理要綱」に関する件他
第5回 1941年(昭和16)7月2日 第2次近衛文麿内閣「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」
第6回 1941年(昭和16)9月6日 第3次近衛文麿内閣「帝国国策遂行要領」
第7回 1941年(昭和16)11月5日 東條英機内閣「帝国国策遂行要領」
第8回 1941年(昭和16)12月1日 東條英機内閣「対英米蘭開戦の件」
第9回 1942年(昭和17)12月21日 東條英機内閣「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」
第10回 1943年(昭和18)5月31日 東條英機内閣「大東亜政略指導大綱」
第11回 1943年(昭和18)9月30日 東條英機内閣「今後採るべき戦争指導の大綱」他
第12回 1944年(昭和19)8月19日 小磯国昭内閣「世界情勢判断及戦争指導大綱」
第13回 1945年(昭和20)6月8日 鈴木貫太郎内閣「今後採るべき戦争指導の基本大綱」
第14回 1945年(昭和20)8月10日 鈴木貫太郎内閣「ポツダム宣言」受諾の可否について
第15回 1945年(昭和20)8月14日 鈴木貫太郎内閣「ポツダム宣言」受諾
尚、上記以外に下記の2つの会議を含める場合があります。
・御前ニ於ケル大本営政府連絡会議(1942年12月10日)「当面ノ戦争指導上作戦ト物的国力トノ調整並国力ノ維持増進ニ関スル件」
・御前ニ於ケル最高戦争指導会議構成員会議(1945年6月22日)「時局収拾策・ソ連を仲介とした対米英和平」
☆「日独伊三国同盟条約」(にちどくいさんごくどうめいじょうやく)
昭和時代前期の1940年(昭和15)9月27日に、ドイツのベルリンで調印された、日本、ドイツ、イタリア三国の軍事同盟条約です。1937年(昭和12)に結ばれた「日独伊防共協定」を強化しようとする目的で、第一次近衛文麿内閣の末期に交渉が開始され、第二次世界大戦初頭のドイツ優勢の状況下で発展、成立したもので、その条約の正式名称は「日本國、獨逸國及伊太利國閒三國條約」でした。
その内容は、ヨーロッパおよびアジアにおける「新秩序建設」に関し、ドイツ、イタリアおよび日本は、その「指導的地位」を認め合うこと、また日中戦争およびヨーロッパ戦争に参加していない第三国の攻撃に対してあらゆる「政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキコト」を誓約するものです。これによって、ヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアのファシズム国家と結ぶことになり、アメリカ・イギリスを強く刺激し、太平洋戦争へ突入していく要因の一つとなりました。
その内容は、ヨーロッパおよびアジアにおける「新秩序建設」に関し、ドイツ、イタリアおよび日本は、その「指導的地位」を認め合うこと、また日中戦争およびヨーロッパ戦争に参加していない第三国の攻撃に対してあらゆる「政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキコト」を誓約するものです。これによって、ヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアのファシズム国家と結ぶことになり、アメリカ・イギリスを強く刺激し、太平洋戦争へ突入していく要因の一つとなりました。
☆「日本国、独逸国及伊太利国閒三国条約」 (全文) 1940年(昭和15)9月27日調印
大日本帝国政府、独逸国政府及伊太利国政府ハ万邦ヲシテ各其ノ所ヲ得シムルヲ以テ恒久平和ノ先決要件ナリト認メタルニ依リ大東亜及欧洲ノ地域ニ於テ各其ノ地域ニ於ケル当該民族ノ共存共栄ノ実ヲ挙ケルニ足ルヘキ新秩序ヲ建設シ且之ヲ維持センコトヲ根本義ト為シ右地域ニ於テ此ノ趣旨ニ拠ル努力ニ付相互ニ提携シ且協力スルコトニ決意セリ而シテ三国政府ハ更ニ世界到ル所ニ於テ同様ノ努力ヲ為サントスル諸国ニ対シ協力ヲ吝(おし)マサルモノニシテ斯クシテ世界平和ニ対スル三国終局ノ抱負ヲ実現センコトヲ欲ス依テ日本国政府独逸国政府及伊太利国政府ハ左ノ通協定セリ
第一条 日本国ハ独逸国及伊太利国ノ欧洲ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス
第二条 独逸国及伊太利国ハ日本国ノ大東亜ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス
第三条 日本国、独逸国及伊太利国ハ前記ノ方針ニ基ク努力ニ付相互ニ協力スヘキコトヲ約ス更ニ三締約国中何レカノ一国カ現ニ欧洲戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一国ニ依テ攻撃セラレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキコトヲ約ス
第四条 本条約実施ノ為各日本国政府、独逸国政府及伊太利国政府ニ依リ任命セラルヘキ委員ヨリ成ル混合専門委員会ハ遅滞ナク開催セラルヘキモノトス
第五条 日本国、独逸国及伊太利国ハ前記諸条項カ三締約国ノ各ト「ソヴィエト」連邦トノ間ニ現存スル政治的状態ニ何等ノ影響ヲモ及ホササルモノナルコトヲ確認ス
第六条 本条約ハ署名ト同時ニ実施セラルヘク、実施ノ日ヨリ十年間有効トス右期間満了前適当ナル時期ニ於テ締約国中ノ一国ノ要求ニ基キ締約国ハ本条約ノ更新ニ関シ協議スヘシ
右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本条約ニ署名調印セリ
昭和十五年九月二十七日即チ一九四〇年、「ファシスト」暦十八年九月二十七日伯林(ベルリン)ニ於テ本書三通ヲ作成ス
「日本外交年表竝主要文書」より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1324年(元亨4) | 後醍醐天皇方が鎌倉幕府討伐を企てた正中の変が起きる(新暦10月7日) | 詳細 |
| 1870年(明治3) | 「平民苗字許可令」により平民も苗字を名乗ることが許される(新暦10月13日) | 詳細 |
| 1939年(昭和14) | 物価・家賃・賃金等を前日の水準で停止させる「価格等統制令」等(9・18停止令)が閣議決定される | 詳細 |
| 1941年(昭和16) | 内閣情報局より映画制作会社を松竹・東宝・大映の三社に統合する方針が示され、大映発足の契機となるる | 詳細 |
| 1945年(昭和20) | GHQが「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」(SCAPIN-33)を出し言論統制検閲が始まる | 詳細 |
| 1949年(昭和24) | 一般職の国家公務員の政治活動を制限する「人事院規則14-7(政治的行為)」が公布・施行される | 詳細 |
| 1955年(昭和30) | 原水爆禁止日本協議会(原水協)が結成される | 詳細 |
| 1959年(昭和34) | 国立青年の家第1号となる「国立中央青年の家」(静岡県御殿場市)が設置される | 詳細 |
| 1978年(昭和53) | 埼玉古墳群の稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘を解読したと発表される | 詳細 |

