ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:映画監督

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 今日は、昭和時代中期の1963年(昭和38)に、映画監督・脚本家小津安二郎の亡くなった日(誕生日でもある)です。
 小津安二郎(おづ やすじろう)は、明治時代後期の1903年(明治36)12月12日に、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれました。1910年(明治43)に深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学しましたが、子供は田舎で教育した方がよいという父の教育方針と環境悪化のため、1913年(大正2)に一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住します。
 1916年(大正5)に三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送り、映画に病みつきとなり、1921年(大正10)に卒業したものの、上級学校の受験に失敗し、翌年飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となりました。しかし、映画への思いは断ち切りがたく、1923年(大正12)には上京して、松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所します。
 その後、一年間の志願兵としての入営を経て、助監督に転じ、1927年(昭和2)には、監督第一作の時代劇「懺悔の刃」を発表しました。それからも、無声映画の「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「東京の合唱」(1931年)、「生まれてはみたけれど」(1932年)などを監督し、小市民の悲哀を描いた映画で評価されます。
 1936年(昭和11)に、初のトーキー「一人息子」を監督したものの、翌年に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊、1939年(昭和14)に召集解除となりました。1943年(昭和18)に軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在していましたが、1945年(昭和20)にシンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送り、翌年に日本へ帰還します。
 1947年(昭和22)に戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督、1949年(昭和24)に「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞、1949年(昭和24)に「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞、1953年(昭和28)には、自身の最高傑作とされる「東京物語」を発表し、高い評価を得ました。そして、1958年(昭和33)に紫綬褒章、1959年(昭和34)に日本芸術院賞、1961年(昭和36)に芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞、1962年(昭和37)に映画人として初めて芸術院会員となるなど数々の栄誉にも輝きます。
 さらに、1963年(昭和38)にブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞しましたが、同年12月12日に東京において、60歳で亡くなりました。

〇小津安二郎監督作品一覧

・「懺悔の刃」(1927年)
・「若人の夢」(1928年)
・「女房紛失」(1928年)
・「カボチャ」(1928年)
・「引越し夫婦」(1928年)
・「肉体美」(1928年)
・「宝の山」(1929年)
・「学生ロマンス」 若き日(1929年)
・「和製喧嘩友達」(1929年)
・「大学は出たけれど」(1929年)
・「会社員生活」(1929年)
・「突貫小僧」(1929年)
・「結婚学入門」(1930年)
・「朗らかに歩め」(1930年)
・「落第はしたけれど」(1930年)
・「その夜の妻」(1930年)
・「エロ神の怨霊」(1930年)
・「足に触った幸運」(1930年)
・「お嬢さん」(1930年)
・「淑女と髭」(1931年)
・「美人哀愁」(1931年)
・「東京の合唱(コーラス)」(1931年)
・「春は御婦人から」(1932年)
・「大人の見る絵本 生れてはみたけれど」(1932年)
・「青春の夢いまいづこ」(1932年)
・「また逢ふ日まで」(1932年)
・「東京の女」(1933年)
・「非常線の女」(1933年)
・「出来ごころ」(1933年)
・「母を恋はずや」(1934年)
・「浮草物語」(1934年)
・「箱入娘」(1935年)
・「菊五郎の鏡獅子」(1935年)
・「東京の宿」(1935年)
・「大学よいとこ」(1936年)
・「一人息子」(1936年)
・「淑女は何を忘れたか」(1937年)
・「戸田家の兄妹」(1941年)
・「父ありき」(1942年)
・「長屋紳士録」(1947年)
・「風の中の牝鶏(めんどり)」(1948年)
・「晩春」(1949年)
・「宗方姉妹」(1950年)
・「麦秋」(1951年)
・「お茶漬の味」(1952年)
・「東京物語」(1953年)
・「早春」(1956年)
・「東京暮色」(1957年)
・「彼岸花」(1958年)
・「お早よう」(1959年)
・「浮草」(1959年)
・「秋日和」(1960年)
・「小早川家の秋」(1961年)
・「秋刀魚の味」(1962年)

☆小津安二郎関係略年表

・1903年(明治36)12月12日 東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれる
・1910年(明治43) 深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学する
・1913年(大正2)3月 一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住する
・1916年(大正5) 三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送る
・1921年(大正10) 三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)を卒業する
・1922年(大正11) 三重県師範学校受験に失敗し、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となる
・1923年(大正12) 松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所する
・1924年(大正13)12月 東京青山の近衛歩兵第4連隊に一年志願兵として入営する
・1925年(大正14)11月 伍長で除隊となる
・1927年(昭和2) 時代劇「懴悔の刃」で監督デビューする
・1929年(昭和4) 「大学は出たけれど」を監督する
・1930年(昭和5) 「落第はしたけれど」を監督する
・1931年(昭和6) 「東京の合唱」を監督する
・1932年(昭和7) 「生まれてはみたけれど」を監督する
・1934年(昭和9)4月 父・寅之助が亡くなる
・1936年(昭和11) トーキー「一人息子」を監督する
・1937年(昭和12)9月10日 召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊する
・1939年(昭和14)7月16日 召集解除となる
・1943年(昭和18)6月 軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在する
・1945年(昭和20)8月 シンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送くる
・1946年(昭和21)2月 日本へ帰還する
・1947年(昭和22) 戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督する
・1949年(昭和24) 「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞を受賞する
・1949年(昭和24) 「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞する
・1953年(昭和28) 「東京物語」を監督する
・1958年(昭和33) 紫綬褒章を受章する
・1959年(昭和34)2月 日本芸術院賞を受賞する
・1961年(昭和36) 芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞を受賞する
・1962年(昭和37) 「秋刀魚の味」を監督する
・1962年(昭和37)11月 映画人として初めて芸術院会員となる
・1963年(昭和38) ブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞する
・1963年(昭和38)12月12日 東京において、60歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1984年(昭和59)に、映画監督森谷司郎が亡くなった日です。
 森谷司郎(もりたに しろう)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)9月28日に、東京市四谷区番衆町(現在の東京都新宿区新宿)において生まれましたが、父親の転勤により少年期は台湾で過ごしました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に台湾から父の郷里である岡山県浅口郡金光町に引き揚げ、1948年(昭和23)に旧制金光中学から 岡山県立岡山第一高等学校に転入します。
 学制改革等により、岡山県立岡山朝日高等学校に変わり、部活動では映画部・文学部・演劇部に属し、1951年(昭和26)に卒業後、早稲田大学第一文学部仏文科へ進みました。1953年(昭和28)に大学卒業後は、ジャーナリストを志望していたものの、1955年(昭和30)に東宝の助監督試験に合格し、入社します。
 成瀬巳喜男の「流れる」、「杏っ子」ほかについて映画作りを学び、のち、黒澤明の「悪い奴ほどよく眠る」から「赤ひげ」まで5作品連続でチーフ助監督を務めました。1966年(昭和41)に、加山雄三主演「ゼロ・ファイター 大空戦」で、監督デビューを飾り、続いて、「続・何処へ」(1967年)、「育ちざかり」(1967年)と青春映画を手がけます。
 1968年(昭和43)に、社会派の「首」で芸術選奨新人賞を受賞、「兄貴の恋人」(1968年)、「二人の恋人」(1969年)で内藤洋子や加山雄三主演の映画を公開しました。1970年(昭和45)に芥川賞原作による「赤頭巾ちゃん気をつけて」で興行・評価とも好成績を収め、東宝での地位を固めます。
 1973年(昭和48)に小松左京原作の「日本沈没」を監督し、日本映画史上初の配収20億円超えと、観客動員880万人という空前の記録を打ち立て、続く、1977年(昭和52)の「八甲田山」でキネマ旬報ベスト・テン第4位、年間配収約25億円の新記録を樹立、ブルーリボン賞スタッフ賞も受賞しました。それからも、「聖職の碑」(1978年)、「動乱」(1980年)、「漂流」(1981年)、「海峡」(1982年)といった大作をコンスタントに手掛け、日本の代表的映画監督としての歩みを確実に進めます。
 しかし、「小説吉田学校」(1983年)公開後、「宇宙からの帰還」の準備中に胃癌で倒れ、1984年(昭和59)12月2日に、53歳で亡くなりました。

〇森谷司郎監督の映画作品

・「ゼロ・ファイター 大空戦」(1966年)  東宝撮影所
・「続・何処へ」(1967年)
・「育ちざかり」(1967年)
・「首」(1968年)
・「兄貴の恋人」(1968年)
・「二人の恋人」(1969年)
・「弾痕」(1969年)
・「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1970年)
・「初めての旅」(1971年)
・「『されどわれらが日々』より 別れの詩」(1971年)
・「潮騒」(1971年)
・「蒼ざめた日曜日」(1972年)
・「初めての愛」(1972年)
・「放課後」(1972年)
・「日本沈没」(1972年)
・「八甲田山」(1977年)
・「聖職の碑」(1978年)
・「動乱」(1980年)
・「漂流」(1981年)
・「海峡」(1982年)
・「小説吉田学校」(1983年)

☆森谷司郎関係略年表

・1931年(昭和6)9月28日  東京市四谷区番衆町(現在の東京都新宿区新宿)において、生まれる
・1946年(昭和21) 台湾から岡山に引き揚げる
・1953年(昭和28) 早稲田大学第一文学部仏文科を卒業する
・1955年(昭和30) 東宝の助監督試験に合格し入社する
・1966年(昭和41) 加山雄三主演「ゼロ・ファイター 大空戦」で、監督デビューを飾る
・1967年(昭和42) 「続・何処へ」、「育ちざかり」という東宝青春映画を手掛ける
・1968年(昭和43) 「首」で芸術選奨新人賞を受賞する
・1970年(昭和45) 芥川賞原作による「赤頭巾ちゃん気をつけて」で興行・評価とも好成績を収め、東宝での地位を固める
・1973年(昭和48) 小松左京原作の「日本沈没」を監督し、日本映画史上初の配収20億円超えと、観客動員880万人という空前の記録を打ち立てる
・1977年(昭和52) 「八甲田山」でキネマ旬報ベスト・テン第4位、年間配収約25億円の新記録を樹立、ブルーリボン賞スタッフ賞を受賞する
・1978年(昭和53) 大作「聖職の碑」を公開する
・1980年(昭和55) 大作「動乱」を公開する
・1981年(昭和56) 大作「漂流」を公開する
・1982年(昭和57) 大作「海峡」を公開する
・1984年(昭和59)12月2日 53歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1834年(天保5)お雇い外国人であるフランス人技師F・L・ヴェルニーの誕生日詳細
1898年(明治31)挿絵画家・詩人蕗谷虹児の誕生日詳細
1949年(昭和24)国際連合総会で、「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が決議される詳細
2009年(平成21)日本画家・教育者平山郁夫の命日詳細



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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、映画監督・アニメーション演出家・プロデューサー・翻訳家高畑勲の生まれた日です。
 高畑勲(たかはた いさお)は、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)で、高畑浅次郎の子として生まれ、1938年(昭和13)に同県津市に転居、1942年(昭和17)には、三重県立師範学校男子部付属国民学校に入学しました。1943年(昭和18)に父・浅次郎が岡山一中校長となるに伴って岡山市へ転居、岡山県立師範学校男子部付属国民学校に転入、1945年(昭和20)に太平洋戦争下の岡山空襲に遭っています。
 戦後、岡山大学付属中学校を経て、1954年(昭和29)に岡山県立岡山朝日高等学校を卒業、東京大学教養学部文科二類に入学、文学部仏文科に進みましたが、同期に大江健三郎、海老坂武らがいました。1959年(昭和34)に東京大学卒業後、東映動画(現在の東映アニメーション)に演出助手として入社します。
 テレビアニメ『狼少年ケン』で演出デビューし、1968年(昭和43)に劇場用長編初演出の『太陽の王子・ホルスの大冒険』で評価されました。一方で、東映動画労働組合で副委員長に就き、組合運動を通じ宮崎駿と知り合い親交を深めます。
 1971年(昭和46)に宮崎駿、小田部羊一と共にAプロダクションへ移籍、1973年(昭和48)には、宮崎駿、小田部羊一と共にズイヨー映像(現在の日本アニメーション)へ移りました。1974年(昭和49)からテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』の全話を演出、1976年(昭和51)には、テレビアニメ『母を訪ねて三千里』の全話を演出します。
 1979年(昭和54)にテレビアニメ『赤毛のアン』を脚本・演出しましたが、1981年(昭和56)には、テレコム・アニメーションフィルムへ移籍しました。1982年(昭和57)に『セロ弾きのゴーシュ』(脚本・監督)を公開、1984年(昭和59)には、『風の谷のナウシカ』をプロデュースします。
 1985年(昭和60)にスタジオジブリを宮崎駿・鈴木敏夫らと共に設立、翌年には『天空の城ラピュタ』をプロデュースしました。その後、『柳川堀割物語』(1987年)、『火垂るの墓』(1988年)、『おもひでぽろぽろ』(1991年)、『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)を脚本・監督し、高い評価を得ます。
 それらの業績により、紫綬褒章(1998年)、ロカルノ国際映画祭名誉豹賞(2009年)、フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭名誉功労賞(2014年)、フランス芸術文化勲章オフィシエ、第43回ウィンザー・マッケイ賞(2015年)など数々の栄誉に輝きました。しかし、2017年(平成29)夏頃から体調を崩して入退院を繰り返し、翌年4月5日に、肺がんのため東京都内の病院において、82歳で亡くなっています。

〇高畑勲の主要な監督作品

・『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)タシケント国際映画祭監督賞
・『パンダコパンダ』(1972年)
・『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』(1973年)
・『アルプスの少女ハイジ』(1974年、1975年、1979年)
・『母をたずねて三千里』(1976年、1980年)
・『赤毛のアン』(1979年)厚生省児童福祉文化賞
・劇場版『じゃりン子チエ』(1981年)
・『セロ弾きのゴーシュ』(1982年)第36回毎日映画コンクール大藤信郎賞
・『柳川堀割物語』(1987年)第42回毎日映画コンクール教育文化映画賞
・『火垂るの墓』(1988年)日本カトリック映画大賞、文化庁優秀映画、国際児童青少年映画センター賞、シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞、シカゴ国際児童映画祭子供の権利部門第1位
モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリ
・『おもひでぽろぽろ』(1991年)1992年芸術選奨文部大臣賞
・『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)第49回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、1995年度アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門グランプリ
・『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)第3回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞
・『かぐや姫の物語』(2013年)第68回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、2015年 東京アニメアワード監督賞

☆高畑勲関係略年表

・1935年(昭和10)10月29日 三重県宇治山田市(現在の伊勢市)で、高畑浅次郎の子として生まれる
・1938年(昭和13) 三重県津市に転居する
・1942年(昭和17) 三重県立師範学校男子部付属国民学校に入学する
・1943年(昭和18) 父の転勤に伴い岡山県立師範学校男子部付属国民学校に転入する
・1954年(昭和29) 岡山県立岡山朝日高等学校を卒業、東京大学教養学部文科二類に入学する
・1956年(昭和31)4月 東京大学文学部仏文科に進むが、同期に大江健三郎、海老坂武らがいた
・1959年(昭和34)3月 東京大学を卒業する
・1959年(昭和34)4月 東映動画に演出助手として入社する
・1968年(昭和43) 劇場用長編初演出『太陽の王子・ホルスの大冒険』で評価をうける
・1971年(昭和46)6月10日 宮崎駿、小田部羊一と共にAプロダクションへ移籍する
・1973年(昭和48) 宮崎駿、小田部羊一と共にズイヨー映像(現・日本アニメーション)へ移籍する
・1974年(昭和49) テレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』全話を演出する
・1976年(昭和51) テレビアニメ『母を訪ねて三千里』全話を演出する
・1978年(昭和53) 宮崎駿の『未来少年コナン』に(絵コンテ・演出)参加する
・1979年(昭和54) テレビアニメ『赤毛のアン』を脚本・演出する
・1981年(昭和56) テレコム・アニメーションフィルムへ移籍する
・1982年(昭和57) 『セロ弾きのゴーシュ』(脚本・監督)を公開する
・1983年(昭和58) 『NEMO/ニモ』の準備作業をするが米国側と意見が合わず演出を降板する
・1984年(昭和59) 『風の谷のナウシカ』(プロデューサー)を公開する
・1985年(昭和60) スタジオジブリを宮崎駿・鈴木敏夫らと共に設立する
・1986年(昭和61) 『天空の城ラピュタ』(プロデューサー)を公開する
・1987年(昭和62) 『柳川堀割物語』(脚本・監督)を公開する
・1988年(昭和63) 『火垂るの墓』(脚本・監督)を公開する
・1989年(平成元) 『魔女の宅急便』(音楽演出)を公開する
・1991年(平成3) 『おもひでぽろぽろ』(脚本・監督)を公開する
・1994年(平成6) 『平成狸合戦ぽんぽこ』(原作・脚本・監督)を公開する
・1995年(平成7) 若手演出家養成のための第1期東小金井村塾を主催する
・1998年(平成10) 秋の紫綬褒章を受章する
・1999年(平成11) 『ホーホケキョ となりの山田くん』(脚本・監督)を公開する
・2009年(平成21) ロカルノ国際映画祭名誉豹(ひょう)賞を受賞する
・2012年(平成24) ドキュメンタリー映画『いわさきちひろ 〜27歳の旅立ち〜』(出演)を公開する
・2013年(平成25) 『かぐや姫の物語』(原案・脚本・監督)を公開する
・2014年(平成26) フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭で名誉功労賞を受賞する
・2015年(平成27) フランス芸術文化勲章オフィシエを受章、第43回ウィンザー・マッケイ賞を受賞する
・2017年(平成29)夏頃 体調を崩し入院する
・2018年(平成30)4月5日 肺がんのため東京都内の病院において、82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1779年(安永8)第118代の天皇とされる後桃園天皇の命日(新暦12月6日)詳細
1815年(文化12)江戸幕府大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の誕生日(新暦11月29日)詳細
1961年(昭和36)小説家・劇作家・評論家長与善郎の命日詳細
1976年(昭和51)酒田大火で、1,774棟が焼失する詳細


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 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、映画監督成瀬巳喜男の生まれた日です。
 成瀬巳喜男(なるせ みきお)は、東京都四谷区四谷坂町(現在の新宿区)で、縫箔職人の父・利三と母・きなの次男として生まれました。家が貧しく小学校を出ると中学へは進学できず、二年制の工手学校(現在の工学院大学)へ進みますが、文学好きで図書館に通って小説ばかり読んで過ごします。
 卒業後、1920年(大正9)に知人の紹介で松竹蒲田撮影所に小道具係として入社し、1922年(大正11)頃から池田義信の助監督に就きました。1930年(昭和5)に城戸四郎が赤穂春雄名義でシナリオを書いた短篇ナンセンス喜劇映画『チャンバラ夫婦』で監督デビューを果たします。
 1931年(昭和6)の『腰弁頑張れ』で認められ、翌年の『蝕める春』でキネマ旬報ベストテン第6位に選ばれ、期待の若手監督として注目されました。1933年(昭和8)に『君と別れて』、『夜ごとの夢』を発表し、両作ともキネマ旬報ベストテンに選ばれて高い評価を得たものの、監督としては不遇で、1934年(昭和9)に助監督の山本薩夫とともに、新たに映画製作に乗り出したPCL(現在の東宝)に移籍します。
 1935年(昭和10)に初トーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』を監督して佳作に仕上げ、続く『妻よ薔薇(ばら)のやうに』では、妻と妾と夫のそれぞれの人生模様を繊細な描写で示して成功に導き、ゆるぎなき地位を確立しました。1937年(昭和12)には、『女優と詩人』と『妻よ薔薇のやうに』が“Kimiko”という英題でニューヨークで封切られ、アメリカで興行上映された初の日本映画となります。
 その後も、『鶴八鶴次郎』(1938年)や『はたらく一家』(1939年)などで注目されましたが、太平洋戦争中から戦後すぐは不振が続きました。1951年(昭和26)に林芙美子原作、原節子と上原謙主演の『めし』が高い評価を受け、毎日映画コンクール監督賞を受賞して復活します。
 1952年(昭和27)に『おかあさん』、『稲妻』でブルーリボン賞監督賞を受賞、1955年(昭和30)に『浮雲』を発表し毎日映画コンクール監督賞、キネマ旬報賞監督賞を受賞、自身の最高傑作とされました。それからも、『流れる』(1956年)、『乱れる』(1964年)などで評価されたものの、1969年(昭和44)7月2日に、東京において、63歳で亡くなっています。

〇成瀬巳喜男映画監督作品一覧

・『チャンバラ夫婦』(1930年)
・『純情』(1930年)
・『押切新婚記』(1930年)
・『不景気時代』(1930年)
・『愛は力だ』(1930年)
・『ねえ興奮しちゃいやよ』(1931年)
・『二階の悲鳴』(1931年)
・『腰弁頑張れ』(1931年)
・『浮気は汽車に乗って』(1931年)
・『髭の力』(1931年)
・『隣の屋根の下』(1931年)
・『女は袂を御用心』(1932年)
・『青空に泣く』(1932年)
・『偉くなれ』(1932年)
・『蝕める春』(1932年)
・『チョコレート・ガール』(1932年)
・『生(な)さぬ仲』(1932年)
・『菓子のある東京風景』(1932年)
・『君と別れて』(1933年)
・『夜ごとの夢』(1933年)
・『僕の丸髷』(1933年)
・『双眸』(1933年)
・『謹賀新年』(1933年)
・『限りなき舗道』(1934年)
・『乙女ごゝろ三人姉妹(きょうだい)』(1935年)
・『女優と詩人』(1935年)
・『妻よ薔薇のやうに』(1935年)
・『サーカス五人組』(1935年)
・『噂の娘』(1935年)
・『桃中軒雲右衛門』(1936年)
・『君と行く路』(1936年)
・『朝(あした)の並木路』(1936年)
・『女人哀愁』(1937年)
・『雪崩』(1937年)
・『禍福 前篇』(1937年)
・『禍福 後篇』(1937年)
・『鶴八鶴次郎』(1938年)
・『はたらく一家』(1939年)
・『まごゝろ』(1939年)
・『旅役者』(1940年)
・『なつかしの顔』(1941年)
・『上海の月』(1941年)
・『秀子の車掌さん』(1941年)
・『母は死なず』(1942年)
・『歌行燈』(1943年)
・『愉しき哉人生』(1944年)
・『芝居道』(1944年)
・『勝利の日まで』(1945年)
・『三十三間堂 通し矢物語』(1945年)
・『浦島太郎の後裔』(1946年)
・『俺もお前も』(1946年)
・『四つの恋の物語[第2話 別れも愉し]』(1947年)
・『春のめざめ』(1947年)
・『不良少女』(1949年)
・『石中先生行状記』(1950年)
・『怒りの街』(1950年)
・『白い野獣』(1950年)
・『薔薇合戦』(1950年)
・『銀座化粧』(1951年)
・『舞姫』(1951年)
・『めし』(1951年)
・『お国と五平』(1952年)
・『おかあさん』(1952年)
・『稲妻』(1952年)
・『夫婦』(1953年)
・『妻』(1953年)
・『あにいもうと』(1953年)
・『山の音』(1954年)
・『晩菊』(1954年)
・『浮雲』(1955年)
・『くちづけ[第3話 女同士]』(1955年)
・『驟雨(しゅうう)』(1956年)
・『妻の心』(1956年)
・『流れる』(1956年)
・『あらくれ』(1957年)
・『杏っ子』(1958年)
・『鰯雲』(1958年)
・『コタンの口笛』(1959年)
・『女が階段を上る時』(1960年)
・『娘・妻・母』(1960年)
・『夜の流れ』[川島雄三との共同監督](1960年)
・『秋立ちぬ』(1960年)
・『妻として女として』(1961年)
・『女の座』(1962年)
・『放浪記』(1962年)
・『女の歴史』(1963年)
・『乱れる』(1964年)
・『女の中にいる他人』(1966年)
・『ひき逃げ』(1966年)
・『乱れ雲』(1967年)

☆成瀬巳喜男関係略年表

・1905年(明治38)8月20日 東京都四谷区で、縫箔職人の父・利三と母・きなの次男として生まれる
・1918年(大正7) 小学校を卒業し、2年生の工手学校(現在の工学院大学)に入学する
・1920年(大正9) 知人の紹介で松竹蒲田撮影所に小道具係として入社する
・1922年(大正11)頃 池田義信の助監督につく
・1930年(昭和5) 城戸四郎が赤穂春雄名義でシナリオを書いた短篇ナンセンス喜劇映画『チャンバラ夫婦』で監督デビューを果たす
・1931年(昭和6) 『腰弁頑張れ』で認められる
・1932年(昭和7) 『蝕める春』でキネマ旬報ベストテン第6位に選ばれ、期待の若手監督として注目される
・1933年(昭和8) 『君と別れて』『夜ごとの夢』を発表し、両作ともキネマ旬報ベストテンに選ばれて高い評価を得る
・1934年(昭和9) 助監督の山本薩夫とともにPCL(現在の東宝)に移籍する
・1935年(昭和10) 初トーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』を監督する
・1937年(昭和12) 『女優と詩人』と『妻よ薔薇のやうに』が“Kimiko”という英題でニューヨークで封切られ、アメリカで興行上映された初の日本映画となる
・1937年(昭和12) 女優の千葉早智子と結婚して長男の隆司が生まれる
・1940年(昭和15) 千葉早智子と離婚する
・1951年(昭和26) 林芙美子原作、原節子と上原謙主演の『めし』が高い評価を受け、毎日映画コンクール監督賞を受賞する
・1952年(昭和27) 『おかあさん』、『稲妻』で昭和27年度ブルーリボン賞監督賞を受賞する
・1955年(昭和30) 『浮雲』を発表し毎日映画コンクール監督賞、キネマ旬報賞監督賞を受賞、自身の最高傑作とされる
・1969年(昭和44)7月2日 東京において、63歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1241年(仁治2)公家・歌人藤原定家の命日(新暦9月26日)詳細
1573年(天正元)織田信長との一乗谷城の戦いに敗れた朝倉義景が自決する(新暦9月16日)詳細
1610年(慶長15)武将・大名・歌人細川幽斎(藤孝)の命日(新暦10月6日)詳細


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shindoukaneto01

 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、昭和時代から平成時代に活躍した映画監督・脚本家新藤兼人が生まれた日です。
 新藤兼人(しんどう かねと)は、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町)の豪農の家で、4人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が借金の連帯保証人になったことで没落し、貧窮生活を送ることとなりました。1927年(昭和2)に石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられ、16歳の時には尾道の長兄宅に居候することになります。
 映画を志すようになり、1934年(昭和9年)の22歳の時、京都へ行って新興キネマに入りました。下働きから始まり、美術部門へ移り、脚本も書き始め、1943年(昭和18)には、情報局の国民映画脚本の公募に『強風』が当選します。
 1944年(昭和19)に所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され東京本部へ移籍したものの、同年4月には、日本海軍に召集され二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)秋に、脚本『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され、1947年(昭和22)には、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表します。
 1950年(昭和25)に松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立、翌年の39歳の時、近代映画協会初の作品として、『愛妻物語』で宿願の監督デビューを果たしました。1952年(昭和27)に原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表、翌年にはチェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞などを受賞します。
 1959年(昭和34)に『第五福竜丸』を発表、翌年の瀬戸内海を舞台にしたせりふのない作品『裸の島』で、モスクワ映画祭グランプリを獲得しました。その後も、『母』(1963年)、『裸の十九才』(1970年)、『ある映画監督の生涯・溝口健二の記録』(1975年)、『竹山ひとり旅』(1977年)、『北斎漫画』(1981年)、『午後の遺言状』(1995年)等を発表、1997年(平成9)には、文化功労者に選ばれています。
 1999年(平成11)の『生きたい』でモスクワ国際映画祭のグランプリを獲得、翌年には、文化勲章を授与されました。晩年の2010年(平成22)に『一枚のハガキ』で第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位となり、翌年には、菊池寛賞も受賞しましたが、2012年(平成24)5月29日に、東京都港区の自宅で、老衰のため100歳で亡くなっています。
 尚、脚本家としても、『けんかえれじい』、『ハチ公物語』、『完全なる飼育』始め、230本を超える作品を手がけました。

〇新藤兼人の主要な監督映画

・「愛妻物語」(1951年)
・「雪崩」(1952年)
・「原爆の子」(1952年)チェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞
・「縮図」(1953年)
・「女の一生」(1953年)
・「どぶ」(1954年)
・「狼」(1955年)
・「銀心中」(1956年)
・「流離の岸」(1956年)
・「女優」(1956年)
・「海の野郎ども」(1957年)
・「悲しみは女だけに」(1958年)
・「第五福竜丸」(1959年)
・「花嫁さんは世界一」(1959年)
・「らくがき黒板」(1959年)
・「裸の島」(1960年)モスクワ国際映画祭のグランプリ獲得
・「人間」(1962年)文部省芸術祭文部大臣賞
・「母」(1963年)毎日芸術賞
・「鬼婆」(1964年)
・「悪党」(1965年)
・「本能」(1966年)
・「尖石遺跡」(1966年)
・「蓼科の四季」(1966年)
・「性の起原」(1967年)
・「薮の中の黒猫」(1968年)
・「強虫女と弱虫男」(1968年)
・「かげろう」(1969年)文化庁芸術祭優秀賞
・「触角」(1970年)
・「裸の十九才」(1970年) モスクワ国際映画祭金賞
・「鉄輪(かなわ)」(1972年)
・「讃歌」(1972年)
・「心」(1973年)
・「わが道」(1974年)
・「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975年)キネマ旬報ベストテン1位・監督賞
・「竹山ひとり旅」(1977年) モスクワ国際映画祭監督賞・ソ連美術家同盟賞
・「絞殺」(1979年)
・「三本足のアロー」(1980年)
・「北斎漫画」(1981年)
・「地平線」(1984年)
・「ブラックボード」(1986年)
・「落葉樹」(1986年)
・「さくら隊散る」(1988年)
・「東綺譚(ぼくとうきだん)」(1992年)
・「午後の遺言状」(1995年)日本アカデミー最優秀作品賞、モスクワ国際映画祭ロシア批評家賞、キネマ旬報ベストテン1位
・「生きたい」(1999年)モスクワ国際映画祭のグランプリ獲得
・「三文役者」(2000年)モントリオール映画祭特別グランプリ
・「ふくろう」(2003年)モスクワ映画祭功労賞
・「石内尋常高等小学校 花は散れども」(2008年)
・「一枚のハガキ」(2010年)第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位

〇新藤兼人の主要な著書

・『ある映画監督 - 溝口健二と日本映画』(岩波新書)
・『ある映画監督の生涯 -溝口健二の記録-』(映人社) 
・『「断腸亭日乗」を読む』(岩波現代文庫)
・『小説 田中絹代』(読売新聞社、のち文春文庫)
・『ながい二人の道 乙羽信子とともに』(東京新聞出版局)
・『ひとり歩きの朝』(毎日新聞社)
・『歳月は風の吹くままに』(朝日新聞社)
・『シナリオ人生』(岩波新書)
・『老人読書日記』(岩波新書)
・『弔辞』(岩波新書)
・『午後の遺言状』(岩波同時代ライブラリー)
・『女の一生―杉村春子の生涯』(岩波書店)
・『三文役者の死―正伝殿山泰司』(岩波現代文庫)
・『追放者たち 映画のレッドパージ』(岩波書店)
・『作劇術』(岩波書店)
・『祭りの声 あるアメリカ移民の足跡』(岩波新書)
・『愛妻記』(岩波現代文庫)
・『新藤兼人の足跡』(著作集全6巻、岩波書店)
・『ふくろう90歳の挑戦』(岩波アクティブ新書)
・『日本シナリオ史』(上・下、岩波書店)
・『いのちのレッスン』(青草書房)

☆新藤兼人関係略年表

・1912年(明治45)4月22日 広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町)で生まれる
・1927年(昭和2) 石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられる
・1933年(昭和8) 徴兵検査が終わる
・1934年(昭和9) 22歳の時に新興キネマに入る
・1941年(昭和16) 溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年間京都興亜映画に出向する
・1942年(昭和17) 情報局の国民映画脚本の公募に応募、佳作に終わる
・1943年(昭和18) 情報局の国民映画脚本の公募に『強風』が当選する
・1944年(昭和19) 所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され東京本部へ移籍する
・1944年(昭和19)4月 日本海軍に召集され二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団する
・1945年(昭和20) 宝塚海軍航空隊所属にて第二次世界大戦終戦を迎える
・1945年(昭和20)秋 脚本『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化される
・1946年(昭和21) 34歳の時、美代と結婚する
・1947年(昭和22) 吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表する
・1950年(昭和25) 松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立する
・1951年(昭和26) 39歳の時、近代映画協会初の作品として、『愛妻物語』で宿願の監督デビューを果たす
・1952年(昭和27) 近代映画協会初の自主制作作品として、原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表する
・1953年(昭和28) 映画『原爆の子』でチェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など受賞する
・1959年(昭和34) 『第五福竜丸』を発表する
・1960年(昭和35) 瀬戸内海を舞台にしたせりふのない作品『裸の島』を発表し、モスクワ映画祭グランプリを獲得する
・1970年(昭和45) 連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』を発表する
・1972年(昭和47) 60歳の時、美代と正式に離婚する
・1978年(昭和53) 乙羽信子と再婚する
・1995年(平成7) 『午後の遺言状』で日本アカデミー最優秀作品賞となる
・1997年(平成9) 文化功労者に選ばれる
・1999年(平成11) 『生きたい』でモスクワ国際映画祭のグランプリを獲得する
・2002年(平成14) 文化勲章を授与される
・2005年(平成17) 谷本清平和賞を受賞する
・2010年(平成22) 『一枚のハガキ』で第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位となる
・2010年(平成23) 菊池寛賞を受賞する
・2012年(平成24)5月29日 東京都港区の自宅で、老衰のため100歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1910年(明治43)彫刻家荻原守衛(碌山)の命日詳細
1993年(平成5)全国103ヶ所の施設が「道の駅」として初めて正式登録される詳細
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