ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:映画

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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、今井正監督・脚本の映画『ひめゆりの塔』が封切られた日です。
 映画『ひめゆりの塔』(ひめゆりのとう)は、昭和時代中期の1953年(昭和28)1月9日に封切られた、今井正監督・脚本で、東映製作・配給のモノクロ映画(スタンダード・130分)です。太平洋戦争末期の沖縄戦で看護婦として前線に立ったひめゆり学徒隊(沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成)の悲劇を描いた戦争映画で、沖縄戦の実態を初めて描いた映画として、国民的共感を呼び、配給収入1億8000万円という大ヒットを記録しました。
  清水元、信欣三、河野秋武、岡田英次、津島恵子、香川京子ほかが出演し、第27回キネマ旬報ベスト・テン第7位となり、第4回ブルーリボン賞監督賞を受賞しています。尚、1982年(昭和57)には、同脚本・同監督により、栗原小巻、古手川祐子、大場久美子、斉藤とも子、蜷川有紀、田中好子ほか出演により、リメイク版が公開されました。

〇今井正(いまい ただし)とは?
 
 昭和から平成時代に活躍した映画監督です。明治時代後期の1912年(明治45)1月8日に、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院住職であった父・六助と母・カネの長男として生まれました。
 1929年(昭和4)に旧制芝中学校を卒業し、旧制水戸高等学校に入学しましたが、翌年に学生運動により特高警察に連行され、1年間の停学処分を受けます。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部美術史科に入学したものの、再び学生運動により本富士警察署に検挙され、翌年に1年間の停学処分を受けました。
 1935年(昭和10)に大学を中退、京都のJOスタジオに助監督として入社、1937年(昭和12年)には、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となります。1939年(昭和14)に東宝の『沼津兵学校』で監督デビューし、『多甚古村』 (1940年) 、『閣下』 (1940年) などを作り、中堅作家の地位を固めました。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に戦後第1作『民衆の敵』を監督、1949年(昭和24)には、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督、大ヒットしましたが、東宝を退社しフリーとなります。1950年(昭和25)に『また逢う日まで』を監督、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位など高い評価を得たものの、東宝争議では組合側に加担したためレッド・パージの対象となりました。
 1951年(昭和26)に独立プロに転じ、山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督、1953年(昭和28)には、沖縄戦の悲劇を描く『ひめゆりの塔』を東映で撮り、大ヒットとなります。1957年(昭和32)の『純愛物語』で、毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、1963年(昭和38)の『武士道残酷物語』で、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞 (グランプリ)と国際的にも評価されました。
 その後も、1967年(昭和42)に渥美清主演のテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』シリーズで(4本演出)、未解放部落を正面から描いた『橋のない川第一部・第二部』(1969・1970年)、『婉という女』(1971年)、『あにいもうと』(1976年)などの佳作、力作を次々と発表、ヒューマニズムを基調とした作風が特徴とされます。しかし、1982年(昭和57)に胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受け、引退宣言し、1986年(昭和61)には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明しました。
 1990年(平成2)に第8回日本映画復興賞特別賞を受賞、翌年には14年ぶりに映画『戦争と青春』を撮りましたが、同年11月22日に埼玉県草加市の草加市立病院において、くも膜下出血のため79歳で亡くなっています。

☆今井正監督作品一覧

・『沼津兵学校』(1939年)
・『われ等が教官』(1939年)
・『多甚古村』(1940年)
・『女の街』(1940年)
・『閣下』(1940年)
・『結婚の生態』(1941年)
・『望楼の決死隊』(1943年)
・『怒りの海』(1944年)
・『愛の誓ひ』(1945年)
・『民衆の敵』(1946年)毎日映画コンクール監督賞
・『人生とんぼ返り』(1946年)
・『地下街二十四時間』(1947年)
・『青い山脈』(1949年)
・『続 青い山脈』(1949年)
・『女の顔』(1949)
・『また逢う日まで』(1950年)ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『どっこい生きてる』(1951年)
・『山びこ学校』(1952年)
・『ひめゆりの塔』(1953年)第27回キネマ旬報ベスト・テン第7位、ブルーリボン賞監督賞
・『にごりえ』(1953年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『愛すればこそ~第二話「とびこんだ花嫁」』[吉村公三郎、山本薩夫とのオムニバス](1955年)
・『ここに泉あり』(1955年)
・『由紀子』(1955年)
・『真昼の暗黒』(1956年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『米』(1957年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『純愛物語』(1957年)毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)
・『夜の鼓』(1958年)
・『キクとイサム』(1959年)ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『白い崖』(1960年)
・『あれが港の灯だ』(1961年)
・『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』(1962年)
・『武士道残酷物語』(1963年)ベルリン国際映画祭グランプリ
・『越後つついし親不知』(1964年)
・『仇討』(1964年)
・『砂糖菓子が壊れるとき』(1967年)
・『不信のとき』(1968年)
・『橋のない川 第一部』(1969年)第6回モスクワ国際映画祭 ソ連映画人同盟賞
・『橋のない川 第二部』(1970年)
・『天皇の世紀~第4話「地熱」・第5話「大獄」』(1971年)
・『婉(えん)という女』(1971年)
・『あゝ声なき友』(1972年)
・『海軍特別年少兵』(1972年)
・『小林多喜二』(1974年)
・『あにいもうと』(1976年)
・『妖婆』(1976年)
・『子育てごっこ』(1979年)
・『ゆき(1981年)
・『ひめゆりの塔』(1982年)
・『戦争と青春』(1991年)モントリオール国際映画祭カトリック同盟プロテスタント映画賞、第4回日刊スポーツ映画大賞特別賞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本と李氏朝鮮の間で「漢城条約」が締結される詳細
1891年(明治24)第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる詳細
1895年(明治28)新KS鋼の発見で知られる金属物理学者増本量の誕生日詳細
1918年(大正7)日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる詳細
1943年(昭和18)日本と南京政府により、「日華共同宣言」と「日華新協定」が調印・公布される詳細
1985年(昭和60)北九州高速鉄道小倉線(北九州モノレール)が開業する詳細
1998年(平成10)日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、小津安二郎監督の映画『晩春』が封切りされた日です。
 映画『晩春』(だんしゅん)は、昭和時代中期の1949年(昭和24)9月13日に封切りされた、小津安二郎監督の松竹映画です。原作は、広津和郎著の小説『父と娘』で、脚本を野田高梧と小津安二郎が担当し、主演は、娘役の原節子、父親役の笠智衆で、娘の結婚を巡るホームドラマを小津が初めて描いた作品でした。
 日本内外で、非常に高い評価を得て、1949年度の「キネマ旬報ベスト・テン」の日本映画部門で1位となり、英国映画協会(BFI)選定の2012年版「史上最高の映画」で15位に輝いています。その後、小津安二郎監督は、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)でも、原と笠のコンビで名作を送り出しています。

〇小津安二郎(おづ やすじろう)とは?

 昭和時代に活躍した、映画監督・脚本家です。明治時代後期の1903年(明治36)12月12日に、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれました。
 1910年(明治43)に深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学しましたが、子供は田舎で教育した方がよいという父の教育方針と環境悪化のため、1913年(大正2)に一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住します。1916年(大正5)に三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送り、映画に病みつきとなり、1921年(大正10)に卒業したものの、上級学校の受験に失敗し、翌年飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となりました。
 しかし、映画への思いは断ち切りがたく、1923年(大正12)には上京して、松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所します。その後、一年間の志願兵としての入営を経て、助監督に転じ、1927年(昭和2)には、監督第一作の時代劇「懺悔の刃」を発表しました。
 それからも、無声映画の「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「東京の合唱」(1931年)、「生まれてはみたけれど」(1932年)などを監督し、小市民の悲哀を描いた映画で評価されます。1936年(昭和11)に、初のトーキー「一人息子」を監督したものの、翌年に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊、1939年(昭和14)に召集解除となりました。
 1943年(昭和18)に軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在していましたが、1945年(昭和20)にシンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送り、翌年に日本へ帰還します。1947年(昭和22)に戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督、1949年(昭和24)に「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞、1949年(昭和24)に「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞、1953年(昭和28)には、自身の最高傑作とされる「東京物語」を発表し、高い評価を得ました。
 そして、1958年(昭和33)に紫綬褒章、1959年(昭和34)に日本芸術院賞、1961年(昭和36)に芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞、1962年(昭和37)に映画人として初めて芸術院会員となるなど数々の栄誉にも輝きます。さらに、1963年(昭和38)にブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞しましたが、同年12月12日に東京において、60歳で亡くなりました。

☆小津安二郎監督の映画作品一覧

<サイレント映画>
・懺悔の刃(1927年)
・若人の夢(1928年)
・女房紛失(1928年)
・カボチヤ(1928年)
・引越し夫婦(1928年)
・肉体美(1928年)
・宝の山(1929年)
・学生ロマンス 若き日(1929年)
・和製喧嘩友達(1929年)
・大学は出たけれど(1929年)
・会社員生活(1929年)
・突貫小僧(1929年)
・結婚学入門(1930年)
・朗かに歩め(1930年)
・落第はしたけれど(1930年)
・その夜の妻(1930年)
・エロ神の怨霊(1930年)
・足に触つた幸運(1930年)
・お嬢さん(1930年)
・淑女と髯(1931年)
・美人哀愁(1931年)
・東京の合唱(1931年)
・春は御婦人から(1932年)
・大人の見る繪本 生れてはみたけれど(1932年)
・青春の夢いまいづこ(1932年)
・また逢ふ日まで(1932年)
・東京の女(1933年)
・非常線の女(1933年)
・出来ごころ(1933年)
・母を恋はずや(1934年)
・浮草物語(1934年)□
・箱入娘(1935年)×□
・東京の宿(1935年)□
・大学よいとこ(1936年)

<トーキー映画>
・鏡獅子(1936年) - 記録映画
・一人息子(1936年)
・淑女は何を忘れたか(1937年)
・戸田家の兄妹(1941年)
・父ありき(1942年)
・長屋紳士録(1947年)
・風の中の牝雞(1948年)
・晩春(1949年)
・宗方姉妹(1950年)
・麦秋(1951年)
・お茶漬の味(1952年)
・東京物語(1953年)
・早春(1956年)
・東京暮色(1957年)
・彼岸花(1958年)
・お早よう(1959年)
・浮草(1959年)
・秋日和(1960年)
・小早川家の秋(1961年)
・秋刀魚の味(1962年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1733年(享保18)蘭学医杉田玄白の誕生日(新暦10月20日)詳細
1791年(寛政3)俳人で中興五傑の一人とされる加舎白雄の命日(新暦10月10日)詳細
1948年(昭和23)昭和電工事件で、福田赳夫大蔵省主計局長が10万円の収賄容疑で逮捕される詳細
1953年(昭和28)弁護士・社会運動家布施辰治の命日詳細
1955年(昭和30)東京・立川基地拡張の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊が衝突する(砂川闘争)詳細
1975年(昭和50)版画家棟方志功の命日詳細
2007年(平成19)国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択される詳細
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shichininnosamurai01
 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、黒澤明監督の映画『七人の侍』がベネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した日です。
 『七人の侍』(しちにんのさむらい)は、監督:黒澤明、脚本:黒澤明・橋本忍・小国英雄、撮影:中井朝一による日本の時代劇映画で、モノクロ、スタンダードサイズ(207分)でした。出演は、志村喬、稲葉義男、宮口精二、千秋実、加東大介、木村功、三船敏郎ほかで、戦国時代に野盗に悩まされる貧しい農民たちが自衛のために7人の侍を雇い、野武士の襲撃から村を守って勝利するまでを描いた大型時代活劇です。
 複数のカメラを駆使(マルチカメラシステム)し、望遠レンズを多用して、ダイナミックな編集によって迫力を盛り上げた戦闘場面が秀逸で、海外での評価も高く、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、ユッシ賞外国監督賞(黒澤明)・外国男優賞(志村喬)、第9回毎日映画コンクール男優助演賞(宮口精二)などを受賞しました。その後、ジョン・スタージェス監督の西部劇『荒野の七人』(1960年)、ジミー・T・ムラカミ監督の『宇宙の七人』(1980年)など、この映画を手本とした作品が多く作られています。また、2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では1位に選ばれました。

〇映画『七人の侍』の受賞一覧

・ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
・キネマ旬報ベスト・テンで日本映画ベスト・テン3位
・第9回毎日映画コンクール男優助演賞(宮口精二)
・ブルーリボン賞音楽賞(早坂文雄)
・都民映画コンクール銀賞
・日本映画技術賞撮影(中井朝一)
・日本映画技術賞美術(松山崇)
・ユッシ賞外国監督賞(黒澤明)
・ユッシ賞外国外国男優賞(志村喬)

☆黒澤明(くろさわ あきら)とは?

 昭和時代から平成時代に活躍した日本を代表する映画監督・脚本家です。明治時代後期の1910年(明治43)3月23日に、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)で、荏原中学校(現在の日体荏原高等学校)に勤めていた父・黒澤勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれました。
 1927年(昭和2)に京華中学校卒業後、画家になることを志し、川端画学校に通って洋画を勉強、1928年(昭和3)には二科展に「静物」が入選します。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入り、1929年(昭和4)には、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に5つの作品を出品しました。
 1936年(昭和11)、画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入社、山本嘉次郎に師事し、1938年(昭和13)に助監督となります。1943年(昭和18)に『姿三四郎』で監督デビューし、太平洋戦争中には他に『一番美しく』(1944)など3本を監督しました。
 戦後は、戦中・戦後の青年像を鮮烈に描いた『わが青春に悔なし』(1946年)、『素晴らしき日曜日』(1947年)、『酔いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)などを監督して、日本映画の旗手となります。1950年(昭和25)の『羅生門』では、ベネチア国際映画祭グランプリを獲得、続いて『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などを発表し、ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、世界から高い評価を得ました。
 1980年(昭和55)の『影武者』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、1984年(昭和59)にフランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章など数々の栄誉に輝きます。1990年(平成)には、アカデミー賞名誉賞も受賞しましたが、1998年(平成10)9月6日に、東京において、88歳で亡くなりました。没後、映画監督としては初の国民栄誉賞も受賞しています。

<監督映画作品一覧>

・『姿三四郎』(1943年)
・『一番美しく』(1944年)
・『続姿三四郎』(1945年)
・『虎の尾を踏む男達』(1945年)
・『明日を創る人々』(1946年)[山本嘉次郎、関川秀雄との共同監督]
・『わが青春に悔なし』(1946年)
・『素晴らしき日曜日』(1947年)
・『酔いどれ天使』(1948年)
・『静かなる決闘』(1949年)
・『野良犬』(1949年)
・『醜聞(スキャンダル)』(1950年)
・『羅生門』(1950年)
・『白痴』(1951年)
・『生きる』(1952年)
・『七人の侍』(1954年)
・『生きものの記録』(1955年)
・『蜘蛛巣城』(1957年)
・『どん底』(1957年)
・『隠し砦の三悪人』(1958年)
・『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)
・『用心棒』(1961年)
・『椿三十郎』(1962年)
・『天国と地獄』(1963年)
・『赤ひげ』(1965年)
・『どですかでん』(1970年)
・『デルス・ウザーラ』(1975年)
・『影武者』(1980年)
・『乱』(1985年)
・『夢』(1990年)
・『八月の狂詩曲(ラプソディー)』(1991年)
・『まあだだよ』(1993年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1797年(寛政9)浮世絵師歌川広重の命日(新暦10月12日)詳細
1919年(大正8)「帝国美術院規程」(大正8年勅令第417号)によって、帝国美術院が創設される詳細
1938年(昭和13)氷見町大火が起こり、死者5名、負傷者510名、焼失家屋1,543棟を出す詳細
1941年(昭和16)御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定する詳細
1945年(昭和20)トルーマン米大統領が「降伏後における米国の初期対日方針」を承認し、マッカーサーに指令する詳細
1998年(平成10)映画監督・脚本家黒澤明の命日詳細
2018年(平成30)北海道胆振東部地震(M6.7)が起こり、死者41人、負傷者675人が出る詳細
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aoisanmyakueiga01
 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、今井正監督の映画『青い山脈』(原作:石坂洋次郎)が封切られた日です。
 『青い山脈』(あおいさんみゃく)は、昭和時代中期の1947年(昭和22)6~10月に「朝日新聞」に連載され、同年12月に新潮社より刊行された石坂洋次郎著のベストセラー小説です。太平洋戦争後間もない地方の町を舞台に、高校生らの男女交際などを通して解放された青春の姿を明るくユーモラスに描いたものでした。因襲にとらわれた校内の封建的な雰囲気に果敢に取り組む青春像が描かれていて、戦後民主主義の一つの教科書のように受け止められます。
 1949年(昭和24)に、今井正監督・脚色(出演:原節子、龍崎一郎、池部良、杉葉子、若山セツ子、木暮実千代、赤木蘭子ほか)による映画が製作され、作詞:西条八十、作曲:服部良一の主題歌と共に、大ヒットしました。映画は、キネマ旬報ベスト・テン第2位となり、第4回毎日映画コンクール撮影賞、女優演技賞(原節子)、助演賞(木暮実千代)も受賞します。
 その後、1957年(昭和32)に松林宗恵監督(出演、雪村いづみ、司葉子ほか)により、1963年(昭和38)に西河克己監督(出演、吉永小百合、浜田光夫ほか)により、1975年(昭和50)に河崎義祐監督(出演、三浦友和、片平なぎさほか)により三度映画化されました。

〇今井正(いまい ただし)とは?

 昭和から平成時代に活躍した映画監督です。明治時代後期の1912年(明治45)1月8日に、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院住職であった父・六助と母・カネの長男として生まれました。
 1929年(昭和4)に旧制芝中学校を卒業し、旧制水戸高等学校に入学しましたが、翌年に学生運動により特高警察に連行され、1年間の停学処分を受けます。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部美術史科に入学したものの、再び学生運動により本富士警察署に検挙され、翌年に1年間の停学処分を受けました。
 1935年(昭和10)に大学を中退、京都のJOスタジオに助監督として入社、1937年(昭和12年)には、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となります。1939年(昭和14)に東宝の『沼津兵学校』で監督デビューし、『多甚古村』 (1940年) 、『閣下』 (1940年) などを作り、中堅作家の地位を固めました。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に戦後第1作『民衆の敵』を監督、1949年(昭和24)には、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督、大ヒットしましたが、東宝を退社しフリーとなります。1950年(昭和25)に『また逢う日まで』を監督、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位など高い評価を得たものの、東宝争議では組合側に加担したためレッド・パージの対象となりました。
 1951年(昭和26)に独立プロに転じ、山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督、1953年(昭和28)には、沖縄戦の悲劇を描く『ひめゆりの塔』を東映で撮り、大ヒットとなります。1957年(昭和32)の『純愛物語』で、毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、1963年(昭和38)の『武士道残酷物語』で、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞 (グランプリ)と国際的にも評価されました。
 その後も、1967年(昭和42)に渥美清主演のテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』シリーズで(4本演出)、未解放部落を正面から描いた『橋のない川第一部・第二部』(1969・1970年)、『婉という女』(1971年)、『あにいもうと』(1976年)などの佳作、力作を次々と発表、ヒューマニズムを基調とした作風が特徴とされます。しかし、1982年(昭和57)に胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受け、引退宣言し、1986年(昭和61)には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明しました。
 1990年(平成2)に第8回日本映画復興賞特別賞を受賞、翌年には14年ぶりに映画『戦争と青春』を撮りましたが、同年11月22日に埼玉県草加市の草加市立病院において、くも膜下出血のため79歳で亡くなっています。

〇石坂洋二郎(いしざか ようじろう)とは?

 昭和時代に活躍した小説家です。明治時代後期の1900年(明治33)1月25日に、青森県弘前市代官町で生まれました。
 弘前市立朝陽小学校を経て、1913年(大正2)に青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に入学します。在学中は、小説をよく読み、少年雑誌に投書したりして卒業し、1919年(大正8)に上京して、慶應義塾大学文学部予科に入学しました。
 1925年(大正14)に慶應義塾大学文学部国文科を卒業した後、青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務、翌1926年(昭和元)から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に変わりました。1927年(昭和2)『三田文学』に掲載された処女作「海をみに行く」、「炉辺夜話」で注目されるようになります。
 1929年(昭和4)に秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に移り、1933年(昭和8)から『三田文学』に連載された「若い人」が評判となり、1936年(昭和11)に第1回三田文学賞を受賞しました。翌年に本が出版されると、たちまちベストセラーになって映画化もされましたが、右翼団体の圧力をうけ、1938年(昭和13)に教員を辞職、上京して作家活動に専念し、『何処(いずこ)へ』(1941年)などを書きます。
 戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣されたりしましたが、太平洋戦争後は、『青い山脈』(1947年)、『石中先生行状記』(1948~54年)などを書いて、ベストセラー作家となりました。その後も、『あじさいの歌』(1958~59年)、『河のほとり』(1961年)、『光る海』(1963年)などの新聞小説を連載し、1966年(昭和41)には、第14回菊池寛賞を受けます。
 独特のユーモアと健康で明るい庶民感覚のあふれた作品が多く、大衆に愛されて、映画化・テレビドラマ化された作品も多くありましたが、1986年(昭和61)10月7日に、静岡県伊東市の自宅において、86歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

931年(承平元)第59代の天皇とされる宇多天皇の命日(新暦9月3日)詳細
1107年(嘉承2)第73代の天皇とされる堀河天皇の命日(新暦8月9日)詳細
1829年(文政12)国学者・旅行家菅江真澄の命日(新暦8月18日)詳細
1864年(元治元)京都で蛤御門の変(禁門の変)が起きる(新暦8月20日)詳細
1888年(明治21)剣術家・政治家山岡鉄舟の命日詳細
1940年(昭和15)近衛文麿の東京の私邸(荻外荘)に於いて、荻窪会談が開催される詳細
1944年(昭和19)文部・厚生・軍需3省次官指令「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」が出され、学徒勤労動員が強化される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1930年(昭和5)に、藤森成吉の戯曲を鈴木重吉監督で映画化した「何が彼女をさうさせたか」が封切りされた日です。
 「何が彼女をさうさせたか」(なにがかのじょをそうさせたか)は、1927年(昭和2)に、藤森成吉が戯曲として、雑誌「改造」に連載されたものでした。同年4月に築地小劇場にて「彼女」の題名で、土方与志演出、山本安英主演にて、初演されました。その後、新築地劇団の再演で「何が彼女をさうさせたか」の原題となります。
 鈴木重吉監督により、1930年(昭和5)2月6日封切りの映画として上映されて大ヒット、この年度のキネマ旬報ベストテンで第1位にランクインし、高い評価も集めました。社会主義思想の影響を受けた「傾向映画」の代表作としても知られることとなります。
 内容は、主人公の少女すみ子が、暗い家庭環境から養育院に入り、小間使などを転々とし、心中を図るが助けられ、最後に辿りついたキリスト教婦人収容施設でも欺瞞に接し、放火犯となるという、社会の不正に抗議した人道的作品でした。

〇藤森 成吉(ふじもり せいきち)とは?

 大正時代から昭和時代に活躍した小説家・劇作家です。明治時代後期の1892年(明治25)8月28日に、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)の薬種商の長男として生まれました。長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)卒業後、上京して第一高等学校へ入学し、ロシア文学の影響で文学を志すようになります。
 卒業の年の夏、伊豆の大島に遊び、東京帝国大学文科大学独文科入学後、それを素材とした処女作の長編小説『波』(のち『若き日の悩み』と改題)を自費出版し、新進作家として認められました。1916年(大正5)大学卒業後、岡倉由三郎の娘信子と結婚し、一時第六高等学校講師となりましたが半年で辞職し、1918年(大正7)に小説『山』で文壇に復帰します。
 この間、大杉栄の影響で日本社会主義同盟に関係し、1924年(大正13)には妻とともに労働生活を体験、翌年その記録『狼へ!』を発表しました。社会主義に傾倒していき、戯曲『磔茂左衛門』、『犠牲』(1926年)を発表し、翌年の戯曲『何が彼女をさうさせたか』は、鈴木重吉監督により映画化され、好評を博して、代表的なプロレタリア文学の作家の一人となります。
 『文芸戦線』の同人となり、1928年(昭和3)に、「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)の初代委員長に就任、1930年(昭和5)に夫妻で渡欧し、ハリコフ会議(国際革命作家同盟第2回会議)に出席していました。しかし、1933年(昭和8)に、治安維持法違反で検挙され、歴史小説への転向を余儀なくされて、歴史小説『渡辺崋山』(1935年)、戯曲『江戸城明渡し』(1938年)、『若き啄木』(1939年)、『大原幽学』(1940年)などを書いています。
 太平洋戦争後は、再び左翼文学に返り咲き、新日本文学会の結成に参加、後、1950年(昭和25)には『人民文学』の発刊 に参画しました。その中で、民主的立場にたって数多くの著作を発表、一方句作も始めて、句集『蟬しぐれ』(1961年)、『天翔ける』(1972年)なども出しましたが、1977年(昭和52)5月26日に、交通事故がもとで神奈川県逗子市において、84歳で亡くなっています。

〇傾向映画(けいこうえいが)とは?

 日本で昭和時代初期の1929年(昭和4)~31年頃に作られた一連の映画作品で、当時の社会不安を背景に、階級社会の暴露や闘争を描いたものでした。長びく不況、失業者増加、軍国主義化する社会体制等への危機感からのプロレタリア芸術運動の活発化を背景にし、青年層の支持を受けたものです。
 内田吐夢が監督した1929年(昭和4)の『生ける人形』が先駆的作品で、1930年(昭和5)には、伊藤大輔監督の『一殺多生剣(いっさつたしょうけん)』、『斬人斬馬剣(ざんじんざんばけん)』、辻吉朗監督の『傘張(かさはり)剣法』、溝口健二監督の『都会交響楽』などが登場しました。そして、1930年(昭和5)には、プロレタリア作家藤森成吉の戯曲を鈴木重吉監督した『何が彼女をさうさせたか』が薄幸のヒロインを苛烈な社会に投じて優れた演出でみせ、大ヒットします。
 翌年には、欧州から帰国した衣笠貞之助監督の『黎明以前』も作られたものの、その後は、国家検閲や同年秋の満州事変の勃発によって退潮していきまた。

☆代表的な傾向映画

・内田吐夢(とむ)監督『生ける人形』(1929年)
・伊藤大輔監督『一殺多生剣(いっさつたしょうけん)』(1929年)
・伊藤大輔監督『斬人斬馬剣(ざんじんざんばけん)』(1929年)
・辻吉朗監督の『傘張(かさはり)剣法』(1929年)
・溝口健二監督『都会交響楽』(1929年)
・鈴木重吉監督『何が彼女をさうさせたか』(1930年)
・田坂具隆監督『この母を見よ』(1930年)
・衣笠貞之助監督『黎明(れいめい)以前』(1931年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1647年(正保4)武将・茶人・作庭家小堀政一(遠州)の命日詳細
1818年(文化15)北方探検家・著述家松浦武四郎の誕生日(新暦3月12日)詳細
1907年(明治40)文芸評論家亀井勝一郎の誕生日詳細
1922年(大正11)アメリカ合衆国のワシントンD.C.で、「ワシントン海軍軍縮条約」が締結される詳細
アメリカ合衆国のワシントンD.C.で、「九カ国条約」が締結される詳細
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