ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:明治維新

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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月)に、 明治新政府が初めて、「阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム」を布告して、阿片の売買・喫煙を禁止した日ですが、新暦では6月9日となります。
 「阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム」(あへんえんをきんじふはんけんこうさつにけいじせしむ)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月19日)に、 明治新政府が初めてだした、阿片の売買・喫煙を禁止した布告です。長崎、横浜などの条約港では、貿易のために集まった外国商人が居住のため使用人や料理人として中国人を連れて来ており、彼らが密輸により、阿片の煙膏を持ち込んで問題となっていました。
 その中で、この布告では、「阿片煙草ハ、人ノ精気ヲ耗シ、命数ヲ縮メ候品ニ付」と初めて人害であることが明記され、「売買之儀ハ勿論、一己ニ呑用ヒ候儀、決而不相成候」と使用や売買を含めて禁止し、「若御制禁相犯シ、他ヨリ顕ルヽニ於テハ、可被処厳科候間」と、厳罰に処すものとしています。その後、新政府は法整備を進め、1870年(明治3年8月9日)には、「販売鴉片烟律」が布告され、使用や売買を含めて罰則規定を設けて、重罪としました。
 以下に、この「阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム」を記した、慶応4年の『太政官日誌』の「阿片煙草禁制ノ事」と「販売鴉片烟律」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『太政官日誌慶応4年

【阿片煙草禁制ノ事】

御布告写一通

阿片煙草ハ、人ノ精気ヲ耗シ、命数ヲ縮メ候品ニ付、兼而御条約面ニ有之候通、外国人持渡候事、厳禁之処、近頃窃ニ舶載之聞ヘ有之万一世上ニ流布致シ候テハ、生民之大害ニ候間、売買之儀ハ勿論、一己ニ呑用ヒ候儀、決而不相成候、若御制禁相犯シ、他ヨリ顕ルヽニ於テハ、可被処厳科候間、心得違無之様末々ニ至ル迄、堅ク可相守者也

右御達シ書、府藩県一同高札ニ掲示可致様被仰出候事

閏四月

〇「販売鴉片烟律」 1870年(明治3年8月9日)布告

一、凡ソ鴉片烟ヲ販売シテ利ヲ謀ル者首ハ斬、従ハ三等流、自首スル者ハ一等ヲ減ス

一、人ヲ引誘シ吸食セシムル者ハ絞、従及ヒ情ヲ知リ房屋ヲ給スル者ハ三等流、引誘セラレテ吸食スル者ハ徒一年

一、収買シテ未タ售賈セサル者首ハ三等流、従は徒三年、買食スル者徒二年半、自首スル者は並ニ罪ヲ免シ、鴉片烟ハ官ニ没収ス

一、官吏知テ挙セザル者ハ、併ニ拠同罪、財ヲ受クル者ハ出事

一、薬用関之ニ付、外国ヨリ取寄度節ハ、各地方官ヨリ開港場ヘ申立候ハヽ、別段ノ注文ヲ以テ、取寄候様可致事

<現代語訳>

一、およそ、営利目的で生成アヘンの販売を行う主犯者は斬首である。それに基づき、販売にかかわった者はその度合いにより近流、中流、遠流のいづれかの流刑、自首したものはその状況等により一段階低い罪にする。

一、人を誘いアヘンを吸飲させた主犯者は絞首刑である。客引きなどで主犯者に従った者、事情を知り吸飲の場所を提供した者などは三種の流刑が科せられ、誘われて客となりアヘンを吸飲した者も、1年の徒刑(懲役刑)が科せられる。

一、購入した生成アヘンを販売せず所持をしている主犯者は三種の流刑。それに従っている者は3年の懲役刑。生成アヘンを購入して吸飲するもの2年半の懲役刑。自首する者は無罪。そして所持している生成アヘンは、すべて没収する。

一、役人が知っていて、逮捕しない者は、その罪は同罪とし、財を受け取ってていた者は差し出すこと。

一、薬用に関するものについては、外国より取り寄せるたびごとに、各地方官より開港場ヘ申し立てるならば、各別の注文として、取り寄せるべきこととする。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1068年(治暦4)第70代の天皇とされる後冷泉天皇の命日(新暦5月22日)詳細
1800年(寛政12)伊能忠敬が、第1次測量(蝦夷地測量)のために、江戸を出発(閏月)する(新暦6月11日)詳細
1870年(明治3)哲学者西田幾多郎の誕生日(新暦5月19日)詳細
1901年(明治34)数学者岡潔の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家源氏鶏太の誕生日詳細
1928年(昭和3)田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して第二次山東出兵を決定する詳細
2007年(平成19)漆芸家高橋節郎の命日詳細

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 今日は、幕末明治維新期の1869年(明治2)に、太政官に造幣局が設置された日ですが、新暦では3月17日となります。
 造幣局(ぞうへいきょく)は、貨幣の鋳造のほか、勲章・賞牌などの製造や地金銀の精製分析、合金の製造、貴金属の品位証明などを行う国の機関です。1869年(明治2年2月5日)に、貨幣司が廃止されて、太政官に造幣局が設置され、同年7月8日に、造幣寮へ改称されて大蔵省所属となりました。
 1871年(明治3)に、大阪本局が銀貨製造を開始して、創業式を挙行しましたが、1877年(明治10)に、造幣局へ改称されています。大平洋戦争後の1948年(昭和23)に、大蔵省の特別の機関となり、2001年(平成13)の省庁改編により財務省の所属となった後、2003年(平成15)に独立行政法人となりました。
 現在、大阪府大阪市に本局、埼玉県さいたま市大宮区および広島県広島市佐伯区に支局があります。

〇造幣局関係略年表

・1868年5月16日(慶応4年4月24日) 旧金座および銀座を接収する
・1868年6月11日(慶応4年閏4月21日) 貨幣司を設けて二分判および一分銀などの鋳造を引き継がせる
・1868年(慶応4年) 参与会計事務官三岡八郎、外国事務局判事五代才助らが同年に廃止されたイギリス帝国・香港造幣局の造幣機械を6万両で購入する契約を結ぶ
・1868年11月1日(明治元年9月17日) 英国建築技師トーマス・ウォートルスが雇用され局舎設計および機器購入などを担当する
・1869年3月17日(明治2年2月5日) 貨幣司が廃止されて太政官に造幣局が設置される
・1869年8月15日(明治2年7月8日) 造幣局は造幣寮へ改称されて大蔵省所属となる
・1869年(明治2年) オリエンタル・バンクとの間で貨幣鋳造条約が締結される
・1870年3月3日(明治3年2月2日) 旧香港造幣局長トーマス・ウィリアム・キンダー(キンドル)が造幣寮首長に任命される
・1871年1月17日(明治3年11月27日) 大阪本局が銀貨製造を開始する
・1871年4月4日(明治4年2月15日) 大蔵省造幣寮として創業式を挙行する
・1871年6月27日(明治4年5月10日) 「新貨条例」および「造幣規則」が布告がされて近代的貨幣制度が開始される
・1875年(明治8年)1月31日 この日限りでキンドルらお雇い外国人10人を解雇して寮務全般が改革され、試験分析局のディロンおよび冶金室のウィリアム・ゴーランド(ガウランド)に造幣頭の顧問役を兼任させる
・1877年(明治10年)1月11日 造幣局へ改称される
・1879年(明治12年)9月16日 大蔵省内で東京出張所が開設され貨幣製造のための地金受け入れ業務を開始する
・1889年(明治22年) 大阪本局の土地の一部が宮内省(現:宮内庁)の所管へ移され、その後三菱合資会社(現:三菱マテリアル)へ払い下げられる
・1907年(明治40年)5月17日 東京支局が廃止される
・1929年(昭和4年)7月1日 東京市麹町区内幸町へ東京出張所が再設される
・1939年(昭和14年)11月20日 東京出張所が豊島区西巣鴨へ移転する
・1943年(昭和18年)9月1日 東京出張所が造幣局東京支局へ改称される
・1945年(昭和20年)4月13日 造幣局東京支局が空襲で全焼し事業を停止する
・1945年(昭和20年)6月7日 大阪本局も空襲で被災し工場の一部を焼失する
・1945年(昭和20年)2月1日 広島県佐伯郡五日市町へ造幣局広島支局が開設される
・1945年(昭和20年)8月6日 広島市への原子爆弾投下により被災する
・1946年(昭和21年)1月15日 造幣局広島支局の貨幣製造を再開する
・1946年(昭和21年)1月 東京支局も貨幣製造を再開する
・1949年(昭和24年)6月1日 大蔵省の外局であり、長官を長とする造幣庁となる
・1952年(昭和27年)8月1日 大蔵省の附属機関である造幣局となる
・1984年(昭和59年)7月1日 「国家行政組織法」の改正により、位置づけが蔵省の特別の機関となる
・2003年(平成15年)4月1日 独立行政法人化される
・2012年(平成24年)9月 東京支局がさいたま市のさいたま新都心隣接地(三菱マテリアル所有地を取得)へ移転することを発表する
・2016年(平成28年)10月3日 東京支局がさいたま市に移転開局すると共に、さいたま支局に改称される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家尾崎士郎の誕生日詳細
1901年(明治34)官営八幡製鉄所の第一鎔鉱炉で火入れ式が行われ、操業開始する詳細
1913年(大正2) 第30帝国議会衆議院本会議において、尾崎行雄の桂首相弾劾演説が行われる詳細
1920年(大正8)八幡製鉄所で職工2万4千人がストライキに入る(八幡製鉄所争議)詳細
1936年(昭和11)日本職業野球聯盟が設立される(プロ野球の日)詳細
1943年(昭和18)東条英機内閣によって、「大東亜要員錬成要綱」が閣議決定される詳細
1981年(昭和56)恒久的輸送機関として初めての新交通システムとなる神戸新交通ポートアイランド線が開業する詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書」(行政官布告第1号)が発布され、一世一元の制となり、明治に改元された日ですが、新暦では10月23日となります。
 「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書」(こんごねんごうはおんいちだいいちごうにさだめけいおうよねんをあらためてめいじがんねんとなすおよびしょうしょ)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年9月8日)に発布され、天皇一代に元号一つだけとする一世一元の制を定めた行政官布告第1号です。
 桓武天皇時代の延暦(782~805年)をはじめ、平安前期の淳和天皇まで(~833年)の4代に渡り、一世一元の時期もありましたが、その後は、祥瑞・災異・辛酉革命・甲子革令などさまざまな理由にもとづく改元が行われるようになり、天皇一代に数号の元号という場合がみられるようになりました。明治維新の時に、岩倉具視の主張に基づいて、この「行政官布告第1号」によって、一世一元の制が導入され、この時から、元号は天皇の統治年を示すものとなります。
 その後、1889年(明治22)発布の「皇室典範」、1909年(明治42)公布の「登極令(とうきょくれい)」によって、より明確化するかたちで法制化されました。しかし元号は、1947年(昭和22)の「日本国憲法」制定に伴う皇室典範などの改廃により、国民主権の理念にふさわしくないものとして明文法上の根拠を喪失します。
 ところが、1979年(昭和54)に「元号法」が成立し、明文法上も一世一元の制は復活しました。

〇「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書」1868年(慶応4年9月8日)発布

<原文>

今般 御卽位御大禮被爲濟先例之通被爲改年號候就テハ是迄吉凶之象兆ニ隨ヒ屢改號有之候得共自今 御一代一號ニ被定候依之改慶應四年可爲明治元年旨被 仰出候事

詔書
詔體太乙而登位膺景命以改元洵聖代之典型而萬世之標準也朕雖否德幸賴 祖宗之靈祇承鴻緖躬親萬機之政乃改元欲與海內億兆更始一新其改慶應四年爲明治元年自今以後革易舊制一世一元以爲永式主者施行

明治元年九月八日

<書き下し文>

詔書
太乙を体して位に登り、景命を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す。乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す。其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ。

明治元年九月八日

〇「皇室典範」1889年(明治22)2月11日

第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ

〇「登極令」1909(明治42)年2月11日発布

第一條 天皇踐祚ノ時ハ卽チ掌典長ヲシテ賢所ニ祭典ヲ行ハシメ且踐祚ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告セシム

第二條 天皇踐祚ノ後ハ直ニ元號ヲ改ム  元号ハ樞密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス

第三條 元號ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス

第四條 卽位ノ禮及大嘗祭ハ秋冬ノ間ニ於テ之ヲ行フ  大嘗祭ハ卽位ノ禮ヲ訖リタル後續テ之ヲ行フ

第五條 卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行フトキハ其ノ事務ヲ掌理セシムル爲宮中ニ大禮使ヲ置ク

第六條 卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行フ期日ハ宮内大臣國務各大臣ノ連署ヲ以テ之ヲ公告ス

第七條 卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行フ期日定マリタルトキハ之ヲ賢所皇霊殿神殿ニ奉告シ勅使ヲシテ神宮神武天皇山陵並前帝四代ノ山陵ニ奉幣セシム

第八條 大嘗祭ノ齋田ハ京都以東以南ヲ悠紀ノ地方トシ京都以西以北ヲ主基ノ地方トシ其ノ地方ハ之ヲ勅定ス

第九條 悠紀主基ノ地方ヲ勅定シタルトキハ宮内大臣ハ地方長官ヲシテ齋田ヲ定メ其ノ所有者ニ対シ新穀ヲ供納スルノ手續ヲ爲サシム

第十條 稻實成熟ノ期至リタルトキハ勅使ヲ発遣シ齋田ニ就キ抜穂ノ式ヲ行ハシム

第十一條 卽位ノ禮ヲ行フ期日ニ先タチ天皇神器ヲ奉シ皇后ト共ニ京都ノ皇宮ニ移御ス

第十二條 卽位ノ禮ヲ行フ當日勅使ヲシテ之ヲ皇霊殿神殿ニ奉告セシム  大嘗祭ヲ行フ當日勅使ヲシテ神宮皇霊殿神殿竝官國幣社ニ奉幣セシム

第十三條 大嘗祭ヲ行フ前一日鎭魂ノ式ヲ行フ

第十四條 卽位ノ禮及大嘗祭ハ附式ノ定ムル所ニ依リ之ヲ行フ

第十五條 卽位ノ禮及大嘗祭訖リタルトキハ大饗ヲ賜フ

第十六條 卽位ノ禮及大嘗祭訖リタルトキハ天皇皇后ト共ニ神宮神武天皇山陵並前帝四代ノ山陵ニ謁ス

第十七條 卽位ノ禮及大嘗祭訖リテ東京ノ宮城ニ還幸シタルトキハ天皇皇后ト共ニ皇霊殿神殿ニ謁ス

第十八條 諒闇中ハ卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行ハス

 附 式 (略)

〇「元号法」(昭和54年法律第43号)1979年(昭和54)6月12日公布

  元号法

1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

   附 則

1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項に基づき定められたものとする。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1658年(万治元)江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消が始まる(新暦10月4日)詳細
1775年(安永4)俳人加賀千代女(千代尼)の命日(新暦10月2日)詳細
1864年(元治元)化学者池田菊苗の誕生日(新暦10月8日)詳細
1873年(明治6)教育家・婦人ジャーナリストの先駆者羽仁もと子の誕生日詳細
1904年(明治37)「屯田兵条例」が廃止され、屯田兵制度が終わる詳細
1951年(昭和26)「サンフランシスコ平和条約」が調印される詳細
「日米安全保障条約」(旧)が調印される詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)に、戊辰戦争の箱館の戦い(箱館戦争)において、榎本武揚軍が五稜郭を占領した日ですが、新暦では12月9日となります。
 五稜郭(ごりょうかく)は、幕末の1857年(安政4)に、北方防備のための洋式城郭として築城が開始され、1866年(慶応2)に完成しました。その後、1868年(慶応4)から翌年にかけて、戊辰戦争の最後の闘いである箱館の戦い(箱館戦争)が行われたことで有名です。
 これで、旧幕府勢力による抵抗は終焉しました。現在、五稜郭跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、「五稜郭公園」として保存されていて、巡ることができます。
 尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されました。また、公園内に、2010年(平成22)に「箱館奉行所」が木造で復元されて、一般公開されています。

〇戊辰戦争とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦です。鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 最後の箱館の戦い(箱館戦争)は、10月26日の榎本武揚軍による箱館五稜郭の占領に始まり、11月15日に暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没、翌年3月9日に箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発します。5月11日から箱館総攻撃が始まり、5月18日に五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して終結し、戊辰戦争が終わりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来します。これにより、明治臣政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになりました。

☆戊辰戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)>
・1月3日  「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる 
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる 
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸開城が無血で行われる
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日  奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日  長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる 
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館の五稜郭を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細


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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、明治新政府から「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)が出され、下人(下男)の取り扱いの是正、商業兼業の許可、田畑勝手作の推進などを通達した日ですが、新暦では10月2日となります。
 「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」は、明治維新の改革を進める明治新政府によって出された、各地の土地の因習旧慣を是正するための大蔵省達(第118号)でした。計画されていた地租改正にともなう租税の金納化に備えた措置としての田畑勝手作の推進、土地所有者の特定、商業兼業の許可などであり、下人(下男)の取り扱いの是正も達せられます。
 その後、地券を発行し、1873年(明治6)7月28日には、「上諭」と「太政官布告第272号」、「地租改正条例」を発し、①課税標準を従来の収穫量から地価に改める、②税率は100分の3をもって、豊凶に関係なく定率とする、③物納を廃し、すべて金納として、土地所有者に課税するというものとなりました。
 以下に、「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)を現代語訳・注釈付で、全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)明治5年8月30日

「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)

從前土地ノ風俗[1]ニ因リ舊慣[2]ヲ私法[3]トナシ候類間々有之祖先ノ代々召仕候者ヘ地所ヲ付與致シ候分其子孫ニ至ル迄家抱[4]杯ト唱ヘ家來[5]同樣ノ扱ヒニ致シ一村ノ者同輩[6]ニ見倣サス或ハ他ヨリ人材スル者ハ水吞[7]ト唱ヘ是亦同輩[6]ノ交リ不致等ノ類間々有之人民協和交際ノ道ニ相背キ候間右等舊習[8]ヲ以家格[9]相立候儀堅ク可令禁止事
古來荒蕪[10]ノ地ヲ拓キ一村ヲ取立[11]候モノ之ヲ草分ケ[12]ト號ケ[13]舊家タルノ故ヲ以テ他人ヲ輕蔑致シ往々非義[14]ノ擧動[15]致シ候者有之趣最眼先ノ功績ニ誇今日ニ至リ他人ヲ凌クヘキノ理無之候間自今[16]右等ノ唱令禁止暴慢[17]ノ所業致スヘカラサル事
農業ノ傍商業ヲ相營ミ候儀禁止致シ候向モ有之候處自今勝手[18]タルヘキ事
人民所持地所ノ內自他[19]ノ都合ニ依リ池沼川溝等ヲ堀割或ハ道路ヲ附替イタシ候儀自今[16]都テ[20]出願ノ上指揮ヲ受ヘキ事
無願[21]ニシテ社寺(地藏堂稻荷ノ類)創立致シ候儀從前ノ通禁制タルヘキ事
入民所持ノ耕地畔際ヘ擅ニ[22]遺骸ヲ埋葬致シ候者有之趣以ノ外ノ事ニ候自今可爲嚴禁事
河岸場[23]ノ儀新規相成候儀差止候向モ有之候處自今[16]願次第吟味[24]ノ上可差許事
不定地年季[25]ヲ定メ割替[26]致シ來候向ハ向後持主相定可申立事
田畑勝手作[27]ノ儀既ニ去辛未[28]八月御差許シ有之儀[29]ニテ漸々米作ヲ減シ桑茶漆楮土地ニ相應スル物品或ハ牛馬羊豕ノ牧畜等常々心掛充分物產繁殖[30]ノ方法可相立事
但追々外國ヨリ草木禽獸類勸農寮[31]ヘ相集候上分配試驗可致筈ニ付有志ノ者ハ其筋ヘ可願出事

右條件管轄內無遺漏[32]可相觸事

   「ウィキソース」より

【注釈】

[1]風俗:ふうぞく=生活上のならわし。しきたり。風習。
[2]舊慣:きゅうかん=古くからのならわし。
[3]私法:しほう=為政者の手によらず、民衆が私的につくった法。
[4]家抱:けほう=農村における譜代の下人(下男)。
[5]家來:けらい=主君や主家に仕える者。家臣。従者。
[6]同輩:どうはい=同じ身分のもの。同じ位のもの。仲間。等輩。
[7]水吞:みずのみ=農村に居住し,田畑を所持せず,小作地を耕作して独立の生計を立てていた農民。
[8]舊習:きゅうしゅう=昔からの習慣。古いならわし。旧慣。
[9]家格:かかく=家の格式。家柄。
[10]荒蕪:こうぶ=土地が荒れて雑草などのおい茂ること。また、その土地。未開墾地。
[11]取立:とりたて=仕立て上げる。
[12]草分ケ:くさわけ=土地を切り開いて、そこに村や町を興すこと。また、その人。
[13]號ケ:さけ=叫ぶ。号する。
[14]非義:ひぎ=義理にそむくこと。道理にはずれること。非理。
[15]擧動:きょどう=立ち居振る舞い。動作。
[16]自今:じこん=今から。以後。今後。
[17]暴慢:ぼうまん=乱暴で、人をはばからぬこと。荒々しく自分勝手なこと。
[18]勝手:かって=他人のことはかまわないで、自分だけに都合がよいように振る舞うこと。また、そのさま。
[19]自他:じた=自分と他人。我と人。
[20]都テ:すべて=皆。全部。
[21]無願:むがん=望むことがない。願いなく。
[22]擅ニ:ほしいままに=》思いのままに。自分のしたいように。
[23]河岸場:かしば=船から荷を上げ下ろしする所。
[24]吟味:ぎんみ=物事を念入りに調べること。また、念入りに調べて選ぶこと。
[25]年季:ねんき=物事の期限。契約の期限。
[26]割替:わりかえ=割りなおすこと。分割しなおすこと。
[27]田畑勝手作:たはたかってづくり=田畑に主穀以外の農作物を任意に作ること。
[28]辛未:しんび=十干(じっかん)と十二支とを組み合わせたものの第八番目。
[29]御差許シ有之儀:おんさしゆるしありのぎ=1871年(明治4年9月7日)に出された大蔵省「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」のこと。
[30]繁殖:はんしょく=動物や植物が生まれて増えること。生殖により個体数がふえて再生産が行われること。
[31]勸農寮:かんのうりょう=農業振興を掌る大蔵省の内局。
[32]遺漏:いろう=行為や仕事に、もれや落ちがあること。また、そのもの。

<現代語訳>

「各地の因習旧慣を私法とするなどの禁止の件」(大蔵省118号)

一今まで土地の因習により旧慣を私法とするなどの類が時々有り、あるいは祖先の代に召し仕えた者へ地所を付与したことにより、その子孫に至るまで譜代の下人(下男)だとして、家来同様の扱いにして、一村の者、同輩に見傚させ、あるいは他より入村する者は水呑と呼んで、これまた同輩の交リができない等の類が時々有り、人民の恊和交際の道に相反することなので、右等旧習をもって家格を違えることは堅く禁止すべきこと。

一古来より未開墾地を開拓して一村を形成した者を草分けと称して、旧家であるとの理由をもって、他人を軽蔑し、往々にして道理に外れた挙動をしてきた者などが有り、もっとも祖先の功績を誇リ、今日に至っても他人を凌ぐべき理由が無い場合は、今後は右等のことを禁止し、暴慢の所業をしてはならないこと。

一農業の傍らで商業を兼営することを禁止してきたことがあったところではあるが、今後は勝手にするべきこと。

一人民が所持する地所の内、自分や他人の都合により池・沼・川溝等を掘削あるいは道路を付け替えすることは、今後すべて出願の上で指揮を受けるべきこと。

一無届で社寺[地蔵堂や稲荷の類]を創立することは以前の通り禁止するべきこと。

一人民が所持する耕地や畔際へ死体を埋葬する者がいるが、それはもっての外のことであるので以後はこれを厳禁すること。

一河岸場のことは、新規創設することは差し止めてきたところではあるが、今後は願い次第で検討の上、許可するべきこと。

一土地を定めず期間を定めて割替をしてきたところは、これからは持主を特定して申し立てること。

一田畑に作物を勝手に作ってよいことは、すでに去年8月に許可があったことであり、徐々に米作を減じ桑・茶・漆・楮など相当する物品、あるいは牛・馬・羊・豚の牧蓄等、常々心がけ充分に物産が繁殖できる方法を立てていくこと。
 ただし、追々外国より草木・禽獣の類を大蔵省勧農寮へ集めた上で、分配して試験するので、有志の者はその筋へ願い出るべきこと。

 右条件は管轄內に漏れなく伝えるべきこと。

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