ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:明治維新

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 今日は、幕末明治維新期の1869年(明治2)に、太政官に造幣局が設置された日ですが、新暦では3月17日となります。
 造幣局(ぞうへいきょく)は、貨幣の鋳造のほか、勲章・賞牌などの製造や地金銀の精製分析、合金の製造、貴金属の品位証明などを行う国の機関です。1869年(明治2年2月5日)に、貨幣司が廃止されて、太政官に造幣局が設置され、同年7月8日に、造幣寮へ改称されて大蔵省所属となりました。
 1871年(明治3)に、大阪本局が銀貨製造を開始して、創業式を挙行しましたが、1877年(明治10)に、造幣局へ改称されています。大平洋戦争後の1948年(昭和23)に、大蔵省の特別の機関となり、2001年(平成13)の省庁改編により財務省の所属となった後、2003年(平成15)に独立行政法人となりました。
 現在、大阪府大阪市に本局、埼玉県さいたま市大宮区および広島県広島市佐伯区に支局があります。

〇造幣局関係略年表

・1868年5月16日(慶応4年4月24日) 旧金座および銀座を接収する
・1868年6月11日(慶応4年閏4月21日) 貨幣司を設けて二分判および一分銀などの鋳造を引き継がせる
・1868年(慶応4年) 参与会計事務官三岡八郎、外国事務局判事五代才助らが同年に廃止されたイギリス帝国・香港造幣局の造幣機械を6万両で購入する契約を結ぶ
・1868年11月1日(明治元年9月17日) 英国建築技師トーマス・ウォートルスが雇用され局舎設計および機器購入などを担当する
・1869年3月17日(明治2年2月5日) 貨幣司が廃止されて太政官に造幣局が設置される
・1869年8月15日(明治2年7月8日) 造幣局は造幣寮へ改称されて大蔵省所属となる
・1869年(明治2年) オリエンタル・バンクとの間で貨幣鋳造条約が締結される
・1870年3月3日(明治3年2月2日) 旧香港造幣局長トーマス・ウィリアム・キンダー(キンドル)が造幣寮首長に任命される
・1871年1月17日(明治3年11月27日) 大阪本局が銀貨製造を開始する
・1871年4月4日(明治4年2月15日) 大蔵省造幣寮として創業式を挙行する
・1871年6月27日(明治4年5月10日) 「新貨条例」および「造幣規則」が布告がされて近代的貨幣制度が開始される
・1875年(明治8年)1月31日 この日限りでキンドルらお雇い外国人10人を解雇して寮務全般が改革され、試験分析局のディロンおよび冶金室のウィリアム・ゴーランド(ガウランド)に造幣頭の顧問役を兼任させる
・1877年(明治10年)1月11日 造幣局へ改称される
・1879年(明治12年)9月16日 大蔵省内で東京出張所が開設され貨幣製造のための地金受け入れ業務を開始する
・1889年(明治22年) 大阪本局の土地の一部が宮内省(現:宮内庁)の所管へ移され、その後三菱合資会社(現:三菱マテリアル)へ払い下げられる
・1907年(明治40年)5月17日 東京支局が廃止される
・1929年(昭和4年)7月1日 東京市麹町区内幸町へ東京出張所が再設される
・1939年(昭和14年)11月20日 東京出張所が豊島区西巣鴨へ移転する
・1943年(昭和18年)9月1日 東京出張所が造幣局東京支局へ改称される
・1945年(昭和20年)4月13日 造幣局東京支局が空襲で全焼し事業を停止する
・1945年(昭和20年)6月7日 大阪本局も空襲で被災し工場の一部を焼失する
・1945年(昭和20年)2月1日 広島県佐伯郡五日市町へ造幣局広島支局が開設される
・1945年(昭和20年)8月6日 広島市への原子爆弾投下により被災する
・1946年(昭和21年)1月15日 造幣局広島支局の貨幣製造を再開する
・1946年(昭和21年)1月 東京支局も貨幣製造を再開する
・1949年(昭和24年)6月1日 大蔵省の外局であり、長官を長とする造幣庁となる
・1952年(昭和27年)8月1日 大蔵省の附属機関である造幣局となる
・1984年(昭和59年)7月1日 「国家行政組織法」の改正により、位置づけが蔵省の特別の機関となる
・2003年(平成15年)4月1日 独立行政法人化される
・2012年(平成24年)9月 東京支局がさいたま市のさいたま新都心隣接地(三菱マテリアル所有地を取得)へ移転することを発表する
・2016年(平成28年)10月3日 東京支局がさいたま市に移転開局すると共に、さいたま支局に改称される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家尾崎士郎の誕生日詳細
1901年(明治34)官営八幡製鉄所の第一鎔鉱炉で火入れ式が行われ、操業開始する詳細
1913年(大正2) 第30帝国議会衆議院本会議において、尾崎行雄の桂首相弾劾演説が行われる詳細
1920年(大正8)八幡製鉄所で職工2万4千人がストライキに入る(八幡製鉄所争議)詳細
1936年(昭和11)日本職業野球聯盟が設立される(プロ野球の日)詳細
1943年(昭和18)東条英機内閣によって、「大東亜要員錬成要綱」が閣議決定される詳細
1981年(昭和56)恒久的輸送機関として初めての新交通システムとなる神戸新交通ポートアイランド線が開業する詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書」(行政官布告第1号)が発布され、一世一元の制となり、明治に改元された日ですが、新暦では10月23日となります。
 「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書」(こんごねんごうはおんいちだいいちごうにさだめけいおうよねんをあらためてめいじがんねんとなすおよびしょうしょ)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年9月8日)に発布され、天皇一代に元号一つだけとする一世一元の制を定めた行政官布告第1号です。
 桓武天皇時代の延暦(782~805年)をはじめ、平安前期の淳和天皇まで(~833年)の4代に渡り、一世一元の時期もありましたが、その後は、祥瑞・災異・辛酉革命・甲子革令などさまざまな理由にもとづく改元が行われるようになり、天皇一代に数号の元号という場合がみられるようになりました。明治維新の時に、岩倉具視の主張に基づいて、この「行政官布告第1号」によって、一世一元の制が導入され、この時から、元号は天皇の統治年を示すものとなります。
 その後、1889年(明治22)発布の「皇室典範」、1909年(明治42)公布の「登極令(とうきょくれい)」によって、より明確化するかたちで法制化されました。しかし元号は、1947年(昭和22)の「日本国憲法」制定に伴う皇室典範などの改廃により、国民主権の理念にふさわしくないものとして明文法上の根拠を喪失します。
 ところが、1979年(昭和54)に「元号法」が成立し、明文法上も一世一元の制は復活しました。

〇「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書」1868年(慶応4年9月8日)発布

<原文>

今般 御卽位御大禮被爲濟先例之通被爲改年號候就テハ是迄吉凶之象兆ニ隨ヒ屢改號有之候得共自今 御一代一號ニ被定候依之改慶應四年可爲明治元年旨被 仰出候事

詔書
詔體太乙而登位膺景命以改元洵聖代之典型而萬世之標準也朕雖否德幸賴 祖宗之靈祇承鴻緖躬親萬機之政乃改元欲與海內億兆更始一新其改慶應四年爲明治元年自今以後革易舊制一世一元以爲永式主者施行

明治元年九月八日

<書き下し文>

詔書
太乙を体して位に登り、景命を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す。乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す。其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ。

明治元年九月八日

〇「皇室典範」1889年(明治22)2月11日

第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ

〇「登極令」1909(明治42)年2月11日発布

第一條 天皇踐祚ノ時ハ卽チ掌典長ヲシテ賢所ニ祭典ヲ行ハシメ且踐祚ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告セシム

第二條 天皇踐祚ノ後ハ直ニ元號ヲ改ム  元号ハ樞密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス

第三條 元號ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス

第四條 卽位ノ禮及大嘗祭ハ秋冬ノ間ニ於テ之ヲ行フ  大嘗祭ハ卽位ノ禮ヲ訖リタル後續テ之ヲ行フ

第五條 卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行フトキハ其ノ事務ヲ掌理セシムル爲宮中ニ大禮使ヲ置ク

第六條 卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行フ期日ハ宮内大臣國務各大臣ノ連署ヲ以テ之ヲ公告ス

第七條 卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行フ期日定マリタルトキハ之ヲ賢所皇霊殿神殿ニ奉告シ勅使ヲシテ神宮神武天皇山陵並前帝四代ノ山陵ニ奉幣セシム

第八條 大嘗祭ノ齋田ハ京都以東以南ヲ悠紀ノ地方トシ京都以西以北ヲ主基ノ地方トシ其ノ地方ハ之ヲ勅定ス

第九條 悠紀主基ノ地方ヲ勅定シタルトキハ宮内大臣ハ地方長官ヲシテ齋田ヲ定メ其ノ所有者ニ対シ新穀ヲ供納スルノ手續ヲ爲サシム

第十條 稻實成熟ノ期至リタルトキハ勅使ヲ発遣シ齋田ニ就キ抜穂ノ式ヲ行ハシム

第十一條 卽位ノ禮ヲ行フ期日ニ先タチ天皇神器ヲ奉シ皇后ト共ニ京都ノ皇宮ニ移御ス

第十二條 卽位ノ禮ヲ行フ當日勅使ヲシテ之ヲ皇霊殿神殿ニ奉告セシム  大嘗祭ヲ行フ當日勅使ヲシテ神宮皇霊殿神殿竝官國幣社ニ奉幣セシム

第十三條 大嘗祭ヲ行フ前一日鎭魂ノ式ヲ行フ

第十四條 卽位ノ禮及大嘗祭ハ附式ノ定ムル所ニ依リ之ヲ行フ

第十五條 卽位ノ禮及大嘗祭訖リタルトキハ大饗ヲ賜フ

第十六條 卽位ノ禮及大嘗祭訖リタルトキハ天皇皇后ト共ニ神宮神武天皇山陵並前帝四代ノ山陵ニ謁ス

第十七條 卽位ノ禮及大嘗祭訖リテ東京ノ宮城ニ還幸シタルトキハ天皇皇后ト共ニ皇霊殿神殿ニ謁ス

第十八條 諒闇中ハ卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行ハス

 附 式 (略)

〇「元号法」(昭和54年法律第43号)1979年(昭和54)6月12日公布

  元号法

1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

   附 則

1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項に基づき定められたものとする。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1658年(万治元)江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消が始まる(新暦10月4日)詳細
1775年(安永4)俳人加賀千代女(千代尼)の命日(新暦10月2日)詳細
1864年(元治元)化学者池田菊苗の誕生日(新暦10月8日)詳細
1873年(明治6)教育家・婦人ジャーナリストの先駆者羽仁もと子の誕生日詳細
1904年(明治37)「屯田兵条例」が廃止され、屯田兵制度が終わる詳細
1951年(昭和26)「サンフランシスコ平和条約」が調印される詳細
「日米安全保障条約」(旧)が調印される詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)に、戊辰戦争の箱館の戦い(箱館戦争)において、榎本武揚軍が五稜郭を占領した日ですが、新暦では12月9日となります。
 五稜郭(ごりょうかく)は、幕末の1857年(安政4)に、北方防備のための洋式城郭として築城が開始され、1866年(慶応2)に完成しました。その後、1868年(慶応4)から翌年にかけて、戊辰戦争の最後の闘いである箱館の戦い(箱館戦争)が行われたことで有名です。
 これで、旧幕府勢力による抵抗は終焉しました。現在、五稜郭跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、「五稜郭公園」として保存されていて、巡ることができます。
 尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されました。また、公園内に、2010年(平成22)に「箱館奉行所」が木造で復元されて、一般公開されています。

〇戊辰戦争とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦です。鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 最後の箱館の戦い(箱館戦争)は、10月26日の榎本武揚軍による箱館五稜郭の占領に始まり、11月15日に暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没、翌年3月9日に箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発します。5月11日から箱館総攻撃が始まり、5月18日に五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して終結し、戊辰戦争が終わりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来します。これにより、明治臣政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになりました。

☆戊辰戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)>
・1月3日  「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる 
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる 
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸開城が無血で行われる
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日  奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日  長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる 
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館の五稜郭を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細


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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、明治新政府から「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)が出され、下人(下男)の取り扱いの是正、商業兼業の許可、田畑勝手作の推進などを通達した日ですが、新暦では10月2日となります。
 「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」は、明治維新の改革を進める明治新政府によって出された、各地の土地の因習旧慣を是正するための大蔵省達(第118号)でした。計画されていた地租改正にともなう租税の金納化に備えた措置としての田畑勝手作の推進、土地所有者の特定、商業兼業の許可などであり、下人(下男)の取り扱いの是正も達せられます。
 その後、地券を発行し、1873年(明治6)7月28日には、「上諭」と「太政官布告第272号」、「地租改正条例」を発し、①課税標準を従来の収穫量から地価に改める、②税率は100分の3をもって、豊凶に関係なく定率とする、③物納を廃し、すべて金納として、土地所有者に課税するというものとなりました。
 以下に、「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)を現代語訳・注釈付で、全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)明治5年8月30日

「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)

從前土地ノ風俗[1]ニ因リ舊慣[2]ヲ私法[3]トナシ候類間々有之祖先ノ代々召仕候者ヘ地所ヲ付與致シ候分其子孫ニ至ル迄家抱[4]杯ト唱ヘ家來[5]同樣ノ扱ヒニ致シ一村ノ者同輩[6]ニ見倣サス或ハ他ヨリ人材スル者ハ水吞[7]ト唱ヘ是亦同輩[6]ノ交リ不致等ノ類間々有之人民協和交際ノ道ニ相背キ候間右等舊習[8]ヲ以家格[9]相立候儀堅ク可令禁止事
古來荒蕪[10]ノ地ヲ拓キ一村ヲ取立[11]候モノ之ヲ草分ケ[12]ト號ケ[13]舊家タルノ故ヲ以テ他人ヲ輕蔑致シ往々非義[14]ノ擧動[15]致シ候者有之趣最眼先ノ功績ニ誇今日ニ至リ他人ヲ凌クヘキノ理無之候間自今[16]右等ノ唱令禁止暴慢[17]ノ所業致スヘカラサル事
農業ノ傍商業ヲ相營ミ候儀禁止致シ候向モ有之候處自今勝手[18]タルヘキ事
人民所持地所ノ內自他[19]ノ都合ニ依リ池沼川溝等ヲ堀割或ハ道路ヲ附替イタシ候儀自今[16]都テ[20]出願ノ上指揮ヲ受ヘキ事
無願[21]ニシテ社寺(地藏堂稻荷ノ類)創立致シ候儀從前ノ通禁制タルヘキ事
入民所持ノ耕地畔際ヘ擅ニ[22]遺骸ヲ埋葬致シ候者有之趣以ノ外ノ事ニ候自今可爲嚴禁事
河岸場[23]ノ儀新規相成候儀差止候向モ有之候處自今[16]願次第吟味[24]ノ上可差許事
不定地年季[25]ヲ定メ割替[26]致シ來候向ハ向後持主相定可申立事
田畑勝手作[27]ノ儀既ニ去辛未[28]八月御差許シ有之儀[29]ニテ漸々米作ヲ減シ桑茶漆楮土地ニ相應スル物品或ハ牛馬羊豕ノ牧畜等常々心掛充分物產繁殖[30]ノ方法可相立事
但追々外國ヨリ草木禽獸類勸農寮[31]ヘ相集候上分配試驗可致筈ニ付有志ノ者ハ其筋ヘ可願出事

右條件管轄內無遺漏[32]可相觸事

   「ウィキソース」より

【注釈】

[1]風俗:ふうぞく=生活上のならわし。しきたり。風習。
[2]舊慣:きゅうかん=古くからのならわし。
[3]私法:しほう=為政者の手によらず、民衆が私的につくった法。
[4]家抱:けほう=農村における譜代の下人(下男)。
[5]家來:けらい=主君や主家に仕える者。家臣。従者。
[6]同輩:どうはい=同じ身分のもの。同じ位のもの。仲間。等輩。
[7]水吞:みずのみ=農村に居住し,田畑を所持せず,小作地を耕作して独立の生計を立てていた農民。
[8]舊習:きゅうしゅう=昔からの習慣。古いならわし。旧慣。
[9]家格:かかく=家の格式。家柄。
[10]荒蕪:こうぶ=土地が荒れて雑草などのおい茂ること。また、その土地。未開墾地。
[11]取立:とりたて=仕立て上げる。
[12]草分ケ:くさわけ=土地を切り開いて、そこに村や町を興すこと。また、その人。
[13]號ケ:さけ=叫ぶ。号する。
[14]非義:ひぎ=義理にそむくこと。道理にはずれること。非理。
[15]擧動:きょどう=立ち居振る舞い。動作。
[16]自今:じこん=今から。以後。今後。
[17]暴慢:ぼうまん=乱暴で、人をはばからぬこと。荒々しく自分勝手なこと。
[18]勝手:かって=他人のことはかまわないで、自分だけに都合がよいように振る舞うこと。また、そのさま。
[19]自他:じた=自分と他人。我と人。
[20]都テ:すべて=皆。全部。
[21]無願:むがん=望むことがない。願いなく。
[22]擅ニ:ほしいままに=》思いのままに。自分のしたいように。
[23]河岸場:かしば=船から荷を上げ下ろしする所。
[24]吟味:ぎんみ=物事を念入りに調べること。また、念入りに調べて選ぶこと。
[25]年季:ねんき=物事の期限。契約の期限。
[26]割替:わりかえ=割りなおすこと。分割しなおすこと。
[27]田畑勝手作:たはたかってづくり=田畑に主穀以外の農作物を任意に作ること。
[28]辛未:しんび=十干(じっかん)と十二支とを組み合わせたものの第八番目。
[29]御差許シ有之儀:おんさしゆるしありのぎ=1871年(明治4年9月7日)に出された大蔵省「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」のこと。
[30]繁殖:はんしょく=動物や植物が生まれて増えること。生殖により個体数がふえて再生産が行われること。
[31]勸農寮:かんのうりょう=農業振興を掌る大蔵省の内局。
[32]遺漏:いろう=行為や仕事に、もれや落ちがあること。また、そのもの。

<現代語訳>

「各地の因習旧慣を私法とするなどの禁止の件」(大蔵省118号)

一今まで土地の因習により旧慣を私法とするなどの類が時々有り、あるいは祖先の代に召し仕えた者へ地所を付与したことにより、その子孫に至るまで譜代の下人(下男)だとして、家来同様の扱いにして、一村の者、同輩に見傚させ、あるいは他より入村する者は水呑と呼んで、これまた同輩の交リができない等の類が時々有り、人民の恊和交際の道に相反することなので、右等旧習をもって家格を違えることは堅く禁止すべきこと。

一古来より未開墾地を開拓して一村を形成した者を草分けと称して、旧家であるとの理由をもって、他人を軽蔑し、往々にして道理に外れた挙動をしてきた者などが有り、もっとも祖先の功績を誇リ、今日に至っても他人を凌ぐべき理由が無い場合は、今後は右等のことを禁止し、暴慢の所業をしてはならないこと。

一農業の傍らで商業を兼営することを禁止してきたことがあったところではあるが、今後は勝手にするべきこと。

一人民が所持する地所の内、自分や他人の都合により池・沼・川溝等を掘削あるいは道路を付け替えすることは、今後すべて出願の上で指揮を受けるべきこと。

一無届で社寺[地蔵堂や稲荷の類]を創立することは以前の通り禁止するべきこと。

一人民が所持する耕地や畔際へ死体を埋葬する者がいるが、それはもっての外のことであるので以後はこれを厳禁すること。

一河岸場のことは、新規創設することは差し止めてきたところではあるが、今後は願い次第で検討の上、許可するべきこと。

一土地を定めず期間を定めて割替をしてきたところは、これからは持主を特定して申し立てること。

一田畑に作物を勝手に作ってよいことは、すでに去年8月に許可があったことであり、徐々に米作を減じ桑・茶・漆・楮など相当する物品、あるいは牛・馬・羊・豚の牧蓄等、常々心がけ充分に物産が繁殖できる方法を立てていくこと。
 ただし、追々外国より草木・禽獣の類を大蔵省勧農寮へ集めた上で、分配して試験するので、有志の者はその筋へ願い出るべきこと。

 右条件は管轄內に漏れなく伝えるべきこと。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1863年(文久3)洋画家原田直次郎の誕生日(新暦10月12日)詳細
1900年(明治33)幸徳秋水の『自由党を祭る文』が「万朝報」に掲載される詳細
1941年(昭和16)金属類回収令」が公布される詳細
1984年(昭和59)小説家・劇作家・演出家有吉佐和子の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16年)に、公卿・政治家岩倉具視が亡くなった日です。
 岩倉具視(いわくら ともみ)は、江戸時代後期の1825年(文政8年9月15日)に、京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれましたが、幼名は周丸(かねまる)と言いました。1837年(天保8)に岩倉具慶の養子となり、岩倉具視を名乗るようになります。
 1838年(天保9)に従五位下に叙位され、同年に元服し、昇殿を許されました。1853年(嘉永6)に、歌道を通じて関白鷹司政通に接するわうになり、1854年(安政元)には、孝明天皇の侍従となります。
 1858年(安政5)に、幕府の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、88人の公家の列参(集団行動)で反対して、勅許を失敗させました。1860年(万延元)に、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、公武合体をとなえて、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現します。
 1862年(文久2)に和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任して、洛北の岩倉村に蟄居し、落髪して法名を友山としました。1867年(慶応3)には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下すことに成功し、処分を解除され、尊王討幕派と結び、王政復古のクーデタを成功させます。
 それによって、明治新政府の中枢にすわり、議定、副総裁、大納言を経て、1871年(明治4)には、右大臣となりました。また、同年特命全権大使となって、政府首脳を率い渡欧(岩倉使節団)、欧米の文化・制度を視察します。
 1873年(明治6)帰国後は、征韓論に反対し、同年10月には太政大臣代理となり、征韓中止の勅裁を得ました。自由民権運動を弾圧し、天皇制による立憲制確立のために、井上毅に欽定憲法の原則「大綱領」を起草させます。
 また、宮廷改革にも意を配り、皇室財産確立を意図し、華族の財産保護を目的とした第十五銀行、華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど華族の地位を擁護し、近代天皇制の確立に努めました。しかし、1883年(明治16)7月20日に、東京において、数え年59歳で亡くなり、太政大臣を追贈されると共に、国葬が執り行われています。

〇岩倉具視関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1825年(文政8年9月15日) 京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれる
・1837年 (天保8年8月8日)  岩倉具慶の養子となる
・1838年(天保9年10月28日) 従五位下に叙位される
・1838年(天保9年12月11日) 元服し、昇殿を許される
・1841年(天保12年6月4日) 従五位上に昇叙される
・1845年(弘化2年2月18日) 正五位下に昇叙される
・1853年(嘉永6年) 歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接する
・1854年(安政元年3月20日) 孝明天皇の侍従となる
・1854年(安政元年6月10日) 従四位下に昇叙する
・1858年(安政5年2月) 幕府の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏する
・1860年(万延元年) 桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現する
・1860年(万延元年12月29日) 右近衛権少将に転任する
・1861年(万延2年1月5日) 正四位下に昇叙する
・1861年(文久元年) 和宮に随従し江戸に赴き帰京する
・1862年(文久2年4月) 島津久光に面会、「三事策」を提示して公武合体運動を支持する
・1862年(文久2年5月15日) 左近衛権中将に転任する
・1862年(文久2年8月20日) 和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任し、蟄居する
・1862年(文久2年8月22日) 落髪し、法名を友山とする
・1865年(慶応元年)春頃 非蔵人松尾相永の訪問を受けてより、同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し、政界復帰への意欲を深める
・1866年(慶応2年8月) 親幕派の関白二条斉敬、朝彦親王の追放を策謀、同志の大原重徳、中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗する
・1867年(慶応3年6月) 坂本竜馬、中岡慎太郎、次いで大久保利通との交流が始まる
・1867年(慶応3年10月) 中山忠能、正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す
・1867年(慶応3年12月8日) 処分を解除される
・1867年(慶応3年12月9日) 政変を断行し、明治政府参与を兼務する
・1867年(慶応3年12月27日) 明治新政府参与から議定に異動兼務する
・1868年(慶応4年1月9日) 明治新政府の副総裁を兼任する
・1868年(慶応4年1月27日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督兼務する
・1868年(慶応4年2月2日) 従三位昇叙し、右兵衛督に任官する(時に、政府副総裁議定会計事務総督海陸軍事務総督従三位行右兵衛督)
・1868年(慶応4年2月20日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督辞職する
・1868年(慶応4年閏4月20日) 政府副総裁を辞職する
・1868年(慶応4年閏4月21日) 政府制度改正により、議政官たる上局議定及び輔相を兼務する
・1868年(明治2年1月7日) 輔相を辞任する
・1868年(明治2年1月25日) 正二位に昇叙し、権大納言に転任する
・1868年(明治2年7月8日) 制度改正により、上局議定より大納言に異動する
・1868年(明治2年8月) 王政復古の功により永世禄として5,000石を授けられる
・1868年(明治2年11月23日) 兵部省御用掛兼務となる
・1869年(明治3年) 勅使として鹿児島,山口へ赴き、島津久光、毛利敬親に面会、新政府強化のため両藩の協力を要請する
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県に伴う官制改革で外務卿となる
・1871年(明治4年10月8日) 右大臣並びに遣外使節団特命全権大使に異動する
・1871年(明治4年11月12日) 条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国の巡回へ向かう
・1873年(明治6年)9月13日 米欧視察から帰国する
・1873年(明治6年)10月20日 太政大臣代理を兼任するが、同日のみとなる
・1873年(明治6年)10月24日 征韓中止の勅裁を得る
・1874年(明治7年)1月 赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる
・1876年(明治9年)4月9日 華族会館長に就任する
・1876年(明治9年)5月18日 従一位昇叙する
・1876年(明治9年)5月26日 華族督部長兼務する
・1876年(明治9年)12月29日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させる
・1882年(明治15年)11月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1882年(明治15年)11月15日 華族督部長職廃止に伴い止む
・1882年(明治15年)12月4日 華族会館長を辞職する
・1883年(明治16年)4月7日 宮内省編纂局総裁心得を兼務する
・1883年(明治16年)7月20日 東京において、数え年59歳で亡くなる
・1883年(明治16年)7月23日 太政大臣が追贈される
・1883年(明治16年)7月25日 国葬が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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