ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:明治新政府

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 今日は、明治時代前期の1870年(明治3)に、山縣有朋がヨーロッパへの軍事制度の視察から帰国した日ですが、新暦では8月28日となります。
 山県有朋(やまがた ありとも)は、幕末から明治・大正期に活躍した軍人・政治家で元老の筆頭格です。江戸時代後期の1838年(天保9年6月14日)に長門国萩城下で、長州藩下級士族山県有稔の長男(母は同藩士岡治助の娘松子)として生まれましたが、幼名辰之助(のち小輔、さらに狂介)と言いました。
 吉田松陰の松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加、1863年(文久3)に奇兵隊軍監に抜擢されましたが、翌年の英米仏蘭4国連合艦隊との交戦(4国艦隊下関砲撃事件)で負傷します。1866年(慶応2)の第二次長州征伐に従軍、1868年(慶応4)の戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として越後、奥羽に転戦しました。
 1869年(明治2年)に渡欧して各国軍制を視察、翌年帰国後、兵部少輔となって兵制改革を担当、1871年(明治4)の廃藩置県の実施後、兵部大輔となります。翌年に陸軍大輔、陸軍中将となり、1873年(明治6年)に徴兵制を主張してこれを実現、陸軍卿となりました。
 1874年(明治7)の佐賀の乱、1877年(明治10)の西南戦争に出征して鎮圧、翌年には参謀本部を設置して軍政・軍令機関の二元化を行い、初代参謀本部長となり、1882年(明治15)には「軍人勅諭」を起案、頒布します。1882年(明治15)に参事院議長となり、翌年に内務卿に就任して自由民権運動を弾圧、1884年(明治17)に伯爵となり、1887年(明治20)には内相として「保安条例」を公布し、三大事件建白運動を抑え込みました。
 1889年(明治22)に第一次山県内閣を組織し、翌年の第一回帝国議会に臨み軍備拡張を主張し、「民力休養」を掲げた民党と対立します。同年の「教育勅語」の発布を進めましたが、翌年には内閣総辞職しました。
 1894年(明治27年)の日清戦争には第1軍を率いて出征したものの、病気で帰国、1895年(明治28)に元勲優遇となり、侯爵ともなります。1896年(明治29)に全権大使としてモスクワで山県=ロバノフ協定を締結、1898年(明治31)に元帥となり、第一次大隈内閣瓦解の後を受けて、第二次山県内閣を組織し、1900年(明治33)には「治安警察法」を公布しました。
 1901年(明治34)に日英同盟を締結させ、対露戦準備を強行、1904年(明治37)の日露開戦に際しては参謀総長として作戦指導に当たります。1907年(明治40)に公爵となり、同年の「帝国国防方針」の策定を進め、軍備拡張、軍部の政治的地位の強化に努め、1909年(明治42)に伊藤博文が暗殺されると元老としての地位を強め、山県閥、軍部勢力を背景に内政、外交に絶大な力を発揮しました。
 しかし、1921年(大正10)の皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)に失敗し、政治生命を失ない、神奈川県小田原の別邸・古稀庵に閉じこもったまま、翌年2月1日に数え年85歳で亡くなり、2日後に国葬が執り行われています。

〇山県有朋関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1838年(天保9年6月14日) 長州藩下級士族山県有稔の長男として長門国萩城下に生まれる
・1842年(天保13年) 5歳の時に母が病死する
・1858年(安政5年) 21歳の時に藩命で伊藤博文ら5名と京都に派遣されて以来尊王攘夷運動に参加する
・1863年(文久3年) 奇兵隊軍監に抜擢され壇ノ浦支営司令となる
・1864年(元治元年8月) 英米仏蘭4国連合艦隊と交戦(4国艦隊下関砲撃事件)して負傷する
・1866年(慶応2年) 第二次長州征伐に従軍する
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として越後、奥羽に転戦する
・1869年(明治2年) 渡欧して各国軍制を視察する
・1870年(明治3年) 帰国し、兵部少輔となる
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県の実施、兵部大輔となる
・1870年(明治3年8月28日) 従五位となる
・1872年(明治5年) 陸軍大輔、陸軍中将となる
・1872年(明治5年12月12日) 従四位となる
・1873年(明治6年)1月 徴兵制を主張し、これを実現する
・1873年(明治6年) 陸軍卿となる
・1873年(明治6年)11月15日 正四位となる
・1874年(明治7年)2月 佐賀の乱を鎮圧し、参議となる
・1877年(明治10年) 西南戦争に征討参軍として出征する
・1877年(明治10年)11月2日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1878年(明治11年) ドイツに倣って参謀本部を設置して軍政・軍令機関の二元化を行い、初代参謀本部長となる
・1878年(明治11年)8月 「軍人訓誡」を頒布する
・1880年(明治13年)6月15日 フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシエを受章する
・1881年(明治14年) 明治14年の政変では、伊藤博文、岩倉具視らと謀って大隈重信一派の政府外追放を行い、プロシア流憲法制定の方向を確定する
・1882年(明治15年)1月 「軍人勅諭」を起案、頒布する
・1882年(明治15年) 参事院議長となる
・1883年(明治16年) 内務卿に就任して自由民権運動を弾圧する
・1884年(明治17年)7月7日 「華族令」の制定により伯爵となる
・1884年(明治17年)12月27日 従三位となる
・1886年(明治19年)10月19日 従二位となる
・1886年(明治19年)12月22日 一等王冠勲章を受章する
・1887年(明治20年)7月 官僚制度の出発点となる文官試験制度を施行する
・1887年(明治20年)8月25日 キリスト勲章グランクロアを受章する
・1887年(明治20年)12月 内相として保安条例を公布し三大事件建白運動を抑える
・1888年(明治21年)4月 市制・町村制の制定に尽力する
・1889年(明治22年)10月30日 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章グラン・コルドーネを受章する
・1889年(明治22年)10月30日 白鷲勲章を受章する
・1889年(明治22年)10月30日 ドイツ帝国赤鷲第一等勲章を受章する
・1889年(明治22年)12月 第一次山県内閣を組織する
・1890年(明治23年)5月 府県制・郡制の制定に尽力する
・1890年(明治23年) 陸軍大将に昇進する
・1890年(明治23年)11月 第一議会に臨み軍備拡張を主張し、「民力休養」を掲げた民党と対立する
・1890年(明治23年)11月22日 一等鉄冠勲章を受章する
・1891年(明治24年)4月8日 銀製黄綬褒章を受章する
・1891年(明治24年)5月 内閣総辞職する
・1894年(明治27年) 日清戦争には第1軍を率いて出征しましたが、病気で帰国する
・1895年(明治28年)5月26日 元勲優遇となる
・1895年(明治28年)8月5日 旭日桐花大綬章・功二級金鵄勲章を受章する
・1895年(明治28年)8月5日 侯爵となる
・1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章を受章する
・1895年(明治28年)12月20日 正二位となる
・1896年(明治29年)6月 全権大使としてモスクワで山県=ロバノフ協定を締結する
・1896年(明治29年)10月28日 ロシア帝国神聖アレクサンドルネフスキー大綬章を受章する
・1897年(明治30年)5月7日 レジオンドヌール勲章グランクロワを受章する
・1898年(明治31年)1月20日 元帥となり、元帥徽章を受章する
・1898年(明治31年)11月 第一次大隈内閣瓦解の後を受けて、第二次山県内閣を組織する
・1899年(明治32年)6月14日 ドイツ帝国赤鷲大綬章を受章する
・1900年(明治33年)3月 「治安警察法」を公布する
・1900年(明治33年)6月 義和団事件に際し、最大の軍隊を中国に派遣し、列強に協力して、帝国主義国としての地歩を固める
・1900年(明治33年)9月 伊藤博文が立憲政友会を組織すると、伊藤を後継首班に推薦して総辞職する
・1901年(明治34年)6月 第一次桂太郎内閣が成立すると黒幕として背後から援助し、日英同盟を締結させ、対露戦準備を強行させる
・1902年(明治35年)6月3日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1902年(明治35年)5月10日 明治三十三年従軍記章を受章する
・1904年(明治37年) 日露戦争に際しては参謀総長として作戦指導に当たる
・1906年(明治39年)4月1日 菊花章頸飾・功一級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章を受章する
・1906年(明治39年)4月5日 メリット勲章を受章する
・1907年(明治40年)2月2日 御紋付御杯を受ける
・1907年(明治40年)9月21日 公爵となる
・1907年(明治40年)4月 「帝国国防方針」の策定を進め、軍備拡張、軍部の政治的地位の強化に努める
・1908年(明治41年)3月12日 金尺大勲章を受章する
・1909年(明治42年)10月 伊藤博文が暗殺されると元老としての地位を強め、山県閥、軍部勢力を背景に内政、外交に絶大な力を発揮する
・1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章を受章する
・1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)を受章する
・1916年(大正5年)1月14日 金剛石装飾神聖アレクサンドル・ネフスキー勲章を受章する
・1916年(大正5年)4月1日 金杯一組・大正三四年従軍記章を受章する
・1917年(大正6年)1月20日 御紋付銀杯を受ける
・1918年(大正7年)7月3日 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスを受章する
・1918年(大正7年)7月 米騒動では大きな衝撃を受ける
・1918年(大正7年)9月 政友会総裁原敬を首相候補に推薦し、政党内閣を認めるに至る
・1920年(大正9年)9月7日 金盃一組を受ける
・1921年(大正10年) 皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)に失敗し、政治生命を失なう
・1922年(大正11年)2月1日 神奈川県小田原の別邸・古稀庵において、数え年85歳で亡くなり、従一位となる
・1922年(大正11年)2月3日 国葬が執り行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

901年(延喜元)六国史一番最後の『日本三代実録』が完成する詳細
1721年(享保6)徳川吉宗の命で江戸・評定所の門前に目安箱が設置される(新暦9月23日)詳細
1738年(元文3)俳人上島鬼貫の命日(新暦9月15日)詳細
1864年(元治元)14代将軍徳川家茂が中国・四国など35藩に長州征討(第一次長州征討)の為の出兵を命令(新暦9月2日)詳細
1918年(大正7)寺内正毅内閣によって、日本軍が英・米・仏軍と共に、シベリア出兵することが閣議決定される詳細
1945年(昭和20)アメリカ軍のB-29爆撃機174機による富山大空襲で、市街地の99.5%を焼失、死者2,737人を出す詳細
ドイツのベルリン郊外でのポツダム会談(アメリカ・イギリス・ソ連3国の首脳会談)が終了する詳細
1947年(昭和22)中学校用『あたらしい憲法のはなし』・高校用『民主主義の手引』の副読本発行詳細
2007年(平成19)関西国際空港の第二滑走路(B滑走路)がオープンし、国内初の完全24時間空港になる詳細
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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、明治新政府により、下関事件による英米仏蘭4か国への賠償金の支払いが完了した日です。
 下関事件(しものせきじけん)は、幕末の1863年(文久3)に攘夷親征の朝旨を実現するため、江戸幕府の攘夷実行開始期日の5月10日に、長州藩が下関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を加え、さらに同月23日にフランス軍艦、25日にオランダ軍艦にも砲撃した事件です。この結果、同年6月5日に報復として、アメリカとフランスの軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃しました。
 しかし、長州藩は攘夷の態度を続け、翌元治元年7月19日に兵を京都へ派遣し、幕府側と交戦して御所にまで侵入するが撃退される「禁門の変(蛤御問の変)」を起こします。ところが、長州勢は完敗し、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、真木和泉らは自刃するなど急進的指導者の大半を失うこととなり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失しました。
 これを機に、長州藩は朝敵となり、江戸幕府の第一次長州征伐が行われることになります。尚、イギリス・フランス・オランダ・アメリカは再び報復のため、同年7月27日・28日に、キューパー中将(イギリス)を総司令官とする4ヶ国連合艦隊を横浜から出港させ、関門海峡に至って、8月5日から砲撃を始めました。
 長州藩側も応戦したものの、戦力に大きな開きがあり、8日までに長州藩の砲台は破壊されたり、上陸した4ヶ国側の兵員に占拠される「四国連合艦隊砲撃事件」が起こります。そこで、長州藩は8月8日に講和使節の使者に高杉晋作を任じ、4ヶ国連合艦隊との交渉を進め、同月18日に下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立しました。
 これらの戦争を通じて列国の軍事力を目の当たりにした長州藩は、列国に接近しつつ、強力な統一国家建設を目指して、倒幕運動に向かうことになります。尚、1874年(明治7)に、明治新政府により、下関事件による英米仏蘭4か国への賠償金の支払いが完了しました。

〇「下関事件」関係略年表(日付は旧暦です)

<1853年(嘉永6)>
・7月8日 ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る

<1854年(安政元)>
・3月31日 江戸幕府は「日米和親条約」を締結する

<1858年(安政5)>
・7月29日 アメリカの強い要求により、江戸幕府は「日米通商修好条約」を締結する
 以後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結ぶ(安政五ヶ国条約)

<1860年(万延元)>
・3月3日 水戸・薩摩脱藩浪士によって、江戸幕府大老井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変)

<1861年(文久元)>
・3月 直目付長井雅楽が藩主毛利慶親に対し、藩の政治活動方針として「航海遠略策」を建白する
 以後、公武合体策を藩論としようとする

<1862年(文久2)>
・1月15日 坂下門外の変が起こり、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が失脚する
・2月11日 和宮と江戸幕府第14代将軍家茂の婚礼が行われる(和宮降嫁)
・6月 長州藩の公武合体派長井雅楽が藩主から罷免される
・8月21日 生麦事件が起きる

<1863年(文久3)>
・2月6日 長井雅楽が死罪を得る
・3月4日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂が上洛する
・5月10日 江戸幕府は攘夷実行日(諸藩にも通達)とし、長州藩がアメリカ商船に対し砲撃を行う(下関事件)
・5月23日 長州藩がフランス軍艦に対し砲撃を行う(下関事件)
・5月25日 長州藩がオランダ軍艦に対し砲撃を行う(下関事件)
・6月5日 報復として米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃する(下関事件)
・7月2~4日 薩英戦争が起きる

<1864年(元治元)>
・6月5日 池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害・捕縛される
・7月19日 長州藩は兵を京都へ派遣し、幕府側と交戦して御所にまで侵入するが撃退される(禁門の変)
・7月23日 朝廷は江戸幕府へ対して長州追討の勅命を発する(第一次長州征討)
・7月27日・28日 キューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊が横浜を出港する
・8月5~8日 英・仏・米・蘭連合艦隊が、下関と彦島の砲台を砲撃・占領する(四国艦隊下関砲撃事件)
・8月8日 長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じる
・8月18日 下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立する

<1874年(明治7)>
・7月31日 明治新政府により、下関事件による英米仏蘭4か国への賠償金の支払いが完了する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)民俗学者柳田國男の誕生日詳細
1924年(大正13)村上駅~鼠ケ関駅間の延伸開業で羽越本線が全通し、敦賀駅~青森駅間の日本海縦貫線が完成する詳細
1948年(昭和23)「政令201号」により公務員の団体交渉権が厳しく制限され、争議権が否認される詳細
1951年(昭和26)戦後初の国内民間航空会社である日本航空(会長:藤山愛一郎)の創立総会が開催される詳細
1952年(昭和27)警察予備隊を保安隊に改組するための「保安庁法」が制定公布される詳細
1985年(昭和60)東京に於て、「日中原子力協定」が締結される詳細
1986年(昭和61)外交官・在リトアニア日本領事代理杉原千畝の命日詳細
1987年(昭和62)北海道の釧路湿原が28番目の国立公園に指定される詳細
2006年(平成18)小説家吉村昭の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、「暗殺禁止令」が、明治新政府より太政官布告された日ですが、新暦では2月16日となります。
 「暗殺禁止令」(あんさつきんしれい)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年1月23日)に、明治新政府より、太政官布告された「暗殺ヲ爲スヲ嚴禁ス」のことです。幕末明治維新期には、佐幕派と尊王攘夷派の対立などにより、江戸や京都などで、多くの人々が暗殺されましたが、新政府の誕生を機に、暗殺を戒め、法によって裁くものとしたものでした。
 以下に、「暗殺ヲ爲スヲ嚴禁ス」(暗殺禁止令)を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。

〇「暗殺ヲ爲スヲ嚴禁ス」(暗殺禁止令)1868年2月16日(明治元年1月23日)発布

<原文>

近來於所々致暗殺候內ニ者罪狀相認死骸ニ添有之候モ不少何レモ陰惡陰謀等ヲ憤リ候而之所業ニ可有之全體不埒之者共ハ得ト吟味之上刑典ヲ以嚴重之御裁許被 仰付事ニ付太政御一新之折柄猶更御爲筋ヲ心掛公然ト可申出之處其儀無之私ニ致殺害候ハ 朝廷ヲ不憚致方ニ付右等之者有之ニ於テハ吟味之上屹度嚴刑ニ可被處候問心得違無之樣可致事

  「ウィキソース」より

<現代語訳>

最近いろいろなところで起きている暗殺事件の中には、罪状を書いて死体に添えているものも多い。どれも悪業や陰謀を憤ってのことであろう。もともと悪人はきちんと調査したうえで法律をもとに裁かれるものであるし、政治が変わったのだからなおのこと道理を守り、公に訴えなければいけないというのに、それをせず自分で殺害するのは、朝廷をおそれないやりかたである。よって、そういったことを行う者は調査したうえで間違いなく厳刑に処せられるので、間違った考えを抱かないようにすること。

☆幕末に暗殺された主要な人物

・1860年(安政7年3月3日) 江戸幕府大老・井伊直弼(桜田門外の変)
・1861年(安政7年12月4日) アメリカ人通訳・ヘンリー・ヒュースケン
・1862年(文久2年1月15日) 江戸幕府老中・安藤信正負傷(坂下門外の変)
・1862年(文久2年4月8日) 土佐藩参政・吉田東洋
・1862年(文久2年7月20日) 九条家の家士・島田正辰
・1862年(文久2年7月25日) 対馬藩江戸家老・佐須伊織
・1862年(文久2年9月2日) フランス士官・カミュ(井土ヶ谷事件)
・1863年(文久2年12月22日) 壬生藩家老・鳥居志摩
・1863年(文久3年1月22日) 儒学者・池内大学
・1863年(文久3年4月13日) 清河八郎
・1863年(文久3年5月18日) 儒学者・家里新太郎
・1863年(文久3年5月20日) 尊攘派公卿・姉小路公知(朔平門外の変)
・1863年(文久3年9月18日) 新選組局長・芹沢鴨
・1864年(元治元年7月11日) 佐久間象山
・1865年(元治元年12月8日) 尊攘派公卿・中山忠光
・1866年(慶応2年5月2日) 対馬藩佐幕派の巨頭・勝井五八郎
・1867年(慶応3年9月3日) 赤松小三郎
・1867年(慶応3年11月15日) 坂本龍馬と中岡慎太郎(近江屋事件)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1570年(永禄13)織田信長が「殿中御掟」追加5か条を室町幕府第15代将軍足利義昭に示す(新暦2月27日)詳細
1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
1914年(大正3)第31帝国議会で島田三郎議員がシーメンス社の日本海軍への贈賄を追及する(シーメンス事件)詳細
1928年(昭和3)「日ソ基本条約」の規定に従って、ソ連のモスクワにおいて、「日ソ漁業条約」が締結される詳細
1933年(昭和8)日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の命日詳細
1963年(昭和38)強い寒気の南下により北陸を中心に日本海側で猛烈な降雪があり、三八豪雪が本格化する詳細
1993年(平成5)演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1869年(明治2)に、明治新政府の廟議で、東京~京都の幹線、東京~横浜・京都~神戸・琵琶湖畔~敦賀の3支線の鉄道建設計画「東京横浜ノ間鉄道製作ノ儀申立」が決定された日ですが、新暦では12月12日となります。
 「東京横浜ノ間鉄道製作ノ儀申立」(とうきょうよこはまのあいだてつどうせいさくのぎもうしたて)は、幕末明治維新期の11869年(明治2年11月10日)の明治新政府の廟議で、東京~京都の幹線、東京~横浜・京都~神戸・琵琶湖畔~敦賀の3支線の鉄道建設計画を示したもので、同年10月11日付の「上申」と、「布告案」で構成されています。この決定は、近世以来全国的な輸送の主役であった海運の存在を前提として、東西両京を結ぶ幹線鉄道から海港へ枝線を敷設することによって主要な海港と海港を鉄道で繋ぎ、全国的な輸送網の形成を図ろうとしたものでした。
 ルートとして、本州の中央を通る中山道案,海側を通る東海道案がありましたがこの時点ではどちらを採択するか未定となっています。文書の終わりには、明治政府が同年11月9日付で、伊達宗城(民部卿兼大蔵卿)・大隈重信(大蔵大輔)・伊藤博文(大蔵大丞・大蔵少輔)に対し、イギリスと鉄道敷設の借款契約を締結する全権を委任したことが見えます。

〇日本の鉄道創設関係略年表(日付は旧暦です)

<明治2年(1869年)>

・3月 横浜在留英国人「アレキサンドル・カンフル」は鉄道敷設の請願書(西暦1869年4月21日付け)を寺島神奈川県知事に提出する
・10月11日 この日付けで、外務省は鉄道建設を政府に上申する
・11月5日 日本政府の岩倉、澤、三条が相談し、大隈と伊藤も列席、鉄道と電信の起業の意あることを告げる
・11月10日 東京~京都の幹線、東京~横浜・京都~神戸・琵琶湖畔~敦賀の3支線の鉄道建設計画「東京横浜ノ間鉄道製作ノ儀申立」が決定される
・11月12日 英国人ホレシオ・ネルソン・レーに1割2分利付100万ポンド借款の起債契約書を公布する

<明治3年(1870年)>
・3月 英尺「フィート」を日本の1尺4厘と定める
・3月8日 エドモンド・モレルが鉄道技師長としてイギリスから招かれ、横浜港へ着く
・3月17日 東京府及び神奈川、品川の二県へ線路測量として雇外国人を率いて官員出張の旨を達する
・3月19日 鉄道掛を東京築地元尾張藩邸に創置する
・3月22日 横浜野毛町に於ける寒川県所轄の官舎(元修文館)に横浜出張所を置き。六鄕川を以て境界とし東西両端より起工することを定める
・3月25日 東京芝口汐留の近傍を量地すする
・3月27日 監督正上野景範に鉄道掛を命じる
・4月3日 横浜野毛浦海岸より亦測量を始める
・4月12日 元龍野、仙台、会津の三邸を敷地として、蒸気車会所建築の為に地均工事を開始する
・4月14日 土木権正平井義十郎を副とする
・5月26日 兵部省は蒸気車解除を他に建築するか、または線路を西方に移すことを上申する
・5月26日 横浜野毛町海岸地は前年2月以来埋め立てられ、当地を横浜停車場敷地とする
・6月 橋梁工事を起こし、神奈川第19橋から始める
・6月8日 大蔵省は高縄町兵部省用地の内を鉄道用地として引き渡し方を上申するが、兵部省が抵抗する
・7月10日 太政官は高輪富士鑑宿陣所を民部省に引き渡すべき事を命じるものの、兵部省引き渡しに応ぜず
・8月15日 鉄道掛は東京府庁を経て之を受領する
・10月 六鄕川本憍を起工、神奈川台の掘割に着手、八ッ山及び御殿山の掘割工事を起工する
・10月20日 工部省を設置し、鉄道は該省の所管に属せる
・10月22日 兵部省は元尾張、安藝その他の邸地を海軍所用地として受け取り、浜殿は宮内庁に返す
・11月 この月以降諸所の盛り土を始める
・12月 工部省は掲旗を定め、その章白布紅書工字とする
・12月14日 鉄道掛の事務局を省内に移す
・12月14日、28日 公書をもって、ホレシオ・ネルソン・レーの不正が発覚し、解雇される

<明治4年(1871年)>
・1月 品川七番砲台場の一部を取り壊しその石材を鉄道工事に使用船とを海軍所と協定する
・8月14日 鉄道寮は品川県と神奈川県に対して、線路立入禁止の通達を依頼する
・9月 横浜停車場本屋が落成する
・11月 汐留停車場本屋が落成する

<明治5年(1872年)>
・1月 品川停車場本屋が落成する
・2月26日 鉄道寮を汐留停車場本屋に移す
・2月28日 鉄道略則を決める
・5月3日 太政官布告「7日をもって品川横浜間を仮に開業する」が出される
・5月4日 鉄道犯罪罰例・改正鉄道略則を制定する
・5月7日 品川駅~横浜駅間で鉄道が仮開業し、一日2往復の列車が運行される
・5月8日 一日6往復に増便される
・5月27日 汐留停車場を新橋と改称する
・6月5日 川崎駅と神奈川駅(現在は廃駅)が営業を開始する
・8月 葵坂に新築したる工部省庁舎内に、鉄道寮を移す
・8月14日 工部省下に鉄道寮を設置する
・9月12日 新橋駅で、鉄道開業式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転する
・9月13日 新橋駅~横浜駅全区間で、営業運行が開始され、鶴見駅が開業する
・9月23日 技師長エドモンド・モレルが亡くなる
・9月29日 新橋~横浜間の工事全てが落成する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1696年(元禄9)第109代とされる明正天皇(女帝)の命日(新暦12月4日)詳細
1883年(明治16)日本画家橋本関雪の誕生日詳細
1920年(大正9)日本画家福王寺法林の誕生日詳細
1940年(昭和15)神武天皇即位2600年とされる「紀元二千六百年記念行事」が始まる詳細
1945年(昭和20)角川源義が角川書店を設立する詳細
1951年(昭和26)日教組が第1回全国教育研究大会を開催する詳細
1982年(昭和57)中央自動車道の勝沼IC~ 甲府昭和IC間が開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市が繋がる詳細
2008年〈平成20〉数学者伊藤清の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1870年(明治3)に、明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令した日ですが、新暦では5月24日となります。
 種痘(しゅとう)は、痘瘡(天然痘)に対する免疫をつくるための予防接種です。牛痘(ウシの痘瘡で人間に感染しても軽症ですむ)を人間の皮膚に接種して、その部分だけに痘疱を生じさせて免疫を得させ、感染を予防するものでした。
 1796年(寛政8)に、英国の外科医ジェンナーが、牛痘を発明し、その効果を立証しています。日本では、1824年(文政7)に、中川五郎治が、蝦夷(北海道)に痘瘡が流行したとき施行したのが牛痘接種としての最初となり、1849年(嘉永2)には、バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功しました。
 1870年(明治3)に、明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令し、1874年(明治7)に定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」がを布達され、1876年(明治9)には、「天然痘予防規則」が制定されています。1909年(明治42)4月14日には、「種痘法」が公布(施行は翌年1月1日)され、初めて種痘が法律によって実施されるようになりましたが、1948年(昭和23)の「予防接種法」の制定に伴い、その法律に取り込まれ、廃止されました。
 その後、1956年(昭和31)以降は、天然痘の発症例は無く、1976年(昭和51)には、種痘の定期予防接種が廃止されています。
 以下に、「種痘法」(明治42年法律第35号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇日本の種痘関係略年表

・1824年(文政7) 中川五郎治が、蝦夷(北海道)に痘瘡が流行したとき施行したのが牛痘接種として日本最初となる
・1849年(嘉永2) バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功する
・1870年(明治3) 明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令する
・1874年(明治7) 定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」を布達する、
・1876年(明治9) 「天然痘予防規則」が制定される
・1884年(明治18) 東京神田の医師角倉賀道は私費を投じて日本最大級の牧場を開設、天然痘ワクチンの増産に務める
・1909年(明治42)4月14日 「種痘法」が公布され、初めて種痘が法律によって実施されるようになる
・1949年(昭和24)1月1日 「種痘法」が施行される
・1948年(昭和23) 「予防接種法」が公布され、計3回の定期接種が義務付けられる
・1956年(昭和31) これ以降は、天然痘の発症例が無くなる
・1970年(昭和45) 国が定期接種として行っている種痘による事故に対して国の責任を求める動き、いわゆる種痘禍がおこる
・1976年(昭和51) 「予防接種法」改正と同時に、国内の接種は実際上中止される
・1980年(昭和55)8月 定期接種の種痘が法律から削除され、法的にも完全に廃止される

☆「種痘法」(明治42年法律第35号) 1909年(明治42)4月14日公布、翌年1月1日施行

第一条 種痘ハ左ノ定期ニ於テ之ヲ行フ但シ痘瘡ヲ経過シタル者ニ付テハ此ノ限ニ在ラス
 一 第一期 出生ヨリ翌年六月ニ至ル間但シ不善感ナルトキハ翌年六月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
 二 第二期 数ヘ歲十歲但シ不善感ナルトキハ翌年十二月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
 定期前二年以內ニ善感シタル種痘ハ第二期ノ種痘ト看做ス

第二条 保護者ハ未成年者ヲシテ種痘ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ

第三条 左ニ掲クル者ハ未成年ノ生徒、院生若ハ之ニ準スヘキ者又ハ未成年ノ寄寓者ヲシテ種痘ヲ受ケシメ又ハ保護者ヲシテ其ノ義務ヲ履行セシムヘシ
 一 学校、育兒院又ハ之ニ準スヘキ場所ノ校長、院長其ノ他首長
 二 教育、監護又ハ傭使ノ目的ヲ以テ人ヲ寄寓セシムル者
 前項各号ニ掲クル者ノ法定代理人アルトキハ法定代理人ニ前項ノ規定ヲ適用ス

第四条 新ニ保護者ト為リ又ハ新ニ前条ノ関係ヲ生シタルトキハ種痘ヲ受ケサルカ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル未成年者ヲシテ六月以內ニ種痘ヲ受ケシメ又ハ保護者ヲシテ其ノ義務ヲ履行セシムヘシ
 前項ノ期間內ニ其ノ手続ヲ為シ難キ事由アルトキハ市町村長区長ヲ以テ戶籍吏ニ充ツル市ニ於テハ区長以下之ニ準スニ屆出ツヘシ
 未成年者ヲ傭使スル雇主ニ関シテハ其ノ之ヲ寄寓セシメサル場合ト雖前二項ノ規定ヲ適用ス
 前条第二項ノ規定ハ前三項ノ場合ニ之ヲ準用ス

第五条 市町村ハ種痘ヲ施行スヘシ

第六条 市町村長ハ種痘定期ニ在ル者ノ種痘期日ヲ指定スヘシ

第七条 疾病其ノ他ノ事故ニ因リテ市町村長ノ指定シタル期日ニ種痘ヲ受ケシムルコト能ハサル場合ニ於テハ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ其ノ事由ヲ具シ市町村長ニ猶予ヲ申請スルコトヲ得
 前項ニ依リ種痘ヲ猶予シタルトキハ市町村長ハ其ノ証ヲ交付スヘシ

第八条 市町村長ハ第一期種痘ヲ完了シ又ハ之ヲ要セサルニ至リタル者ヲ戸籍吏ニ通知シ戸籍吏ハ戸籍簿ノ欄外ニ符号ヲ以テ之ヲ記入スヘシ
 前項ノ記入ニ関スル事務ニ付テハ戸籍法第五条ノ規定ヲ準用ス

第九条 市町村長ノ指定シタル期日ニ種痘ヲ受ケス其ノ他種痘ヲ怠リ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル未成年者アルトキハ市町村長ハ更ニ期日ヲ指定シテ種痘ヲ受ケシメ又ハ直ニ種痘ヲ行フヘシ

第十条 種痘ヲ怠リタル者又ハ種痘ヲ受ケタル証跡不明ナル者ノ定期外ニ受ケタル種痘ハ第一条第二項ノ場合ヲ除クノ外其ノ定期種痘ト看做ス

第十一条 第五条ノ種痘ヲ受ケタル者ノ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ市町村長ノ指定シタル期日ニ於テ検診ヲ受ケシムヘシ但シ其ノ期日ニ検診ヲ受ケシムルコト能ハサル事由アルトキハ市町村長ニ屆出ツヘシ
 市町村長ハ前項ノ検診ヲ經タル者ニ種痘済証ヲ交付スヘシ
 第一項ノ場合ニ於テ必要アルトキハ痘漿ヲ採收スルコトヲ得

第十二条 医師定期種痘ヲ施シタル者ヲ検診シタルトキハ種痘証ヲ交付スヘシ
 前項ノ場合ニ於テ種痘証ヲ受ケタル者ノ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ十日以內ニ市町村長ニ屆出ツヘシ

第十三条 医師ハ其ノ診療ニ係ル痘瘡患者全治シタルトキ之ニ痘瘡経過証ヲ交付スヘシ

第十四条 当該吏員ノ請求アルトキハ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ種痘済証又ハ種痘証ヲ提示セシムヘシ但シ命令ニ別段ノ規定アル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第十五条 地方長官ハ痘瘡予防上必要ト認ムルトキハ種痘ヲ受クヘキ者ノ範囲及期日ヲ指定シテ臨時種痘ヲ命スルコトヲ得
 臨時種痘ニ関シテハ本法ノ規定ヲ準用スルコトヲ得

第十六条 医師虚偽ノ種痘証ヲ交付シ又ハ検診セスシテ種痘証ヲ交付シタルトキハ五十円以下ノ罰金ニ処ス

第十七条 左ニ掲クル者ハ科料ニ処ス
 一 第四条又ハ第十一条第一項ニ違反シタル者
 二 保護者又ハ第三条ノ義務者ニシテ市町村長ノ指定シタル期日迄ニ種痘ヲ受ケシメサル者

第十八条 第十二条又ハ第十四条ニ違反シタル者ハ十円以下ノ科料ニ処ス

第十九条 官庁公署及官立公立ノ学校等ニ於テハ第三条第一項及第四条第一項乃至第三項ノ規定ニ準シ其ノ措置ヲ為スヘシ

第二十条 本法ニ於テ保護者ト称スルハ未成年者ニ対シ親権ヲ行フ者又ハ後見人、親権ヲ行フ者又ハ後見人ナキトキハ戸主、戸主未成年者又ハ禁治產者ナルトキハ戸主ニ対シ親権ヲ行フ者又ハ後見人ヲ謂フ
 本法中市町村又ハ市町村長トアルハ市制町村制ヲ施行セサル地ニ於テハ之ニ準スヘキモノニ該当ス

附 則

 本法ハ明治四十三年一月一日ヨリ之ヲ施行ス
 種痘規則ハ之ヲ廃止ス
 本法施行前数ヘ歲七歲以前ニ種痘ヲ受ケタル者又ハ種痘ヲ受ケタルモ其ノ時期不明ナル者ハ本法ニ依ル第一期ノ種痘、数ヘ歲八歲以後ニ種痘ヲ受ケタル者ハ第二期ノ種痘ヲ受ケタル者ト看做ス
 本法施行前第一条第一項ノ種痘定期ヲ経過シタル未成年者ニ付テハ第四条ノ規定ハ生来種痘ヲ受ケサルカ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル者ニ関シテ之ヲ適用ス

           「官報」より

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)飛騨高山明治8年の大火で、死者1名、焼失1,032戸を出す詳細
1908年(明治41)農学者・教育家津田仙の命日詳細
1921年(大正10)日本初の女性による社会主義団体「赤瀾会」が発足する詳細
1934年(昭和9)目黒競馬場で第1回日本ダービーが開催される詳細
1940年(昭和15)価格形成中央委員会で、日用必需品10品目に配給切符制導入が発表(6月1日以降順次実施)される詳細
1951年(昭和26)国鉄で桜木町事故が起こり、電車火災により死者106人・重軽傷92人を出す詳細
1955年(昭和30)第1回アジア・アフリカ会議最終日、「アジア・アフリカ会議最終コミュニケ」が採択される詳細
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