ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:明治新政府

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 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、西郷隆盛が鹿児島県で主宰していた私学校の生徒が新政府に反発し、政府の武器を奪取して、西南戦争の発端となった日です。
 西南戦争(せいなんせんそう)は、明治時代前期の1877年(明治10)に、鹿児島士族が西郷隆盛を擁立して蜂起した反政府暴動で、明治新政府に対する不平士族の反乱では、最大で最後のもので、西南の役とも呼ばれてきました。1873年(明治6)の征韓論で敗れ、下野した西郷らは鹿児島へ戻り、士族組織として私学校を結成します。
 明治新政府との対立が深まり、鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考えたのを契機に、1877年(明治10)1月30日に、私学校生が集団決起、陸軍火薬庫などを奪い、西郷を盟主として決起し、2月15日に薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始しました。これに対し、2月19日に薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して、官軍として征討に当らせます。
 戦場は熊本や宮崎にまで広がり、2月22日に薩摩軍は熊本鎮台(熊本城)を包囲しましたが、鎮台兵は司令長官谷干城を中心に50日間籠城、徐々に官軍に押されていき、4月15日に官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城しました。守勢に回った薩摩軍は、日向地方に転じて再起を図りましたが、6月1日人吉、7月24日都城、同31日宮崎、佐土原を失い、鹿児島に戻った西郷は同年9月、城山に立てこもり、政府軍の総攻撃を受ける中、同月24日に西郷以下桐野利秋、村田新八らは戦死または自刃して、終結します。
 戦いでの戦死者は、官軍側は6,403人、薩摩軍側は6,765人に及び、戦後に斬罪22人を含んで2,760余人が処罰されました。

〇西郷 隆盛】(さいごう たかもり)とは?

 幕末明治維新期に活躍した薩摩藩士・軍人・政治家です。江戸時代後期の1828年(文政10年12月7日)に、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれましたが、幼名は小吉、通称は吉之介と言いました。
 1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。
 1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。
 第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。
 その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。
 その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。

☆西南戦争関係略年表

<1873年(明治6)>

・10月23日 西郷隆盛が征韓論に敗れ、辞表を提出(桐野、篠原ら西郷派士官辞職)
・11月10日 西郷、桐野と共に鹿児島へ帰る

<1874年(明治7)>

・2月1日 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる

<1876年(明治9)>

・10月24日 熊本県で神風連の乱が起こる
・10月27日 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・10月28日 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>

・1月 明治新政府は鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考える
・1月30日 鹿児島で私学校生が集団決起、陸軍火薬庫など襲う
・2月3日 私学校党は中原一味60余人を一網打尽に捕らえてしまう
・2月4日 鹿児島暴発の報が明治天皇の行在所に達する
・2月14日 黒田清隆が旧庄内士族のリーダーに手紙で、西郷らに同調しないよう要請する
・2月15日 薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始する
・2月18日 官軍は乃木希典(陸軍少佐)連隊の一部を率いて熊本に向かう
・2月19日 薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して征討に当らせる
・2月20日 薩摩軍の先鋒、別府晋介の二大隊川尻に入る
・2月21日 軍議で薩摩軍の全軍が熊本城を強襲すること決まる
・2月22日 植木で乃木少佐、連隊旗を奪われる、薩摩軍は熊本城の包囲を完了する
・2月23日 官軍の第十四連隊が木葉にて敗れる
・2月24日 官軍の山県参軍博多に到着、薩摩軍は熊本城強攻を中止し、主力は山鹿、田原、木留に進出する
・2月25日 明治新政府は西郷の官位を取り消す、官軍の第一、二旅団南関に入る
・2月27日 薩摩軍は三方より高瀬を強襲、西郷小兵衛戦死、乃木少佐が負傷する
・3月3日 官軍は木葉・吉次に攻撃を開始する 
・3月4日 熊本の田原坂での戦闘が始まる
・3月13日 黒田清隆が京都の行在所宛て電報で、衝背軍による背面攻撃を建言する
・3月19日 官軍は高島鞆之助の別働第二旅団が日奈久に上陸し、八代まで進撃する
・3月20日 官軍は田原坂の戦いで薩摩軍を破る
・3月21日 黒田清隆が歩兵・警視隊500人を率いて日奈久に上陸する
・3月24~25日 山田顕義以下の別働第二旅団、川路利良以下の別働第三旅団が、八代に上陸する
・3月26日 薩摩軍は、石塘口をせきとめ、熊本城を水攻めにする
・3月30~31日 官軍により松橋が陥落する
・4月1日 官軍は吉次・木留を占領する
・4月4日 薩摩軍別働隊(辺見十郎太・別府晋介指揮)が人吉から八代に来襲、善戦するが、政府増援部隊に阻まれて撤退する
・4月12日 官軍は御船を占領、永山弥一郎(薩軍三番大隊大隊長)が戦死する
・4月15日 官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城、薩摩軍は植木・荻迫・鐙田・三の岳より退去する
・4月20日 官軍は御船で大勝、薩摩軍は矢部に退去、西郷らは人吉へ退去する
・4月27日 薩摩軍は人吉盆地での攻防戦を始める(~6月21日)
・5月28日 西郷は宮崎へ入る
・6月1日 官軍は人吉を占領する
・7月24日 官軍は都城を占領する
・7月31日 薩摩軍は宮崎、佐土原を失い、長井村に追い詰められて解散する
・8月2日 官軍は高鍋を占領する
・8月5日 開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促す
・8月中旬 延岡の北方約6KMの長井村に追い詰められる
・8月14日 薩摩軍は延岡を失い、可愛岳のふもと熊田周辺に後退する
・8月15日 薩摩軍は延岡への攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して延北の山野は両軍の士で溢れる
・8月16日 西郷は解隊布告する
・9月1日 官軍は同地警備の新撰旅団を破って鹿児島市内に進出する
・9月6日頃 官軍主力は鹿児島に集結、薩軍を城山に包囲する
・9月22日 城山で西郷の名による決死の檄を飛ばす
・9月23日 西郷は諸将を集め決別の宴を開く
・9月24日 払暁とともに城山総攻撃の火蓋がきって落とされ、桐野、村田ら戦死、西郷が自刃、薩摩軍は城山において全滅し、西南戦争が終結する

☆明治新政府に対する不平士族の反乱一覧

・1874年(明治7)2月 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 熊本県で神風連の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる
・1877年(明治10) 旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して西南戦争がおこる
・1877年(明治10)3月 西郷隆盛に呼応する形で、福岡県で武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1823年(文政6)幕臣・政治家勝海舟の誕生日(新暦3月12日)詳細
1902年(明治35) 「第一回日英同盟協約」が調印される詳細
1945年(昭和20)藷類増産対策要綱」が閣議決定される詳細
1949年(昭和24)永井隆著の随筆『長崎の鐘』(日比谷出版社)が刊行される詳細
2010年(平成22)児童文学作家川村たかしの命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の慶応3年に、倒幕派によって朝廷から「王政復古の大号令」が発せられ、新政府が発足した日ですが、新暦では、1868年1月3日となります。
 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)は、幕末明治維新期の1868年1月3日(慶応3年12月9日)、明治天皇の名によって天皇親政が宣言された政変でした。同じ年の10月14日(1967年11月9日)に大政奉還が行われ、倒幕の大義名分がなくなったので、長州・薩摩両藩が中心となった討幕派が決行したクーデターです。
 その内容は、江戸幕府を廃止し、同時に摂政・関白等もなくして、天皇のもとに新たな三職を置いて有力な藩が共同で政治を行う形をとる新政府の樹立を宣言したものでした。これによって、徳川慶喜の辞官(内大臣の辞職)納地(領地返上)を決定し、新政府から締め出すことになり、幕府側の反発を招き、戊辰戦争へと向かうことになります。
 以下に、「王政復古の大号令」を注釈・現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

☆王政復古の大号令 (全文) 1868年1月3日(慶応3年12月9日)

徳川内府[1]従前御委任ノ大政返上[2]、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ食サレ被。抑癸丑[3]以来未曽有ノ国難、先帝[4]頻年宸襟[5]ヲ悩サレ候御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依テ叡慮[6]ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今摂関幕府等廃絶、即今、先ス仮ニ、総裁[7]・議定[8]・参与[9]ノ三職ヲ置カレ、万機[10]行ハセラルヘシ。諸事神武創業ノ始[11]ニ原キ、縉紳[12]、武弁[13]、堂上[14]、地下[15]ノ別ナク、至当[16]ノ公議ヲ竭シ[17]、天下[18]ト休戚[19]ヲ同ク遊サルヘキ叡慮[6]ニ付各勉励、旧来驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公到スヘク候事。
一 内覧、勅問御人数、国事御用掛、議奏、武家伝奏、守護職[20]、所司代[21]総テ廃セサレ候事。
一 三職人躰
 総裁
  有栖川帥宮  
 議定
  仁和寺宮  
  山階宮  
  中山前大納言  
  正親町三条前大納言  
  中御門中納言  
  尾張大納言  
  越前宰相  
  安芸少将  
  土佐前少将 
  薩摩少将  
 参与
  大原宰相  
  万里小路右大弁宰相  
  長谷三位 
  岩倉前中将  
  橋本少将 
   尾藩三人  
   越藩三人  
   芸藩三人  
   土藩三人  
   薩藩三人  
一 太政官始、追々興サセラルヘク候間、其ノ旨心得居ルヘク候事。
一 朝廷礼式、追々御改正在ラセラルヘク候得共、先摂籙・門流[22]ノ儀止メラレ候事。
一 旧弊御一洗ニ付、言語ノ道洞開[23]セラレ候間、見込之レ有ル向ハ貴賎ニ拘ラス忌憚無ク献言致スヘシ、且人材登庸第一ノ御急務ニ候故、心当ノ仁之レ有候ハゝ、早々言上有ルヘク候事。
一 近年物価格別騰貴、如何共スヘカラサル勢、富者ハ益富ヲ累ネ、貧者ハ益窘急ニ至リ候趣、畢竟政令不正ヨリ致ス所、民ハ王者ノ大宝、百事御一新ノ折柄、旁宸衷ヲ悩マセラレ候、智謀遠識救弊ノ策コレ有リ候ハゝ、誰彼無く申出ツヘク候事
一 和宮[24]御方、先年関東ヘ降嫁アラセラレ候エトモ、其後将軍薨去、且、先帝攘夷成功ノ叡願ヨリ許セラレ候処、始終、奸吏[25]ノ詐謀[26]ニ出、御詮之レ無キ上ハ、旁、一日モ早ク御還京促セラレタク、近日、御迎公卿差立ラレ候事

右ノ通リ後確定、一紙ヲ以テ仰出タサレ候事
 慶応三年十二月九日

「法令全書」より

【注釈】

 [1]徳川内府:とくがわないふ=江戸幕府第15代将軍徳川慶喜(内大臣)のこと。
 [2]大政返上:たいせいへんじょう=大政奉還のこと。⇒詳細
 [3]癸丑:きちゅう=癸丑年(干支で表す年号)のことで、つまり、1853年(嘉永6)の黒船来航を表している。
 [4]先帝:せんてい=前の天皇、ここでは孝明天皇のこと。
 [5]宸襟:しんきん=天皇の御心。
 [6]叡慮:えいりょ=天皇のお考え。
 [7]総裁:そうさい=明治新政府の官職名で全体をとりまとめる長(有栖川宮熾仁親王を任命)。
 [8]議定:ぎじょう=明治新政府の官職名で合議して決める人(親王2人、公卿3人、藩主5人を任命)。
 [9]参与:さんよ=明治新政府の官職名で事業・計画などにかかわる人(公卿5人、藩士15人を任命)。
 [10]万機:ばんき=天下の政治。政治上の多くの重要な事項。
 [11]神武創業之始:じんむそうぎょうのはじめ=神武天皇が即位した始めから。
 [12]縉紳:しんしん=身分の高い人。公卿。
 [13]武弁:ぶべん=武家。
 [14]堂上:とうしょう=昇殿を許された四・五位以上の人。殿上人。
 [15]地下:じげ=昇殿を許されなかった官人(六位以下の人)。地下人。平民。一般人。
 [16]至当:しとう=正当。
 [17]公議ヲ竭シ:こうぎをつくし=論議をつくし。
 [18]天下:てんか=世間一般のこと。
 [19]休戚:きゅうせき=喜びと悲しみ。喜憂。
 [20]守護職:しゅごしょく=京都守護職(江戸幕府の職名)のことで、宮廷の警備や京都市中の治安維持にあたった。
 [21]所司代:しょしだい=京都所司代(江戸幕府の職名)のことで、京都の警備、朝廷・公家の監察などを行った。
 [22]摂籙・門流:せつろく・もんりゅう=摂関家。
 [23]洞開:どうかい=あけ放つこと。開放すること。
 [24]和宮:かずのみや=孝明天皇の妹で公武合体策によって、第14代将軍徳川家茂に降嫁した。⇒詳細
 [25]奸吏:かんり=心のよこしまな役人。不正をはたらく役人。
 [26]詐謀:さぼう=いつわりのはかりごと。 相手をだますはかりごと。

<現代語訳> 王政復古の大号令

内大臣徳川慶喜がこれまで天皇から御委任されていた大政の奉還を行い、将軍職も辞退したいという両方の申し出を、今回きっぱりとお聞き入りになられた。さて、癸丑年(嘉永6年)のペリー黒船来航以来、今までに一度もなかった国難が続き、先の孝明天皇が連年大御心を悩ませられるに至った理由は皆が知るところである。これによって、明治天皇はお考えを決せられて、王政復古、国威回復の根本方針を確立されたので、これからは摂政・関白・幕府などをなくし、直ちにまず仮に総裁・議定・参与の三職を置かれ、政治上の多くの重要事項を実施していくことになった。すべてのことは神武天皇が始められた原点にもとづき、公卿・武家・殿上人・一般の分け隔てなく適切な論議をつくし、国民と喜びと悲しみを共有されるお考えなので、各自勤め励み、今までのおごり怠けた悪い習慣を洗い流し、忠義をつくして国恩に報いるに誠の心をもって奉公するようにせよ。

一 内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・武家伝奏・守護職・所司代、すべて廃止するようにせよ。
一 三職の人事
 総裁
  有栖川帥宮(熾仁親王)
 議定
  仁和寺宮(嘉彰親王)
  山階宮(晃親王)
  中山前大納言(中山忠能)
  正親町三条前大納言(正親町三条実愛)
  中御門中納言(中御門経之)
  尾張大納言(徳川慶勝)
  越前宰相(松平慶永)
  安芸少将(浅野長勲)
  土佐前少将(山内豊信)
  薩摩少将(島津忠義)
 参与
  大原宰相(大原重徳)
  万里小路右大弁宰相(万里小路博房)
  長谷三位(長谷信篤)
  岩倉前中将(岩倉具視)
  橋本少将(橋本実梁)
   尾張藩3人(荒川甚作・田中不二麻呂・田宮如雲)
   福井藩3人(毛受鹿之助・坂井十之丞・中根雪江)
   広島藩3人(桜井元憲・久保田秀雄・辻将曹)
   土佐藩3人(後藤象二郎・神山郡廉・福岡孝弟)
   薩摩藩3人(岩下方平・西郷隆盛・大久保利通)
一 太政官はじめ追々組織を整備されるので、その旨を心得ておくようにせよ。
一 朝廷の礼式を追々に改正されるようにしているが、摂関家についてはなくすようにせよ。
一 悪い習慣を改めようとして、意見を言うことができる道筋を開くので、見込があるものは貴賎にかかわらないで遠慮なく進言するようにせよ。かつ、人材の登用が、一番の急務となっているので、心当りの人材がある者は、すばやく、申し上げるようにせよ。
一 近年、物価がとりわけ騰貴して、どうしようもない状態であり、富める者は益々富を蓄積し、貧しい者はますます貧窮している様子、結局政治上の命令が正しくないところから生じている、民は天皇の大きな宝であり、すべてのことを刷新しようとしている所なので、この機に、天皇もお心を悩ませられている。知恵のある考え、道理、救う手立てがある者、誰でもよいから申し出るようにせよ。
一 和宮様は、先年関東(江戸幕府)ヘ降嫁させられたけれど、その後将軍(徳川家茂)が亡くなり、かつ先帝(孝明天皇)は、攘夷成功のお考えより許せられたところなのに,始終よこしまなはかりごとに出で、実行しない上は、この機に、一日も早く京都に帰られるように催促するため、近日中に、御迎えの公卿を差し向かわせるようにせよ。

 右の通り確定の後、一紙をもって仰せ出されるようにせよ。
  慶応3年12月9日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)藤原緒嗣らが『日本後紀』を撰上する(新暦841年1月5日)詳細
1159年(平治元)院近臣らの対立により発生した平治の乱が起きる(新暦1160年1月19日)詳細
1916年(大正5)小説家夏目漱石の命日(漱石忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「農地改革に関する覚書」(SCAPIN-411)を指令する詳細
1975年(昭和50)第30回国際連合総会において、「障害者の権利に関する宣言」が採択される(障害者の日)詳細
1993年(平成5)屋久島・白神山地・法隆寺・姫路城の4ヶ所が日本初の世界遺産に決定する詳細
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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、明治新政府が「芸娼妓解放令」を発布し、遊女の人身売買を禁止し、芸娼妓などの年季奉公人を解放した日ですが、新暦では11月2日となります。
 「芸娼妓解放令」(げいしょうぎかいほうれい)は、明治新政府による芸妓・娼妓・奉公人の人身売買の禁止、年季奉公の制限と前借金の無効宣言をした「明治5年太政官布告第295号」の通称で、正式名称は、「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件」と言いました。続いて、同年10月9日(11月9日)に出された「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)により、「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス」として、過去の借金を返すよう求めることはできないと定めていたため「牛馬切りほどき令」とも言われます。
 同年7月のマリア・ルーズ号事件に際し、ペルー側が日本の娼妓制度を人身売買と弁じたことにより、急遽この布告を発布して表面をとりつくろおうとしたものでした。同令は、女性の基本的人権への認識や解放後の更生対策を伴わなかったため、翌年の「東京府令第145号」をはじめとする貸座敷(娼妓の営業に妓楼の座敷を貸した)制度の発足で有名無実化し、公娼制度の実態は変わっていません。
 しかしこの後、婦人矯風会や救世軍などの団体が廃娼をとなえる「廃娼運動」の一つのきっかけを与えることになりました。この太政官布告は、1898年(明治31)の「民法施行法」第9条により廃止され、1900年(明治33)10月2日に、「娼妓取締規則」が公布されています。
 以下に、「芸娼妓解放令」(明治5年太政官布告第295号)と「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「芸娼妓解放令」(明治5年10月2日太政官布告第295号)

人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件

一、人身ヲ売買シ終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古来制禁ノ処従来年期奉公等種種ノ名目ヲ以テ奉公住為致其実売買同様ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付自今可為厳禁事
一、農商工ノ諸業練習ノ為弟子奉公為致候儀ハ勝手ニ候得共年限満七箇年ニ不可過事。但雙方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事
一、平常ノ奉公人ハ一箇年宛タルヘシ、尤奉公人取次候者ハ証文可相改事
一、娼妓芸妓等年期奉公人一切解放可致右ニ付テノ貸借訴訟総テ不取上候事
右之通被定候条屹度可相守事。

〇「前借金無効の司法省達」(明治5年10月9日司法省達第22号)

本月二日大政官第二百九拾五号ニ而被仰出候次第ニ付左之件々可得心事

一、人身ヲ売買スルハ古来制禁ノ処年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ其実売買同様ノ所業ニ至ルニ付娼妓芸妓等雇入ノ資本金ハ贓金ト看做ス故ニ右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上其金額ヲ可取揚事
一、同上ノ娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ貸ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事。但シ本月二日以来ノ分ハ此限ニ非ス
一、人ノ子女ヲ金銭上ヨリ養女ノ名目ニ為シ娼妓芸妓ノ所業ヲ為サシムル者ハ其実際上則チ人身売買ニ付従前今後可及厳重ノ所置事

   「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1554年(天文23)禅僧・連歌師・俳人山崎宗鑑の命日(新暦10月28日)詳細
1855年(安政2)安政江戸地震が起き、江戸を中心に甚大な被害が出る(新暦11月11日)詳細
1900年(明治33)「娼妓取締規則」(明治33年内務省令第44号)が公布される詳細
1932年(昭和7)国際連盟現地調査団が満州事変や満州国について「リットン報告書」を発表する詳細
1943年(昭和18)勅令「在学徴集延期臨時特例」公布で、理工科系以外の学生の徴兵猶予を撤廃する詳細
1985年(昭和60)関越トンネルの開通により、関越自動車道(練馬~長岡)がつながる詳細
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 幕末明治維新期の1868年(明治元)に、明治新政府が江戸幕府の洋学教育研究機関「開成所」を「開成学校」として復興した日ですが、新暦では10月27日となります。
 開成学校(かいせいがっこう)は、明治初期の官立学校で、江戸幕府が設立していた開成所が、明治新政府に接収されて改称されたもので、洋学教育、翻訳・出版認可等の役割が課されました。翌年(明治2年12月17日)に、大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となり、南校,第一大学区第一番中学を経て、1873年(明治)に専門学校として開成学校が設置されます。
 翌年に東京開成学校と改称され、外国人教師指導の下で、英語で法学・理学・工業学、フランス語で諸芸学、ドイツ語で鉱山学の専門教育が行われると共に、予科の語学教育と普通教育にも力点が置かれました。1877年(明治10年)には、東京医学校と統合されて、東京大学が設立されます。

〇開成学校関係略年表(日付は旧暦です)

・1744年(延享元年) 徳川吉宗が外神田に天文台を建てる
・1811年(文化8年) 天文方から新しく蕃書和解(ばんしょわげ)御用方が設けられる
・1853年(嘉永6年6月) 黒船(ペリー艦隊)が来航する
・1854年(安政元年3月) 「日米和親条約」締結の中で、蕃書和解御用方が多忙となる
・1855年(安政2年8月30日) 御用方は「洋学所」と改めて独立する
・1855年(安政2年10月2日) 安政江戸地震で全壊焼失する
・1856年(安政3年2月11日) 幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称する
・1856年(安政3年2月13日) 江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に設立する
・1857年(安政4年1月18日) 開場し、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられるようになる
・1858年(安政5年) 藩士の入学も認められるようになる
・1860年(万延元年) 小川町に移転する
・1860年(万延元年7月) プロシア東洋遠征艦隊来航の際、蕃書調所の市川斎宮が「独逸学」を学ぶ公命を受ける
・1862年(文久2年) 学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り、幕府官立学校となる
・1862年(文久2年) 洋書調所に独逸学科が開設される
・1862年(文久2年5月18日) 一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)に移転する
・1862年(文久2年5月23日) 「洋書調所」と改称してに開校する
・1863年(文久3年8月29日) 洋書調所を「開成所」に改称する
・1864年(元治元年) 「開成所規則」が制定され、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の5ヶ国語のほか、天文学、地理学、窮理学、数学、物産学、化学、器械学、画学、活字術の9学科が定められる
・1868年(明治元年9月12日) 幕府が倒れ、開成所は明治新政府に接収され、官立の開成学校と改称される
・1869年(明治2年12月17日) 大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となる(医学校が大学東校)
・1871年(明治4年) 南校と改称される、
・1872年(明治5年) 第一大学区第一番中学と改称される
・1873年(明治6年) 専門学校として開成学校が設置される
・1874年(明治7年) 東京開成学校と改称される
・1877年(明治10年) 東京医学校と統合されて、東京大学が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1242年(仁治3)第84代の天皇とされる順徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細
1887年(明治20)日本画家堅山南風の誕生日詳細
1913年(大正2)「都新聞」で中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』の連載が開始される詳細
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 今日は、明治時代前期の1869年(明治2)に、明治新政府が貨幣を円形として、金銀銅の貨幣を鋳造する円貨の制度を定めた日(円の日)ですが、新暦では4月15日となります。
 円の日(えんのひ)は、それまでの江戸時代に流通していた「両」に代えて、貨幣を円形として定めた日とされてきました。この年の2月5日に、太政官に造幣局を設置することとし、3月4日日に、大隈重信は、久世喜弘と共に新貨幣制度を円形貨幣にすること及び、当初は「元・銭・厘」の単位を想定します。
 しかし、出来上がった試作貨では「一圓」になっていたため、大隈重信の建議から発行されるまでに、「元」ではなく「圓(円)」になったと言われています。1871年(明治4年5月10日)に、近代的貨幣制度の樹立を目ざし、「新貨条例」(太政官布告第267号)が公布され、両・分・朱を廃し、十進法による円・銭(円の100分の1)・厘(銭の10分の1)の呼称が定まりました。

〇「新貨条例」(しんかじょうれい)とは?

 明治時代前期の1871年(明治4年5月10日)に、近代的貨幣制度の樹立を目ざし、太政官布告第267号として公布された日本最初の貨幣に関する法令です。江戸時代の複雑な貨幣制度を整理して、両・分・朱を廃し、十進法による円・銭(円の100分の1)・厘(銭の10分の1)の呼称、各種貨幣の量目公差を定めたもので、従来の両と円を名目上等価としました。
 背景には、明治維新期の太政官札の乱発などによって混乱した貨幣制度を整えることがあり、金本位制に改め、本位貨幣20~1円の5種の金貨のうち1円(純金1.6g含有)を原貨とし、50~5銭の4種の銀貨、1銭から1厘の3種の銅貨を補助貨幣としています。しかし、幕末期以来大量の金が国外に流出していたため、金準備が不足しており、実際は金銀複本位制が続き、ようやく日清戦争の賠償金を正価準備として充足するなどして、1897年(明治30)に「貨幣法」が制定され、金本位制が導入されることとなりました。
 以下に、「新貨条例」(明治4年5月10日太政官布告第267号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「新貨条例」(明治4年5月10日太政官布告第267号)

皇國往古ヨリ他邦貿易ノ事少ナク貨幣之制度イマタ精密ナラス其品類各種ニシテ其價位モ亦一定セス今其概略ヲ舉ムニハ慶長金アリ享保金アリ文字金アリ大小判金アリ一分金アリ貳分金アリ貳朱金アリ一分銀アリ一朱銀アリ當百錢アリ大小數種ノ銅錢アリ其他一時通用ノ貨幣ハ枚舉ニ遑アラス甚シキハ一國一郡限ノ貨幣アリテ今ニ至ルマテ僅ニ其一部ニ通用シ他方ニ流通セサルモノアリカク其品類區々ニシテ方圓大小其價ヲ異ニシ混合雑駁其質ヲ同ウセス抑貨幣ノ眼目タル量目ト性合トニ至リテハ殆ント辨知スヘカラス新舊互ニ雑用シ品位自ヲ低下シ其間或ハ贋造ノ弊アリテ竟ニ今日ノ甚シキニ馴致セリ偶々良性ノ貨幣ハ徒ラニ富家庫中ノ寶物トナリ或ハ外國ヘ輸出セシモ亦少ナカラス遂ニ諸品換用ノ能力ヲ失ヒ日用便利ノ道ヲ塞キ流通ノ公益殆ント絶ヘントスルニ至ル實ニコレ天下一般ノ窮厄ニシテ萬民ノ痛心更ニ之ヨリ大ナルモノナシ今其縁由ヲ尋繹スルニ全ク一定ノ價位ナクシテ善惡良否ヲ雑用スルノ舊弊ヨリ生スル事ナリ方今貿易ノ道彌盛ムナル時ニ當リテ舊弊ヲ改メ精良ノ新製ヲ設ケスンハ何ヲモツテ流通ノ道ヲ開キ富國ノ基ヲ立ンヤ是政府ノ責任ニシテ然モ燃眉ノ急務タリ故ニ去ル明治元戊辰ノ年ヨリ早クソノ功ヲ起シ莫大ノ經費ヲ厭ハス大阪ニオイテ新ニ造幣寮ヲ建置シ壯大ナル器械ヲ備ヘ廣ク宇内各國貨幣ノ眞理ヲ察知シ金銀ノ性質量目ヨリ割合ノ差等鑄造ノ方法ニ至ルマテ詳カニ普通ノ制ヲ比較商量シ以テ精密ノ通用貨幣ヲ鑄造シ在來ノ貨幣ニ加ヘテ一般ノ流通ヲ資ケントスルノ都合ヲ謀リ既ニ開寮ノ儀典ヲ完了セリサレトモ前ニ言ヘルコトク區々各種ノ貨幣多ケレハ現場諸品ノ價直ヲ錯亂シ萬民ノ迷惑ナルコトナレハ漸々新舊ヲ交換シテ在來ノ通寶ハ悉ク改鑄シ都テ品類ヲ一定セシメントノ御趣意ナリ且貨幣ハ天下萬民ノ通寶タル主旨ニ基キ地金ヲ持參シテ引換ヲ望ムモノヘハ速カニ改鑄シテ通用貨幣ヲ渡スヘシサレハ今人々古來ノ舊習ヲ襲ヒ重代ノ寶物トセル古金銀ノ類モ數年ナラスシテ全ク地金一様ノモノトナルヘケレハ早々交換流通シテ貨幣ノ眞理ヲ失ハサル様注意スヘキ事肝要ナリ斯ク新タニ造幣寮ヲ設ケシモ偏ニ萬民ノ保護ヲ任スルノ職分ヲ盡スノ外他アルニアラサレハ萬民亦能ク此理ヲ會得シ各ソノ務ヲ勉勵シテ天賦ノ職ヲツクスヘシ仍テ今爰ニ其次第ヲ掲示シ并セテ新貨幣ノ眞形ヲ摸シ其量目品位表ヲ添ヘ且地金引換ヘノ規則等詳細ニ附録シ普ク國内ニ頒布諭告スルモノ也

明治四年辛未五月 太政官

新貨幣例目

一   新貨幣ノ稱呼ハ圓ヲ以テ起票トシ其多寡ヲ論セス都テ圓ノ原稱ニ數字ヲ加ヘテ之ヲ計算スヘシ但シ一圓以下ハ錢一圓ノ百分一ト釐一錢ノ十分一トヲ以テ少數ノ計算ニ用フヘシ
一   算則ハ都テ十進一位ノ法ヲ用ヒ一釐十ヲ合シテ一錢トシ一錢十ヲ併セテ十錢トイヒ十錢十即チ百錢ヲ以テ一圓トス一圓ヨリ上十百千萬ニ至ルトイフトモ皆ナ十數ヲ合シテ一位ヲ進ム其他半錢五錢五十錢五圓ノ如キハ十數ヲ半割シ二十錢二圓二十圓ノ如キモ亦一十ノ數ヲ倍スルマテニシテ固ヨリ軌範ノ外ニ出ス
一   釐ヨリ以下ハ別ニ鑄造ノ貨幣ナシト雖モ若シ計算ヲ要スレハ毛絲忽微纎ヲ以テ微少ノ數ヲ算スヘシ又萬ヨリ以上ハ十萬百萬千萬ニ至リ千萬十即チ萬々ヲ以テ一億トシ大數ノ計算ヲ爲スヘシ
一   新貨幣ト在來通用貨幣トノ價格ハ一圓ヲ以テ一兩即チ永一貫文ニ充ツヘシ故ニ五十錢ハ二分即チ永五百文十錢ハ一兩ノ十分一即チ永百文一錢ハ一兩ノ百分一即チ永十文一釐ハ一兩ノ千分一即チ永一文ト相當ルヘシ但シ二十圓十圓二十錢五錢半錢モ皆同様ノ割合タルヘシ
一   製貨中金銀純分ノ割合及其量目ハ都テ眞形摸寫ノ下ニ表出スルトイヘトモ溶和鑄造ノ際僅少ノ差アルヲ免カレス故ニ今各種ノ貨幣ニ就テ其不得己シテ生スル量目ノ公差ヲ表出シテ以テ毛絲ノ微ヲ辨析ス
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一  ガラム」ミリガラム」オンス」ゲレイン」ト日本量目ノ比較ハ在來ノ秤量ニトリテ聊ノ差アリトイヘトモ爰ニ其平均ヲ取テ之ヲ算シ左ノ略表ヲ以テ當分比較ノ定規トス
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一   本位新貨幣ト外國貨幣トノ價格ハ其國ノ制定ニヨリテ各小差違アリトイエトモ暫ラク英佛米三國ノ貨幣實價ノ品量ヲ較計スレハ左ノ略表ノ通ナルヘシ
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新貨幣通用制限

本位金貨幣即二十圓十圓五圓二圓一圓ノ中一圓金ヲ以テ原貨ト定メ各種トモ何レノ拂方ニモ之ヲ用ヒ其高ニ制限アルコトナシ

本位トハ貨幣ノ主本ニシテ他ノ準據トナルモノナリ故ニ通用ノ際ニ制限ヲ立ルヲ要セス尤モ一圓金ヲ以テ本位中ノ原貨ト定ムルトハ就中一圓金ヲ以テ本位ノ基本ヲ定メ他ノ四種ノ金貨モ都テ標準ヲ一圓金ニ取レハナリ
定位ノ銀貨幣即五十錢二十錢十錢五錢ハ都テ補助ノ貨品ニシテ其一種又ハ數種ヲ併セ用フルトモ一口ノ拂方ニ十圓ノ高ヲ限ル可シ

定位ノ銅貨即一錢半錢一釐ハ都テ一口ノ拂方ニ一圓ノ高ヲ限リ用ユヘシ

定位トハ本位貨幣ノ補助ニシテ制度ニヨリテ其價位ヲ定メテ融通ヲ資クルモノナリ故ニ通用ノ際コレカ制限ヲ設ケテ交通ノ定規トス
各開港場貿易便利ノ爲メ當分ノ内中外人民ノ望ニ應シ一圓ノ銀貨ヲ鑄造シ之ヲ貿易銀ト爲シテ通商ノ流融ヲ資ク可シ

此一圓銀ハ全ク各開港場輸出入物品其他外國人ヨリ納ムル諸税及日本人外國人ト通商ノ取引ニ用フルノミニシテ内地ノ諸税納方等公ナル拂方ニ用フルヘカラサルハ勿論其他一般ノ通用ヲ得サルヘシサレトモ私ノ取引ニ付相對ノ示談ヲ以テ受取渡シイタス分ハ何レノ地ニテモ勝手次第タルヘシ

各開港場諸税受取方ニ付一圓銀ト本位金貨トノ價格比較ハ當分銀貨百圓ニ付本位金貨百〇一圓ノ割合タルヘシ

右通用制限ハ元來貨幣ニ原本ト補助トノ別アル所以ノ理ニ基キテ制定セシモノナレハ人々取引ノ節右ノ制限ニ照準シモシコレニ超レハ誰ニテモ請取渡ヲ拒ムノ道理アルヘシサレトモ私ノ取引ニ付便宜ノタメ對談ヲ以テ請取渡イタシ候儀ハ全ク相互ノ都合ニ從フ筈ナレハ右制限ニ不拘勝手次第ニ交通イタシ不苦候事

   明治四年辛未五月 大藏省

新貨條例量目表中更正

先般御布告相成候新貨條例量目表中違算ノ廉及ヒ衍文モ有之ニ付更正相加ヘ別紙相達候間此旨其管内ヘ布告可致候事

(別紙)

先般刊行相成候新貨條例量目表中違算ノ廉及ヒ衍文モ有之ニ付左ノ通更正相加ヘ候事

量目公差表金貨ノ内

量目一枚ノ差ミリガラム」ノ行 一圓ノ級   六
                    一二、二〇 

量目大數ノ差メトリックガラム」ノ行   二十圓ノ級      六
                         四、六六五

同    銀貨ノ内

純銀重量ノ内メトリックガラム」ノ行 一圓ノ級   一
                                                         二四、二六七二六

貨幣全量トロイゲレイン」ノ行 五錢ノ級             三
                                                                         一九、八

同   メトリックガラム」ノ行 一圓ノ級             七
                                                               二六、九五六三

量目大數ノ差メトリックガラム」ノ行   五十錢ノ級        六 
                                                                            四、六六五

ガラム」ゲレイン」日本量目比較表ノ内

ゲレイン」          〇
             一五四三二七

日本量目               〇四
               二六六二一四〇七五

日本量目ガラム」ゲレイン」比較表ノ内

 ガラム」        二一
                  三七五六五七四

日本英佛米貨幣實價ノ品量比較表ノ内

 米貨ノ行差ノ級     〇ゲレイン」〇
           混合物 〇〇ゲレイン」八
                       〇圓
                    日本十圓〇〇三釐一一〇四

金貨眞圖ノ下日本量目ノ内

 二十圓           五七
  八匁八分七釐三毛六
 十圓         七
    四匁四分三釐六毛八
 五圓        三五
    二匁二分一釐八毛四
 二圓        四
    八分八釐七毛三六
 一圓        七
    四分四釐三毛六八

銀貨眞圖ノ内

 一圓銀ノ上    貿易銀 
          銀貨

新貨幣通用制限ノ條中

十三行目   定位ノ銅貨    三字削去
三十三行目 右 通用制限ハ 一字削去

    「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1952年(昭和27)1952年十勝沖地震(M8.2)が起こり、津波によって死者行方不明者33名を出す詳細
1972年(昭和47)「日米渡り鳥条約」が締結(1979年9月19日発効)される詳細
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