ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:明治新政府

yobousettshyu001
 今日は、明治時代前期の1870年(明治3)に、明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令した日ですが、新暦では5月24日となります。
 種痘(しゅとう)は、痘瘡(天然痘)に対する免疫をつくるための予防接種です。牛痘(ウシの痘瘡で人間に感染しても軽症ですむ)を人間の皮膚に接種して、その部分だけに痘疱を生じさせて免疫を得させ、感染を予防するものでした。
 1796年(寛政8)に、英国の外科医ジェンナーが、牛痘を発明し、その効果を立証しています。日本では、1824年(文政7)に、中川五郎治が、蝦夷(北海道)に痘瘡が流行したとき施行したのが牛痘接種としての最初となり、1849年(嘉永2)には、バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功しました。
 1870年(明治3)に、明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令し、1874年(明治7)に定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」がを布達され、1876年(明治9)には、「天然痘予防規則」が制定されています。1909年(明治42)4月14日には、「種痘法」が公布(施行は翌年1月1日)され、初めて種痘が法律によって実施されるようになりましたが、1948年(昭和23)の「予防接種法」の制定に伴い、その法律に取り込まれ、廃止されました。
 その後、1956年(昭和31)以降は、天然痘の発症例は無く、1976年(昭和51)には、種痘の定期予防接種が廃止されています。
 以下に、「種痘法」(明治42年法律第35号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇日本の種痘関係略年表

・1824年(文政7) 中川五郎治が、蝦夷(北海道)に痘瘡が流行したとき施行したのが牛痘接種として日本最初となる
・1849年(嘉永2) バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功する
・1870年(明治3) 明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令する
・1874年(明治7) 定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」を布達する、
・1876年(明治9) 「天然痘予防規則」が制定される
・1884年(明治18) 東京神田の医師角倉賀道は私費を投じて日本最大級の牧場を開設、天然痘ワクチンの増産に務める
・1909年(明治42)4月14日 「種痘法」が公布され、初めて種痘が法律によって実施されるようになる
・1949年(昭和24)1月1日 「種痘法」が施行される
・1948年(昭和23) 「予防接種法」が公布され、計3回の定期接種が義務付けられる
・1956年(昭和31) これ以降は、天然痘の発症例が無くなる
・1970年(昭和45) 国が定期接種として行っている種痘による事故に対して国の責任を求める動き、いわゆる種痘禍がおこる
・1976年(昭和51) 「予防接種法」改正と同時に、国内の接種は実際上中止される
・1980年(昭和55)8月 定期接種の種痘が法律から削除され、法的にも完全に廃止される

☆「種痘法」(明治42年法律第35号) 1909年(明治42)4月14日公布、翌年1月1日施行

第一条 種痘ハ左ノ定期ニ於テ之ヲ行フ但シ痘瘡ヲ経過シタル者ニ付テハ此ノ限ニ在ラス
 一 第一期 出生ヨリ翌年六月ニ至ル間但シ不善感ナルトキハ翌年六月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
 二 第二期 数ヘ歲十歲但シ不善感ナルトキハ翌年十二月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
 定期前二年以內ニ善感シタル種痘ハ第二期ノ種痘ト看做ス

第二条 保護者ハ未成年者ヲシテ種痘ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ

第三条 左ニ掲クル者ハ未成年ノ生徒、院生若ハ之ニ準スヘキ者又ハ未成年ノ寄寓者ヲシテ種痘ヲ受ケシメ又ハ保護者ヲシテ其ノ義務ヲ履行セシムヘシ
 一 学校、育兒院又ハ之ニ準スヘキ場所ノ校長、院長其ノ他首長
 二 教育、監護又ハ傭使ノ目的ヲ以テ人ヲ寄寓セシムル者
 前項各号ニ掲クル者ノ法定代理人アルトキハ法定代理人ニ前項ノ規定ヲ適用ス

第四条 新ニ保護者ト為リ又ハ新ニ前条ノ関係ヲ生シタルトキハ種痘ヲ受ケサルカ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル未成年者ヲシテ六月以內ニ種痘ヲ受ケシメ又ハ保護者ヲシテ其ノ義務ヲ履行セシムヘシ
 前項ノ期間內ニ其ノ手続ヲ為シ難キ事由アルトキハ市町村長区長ヲ以テ戶籍吏ニ充ツル市ニ於テハ区長以下之ニ準スニ屆出ツヘシ
 未成年者ヲ傭使スル雇主ニ関シテハ其ノ之ヲ寄寓セシメサル場合ト雖前二項ノ規定ヲ適用ス
 前条第二項ノ規定ハ前三項ノ場合ニ之ヲ準用ス

第五条 市町村ハ種痘ヲ施行スヘシ

第六条 市町村長ハ種痘定期ニ在ル者ノ種痘期日ヲ指定スヘシ

第七条 疾病其ノ他ノ事故ニ因リテ市町村長ノ指定シタル期日ニ種痘ヲ受ケシムルコト能ハサル場合ニ於テハ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ其ノ事由ヲ具シ市町村長ニ猶予ヲ申請スルコトヲ得
 前項ニ依リ種痘ヲ猶予シタルトキハ市町村長ハ其ノ証ヲ交付スヘシ

第八条 市町村長ハ第一期種痘ヲ完了シ又ハ之ヲ要セサルニ至リタル者ヲ戸籍吏ニ通知シ戸籍吏ハ戸籍簿ノ欄外ニ符号ヲ以テ之ヲ記入スヘシ
 前項ノ記入ニ関スル事務ニ付テハ戸籍法第五条ノ規定ヲ準用ス

第九条 市町村長ノ指定シタル期日ニ種痘ヲ受ケス其ノ他種痘ヲ怠リ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル未成年者アルトキハ市町村長ハ更ニ期日ヲ指定シテ種痘ヲ受ケシメ又ハ直ニ種痘ヲ行フヘシ

第十条 種痘ヲ怠リタル者又ハ種痘ヲ受ケタル証跡不明ナル者ノ定期外ニ受ケタル種痘ハ第一条第二項ノ場合ヲ除クノ外其ノ定期種痘ト看做ス

第十一条 第五条ノ種痘ヲ受ケタル者ノ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ市町村長ノ指定シタル期日ニ於テ検診ヲ受ケシムヘシ但シ其ノ期日ニ検診ヲ受ケシムルコト能ハサル事由アルトキハ市町村長ニ屆出ツヘシ
 市町村長ハ前項ノ検診ヲ經タル者ニ種痘済証ヲ交付スヘシ
 第一項ノ場合ニ於テ必要アルトキハ痘漿ヲ採收スルコトヲ得

第十二条 医師定期種痘ヲ施シタル者ヲ検診シタルトキハ種痘証ヲ交付スヘシ
 前項ノ場合ニ於テ種痘証ヲ受ケタル者ノ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ十日以內ニ市町村長ニ屆出ツヘシ

第十三条 医師ハ其ノ診療ニ係ル痘瘡患者全治シタルトキ之ニ痘瘡経過証ヲ交付スヘシ

第十四条 当該吏員ノ請求アルトキハ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ種痘済証又ハ種痘証ヲ提示セシムヘシ但シ命令ニ別段ノ規定アル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第十五条 地方長官ハ痘瘡予防上必要ト認ムルトキハ種痘ヲ受クヘキ者ノ範囲及期日ヲ指定シテ臨時種痘ヲ命スルコトヲ得
 臨時種痘ニ関シテハ本法ノ規定ヲ準用スルコトヲ得

第十六条 医師虚偽ノ種痘証ヲ交付シ又ハ検診セスシテ種痘証ヲ交付シタルトキハ五十円以下ノ罰金ニ処ス

第十七条 左ニ掲クル者ハ科料ニ処ス
 一 第四条又ハ第十一条第一項ニ違反シタル者
 二 保護者又ハ第三条ノ義務者ニシテ市町村長ノ指定シタル期日迄ニ種痘ヲ受ケシメサル者

第十八条 第十二条又ハ第十四条ニ違反シタル者ハ十円以下ノ科料ニ処ス

第十九条 官庁公署及官立公立ノ学校等ニ於テハ第三条第一項及第四条第一項乃至第三項ノ規定ニ準シ其ノ措置ヲ為スヘシ

第二十条 本法ニ於テ保護者ト称スルハ未成年者ニ対シ親権ヲ行フ者又ハ後見人、親権ヲ行フ者又ハ後見人ナキトキハ戸主、戸主未成年者又ハ禁治產者ナルトキハ戸主ニ対シ親権ヲ行フ者又ハ後見人ヲ謂フ
 本法中市町村又ハ市町村長トアルハ市制町村制ヲ施行セサル地ニ於テハ之ニ準スヘキモノニ該当ス

附 則

 本法ハ明治四十三年一月一日ヨリ之ヲ施行ス
 種痘規則ハ之ヲ廃止ス
 本法施行前数ヘ歲七歲以前ニ種痘ヲ受ケタル者又ハ種痘ヲ受ケタルモ其ノ時期不明ナル者ハ本法ニ依ル第一期ノ種痘、数ヘ歲八歲以後ニ種痘ヲ受ケタル者ハ第二期ノ種痘ヲ受ケタル者ト看做ス
 本法施行前第一条第一項ノ種痘定期ヲ経過シタル未成年者ニ付テハ第四条ノ規定ハ生来種痘ヲ受ケサルカ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル者ニ関シテ之ヲ適用ス

           「官報」より

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)飛騨高山明治8年の大火で、死者1名、焼失1,032戸を出す詳細
1908年(明治41)農学者・教育家津田仙の命日詳細
1921年(大正10)日本初の女性による社会主義団体「赤瀾会」が発足する詳細
1934年(昭和9)目黒競馬場で第1回日本ダービーが開催される詳細
1940年(昭和15)価格形成中央委員会で、日用必需品10品目に配給切符制導入が発表(6月1日以降順次実施)される詳細
1951年(昭和26)国鉄で桜木町事故が起こり、電車火災により死者106人・重軽傷92人を出す詳細
1955年(昭和30)第1回アジア・アフリカ会議最終日、「アジア・アフリカ会議最終コミュニケ」が採択される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ahenkinseinkkousatsu01
 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月)に、 明治新政府が初めて、「阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム」を布告して、阿片の売買・喫煙を禁止した日ですが、新暦では6月9日となります。
 「阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム」(あへんえんをきんじふはんけんこうさつにけいじせしむ)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月19日)に、 明治新政府が初めてだした、阿片の売買・喫煙を禁止した布告です。長崎、横浜などの条約港では、貿易のために集まった外国商人が居住のため使用人や料理人として中国人を連れて来ており、彼らが密輸により、阿片の煙膏を持ち込んで問題となっていました。
 その中で、この布告では、「阿片煙草ハ、人ノ精気ヲ耗シ、命数ヲ縮メ候品ニ付」と初めて人害であることが明記され、「売買之儀ハ勿論、一己ニ呑用ヒ候儀、決而不相成候」と使用や売買を含めて禁止し、「若御制禁相犯シ、他ヨリ顕ルヽニ於テハ、可被処厳科候間」と、厳罰に処すものとしています。その後、新政府は法整備を進め、1870年(明治3年8月9日)には、「販売鴉片烟律」が布告され、使用や売買を含めて罰則規定を設けて、重罪としました。
 以下に、この「阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム」を記した、慶応4年の『太政官日誌』の「阿片煙草禁制ノ事」と「販売鴉片烟律」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『太政官日誌慶応4年

【阿片煙草禁制ノ事】

御布告写一通

阿片煙草ハ、人ノ精気ヲ耗シ、命数ヲ縮メ候品ニ付、兼而御条約面ニ有之候通、外国人持渡候事、厳禁之処、近頃窃ニ舶載之聞ヘ有之万一世上ニ流布致シ候テハ、生民之大害ニ候間、売買之儀ハ勿論、一己ニ呑用ヒ候儀、決而不相成候、若御制禁相犯シ、他ヨリ顕ルヽニ於テハ、可被処厳科候間、心得違無之様末々ニ至ル迄、堅ク可相守者也

右御達シ書、府藩県一同高札ニ掲示可致様被仰出候事

閏四月

〇「販売鴉片烟律」 1870年(明治3年8月9日)布告

一、凡ソ鴉片烟ヲ販売シテ利ヲ謀ル者首ハ斬、従ハ三等流、自首スル者ハ一等ヲ減ス

一、人ヲ引誘シ吸食セシムル者ハ絞、従及ヒ情ヲ知リ房屋ヲ給スル者ハ三等流、引誘セラレテ吸食スル者ハ徒一年

一、収買シテ未タ售賈セサル者首ハ三等流、従は徒三年、買食スル者徒二年半、自首スル者は並ニ罪ヲ免シ、鴉片烟ハ官ニ没収ス

一、官吏知テ挙セザル者ハ、併ニ拠同罪、財ヲ受クル者ハ出事

一、薬用関之ニ付、外国ヨリ取寄度節ハ、各地方官ヨリ開港場ヘ申立候ハヽ、別段ノ注文ヲ以テ、取寄候様可致事

<現代語訳>

一、およそ、営利目的で生成アヘンの販売を行う主犯者は斬首である。それに基づき、販売にかかわった者はその度合いにより近流、中流、遠流のいづれかの流刑、自首したものはその状況等により一段階低い罪にする。

一、人を誘いアヘンを吸飲させた主犯者は絞首刑である。客引きなどで主犯者に従った者、事情を知り吸飲の場所を提供した者などは三種の流刑が科せられ、誘われて客となりアヘンを吸飲した者も、1年の徒刑(懲役刑)が科せられる。

一、購入した生成アヘンを販売せず所持をしている主犯者は三種の流刑。それに従っている者は3年の懲役刑。生成アヘンを購入して吸飲するもの2年半の懲役刑。自首する者は無罪。そして所持している生成アヘンは、すべて没収する。

一、役人が知っていて、逮捕しない者は、その罪は同罪とし、財を受け取ってていた者は差し出すこと。

一、薬用に関するものについては、外国より取り寄せるたびごとに、各地方官より開港場ヘ申し立てるならば、各別の注文として、取り寄せるべきこととする。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1068年(治暦4)第70代の天皇とされる後冷泉天皇の命日(新暦5月22日)詳細
1800年(寛政12)伊能忠敬が、第1次測量(蝦夷地測量)のために、江戸を出発(閏月)する(新暦6月11日)詳細
1870年(明治3)哲学者西田幾多郎の誕生日(新暦5月19日)詳細
1901年(明治34)数学者岡潔の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家源氏鶏太の誕生日詳細
1928年(昭和3)田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して第二次山東出兵を決定する詳細
2007年(平成19)漆芸家高橋節郎の命日詳細

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

seinansensouchyuuki01
 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、西郷隆盛が鹿児島県で主宰していた私学校の生徒が新政府に反発し、政府の武器を奪取して、西南戦争の発端となった日です。
 西南戦争(せいなんせんそう)は、明治時代前期の1877年(明治10)に、鹿児島士族が西郷隆盛を擁立して蜂起した反政府暴動で、明治新政府に対する不平士族の反乱では、最大で最後のもので、西南の役とも呼ばれてきました。1873年(明治6)の征韓論で敗れ、下野した西郷らは鹿児島へ戻り、士族組織として私学校を結成します。
 明治新政府との対立が深まり、鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考えたのを契機に、1877年(明治10)1月30日に、私学校生が集団決起、陸軍火薬庫などを奪い、西郷を盟主として決起し、2月15日に薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始しました。これに対し、2月19日に薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して、官軍として征討に当らせます。
 戦場は熊本や宮崎にまで広がり、2月22日に薩摩軍は熊本鎮台(熊本城)を包囲しましたが、鎮台兵は司令長官谷干城を中心に50日間籠城、徐々に官軍に押されていき、4月15日に官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城しました。守勢に回った薩摩軍は、日向地方に転じて再起を図りましたが、6月1日人吉、7月24日都城、同31日宮崎、佐土原を失い、鹿児島に戻った西郷は同年9月、城山に立てこもり、政府軍の総攻撃を受ける中、同月24日に西郷以下桐野利秋、村田新八らは戦死または自刃して、終結します。
 戦いでの戦死者は、官軍側は6,403人、薩摩軍側は6,765人に及び、戦後に斬罪22人を含んで2,760余人が処罰されました。

〇西郷 隆盛】(さいごう たかもり)とは?

 幕末明治維新期に活躍した薩摩藩士・軍人・政治家です。江戸時代後期の1828年(文政10年12月7日)に、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれましたが、幼名は小吉、通称は吉之介と言いました。
 1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。
 1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。
 第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。
 その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。
 その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。

☆西南戦争関係略年表

<1873年(明治6)>

・10月23日 西郷隆盛が征韓論に敗れ、辞表を提出(桐野、篠原ら西郷派士官辞職)
・11月10日 西郷、桐野と共に鹿児島へ帰る

<1874年(明治7)>

・2月1日 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる

<1876年(明治9)>

・10月24日 熊本県で神風連の乱が起こる
・10月27日 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・10月28日 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>

・1月 明治新政府は鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考える
・1月30日 鹿児島で私学校生が集団決起、陸軍火薬庫など襲う
・2月3日 私学校党は中原一味60余人を一網打尽に捕らえてしまう
・2月4日 鹿児島暴発の報が明治天皇の行在所に達する
・2月14日 黒田清隆が旧庄内士族のリーダーに手紙で、西郷らに同調しないよう要請する
・2月15日 薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始する
・2月18日 官軍は乃木希典(陸軍少佐)連隊の一部を率いて熊本に向かう
・2月19日 薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して征討に当らせる
・2月20日 薩摩軍の先鋒、別府晋介の二大隊川尻に入る
・2月21日 軍議で薩摩軍の全軍が熊本城を強襲すること決まる
・2月22日 植木で乃木少佐、連隊旗を奪われる、薩摩軍は熊本城の包囲を完了する
・2月23日 官軍の第十四連隊が木葉にて敗れる
・2月24日 官軍の山県参軍博多に到着、薩摩軍は熊本城強攻を中止し、主力は山鹿、田原、木留に進出する
・2月25日 明治新政府は西郷の官位を取り消す、官軍の第一、二旅団南関に入る
・2月27日 薩摩軍は三方より高瀬を強襲、西郷小兵衛戦死、乃木少佐が負傷する
・3月3日 官軍は木葉・吉次に攻撃を開始する 
・3月4日 熊本の田原坂での戦闘が始まる
・3月13日 黒田清隆が京都の行在所宛て電報で、衝背軍による背面攻撃を建言する
・3月19日 官軍は高島鞆之助の別働第二旅団が日奈久に上陸し、八代まで進撃する
・3月20日 官軍は田原坂の戦いで薩摩軍を破る
・3月21日 黒田清隆が歩兵・警視隊500人を率いて日奈久に上陸する
・3月24~25日 山田顕義以下の別働第二旅団、川路利良以下の別働第三旅団が、八代に上陸する
・3月26日 薩摩軍は、石塘口をせきとめ、熊本城を水攻めにする
・3月30~31日 官軍により松橋が陥落する
・4月1日 官軍は吉次・木留を占領する
・4月4日 薩摩軍別働隊(辺見十郎太・別府晋介指揮)が人吉から八代に来襲、善戦するが、政府増援部隊に阻まれて撤退する
・4月12日 官軍は御船を占領、永山弥一郎(薩軍三番大隊大隊長)が戦死する
・4月15日 官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城、薩摩軍は植木・荻迫・鐙田・三の岳より退去する
・4月20日 官軍は御船で大勝、薩摩軍は矢部に退去、西郷らは人吉へ退去する
・4月27日 薩摩軍は人吉盆地での攻防戦を始める(~6月21日)
・5月28日 西郷は宮崎へ入る
・6月1日 官軍は人吉を占領する
・7月24日 官軍は都城を占領する
・7月31日 薩摩軍は宮崎、佐土原を失い、長井村に追い詰められて解散する
・8月2日 官軍は高鍋を占領する
・8月5日 開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促す
・8月中旬 延岡の北方約6KMの長井村に追い詰められる
・8月14日 薩摩軍は延岡を失い、可愛岳のふもと熊田周辺に後退する
・8月15日 薩摩軍は延岡への攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して延北の山野は両軍の士で溢れる
・8月16日 西郷は解隊布告する
・9月1日 官軍は同地警備の新撰旅団を破って鹿児島市内に進出する
・9月6日頃 官軍主力は鹿児島に集結、薩軍を城山に包囲する
・9月22日 城山で西郷の名による決死の檄を飛ばす
・9月23日 西郷は諸将を集め決別の宴を開く
・9月24日 払暁とともに城山総攻撃の火蓋がきって落とされ、桐野、村田ら戦死、西郷が自刃、薩摩軍は城山において全滅し、西南戦争が終結する

☆明治新政府に対する不平士族の反乱一覧

・1874年(明治7)2月 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 熊本県で神風連の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる
・1877年(明治10) 旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して西南戦争がおこる
・1877年(明治10)3月 西郷隆盛に呼応する形で、福岡県で武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1823年(文政6)幕臣・政治家勝海舟の誕生日(新暦3月12日)詳細
1902年(明治35) 「第一回日英同盟協約」が調印される詳細
1945年(昭和20)藷類増産対策要綱」が閣議決定される詳細
1949年(昭和24)永井隆著の随筆『長崎の鐘』(日比谷出版社)が刊行される詳細
2010年(平成22)児童文学作家川村たかしの命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kyoutogoshyoogakumonjyo01
 今日は、幕末明治維新期の慶応3年に、倒幕派によって朝廷から「王政復古の大号令」が発せられ、新政府が発足した日ですが、新暦では、1868年1月3日となります。
 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)は、幕末明治維新期の1868年1月3日(慶応3年12月9日)、明治天皇の名によって天皇親政が宣言された政変でした。同じ年の10月14日(1967年11月9日)に大政奉還が行われ、倒幕の大義名分がなくなったので、長州・薩摩両藩が中心となった討幕派が決行したクーデターです。
 その内容は、江戸幕府を廃止し、同時に摂政・関白等もなくして、天皇のもとに新たな三職を置いて有力な藩が共同で政治を行う形をとる新政府の樹立を宣言したものでした。これによって、徳川慶喜の辞官(内大臣の辞職)納地(領地返上)を決定し、新政府から締め出すことになり、幕府側の反発を招き、戊辰戦争へと向かうことになります。
 以下に、「王政復古の大号令」を注釈・現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

☆王政復古の大号令 (全文) 1868年1月3日(慶応3年12月9日)

徳川内府[1]従前御委任ノ大政返上[2]、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ食サレ被。抑癸丑[3]以来未曽有ノ国難、先帝[4]頻年宸襟[5]ヲ悩サレ候御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依テ叡慮[6]ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今摂関幕府等廃絶、即今、先ス仮ニ、総裁[7]・議定[8]・参与[9]ノ三職ヲ置カレ、万機[10]行ハセラルヘシ。諸事神武創業ノ始[11]ニ原キ、縉紳[12]、武弁[13]、堂上[14]、地下[15]ノ別ナク、至当[16]ノ公議ヲ竭シ[17]、天下[18]ト休戚[19]ヲ同ク遊サルヘキ叡慮[6]ニ付各勉励、旧来驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公到スヘク候事。
一 内覧、勅問御人数、国事御用掛、議奏、武家伝奏、守護職[20]、所司代[21]総テ廃セサレ候事。
一 三職人躰
 総裁
  有栖川帥宮  
 議定
  仁和寺宮  
  山階宮  
  中山前大納言  
  正親町三条前大納言  
  中御門中納言  
  尾張大納言  
  越前宰相  
  安芸少将  
  土佐前少将 
  薩摩少将  
 参与
  大原宰相  
  万里小路右大弁宰相  
  長谷三位 
  岩倉前中将  
  橋本少将 
   尾藩三人  
   越藩三人  
   芸藩三人  
   土藩三人  
   薩藩三人  
一 太政官始、追々興サセラルヘク候間、其ノ旨心得居ルヘク候事。
一 朝廷礼式、追々御改正在ラセラルヘク候得共、先摂籙・門流[22]ノ儀止メラレ候事。
一 旧弊御一洗ニ付、言語ノ道洞開[23]セラレ候間、見込之レ有ル向ハ貴賎ニ拘ラス忌憚無ク献言致スヘシ、且人材登庸第一ノ御急務ニ候故、心当ノ仁之レ有候ハゝ、早々言上有ルヘク候事。
一 近年物価格別騰貴、如何共スヘカラサル勢、富者ハ益富ヲ累ネ、貧者ハ益窘急ニ至リ候趣、畢竟政令不正ヨリ致ス所、民ハ王者ノ大宝、百事御一新ノ折柄、旁宸衷ヲ悩マセラレ候、智謀遠識救弊ノ策コレ有リ候ハゝ、誰彼無く申出ツヘク候事
一 和宮[24]御方、先年関東ヘ降嫁アラセラレ候エトモ、其後将軍薨去、且、先帝攘夷成功ノ叡願ヨリ許セラレ候処、始終、奸吏[25]ノ詐謀[26]ニ出、御詮之レ無キ上ハ、旁、一日モ早ク御還京促セラレタク、近日、御迎公卿差立ラレ候事

右ノ通リ後確定、一紙ヲ以テ仰出タサレ候事
 慶応三年十二月九日

「法令全書」より

【注釈】

 [1]徳川内府:とくがわないふ=江戸幕府第15代将軍徳川慶喜(内大臣)のこと。
 [2]大政返上:たいせいへんじょう=大政奉還のこと。⇒詳細
 [3]癸丑:きちゅう=癸丑年(干支で表す年号)のことで、つまり、1853年(嘉永6)の黒船来航を表している。
 [4]先帝:せんてい=前の天皇、ここでは孝明天皇のこと。
 [5]宸襟:しんきん=天皇の御心。
 [6]叡慮:えいりょ=天皇のお考え。
 [7]総裁:そうさい=明治新政府の官職名で全体をとりまとめる長(有栖川宮熾仁親王を任命)。
 [8]議定:ぎじょう=明治新政府の官職名で合議して決める人(親王2人、公卿3人、藩主5人を任命)。
 [9]参与:さんよ=明治新政府の官職名で事業・計画などにかかわる人(公卿5人、藩士15人を任命)。
 [10]万機:ばんき=天下の政治。政治上の多くの重要な事項。
 [11]神武創業之始:じんむそうぎょうのはじめ=神武天皇が即位した始めから。
 [12]縉紳:しんしん=身分の高い人。公卿。
 [13]武弁:ぶべん=武家。
 [14]堂上:とうしょう=昇殿を許された四・五位以上の人。殿上人。
 [15]地下:じげ=昇殿を許されなかった官人(六位以下の人)。地下人。平民。一般人。
 [16]至当:しとう=正当。
 [17]公議ヲ竭シ:こうぎをつくし=論議をつくし。
 [18]天下:てんか=世間一般のこと。
 [19]休戚:きゅうせき=喜びと悲しみ。喜憂。
 [20]守護職:しゅごしょく=京都守護職(江戸幕府の職名)のことで、宮廷の警備や京都市中の治安維持にあたった。
 [21]所司代:しょしだい=京都所司代(江戸幕府の職名)のことで、京都の警備、朝廷・公家の監察などを行った。
 [22]摂籙・門流:せつろく・もんりゅう=摂関家。
 [23]洞開:どうかい=あけ放つこと。開放すること。
 [24]和宮:かずのみや=孝明天皇の妹で公武合体策によって、第14代将軍徳川家茂に降嫁した。⇒詳細
 [25]奸吏:かんり=心のよこしまな役人。不正をはたらく役人。
 [26]詐謀:さぼう=いつわりのはかりごと。 相手をだますはかりごと。

<現代語訳> 王政復古の大号令

内大臣徳川慶喜がこれまで天皇から御委任されていた大政の奉還を行い、将軍職も辞退したいという両方の申し出を、今回きっぱりとお聞き入りになられた。さて、癸丑年(嘉永6年)のペリー黒船来航以来、今までに一度もなかった国難が続き、先の孝明天皇が連年大御心を悩ませられるに至った理由は皆が知るところである。これによって、明治天皇はお考えを決せられて、王政復古、国威回復の根本方針を確立されたので、これからは摂政・関白・幕府などをなくし、直ちにまず仮に総裁・議定・参与の三職を置かれ、政治上の多くの重要事項を実施していくことになった。すべてのことは神武天皇が始められた原点にもとづき、公卿・武家・殿上人・一般の分け隔てなく適切な論議をつくし、国民と喜びと悲しみを共有されるお考えなので、各自勤め励み、今までのおごり怠けた悪い習慣を洗い流し、忠義をつくして国恩に報いるに誠の心をもって奉公するようにせよ。

一 内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・武家伝奏・守護職・所司代、すべて廃止するようにせよ。
一 三職の人事
 総裁
  有栖川帥宮(熾仁親王)
 議定
  仁和寺宮(嘉彰親王)
  山階宮(晃親王)
  中山前大納言(中山忠能)
  正親町三条前大納言(正親町三条実愛)
  中御門中納言(中御門経之)
  尾張大納言(徳川慶勝)
  越前宰相(松平慶永)
  安芸少将(浅野長勲)
  土佐前少将(山内豊信)
  薩摩少将(島津忠義)
 参与
  大原宰相(大原重徳)
  万里小路右大弁宰相(万里小路博房)
  長谷三位(長谷信篤)
  岩倉前中将(岩倉具視)
  橋本少将(橋本実梁)
   尾張藩3人(荒川甚作・田中不二麻呂・田宮如雲)
   福井藩3人(毛受鹿之助・坂井十之丞・中根雪江)
   広島藩3人(桜井元憲・久保田秀雄・辻将曹)
   土佐藩3人(後藤象二郎・神山郡廉・福岡孝弟)
   薩摩藩3人(岩下方平・西郷隆盛・大久保利通)
一 太政官はじめ追々組織を整備されるので、その旨を心得ておくようにせよ。
一 朝廷の礼式を追々に改正されるようにしているが、摂関家についてはなくすようにせよ。
一 悪い習慣を改めようとして、意見を言うことができる道筋を開くので、見込があるものは貴賎にかかわらないで遠慮なく進言するようにせよ。かつ、人材の登用が、一番の急務となっているので、心当りの人材がある者は、すばやく、申し上げるようにせよ。
一 近年、物価がとりわけ騰貴して、どうしようもない状態であり、富める者は益々富を蓄積し、貧しい者はますます貧窮している様子、結局政治上の命令が正しくないところから生じている、民は天皇の大きな宝であり、すべてのことを刷新しようとしている所なので、この機に、天皇もお心を悩ませられている。知恵のある考え、道理、救う手立てがある者、誰でもよいから申し出るようにせよ。
一 和宮様は、先年関東(江戸幕府)ヘ降嫁させられたけれど、その後将軍(徳川家茂)が亡くなり、かつ先帝(孝明天皇)は、攘夷成功のお考えより許せられたところなのに,始終よこしまなはかりごとに出で、実行しない上は、この機に、一日も早く京都に帰られるように催促するため、近日中に、御迎えの公卿を差し向かわせるようにせよ。

 右の通り確定の後、一紙をもって仰せ出されるようにせよ。
  慶応3年12月9日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)藤原緒嗣らが『日本後紀』を撰上する(新暦841年1月5日)詳細
1159年(平治元)院近臣らの対立により発生した平治の乱が起きる(新暦1160年1月19日)詳細
1916年(大正5)小説家夏目漱石の命日(漱石忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「農地改革に関する覚書」(SCAPIN-411)を指令する詳細
1975年(昭和50)第30回国際連合総会において、「障害者の権利に関する宣言」が採択される(障害者の日)詳細
1993年(平成5)屋久島・白神山地・法隆寺・姫路城の4ヶ所が日本初の世界遺産に決定する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

geishyougikaihourei01
 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、明治新政府が「芸娼妓解放令」を発布し、遊女の人身売買を禁止し、芸娼妓などの年季奉公人を解放した日ですが、新暦では11月2日となります。
 「芸娼妓解放令」(げいしょうぎかいほうれい)は、明治新政府による芸妓・娼妓・奉公人の人身売買の禁止、年季奉公の制限と前借金の無効宣言をした「明治5年太政官布告第295号」の通称で、正式名称は、「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件」と言いました。続いて、同年10月9日(11月9日)に出された「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)により、「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス」として、過去の借金を返すよう求めることはできないと定めていたため「牛馬切りほどき令」とも言われます。
 同年7月のマリア・ルーズ号事件に際し、ペルー側が日本の娼妓制度を人身売買と弁じたことにより、急遽この布告を発布して表面をとりつくろおうとしたものでした。同令は、女性の基本的人権への認識や解放後の更生対策を伴わなかったため、翌年の「東京府令第145号」をはじめとする貸座敷(娼妓の営業に妓楼の座敷を貸した)制度の発足で有名無実化し、公娼制度の実態は変わっていません。
 しかしこの後、婦人矯風会や救世軍などの団体が廃娼をとなえる「廃娼運動」の一つのきっかけを与えることになりました。この太政官布告は、1898年(明治31)の「民法施行法」第9条により廃止され、1900年(明治33)10月2日に、「娼妓取締規則」が公布されています。
 以下に、「芸娼妓解放令」(明治5年太政官布告第295号)と「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「芸娼妓解放令」(明治5年10月2日太政官布告第295号)

人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件

一、人身ヲ売買シ終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古来制禁ノ処従来年期奉公等種種ノ名目ヲ以テ奉公住為致其実売買同様ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付自今可為厳禁事
一、農商工ノ諸業練習ノ為弟子奉公為致候儀ハ勝手ニ候得共年限満七箇年ニ不可過事。但雙方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事
一、平常ノ奉公人ハ一箇年宛タルヘシ、尤奉公人取次候者ハ証文可相改事
一、娼妓芸妓等年期奉公人一切解放可致右ニ付テノ貸借訴訟総テ不取上候事
右之通被定候条屹度可相守事。

〇「前借金無効の司法省達」(明治5年10月9日司法省達第22号)

本月二日大政官第二百九拾五号ニ而被仰出候次第ニ付左之件々可得心事

一、人身ヲ売買スルハ古来制禁ノ処年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ其実売買同様ノ所業ニ至ルニ付娼妓芸妓等雇入ノ資本金ハ贓金ト看做ス故ニ右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上其金額ヲ可取揚事
一、同上ノ娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ貸ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事。但シ本月二日以来ノ分ハ此限ニ非ス
一、人ノ子女ヲ金銭上ヨリ養女ノ名目ニ為シ娼妓芸妓ノ所業ヲ為サシムル者ハ其実際上則チ人身売買ニ付従前今後可及厳重ノ所置事

   「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1554年(天文23)禅僧・連歌師・俳人山崎宗鑑の命日(新暦10月28日)詳細
1855年(安政2)安政江戸地震が起き、江戸を中心に甚大な被害が出る(新暦11月11日)詳細
1900年(明治33)「娼妓取締規則」(明治33年内務省令第44号)が公布される詳細
1932年(昭和7)国際連盟現地調査団が満州事変や満州国について「リットン報告書」を発表する詳細
1943年(昭和18)勅令「在学徴集延期臨時特例」公布で、理工科系以外の学生の徴兵猶予を撤廃する詳細
1985年(昭和60)関越トンネルの開通により、関越自動車道(練馬~長岡)がつながる詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ