ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:明治天皇

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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われた日です。
 明治神宮外苑(めいじじんぐうがいえん)は、東京都新宿区霞ヶ丘町・港区北青山(一部)に所在する緑地です。明治時代は、青山練兵場でしたが、1912年(明治45)に明治天皇が亡くなった時に、葬場殿が設けられ、大葬儀が行われました。その後、明治神宮が国費で造営(内苑)されるにあたって、記念施設として民間の献金により外苑として造成されます。
 1918年(大正7)6月1日に明治神宮外苑地鎮祭で着工されたものの、当初計画では聖徳記念絵画館、葬場殿址記念物、憲法記念館、陸上競技場の4施設のみとするものでした。1923年(大正12)の関東大震災により、造営作業は中断し、敷地を被災者に開放 救護施設を建設、翌年には計画が変更され、野球場、水泳場、相撲場も設けられることになります。
 1924年(大正13)10月25日に、先行して明治神宮競技場が竣功(戦後に国立競技場として建替)、第1回明治神宮競技大会(内務省主催)が開催されました。1926年(大正15)10月22日には、絵画館、野球場、相撲場、児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われます。
 翌日から野球場開場記念試合として東京六大学紅白試合が行われ、その後は東京六大学リーグ戦の会場となりました。1931年(昭和6)に水泳場、1933年(昭和8)に相撲場併用バスケットボール場設備が出来、1936年(昭和11)には絵画館壁画が完成しています。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)の東京大空襲の際に、野球場をはじめ、苑内樹木が被災、戦後はGHQによって接収され、メイジパークとして米将兵の運動場ともなりました。1952年(昭和27)にGHQの接収が解除され、米軍施設を引き継ぎ、中央広場は軟式球場として公開されます。
 1952年(昭和27)に「宗教法人法」の施行に伴い明治神宮外苑は宗教法人となりましたが、1956年(昭和31)に1964年の東京オリンピック開催のため、外苑競技場は国(文部省)に譲渡され、国立競技場に建て替えられました。その後、諸施設が設けられ、洋風庭園としても整備され、現在は面積約30万㎡で、聖徳記念絵画館、明治記念館、明治神宮野球場、明治神宮外苑アイススケート場、日本青年館などのスポーツ、文化施設があります。
 絵画館前へ通ずるイチョウ並木は、東京におけるもっとも美しい街路樹の一つとされ、1982年(昭和57)には「新東京百景」にも選定されました。

〇明治神宮外苑の主な施設

・聖徳記念絵画館 - 1926年竣工。明治天皇にまつわる幕末・明治期の政局を描いた絵画を中心に展示されている
・明治記念館 - 明治神宮による結婚式場として有名、大日本帝国憲法の草案を作った建物も残っている
・明治神宮野球場 - 東京ヤクルトスワローズの本拠地、また全日本大学野球選手権大会の舞台
・明治神宮外苑軟式グラウンド - 絵画館の正面にある野球場。
・明治神宮外苑にこにこパーク - 山やログハウスなど緑豊かな有料児童遊園(大人200円、子供50円)
・明治神宮外苑アイススケート場 - 一年中利用できる室内アイススケート場
・神宮外苑フットサルクラブ - 神宮外苑によるフットサルコート
・明治神宮外苑テニスクラブ - 神宮外苑によるテニスクラブ、1957年設立、室内と屋外の2つがある
・明治神宮外苑ゴルフ練習場 - 神宮外苑によるゴルフ練習場
・明治神宮バッティングドーム - 神宮にある全12打席のバッティングセンター
・日本青年館 - 宿泊・会議などもできる施設
・日本文化芸術研究センター - 2010年7月、京都造形芸術大学と東北芸術工科大学が共同で設置したサテライトキャンパス
・三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア - 2019年11月22日に開業した三井ガーデンホテルの1つ

☆明治神宮外苑関係略年表

・1912年(明治45)7月30日 明治天皇が亡くなる
・1912年(大正元)9月13日 旧青山練兵場(現在の明治神宮外苑)葬場殿にて大葬儀が行われる
・1914年(大正3) 明治神宮奉賛会創立準備委員会が結成され、旧青山練兵場を明治天皇を記念する公園施設(外苑)とすることとなる
・1918年(大正7)6月1日 明治神宮外苑地鎮祭で着工されたが、当初の開発計画では聖徳記念絵画館、葬場殿址記念物、憲法記念館、陸上競技場の4施設のみとする
・1919年(大正8) 工夫賃金が上昇して予算がひっ迫すると、全国各地の青年団が勤労奉仕として造営に加わることとなる
・1923年(大正12) 関東大震災により、造営作業は中断し、敷地を被災者に開放 救護施設を建設する
・1924年(大正13) 計画が変更され、野球場・水泳場・相撲場も設けられることになる
・1924年(大正13)10月25日 明治神宮競技場が竣功する(戦後に国立競技場として建替)
・1924年(大正13)10月30日 第1回明治神宮競技大会(内務省主催)が開催される
・1926年(大正15)10月22日 絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる
・1926年(大正15)10月23日 野球場開場記念試合として東京六大学紅白試合が行われる
・1926年(大正15)10月24日 東京六大学リーグ戦が開始される
・1931年(昭和6)5月9日 野球場改築工事が竣功し、アーケード型通路となる
・1931年(昭和6)6月19日 水泳場が竣功する
・1933年(昭和8)1月19日 相撲場併用バスケットボール場設備が奉献される
・1936年(昭和11)4月21日 絵画館壁画が完成し記念式が行われる
・1943年(昭和18)10月21日 明治神宮競技場で出陣学徒壮行会が挙行される
・1945年(昭和20)5月25日 東京大空襲のため、野球場をはじめ、苑内樹木が被災する
・1945年(昭和20)9月18日 GHQによって接収され、メイジパークとして米将兵の運動場となる
・1945年(昭和20)10月28日 戦後初の六大学野球OB戦が行われる
・1945年(昭和20)11月18日 全早慶戦が行われる
・1945年(昭和20)11月23日 野球場初のプロ野球試合、東西対抗戦が行われる
・1947年(昭和22)6月1日 大相撲夏場所が晴天の10日間開催される(国技館米国接収につき)
・1947年(昭和22)11月1日 憲法記念館を「明治記念館」として結婚式場を開館する
・1950年(昭和25)11月22日 プロ野球初の日本選手権試合、毎日対松竹が行われる
・1952年(昭和27)3月1日 新宿区より絵画館が「建造物の部」で文化財に指定される
・1952年(昭和27)3月31日 GHQの接収が解除され、米軍施設を引き継ぎ、中央広場を軟式球場として公開(当初2面)する
・1952年(昭和27)10月22日 「宗教法人法」の施行に伴い明治神宮外苑は宗教法人となる
・1953年(昭和28)2月3日 ゴルフ練習場が開場する(29.12.31まで野球場外野スタンド)
・1956年(昭和31)12月25日 外苑競技場を国(文部省)に譲渡、国立競技場となる(東京オリンピック開催のため)
・1957年(昭和32)4月1日 硬式テニスコート開場式が行われ、テニスクラブが発会する
・1959年(昭和34)6月21日 絵画館前角池を子供プールに使用する(かっぱ天国 36年まで)
・1960年(昭和35)3月25日 児童遊園が有料化され、こども電車が営業開始する(40年まで)
・1961年(昭和36)4月19日 第二球場が竣功する(相撲場跡地)
・1962年(昭和37)4月7日 神宮球場でのプロ野球公式戦使用を開始する(東映)
・1962年(昭和37)6月8日 野球場ナイター照明工事が竣功する
・1963年(昭和38)11月6日 水泳場新館増改築工事が竣功する(家族プール兼アイススケート場)
・1963年(昭和38)11月7日 アイススケート場が営業開始する
・1964年(昭和39)4月1日 神宮球場を国鉄球団(現在の東京ヤクルトスワローズ)の本拠地として使用開始する
・1964年(昭和39)7月23日 国旗掲揚塔が奉納される
・1964年(昭和39)10月10日 東京オリンピックが開会する
・1968年(昭和43)4月1日 絵画館学園が開校する(明治維新100年事業として)
・1968年(昭和43)8月3日 外苑円周道路においてサイクリングが開始される(日・祝日のみ使用 現在も実施中)
・1969年(昭和44)2月11日 「建国記念塔」が奉納される
・1970年(昭和45)11月6日 第一回明治神宮野球大会が開催される
・1971年(昭和46)5月25日 室内球技場が竣功する
・1972年(昭和47)8月13日 ゴルフ練習場が営業開始する
・1976年(昭和51)10月29日 野球場竣功50周年物故者慰霊祭が行われる
・1977年(昭和52)4月16日 打撃練習場が竣功する
・1978年(昭和53)1月10日 陶芸教室が竣功する
・1978年(昭和53)3月30日 野球場外野芝生席が改修される(椅子席となる)
・1978年(昭和53)10月10日 児童遊園内にトリム遊具が設置される
・1980年(昭和55)3月15日 電光式スコアボードが新設される(野球場)
・1980年(昭和55)8月1日 第一回神宮外苑花火大会が開催される(以降毎年実施)
・1982年(昭和57)3月17日 野球場透水性人工芝生敷設工事が竣功する
・1982年(昭和57)7月29日 キリンビアフェスタが開催される(児童遊園)以降「森のビアガーデン」として毎夏盛況を博す
・1982年(昭和57)10月1日 外苑フィギュア・スケートクラブが発会する
・1982年(昭和57)10月1日 「新東京百景」に選定される
・1990年(平成2)10月22日 聖徳記念絵画館夜間照明が竣功する
・1991年(平成3)3月8日 世界陸上が開催される(軟式球場サブトラックとして使用)
・1993年(平成5)3月27日 室内テニスコートが竣功する
・1994年(平成6)9月21日 アイススケート場通年営業開始
・1996年(平成8)12月26日 銀杏並木「新日本街路樹100景」に認定
・1997年(平成9)3月18日 フットサルコート竣功(軟式球場・水泳場)
・1997年(平成9)11月22日 第一回神宮外苑いちょう祭りが開催される(以降毎年実施)
・2002年(平成14)12月2日 明治神宮水泳場が閉場する
・2003年(平成15)4月25日 フットサル千駄ヶ谷コートが竣功する
・2003年(平成15)6月2日 絵画館が東京都選定歴史的建造物に指定される
・2006年(平成18) 社団法人ランドスケープコンサルタンツ協会関東支部は、「2016東京オリンピック招致に向けたランドスケープ提言」をまとめる
・2006年(平成18)11月4日 外苑創建八十年記念奉納試合が開催される(東京六大学選抜対東京ヤクルトスワローズ)
・2008年(平成20)3月6日 野球場リニューアル工事が竣功、人工芝全面張替、スコアボード全面LEDハイビジョン化、両翼拡張(91m→101m)される
・2015年(平成27)4月1日  都は指定の容積率を使い切っていない公園や緑地も多いため、神宮外苑地区の地権者と、街づくり(再整備)の検討に向けた基本覚書を交わす
・2018年(平成30)8月23日 都は新国立競技場を中心とした明治神宮外苑地区の再開発について、2020年以降の街づくり指針を有識者らが協議する検討委員会(座長・下村影男東京大学教授)は、大まかな将来像を示めす
・2018年(平成30)11月22日 上記を受けて都がまちづくり指針を発表する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細


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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、「陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭」(軍人勅諭)が発布された日です。
 「陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭(りくぐんぐんじんにくだしたまえるちょくゆ)」は、明治天皇が陸海軍人に下賜した勅諭で、略称として「軍人勅諭」とも呼ばれてきました。内容は、前文で日本の兵制の沿革を説き、「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」など天皇の軍隊統率の本旨を明らかにし、特に軍人が政治に関与しないように明示し、続いて、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つの基本徳目を掲げ、「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕し」、「上官の命令は天皇の命令」などと説いています。
 これが出された背景には、1877年(明治10)2月の西南戦争、1878年(明治11)8月の竹橋事件、自由民権運動の高揚などの当時の社会情勢があり、これに対して軍隊の動揺を防止すると共に、精神教育の基本とされました。軍人に対し、これを信奉することが要求され、ついには、全文暗誦が強制されるようになります。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の1948年(昭和23)6月19日、国会において、「教育勅語」などとともにその失効を決議されました。
 以下に、全文を現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」(軍人勅諭) 1882年(明治15)1月4日発布

我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに隨ひて兵制の沿革も亦屢なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に傚はせ給ひ六衞府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剩外國の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定めぬ夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ
一 軍人は禮儀を正くすへし凡軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統屬するのみならす同列同級とても停年に新舊あれは新任の者は舊任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より舊きものに對しては總へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊も輕侮驕傲の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を專一と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若軍人たるものにして禮儀を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠧毒たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし
一 軍人は武勇を尚ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨へ能く膽力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を踐行ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧氣なる事を假初に諾ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を辨へ理非を考へ其言は所詮踐むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき
一 軍人は質素を旨とすへし凡質素を旨とせされは文弱に流れ輕薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陷りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風も兵氣も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜條例を施行し畧此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等閑にな思ひそ右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの裝飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや

明治十五年一月四日

 御名

<現代語訳>

わが国の軍隊はいつの世も、天皇の率いるもとにある。昔、神武天皇みずから大伴物部の兵たちを率い、国中の帰順せぬ者どもを討ちたいらげ、皇位につき天下を治められてから、二千五百年余りを経た。この間、世の移り変わりに従い、兵制の改革もまたしばしばであった。古くは天皇がみずから軍を率いられる制度であり、時には皇后皇太子が代ることもあったが、およそ兵権を臣下に委ねることはなかった。中世に至り、政治軍事の制度をみな唐にならわせ、六衛府を置き左右の馬寮を建て、防人などを設けて兵制は整った。しかしうち続く平和になれ、朝廷の政務もしだいに文弱に流れたため、兵と農はおのずから二つに分かれ、古代の徴兵はいつとなく志願の姿に変わり、ついには武士となった。軍事の権限は、すべて武士たちの頭領である者に帰し、世の乱れとともに政治の大権もまたその手に落ち、およそ七百年のあいだ武家の政治となった。世のさまの移りでかくなったのは、人の力では挽回できなかったともいえるが、それはわが国体に照らし、かつわが祖先の制度に背く、嘆かわしき事態であった。

時が下って、弘化嘉永の頃から徳川幕府の政治は衰え、あまつさえ外国との諸問題が起こって国が侮りを受けかねない情勢が迫り、わが祖父仁孝天皇、先代孝明天皇をいたく悩ませられたことは、かたじけなくも又おそれ多いことであった。しかるに朕が幼くして皇位を継承した当初、征夷大将軍が政権を返上し、大名小名は版籍を奉還した。年を経ずに国内が統一され、古代の制度が復活した。これは文武の忠臣良臣が朕を補佐した功績であり、民を思う歴代天皇の遺徳であるが、あわせてわが臣民が心に正逆の道理をわきまえ、大義の重さを知っていたからこそである。そこでこの時機に兵制を改め国威を輝かすべしと考え、この十五年ほどで陸海軍の制度を今のように定めたのである。軍の大権は朕が統帥するもので、その運用は臣下に任せても、大綱は朕がみずから掌握し、臣下に委ねるものではない。子孫に至るまでこの旨をよく伝え、天皇が政治軍事の大権を掌握する意義を存続させ、再び中世以降のように、正しい体制を失うことがないよう望む。

朕は汝ら軍人の大元帥である。朕は汝らを手足と頼み、汝らは朕を頭首とも仰いで、その関係は特に深くなくてはならぬ。朕が国家を保護し、天の恵みに応じ祖先の恩に報いることができるのも、汝ら軍人が職分を尽くすか否かによる。国の威信にかげりがあれば、汝らは朕と憂いを共にせよ。わが武威が発揚し栄光に輝くなら、朕と汝らは誉れをともにすべし。汝らがみな職分を守り、朕と心を一つにし、国家の防衛に力を尽くすなら、我が国の民は永く太平を享受し、我が国の威信は大いに世界に輝くであろう。朕の汝ら軍人への期待は、かくも大きい。そのため、ここに訓戒すべきことがある。それを左に述べる。

一 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。我が国に生をうける者なら、誰が国に報いる心がないことがあろう。まして軍人となる者は、この心が固くなければ、物の役に立つとは思われぬ。軍人にして報国の心が堅固でないならば、いかに技量に練達し、また学術に優れても、なお木偶でく人形にひとしいのだ。隊伍整い規律正しくとも、忠節の存在しない軍隊は、有事にのぞめば烏合の衆と同じである。国家を防衛し、国権を維持するのは兵の力によるのであるから、兵力の強弱はすなわち国運の盛衰であることをわきまえよ。世論に惑わず、政治に関わることなく、ただ一途におのれの本分たる忠節を守り、義務は山より重く、死は羽毛より軽いと覚悟せよ。その志操を破り、不覚をとって汚名をうけることのないように。

一 軍人は礼儀を正しくすべし。軍人は上は元帥から下は一兵卒に至るまで、階級があって統制に属すだけでなく、同じ階級でも年次に新旧があり、年次の新しい者は、古い者に従うべきものだ。下級の者が上官の命令を受ける時には、実は朕から直接の命令を受けると同義と心得よ。自己の所属するところでなくとも、上官はもちろん年次が自己より古い者に対しては、すべて敬い礼を尽くすべし。また上級の者は下級のものに向かい、いささかも軽侮し傲慢な振るまいがあってはならぬ。公務のため威厳を主とする時は別、そのほかは努めて親密に接し、慈愛をもっぱらに心がけ、上下が一致して公務に勤めよ。もし軍人たる者で礼儀を破り、上を敬わず下をいたわらず、一致団結を失うならば、ただ軍隊の害毒であるのみか、国家のためにも許しがたき罪人である。

一 軍人は武勇を尊ぶべし。武勇は我が国において古来より尊ばれてきたところであるから、我が国の臣民たるものは、武勇なくしてははじまらぬ。まして軍人は戦闘にのぞみ、敵に当たる職務であるから、片時も武勇を忘れてよいことがあろうか。ただ武勇には大勇と小勇があり同じではない。血気にはやり、粗暴に振るまうなどは武勇とはいえぬ。軍人たるものは常によく義理をわきまえ、胆力を練り、思慮を尽くして物事を考えるべし。小敵も侮らず、大敵をも恐れず、武人の職分を尽くすことが、まことの大勇である。武勇を尊ぶ者は、常々他人に接するにあたり温和を第一とし、人々から敬愛されるよう心がけよ。わけもなく蛮勇を好み、乱暴に振舞えば、果ては世人から忌み嫌われ、野獣のように思われるのだ。心すべきことである。

一 軍人は信義を重んずべし。信義を守ることは常識であるが、とりわけ軍人は信義がなくては一日でも隊伍の中に加わっていることが難しい。信とはおのれの言葉を守り、義とはおのれの義理を果たすことをいう。従って信義を尽くそうと思うならば、はじめからその事が可能かまた不可能か、入念に思考すべし。あいまいな物事を気軽に承知して、いわれなき係わりあいを持ち、後になって信義を立てようとしても進退に困り、身の置き所に苦しむことがある。後悔しても役に立たぬ。始めによくよく事の正逆をわきまえ、理非を考えて、この言はしょせん実行できぬもの、この義理はとても守れぬものと悟ったならば、すみやかにとどまるがよい。古代から、あるいは小の信義を貫こうとして大局の正逆を見誤り、あるいは公の理非に迷ってまで私情の信義を守り、あたら英雄豪傑が災難にあって身をほろぼし、死後に汚名を後世まで残した例は少なくない。深く警戒しなくてはならぬ。

一 軍人は質素を旨とすべし。およそ質素を心がけなければ、文弱に流れ軽薄に走り、豪奢華美を好み、ついには貪官となり汚職に陥って心ざしもむげに賤しくなり、節操も武勇も甲斐なく、人々に爪はじきされるまでになるのだ。その身の一生の不幸と言うも愚かである。この風潮がひとたび軍人の中に発生すれば、伝染病のように蔓延して武人の気風も兵の意気もとみに衰えることは明らかである。朕は深くこれを危惧し、先に免黜条例を施行してこの点の大体を戒めた。しかしなおこの悪習が出ることを憂慮し、心が静まらぬため又この点を指導するのである。汝ら軍人は、ゆめゆめこの訓戒をなおざりに思うな。

右の五か条は軍人たらん者は、しばしもゆるがせにしてはならぬ。これを行うには誠の一心こそが大切である。この五か条はわが軍人の精神であって、誠の心一つは、また五か条の精神なのである。心に誠がなければ、いかに立派な言葉も、また善き行いも、みな上べの装飾で何の役に立とうか。誠があれば、何事も成しとげられるのだ。ましてこの五か条は、天地の大道であり人倫の常識である。行うにも容易、守るにも容易なことである。汝ら軍人はよく朕の教えに従い、この道を守り実行し、国に報いる義務を尽くせば、朕ひとりの喜びにあらず、日本国の民はこぞってこれを祝するであろう。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)地租軽減運動としての一揆頻発により、税率を地価の3%から2.5%に引き下げる詳細
1912年(明治45)公家・政治家・伯爵東久世通禧の命日詳細
1946年(昭和21)GHQが「公務従事ニ適シナイ者ノ公職カラノ除去ニ関スル件」(SCAPIN-550)を出す詳細
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 今日は、明治時代前期の1870年(明治3)に、「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)と「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)が出された日ですが、新暦では2月3日となります。
 この2つの詔は、神祇官神殿の鎮祭の執行と神道による国民思想の統一・国家意識の高揚をはかるための国民教化政策として出されたものでした。それ以前、1868年(明治元)に神祇官を復興させ、翌年7月8日に大教の宣布・宣教を目的として宣教使を設け、同年10月9日には、これを神祇官の付接とています。
 そして、祭政一致のスローガンのもと、1870年(明治3年1月3日)に「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)と「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)を発して国民教化(布教)に乗り出し、「神道の国教化(国家神道)」と「天皇の絶対化」を推し進めました。直接的にはキリスト教を排撃し、宣教使による神道振興と国家的保護を打ち出し、特に長崎には特別の出張所を設けてキリスト教対策にあてると共に、同年3月には、各府藩県にも宣教掛(かかり)が置かれます。
 同年4月23日に政府により「宣教使心得書」が定められ、皇道主義にもとづく国民教化運動が開始しされました。しかし、廃仏毀釈による混乱や各藩の儒教・仏教重視理念との対立、神祇省内部における国学者間の路線対立、欧米諸国からのキリスト教弾圧停止要求等も起こります。
 これらによって、思うような効果は上がらず、1872年(明治5年3月14日)に教部省設置と共に宣教使も廃止となり、新たに教導職・大教院を設け宣教政策拡大に努めましたが、仏教側の抵抗が強く、1875年(明治8)5月大教院廃止、1877年(明治10)教部省廃止、1884年(明治17)教導職の廃止によって挫折しました。
 以下に、「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)と「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)を現代語訳・注釈付で、全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔) 1870年(明治3年1月3日)

朕恭惟大祖創業崇敬神明愛撫蒼生祭政一致所由来遠矣朕以寡弱夙承聖緒日怵愓懼天職之或虧乃祇鎮祭天神地祇八神曁列皇神霊于神祇官以申孝敬庶幾使億兆有所矜式

<読み下し文>

 朕、恭しく惟るに、太祖[1]創業、神明[2]を崇敬し、蒼生[3]を愛撫[4]し、祭政一致、由て来る[5]所遠し。朕、寡弱[6]を以て、夙く聖緒[7]を承け、日夜怵愓[8]、天職の或は欠けんことを懼る[9]。乃ち祇んで天神[10]地祇[11]八神[12]曁び[13]列皇[14]の神霊[15]を、神祇官[16]に鎮祭[17]し、以て孝敬[18]を申ふ。庶幾くは[19]、億兆[20]をして矜式[21]する所あらしめん。

【注釈】

[1]大祖:たいそ=皇祖。初代の天皇。
[2]神明:しんめい=神々。
[3]蒼生:そうせい=多くの民。
[4]愛撫:あいぶ=撫でるように愛する。深く愛すること。
[5]由て来る:よってきたる=原因。由来。
[6]寡弱:かじゃく=徳のすくない力の弱い者。身よりのない年の若い者。
[7]聖緒:せいしょ=皇緒。皇統。天皇の事績。
[8]怵惕:じゅってき=恐れ憂うること。心に大いなる不安を感ずること。
[9]懼る:おそる=恐れる。心配する。
[10]天神:てんじん=天の神。あまつかみ。
[11]地祇:ちぎ=地の神。国土の神。くにつかみ。
[12]八神:はっしん=天皇の守護神として宮中の神殿に祭る八柱の神。神産日(かみむすひ)・高御産日(たかみむすひ)・玉積産日(たまづめむすひ)・生産日(いくむすひ)・足産日(たるむすひ)・大宮売(おおみやのめ)・御食津(みけつ)・事代主(ことしろぬし)の神々。
[13]曁び:および=及び。
[14]列皇:れっこう=歴代の天皇。
[15]神霊:しんれい=尊い御霊。
[16]神祇官:しんぎかん=明治初年に於ける中央政府の一官庁。
[17]鎮祭:ちんさい=鎮座してお祭りすること。
[18]孝敬:こうけい=孝心をもつて神を敬うこと。
[19]庶幾くは:こいねがわくは=どうぞお願いだから。なにとぞ。
[20]億兆:おくちょう=人民。万民。
[21]矜式:きょうしょく=謹んで則ること。真心を尽してその通りに行う。

<現代語訳>

 私(明治天皇)が謹んで考えて見るに、皇祖はこの国を治め、神々を崇敬し、多くの民を深く愛し、祭政一致の由来は、甚だ遠い。私(明治天皇)は、徳の少ない力の弱い者であって、皇統を継承したので、日夜恐れ憂いて、天職にあるいは欠けるようなことはないかと心配している。そこで、謹んで天の神・地の神・八柱の神及び歴代の天皇の神霊を、神祇官の中に鎮座してお祭りし、もって孝心をもつて神を敬う心を顕わそうと思う。なにとぞ万民にも、真心を尽してその通りに行はさせようと思っている。

〇「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔) 1870年(明治3年1月3日)

朕恭惟天神天祖立極垂統列皇相承継之述之祭政一致億兆同心治教明于上風俗美于下而中世以降時有汚隆道有顕晦治教之不洽也久矣今也天運循環百度維新宜明治教以宣揚惟神大道也因新命宣教使以布教天下汝群臣衆庶其体斯旨

<読み下し文>

 朕、恭しく惟るに、天神[1]天祖[2]極を立て[3]統を垂れ[4]、列皇[5]相承け、之れを継き之れを述へ、祭政一致億兆[6]同心、治教[7]上に明かに、風俗下に美なりし。而して、中世以降、時汚隆[8]あり、道顕晦[9]あり。治教[7]の洽からざるや久し。今や天運循環、百度[10]維れ新なり。宜しく治教[7]を明らかにし、以て惟神の大道[11]を宣揚[12]すへきなり。因て宣教使[13]に命し、天下に布教す。汝群臣[14]衆庶[15]、其れ斯旨を体せよ。

【注釈】

[1]天神:てんじん=天の神。あまつかみ。
[2]天祖:てんそ=皇室の遠い先祖。
[3]極を立て:きょくをたて=皇位を確立すること。
[4]統を垂れ:とうをたれ=後世へ伝えること。
[5]列皇:れっこう=歴代の天皇。
[6]億兆:おくちょう=人民。万民。
[7]治教:じきょう=政治と宗教。また、政治と教化。政教。
[8]汚隆:おりゅう=衰えることと盛んになること。盛衰。隆替。
[9]顕晦:けんかい=明るくなったり暗くなったりすること。明暗。
[10]百度:ひゃくど=百回。また、回数の多いこと。
[11]惟神の大道:かむながらのたいどう=神代から伝えられている大いなる正しい道。天照大神の遺せられた皇道の意味。
[12]宣揚:せんよう=広く世の中にあらわすこと。盛んであることをはっきりと示すこと。
[13]宣教使:せんきょうし=神道布教のために任命された者。
[14]群臣:ぐんしん=多くの臣下。諸臣。
[15]衆庶:しゅうしょ=一般の人々。庶民。大衆。

<現代語訳>

 私(明治天皇)が謹んで考えて見るに、天の神や皇室の遠い先祖は、皇位を確立して後世へ伝え、歴代の天皇は、これを受け継がれた。祭祀と政治は一致し、万民は皆心を合わせ、上の政治と教化が道理に通じ、下の風俗が美はしかった。しかるに、中世以降、世の中の盛衰によって、道の明暗があった。政治と教化が広く行き渡らないことが久しかった。今では、自然に時節が巡り来て、多くのことがみな新らしくなった。ぜひとも政治と教化のことを明らかにして、もって神代から伝えられている大いなる正しい道を広く世の中にあらわしていかなければならない。よって、宣教使に命じて、天下に布教するものである。おまえら多くの臣下も一般の人々も、それよくこの趣旨を心得よ。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

976年(天延4)第67代の天皇とされる三条天皇の誕生日(新暦2月5日)詳細
985年(永観3)天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日)詳細
1868年(慶応4)戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日)詳細


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 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、田中正造が足尾鉱毒問題について、明治天皇へ直訴しようとした日です。
 田中正造の直訴(たなかしょうぞうのじきそ)は、田中正造が足尾鉱毒事件について、明治天皇に直訴を行なおうとした事件でした。衆議院議員だった田中正造は、1891年(明治24)、第2回帝国議会において足尾銅山の鉱毒に対して、鉱業停止要求をしてから、何度も議会での追及をします。
 それによって、政府の対応や政党に絶望した結果、1901年(明治34)10月に議員を辞職し、最後の手段として天皇に直訴することを決断しました。そして、幸徳秋水が直訴状の草案を起草、田中正造が加除修正を加え、同年12月10日の議院開院式の帰途の明治天皇に直訴しようとしましたが捕らえられて、果たすことができないで終わります。
 しかし、この事件は社会に衝撃を与え、これを契機に、ジャーナリズム、学生、キリスト教徒、仏教徒らの被害民支持が高まりました。
 以下に、この時の田中正造の直訴状を全文、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇田中正造とは?

 明治時代に活躍した政治家で、1841年(天保12)に、小中村(現在の栃木県佐野市)名主の家に生まれました。 その後、父の跡を継いで小中村名主となりましたが、領主に村民と共に政治的要求を突き付けたことが元になって、投獄されています。
 1870年(明治3)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市)の官吏となったものの、翌年、上司殺害の容疑者として逮捕、投獄されました。冤罪に終わりましたが、その後小中村に戻り、再び政治に関わるようになります。
 1880年(明治13)に、栃木県議会議員になり、1890年(明治23)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選(以後6回当選)しました。この年に渡良瀬川で大洪水があり、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。
 そして、この足尾銅山鉱毒事件に深くかかわっていくことになりました。1901年(明治34)には、明治天皇に足尾銅山鉱毒事件について直訴を行なおうとしています。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てます。紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになり、この村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住みました。
 そして、村民と共に反対運動に取り組みましたが、1907年(明治40)、政府は土地収用法の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、田中正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)9月4日に71歳で没しました。
 尚、「佐野市郷土博物館」には、田中正造展示室があり、関係資料約1万点を収蔵しています。

〇「足尾鉱毒事件」とは?

 明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。

〇足尾銅山とは?

 この銅山は、室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
 その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。
 1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
 禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
 1973年(昭和48)に閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。また、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から「近代化産業遺産」にも認定されました。
 尚、現在は足尾銅山観光などの観光地となっています。

☆田中正造の直訴状 (全文) 1901年(明治34)12月10日

  謹奏

田中正造

草莽ノ微臣[1]田中正造誠恐誠惶頓首[2]頓首[2]謹テ奏ス。
 伏テ惟ルニ臣田間ノ匹夫[3]敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ鳳駕[4]ニ近前スル其罪実ニ万死[5]ニ当レリ。而モ甘ジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ国家生民ノ為ニ図リテ一片ノ耿耿竟ニ忍ブ能ハザルモノ有レバナリ。伏テ望ムラクハ陛下深仁深慈臣ガ至愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ。
 伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山[6]アリ。近年鉱業上ノ器械洋式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト之レヲ澗谷[7]ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河[8]ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。加フルニ比年山林ヲ濫伐[9]シ煙毒水源ヲ赤土[10]ト為セルガ故ニ河身[11]激変シテ洪水又水量ノ高マルコト数尺毒流四方ニ氾濫シ毒渣[12]ノ浸潤[13]スルノ処茨城栃木群馬埼玉四県及其下流ノ地数万町歩ニ達シ魚族斃死[14]シ田園荒廃シ数十万ノ人民ノ中チ産ヲ失ヒルアリ、営養ヲ失ヒルアリ、或ハ業ニ離レ飢テ食ナク病テ薬ナキアリ。老幼ハ溝壑ニ転ジ[15]壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦[16]満目惨憺[17]ノ荒野ト為レルアリ。
 臣夙ニ鉱毒ノ禍害[18]ノ滔滔底止スル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ憂悶[19]手足ヲ措クニ処ナシ。嚮ニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ。爾後議会ニ於テ大声疾呼其拯救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年、而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ之ガ適当ノ措置ヲ施スコトナシ。而シテ地方牧民ノ職[20]ニ在ルモノ亦恬トシテ省ミルナシ。甚シキハ即チ人民ノ窮苦[21]ニ堪ヘズシテ群起[22]シテ其保護ヲ請願スルヤ有司[23]ハ警吏[24]ヲ派シテ之ヲ圧抑シ誣テ兇徒[25]ト称シテ獄ニ投ズルニ至ル。而シテ其極ヤ既ニ国庫ノ歳入数十万円ヲ減ジ又将ニ幾億千万円ニ達セントス。現ニ人民公民ノ権ヲ失フモノ算ナクシテ町村ノ自治全ク頽廃[26]セラレ貧苦疾病及ビ毒ニ中リテ死スルモノ亦年々多キヲ加フ。
 伏テ惟ミルニ陛下不世出ノ資ヲ以テ列聖ノ余烈ヲ紹ギ徳四海ニ溢レ威八紘[27]ニ展ブ。億兆昇平[28]ヲ謳歌セザルナシ。而モ輦轂ノ下[29]ヲ距ル甚ダ遠カラズシテ数十万無告[30]ノ窮民空シク雨露ノ恩ヲ希フテ昊天[31]ニ号泣スルヲ見ル。嗚呼是レ聖代ノ汚点ニ非ズト謂ハンヤ。而シテ其責ヤ実ニ政府当局ノ怠慢曠職[32]ニシテ上ハ陛下ノ聡明ヲ壅蔽[33]シ奉リ下ハ家国民生ヲ以テ念ト為サヾルニ在ラズンバアラズ。嗚呼四県ノ地亦陛下ノ一家ニアラズヤ。四県ノ民亦陛下ノ赤子[34]ニアラズヤ。政府当局ガ陛下ノ地ト人トヲ把テ如此キノ悲境[35]ニ陥ラシメテ省ミルナキモノ是レ臣ノ黙止スルコト能ハザル所ナリ。
伏シテ惟ルニ政府当局ヲシテ能ク其責ヲ竭サシメ以テ陛下ノ赤子[34]ヲシテ日月ノ恩ニ光被[36]セシムルノ途他ナシ。渡良瀬河[8]ノ水源ヲ清ムル其一ナリ。河身[11]ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ。激甚ノ毒土ヲ除去スル其三ナリ。沿岸無量ノ天産[37]ヲ復活スル其四ナリ。多数町村ノ頽廃[26]セルモノヲ恢復スル其五ナリ。加毒ノ鉱業ヲ止メ毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ。如此ニシテ数十万生霊[38]ノ死命ヲ救ヒ居住相続ノ基ヘヲ回復シ其人口ノ減耗[39]ヲ防遏[40]シ、且ツ我日本帝国憲法及ビ法律ヲ正当ニ実行シテ各其権利ヲ保持セシメ、更ニ将来国家ノ基礎タル無量ノ勢力及ビ富財ノ損失ヲ断絶スルヲ得ベケンナリ。若シ然ラズシテ長ク毒水ノ横流ニ任セバ臣ハ恐ル其禍ノ及ブ所将サニ測ル可ラザルモノアランコトヲ。
 臣年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効[41]ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞[42]ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス情切ニ事急ニシテ涕泣[43]言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ聖明矜察[44]ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号[45]ノ至リニ任フルナシ。
  明治三十四年十二月

草莽ノ微臣[1]田中正造誠恐誠惶頓首[2]頓首[2]

     「田中正造全集 第三巻」より

【注釈】

[1]草莽ノ微臣:そうもうのびしん=在野の一国民。民間のとるにたらない人間。
[2]頓首:とんしゅ=ぬかずくこと。平つくばって。
[3]田間ノ匹夫:でんかんのひっぷ=田畑で暮らす身分の低い男。
[4]鳳駕:ほうが=天子の乗り物。宝駕。
[5]万死:ばんし=命を投げ出すこと。
[6]足尾銅山:あしおどうざん=栃木県足尾町(現在の日光市)にあった国内有数の銅山で、1973年に閉山した。
[7]澗谷:かんこく=谷間。
[8]渡良瀬河:わたらせがわ=利根川の支流の一つで、足尾銅山の方から鉱毒が流れてきて、沿岸に公害が発生した。
[9]濫伐:らんばつ=山林の木を無計画に伐り倒すこと。無計画に森林の木を伐採すること。
[10]赤土:せきど=赤く染まった土。禿山(はげやま)。
[11]河身:かしん=川の流れ。
[12]毒渣:どくさ=有毒鉱滓。金属の製錬に際して、溶融した金属から分離して浮かぶ、有毒物質を含むかす。
[13]浸潤:しんじゅん=液体がしみ込んで濡れること。
[14]斃死:へいし=行き倒れて死ぬこと。野垂れ死に。
[15]溝壑ニ転ジ:こうがくにてんじ=飢え死にすること。
[16]黄茅白葦:こうぼうはくい=荒れ果てて痩せた土地のこと。
[17]惨憺:さんたん=いたましくて見るに忍びないさま。
[18]禍害:かがい=わざわい。災害。
[19]憂悶:ゆうもん=思い悩み、苦しむこと。
[20]牧民ノ職:ぼくみんのしょく=政府の仕事。
[21]窮苦:きゅうく=行き詰まって苦しむこと。困窮。
[22]群起:ぐんき=多くの人々が立ち上がり、ことを起こすこと。蜂起。
[23]有司:ゆうし=役人。官吏。
[24]警吏:けいり=警察官吏。警察官。
[25]兇徒:きょうと=殺人・謀反などの悪行を働く者。また、その 仲間。
[26]頽廃:たいはい=衰えてすたれること。 くずれ荒れること。
[27]八紘:はっこう=全世界。世界中。
[28]昇平:しょうへい=世の中が平和でよく治まっていること。
[29]輦轂ノ下:れんこくのもと=天子のおひざもと。皇居のある地。首都。
[30]無告:むこく=自分の苦しみを訴えるところをもたないこと。また、その人。
[31]昊天:こうてん=広い空。大空。
[32]曠職:こうしょく= 職責を十分に果たさないこと。務めを怠ること。
[33]壅蔽:ようへい=ふさぎおおうこと。
[34]赤子:せきし=あかご。人民。国民。
[35]悲境:ひきょう=悲しい境遇。不幸な身の上。
[36]光被:こうひ=光が広く行きわたること。また、君徳などが広く世の中に行きわたること。
[37]天産:てんさん=天然に産出すること。また、その産物。
[38]生霊:しょうりょう=人類。民。
[39]減耗:げんもう=減ること。
[40]防遏:ぼうあつ=防ぎとめること。防止。
[41]報効:ほうこう=国恩に報いるために力をいたすこと。功をたてて恩に報いること。
[42]斧鉞:ふえつ=極刑。
[43]涕泣:ていきゅう=涙を流して泣くこと。
[44]矜察:きょうさつ=憐み、思いやり。
[45]呼号:こごう=大声で叫ぶこと。  

<現代語訳>

  謹奏

田中正造

在野のとるにたらない人間である田中正造が、恐れ多くも平伏して明治天皇に申し上げます。
謹んで考えますに、田畑で暮らす身分に低い男である私が、あえて道理を越え、法を犯して、陛下の乗り物の前に接近するという罪は、実に命を投げ出す行為であります。しかも、本意でないながらも、このようにする分けは、まことに国や民のためを思って活動してまいったものの、一片の私の忠心がついに耐え忍びがたくなったからであります。謹んで望みを述べさせていただくことは、いつくしみ深い陛下が、愚かな私を憐れんでくださり、少しでもこの直訴状にお目を通していただければということでございます。
 謹んで考えますに、東京から北に40里(約160km)離れた場所に足尾銅山があります。近年、鉱業用機械が洋式化して発達したのに伴って、流出される鉱毒の量はますます多くなっており、銅を掘り出し精錬する時に生じる有毒排水と有毒鉱滓は谷間を埋め、渓流に流れ出し、渡良瀬川を流れ下って、沿岸でその被害を受けない地域はありません。さらに、近年山林を乱伐し、煙毒によって水源を禿山としてしまったために川の流れが激しく変化して洪水となり、また水かさが数尺(30cmの数倍)も高くなり、有毒水が四方に氾濫し、有毒鉱滓が地下へ浸透した地域は、茨城・栃木・群馬・埼玉の四県とその下流の数万町歩(数万ha)に達し、魚類は野垂れ死に、田園は荒廃し、数十万の人民の中には財産をなくしてしまうものもあり、栄養失調に陥ってしまうものもおり、あるいは、失業してしまい、飢えても食物もなく、病気となっても薬もない者がおります。老人・子供は飢え死にし、元気な者はこの地を去り、他国に流出しています。このような有様で、20年前の肥沃な田畑は、今となっては見渡す限り荒れ果てて痩せた土地となり、痛ましくて見ていることができないような荒野と化してしまっています。
 私は、早くから鉱毒災害が広い範囲に及んで、止まることを知らず、住民の苦痛が限界に達していることを見て、思い悩んで苦しんで居ても立ってもいられない状態でした。以前、衆議院議員に選ばれると、第二回帝国議会の時に初めて書状によって、政府に問いただすことをしました。その後も、帝国議会において、声を大にして激論を交わし、救済策を要求して、20年に及びますが、それなのに政府当局はいつも言を左右にして、これに適切な措置を施すことはありませんでした。さらに、地方政府の要職に就く者も、また平然として省みることもありません。はなはだしいことは、住民が困窮に堪え切れず、集団で立ち上がって、保護を請願すると、役人は警察官を派遣して、これを抑圧し、事実を歪曲して重大犯だといって、監獄に入れるに至っていることです。こうした極みとして、すでに国庫の歳入を数十万円減少させ、また確実に数億千万円に達することになるでしょう。現に、人民で公民権を失うものも数え切れないくらい多く、町村の自治は完全に崩れて荒廃してしまい、貧苦や疾病および中毒死する者も、また年々増大しております。
 謹んで考えますに、陛下は不世出な資質をお持ちになって、天皇の地位を継承され、その徳は四海に溢れ、威厳は世界中に展開しておみえになります。多くの人民は、世の中が平和でよく治まっていることを謳歌していないものはおりません。しかし、首都からの距離がそんなに遠くない場所で、数十万の見捨てられた生活困窮者は、空しく広大な恵みを期待して天空に向かって号泣しているのを見るのです。ああ、これは陛下の御代の汚点ではないといえるものでしょうか。そして、その責任はまさに政府当局の職務を果たさないことによる怠慢であって、上の役人は陛下の聡明を覆って隠し、下の役人は国家民生を念頭に置かない有様です。ああ、四県(茨城・栃木・群馬・埼玉の各県)の地域もまた陛下の一家とはみなしてもらえないのでありましょうか。四県の住民もまた陛下の子供とはみなしてもらえないのでありましょうか。政府当局が陛下の土地と人民をこのような悲しい境遇に陥らしめて、反省しようとしないことを、私は黙って見過ごすことはできません。
 謹んで考えますに、政府当局に対して、その責任を徹底させ、そして陛下の子供ともいうべき四県の住民に、自然界の恩恵を行き渡らせる道は他にはありません。それは、渡良瀬川の水源を清めることが一番目です。川の流れを修築して、その自然の状態に復旧すことが二番目です。はなはだしく汚染した土を取り除くことが、三番目です。沿岸にある計り知れない天然資源を復活させることが四番目です。多くの衰退している町村を元に戻すことが五番目です。毒を排出している鉱業(足尾銅山)を操業停止にし、有毒排水・有毒鉱滓の流出を根絶することが六番目です。このようにして、数十万という住民の生命を救済し、居住し続けられる基盤を回復し、その人口が減少することを防いで、かつ、わが大日本帝国憲法および法律を正当に実施して、その権利を保って持続させ、さらに国家の将来の基盤となる限りない力と財産の喪失を断ち切れるようにする必要があります。もし、そうしないで長期間に渡り、有毒排水を垂れ流したままにするならば、私はその被害地域はまさに推測できないほどに増えることを恐れるのです。
 私は61歳という年齢で、さらに老いと病が日に日に進んでおります。余命もそれほどないと考えております。ただ、万に一つの功を立て恩にむくいたいと期して、あえて一身を投げ打つつもりで、自らの損得を計算してはおりません。ゆえに極刑をもいとわず、直訴いたしました。状況は急迫しており、涙なくして語ることはできない状況です。謹んでお願い申し上げることは、陛下が思いやりをお示しいただきたいことであります。そうしていただけるなら私は、感動の涙で泣き叫ぶことに違いありません。

明治34年12月 

在野のとるにたらない人間 田中正造、恐れ多くも平伏して

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1943年(昭和18)社団法人日本玩具統制協会から子供向けの「愛国イロハカルタ」が発行される詳細
1948年(昭和23)国連総会で「世界人権宣言」が採択される詳細
1997年(平成9)山陽自動車道(神戸JCT~山口JCT)が全通する詳細
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boshinsyouayo01

 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、明治天皇により「戊申詔書」が発布(翌日の官報掲載)された日です。
 戊申詔書(ぼしんしょうしょ)は、明治天皇により発せられた詔書で、同年が戊申(つちのえさる)の年のためこの通称で呼ばれてきました。日露戦争後の社会的混乱のなかにあって、華美を戒め、勤倹をすすめ、天皇制国家における国民道徳の方向を示したものです。
 その内容は、第一段落では西洋列強との関係を緊密にして共に発展していくべきとし、第二段落では、国運の発展のためには国家の方針に国民が一致協力して臨み、勤労に励むことを勧め、第三段落では、国民に対して五箇条の御誓文の理想が国運発展の基であるとし、その理想の完成のため尽すよう求めていました。第2次桂太郎内閣の内相平田東助の要請によるものとされ、発布後各地の役場、小学校などで捧読会が開かれたほか、翌年7月から地方改良運動(日露戦争で疲弊した地方社会や市町村の改良や再建を目指す国の運動)が始まり、町村財政を立て直すために納税組合の設置、農事改良、青年教育、普通教育などの講義が行なわれ、①奉公の精神、②協同の精神、③自助の精神が強調されます。
 地方を天皇中心国家へと統一することを目指すために、1890年(明治23)に出された「教育勅語」と共に、天皇制の精神的、道徳的な柱とされました。太平洋戦争敗戦後の1948年(昭和23)には、「教育勅語」と共に、国会で失効が確認されています。

〇「戊申詔書」1908年(明治41)10月13日発布(翌日の官報掲載)

 朕惟フニ方今[1]人文[2]日ニ就リ月ニ將ミ、東西相倚リ彼此相濟シ以テ其ノ福利ヲ共ニス。朕ハ爰ニ益〻國交ヲ修メ友義ヲ惇シ、列國[3]ト與ニ永ク其ノ慶ニ賴ラムコトヲ期ス。顧ミルニ日進[4]ノ大勢ニ伴ヒ、文明ノ惠澤[5]ヲ共ニセムトスル。固ヨリ內國運ノ發展ニ須ツ。戰後[6]日尚淺ク庶政[7]益〻更張[8]ヲ要ス。宜ク上下心ヲ一ニシ忠實業ニ服シ勤儉[9]產ヲ治メ、惟レ信惟レ義、醇厚[10]俗ヲ成シ華ヲ去リ實ニ就キ[11]荒怠[12]相誡メ自彊[13]息マサルヘシ。

 抑〻我カ神聖ナル祖宗[14]ノ遺訓ト我カ光輝アル國史ノ成跡[15]トハ炳[16]トシテ日星ノ如シ。寔ニ克ク恪守[17]シ淬礪[18]ノ誠ヲ輸サハ國運發展ノ本近ク斯ニ在リ。朕ハ方今[1]ノ世局ニ處シ我カ忠良ナル臣民ノ協翼[19]ニ倚藉[20]シテ維新ノ皇猷[21]ヲ恢弘[22]シ、祖宗[14]ノ威德ヲ對揚[23]セムコトヲ庶幾フ。爾臣民其レ克ク朕カ旨ヲ體セヨ。

御名御璽

明治四十一年十月十三日

   「官報」より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

【注釈】

[1]方今:ほうこん=現在。
[2]人文:じんぶん=人間の創り出した文物・文明。人類の文化。
[3]列國:れっこく=多くの国々。諸国。
[4]日進:にっしん=日々に進歩すること。
[5]惠澤:けいたく=恩恵を受けること。また、その恩恵。めぐみ。恩沢。
[6]戦後:せんご=日露戦争後のこと。
[7]庶政:しょせい=各方面の政治。
[8]更張:こうちょう=琴の糸などのゆるんだのを張りなおすこと。転じて、物事のゆるんでいたのを引き締めて盛んにすること。
[9]勤儉:きんけん=勤勉で倹約なこと。仕事にはげみ、むだな出費を少なくすること。また、そのさま。
[10]醇厚:じゅんこう=風俗や人柄などが素朴で人情に厚いこと。また、そのさま。
[11]華ヲ去リ實ニ就キ:かをさりじつにつき=虚飾を去り質実な態度をとる。
[12]荒怠:こうたい=生活や気持、行動などがなげやりになること。遊楽にふけり、仕事を怠ること。
[13]自彊:じきょう=みずから努め励むこと。
[14]祖宗:そそう=君主の始祖と中興の祖。また、ひろく歴代の君主やある系統を伝える人の称。
[15]成跡:せいせき=事の成り行きや結果。また、過去の実績。
[16]炳:へい=明らかなさま。また、光り輝くさま。
[17]恪守:かくしゅ=つつしんで守ること。まじめに守り従うこと。遵守。
[18]淬礪:さいれい=とぎみがくこと。
[19]協翼:きょうよく=力をそえて助けること。協力翼賛。
[20]倚藉:きせき=たよること。たのむこと。
[21]皇猷:こうゆう=天皇の国を治める計画。天子の治世の道。皇謨。帝猷。
[22]恢弘:かいこう=事業や制度などを押し広めること。
[23]對揚:たいよう=能力、勢力、地位などがつりあって対応していること。匹敵すること。また、その物事や人、あるいはそのさま。対等。

<現代語訳>

 私が思うに、現在人類の文明は、月日が進むに連れ、世界が互いに依存しあい、国々が助け合い、それによって福利を共有するようになってきている。私はここにますます国交を深め、友誼をあつくし、諸国と共に永くその恩恵に浴していきたいと思う。振り返ってみれば、日々に進歩する流れに沿って、文明の恵みを享受することは、もとより国運の発展のためにも不可欠のことだ。日露戦争後なお日が浅く、各方面の政治において、ますます物事のゆるんでいたのを引き締めて盛んにする必要がある。地位の高い者も低い者も心を一つにして忠実に仕事に励み、勤勉で倹約に努め、信と義を重んじ、風俗や人柄などが素朴で人情に厚い習慣をつくり、虚飾を去り質実な態度をとり、遊楽にふけり、仕事を怠ることのないように戒め、みずから努め励んでやまないようにしなければならない。
 そもそも神聖である代々の天皇の遺訓と光輝く日本歴史の実績は、太陽や星のごとく光り輝いている。それゆえに、よくまじめに守り従い、とぎみがくよう誠を示すならば、国運発展の根本はこの点にあるであろう。私は、現在の世のなりゆきに対処し、忠義の心を持つ善良な臣民の協力翼賛にたより、明治維新以来の天皇の治世の道を押し広め、代々の天皇の威徳と匹敵するようになることを切望する。おまえたち臣民はそれよく私の趣旨を謹んで賜れ。
御名御璽
明治41年(1908年)10月13日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1282年(弘安5)鎌倉時代の僧侶・日蓮宗の開祖日蓮の命日(新暦11月14日)詳細
1707年(宝永4)俳人・蕉門十哲の一人服部嵐雪の命日(新暦11月6日)詳細
1804年(文化元)華岡青洲が世界初の麻酔薬を使った手術に成功(新暦11月14日)詳細


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