ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:明治天皇

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 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に、明治天皇より、「立憲政体の詔書」(明治8年4月14日太政官第58号布告)が発布された日です。
 「立憲政体の詔書」(りっけんせいたいのしょうしょ)は、漸進的な立憲政治実現の方針を示した、明治天皇が発した詔書(明治8年4月14日太政官第58号布告)でした。1873年(明治6)の明治六年政変後、「民撰議院設立建白書」が提出され、佐賀の乱、台湾出兵などが起き、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎らの下野、木戸孝允の参議辞任などが重なり、大久保利通を中心とする政府の政局運営が困難を増すこととなります。
 そこで、1875年(明治8)1月~2月に、大阪において、大久保、木戸、板垣が会談(大阪会議)を重ね、漸進的に立憲政体に向かっていくこと、木戸・板垣が参議に復帰することについて、三者が合意に達しました。その結果、同年4月14日に、この詔書が発布され、立憲政治を実現する方針が明らかにされ、元老院・大審院の設置や地方官会議の開催も宣言されます。これは、「五カ条の御誓文」と共に、国会開設運動に大きな拠り所を与えることとなります。
 以下に、「立憲政体の詔書」(明治8年4月14日太政官第58号布告)の原文と現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「立憲政体の詔書」(明治8年4月14日太政官第58号布告)

<原文>

朕󠄂卽位ノ初首トシテ群臣ヲ會シ五事ヲ以テ神󠄀明ニ誓ヒ國是ヲ定メ萬民保全󠄁ノ道󠄁ヲ求ム幸ニ祖󠄁宗ノ靈ト群臣ノ力トニ賴リ以テ今日ノ小康ヲ得タリ顧󠄁ニ中興日淺ク內治ノ事當ニ振作更󠄁張スヘキ者󠄁少シトセス朕󠄂今誓文󠄁ノ意󠄁ヲ擴充シ茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ大審院ヲ置キ以テ審判󠄁ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情󠄁ヲ通󠄁シ公󠄁益󠄁ヲ圖リ漸次󠄁ニ國家立憲󠄁ノ政體ヲ立テ汝衆庶ト俱ニ其慶ニ賴ント欲ス汝衆庶或ハ舊ニ泥ミ故ニ慣ルヽヿ莫ク又或ハ進󠄁ムニ輕ク爲スニ急󠄁ナルヿ莫ク其レ能ク朕󠄂カ旨ヲ體シテ翼󠄂贊スル所󠄁アレ
明治八年四月十四日
 御 璽

<現代仮名遣い・常用漢字・ひらがな>

朕、即位の初首として群臣を会し、五事を以て神明に誓ひ、国是を定め、万民保全の道を求む。幸に祖宗の霊と群臣の力とに頼り、以て今日の小康を得たり。顧に中興日浅く、内治の事当に振作更張すべき者少しとせず。朕、今誓文の意を拡充し、茲に元老院を設け以て立法の源を広め、大審院を置き以て審判の権を鞏くし、又地方官を召集し以て民情を通し公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に其慶に頼んと欲す。汝衆庶或は旧に泥み故に慣るること莫く、又或は進むに軽く為すに急なること莫く、其れ能朕が旨を体して翼賛する所あれ。
 明治八年四月十四日
 御璽

<現代語訳>

私は即位の初めに群臣を集めて五箇条の誓文を神々に誓い、国是を定め万民保全の道を求めた。幸いに先祖の霊と群臣の力とによって今日の落ち着きを得た。かえりみるに、再建の日は浅く、内政の事業には振興したり引締めたりすべき点が少なくない。私は今、五箇条の誓文の主意を拡充し、ここに元老院を設けて立法の源泉を広め、大審院を置いて審判権を確立し、また地方官を召集して民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、皆とともに喜びを分かちたい。皆も、守旧することもなく、また急進することもなく、よくよく私の主旨に従って補佐しなさい。
 明治八年四月十四日
 御璽

  「ウィキペディア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1526年(大永6)駿河国守護今川氏親が「今川仮名目録」を制定する(新暦5月25日)詳細
1536年(天文5)奥州の伊達稙宗が分国法の一つである「塵芥集」を制定する(新暦5月5日)詳細
1602年(慶長7)連歌師里村紹巴の命日(新暦6月2日)詳細
1867年(慶応3)倒幕派の志士・長州藩士高杉晋作の命日(新暦5月17日)詳細
1921年(大正10)「軌道法」(大正10年法律第76号)が公布(施行は1924年1月1日)される詳細
大正10年函館大火で、死者1名、焼失1,532戸を出す詳細
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 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、東京・神田に皇族・華族の子弟の教育機関として、華族学校が開校、開校式に臨席した明治天皇により「学習院」と名附けられた日です。
 学習院(がくしゅういん)は、東京において、皇族・華族のの子弟の教育機関として設立された学校でした。前身は、1847年(弘化4)に、京都の宮廷内に創立された公家の学校である学習所で、1849年(嘉永2)に「学習院」の勅額が孝明天皇より下賜され、経書を主とし国書も講じられています。
 文久年間には尊王攘夷派(尊王攘夷運動)の集会所となっていましたが、1867年(慶応3)に一端閉鎖されました。1868年(明治元)には、京都において、復興され、大学寮代、漢学所と名称変更されましたが、1870年(明治3)に再び閉鎖され、京都府に移管して京都府中学校となっています。
 その後、「華族学校学則」が制定され、1877年(明治10)10月17日に、私立の華族学校が東京・神田錦町にて開業式を挙行、天皇が臨席して「学習院」の称号が与えられました。開設当時は小学、女子小学、中学を置き、入学資格は原則として華族の男女でしたが、当初から士族・平民も一部入学しています。
 1884年(明治17)4月17日には、華族会館経営の私立学校から、宮内省所轄の官立学校となり、初等、普通、高等の3科が設置されました。1885年(明治18) 学習院の女子科を廃止し、四谷区尾張町(現在の初等科所在地)に華族女学校を設置します。
 1888年(明治21)に学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転、1889年(明治22)に華族女学校が麹町区永田町に移転、翌年には、学習院が華族女学校跡に移転しました。1893年(明治26)に大学科が設置されたものの、1905年(明治38)に、前年の近衛篤麿第7代院長の死去に伴い、大学科が閉鎖されます。
 1906年(明治39)に華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称、1908年(明治41)には、東京府下高田村(現在の目白)に移転(初等学科と女学部は旧位置)しました。1918年(大正7)に女学部が青山に移転して、女子学習院となり、1919年(大正8)には、学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改めます。
 1922年(大正11)に摂政宮裕仁親王のもと「学習院学制」、「女子学習院学制」が敷かれ官営化されました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の小金井公園の敷地内)に移転、翌年には、学習院学制・女子学習院学制が廃止され、男女両院を合併し、財団法人として私立学校となって、宮内省から独立し、1949年(昭和24)に旧高等科を母体に、新制大学を発足させ、翌年には、女子の短期大学部が設置されます。
 現在では、幼稚園から初等科、中等科、高等科までの一貫した教育体制を持ち、大学は法学、経済学、文学、理学の4学部からなり、法学、政治学、経済学、経営学、人文科学、自然科学、法務の7研究科を置く大学院が設置されました。

〇学習院関係略年表

・1847年(弘化4) 京都御所日御門前に学習所(京都学習院)が開講する
・1849年(嘉永2) 「学習院」の勅額が孝明天皇より下賜される
・1867年(慶応3) 学習院が閉鎖される 
・1868年(明治元) 京都に学習院が復興され、大学寮代、漢学所と名称変更される
・1870年(明治3) 再び閉鎖され、京都府に移管して京都府中学校となる
・1877年(明治10)10月17日 華族学校学則を制定し、私立の華族学校が神田錦町にて開業式を挙行、天皇が臨席して「学習院」の称号を与える
・1884年(明治17) それまでは華族会館経営の私立学校であったのを4月17日、宮内省所轄の官立学校となり、初等、普通、高等の3科が設置される
・1885年(明治18) 学習院の女子科を廃止し、四谷区尾張町(現初等科所在地)に華族女学校を設置する
・1888年(明治21) 学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転する
・1889年(明治22) 華族女学校が麹町区永田町に移転する
・1890年(明治23) 学習院が四谷区尾張町の華族女学校跡に移転する
・1893年(明治26) 大学科を設置する
・1905年(明治38) 前年の近衛篤麿第7代院長の死去に伴い、大学科を閉鎖する
・1906年(明治39) 華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称する
・1908年(明治41) 東京府下高田村(現・目白)に移転する(初等学科と女学部は旧位置)
・1912年(明治45) 初等科における英語教育を廃止。1922年(大正11年)に復活するも、1938年(昭和13年)に再度廃止する
・1918年(大正7) 女学部が青山に移転して、女子学習院となる
・1919年(大正8) 学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改める
・1922年(大正11) 摂政宮裕仁親王のもと学習院学制、女子学習院学制が敷かれ官営化される
・1928年(昭和3) 学習院開校創立五十年祝典が挙行され、『開校五十年記念学習院史』が発行される
・1935年(昭和10) 女子学習院開校五十年記念式を挙行する
・1945年(昭和20) 宮相から戦後の教育方針について諮問を受けた学習院評議会は、学習院を特殊学校として存続させるとともに一般国民の子弟にも開放することを決定する
・1946年(昭和21) 女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の小金井公園の敷地内)に移転する
・1947年(昭和22) 学習院学制・女子学習院学制が廃止。4月、男女両院を合併し、財団法人として宮内省から独立する
・1949年(昭和24) 旧高等科を母体に、新制大学が発足する
・1950年(昭和25) 女子の短期大学部が設置される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1803年(享和3)蘭学者・医師前野良沢の命日(新暦11月30日)詳細
1887年(明治20)H・S パーマにより横浜の市街地へ日本初の近代的上水道が完成、給水が開始される(上水道の日)詳細
1903年(明治36)小説家・評論家立野信之の誕生日詳細
1956年(昭和31)財団法人日本モンキーセンターが設立される詳細
1968年(昭和43)川端康成のノーベル賞(文学賞)受賞が決定する詳細
1980年(昭和55)「ラムサール条約」が日本国内で発効する詳細
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 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、明治天皇臨席の第5回御前会議で、対露開戦が決定された日です。
 第5回御前会議は、1904年(明治37)2月4日午前に、第1次桂太郎内閣は臨時閣議を開き、ロシアとの交渉を打ち切り、外交関係を断絶して独自の軍事行動をとる旨を閣議決定を受け、午後に開催された明治天皇臨席の御前会議でした。この会議で、対露開戦が承認され、翌2月5日に、「陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語」が下賜され、電報で外務大臣小村寿太郎から栗野慎一郎在ロシア公使に伝えられます。
 2月6日には、栗野公使からロシアのラムスドルフ伯に伝達され、さらに、小村外務大臣はローゼン公使を外務省に呼び、外交関係断絶を通告しました。その後、2月8日に日本陸軍先遣隊が仁川に上陸、2月8日に日本海軍は、旅順港外のロシア艦隊を夜襲、2月9日に仁川沖海戦が行われ、2月10日には、日・露相互で宣戦布告が出されて、日露戦争に突入していきます。
 以下に、「陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語」 1904年(明治37)2月5日下賜

朕ハ東洋ノ平和ヲ以テ朕カ衷心ノ欣幸トスル所ナルカ故ニ清韓ノ両国ニ関スル時局ノ問題ニ付朕カ政府ヲシテ昨年来露国ト交渉セシメタリ然ルニ露国政府ハ東洋ノ平和ヲ顧念スルノ誠意ナキコトヲ確認セシムルノ止ムヲ得サルニ達シタリ盖シ清韓両国領土ノ保全ハ我日本ノ独立自衛ト密接ノ関係ヲ有ス茲ニ於テ朕ハ朕カ政府ニ命シテ露国ト交渉ヲ断チ我独立自衛ノ為メニ自由ノ行動ヲ執ラシムルコトニ決定セリ

 「国立公文書館アジア歴史資料センターホームページ」より

〇御前会議(ごぜんかいぎ)とは?

 「大日本帝国憲法」下の日本において、天皇臨席の下に行われた元老、主要閣僚、軍部首脳の合同で実施された最高会議です。広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、大本営会議なども含まれますが、狭義には、対外戦争等に際して、天皇臨席の下に開かれる会議を指しました。
 明治時代の1894年(明治27)6月22日に、第2次伊藤博文内閣の下で、対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初とされ、以後、日清講和、三国千渉、対露開戦、日露講和等で開催されます。しかし、それ以後大正時代には開かれず、昭和時代になり、日中戦争に関わって、第1次近衛文麿内閣の下で、1938年(昭和13年)1月11日に復活し、「支那事変処理根本方針」が決定されました。
 以後、1年に数回のペースで計15回開催され、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争の開戦、ポツダム宣言の受諾などの重要方針を決定しています。太平洋戦争後は、開催されませんでした。

〇日露戦争】(にちろせんそう)とは?

 明治時代後期の1904年(明治37)2月10日~1905年(明治38)9月17日まで、日本と露国の間で、朝鮮(大韓帝国)・満州の支配をめぐって行われた戦争です。
 日本は、1894年(明治27)から翌年にかけての日清戦争の後、朝鮮支配の確立と満州進出をめざし、ロシアは、義和団事件に乗じて満州を占領し、さらに朝鮮進出を企てたため、両国の対立が激化しました。日本はそれに対し、1902年(明治35)1月30日に、日英同盟を締結し、日本の朝鮮・中国における権益、英国の中国における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的とします。
 翌年6月に元老・主要閣僚の御前会議で開戦覚悟の対露交渉方針を決め、8月以降数次にわたりロシアと交渉したものの、妥協点を見いだせないままに推移しました。とうとう、1904年(明治37)2月8日に、奇襲に出た日本海軍の主力艦隊が旅順港のロシア艦隊を包囲して、戦いの火ぶたが切られ、同日陸軍も朝鮮半島に上陸し、まもなく完全に制圧、2月10日に正式に、「露国に対する宣戦の詔勅」が発せらて宣戦が布告されます。
 日本は、同年8月以降の旅順攻撃、翌年3月の奉天会戦などで有利に戦いを進めましたが、以後戦闘は膠着状態となり、5月の日本海海戦でも勝利を得たものの、戦力の消耗と大きな経済的負担に苦しむこととなりました。ロシアもツァーリズムの矛盾激化に伴う革命勢力が増大、1905年(明治38)1月には、血の日曜日事件がおこり,国内の危機が急迫します。
 そこで、米国大統領T.ローズベルトの講和勧告をもとに、8月10日からアメリカのポーツマスで講和会議が開催され、9月5日に「日露講和条約(ポーツマス条約)」調印に至りました。この結果、日本は朝鮮における優越権、旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道に関する諸権利、南樺太を得て、大陸進出の地歩を固めます。
 しかし、賠償金が獲得できないなど講和内容に対する国民の不満が高まり、東京では、内相官邸焼打ちなどの暴動(日比谷焼打事件)が発生することとなりました。この戦争に直接参加した総兵力は108万余人、艦船31.8万t、戦費は約20億円を要し、疾病をも含めた死傷者は37万余人、喪失艦船91隻と大きなものとなります。

☆日露戦争関係略年表

<1903年(明治36)>

・2月7日 ロシアが中国東北部からの撤兵を中止する
・4月21日 京都の山縣の別荘・無鄰菴で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会議」が行われる
・4月 ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告する
・5月 ロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめる(龍岩浦事件)
・6月10日 戸水寛人や国際法学者など7名の博士が、日露開戦を唱える意見書を桂内閣に提出する(七博士建白事件)
・6月12日 アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣が訪日し、国賓として迎えられる
・6月23日 明治天皇臨席の御前会議に、「満韓交換論」とも言うべき対露方針が提出されて、対露交渉に臨むことが確認される
・6月24日 「日露開戦を唱える七博士意見書」の全文が「東京朝日新聞」紙上に掲載され、新聞「万朝報」紙上で幸徳秋水は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判する
・6月30日 新聞「万朝報」に、内村鑑三の非戦論が掲載される
・7月23日 林董駐イギリス公使、日露交渉開始についてイギリスの諒解を求める
・8月12日 栗野慎一郎駐ロシア公使、ロシア政府に、6ヵ条の日露協商基礎条項を提出、中国東北部・朝鮮半島に関する交渉を開始する
・10月3日 ロシアが日本の提出した日露協商基礎条項を拒絶、対案を提出とて交渉する
・12月30日 日本が戦争が勃発した際の清国・大韓帝国に対する方針を閣議で決定する

<1904年(明治37)>

・1月17日 週刊「平民新聞」第10号に、「吾人は飽くまで戦争を非認す」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・1月24日 週刊「平民新聞」第11号に、幸徳秋水の「戦争と道徳」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・2月4日 明治天皇臨席の御前会議で、対露開戦が決定される 
・2月6日 日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡す
・2月7日 週刊「平民新聞」第13号に、幸徳秋水の社説「和戦を決する者」が掲載される
・2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸する
・2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲する
・2月9日 仁川沖海戦が行われる
・2月10日 日・露相互で宣戦布告が出される
・2月11日 大本営が設置される
・2月12日 清国が局外中立を宣言する
・2月14日 週刊「平民新聞」第14号に、幸徳秋水の「戦争来」・「兵士を送る」・「戦争の結果」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・2月23日 大韓帝国と日韓議定書を結ぶ
・2月24日 第一次旅順口閉塞作戦実施
・3月13日 週刊「平民新聞」第18号に、幸徳秋水の社説「与露国社会党書」(手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する) が掲載される
・3月20日 週刊「平民新聞」第19号に、幸徳秋水の「戦争と小学児童」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・3月24日 週刊「平民新聞」第20号に、幸徳秋水の「嗚呼増税!」(日露戦争に反対し、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する)が掲載されるが、発禁処分を受ける 
・3月27日 第二次旅順口閉塞作戦実施
・4月1日 「非常特別税法」、「煙草専売法」が公布それる
・5月1日 鴨緑江会戦が行われる
・5月8日 日本軍が遼東半島に上陸開始する
・6月20日 満州軍総司令部を設置する
・7月28日 ロシア国内でヴャチェスラフ・プレーヴェ内務大臣が暗殺される
・8月10日 黄海海戦が行われる
・8月22日 大韓帝国と「第一次日韓協約」を結ぶ
・8月14日 蔚山沖海戦が行われる
・8月19日 第一回旅順総攻撃が行われる
・8月30日 遼陽会戦が行われる
・9月 文芸誌『明星』に、与謝野晶子の反戦詩「君死にたまふこと勿れ」が掲載される
・10月 雑誌『太陽』で、大町桂月が与謝野晶子を“国家的観念を藐視した危険な思想”だと非難する
・10月9日 沙河会戦が行われる
・10月15日 バルチック艦隊が出航する
・11月 文芸誌『明星』に与謝野晶子の「ひらきぶみ」が掲載され、“少女と申す者誰も戦争ぎらいに候”と大町桂月に反論する
・11月26日 第二回旅順総攻撃が行われる
・12月5日 日本軍が旅順口203高地を占領する
・12月31日 第三回旅順総攻撃が行われる

<1905年(明治36)>

・1月 雑誌『太陽』に、大塚楠緒子の厭戦詩「お百度詣」が掲載される
・1月1日 「非常特別税法」改正法、「塩専売法」、「相続税法」を公布する
・1月2日 旅順開城する
・1月22日 ロシア国内で血の日曜日事件が起き、各地でストライキが起きる
・1月25日 黒溝台会戦が行われる
・3月1日 奉天会戦が行われる
・5月27日 日本海海戦が行われる
・6月 ロシア国内各地で反乱・暴動が起きる(ロシア第一革命の始まり)
・6月9日 アメリカのセオドア・ルーズベルトが正式に日露両国へ講和勧告を行う
・6月14日 ロシア国内で戦艦ポチョムキンの反乱が起きる
・6月12日 ロシアが講和勧告を正式に受諾する
・7月7日 日本軍が樺太へ上陸(樺太作戦開始)する
・7月23日 ロシア国内でニコライ2世とドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世とビヨルケ密約を結ぶ
・7月29日 日本とアメリカ間で「桂・タフト協定」が締結される
・7月31日 日本軍が樺太を占領する
・8月9日 アメリカのポーツマスで日露講和会議が始まる
・8月12日 「日英同盟」が改訂される
・8月28日 明治天皇臨席の御前会議で、日露講和成立方針が決定される
・9月1日 日露両国が休戦議定書に調印(休戦)する
・9月5日 日露両国が「日露講和条約(ポーツマス条約)」に調印、日本で講和に反対する日比谷焼打事件が起きる
・9月6日 日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令を敷く
・9月7日 神戸で講和反対の大会が開かれ暴動が起きる
・9月12日 横浜で講和反対の大会が開かれ暴動が起きる
・10月 ロシア国内でゼネラル・ストライキが起きる
・10月14日 日露両国が「日露講和条約(ポーツマス条約)」を批准(終戦)する
・10月17日 ロシアのニコライ2世が十月詔書に署名する
・12月20日 大本営を解散する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1181年(養和元)平安時代末期の武将・公卿平清盛の命日(新暦3月20日)詳細
1604年(慶長9)江戸幕府が街道に日本橋を起点とした一里塚の設置を命ずる(新暦3月4日)詳細
1898年(明治31)日本画家・版画家伊東深水の誕生日詳細
1933年(昭和8)長野県で多数の学校教員などが「治安維持法」違反として検挙(二・四事件)され始める詳細
1966年(昭和41)全日空機羽田沖墜落事故が起こり、乗員・乗客133名全員が死亡する詳細
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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が発布された日です。
 教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)は、明治天皇の名によって発布された教育の根本方針を示した勅語で、「教育勅語」とも呼ばれてきました。勅語文案の起草者は井上毅で、元田永孚が成文化に協力し、家族国家観に基づく忠君愛国主義と儒教的道徳を内容とします。古来天皇は徳をもって統治し続けてきたと述べ、国民の守るべき徳目を掲げた上で、「一旦緩急あるときは義勇公に奉ずる」のが本分であることを強調していました。
 政府は、勅語の謄本を全国の学校に交付し、天皇と皇后の写真の拝礼と勅語奉読を中心ととする学校儀式を案出、強制します。また、修身をはじめ各教科の内容編成は、勅語の趣旨に基づいて行われることになり、国体観念を国民に植えつけ、天皇制の精神的支柱とします。
 太平洋戦争後、1947年(昭和22)の「学校教育法」制定に伴い、翌年6月には、国会において失効宣言が採択されました。
 以下に、「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」 1890年(明治23)10月30日発布

<原文>

朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器󠄁ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又󠄂以テ爾祖󠄁先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽

<教育に関する勅語の全文通釈> 文部省図書局 1940年(昭和15)

朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお肇(はじ)めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にこゝにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘(きずいきまま)の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎの)御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、たゝに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。
 ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。

   「ウィキペディア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1850年(嘉永5)医師・蘭学者高野長英の命日詳細
1874年(明治7)評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の誕生日詳細
1903年(明治36)小説家尾崎紅葉の命日(紅葉忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」を出す詳細
1999年(平成11)上信越自動車道の中郷IC~上越JCT間が開通、藤岡JCTから長野県長野市を経て上越JCT間が全通する詳細
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iwakuratomomi01
 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、岩倉具視の憲法構想が明治天皇へ上奏された日です。
 岩倉具視の憲法構想(いわくらともみのけんぽうこうそう)は、岩倉具視が憲法について、太政大臣・三條實美と左大臣・熾仁親王に提出し、明治天皇へ上奏された、意見書を箇条書きで記したもので、起草者は井上毅とされてきました。意見書は、①憲法は欽定とすること、②漸進主義を失わないこと、③英国流の議院内閣制は斥け、大臣は国王に対してのみ責任を負うプロセイン(現在のドイツ)憲法に範を採ること、④内閣組織は議院と距離を保つこと、⑤二院制の採用、⑥選挙のあり方(制限選挙)などを基本としたものです。
 これは、1889年(明治22)に制定された「大日本帝国憲法」の起草方針と基本的性格を示したものとして重要であったとされてきました。
 以下に、「岩倉具視の意見書ー憲法構想」(抄文)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「岩倉具視の意見書ー憲法構想」(抄) 1881年(明治14)7月5日上奏

  別紙
憲法起草可被仰出候ニ付先ツ大綱領数件聖断被為在其他ノ条目ハ此主旨ニ拠リ起草可致
 旨御沙汰被為在可然ト存候事

   大綱領
一 欽定憲法ノ体裁可被用事
一 帝位繼承法ハ祖宗以來ノ遺範アリ別ニ皇室ノ憲則ニ載セラレ帝國ノ憲法ニ記載ハ要セサル事
一 天皇ハ陸海軍ヲ統率スルノ権ヲ有スル事
一 天皇ハ宣戰講和及外國締約ノ権ヲ有スル事
一 天皇ハ貨幣ヲ鋳造スルノ権ヲ有スル事
一 天皇ハ大臣以下文武重官任免ノ権ヲ有スル事
一 天皇ハ位階勲章及貴号等授与ノ権ヲ有スル事
一 天皇ハ恩赦ノ権ヲ有スル事
一 天皇ハ議院開閉及解散ノ権ヲ有スル事
一 大臣ハ天皇ニ対シ重キ責任アル事
一 法律命令ニ大臣署名ノ事
一 立法ノ権ヲ分ツ為ニ元老院及民撰議院ヲ設クル事
一 元老院ハ特撰議員ト華士族中ノ公撰議員トヲ以テ組織スル事
一 民撰議院ノ議員撰擧法ハ財産ノ制限ヲ用ウル事
一 歳計ノ予算政府ト議院ト協同ヲ得サルトキハ総テ前年度ノ予算ニ依リ施行スル事
一 臣民一般ノ権利及義務ヲ定ムル事
一 議院ノ権限ニ関スル事
一 裁判所ノ権限ニ関スル事

具視又憲法ノ制定ニ関スル大綱領ニ就キ詳ニ其旨趣ヲ書シ之ヲ実美・熾仁親王ニ示シ以テ其参考ニ供ス其文ニ曰ク

憲法起草可被仰出ニ付テハ起草委員タル者自己ノ意想ヲ用ヒ一家之私議ヲ雑ヘ候様之事無之筈ニ候ヘ共大体ノ目的予メ一定致サス候テハ徒ニ架空ノ議ヲ費シ或ハ主義ヲ誤ルニ至ルモ難計候欤ト深ク憂慮仕候因テ左之重大之条々先以聖裏ヨリ断セラレ起草委員ニ下付セラレ其他ノ節目ハ右根本之主義ニ拠リ起草候様被仰出可然ト存候事

    綱領
一、欽定憲法之体裁ヲ用ヒラルゝ事
  欽定国約之差別ハ別紙ヲ以テ具陳スヘシ
一、漸進之主義ヲ失ハサル事
  付、欧州各国之成法ヲ取捨スルニ付テハ、孛国之憲法尤漸進之主義ニ適スル事
  孛国ノ最初ニ憲法ヲ発スルニ当テ紛糾ヲ生セシ事跡ハ別ニ具陳スヘシ
一、帝室之継嗣法ハ祖宗以来之模範ニ依リ新タニ憲法ニ記載スルヲ要セサル事
一、聖上親ラ陸海軍ヲ統率シ外国ニ対シ宣戦講和シ外国ト条約ヲ結ヒ貨幣ヲ鋳造シ勲位ヲ授与シ恩赦ノ典ヲ行ハセラルゝ等ノ事
一、聖上親ラ大臣以下文武ノ重官ヲ採択シ及進退セラルゝ事
  付、内閣宰臣タル者ハ議員ノ内外ニ拘ラサル事
    内閣ノ組織ハ議院ノ左右スル所ニ任セサルヘシ
一、大臣執政ノ責任ハ根本ノ大政ニ係ル者(政体ノ改革・彊土ノ分割譲与・議員の開閉・和戦ノ公布・外国条約ノ重大事ノ類ヲ根本ノ大政トナスヘキ歟)ヲ除ク外、主管ノ事務ニ付各自ノ責ニ帰シ、連帯責任ノ法ニ依ラサル事
  付、法律命令ニ主管ノ執政署名ノ事
一、立法之権ヲ分タルゝ為ニ元老院、民撰議院ヲ設ケラルゝ事
一、元老院ハ特撰議員ト華士族中之公撰議員トヲ以テ組織スル事
一、民撰議院ノ選挙法ハ財産制限ヲ用フベシ
  但、華士族ハ財産ニ拘ハラサルノ特許ヲ与フヘキ事
一、凡ソ議案ハ政府ヨリ発スル事
一、歳計之予算ニ付政府ト議院ト協同ヲ得スシテ徴税期限前ニ議決ヲ終ラサル歟、或ハ議院解散ノ場合ニ当ル歟、又ハ議院自ラ退散スル歟、又ハ議院之集会定メタル員数ニ満タスシテ決議ヲ得サルトキハ、政府ハ前年ノ予算ニ依リ施行スルコトヲ得ル事
一、人民一般之権利各件(各国之憲法ヲ参酌ス)

    意見第一
立憲ノ政ヲ行ヒ、民会ヲ開クニハ、先ツ其時期ノ適度ト及其立憲政体中何等ノ制度カ尤モ我国体民俗ニ適スヘキヤヲ講究スルハ、不可闕ノ要用ナルナルヘシ。今其時期ハ既ニ熟セリト仮定セハ、次ニ制度ノ時宜ヲ問フノ場合ニ到著セリ。
欧州各国ニ行ハルゝ立憲ノ政体、其標的ハ大抵同一ナリト雖、其方法順序ハ各々其国ノ開化ノ度ト国体民俗トニ従テ多少ノ異同アリ、即チ国会ノ権ニ大小ノ差アルコト是ナリ。国会ノ権其小ナル者ハ僅ニ立法ノ議ニ参与スルニ止マリ、其強大ナル者ハ政令ノ実権ヲ握ルニ至ル。
議院ノ勢力、各国異同アリ。而シテ最大至強ノ勢力アル者ハ英国議院ニ若クハナシ(但シ共和国ヲ除ク)。英国ノ議院ハ独リ立法ノ権ノミニ非ス、併セテ行政ノ実権ヲモ把握セリ。英国ノ諺ニ、英国議院ハ為シ得サルノ事ナシ、但男ヲシテ女タラシメ、女ヲシテ男タラシムルコト能ハザルノミト。
何故ニ英国ノ議院ハ併セテ行政ノ実権ヲ把握スト云フヤ。英国ノ慣習法ニ従ヘハ、英国王ハ自ラ政治ヲ行ハスシテ専ラ内閣宰相ニ責任セシメ、内閣宰相ハ即チ議院多数ノ進退スル所タリ。内閣ハ多数政党ノ首領ノ組織スル所タリ。議院政党多数ノ変更アル毎ニ従テ内閣宰相ノ変更ヲ致シ、輾転相代リテ一輪動テ二輪之ニ応スルニ異ナラス。而シテ国王ハ一ニ議院多数ノ為ニ制セラレ、政党ノ贏輸ニ任シ、式ニ依リテ成説ヲ宣下スルニ過キスシテ一左一右宛カモ風中ノ旗ノ如キノミ。
(中略)
是ニ反シテ普魯西ノ如キハ国王ハ国民ヲ統フルノミナラス、且実ニ国政ヲ理シ、立法ノ権ハ議院ト之ヲ分ツト雖モ、行政ノ権ハ専ラ国王ノ手中ニ在リテ敢テ他ニ譲与セス、国王ハ議院政党ノ多少ニ拘ハラスシテ、其ノ宰相執政ヲ撰任スルモノトス。但実際ノ事情ニ従ヒ多クハ議院輿望ノ人ヲ採用スト雖モ、其権域ヲ論スルトキハ決シテ議院政党ノ左右ニ任ズルコト無シ。
(中略)
更新以来王化未タ人心ニ浹洽セス、廃藩ノ挙怨望ノ気正ニ政府ニ集ル。今若シ俄カニ英国政党ノ法ニ倣ヒ民言ノ多数ヲ以テ政府ノ更替スルノ途轍ヲ踏ムトキハ、今日国会ヲ起シテ明日内閣ヲ一変セントスルハ、鏡ヲ懸ケテ視ルニ均シ。議者内閣ノ更替ノ速ナルハ国ノ平安ヲ扶クル所以ナリト謂フ。予ハ議者ノ或ハ英国ノ成績ニ心酔シテ我国ノ事情ヲ反照セサルモノナルヲ疑フコトヲ免レス。
立憲ノ大事方ニ草創ニ属シ、未ダ実際ノ微験ヲ経ズ。其一時ニ急進シテ事後ノ悔ヲ貽シ、或ハ与ヘテ後ニ奪フノ不得巳アラシメンヨリハ、寧ロ普国ニ倣ヒ歩々漸進シ以テ後日ノ余地ヲ為スニ若カスト信スルナリ。

    意見第二(略)

  『岩倉公実記』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1141年(建保3)僧侶・臨済宗の開祖栄西の命日(新暦8月1日)詳細
1590年(天正18)北條氏直が小田原城を開城して豊臣秀吉に降伏し、秀吉の天下統一が完成する詳細
1639年(寛永16)江戸幕府が「寛永十六年七月令」(第五次鎖国令)を布告、ポルトガル船の入港を禁止(新暦8月5日)詳細
1949年(昭和24)下山事件が起こる詳細
2008年(平成20)東海北陸自動車道の飛驒清見IC~白川郷IC間開通(2車線)により、全線開通する詳細

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