ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:明暦の大火

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 今日は、江戸時代前期の1658年(万治元)に、江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消が始まった日ですが、新暦では10月4日となります。
 定火消(じょうびけし)は、江戸幕府の職名の一つで、若年寄の支配下に置かれ、江戸市中の防火、警備を司ったものでした。1857年(明暦3年1月18日)の明暦の大火の翌年に、4000石以上の旗本秋山正房、近藤用将、内藤政吉、町野幸宣の4名を選び、それぞれに火消屋敷を与え、役料300人扶持とし、与力6名、同心30名を付属させ、他に臥煙(がえん)という300人の火消人足を置きます。
 1695年(元禄8)に15組に増やされましたが、1704年(宝永元)には、10組に減じられ、これが永制となったため、「十人火消」とも呼ばれ、また「寄合火消」とも言われました。その10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池屋敷・赤坂御門外屋敷・飯田町屋敷・市ヶ谷御門外屋敷・小川町屋敷・御茶之水屋敷・半蔵御門外屋敷・駿河台屋敷・八代洲河岸屋敷・四谷御門内屋敷とされます。
 その後、大名火消、ことに1720年(享保5)以降の町火消の整備に伴い、漸次活気を失い、1792年(寛政4)以降は出動も限られ、消火範囲も小さくなりました。そして、 1859年(安政6)には8組に減らされ、1866年(慶応2)には4組となっています。

〇江戸の火消関係略年表(日付は旧暦です)

・1643年(寛永20年) 幕府は6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成して新たな火消役(大名火消)を設ける
・1657年(明暦3年1月18日) 明暦の大火が起き、約500~800町を焼き、焼死者が10万人以上に及んだとされる
・1657年(明暦3年) 方角火消が設置される
・1658年(万治元年9月8日) 江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消制度が始まる
・1659年(万治2年1月4日) 老中稲葉正則の率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげ、出初(でぞめ)を行なう
・1695年(元禄8年) 定火消組織が15組に増やされる
・1704年(宝永元年) 10組の定火消組織が確立し「十人火消」といわれるようになる
・1720年(享保5年) 約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられる
・1730年(享保15年) いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編する
・1772年(明和9年2月29日) 明和の大火が起き、934町を焼き、死者は1万4,700人、行方不明者は4,000人を超える
・1806年(文化3年3月4日) 文化の大火が起き、530町を焼き、焼失家屋は12万6,000戸、死者は1200人を超える
・1859年(安政6年) 定火消組織が8組に減らされる
・1866年(慶応2年) 定火消組織が4組に減らされる

〇明暦の大火(めいれきのたいか)とは?

 江戸時代前期の1657年(明暦3年1月18日)午後2時頃、北西風が激しく吹く中、江戸の本郷丸山本妙寺で、3人の女が法会(施餓鬼)のため振袖を焼いたのが出火原因となり、大風のため次々と延焼しました。翌日に鎮火するまでに、約500~800町を焼き、旗本屋敷、神社仏閣、橋梁など多数を焼失、江戸城天守までもが燃え落ち、焼死者が10万人以上に及んだといわれています。
 寒さのために、罹災者で凍死する者も多く、幕府は救小屋を設けたり、粥の施行をして救済にあたりました。明和の大火、文化の大火と共に江戸三大大火とされていますが、その中でも最大のもので、「振袖火事」、「丸山火事」とも呼ばれています。
 その後の火災対策として、1657年(明暦3)に方角火消、翌年には定火消が設置され、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築が奨励されました。大火によって、江戸時代初期の町の様相は失われ、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転、寺社の外辺部への移転などを進め、道幅、町家の規模が統一され、火よけの広小路を設置、さらに本所、深川にも市街の拡張が行われます。
 しかし、災害復興のため幕府貯蔵の金銀は底をつき、1695年(元禄8)の金銀貨改鋳(貨幣改悪)の遠因となったと言われてきました。 

☆江戸時代の大火一覧

・1657年(明暦3年1月18日、19日)江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日)江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830~3,500人
・1708年(宝永5年3月8日)京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日)大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日)江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日)江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日)京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日)江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日)江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日)大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日)大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日)京都の「元治の大火」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1775年(安永4)俳人加賀千代女(千代尼)の命日(新暦10月2日)詳細
1873年(明治6)教育家・婦人ジャーナリストの先駆者羽仁もと子の誕生日詳細
1904年(明治37)「屯田兵条例」が廃止され、屯田兵制度が終わる詳細
1951年(昭和26)「サンフランシスコ平和条約」が調印される詳細
「日米安全保障条約」(旧)が調印される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1680年(延宝8)に、江戸幕府の第4代将軍徳川家綱が亡くなった日ですが、新暦では6月4日となります。
 徳川家綱(とくがわ いえつな)は、1641年(寛永18年8月3日)に、江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方増山氏)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。1644年(正保元)に名を家綱と改め、翌年には、元服し、従三位権大納言となっています。
 1650年(慶安3)に世子となって西の丸へ移りましたが、翌年4月20日には、父・家光が48歳で亡くなり、数え年11歳にして、家督を継ぐこととなりました。その直後の7月に、慶安事変(由井正雪の乱)が起こりますが、年少で病弱だったため叔父の保科正之や松平信綱らが補佐して難局を乗り切り、外様大名に配慮して、末期養子の禁を緩和しています。
 同年10月2日に、江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられ、12月には、本丸へ移りました。1657年(明暦3)に江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出したものの、これを契機に江戸の都市改造を行ない、御三家の屋敷を江戸城外に転出させるとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社を移転させています。
 1659年(万治2)に左大臣に任じられるのを辞退し、1663年(寛文3年)には、父・家光の13回忌にあたって日光へ社参しました。1664年(寛文4)に1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布、翌年には、公家や寺社を対象とした領知目録を交付(寛文印知)、諸藩にも宗門改帳の作成を命じています。
 1666年(寛文6)に酒井忠清が大老に就任して実権を握り、翌年には、諸国巡見使の制を導入しました。1670年(寛文10)に箱根用水がつくられ、1671年(寛文11)には、河村瑞賢に命じて東回り航路、翌年には西回り航路をひらかせ、1673年(寛文13)には、「分地制限令」を制定しています。
 しかし、1680年(延宝8年5月初旬)に病に倒れて危篤状態に陥いり、末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、5月8日には、江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなり、東叡山寛永寺に葬られました。

〇徳川家綱関係略年表(日付は旧暦です)

・1641年(寛永18年8月3日) 江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方(宝樹院)増山氏)として生まれる
・1644年(正保元年12月) 名を家綱と改める
・1645年(正保2年4月) 元服し、従三位権大納言となる
・1650年(慶安3年9月) 世子となって西の丸へ移る
・1651年(慶安4年4月20日) 父・家光が48歳で亡くなる
・1651年(慶安4年7月) 慶安事変(由井正雪の乱)が起こる
・1651年(慶安4年7月) 末期養子の禁を緩和する
・1651年(慶安4年10月2日) 江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられる
・1651年(慶安4年12月) 本丸へ移る
・1657年(明暦3年1月18日) 江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出す 
・1659年(万治2年4月) 左大臣に任じられるのを辞退する
・1663年(寛文3年) 父・家光の13回忌にあたって日光へ社参する
・1663年(寛文3年) 武家諸法度(寛文令)の口上で殉死を禁じる 
・1664年(寛文4年) 1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布する
・1665年(寛文5年) 公家や寺社を対象とした領知目録を交付す(寛文印知)
・1665年(寛文5年) 諸藩にも宗門改帳の作成を命じる
・1666年(寛文6年) 酒井忠清が大老に就任する
・1667年(寛文7年閏2月18日) 諸国巡見使の制を導入する
・1670年(寛文10年) 箱根用水がつくられる 
・1671年(寛文11年) 河村瑞賢に命じて東回り航路をひらく 
・1672年(寛文12年) 河村瑞賢に命じて西回り航路をひらく 
・1673年(寛文13年6月) 分地制限令が制定される
・1680年(延宝8年5月初旬) 病に倒れ、危篤状態に陥る
・1680年(延宝8年5月8日) 江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)第53代の天皇とされる淳和天皇の命日(新暦6月11日)詳細
1911年(明治44)文部省編『尋常小学唱歌』第1学年用(20曲)が発行される詳細
1950年(昭和25)詩人・歌人・文芸評論家相馬御風の命日詳細
1955年(昭和30)東京都砂川町(現立川市)で米軍立川基地拡張反対総決起集会が開かれ砂川闘争が始まる詳細
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 今日は、江戸時代前期の1657年(明暦3)に、江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出した日ですが、新暦では3月2日となります。
 明暦の大火は、江戸の本郷丸山本妙寺で、北西風が激しく吹く午後2時頃、3人の女が法会 (施餓鬼) のため振袖を焼いたのが出火原因となり、大風のため次々と延焼しました。
 翌日に鎮火するまでに、約 500~800町を焼き、旗本屋敷、神社仏閣、橋梁など多数を焼失、江戸城天守までもが燃え落ち、焼死者が10万人以上に及んだといわれています。寒さのために、罹災者で凍死する者も多く、幕府は救小屋を設けたり、粥の施行をして救済にあたりました。
 明和の大火、文化の大火と共に江戸三大大火とされていますが、その中でも最大のもので、「振袖火事」、「丸山火事」とも呼ばれています。
 その後の火災対策として、1657年(明暦3)に方角火消、翌年には定火消が設置され、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築が奨励されました。
 大火によって、江戸時代初期の町の様相は失われ、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転、寺社の外辺部への移転などを進め、道幅、町家の規模が統一され、火よけの広小路を設置、さらに本所、深川にも市街の拡張が行われます。しかし、災害復興のため幕府貯蔵の金銀は底をつき、1695年(元禄8)の金銀貨改鋳(貨幣改悪)の遠因となったと言われてきました。
 以下に、『むさしあぶみ』と『明暦炎上記』の明暦の大火の記述の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『むさしあぶみ』の明暦の大火の記述

扨も明暦三年丁酉、正月十八日辰の刻ばかりのことなるに、乾のかたより風吹出し、しきりに大風となり、ちりほこりを中天に吹上て、空にたなびきわたる有さま、雲かあらぬか、煙のうずまくか、春のかすみのたな引かと、あやしむほどに、江戸中の貴賎門戸をひらきえず、夜は明けながらまだくらやみのごとく、人の往来もさらになし。やうやう未のこくのおしうつる時分に本郷の四丁目西口に、本妙寺とて日蓮宗の寺より、俄に火もえ出で、くろ煙天をかすめ、寺中一同に焼あがる。折ふし魔風十方にふきまはし、即時に、湯島へ焼出たり。はたごや町より、はるかにへだてし堀をとびこえ、駿河台永井しなのの守・戸田うねめのかみ・内藤ひだのかみ・松平しもふさの守・津軽殿・そのほか数ケ所、佐竹よしのぶをひじめまいらせ、鷹匠町の大名小路数百の屋形、たちまちに灰燼となりたり。
(中略)
扨又、右のするがだいの火、しきりに須田町へもえ出て、一筋は真直に通りて、町屋をさして焼ゆく。今一筋は、請願寺より追まはして、押来る間、江戸中町の老若。こはそもいかなる事ぞやとて、おめきさけび、我も我もと家財雑具をもち運び、西本願寺の門前におろしをきて、休みけるに、辻風おびただしく吹きまきて、当寺の本堂より始めて、数か所の寺々,同時に鬨と焼たち、山のごとく積あげたる道具に火もえ付しかば、集りゐたりし諸人、あはてふためき、命をたすからんとて井のもとに飛び入、溝の中に逃入ける程に、下なるは水におぼれ、中なるは友におされ、上なるは火にやかれ、ここにて死するもの四百五十余人なり。 さて又はじめ通り町の火は、伝馬町に焼きたる。数万の貴賎、此よしを見て、退あしよしとて、車長持を引つれて、浅草をさしてゆくもの、いく千万とも数しらず。人のなくこゑ、くるまの軸音、焼くずるる音にうちそへて、さながら百千のいかづちの鳴おつるもかくやと覚へて、おびただしともいふばかりなし。親は子をうしなひ、子はまたおやにをくれて、おしあひ、もみあひ、せきあふ程に、あるひは人にふみころされ、あるひは車にしかれ、きずをかうぶり、 半死半生になりて、おめきさけぶもの、又そのかずをしらず。

〇『明暦炎上記』の明暦の大火の記述

 今度焼失の覚
一、万石以上類火              百六十軒。
   但し、万石以上焼失の残りは五十四軒。
一、物頭・組頭・番頭類火         二百十五軒。
一、新番組火               二百十軒。
一、小十人組類火               六十三軒。
一、御書院番組類火     百九十軒。
一、大御番衆    百四十軒。
一、町屋の類火は両町にして四百町、片町にして八百町、但し道程二十二里八 町
    三十六町壱里にしてなり。 間数四万八千間。但し六尺一間積。
一、家主知らざる町屋八百三十軒余。
一、橋残りたるは呉服町丁の一石橋・浅草橋ばかり、此の外は皆焼失す。
一、焼死者三万七千余人、此の外数知らず、牛馬犬猫をや。

☆江戸時代の大火一覧

・1657年(明暦3年1月18日、19日)江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日)江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830~3,500人
・1708年(宝永5年3月8日)京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日)大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日)江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日)江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日)京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日)江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日)江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日)大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日)大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日)京都の「元治の大火」

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