
1695年(元禄8)に15組に増やされましたが、1704年(宝永元)には、10組に減じられ、これが永制となったため、「十人火消」とも呼ばれ、また「寄合火消」とも言われました。その10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池屋敷・赤坂御門外屋敷・飯田町屋敷・市ヶ谷御門外屋敷・小川町屋敷・御茶之水屋敷・半蔵御門外屋敷・駿河台屋敷・八代洲河岸屋敷・四谷御門内屋敷とされます。
その後、大名火消、ことに1720年(享保5)以降の町火消の整備に伴い、漸次活気を失い、1792年(寛政4)以降は出動も限られ、消火範囲も小さくなりました。そして、 1859年(安政6)には8組に減らされ、1866年(慶応2)には4組となっています。
寒さのために、罹災者で凍死する者も多く、幕府は救小屋を設けたり、粥の施行をして救済にあたりました。明和の大火、文化の大火と共に江戸三大大火とされていますが、その中でも最大のもので、「振袖火事」、「丸山火事」とも呼ばれています。
その後の火災対策として、1657年(明暦3)に方角火消、翌年には定火消が設置され、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築が奨励されました。大火によって、江戸時代初期の町の様相は失われ、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転、寺社の外辺部への移転などを進め、道幅、町家の規模が統一され、火よけの広小路を設置、さらに本所、深川にも市街の拡張が行われます。
しかし、災害復興のため幕府貯蔵の金銀は底をつき、1695年(元禄8)の金銀貨改鋳(貨幣改悪)の遠因となったと言われてきました。