ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:明智光秀

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 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を破り、光秀は敗走中に土民に刺殺された日ですが、新暦では7月2日となります。
 山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、1582年(天正10年6月2日)の本能寺の変で織田信長が明智光秀の反逆のために亡くなると、毛利氏と和議を結んだ羽柴秀吉(豊臣)がその11日後に、山城国山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町付近)で明智光秀を破った戦いでした。本能寺の変での信長の死を聞いた秀吉は、毛利輝元の部将清水宗治の備中高松城の水攻め中だったものの、急遽毛利方と和を結び、軍勢を率いて東へ急行(備中大返し)します。
 2日後には自身の姫路城に戻って軍備を整え、その後摂津国富田(現在の大阪府高槻市)まで進軍しましたが、その間に高山右近、細川幽斎、筒井順慶らを味方につけ、12日には、富田で軍議を開きました。そして、秀吉勢約2万6千と光秀勢約1万6千は「円明寺川」(現在の小泉川)を挟んで陣を配置することとなります。
 翌13日早朝天王山で戦端が開かれたものの、数に勝る秀吉勢が優勢となり、敗色が濃厚となった光秀は、一時青竜寺城に退きました。しかし、伏見山崎に入った秀吉勢が激しく急追し、光秀は再挙をはかるため、居城坂本に逃れようとして、山城国小栗栖 (現在の京都市伏見区) を通過中に、土民に殺害されたとされます。
 この勝利で、秀吉の地位が一躍向上し、同年6月27日の「清洲会議」で信長の後継者としての地位を確立、天下統一へと歩みを進めていくこととなりました。

〇明智光秀とは?

 戦国時代から安土桃山時代の武将で、通称は十兵衛といいます。1528年(享禄元)頃に、美濃国で、土岐氏の一族の明智光綱の子として生まれたとされています。
 はじめは、越前の朝倉義景に仕え、足利義昭が朝倉氏を頼ってきたときに出仕し、その後、織田信長の家臣となって、義昭の上洛に尽力しました。そして、義昭や寺社、公家との交渉役をつとめて、名をあらわします。1571年(元亀2)には、近江坂本城主となり,各地を転戦して武功をあげ、1575年(天正3)に、その功により九州の名族惟任姓と日向守を与えられました。
 それから、丹波の攻略に着手し、1579年(天正7)に八上城の波多野秀治らを下して平定し、1580年(天正8)には、亀山城主となります。1582年(天正10)には、本能寺の変で主君の織田信長を討ったものの、11日後に山崎の戦いで羽柴秀吉らの連合軍に敗れ、逃走途中小栗栖で土民に殺されました。俗に、明智の「三日天下」と呼ばれています。

〇羽柴(豊臣)秀吉とは?

 安土桃山時代の武将・大名・天下人です。戦国時代の1537年(天文6)に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓で織田信秀の足軽だった父・木下弥右衛門、母・なか(天瑞院)の子として生まれましたが、幼名は日吉丸と言いました。
 7歳のときに父を亡くし、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚します。1551年(天文20)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲城主であった織田信長に小者として仕えました。
 1561年(永禄4)に浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになります。清洲城普請、墨俣築城、京都警備などで活躍し、1570年(元亀元)の姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功を上げました。
 1573年(天正元)には、羽柴藤吉郎秀吉と名のり、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となって、近江長浜に築城します。1577年(天正5)に中国征伐の将として毛利氏と対戦しますが、1582年(天正10)に信長が明智光秀のために本能寺の変で横死すると、山崎の戦いで光秀を破り、次いで柴田勝家を倒して、信長の後継者としての地位を獲得しました。
 1583年(天正11)に大坂城を築城、四国・九州を征し、徳川家康を臣従させ、1590年(天正18)には小田原北条氏を滅ぼして天下統一を完成します。この間、1585年(天正13)に関白、翌年に太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。
 1591年(天正19)には関白を養子秀次に譲り太閤と称し、1592年(文禄元)と1597年(慶長2)の2度朝鮮に出兵しますが失敗します。貨幣統一、兵農分離、太閤検地、石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくったとされますが、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城において、数え年63歳で亡くなりました。

〇清洲会議とは?

 本能寺の変後、山崎の合戦を経て、安土桃山時代の1582年(天正10)6月27日に、織田氏諸将が清洲城(愛知県清須市)に集まって、織田家の跡目や遺領の配分を決めることを目的に行った会議です。集まった織田家家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席したとされています。
 織田信長の次男信雄と三男信孝が後継争いをしましたが、羽柴秀吉の強い主張で長男信忠の遺児三法師が後継者と決まりました。この会議の結果、柴田勝家の影響力が落ちて、羽柴秀吉の影響力が増し、織田家内部の勢力地図が替わることになります。
 その後、両者の対立が深まり、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながったと言われています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1615年(慶長20)江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日)詳細
1924年(大正13)土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する詳細
1931年(昭和6)医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の命日詳細
1998年(平成10)北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する 詳細
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 今日は、1602年(慶長7)に、連歌師里村紹巴の亡くなった日ですが、新暦では6月2日となります。
 里村紹巴(さとむら じょうは)は、戦国時代の1525年(大永5)に、奈良において生まれましたが、父は奈良一乗院の御小者(湯屋を業とも)だった松井昌祐とも言われてきました。
 12歳で父を失って興福寺明王院の喝食(寺院に入って雑用をつとめる少年)となり、そのころから連歌を学んだとされ、19歳のとき奈良にきた連歌師周桂(しゅうけい)に師事して上京、周桂没後は里村昌休(しょうきゅう)に師事したとされます。また、三条西公条(きんえだ)に和歌、物語を学び、昌休の没後は、遺児昌叱(しょうしつ)を養育、里村姓を名乗るようになりました。
 1564年(永禄7)、40歳のとき谷宗養が没して、連歌界の第一人者となり、近衛稙家、三好長慶、細川幽斎らと交友を深めます。織田信長・豊臣秀吉らとも交渉があり、1582年(天正10)の本能寺の変直前の明智光秀の「愛宕百韻」に参加したことで知られてきました。
 秀吉の毛利攻めの戦勝祈願「羽柴千句」も有名で、連歌論『連歌至宝抄』を秀吉に進上、多くの百韻、千句を残し、式目書・式目辞典・古典注釈書なども著します。しかし、1595年(文禄4)に豊臣秀次の事件に連座して、三井寺に蟄居させられ、のち許されますが、失意のうち、1602年(慶長7)に、数え年79歳で亡くなりました。
 尚、紹巴の子孫が里村本家(北家)、娘婿の里村昌叱の子孫が里村南家と呼ばれて、代々江戸幕府の御連歌師として仕えています。

〇里村紹巴の主要な著作

・連歌論書『連歌教訓』
・連歌論書『連歌至宝抄』
・紀行『富士見道記(みちのき)』
・古典注釈書『狭衣下紐(さごろもしたひも)』
・古典注釈書『源氏二十巻抄』
・古典注釈書『百人一首紹巴抄』
・式目去嫌書『式目秘抄』(1587年)
・連歌作法書『出葉 (てには) 口伝抄』(1591年)
・歌詞注釈書『匠材集』
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 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃した日ですが、新暦では6月21日となります。
 この事件は、羽柴(豊臣)秀吉の毛利攻め救援に出陣するため、京都・本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃されたものでした。
 明智光秀は、中国征伐を支援するため出陣を命ぜられたので丹波亀山城において軍容を整え、6月1日夜出発しましたが、京都へ進路を変え、翌日黎明に本能寺の織田信長と妙覚寺の長男信忠を襲います。それによって、信長は本能寺で火を放って自刃、信忠は二条御新造に退いて戦ったものの、やはり館に火を放って自刃しました。
 その後、備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)で毛利氏と対陣していた羽柴秀吉は、信長の訃報を知ると急遽和議を結んで、予想以上に早く機内に戻り(中国大返し)、6月13日の山崎の戦いで光秀との合戦に及びます。その結果光秀が敗れ、近江坂本城への逃走の途中小栗栖(おぐるす)において、落ち武者狩りの農民に殺害されました。

〇明智光秀とは?

 戦国時代から安土桃山時代の武将で、通称は十兵衛といいます。1528年(享禄元)頃に、美濃国で、土岐氏の一族の明智光綱の子として生まれたとされています。
 はじめは、越前の朝倉義景に仕え、足利義昭が朝倉氏を頼ってきたときに出仕し、その後、織田信長の家臣となって、義昭の上洛に尽力しました。そして、義昭や寺社、公家との交渉役をつとめて、名をあらわします。1571年(元亀2)には、近江坂本城主となり、各地を転戦して武功をあげ、1575年(天正3)に、その功により九州の名族惟任姓と日向守を与えられました。
 それから、丹波の攻略に着手し、1579年(天正7)に八上城の波多野秀治らを下して平定し、1580年(天正8)には、亀山城主となります。1582年(天正10)には、本能寺の変で主君の織田信長を討ったものの、11日後に山崎の戦いで羽柴秀吉らの連合軍に敗れ、逃走途中小栗栖で土民に殺されました。俗に、明智の「三日天下」と呼ばれています。

〇織田信長とは?

 戦国時代の武将・戦国大名です。1534年(天文3年5月12日)に、尾張守護代織田大和守家の奉行の一人であった父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれましたが、幼名は、吉法師と言いました。
 1546年(天文15)元服して三郎信長と名乗り、翌年三河へ初陣、1551年(天文 20)に父信秀が没して、家督を継ぎますが、一族内部の抗争が続きます。
 ようやく、1559年(永禄2)に織田信賢を破って織田家をまとめ、翌年の桶狭間の戦いで今川義元を敗死させて、尾張一国を統一しました。
 1562年(永禄5)に、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃への進出を図り、1567年(永禄10)に、斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とします。
 翌年、足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につけ、その将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令しました。その後、1570年(元亀元)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、翌年に延暦寺の焼き打ちを行います。続いて、1573年(天正元)には朝倉氏、さらに浅井氏を滅ぼし、足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させました。
 さらに、1575年(天正3)に長篠の戦いで、武田勝頼を破り、翌年には近江に安土城を築き、天下統一への拠点とします。
 その中で、関所の撤廃、楽市楽座、検地等の革新政策を実施、キリシタン文化をも摂取して、華やかな安土桃山文化を興しました。その後、中国経略を志して毛利氏と対立しますが、1580年(天正8)に本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配、1582年(天正10)には甲斐武田氏を滅ぼすなど着々と統一事業を進めました。
 しかし、同年6月2日に、京都における本能寺の変で、明智光秀のために自刃させられ、48歳で生涯を閉じます。

☆織田信長関係略年表(日付は旧暦です)

・1534年(天文3)5月12日 織田大和守家の奉行の父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれる
・1546年(天文15) 古渡城にて元服し、三郎信長と名乗る
・1547年(天文16) 三河へ初陣する
・1548年(天文17) 美濃の斎藤道三の娘と結婚する
・1551年(天文20) 父・織田信秀が没して、家督を継ぐ
・1555年(弘治元) 清洲城の織田信友を討って、居城とする
・1557年(弘治3) 弟織田信行らの反乱を抑える
・1559年(永禄2) 岩倉城の織田信賢を破って織田家をまとめる
・1560年(永禄3)5月19日 桶狭間の戦で今川義元を敗死させて尾張一国を統一する
・1562年(永禄5) 三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結ぶ
・1563年(永禄6) 美濃攻略のために本拠を小牧山城に移す
・1567年(永禄10) 斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とする
・1568年(永禄11) 足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につける
・1569年(永禄12) 北伊勢の北畠氏を屈伏させる
・1570年(元亀元)6月28日 姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破る
・1570年(元亀元)9月12日 本願寺との間で石山合戦が始まる
・1571年(元亀2)9月12日 比叡山延暦寺を焼討ちする
・1572年(元亀3)12月22日 三方ヶ原の戦いで、織田・徳川連合軍が武田軍に敗れる
・1573年(天正元) 朝倉氏・浅井氏を滅亡させる
・1573年(天正元) 室町幕府15代将軍足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させる
・1574年(天正2)9月29日 長島の一向一揆を壊滅させる
・1575年(天正3)5月21日 長篠の戦いで、武田勝頼を破る
・1576年(天正4) 近江に安土城を築き、天下統一への拠点とする
・1580年(天正8)4月 本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配する
・1581年(天正9)2月28日 京都御馬揃えを行う 
・1582年(天正10)3月11日 甲斐武田氏を滅ぼす
・1582年(天正10)6月2日 京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する
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