
明徳の乱(めいとくのらん)は、南北朝時代の1391年(元中8/明徳2)に山名氏(山名氏清、山名満幸等)が室町幕府に対して起こした反乱でした。山名氏は、この頃一族で11か国の守護職をして勢力を振るい、六分一殿と呼ばれていて、室町幕府3代将軍足利義満はその勢力を抑えるため、山名氏の内紛に乗じて、山名満幸を丹波に追放します。
しかし、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵することになりました。それに対し、室町幕府側は大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い、山名氏清を敗死させ、満幸を敗走させます。これによって、山名氏の勢力は衰退することになり、翌年10月27日の足利義満による南北朝の合一(明徳の和約)の実現へと向かい、室町幕府の将軍の権威が確立しました。
以下に、明徳の乱のことを記した『明徳記』の一部を抜粋して、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
しかし、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵することになりました。それに対し、室町幕府側は大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い、山名氏清を敗死させ、満幸を敗走させます。これによって、山名氏の勢力は衰退することになり、翌年10月27日の足利義満による南北朝の合一(明徳の和約)の実現へと向かい、室町幕府の将軍の権威が確立しました。
以下に、明徳の乱のことを記した『明徳記』の一部を抜粋して、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『明徳記』より
山名満幸[1]、和泉へ馳越て[2]奥州[3]に申されけるは、『抑[4]近日京都の式法[5]何とか思召され候、只事[6]に触て此一門を亡ぼさるべき御結構[7]なり。其故は、去年は貴殿[8]・我等に仰付られて予州[9]の一跡[10]を失はる。当年は又彼等を御免[11]の上は、定て我等が讒訴[12]の所存[13]を此時彼等申開べし。さるに於ては又我等を御退治[14]の沙汰[15]に及ぶべし。所詮[16]、事体を案ずるに、当家世を取とも人驚にも侍らず、一族悉く同心[18]して分国[19]の勢を併せ方々より京都に責上[20]ば、今程誰か在京の大名の中に、味方と対揚[21]の合戦をも仕るべき。先ず京をだにも一度打随へなば、他家一族も大略[22]同心[18]こそ仕候はんずらめ。其外土岐[23]・富樫[24]を始として、近日世にせばめられ面目[25]を失者あまた侍れば、是等は最前に同意仕べし。(中略)時の儀に随ひて御旗を揚らるるの事、何の子細[27]か侍るべき』と終宵[28]かき口説[29]申されたり。
【注釈】
[1]山名満幸:やまなみつゆき=南北朝~室町時代の武将。山名師義の4男。丹後、出雲の守護。
[2]馳越て:はせこえて=馬で駈け越えてきて。
[3]奥州:おうしゅう=陸奥守山名氏清のこと。南北朝時代の武将で、山名時氏の4男。丹波、和泉、山城、但馬の守護。
[4]抑:そも=一体。さて。
[5]式法:しきほう=儀式・作法。また、定まった形式。特定のきまり。
[6]只事:ただごと=ふつうのこと。世のつねのこと。あたりまえのこと。
[7]結構:けっこう=心の中で、ある考えを作りかまえること。計画。意図。企て。
[8]貴殿:きでん=男性が目上または同等の男性に対して用いる。あなた。貴兄。貴堂。
[9]予州:よしゅう=伊予守山名時義のこと。美作国・伯耆国・但馬国・備後国守護で、第3代将軍足利義満から命じられた山名氏清・満幸らの追討を受けた。
[10]一跡:いっせき=後継ぎに譲る物のすべて。遺産。転じて全財産、身代。
[11]御免:ごめん=容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。
[12]讒訴:ざんそ=他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。
[13]所存:しょぞん=心に思う所。考え。おもわく。
[14]退治:たいじ=こらしめたり殺したりして、害を与える者がいなくなるようにする。退治する。うちほろぼす。うちたいらげる。
[15]沙汰:さた=決定したことなどを知らせること。通知。また、命令・指示。下知。
[16]所詮:しょせん=詮ずるところ。つまるところ。要するに。結局。また、こうなったからには。
[18]同心:どうしん=ともに事にあたること。仕事を手伝うこと。また、戦闘で味方すること。
[19]分国:ぶんこく=守護や大名の領国。
[20]責上:せめあげ=徹底的に責める。
[21]対揚:たいよう=ある事柄や相手に応じること。あい対すること。
[22]大略:たいりゃく=おおよそ。大体。あらまし。
[23]土岐:とき=土岐康行のことで、美濃の乱で鎮圧された。
[24]富樫:とがし=富樫詮親のことで、明徳の乱に乗じて幕府に反抗して滅ぼされた。
[25]面目:めんもく=世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。
[26]最前:さいぜん=いちばん先。真っ先。
[27]子細:しさい=特別の理由。こみいったわけ。
[28]終宵:しゅうしょう=一晩中。夜通し。終夜。
[29]口説:くどく=くどくどと繰り返していう。嘆きのことばを繰り返す。しつこくいう。
<現代語訳>
山名満幸は、和泉国へ馬で駈け越えてきて、山名氏清に言われたことは、『さて近頃の京都(室町幕府)のなされ方をどのように思われていますか、あたりまえの事にかこつけて、この一門を亡ぼそうとしている企てではないか。その理由は、去年はあなたと私たちにご命令されて山名時義の身代を失わせた。今年はまた彼等を赦免されたことに対しては、明らかに我等を陥れようとする考えであることをこの時彼等に申し開きするべきだ。その内に、また私たちをうち亡ぼすというご命令に及ぶことであろう。要するに、事体を思案するに、当家は代々人の驚にかしこまって控えるものではない、一族すべて力を合わせて領国の勢力を併せて、各方面より京都(室町幕府)を徹底的に責めたならば、今時、誰か在京の大名の中に、味方と相対する合戦をすることができようか。まず京都(室町幕府)だけでも一度打ち負かしてしまったならば、他家の一族も大方は味方してくれるのではないか。その他、土岐康行・富樫詮親をはじめとして、近頃に世間に肩身のせまい思いをさせられ面目をつぶされた者が多くあるので、これらは真っ先に同意してくれるであろう。(中略)時節に従って、錦の御旗を立てて戦を起こしとのことだが、どのような特別の理由かあったのか』と一晩中しつこく言われたことであった。
☆南北朝関係略年表(日付は旧暦です)
・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される