ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:昌平坂学問所

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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興した日ですが、新暦では8月17日となります。
 昌平学校(しょうへいがっこう)は、江戸幕府の教学機関であった昌平坂学問所(1797年設立)が、明治新政府に接収され官立学校として再編成されたときの名称でした。明治新政府は、江戸幕府直轄だった昌平坂学問所を昌平学校、開成所を開成学校、医学所を医学校として復興しましたが、翌年6月には、これらを総合して「大学校」を創設することとします。
 その際に、昌平学校は大学校(本校)とし、開成学校と医学校は大学校分局としたものの、同年12月には大学校を「大学」と改称し、また開成学校を「大学南校」、医学校を「大学東校」と改称して、総合大学の形態が一応整えられました。しかし、その後大学(本校)は、紛争のため1870年(明治3年7月13日)に学制改正で当分休校となり、翌年には廃止されます。
 「大学南校」と「大学東校」は存続することとなり、後の東京大学の母体となりました。それ以後も、昌平学校(昌平坂学問所)の建物は残され、1922年(大正11)に国の史跡に指定されましたが、翌年の関東大震災で、入徳門と水屋を残し、すべてを焼失してしまいます。
 その後、1935年(昭和10)に、寛政時代の建物を模して鉄筋コンクリート造りで再建されました。そこには、現在でも、受験シーズンになると、多くの受験生が合格祈願に来ることで知られています。

〇昌平学校(昌平坂学問所)関係略年表(日付は旧暦です)

・1630年(寛永7) 林羅山が幕府から上野忍ヶ岡に土地を与えられ、私邸内に書院と文庫を設立する
・1632年(寛永8) 尾張藩主徳川義直の援助で、上野忍ヶ岡の私邸内に孔子廟(先聖殿)を創建する
・1663年(寛文3) 林家2代目鵞峰の時、「弘文館(こうぶんかん)」と名付け、学寮も設置して門人教育も本格化する
・1690年(元禄3) 5代将軍徳川綱吉が神田湯島に孔子廟を移築することを命じ、林家3代目鳳岡が孔子廟や学寮を移転し始める
・1691年(元禄4)2月7日 神位の奉遷が行われて孔子廟(大成殿)が完成する
・1703年(元禄16) 火災にあう
・1772年(明和9)2月29日 明和の大火で被災したため不振状態となる
・1790年(寛政2) 寛政改革の一環として聖堂預りの林大学頭(信敬)に「教学伸張の令(寛政異学の禁)」が発せられる
・1792年(寛政4) 教官宿舎、講舎も建立され、学校としての整備が進み、旗本の子弟などのほか、一般の聴講も許すこととなる
・1793年(寛政5) 岩村藩主松平乗薀の子衡(たいら)が林家を継ぎ、8代目述斎として、大学頭となる
・1797年(寛政9) 林家の手を離れて幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌)となり、庶人の入学を禁じ、幕臣、藩士らの子弟を教育する
・1799年(寛政11) 湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は1万2千坪から1万6千坪余りとなる
・1862年(文久2) 学問所奉行所の新設に伴い塩谷宕陰、安井息軒らも教授陣に加えられる
・1868年(慶応4)6月29日 官立の「昌平学校」として再出発する
・1869年(明治2) 大学校と改称される
・1870年(明治3)7月12日 学制改正で当分休校となる
・1871年(明治4) 学校としては廃止される
・1872年(明治5) 大成殿で日本最初の博覧会「湯島聖堂博覧会」(文部省博物局主催)が開催される
・1872年(明治5) 東京師範学校、日本初の図書館である書籍館が置かれる
・1874年(明治7) 東京女子師範学校が設置される
・1922年(大正11) 国の史跡に指定される、
・1923年(大正12) 関東大震災で、入徳門と水屋を残し、すべてを焼失する
・1935年(昭和10) 寛政時代の建物を模して、鉄筋コンクリート造りで再建される
・1975年(昭和50) 中華民国台北ライオンズクラブから世界最大の孔子像が寄贈される
・1986年(昭和61) 文化庁による保存修理工事が始まる
・1993年(平成5) 保存修理工事が竣工する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
1928年(昭和3)「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする詳細
1945年(昭和20)岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)詳細
1946年(昭和21)GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1790年(寛政2)に、老中主座・松平定信が朱子学以外の学問を異学として昌平坂学問所での教授を禁止(寛政異学の禁)した日ですが、新暦では7月6日となります。
 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)は、寛政の改革の一環として、江戸幕府が昌平坂学問所(昌平黌)に対し、朱子学以外を異学とし、その教授を禁止したものでした。老中松平定信が林大学頭(信敬)に下命し、昌平坂学問所(昌平黌)においては正学たる朱子学のみを講究し、異学すなわち朱子学以外の学問は禁ずる旨を達したもので、寛政三博士(柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉)や西山拙斎の主張を入れて、朱子学の振興を図るために発せられたものです。
 当時は、伊藤仁斎、荻生徂徠などの古学派、井上金峨、片山兼山などの折衷学派、その他諸学派が次第に隆盛し、官学である朱子学は不振のため、それを擁護し、幕吏養成機関としての自覚を促すために行われましたが、諸藩の学校でも幕府の禁令ならうところが出ました。また、朱子学をもって学問吟味(=官吏登用試験)とし、1798年(寛政10)頃まで続けられます。
 これに対し、冢田大峯、豊島豊洲、亀田鵬斎、山本北山、市川鶴鳴らは異学の禁に強く反対し、「異学の五鬼」とさえ称されました。
 以下に、『徳川禁令考』の「寛政異学の禁」の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『徳川禁令考』の「寛政異学の禁」の部分

 寛政二庚戌年五月廿四日
   学派維持ノ儀に付申達  林大学頭[1]え
 朱学[2]の儀は、慶長以来[3]御代々御信用の御事にて、已に其方家[4]、代々右学風維持の事仰せ付置れ候儀に候得者、油断無く正学[5]相励み、門人共取立て申すべき筈に候。然処近来世上種々新規の説[6]をなし、異学[7]流行、風俗を破り候類これ有り、全く正学[5]衰微のゆえに候哉、甚だ相済まざる事にて候。其方門人共の内にも、右体[8]、学術純正ならざるもの、折節はこれ有る様にも相聞え、如何に候。此度聖堂[9]御取締厳重に仰せ付られ、柴野彦助[10]・岡田清助[11]儀も、右御用仰せ付られ候事[12]に候得者、能々此旨申し談じ、急度門人共異学[7]を禁じ、猶又、自門[13]に限らず他門[14]に申合せ、正学[5]講窮[15]致し、人才[16]取立て候様相心掛申すべく候事。

     『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]林大学頭:はやしだいがくのかみ=大学頭だった林信敬(錦峯)のこと。
[2]朱学:しゅがく=朱子学のこと。
[3]慶長以来:けいちょういらい=徳川家康が林羅山を登用した慶長10年(1605年)以来という意味。
[4]其方家:そのほういえ=林家のこと。
[5]正学:せいがく=朱子学を正学とした。
[6]世上種々新規の説:せじょうしゅしゅしんきのせつ=古学、陽明学など儒学の諸派が存在している状態を指す。
[7]異学:いがく=朱子学以外の儒学である古学派、折衷派、陽明学派などのこと。
[8]右体:みぎてい=右に述べたような。
[9]聖堂:せいどう=孔子廟のことだが、この場合はそれに付属する学問所を指す。
[10]柴野彦助:しばのひこすけ=朱子学者で寛政三博士の一人、寛政異学の禁を建議した。
[11]岡田清助:おかだせいすけ=朱子学者で寛政三博士の一人。
[12]右御用仰せ付られ候事:みぎごようおおせつけられそうろうこと=聖堂学問所の儒官として登用されたこと。
[13]自門:じもん=林家。
[14]他門:たもん=林家以外の朱子学者。
[15]講窮:こうきゅう=講義、研究。
[16]人才:じんざい=有能な人材。

<現代語訳>

 寛政2年(1790年)5月24日
   学派の維持の事について申し渡す 林大学頭へ
 朱子学の事は、慶長年間以来、将軍家代々が信用してきた学問で、すでにその方林家でも、代々右の学風を維持するよう命じられてきたのだから、怠り無く朱子学を研鑽し、門人達を養成すべきはずである。ところが近来、世間では種々の新規学説を成し、朱子学以外の儒学の学派が流行し、風俗を乱す者たちが有るのは、全く朱子学が衰微したためであろうか。はなはだよろしくないことである。その方林家門人共の中にも、右に述べたような、正統でない学問を学ぶ者が、時折有る様にも聞いているが、どのようなものであろうか。今度、聖堂学問所の取締りを厳重にするよう命令され、柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)にも、右の御用を命令されることとなったので、よくよくこの趣旨を検討し、必ず門人どもに朱子学以外を学ぶことを禁じ、なおまた林家に限らず、他の朱子学者とも相談し、朱子学を講義、研究し、有能な人材を養成するように心がけねばならないこと。

〇(参考)『蜑の焼藻の記(あまのたくものき)』の「寛政異学の禁」についての記述

 試学の評決は儒家へ仰渡されて、大学頭より以下柴野彦助・岡田清助・尾藤良佐等、聖堂に於て諸士の素読講釈を試みたり。されど儒家にては人物人がらはいかにもあれ、其日に当りて講釈弁書の聖教に的当したるならでは上科とせず。されば血気放蕩のやからは、不敵なる根情にまかせて、きのふまで浄瑠璃三味線に心耳をこらしたる者が、四五十日が内に、そこら講釈を聞覚えて、試学に出るやから多し。殊に去心より能き師の云事を聞覚えて、一字一句も違へず聞とりに云ふへに、儒家の評にはいつも上科にあたれり。又実学にて多年志有りて書籍にもしたしく、人がらを慎みて、然るべき勤士にも進むべき者は、おのづから己が見識も交わり、或ひは多聞に迷ふ所有りて、云所いつも儒家の評には当たらず、下等に成たり。

 『蜑の焼藻の記』(森山孝盛著)より 
 注:森山孝盛(1738-1815年)は、のちに目付や先手鉄炮頭などを務めた旗本。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1925年(大正14)日本労働組合評議会が結成される詳細
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