
その際に、昌平学校は大学校(本校)とし、開成学校と医学校は大学校分局としたものの、同年12月には大学校を「大学」と改称し、また開成学校を「大学南校」、医学校を「大学東校」と改称して、総合大学の形態が一応整えられました。しかし、その後大学(本校)は、紛争のため1870年(明治3年7月13日)に学制改正で当分休校となり、翌年には廃止されます。
「大学南校」と「大学東校」は存続することとなり、後の東京大学の母体となりました。それ以後も、昌平学校(昌平坂学問所)の建物は残され、1922年(大正11)に国の史跡に指定されましたが、翌年の関東大震災で、入徳門と水屋を残し、すべてを焼失してしまいます。
その後、1935年(昭和10)に、寛政時代の建物を模して鉄筋コンクリート造りで再建されました。そこには、現在でも、受験シーズンになると、多くの受験生が合格祈願に来ることで知られています。