この状況下で、日本は日清間で結ばれた「天津条約」に基づき、これに対抗して出兵します。これを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めました。
しかし、日本は朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る一方で、イギリスとの条約改正(日英通商航海条約)に成功して同国の援助を期待し得る状況をつくります。その上で、清国との開戦を閣議決定し、ソウルの王宮を占領して親日派の大院君政権をつくりました。
これによって、清国との関係は険悪化し、7月25日に仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかけ、陸上でも朝鮮の成歓、牙山を占領し、実質的な開戦へと至ります。8月1日には、「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、正式に宣戦が布告され、陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領、海軍も9月には黄海海戦に勝って制海権を握りました。
翌年2月には威海衛軍港陸岸を占領し、清国の北洋艦隊を降伏させ、3月に入ると牛荘、営口、澎湖列島を占領します。この中で、列国の講和勧告が相次ぎ、朝鮮でも抗日反乱が再起、清国からの講和打診もあって、3月下旬から下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文、陸奥宗光との間で講和会議が開始されました。
4月17日には、「下関条約(日清講和条約)」に調印しましたが、①清国が朝鮮の独立を承認すること、②遼東半島、台湾、澎湖島を清国から分割、日本の領土とすること、③清国は賠償金2億両(テール)(約3億円)を支払うこと、④沙市、重慶、蘇州、杭州を開市・開港するほか、欧米諸国が清国にもっている通商上の特権を日本にも認めることなどが取り決められます。しかし、この6日後にロシア、ドイツ、フランスからいわゆる三国干渉を受け、5月4日には、日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとなりました。
これによって、日本は欧米資本主義列強と並び、極東での覇権を争うようになったとされますが、死者1万7,000人、戦費約2億円にのぼっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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| 1929年(昭和4) | 映画監督・映画製作者で、「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三の命日 | 詳細 |
| 1933年(昭和8) | フェーン現象により山形県山形市で40.8℃を記録する | 詳細 |
| 1946年(昭和21) | 吉田茂内閣において、「農地制度改革の徹底に関する措置要綱」が閣議決定される | 詳細 |
| 1955年(昭和30) | 日本住宅公団が設立される | 詳細 |
| 1960年(昭和35) | 「身体障害者雇用促進法」(昭和35年法律第123号)が公布・施行される | 詳細 |
| 1985年(昭和60) | 「女子差別撤廃条約」を日本が批准し、日本において発効する | 詳細 |



