
日本側の全権は伊藤博文、陸奥宗光で、清国側の全権は李鴻章で、両国の代表11名が出席し、講和に向けて、会議は7回に渡って行われ、4月17日に「下関条約」(日進講和条約)が調印されます。講和条約において、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土(遼東半島・台湾・澎湖諸島等)の割譲・賠償金2億両の支払いなどを約束しました。
しかし、遼東半島は、同年4月のロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって清国に返還されることになります。
この状況下で、日本は日清間で結ばれた「天津条約」に基づき、これに対抗して出兵します。これを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めました。
しかし、日本は朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る一方で、イギリスとの条約改正(日英通商航海条約)に成功して同国の援助を期待し得る状況をつくります。その上で、清国との開戦を閣議決定し、ソウルの王宮を占領して親日派の大院君政権をつくりました。
これによって、清国との関係は険悪化し、7月25日に仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかけ、陸上でも朝鮮の成歓、牙山を占領し、実質的な開戦へと至ります。8月1日には、「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、正式に宣戦が布告され、陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領、海軍も9月には黄海海戦に勝って制海権を握りました。
翌年2月には威海衛軍港陸岸を占領し、清国の北洋艦隊を降伏させ、3月に入ると牛荘、営口、澎湖列島を占領します。この中で、列国の講和勧告が相次ぎ、朝鮮でも抗日反乱が再起、清国からの講和打診もあって、3月下旬から下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文、陸奥宗光との間で講和会議が開始されました。
4月17日には、「下関条約(日清講和条約)」に調印しましたが、①清国が朝鮮の独立を承認すること、②遼東半島、台湾、澎湖島を清国から分割、日本の領土とすること、③清国は賠償金2億両(テール)(約3億円)を支払うこと、④沙市、重慶、蘇州、杭州を開市・開港するほか、欧米諸国が清国にもっている通商上の特権を日本にも認めることなどが取り決められています。しかし、この6日後にロシア、ドイツ、フランスからいわゆる三国干渉を受け、5月4日には、日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとなりました。
これによって、日本は欧米資本主義列強と並び、極東での覇権を争うようになったとされますが、死者1万7,000人、戦費約2億円にのぼっています。
その内容は、前文と11ヶ条がらなり、(1)朝鮮の独立承認、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、(3)軍費賠償金2億両[テール](日本円で約3億円)の支払い、(4)沙市・重慶・蘇州・杭州の開市と開市・開港地における製造業従事権の承認、(5)揚子江航行権を与えること、(6)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権(日本の治外法権、片務的協定関税率)を日本に認める新条約の締結などとなっていました。尚、調印直後にロシア、ドイツ、フランスのいわゆる三国干渉がなされ、日本は遼東半島を清国に還付しましたが、その代償として3,000万両[テール]を得ています。
この条約で得た賠償金2億両[テール]と遼東還付金の3,000万両[テール]は、軍備と工業化の資金となり、また金本位制度に移行する資金ともなりました。
以下に、「下関条約」(日清講和条約)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
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