ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日清戦争

nittshinkouwakaigi01
 今日は、明治時代後期の1895年(明治28)に、日清戦争講和のために、下関の料亭春帆楼で日清講和会議が始まった日です。
 日清講和会議(にっしんこうわかいぎ)は、朝鮮半島の権益をめぐって対立していた日本と清国の間で1894年(明治27)勃発した日清戦争の講和のために、日本の下関で開催された会議です。1895年(明治28)3月19日に、清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡の沖合に停泊し、翌日から下関の料亭春帆楼で日清講和会議が開催されました。
 日本側の全権は伊藤博文、陸奥宗光で、清国側の全権は李鴻章で、両国の代表11名が出席し、講和に向けて、会議は7回に渡って行われ、4月17日に「下関条約」(日進講和条約)が調印されます。講和条約において、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土(遼東半島・台湾・澎湖諸島等)の割譲・賠償金2億両の支払いなどを約束しました。
 しかし、遼東半島は、同年4月のロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって清国に返還されることになります。

〇日清戦争(にっしんせんそう)とは?

 明治時代中頃の1894年(明治27)夏~1895年(明治28)4月17日まで、日本と清国の間で、朝鮮支配をめぐって行われた戦争です。1894年(明治27)1月上旬に、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し、大規模な農民反乱が勃発し、これに手を焼いた朝鮮政府は、6月に農民反乱鎮圧のため清国に援兵を依頼しました。
 この状況下で、日本は日清間で結ばれた「天津条約」に基づき、これに対抗して出兵します。これを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めました。
 しかし、日本は朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る一方で、イギリスとの条約改正(日英通商航海条約)に成功して同国の援助を期待し得る状況をつくります。その上で、清国との開戦を閣議決定し、ソウルの王宮を占領して親日派の大院君政権をつくりました。
 これによって、清国との関係は険悪化し、7月25日に仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかけ、陸上でも朝鮮の成歓、牙山を占領し、実質的な開戦へと至ります。8月1日には、「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、正式に宣戦が布告され、陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領、海軍も9月には黄海海戦に勝って制海権を握りました。
 翌年2月には威海衛軍港陸岸を占領し、清国の北洋艦隊を降伏させ、3月に入ると牛荘、営口、澎湖列島を占領します。この中で、列国の講和勧告が相次ぎ、朝鮮でも抗日反乱が再起、清国からの講和打診もあって、3月下旬から下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文、陸奥宗光との間で講和会議が開始されました。
 4月17日には、「下関条約(日清講和条約)」に調印しましたが、①清国が朝鮮の独立を承認すること、②遼東半島、台湾、澎湖島を清国から分割、日本の領土とすること、③清国は賠償金2億両(テール)(約3億円)を支払うこと、④沙市、重慶、蘇州、杭州を開市・開港するほか、欧米諸国が清国にもっている通商上の特権を日本にも認めることなどが取り決められています。しかし、この6日後にロシア、ドイツ、フランスからいわゆる三国干渉を受け、5月4日には、日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとなりました。
 これによって、日本は欧米資本主義列強と並び、極東での覇権を争うようになったとされますが、死者1万7,000人、戦費約2億円にのぼっています。

〇「下関条約(しものせきじょうやく)」とは?

 日清戦争で日本が清国に勝利したことにより、山口県赤間関市(現在の下関市)の春帆楼での講和会議を経て、調印された条約で、調印者は、日本側全権が伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権が李鴻章・李経方でした。正式名称は「日清講和条約」で、馬関条約とも言われましたが、同年の5月8日に批准書が交換されて発効しています。
 その内容は、前文と11ヶ条がらなり、(1)朝鮮の独立承認、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、(3)軍費賠償金2億両[テール](日本円で約3億円)の支払い、(4)沙市・重慶・蘇州・杭州の開市と開市・開港地における製造業従事権の承認、(5)揚子江航行権を与えること、(6)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権(日本の治外法権、片務的協定関税率)を日本に認める新条約の締結などとなっていました。尚、調印直後にロシア、ドイツ、フランスのいわゆる三国干渉がなされ、日本は遼東半島を清国に還付しましたが、その代償として3,000万両[テール]を得ています。
 この条約で得た賠償金2億両[テール]と遼東還付金の3,000万両[テール]は、軍備と工業化の資金となり、また金本位制度に移行する資金ともなりました。
 以下に、「下関条約」(日清講和条約)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

☆「下関条約」(日清講和条約) 1895年(明治28)4月17日調印、5月8日批准書交換

日清媾和條約

明治二八年(一八九五年)四月一七日下關ニ於テ調印
明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准
明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布

大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ回復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勲一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勲一等子爵陸奧宗光ヲ大清國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隷總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ

第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無缼ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

第二條 清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス
 一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地
鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、營口ニ亙リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ
遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼
 二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼
 三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼

第三條 前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日清兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ
該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ
但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日清兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界ヲ維持スヘシ

第四條 清國ハ軍費賠償金トシテ庫平銀二億兩ヲ日本國ニ支拂フヘキコトヲ約ス右金額ハ都合八回ニ分チ初回及次回ニハ毎回五千萬兩ヲ支拂フヘシ而シテ初回ノ拂込ハ本約批准交換後六箇月以内ニ次回ノ拂込ハ本約批准交換後十二箇月以内ニ於テスヘシ殘リノ金額ハ六箇年賦ニ分チ其ノ第一次ハ本約批准交換後二箇年以内ニ其ノ第二次ハ本約批准交換後三箇年以内ニ其ノ第三次ハ本約批准交換後四箇年以内ニ其ノ第四次ハ本約批准交換後五箇年以内ニ其ノ第五次ハ本約批准交換後六箇年以内ニ其ノ第六次ハ本約批准交換後七箇年以内ニ支拂フヘシ又初回拂込ノ期日ヨリ以後未タ拂込ヲ了ラサル額ニ對シテハ毎年百分ノ五ノ利子ヲ支拂フヘキモノトス但シ清國ハ何時タリトモ該賠償金ノ全額或ハ其ノ幾分ヲ前以テ一時ニ支拂フコトヲ得ヘシ如シ本約批准交換後三箇年以内ニ該賠償金ノ總額ヲ皆濟スルトキハ總テ利子ヲ免除スヘシ若夫迄ニ二箇年半若ハ更ニ短期ノ利子ヲ拂込ミタルモノアルトキハ之ヲ元金ニ編入スヘシ

第五條 日本國ヘ割興セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スルモノハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニ因リ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ
日清兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ

第六條 日清兩國間ノ一切ノ條約ハ交戰ノ爲メ消滅シタレハ清國ハ本約批准交換ノ後速ニ全權委員ヲ任命シ日本國全權委員ト通商航海條約及陸路交通貿易ニ關スル約定ヲ締結スヘキコトヲ約ス而シテ現ニ清國ト歐洲各國トノ間ニ存在スル諸條約章程ヲ以テ該日清兩國間諸條約ノ基礎ト爲スヘシ又本約批准交換ノ日ヨリ該諸條約ノ實施ニ至ル迄ハ清國ハ日本國政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民ニ對シ總テ最惠國待遇ヲ與フヘシ清國ハ右ノ外左ノ讓與ヲ爲シ而シテ該讓與ハ本約調印ノ日ヨリ六箇月ノ後有效ノモノトス
 第一 清國ニ於テ現ニ各外國ニ向テ開キ居ル所ノ各市港ノ外ニ日本國臣民ノ商業住居工業及製造業ノ爲メニ左ノ市港ヲ開クヘシ但シ現ニ清國ノ開市場開港場ニ行ハルル所ト同一ノ條件ニ於テ同一ノ特典及便益ヲ享有スヘキモノトス
  一 湖北省荊州府沙市
  二 四川省重慶府
  三 江蘇省蘇州府
  四 浙江省杭州府
  日本國政府ハ以上列記スル所ノ市港中何レノ處ニモ領事官ヲ置クノ權利アルモノトス
 第二 旅客及貨物運送ノ爲メ日本國汽船ノ航路ヲ左記ノ場所ニ迄擴張スヘシ
  一 揚子江上流湖北省宜昌ヨリ四川省重慶ニ至ル
  二 上海ヨリ呉淞江及運河ニ入リ蘇州杭州ニ至ル
  日清兩國ニ於テ新章程ヲ妥定スル迄ハ前記航路ニ關シ適用シ得ヘキ限ハ外國船舶清國内地水路航行ニ關スル現行章程ヲ施行スヘシ
 第三 日本國臣民カ清國内地ニ於テ貨品及生産物ヲ購買シ又ハ其ノ輸入シタル商品ヲ清國内地ヘ運送スルニハ右購買品又ハ運送品ヲ倉入スル爲メ何等ノ税金取立金ヲモ納ムルコトナク一時倉庫ヲ借入ルルノ權利ヲ有スヘシ
 第四 日本國臣民ハ清國各開市場開港場ニ於テ自由ニ各種ノ製造業ニ從事スルコトヲ得ヘク又所定ノ輸入税ヲ拂フノミニテ自由ニ各種ノ器械類ヲ清國ヘ輸入スルコトヲ得ヘシ
  清國ニ於ケル日本國臣民ノ製造ニ係ル一切ノ貨品ハ各種ノ内國運送税内地賦課金取立金ニ關シ又清國内地ニ於ケル倉入上ノ便益ニ關シ日本國臣民カ清國ヘ輸入シタル商品ト同一ノ取扱ヲ受ケ且同一ノ特典免除ヲ享有スヘキモノトス
  此等ノ讓與ニ關シ更ニ章程ヲ規定スルコトヲ要スル場合ニハ之ヲ本條ニ規定スル所ノ通商航海條約中ニ具載スヘキモノトス

第七條 現ニ清國版圖内ニ在ル日本國軍隊ノ撤回ハ本約批准交換後三箇月内ニ於テスヘシ但シ次條ニ載スル所ノ規定ニ從フヘキモノトス

第八條 清國ハ本約ノ規定ヲ誠實ニ施行スヘキ擔保トシテ日本國軍隊ノ一時山東省威海衛ヲ占領スルコトヲ承諾ス而シテ本約ニ規定シタル軍費賠償金ノ初回次回ノ拂込ヲ了リ通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル時ニ當リテ清國政府ニテ右賠償金ノ殘額ノ元利ニ對シ充分適當ナル取極ヲ立テ清國海關税ヲ以テ抵當ト爲スコトヲ承諾スルニ於テハ日本國ハ其ノ軍隊ヲ前記ノ場處ヨリ撤回スヘシ若又之ニ關シ充分適當ナル取極立タサル場合ニハ該賠償金ノ最終回ノ拂込ヲ了リタル時ニ非サレハ撤回セサルヘシ尤通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル後ニ非サレハ軍隊ノ撤回ヲ行ハサルモノト承知スヘシ

第九條 本約批准交換ノ上ハ直チニ其ノ時現ニ有ル所ノ俘虜ヲ還附スヘシ而シテ清國ハ日本國ヨリ斯ク還附セラレタル所ノ俘虜ヲ虐待若ハ處刑セサルヘキコトヲ約ス
日本國臣民ニシテ軍事上ノ間諜若ハ犯罪者ト認メラレタルモノハ清國ニ於テ直チニ解放スヘキコトヲ約シ清國ハ又交戰中日本國軍隊ト種々ノ關係ヲ有シタル清國臣民ニ對シ如何ナル處刑ヲモ爲サス又之ヲ爲サシメサルコトヲ約ス

第十條 本約批准交換ノ日ヨリ攻戰ヲ止息スヘシ

第十一條 本約ハ大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ

 右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ茲ニ記名調印スルモノナリ

 明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵
伊藤博文 (記名) 印 
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵
陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋大臣
直隷總督一等肅毅伯
李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣
李經方 (記名) 印

(註)附屬地圖ハ之ヲ略ス

議定書

明治二八年(一八九五年)四月一七日下ノ關ニ於テ署名
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布
大日本國皇帝陛下ノ政府及大清國皇帝陛下ノ政府ハ本日調印シタル媾和條約中ノ意義ニ付將來誤解ヲ生スルコトヲ避ケムト欲スル目的ヲ以テ雙方ノ全權大臣ハ左ノ約定ニ同意セリ
第一、本日調印セシ媾和條約ニ附スル所ノ英譯文ハ該條約ノ日本文本文及漢文本文ト同一ノ意義ヲ有スルモノタル事ヲ約ス
第二、若該條約ノ日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釋ヲ異ニシタルトキハ前記英譯文ニ依テ決裁スヘキコトヲ約ス
第三、左ニ記名スル所ノ全權大臣ハ本議定書ハ本日調印シタル媾和條約ト同時ニ各兩帝國政府ニ提供シ而シテ該條約批准セラルルトキハ本議定書ニ掲載スル所ノ諸約定モ別ニ正式ノ批准ヲ要セスシテ亦兩帝國政府ノ可認セシモノト看做スヘキコトヲ約ス
右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ
明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵
伊藤博文 (記名) 印
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵
陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋
大臣直隷總督一等肅毅伯
李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣
李經方 (記名) 印

別約

明治二八年(一八九五年)四月一七日下ノ關二於テ調印
明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准
明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布

第一條 本日調印シタル媾和條約第八條ノ規定ニ依リテ一時威海衛ヲ占領スヘキ日本國軍隊ハ一旅團ヲ超過セサルヘシ而シテ該條約批准交換ノ日ヨリ清國ハ毎年右一時占領ニ關スル費用ノ四分ノ一庫平銀五十萬兩ヲ支拂フヘシ

第二條 威海衛ニ於ケル一時占領地ハ劉公嶋及威海衛灣ノ全沿岸ヨリ日本里數五里ヲ以テ其ノ區域ト爲スヘシ
右一時占領地ノ經界線ヲ距ルコト日本里數五里ノ地内ニ在リテハ何レノ所タリトモ清國軍隊ノ之ニ近ツキ若ハ之ヲ占領スルコトヲ許ササルヘシ

第三條 一時占領地ノ行政事務ハ仍ホ清國官吏ノ管理ニ歸スルモノトス但シ清國官吏ハ常ニ日本國占領軍司令官カ其ノ軍隊ノ健康安全紀律ニ關シ又ハ之カ維持配置上ニ付必要ト認メ發スル所ノ命令ニ服從スヘキ義務アルモノトス
一時占領地内ニ於テ犯シタル一切ノ軍事上ノ罪科ハ日本國軍務官ノ裁判管轄ニ屬スルモノトス
此ノ別約ハ本日調印シタル媾和條約中ニ悉ク記入シタルト同一效力ヲ有スルモノトス
右證據トシテ兩帝国全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ

明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵
伊藤博文 (記名) 印
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵
陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋
大臣直隷總督一等肅毅伯
李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣
李經方 (記名) 印

  外務省編「日本外交年表竝主要文書」上巻より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)上野公園に博物館(現在の東京国立博物館)が開館する詳細
上野公園に博物館附属動物園(上野動物園)が開館する詳細
1883年(明治16)自由民権運動への弾圧となる高田事件(新潟県)が起こる詳細
1906年(明治38)上野公園内に帝国図書館の新館庁舎(現:国際子ども図書館)が竣工、移転し、開館式が挙行される詳細
1914年(大正3)東京の上野公園等で「東京大正博覧会」が開幕する詳細
1935年(昭和10)日本画家速水御舟の命日詳細
1956年(昭和31)秋田県で第二次能代大火が起き、市街の三分の一となる1,475棟を焼失する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

koukaikaisen01
 今日は、明治時代後期の1894年(明治27)に、日清戦争において、日本軍連合艦隊と清国軍北洋艦隊が黄海海戦を戦い、日本軍が勝って制海権を獲得した日です。
 黄海海戦(こうかいかいせん)は、明治時代後期の1894年(明治27)に、日清戦争において、日本軍連合艦隊と清国軍北洋艦隊が黄海北部で戦った海戦で、鴨緑江海戦とも呼ばれています。日本軍連合艦隊14隻(約4万トン)と清国軍北洋艦隊18隻(約3万5000トン)が交戦し、北洋艦隊は5隻を撃沈され、巨艦定遠・鎮遠も大破したものの、連合艦隊は大破2隻の他は、被害軽微に終わりました。
 世界最初の甲鉄汽走艦隊の決戦でも後の近代的海軍用兵への端緒をなしたとされます。この結果、日本は制海権を掌握して朝鮮への陸軍の輸送を安全にし、ほぼ同時に行われた平壌の戦いと共に、日清戦争の勝敗を分けた戦いとなりました。

〇日清戦争(にっしんせんそう)とは?

 明治時代中頃の1894年(明治27)夏~1895年(明治28)4月17日まで、日本と清国の間で、朝鮮支配をめぐって行われた戦争です。1894年(明治27)1月上旬に、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し、大規模な農民反乱が勃発し、これに手を焼いた朝鮮政府は、6月に農民反乱鎮圧のため清国に援兵を依頼しました。
 この状況下で、日本は日清間で結ばれた「天津条約」に基づき、これに対抗して出兵します。これを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めました。
 しかし、日本は朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る一方で、イギリスとの条約改正(日英通商航海条約)に成功して同国の援助を期待し得る状況をつくります。その上で、清国との開戦を閣議決定し、ソウルの王宮を占領して親日派の大院君政権をつくりました。
 これによって、清国との関係は険悪化し、7月25日に仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかけ、陸上でも朝鮮の成歓、牙山を占領し、実質的な開戦へと至ります。8月1日には、「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、正式に宣戦が布告され、陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領、海軍も9月には黄海海戦に勝って制海権を握りました。
 翌年2月には威海衛軍港陸岸を占領し、清国の北洋艦隊を降伏させ、3月に入ると牛荘、営口、澎湖列島を占領します。この中で、列国の講和勧告が相次ぎ、朝鮮でも抗日反乱が再起、清国からの講和打診もあって、3月下旬から下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文、陸奥宗光との間で講和会議が開始されました。
 4月17日には、「下関条約(日清講和条約)」に調印しましたが、①清国が朝鮮の独立を承認すること、②遼東半島、台湾、澎湖島を清国から分割、日本の領土とすること、③清国は賠償金2億両(テール)(約3億円)を支払うこと、④沙市、重慶、蘇州、杭州を開市・開港するほか、欧米諸国が清国にもっている通商上の特権を日本にも認めることなどが取り決められます。しかし、この6日後にロシア、ドイツ、フランスからいわゆる三国干渉を受け、5月4日には、日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとなりました。
 これによって、日本は欧米資本主義列強と並び、極東での覇権を争うようになったとされますが、死者1万7,000人、戦費約2億円にのぼっています。

☆日清戦争関係略年表

<1893年(明治26)>

・4月 参謀本部次長川上操六に清国・朝鮮を視察させる

<1894年(明治27)>

・1月上旬 重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し大規模な農民反乱が勃発する
・5月 朝鮮では甲午農民戦争が勃発、朝鮮政府は日本亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれて、上海に誘い出して暗殺する
・6月 農民反乱鎮圧のため朝鮮政府は鎮圧のために清国と、次いで日本に援兵を依頼する
・6月5日 大本営を設置する
・6月12日 日本軍は仁川に上陸する
・6月24日 朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る
・7月14日 日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達する
・7月16日 イギリスとの条約改正の調印に成功する(日英通商航海条約)
・7月17日 清国との開戦を閣議決定する
・7月23日 ソウルの王宮を占領し、親日派の大院君政権をつくる
・7月25日、仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかける
・7月29日 牙山の北東、成歓で清国軍を打ち破る
・7月30日 牙山を占領する
・8月1日 「日清戦争宣戦の詔書」が発せられる
・9月14~15日 平壌の戦いで日本軍が勝つ
・9月17日 連合艦隊と北洋艦隊が黄海海戦を戦い、日本軍が勝って制海権を獲得する
・10月24~25日 日本軍は鴨緑江を渡って満州に入る
・11月19日 旅順を占領する
・11月 遼東半島の旅順、大連を占領する

<1895年(明治28)>

・1月 清国が講和使節を日本に送ってくる
・2月2日 威海衛軍港陸岸を占領する
・2月12日 清国の北洋艦隊が降伏する
・3月 遼東半島を完全に制圧し、さらに南方の台湾占領に向かう
・3月下旬 下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文,陸奥宗光との間に講和会議が開始される
・3月24日 清国全権李鴻章が日本人暴漢に狙撃され負傷する突発事件が起こる
・3月26日 澎湖列島を占領する
・3月30日 日本政府は周章して休戦に応じる
・4月17日 下関講和条約に調印する
・4月23日 ロシア,ドイツ,フランスからいわゆる三国干渉を受ける
・5月4日 日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとする
・5月8日 中国の芝罘(チーフー)で批准書の交換を行なう
・5月下旬 日本軍は領有権を得た台湾に上陸する
・11月下旬 台湾全土の平定を終えた後に行政機構を敷く

<1896年(明治29)>

・4月1日 台湾の軍政が民政へと移行されたのをみて、大本営が解散する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1062年(康平4)源頼義が安倍貞任を厨川の柵で破り、前九年の役が終結する(新暦10月22日)詳細
1867年(慶応3)俳人・歌人正岡子規の誕生日(新暦10月14日)詳細
1868年(明治元)日本初の洋式燈台である観音崎灯台が起工する(新暦11月1日)詳細
1938年(昭和13)俳人村上鬼城の命日(鬼城忌)詳細
1945年(昭和20)枕崎台風が枕崎に上陸、日本を縦断し、死者・行方不明者3,758人が出る詳細
満蒙開拓団の中で、瑞穂村開拓団集団自決が起き、495人が亡くなる詳細
1964年(昭和39)日本初の旅客用モノレールとなる東京モノレール(羽田空港~浜松町)が開業する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

nittshinsensou01

 今日は、明治時代中頃の1894年(明治27)に、「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、日清戦争に対して正式に宣戦が布告された日です。
 日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27)夏~1895年(明治28)4月17日まで、日本と清国の間で、朝鮮支配をめぐって行われた戦争でした。1894年(明治27)1月上旬に、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し、大規模な農民反乱が勃発し、これに手を焼いた朝鮮政府は、6月に農民反乱鎮圧のため清国に援兵を依頼しました。この状況下で、日本は日清間で結ばれた「天津条約」に基づき、これに対抗して出兵します。
 これを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めました。しかし、日本は朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る一方で、イギリスとの条約改正(日英通商航海条約)に成功して同国の援助を期待し得る状況をつくります。
 その上で、清国との開戦を閣議決定し、ソウルの王宮を占領して親日派の大院君政権をつくりました。これによって、清国との関係は険悪化し、7月25日に仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかけ、陸上でも朝鮮の成歓、牙山を占領し、実質的な開戦へと至ります。
 8月1日には、「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、正式に宣戦が布告され、陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領、海軍も9月には黄海海戦に勝って制海権を握りました。翌年2月には威海衛軍港陸岸を占領し、清国の北洋艦隊を降伏させ、3月に入ると牛荘、営口、澎湖列島を占領します。
 この中で、列国の講和勧告が相次ぎ、朝鮮でも抗日反乱が再起、清国からの講和打診もあって、3月下旬から下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文、陸奥宗光との間で講和会議が開始されました。4月17日には、「下関講和条約」に調印しましたが、①清国が朝鮮の独立を承認すること、②遼東半島、台湾、澎湖島を清国から分割、日本の領土とすること、③清国は賠償金2億両(テール)(約3億円)を支払うこと、④沙市、重慶、蘇州、杭州を開市・開港するほか、欧米諸国が清国にもっている通商上の特権を日本にも認めることなどが取り決められます。
 しかし、この6日後にロシア、ドイツ、フランスからいわゆる三国干渉を受け、5月4日には、日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとしました。これによって、日本は欧米資本主義列強と並び、極東での覇権を争うようになったとされますが、死者1万7,000人、戦費約2億円にのぼっています。
 以下に、「日清戦争宣戦の詔書」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日清戦争宣戦の詔書」 1894年(明治27)8月1日

天佑ヲ保全シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ清國ニ對シテ戦ヲ宣ス朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ意ヲ體シ陸上ニ海面ニ清國ニ對シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ國家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ苟モ國際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ應シテ一切ノ手段ヲ盡スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ
惟フニ朕カ即位以来茲ニ二十餘年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外國ニ構フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列國ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ何ソ料ラム清國ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ對シテ着着隣交ニ戻リ信義ヲ失スルノ舉ニ出テムトハ
朝鮮ハ帝國カ其始ニ啓誘シテ列國ノ伍伴ニ就カシメタル獨立ノ一國タリ而シテ清國ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト稱シ陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ朕ハ明治十五年ノ條約ニ依リ兵ヲ出シテ變ニ備ヘシメ更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ清國ニ告クルニ協同事ニ従ハムコトヲ以テシタルニ清國ハ翻テ種々ノ辞柄ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ帝國ハ是ニ於テ朝鮮ニ勧ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ内ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ獨立國ノ權義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ清國ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辞ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更ニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ殆ト亡状ヲ極メタリ則チ清國ノ計図タル明ニ朝鮮國治安ノ責ヲシテ歸スル所アラサシメ帝國カ率先シテ之ヲ諸獨立國ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ條約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝國ノ權利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク擔保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス熟々其ノ為ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ實ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝國ノ光榮ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠實勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝國ノ光榮ヲ全クセムコトヲ期ス

御名陸仁 御璽

明治二十七年八月一日

内閣総理大臣 伯爵 伊藤博文
逓信大臣 伯爵 黒田清隆
海軍大臣 伯爵 西郷従道
内務大臣 伯爵 井上馨
陸軍大臣 伯爵 大山巖
農商務大臣 子爵 榎本武揚
外務大臣 陸奥宗光
大藏大臣 渡邉國武
文部大臣 井上毅
司法大臣 芳川顕正

☆日清戦争関係略年表

<1893年(明治26)>

・4月 参謀本部次長川上操六に清国・朝鮮を視察させる

<1894年(明治27)>

・1月上旬 重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し大規模な農民反乱が勃発する
・5月 朝鮮では甲午農民戦争が勃発、朝鮮政府は日本亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれて、上海に誘い出して暗殺する
・6月 農民反乱鎮圧のため朝鮮政府は鎮圧のために清国と、次いで日本に援兵を依頼する
・6月5日 大本営を設置する
・6月12日 日本軍は仁川に上陸する
・6月24日 朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る
・7月14日 日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達する
・7月16日 イギリスとの条約改正の調印に成功する(日英通商航海条約)
・7月17日 清国との開戦を閣議決定する
・7月23日 ソウルの王宮を占領し、親日派の大院君政権をつくる
・7月25日、仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかける
・7月29日 牙山の北東、成歓で清国軍を打ち破る
・7月30日 牙山を占領する
・8月1日 「日清戦争宣戦の詔書」が発せられる
・9月14~15日 平壌の戦いで日本軍が勝つ
・9月17日 連合艦隊と北洋艦隊が黄海海戦を戦い、日本軍が勝って制海権を獲得する
・10月24~25日 日本軍は鴨緑江を渡って満州に入る
・11月19日 旅順を占領する
・11月 遼東半島の旅順、大連を占領する

<1895年(明治28)>

・1月 清国が講和使節を日本に送ってくる
・2月2日 威海衛軍港陸岸を占領する
・2月12日 清国の北洋艦隊が降伏する
・3月 遼東半島を完全に制圧し、さらに南方の台湾占領に向かう
・3月下旬 下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文,陸奥宗光との間に講和会議が開始される
・3月24日 清国全権李鴻章が日本人暴漢に狙撃され負傷する突発事件が起こる
・3月26日 澎湖列島を占領する
・3月30日 日本政府は周章して休戦に応じる
・4月17日 下関講和条約に調印する
・4月23日 ロシア,ドイツ,フランスからいわゆる三国干渉を受ける
・5月4日 日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとする
・5月8日 中国の芝罘(チーフー)で批准書の交換を行なう
・5月下旬 日本軍は領有権を得た台湾に上陸する
・11月下旬 台湾全土の平定を終えた後に行政機構を敷く

<1896年(明治29)>

・4月1日 台湾の軍政が民政へと移行されたのをみて、大本営が解散する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1810年(文化7)江戸幕府の老中・下総佐倉藩主堀田正睦の誕生日(新暦8月30日)詳細
1885年(明治18)医師・詩人木下杢太郎の誕生日詳細
1907年(明治40)民俗学者・農村指導者・社会教育家宮本常一の誕生日詳細
1912年(大正元)日本初の労働組合である友愛会が結成される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ryoutouhantou02

 今日は、明治時代後期の1895年(明治28)に、ロシア、ドイツ、フランス3国公使が外務省を訪れ、「露佛獨三國の遼東半島遷付勸吿」(いわゆる三国干渉)がなされた日です。
 「露佛獨三國の遼東半島遷付勸吿(ろふつどくさんごくのりょうとうはんとうかんぷかんこく)」は、ロシア、ドイツ、フランス3国の公使が外務省を訪れ、遼東半島(奉天半島)を日本が所有することは、清国の首府を危うくし、朝鮮の独立を有名無実とし、極東の平和に障害となるから、その領有を放棄すべしとの勧告(いわゆる三国干渉)でした。日清戦争後の講和に関わる1895年(明治28)4月17日調印(4月20日批准)の「下関条約」(日清講和条約)の結果、一旦は日本への割譲が決定した遼東半島(奉天半島)でしたが、6日後の4月23日にこのロシア・フランス・ドイツ3国の勧告が行われます。
 翌24日、大本営の置かれていた広島で急遽御前会議が開催されて対策が協議されたものの、当時の日本の国力では三国に対抗できないと判断され、5月4日に遼東半島(奉天半島)の放棄を決定、翌日3国に通告、10日には天皇が詔勅でその旨を国民に告げました。そして、日清両国は同年11月8日に「奉天半島還付条約」に調印(12月3日公布)し、①日本は清国に遼東半島(奉天半島)を返還する、②清国は1895年11月16日に返還の代償金として日本側に銀三千万両を支払う、③代償金の受け渡しの日から3ヶ月以内に日本軍が遼東半島(奉天半島)から撤退することを約します。
 その後、1898年(明治31)3月にロシアは清と「旅順港・大連湾租借に関する露清条約」を結び、遼東半島(奉天半島)に鉄道を繋げ、軍港を建設することになり、のちの日露戦争の伏線となりました。
 以下に、「露佛獨三國の遼東半島遷付勸吿」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「露佛獨三國の遼東半島遷付勸吿」(露仏独三國の遼東半島遷付勧告) 1895年4月23日

(イ)露國公使ヨリノ勸吿覺書

 露國皇帝陛下ノ政府ハ日本ヨリ淸國ニ向テ求メタル媾和條件ヲ査閱スルニ其要求ニ係ル遼東半島ヲ日本ニテ所有スルコトハ常ニ淸國ノ都ヲ危フスルノミナラス之ト同時ニ朝鮮國ノ獨立ヲ有名無實トナスモノニシテ右ハ將來永ク極東永久ノ平和ニ對シ障害ヲ與フルモノト認ム隨テ露國政府ハ日本國皇帝陛下ノ政府ニ向テ重テ其誠實ナル友誼ヲ表センカ爲メ茲ニ日本國政府ニ勸吿スル遼東半島ヲ確然領有スルコトヲ放棄スヘキコトヲ以テス

(ロ)佛國公使ヨリノ勸吿

佛蘭西共和國政府ノ意見ニテハ遼東半島ヲ領有スルコトハ淸國ノ都ヲ危フシ朝鮮國ノ獨立ヲ有名無實ニ歸セシメ且ツ永ク極東ノ平和ニ對シ障害ヲ與フルモノナリトス

佛蘭西共和國政府ハ重ネテ茲ニ日本帝國政府ニ對スル友情ヲ彰表セント欲スルカ故ニ帝國政府ニ向テ該半島ヲ確然所有スルコトヲ放棄アリ度旨友誼上ノ勸吿ヲ與フルコトハ佛國政府ノ義務ナリト思考ス

(ハ)獨國公使ヨリノ勸吿

本國政府ノ訓令ニ從テ左ノ宣言ヲ致シマス獨逸國政府カ日淸媾和ノ條件ヲ見レハ貴國ヨリ請求シタル遼東ノ所有ハ淸國ノ都府ヲシテ何時迄モ不安全ノ位置ニ置キ且朝鮮ノ獨立ヲモ水泡ニ屬サセ依テ東洋平和ノ永續ノ妨ケニナルコトテアルト認メナケレハナリマセヌ夫故ニ貴國政府カ遼東ノ永久ナル所有ヲ斷念ナサル樣ニ本政府カ御勸吿致シマス

此ノ宣言ニ付キマシテ次ノコトヲ申上ル樣ニ云ヒ付ケラレマシタ現今日淸事件ノ最初ヨリ本國政府カ貴國ニ對シテ其懇親ナル心ノ證據ヲ顯ハシタル唯一度ノ事テナイト存シテ居リマス御承知ノ通リニ昨年十月七日ニモ英國政府カ歐洲各國ニ日淸事件ニ干涉スルコトヲ申込ンタカ其節獨逸國カ日本國ニ對シテノ懇篤ニ依テ干涉ヲ斷リマシタ夫カラ又當年三月八日ヲ以テ本公使カ本國政府ノ命令ニ從テ貴國政府カ夥多ノ請求ヲ爲サラナイテ成ルヘク早ク媾和ヲ結フ樣ニ御勸吿致シマシタ其時ニ申上ケマシタノハ歐洲ノ諸國カ淸國ノ願ヒニ應シテ干涉致スカモ計ラレマセヌト云フコトニ依テ日本國ハ若シ夥多ノ請求ヲセスシテ早速媾和條約ヲ締結ナサルナラ却テ其方カ利益カ有ルテアロウト云フコトテコサイマシタ夫レニ續テ日本國若シ大陸ノ土地ノ讓渡ヲ要求スレハ之レハ最モ干涉ヲ惹起スヘキ要求テアルタロウト申述マシテモ貴國テハ此ノ利己心ナキ勸吿ニ應シマセンテコサイマシタ

現在ノ日淸媾和ノ條件ハ全ク度ニ過キテ歐洲諸國ノ利益上ニト竝ニ譬幾分カハ少ナシト雖モ亦獨逸國ノ利益上ニモ害カアルト認マス夫レ故ニ現今ハ本國皇帝陛下ノ政府モ倶ニ抗議ヲ提出シナケレハナリマセヌ且ツ必要カアル場合ニハ其抗議ヲシテ有效ニナラシメルコトモアリマシヨウ三國ニ對スル戰ハ所詮日本國ニ望ミノナイコトテアルカ故ニ貴國此事件ニ付キマシテハ讓ルコトカ出來ナイコトハナカロウト存シテ居リマス尙ホ日本政府カ名譽ヲ失フコトナクシテ今ノ地位ヨリ退ソクコトノ途ヲ講スル爲メニ「コンフエレンス」ヲ開ク等ノコトヲ望マルレハ其旨ヲ電報ニテ本國政府へ送レト云フ內訓ヲモ受ケテ居リマス

   「日本外交年表竝主要文書上巻」外務省編

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「子供読書の日」です詳細
1265年(文永2)第92代の天皇とされる伏見天皇の誕生日(新暦5月10日)詳細
1875年(明治8)日本画家上村松園の誕生日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

nittshinkouwajyouyaku01

 今日は、明治時代後期の1895年(明治28)に、日清戦争講和の為の「下関条約」(日清講和条約)が調印された日です。
 「下関条約(しものせきじょうやく)」は、日清戦争で日本が清国に勝利したことにより、山口県赤間関市(現在の下関市)の春帆楼での講和会議を経て、調印された条約で、調印者は、日本側全権が伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権が李鴻章・李経方でした。正式名称は「日清講和条約」で、馬関条約とも言われましたが、同年の5月8日に批准書が交換されて発効しています。
 その内容は、前文と11ヶ条がらなり、(1)朝鮮の独立承認、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、(3)軍費賠償金2億両[テール](日本円で約3億円)の支払い、(4)沙市・重慶・蘇州・杭州の開市と開市・開港地における製造業従事権の承認、(5)揚子江航行権を与えること、(6)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権(日本の治外法権、片務的協定関税率)を日本に認める新条約の締結などとなっていました。尚、調印直後にロシア、ドイツ、フランスのいわゆる三国干渉がなされ、日本は遼東半島を清国に還付しましたが、その代償として3,000万両[テール]を得ています。
 この条約で得た賠償金2億両[テール]と遼東還付金の3,000万両[テール]は、軍備と工業化の資金となり、また金本位制度に移行する資金ともなりました。
 以下に、「下関条約」(日清講和条約)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「下関条約」(日清講和条約) 1895年(明治28)4月17日調印、5月8日批准書交換

日清媾和條約

明治二八年(一八九五年)四月一七日下關ニ於テ調印
明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准
明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布

大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ回復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勲一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勲一等子爵陸奧宗光ヲ大清國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隷總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ

第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無缼ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

第二條 清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス
 一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地
鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、營口ニ亙リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ
遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼
 二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼
 三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼

第三條 前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日清兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ
該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ
但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日清兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界ヲ維持スヘシ

第四條 清國ハ軍費賠償金トシテ庫平銀二億兩ヲ日本國ニ支拂フヘキコトヲ約ス右金額ハ都合八回ニ分チ初回及次回ニハ毎回五千萬兩ヲ支拂フヘシ而シテ初回ノ拂込ハ本約批准交換後六箇月以内ニ次回ノ拂込ハ本約批准交換後十二箇月以内ニ於テスヘシ殘リノ金額ハ六箇年賦ニ分チ其ノ第一次ハ本約批准交換後二箇年以内ニ其ノ第二次ハ本約批准交換後三箇年以内ニ其ノ第三次ハ本約批准交換後四箇年以内ニ其ノ第四次ハ本約批准交換後五箇年以内ニ其ノ第五次ハ本約批准交換後六箇年以内ニ其ノ第六次ハ本約批准交換後七箇年以内ニ支拂フヘシ又初回拂込ノ期日ヨリ以後未タ拂込ヲ了ラサル額ニ對シテハ毎年百分ノ五ノ利子ヲ支拂フヘキモノトス但シ清國ハ何時タリトモ該賠償金ノ全額或ハ其ノ幾分ヲ前以テ一時ニ支拂フコトヲ得ヘシ如シ本約批准交換後三箇年以内ニ該賠償金ノ總額ヲ皆濟スルトキハ總テ利子ヲ免除スヘシ若夫迄ニ二箇年半若ハ更ニ短期ノ利子ヲ拂込ミタルモノアルトキハ之ヲ元金ニ編入スヘシ

第五條 日本國ヘ割興セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スルモノハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニ因リ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ
日清兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ

第六條 日清兩國間ノ一切ノ條約ハ交戰ノ爲メ消滅シタレハ清國ハ本約批准交換ノ後速ニ全權委員ヲ任命シ日本國全權委員ト通商航海條約及陸路交通貿易ニ關スル約定ヲ締結スヘキコトヲ約ス而シテ現ニ清國ト歐洲各國トノ間ニ存在スル諸條約章程ヲ以テ該日清兩國間諸條約ノ基礎ト爲スヘシ又本約批准交換ノ日ヨリ該諸條約ノ實施ニ至ル迄ハ清國ハ日本國政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民ニ對シ總テ最惠國待遇ヲ與フヘシ清國ハ右ノ外左ノ讓與ヲ爲シ而シテ該讓與ハ本約調印ノ日ヨリ六箇月ノ後有效ノモノトス
 第一 清國ニ於テ現ニ各外國ニ向テ開キ居ル所ノ各市港ノ外ニ日本國臣民ノ商業住居工業及製造業ノ爲メニ左ノ市港ヲ開クヘシ但シ現ニ清國ノ開市場開港場ニ行ハルル所ト同一ノ條件ニ於テ同一ノ特典及便益ヲ享有スヘキモノトス
  一 湖北省荊州府沙市
  二 四川省重慶府
  三 江蘇省蘇州府
  四 浙江省杭州府
  日本國政府ハ以上列記スル所ノ市港中何レノ處ニモ領事官ヲ置クノ權利アルモノトス
 第二 旅客及貨物運送ノ爲メ日本國汽船ノ航路ヲ左記ノ場所ニ迄擴張スヘシ
  一 揚子江上流湖北省宜昌ヨリ四川省重慶ニ至ル
  二 上海ヨリ呉淞江及運河ニ入リ蘇州杭州ニ至ル
  日清兩國ニ於テ新章程ヲ妥定スル迄ハ前記航路ニ關シ適用シ得ヘキ限ハ外國船舶清國内地水路航行ニ關スル現行章程ヲ施行スヘシ
 第三 日本國臣民カ清國内地ニ於テ貨品及生産物ヲ購買シ又ハ其ノ輸入シタル商品ヲ清國内地ヘ運送スルニハ右購買品又ハ運送品ヲ倉入スル爲メ何等ノ税金取立金ヲモ納ムルコトナク一時倉庫ヲ借入ルルノ權利ヲ有スヘシ
 第四 日本國臣民ハ清國各開市場開港場ニ於テ自由ニ各種ノ製造業ニ從事スルコトヲ得ヘク又所定ノ輸入税ヲ拂フノミニテ自由ニ各種ノ器械類ヲ清國ヘ輸入スルコトヲ得ヘシ
  清國ニ於ケル日本國臣民ノ製造ニ係ル一切ノ貨品ハ各種ノ内國運送税内地賦課金取立金ニ關シ又清國内地ニ於ケル倉入上ノ便益ニ關シ日本國臣民カ清國ヘ輸入シタル商品ト同一ノ取扱ヲ受ケ且同一ノ特典免除ヲ享有スヘキモノトス
  此等ノ讓與ニ關シ更ニ章程ヲ規定スルコトヲ要スル場合ニハ之ヲ本條ニ規定スル所ノ通商航海條約中ニ具載スヘキモノトス

第七條 現ニ清國版圖内ニ在ル日本國軍隊ノ撤回ハ本約批准交換後三箇月内ニ於テスヘシ但シ次條ニ載スル所ノ規定ニ從フヘキモノトス

第八條 清國ハ本約ノ規定ヲ誠實ニ施行スヘキ擔保トシテ日本國軍隊ノ一時山東省威海衛ヲ占領スルコトヲ承諾ス而シテ本約ニ規定シタル軍費賠償金ノ初回次回ノ拂込ヲ了リ通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル時ニ當リテ清國政府ニテ右賠償金ノ殘額ノ元利ニ對シ充分適當ナル取極ヲ立テ清國海關税ヲ以テ抵當ト爲スコトヲ承諾スルニ於テハ日本國ハ其ノ軍隊ヲ前記ノ場處ヨリ撤回スヘシ若又之ニ關シ充分適當ナル取極立タサル場合ニハ該賠償金ノ最終回ノ拂込ヲ了リタル時ニ非サレハ撤回セサルヘシ尤通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル後ニ非サレハ軍隊ノ撤回ヲ行ハサルモノト承知スヘシ

第九條 本約批准交換ノ上ハ直チニ其ノ時現ニ有ル所ノ俘虜ヲ還附スヘシ而シテ清國ハ日本國ヨリ斯ク還附セラレタル所ノ俘虜ヲ虐待若ハ處刑セサルヘキコトヲ約ス
日本國臣民ニシテ軍事上ノ間諜若ハ犯罪者ト認メラレタルモノハ清國ニ於テ直チニ解放スヘキコトヲ約シ清國ハ又交戰中日本國軍隊ト種々ノ關係ヲ有シタル清國臣民ニ對シ如何ナル處刑ヲモ爲サス又之ヲ爲サシメサルコトヲ約ス

第十條 本約批准交換ノ日ヨリ攻戰ヲ止息スヘシ

第十一條 本約ハ大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ

 右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ茲ニ記名調印スルモノナリ

 明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵
伊藤博文 (記名) 印 
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵
陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋大臣
直隷總督一等肅毅伯
李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣
李經方 (記名) 印

(註)附屬地圖ハ之ヲ略ス

議定書

明治二八年(一八九五年)四月一七日下ノ關ニ於テ署名
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布
大日本國皇帝陛下ノ政府及大清國皇帝陛下ノ政府ハ本日調印シタル媾和條約中ノ意義ニ付將來誤解ヲ生スルコトヲ避ケムト欲スル目的ヲ以テ雙方ノ全權大臣ハ左ノ約定ニ同意セリ
第一、本日調印セシ媾和條約ニ附スル所ノ英譯文ハ該條約ノ日本文本文及漢文本文ト同一ノ意義ヲ有スルモノタル事ヲ約ス
第二、若該條約ノ日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釋ヲ異ニシタルトキハ前記英譯文ニ依テ決裁スヘキコトヲ約ス
第三、左ニ記名スル所ノ全權大臣ハ本議定書ハ本日調印シタル媾和條約ト同時ニ各兩帝國政府ニ提供シ而シテ該條約批准セラルルトキハ本議定書ニ掲載スル所ノ諸約定モ別ニ正式ノ批准ヲ要セスシテ亦兩帝國政府ノ可認セシモノト看做スヘキコトヲ約ス
右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ
明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵
伊藤博文 (記名) 印
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵
陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋
大臣直隷總督一等肅毅伯
李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣
李經方 (記名) 印

別約

明治二八年(一八九五年)四月一七日下ノ關二於テ調印
明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准
明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布

第一條 本日調印シタル媾和條約第八條ノ規定ニ依リテ一時威海衛ヲ占領スヘキ日本國軍隊ハ一旅團ヲ超過セサルヘシ而シテ該條約批准交換ノ日ヨリ清國ハ毎年右一時占領ニ關スル費用ノ四分ノ一庫平銀五十萬兩ヲ支拂フヘシ

第二條 威海衛ニ於ケル一時占領地ハ劉公嶋及威海衛灣ノ全沿岸ヨリ日本里數五里ヲ以テ其ノ區域ト爲スヘシ
右一時占領地ノ經界線ヲ距ルコト日本里數五里ノ地内ニ在リテハ何レノ所タリトモ清國軍隊ノ之ニ近ツキ若ハ之ヲ占領スルコトヲ許ササルヘシ

第三條 一時占領地ノ行政事務ハ仍ホ清國官吏ノ管理ニ歸スルモノトス但シ清國官吏ハ常ニ日本國占領軍司令官カ其ノ軍隊ノ健康安全紀律ニ關シ又ハ之カ維持配置上ニ付必要ト認メ發スル所ノ命令ニ服從スヘキ義務アルモノトス
一時占領地内ニ於テ犯シタル一切ノ軍事上ノ罪科ハ日本國軍務官ノ裁判管轄ニ屬スルモノトス
此ノ別約ハ本日調印シタル媾和條約中ニ悉ク記入シタルト同一效力ヲ有スルモノトス
右證據トシテ兩帝国全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ

明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵
伊藤博文 (記名) 印
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵
陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋
大臣直隷總督一等肅毅伯
李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣
李經方 (記名) 印

  外務省編「日本外交年表竝主要文書」上巻より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

723年(養老7)開墾地の3代までの私有を認める「三世一身法」が発布される(新暦5月25日)詳細
1616年(元和2)武将・江戸幕府初代将軍徳川家康の命日(新暦6月1日)詳細
1918年(大正7)軍需工業動員法」が公布される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ