ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本資本主義発達史講座

nihonshihonshyugihattatsush
 今日は、昭和時代前期の1930年(昭和5)に、野呂栄太郎著『日本資本主義発達史』が鉄塔書院より刊行された日です。
 『日本資本主義発達史』(にほんしほんしゅぎはったつし)は、日本における資本主義の生成・発展をマルクス主義の立場から分析した経済書でした。日本における科学的歴史学の先駆をなすものとして、日本の『資本論』とも呼ばれ、日本資本主義発達史研究に大きな影響を与えたとされています。
 主に、明治維新以降の日本資本主義の発展過程とその構造的矛盾の分析に重点が置かれていて、明治維新期のブルジョア革命としての不徹底により、日本帝国主義によって、国内抑圧と中国侵略とを必然化させたのだとしました。これにより、専制的天皇制と地主的土地所有の廃止などを要求するブルジョア民主主義革命の遂行を日本革命の第一義の課題だとしています。
 この考え方は、1932年(昭和7)5月から翌年8月にかけて、野呂が編集人として、岩波書店から刊行され、マルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)に受け継がれました。
 以下に、『日本資本主義発達史』緒言の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇野呂栄太郎(のろ えいたろう)とは?

 大正時代から昭和時代前期に活躍した経済学者・社会運動家です。明治時代後期の1900年(明治33)4月30日に、北海道夕張郡長沼村(現在の長沼町)で、農場の管理人だった父・野呂市太郎、母・波留の長男として生まれました。
 1907年(明治40)に小学校へ入学しましたが、運動会でのけががもとで破傷風に罹り、2年生の時に右足を膝下から切断しています。1920年(大正9)に私立北海中学校を優秀な成績で卒業、上京して慶応義塾大学経済学部予科へ入学しましたが、肺結核にかかり、一時療養を余儀なくされました。
 その後、野坂参三の指導のもとにマルクス主義を研究、1922年(大正11)に慶応の学生による三田社会問題研究会の結成に参加し、翌年には日本学生連合会の東京連合会委員長となります。1925年(大正14)に小樽軍事教練事件に関わって検挙され、翌年にも学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件に連座して、10ヶ月の禁固刑を受けましたが、病気療養のために保釈され、産業労働調査所調査員として勤務しました。
 日本と世界の政治・経済の現状分析および日本資本主義発達史研究に従事し、猪俣津南雄などの日本資本主義論に厳しい批判を行いますが、1929年(昭和4)の四・一六事件で1ヶ月ほど拘束されます。同年にプロレタリア科学研究所創立にも参加、翌年には日本共産党に入党し、『日本資本主義発達史』を刊行しました。
 1932年(昭和7)にマルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わり、「講座派」を指導したものの、産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれています。地下活動に入り、1933年(昭和8)以後、共産党中央委員会責任者として活動していましたが、スパイの手引きで検挙され、1934年(昭和9年)2月19日に品川警察署での拷問により病状が悪化して、数え年33歳の若さで亡くなりました。

〇日本資本主義発達史講座(にほんしほんしゅぎはったつしこうざ)とは?

 昭和時代前期の1932年(昭和7)5月から翌年8月にかけて岩波書店から刊行された、日本の資本主義の歴史・経済・社会・文化の総合的研究書で、全7巻よりなっています。野呂栄太郎の監修のもとに、大塚金之助・山田盛太郎・平野義太郎・服部之総・羽仁五郎・小林良正・風早八十二ら30数名のマルクス主義理論家の執筆により、明治維新およびその後の日本資本主義の発達および現状の諸条件、その特質と矛盾を分析、日本資本主義を初めて総体的に解明することを目指しました。
 政府当局による検閲・発行禁止がしばしば行なわれ、第4回配本は発禁処分を受け、第5回配本以降も検閲当局による削除・改訂を余儀なくされましたが、一応完結しています。その内容を巡って、雑誌『労農』による、向坂逸郎、櫛田民蔵、猪俣津南雄ら(労農派)は、当時の国家権力を「帝国主義的ブルジョアの政治権力」と規定して論陣を張り、それに対し、『日本資本主義発達史講座』に依るメンバーは“講座派”と呼ばれ、資本家地主のブロック権力論に立ち、両者は、戦前の日本資本主義の現状認識をめぐって激しい論争(日本資本主義論争)を繰り広げました。
 これは、当時の社会科学研究者に大きな影響を与え、日本資本主義の現状分析が深化したとされ、太平洋戦争後の学術研究にも影響を与えています。

☆『日本資本主義発達史』緒言の冒頭部分

  緒言

 戦後世界資本主義は、就中ヨーロッパ資本主義は、その発展の第二期における一時的、相対的均衡の時期に至つて、過ぐる大戦中及びその直後の直接的革命の時期において、一旦低下せる生産の水準を、戦前のそれにまで恢復し、さらに一九二七年を轉機として却つてそれを突破するに至り、茲に発展の第三期を開始するに至つた。大戦参加の戦勝国としての政治的利益と中立国としての経済的利益とを併せ享有し得た米国及び日本の著大なる生産増加が、就中、この傾向を一層顕著にしてゐることは言ふまでもない。
 資本主義の生産は、たしかに、単に大戦前の水準を恢復したばかりでなく、今や明かに、それを突破して増加しつゝある。併し乍ら、この生産の顕著なる増大が、直ちに、労働の社会的生産力の発展と正確に一致し、少なくとも略々これと対応するものとさへ即断してはならない。資本主義世界に於ける今日の生産増大が、生産手段並に生産方法の技術的改善による労働の生産力の発達に負ふところあるは、疑ひもなく、真実である。併し乍ら、吾々は、資本主義的トラスト化、カルテル化の急激なる進行によつて、又所謂資本家的合理化の強行によつて逐行せられつゝある生産の増大が、他面においては、却つて巨大なる社会的生産力を破壊し、又労働の生産力の発展を阻止し、停滞せしめつゝあることを知らねばならぬ。それは、巨大なる失業群の急激なる増大により、労働者階級の生活水準の不断の低下によつてのみ可能にせられてゐる。従つて、かくして獲られた生産の増大は、既に国内市場関係において、生産と販路との矛盾を致命的に激化せしめねばならぬ。而も、労働の生産力の向上によるよりも、寧ろ労働の緊張度の増大によつて可能にせられつゝある今日の生産増大においては、個々の商品価値そのものに取り立てて言ふ程の低落のあり得ないことによつてばかりでなく、需要の相対的又は絶対的減少による市場価値低落の傾向に対して独占価格が反作用することによつて、市場価格は需要の減退にも拘はらず、顕著なる低落を見ることがない。この事は、生産と市場との矛盾を弥々激化せしめるばかりでなく、労働者、農民及び小市民の生活苦を益々堪へ難きものとし、彼等の多数を飢餓線に彷徨せしめてゐる。階級的諸対立は激化するばかりである。漸く昂まりつゝある経済闘争の波が、その益々政治闘争化しつゝあることが、これを立証してゐる。そして、これと共に、ブルジョア的階級支配は益々ファシズム化し、社会民主主義者は社会ファシスト化しつゝある。
 (後略)

  ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)元明天皇が平城京造営の詔を布告する(新暦3月11日)詳細
1239年(延応元)僧侶・時宗の開祖一遍の誕生日(新暦3月21日)詳細
1858年(安政5)水産増殖研究家・十和田湖開発の先駆者和井内貞行の誕生日(新暦3月29日)詳細
1872年(明治5)明治新政府が「地所永代売買ヲ許ス」を発布、「田畑永代売買禁止令」を廃止する(新暦3月23日)詳細
1877年(明治10)薩摩軍の一番隊が鹿児島を出発し、西南戦争(西南の役)が始まる詳細
1938年(昭和13)実業家で「電力王」とも呼ばれた福沢桃介の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ogurakinnosuke01
 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、数学者・数学史家・数学教育家・随筆家小倉金之助の生まれた日です。
 小倉金之助(おぐら きんのすけ)は、山形県飽海郡酒田町(現在の酒田市)において、回漕問屋を営む、父・小倉末吉、母・里江の長男として生まれました。1902年(明治35)に山形県荘内私立尋常中学校(現在の鶴岡南高校)を退学し、上京して東京物理学校全科に入学します。
 1905年(明治38)に卒業し、東京帝大理科大学化学科選科へ進んだものの、翌年には、家業を継ぐために中退して帰郷しました。家業のかたわら独力でできる学問として、数学を選び、林鶴一の指導で本格的研究を始めます。
 持船が沈没したのを機会に、家業をたたむ決心をし、全てを売り払い、1911年(明治44)に、新設の東北帝国大学理科大学数学科助手となりました。1916年(大正5)に東北帝国大学理科大学より微分幾何の研究「保存力場における経路」で理学博士を授与され、1917年(大正6)には大阪に移り、大阪医大に新設の塩見理化学研究所の研究員となります。
 1920年(大正9)にフランスへ留学し、「相対性理論」を研究、1922年(大正11)には帰国し、大阪医科大学予科教授となり、実用数学を講義しました。1923年(大正12)に『図計算及び図表』、1924年(大正13)に『数学教育の根本問題』、1925年(大正14)に『統計的研究法』を刊行し、同年には塩見理化学研究所の所長となります。
 1932年(昭和7)に大阪帝国大学理学部講師となり、『数学教育史』を刊行、唯物論研究会の発起人の一人ともなりました。1933年(昭和8)には、野呂栄太郎、平野義太郎等編『日本資本主義発達史講座』第4巻第2部資本主義発達史に自然科学史第1編数学史を執筆しています。
 1936年(昭和11)に「自然科学者の任務」を発表して軍国主義に反対、翌年には、塩見理化学研究所の所長を辞め、東京に移住し著作活動に入り、評論集『科学的精神と数学教育』を刊行し、唯物史観に基づく数学史の研究を進めました。1940年(昭和15)に東京物理学校理事長となり、『日本の数学』を刊行しましたが、1943年(昭和18)には、大阪帝国大学理学部講師と東京物理学校理事長を辞めています。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)から民主主義科学者協会会長、1948年(昭和23)から日本科学史学会会長、1951年(昭和26)から数学教育協議会会長などの要職を歴任しました。1956年(昭和31)に『近代日本の数学』で第10回毎日出版文化賞を受賞、翌年には第6回平和文化賞を受賞しています。
 1962年(昭和37)に日本数学史学会(和算研究の組織算友会が改称)会長となったものの、同年10月21日に東京において、77歳で亡くなりました。
 以下に、小倉金之助著『自然科学者の任務』を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇小倉金之助の主要な著作

・『図計算及び図表』(1923年)
・『数学教育の根本問題』(1924年)
・『統計的研究法』(1925年)
・翻訳『カジョリ初等数学史』(1928年)
・『数学教育史』(1932年)
・『数学史研究』第1集(1935年)
・評論集『科学的精神と数学教育』(1937年)
・『日本の数学』(1940年)
・『数学史研究』第2集(1948年)
・『近代日本の数学』(1956年)毎日出版文化賞受賞

☆小倉金之助関係略年表

・1885年(明治18)3月14日 山形県飽海郡酒田町(現在の酒田市)において、回漕問屋を営む、父・小倉末吉、母・里江の長男として生まれる
・1890年(明治23) 山形県酒田高等尋常小学校へ入学する
・1894年(明治27)10月 庄内大地震で家は焼失、小学校は倒壊する
・1898年(明治31) 小学校を卒業し、山形県荘内私立尋常中学校(現在の鶴岡南高校)へ入学する
・1902年(明治35) 山形県立荘内中学校を退学し、東京物理学校全科に入学する
・1905年(明治38) 東京物理学校全科を卒業し、東京帝大理科大学化学科選科へ進む
・1906年(明治39) 東京帝大理科大学化学科選科を家業を継ぐために中退する
・1911年(明治44) 新設の東北帝大理科大学数学科助手となる
・1916年(大正5) 東北帝国大学理科大学より微分幾何の研究「保存力場における経路」で理学博士を授与される
・1917年(大正6) 大阪に移り、大阪医大に新設の塩見理化学研究所の研究員となる
・1920年(大正9) フランスへ留学し、「相対性理論」を研究する
・1922年(大正11) 帰国し大阪医科大学予科教授となり、実用数学を講義する
・1923年(大正12) 『図計算及び図表』を刊行する 
・1924年(大正13) 『数学教育の根本問題』を刊行する 
・1925年(大正14) (財)塩見理化学研究所の所長となり、『統計的研究法』を刊行する
・1932年(昭和7) 大阪帝国大学理学部講師となり、『数学教育史』を刊行、唯物論研究会の発起人の一人となる
・1933年(昭和8) 野呂栄太郎、平野義太郎等編『日本資本主義発達史講座』第4巻第2部資本主義発達史に自然科学史第1編数学史を執筆する 
・1936年(昭和11) 「自然科学者の任務」を発表、軍国主義に反対する
・1937年(昭和12) (財)塩見理化学研究所の所長を辞め、東京に移住し著作活動に入り、評論集『科学的精神と数学教育』を刊行する
・1940年(昭和15) 東京物理学校理事長となり、『日本の数学』を刊行する
・1943年(昭和18) 大阪帝国大学理学部講師と東京物理学校理事長を辞める  
・1946年(昭和21) 民主主義科学者協会会長となる
・1948年(昭和23) 日本科学史学会会長となる
・1950年(昭和25) 民主主義科学者協会会長を辞任する
・1951年(昭和26) 数学教育協議会会長となる
・1953年(昭和28) 数学教育協議会会長を辞任する
・1956年(昭和31) 『近代日本の数学』で第10回毎日出版文化賞を受賞する
・1957年(昭和32) 第6回平和文化賞を受賞する
・1962年(昭和37) 日本数学史学会(和算研究の組織算友会が改称)会長となる
・1962年(昭和37)10月21日 東京において、77歳で亡くなる

〇『自然科学者の任務』小倉金之助著 「中央公論」昭和11年12月号所載

 はしがき
この小篇は、わが国に於ける自然科学の進展のために、私一個人としての立場から、種々の制約の下に許される限度に於て書かれた、一つの覚書である。整頓した論文ではなく、寧ろ自己を反省、批判したところの、率直なる感想録とも云うべきものである。それで現在の日本に於て実践の不可能と思われるような議論は、一切しなかった積りである。
 本文中、「自然科学者」の名の下に批判されるものは、自然科学者中の、云わば、典型的乃至平均的なる人々である。そこには例外を許すこと勿論である。
 私は狭隘ながらも、過去三十年間の見聞によって、一々論証し得る実際の材料を、相当豊富に持っているのであるが、それは他日の歴史的研究に譲り、この小文では示さないことにした。本文の目的は、何よりも先ず、わが先輩同僚たる自然科学者の反省を乞い、新なる協力を希望する点に存するのであるから、個人を傷つけるようなことは、絶対的に慎しんだつもりである。

 一
近代の自然科学は、生産技術の発展につれ、資本主義の成長と共に、順調なる発達の途を辿が、併し理論・技術の自らなる進歩につれて、自然科学者の仕事にも、微細なる専門的分裂が行われて来た。 「科学の唯一の目的は人間精神の名誉にある」 (ドイツのヤコビ)とか、 「数学は詩である」(イギリスのシルヴェスター)とか、或はまた「自然に悦びを感ずればこそ自然を研究する」 (フランスのポアンカレ)とか、斯る誇りを以て研究をつづけた時代は、今や漸く去らんとしている。
 現代に於ては、宛も工場労働者が、云わば自働機械となり果てて、彼等自身がその一部分を形成するところの、生産機構全体について無知であるように、自然科学の極端なる専門化は、科学者をして、彼等の活動の相互的聯関を見失わせるに至った。この意味に於ては、 「自然科学者」などは最早や存在しない。存在するものは、数学者、物理学者、化学者、等々ばかりである。否最新の段階にあっては、「数学者」なるものさえも、存在するか疑わしい。そこにあるものは、ただ代数学者であり、幾何学者である、等々。
 かような専門的畸型化は、自然科学の研究上必要なのであり、その専門的狭隘性の故を以て、決して徒らに非難せらるべきものではないのである。何故なら、自然科学に於ては、一見細微と思われるような特殊研究の深化から、価値高き理論が生れ、広大なる技術的改善を促す場合も、多々存在するのであるから。それ故に、かかる専門的畸型児も、現代に於ける必然的所産であり、科学の進展上、極めて重要の地位を占めることは、当然と言わねばならない。否吾々が何等かの程度に於て畸型化しない人間ならば、現代に於ては専門科学者と呼ばれるに値しないだろう。
 しかしながら、かかる「職業の白痴」は、科学者でありながら、一方科学的精神の容易に浸潤しない、精神的空虚を持つている。彼等はその専門を一歩出ずれば、最も非科学的なる迷信に囚われる。彼等は自己の専門的研究が演ずべき社会的役割についての意識を持たない。自らの身を守るためには、単なるエゴイストに化する。(それなればこそ、権力あるものに取っては、自然科学者ほど取扱易いものはないのである。)現代の社会機構の下にあっては、何等かの強い刺戟を受けない限り、自然科学者は、最善の場合に於ても、個人主義的自由主義者に終るのが、常道であったであろう。

 しかしながら、ファッシズムの嵐が暴れ狂いはじめた時、ヨーロッパの良心的なる科学者は、彼等自らの立場に於て、自覚せざるを得なかった。― ― ―見よ。ナチス・ドイツ(嘗てのヤコビの国)の科学政策は、科学の国際性の代りにドイツ精神を極度に誇張し、多数の自然科学者を放逐し、科学教育をして軍事的色彩を帯ばせているではないか。またイタリアにあっては、古典的精神の旗の下に、中等教科としての自然科学を虐待し、理科課程をして殆んど全滅に瀕せしめ、数学科を古典数育の精神に於て行わせる。これ即ち大衆をして、無知無識に陥し入れるものではないのか。― ― ―
 リベラリズムの長き伝統を負い、科学文化の根抵固きイギリス及びフランスの、良心的なる自然科学者は、本能的にファッシズムの敵であった。今や彼等は社会的に目覚めたのである。
 即ちフランスにあっては、一団の科学者― ― ―その中には現代第一流の科学者(ポアンカレの同僚)アダマール(数学) 、ランジュヴァン(物理学) 、ペラン(化学)等々を含む― ― ―が、反文化主義に抗して戦っている。保守を以て知られるイギリス(嘗てのシルヴェスターの国)に於ても、ケンブリッジに於ける諸科学者の宣言として、既に
 「科学の国際性獲得のために、妄言又は非科学的なる声明に抗するために、平和を望む總ての科学者によって、社会が護られなければならない。」
ことが、公表されたのであった。

 ファッシズムの嵐の襲来は、併しながら、外国のみのことではなかった。今やわが日本に於ても、わが国に特徴的な型を辿りつつ、反文化主義が刻々迫らんとしている。しかも此の危機を目前にしながら、わが自然科学者は如何なる態度を採っているか。
 彼等の談話を聞き、また所謂科学随筆の類を読む毎に、私は常に或る物足らなさを感じる。苟も現代の知識階級人ならば、何人にも共感すべき性質の根本問題に対して、彼等は甚だしく無感覚なるかの如くである。吾々は彼等から得手勝手な社会観や人生観を聴かされるが、それは彼等の思想の貧困を告白するものではあっても、決して彼等の思想の自由を意味するものではないと思う。矛盾だらけのもの、反動的のもの、非科学的のもの― ― ―これ等一切の低級なるものが、最新科学からの結論であると称して、聴かされる。そして反知主義に対する闘争の如き、科学者自身に取っても、真剣なるべき諸問題に触れることは、故意にこれを避けているかの如くである。
 これが果してわが自然科学者の典型的態度なのであろうか。われわれ日本人は、軍人としては、あんなにも勇敢なのに、自然科学者としては、こんなにも無気力なのであろうか。
 この疑問に答えるために、私は日本自然科学の特徴について、幾分かの歴史的考察を加えながら、多少の分析を試みようと思う。

 二
 明治維新の暁に際し、わが国に於ける根本的課題の一つは、日本を お如何にして先進諸国に追付かせるかの問題であった。それがために、わが政府は日本の急速なる資本主義化に向って、力を集注した。その意味に於て、自然科学は盛に移植され、熱心に奨励されたのである。しかしながら爾来、日本資本主義の発展は、ひとりわが生産力の順調なる進展によるもの許りではなかった。それは先ず内には、所謂半封建的とも呼ばれる所の、農村を基礎としていた。そして外には、戦争による植民地の獲得等を諸條件として、急激に拍車を加えたところの発展であった。それが為めに、わが社会機構の中には、封建的残滓が含まれているし、自由主義の如きは、十分なる育成を遂げ得なかった、かかる経済的・社会的・政治的状勢を反映して、自然科学の発達そのものの上にも、先進諸国のそれとは幾分趣を異にするものがある。
 かくて日本に於ける自然科学 お乃至科学界の特殊性として、次のものが挙げ得られよう。 
(1) わが国の後進性のために、移植科学としての模倣性が濃厚である。そのために科学的知識の理解が主となって、創造的分子が少い。知識の集成ではあり得ても、自ら科学するための科学的精神が、十分なる涵養・発達を途げていない傾向を持つ。
 勿論わが国にも、尊敬すべき独創的諸研究が現われたことは、争うべからざる事実ではあるが、しかし其れ そ等の多くは局部的である。公平に見て、真に諸分科の基礎となる研究が、果してどれ ら丈け行われたか、また現に行われつつあるかに就いては、大に検討の つ餘地がある。 よち動もすれば一部の流行を追うて、他の諸方面に於ける基本的研究を忘れる お如き偏向性がなかったとは、決して言い得ないであろう。
(2) しかも近代科学移植の日が未だ浅く、確乎たる科学の伝統を持たない。 (尤も、徳川時代に於ける和算や本草学などがあるけれども、これ等は、少くとも今日の現状では、現代日本の科学的伝統中に入らないと見做す方が、公平な観察であろう。 )のみならず日本資本主義の跛行的進展のために、国民大衆特に農民の如きは、未だ身を以て、十分に科学文化に接触していない。科学文化は、根抵的には、未だ十分に普及していないのである。その結果として、国民大衆のみならず、科学者それ自身に取っても、現実の事象に対する科学的考察について、未熟なるを免れ得ないであろう。
(3) 今日は、軍事関係の諸科学が、著しく偏重されているが、それは併し、決して今日に始まったことではなかった。軍事科学の偏重は、幕末・明治以来のことであり。それは日本資本主義の成立・発展の上に、重大なる役割を演じたものである。
 しかし一面に於て、軍事科学は其の性質上、多くは不生産的のものたるを免れない。それは研究の秘密性と相俟って、それに投ぜられる巨大の経費は、科学全般の進展上、効果的であるよりも、寧ろそれに跛行性を与える。これと類似のものに、資本家の独占的・非公開的なる技術的研究がある。そして大資本家や軍部のためには、各種科学研究機関のラボラトリーは開かれても、大衆のためには、ラボラトリーは勿論、図書館さえも(専門的のものは) 、多くは閉鎖されている。
(4) 明治維新の後、自然科学が官立諸学府の下に於て、研究され独占されて以来、一方では研究設備費の関係上、民間の学校としては有力なもの少く、研究所と雖ども、大学系か半官半私的のものでなければ、学問的には殆んど発展し得ない状態にある。
 かくてわが自然科学は、官僚系以外に於ては、殆んど育成されなかった、従って今日に及んでも。大学竝に自然科学者の間には、濃厚なる官僚性が漂うている。
 その結果として、わが自然科学界に於ては、科学批判が封鎖された。もし万一にも、単なる讃美以外の批判が出現するならば、たとえ如何に合理的なものであっても、それは忽ち異端視される。― ― ―それほどにも封建的なのが、わが自然科学界である。
(5) しかし勿論官僚系といえども、その間に内部的な摩擦がない訳ではない。それは学閥その他のブロックの対立として現われる。しかもそれ等の閥は、何等か学問的な系統上の団結と云わんよりは、寧ろ、正に封建的なるギルド性を聯想させるものである。そこには縄張りがあり、親分が居り、偶像が生れて来る。
 正しい意味での討論や批判を封じられた自然科学の世界にあっては、「批判」は悪口と見倣され、「討論」は喧嘩と解される。もし仲間賞め以外に、何等かの論争ありとすれば、それは多くは閥のために、親分のためにするところの、情実・感情によるものであって、理論の前進性を持たないものが多いのである。
 かくて自然科学者の闘争― ― ―それも陰口であって、公開的な論争によらざる所の― ― ―は、真理を求めるためにあらずして、閥のためとなる。科学研究の国際化のために、科学の大衆への解放のために、国民大衆の生活の改善と幸福の増進のために、戦うにあらずして、地位の競争に向う。大多数の自然科学者は、滔々として、エゴイストと化し終らざるを得ない。

 三
 かような事態の上に、今やファッシズムの重圧が加わり来たったのである。
 今日何人と雖ども、わが国防の重大性について、意識を持たないものはない。しかし軍事科学、軍需工業及びそれ等に親密の関聯あるものが、極度に重視された結果として、直接にはそれ等に無関係な一切の自然科学の研究が、餘りにも軽視される。「科学日本」などと誇称しながらも、学問としては一層根本的であり、且つ重要な諸科学の研究費が、如何に貧弱化せるかを見るがよい。技術者の需要は盛であるが、しかしそれは生産の如何なる部門に向うものなるかを調査するがよい。
 大学以外の諸学校に於ける研究費の、絶望的なる貧困化は、若き学徒をして、無気力なる教師化しつつある。大学に於てさえも、今や研究家よりも単なる教師化・技師化への傾向を
辿らんとしつつあるかに見える。
 自然科学を専攻せる青年の大多数は、霊を失える技術者か、無気力なる教師か、然らざれば失業者たらねばならない。彼等の前途は暗い。そこには科学の光も、創造の喜びも、皆無なるかの如くである。
 かかる所にやって来たのが、所謂「文化統制」であり、「知識偏重論」であった。
 事ここに及んでは、如何なる人といえども、現代日本の科学の意味について、また其の前途について、深い疑問を抱かざるを得ないであろう。勿論吾々と雖ども、日本の現状にあっては、或る統制の必要を感じている。しかし其れは、政治的・社会的混乱と、そこから来る不安とを学間・文化の発展を目指すところの進歩的な線に沿って、整調するものでなければならぬ。しかるに我が科学政策の如きは、寧ろこれと対蹠的な方向を指すものではないのか。殊に知識偏重論の如きは、究極に於て、大衆の解放を犠牲にする方向に進むところの、反動的政策として以外には、考え得られないのである。
 さて、かかる反科学主義が許すべからざる以上、その抗争の任に当るべきものは誰か。それは何よりも先ず、科学者その人でなければならない筈である。
 しかるに自然科学者の中には、多年来の慣習による半封建的官僚性のために、文政当局の意見を以て、何か国家そのものの絶対的命令なるかの如く心得、その政策を研究し批判することを以て、何か非愛国的行為だと、考えている人々があるかの如く思われる。かような政府への盲従と、真の愛国との混同。― ― ―そこには官僚としての意識こそあれ、どこに科学者としての面目があるのか。科学に於ける分析とは、そもそも何なのか。
 しかし世には斯様な科学者ばかりでもあるまい。苟も常識ある人間ならば、所謂科学政策の矛盾に気付かない筈はない。その矛盾を知りつつも、何等の批判もせず、知らぬ顔をしているところに、自然科学者のエゴイズムがあるのだ。哲学者田邊元博士が、
 「自己専門の研究に於ては顯著なる業績を挙げて居る人々が、専門以外の一般の事物に就き全く科学的思考を適用することを知らず……、況んや社会機構の缺陥に注意を向け、其由来を実証的に認識せんとする如き要求を全然缺如し、ただ自己の研究に必要なる研究費さえ豊富に支給する政府であるならば、他に如何なる不合理を行うも敢て関知する所でないとする……」[1]
との指摘は、全く正しいと言わねばならない。
 然らば吾々は、ただ屈従の外に途はないのであるか。権力への屈服は、日本自然科学者の宿命でもあり、乃至国民性でもあるのか。
 断じて否。それは いな畢竟、前述の ひっきょう如く、明治維新以来のわが社会機構を反映しているに過ぎないのだ。― ― ―われわれ日本人は、徳川封建時代に於ける、蘭学者の尊い伝統を持っている。科学擁護の声は、自然科学者の間から、未だ力強く叫ばれてはいない。けれどもその機運は既に熟している。日本文化のため、日本科学のため、今こそ良心ある自然科学者の立つべき時である。
 [1]「科学政策の矛盾」 (『改造』昭和十一年十月号)

 四
 しかしながら反科学主義との強力的なる抗争は。個人の力のよくする所でない。吾々は精神的に団結せねばならぬ。この困難な時代こそ、従来の如き、非科学的な内部闘争を清算し、感情的な諸対立を去って、協力一致せねばならない秋ではないか。知識の協力が、今日ほど望ましい時はないのである。
 しかも吾々の問題は、決して単に自然科学的に解決し得られる性質のものではない。問題は. 一方自然科学と関聯しながら、実は社会的なのだ。吾々は先ず社会的現実に対して、正しい認識を得ねばならぬ。それには自然科学者自らが、少くとも或る程度まで、社会を研究し、社会の科学を学び取らなければならない。実はこの点こそ、従来の自然科学者の最も弱味とする所であったのだ。
 例えば今日、軽卒浮薄なるジャーナリズムの波に乗って、徒に「躍進科学日本」などと誇称するのは。果して真面目な科学者の採るべき態度であろうか。この誇称の裏には、健全なる科学諸分科の研究が、今日犠牲にされてはいないか、また国民大衆の幸福が果して阻害されてはいないかを、十分に検討せねばならないだろう。
 現にイギリスの有力なる自然科学者の一団は、
 「今日の自然科学は、人類の幸福を増進するという、自然科学本来の目的に向って進んではいない。それは、人類の不幸を益々増大させる(戦争、失業、等々によって)ために利用されている。かような『自然科学の徒労』の原因は、現在の社会機構にある。吾々自然科学者は、人類の真の幸福を増進するために、社会に対する甚深の関心を持たねばならない。」
と、主張しているではないか。
 それのみでは無かった。自然科学と社会科学とは、その対象を異にし、また其の研究方法に於ても、異なるものを持つに拘わらず、この両者が互に緊密なる関聯に於てあることは。周知の通りである。この意味に於て、科学の進展上、自然科学者と社会科学者とは、共同連帯的なる責任を持っているのである。
 少し不適当かも知れないが一例を引こう[1]。本年八月開催のイギリス(バンガローア)の化学会に於ては、全会員の名によって、次の意味の決議がなされた。
 「本会は、人類共通の本能に反する戦争を阻止するための、一切の団体的努力― ― ―その主要目的を、戦争それ自身の廃止に置くところの― ― ―を支持する。この目的を達するために、本会は、思想家と自然科学者の側に於ける。不断の勇敢なる活動を激励する。特に彼等が、新しい経済的諸條件― ― ―それは必然的に科学研究の進歩を伴うところの― ― ―の研究に対して、より多くの注意を払われることを切望する。……」
 思想家と自然科学者との共同研究が要望されるのは、ひとりイギリスのみには止まらないのである。わが日本にあっても、自然科学の発展を阻害するところの、真の原因を正しく認識し、自然科学研究の自由を獲得するためには、必然的に社会科学者との共感的握手を要する。このことなくしては、到底正しい「科学政策」も、発見される筈はないのである。
 それのみではない。一方に於ては、斯る精神的同盟こそ、社会科学の研究そのものをも、一層正しく進展させる所以なのだ。
 [1]誤解を避けるために一言しておくが、私は必ずしも非戦論に左袒するものではない。この一文は、決して非戦論に左袒するが為めに、引用したものでないことを、茲にハッキリと明言しておく。

 五
 それと同時に、吾々は科学研究の途を阻害しつつある所の、自然科学界内部の弊害を一掃するために、正しい科学批判が、力強く行われねばならないと思う。
 この重大なる時機に於て、徒に学閥やエゴイズムによる内部闘争の如きは、何よりも先ず自ら反省され、清算されなければならない。所謂「大学の顛落」と呼ばれるものは、恐らくは独り社会科学方面のみには限らないのである。象牙の塔は硬化しつつある、然らざれば腐敗しつつある。しかも批判を封じられた世界に残るは、ただ保守と反動あるのみであり、そこに若く優れた才能は亡び、新しい思索は阻まれる。
 実は斯る検討は、科学的研究に於ても、また社会的実践に於ても。十分に鍛錬された科学者その人の手によって、遂行されるが最も望ましい。しかし、それは事実殆んど不可能に属する。老練の士は、多くは保守的か反動的であり、しかも彼等は各自一党の親分である。
 之に反して、今日漸くジャーナリズムの舞台に登らんとする所謂科学批判は、新鮮であり進歩的ではあるが、一般的には、未だ餘り公式的なる抽象論たるに止まる。日本に於ける科学界の歴史的事情にも通ぜず、現実の内容についても、実際に深く知らざる人々の、性急なる論議は、たとえ正しい線に沿っていても、一般科学者からは、正しい批判と思われずに、偏向的歪曲と誤解され、却って其の反感を買うようになる恐れがある。
 実に今日ほど、正しい意味での科学批判が要望される時はないのである。一方では徒なる仲間賞めを止め、現実の事情に迂い議論を捨て、好意あって而も厳密なる批判が望まれる。勿論戦うべきことは飽くまでも戦わねばならないが、この際必要なのは、徒に反撥的な論調ではなくして、静かな、温かい、そして十分に厳格な、科学的なる議論である。
 永い将来にかけての根本的なる改革問題と、現実に於ける一歩前進のための改造問題とは、勿論その間の関聯については十分に注意を払いながらも、一応は切り離して究明されなければならない。徒に性急な批判は、たとえ正しい意図の下に行われたとしても、それは客観的には、非歴史的・非科学的なる、無責任な暴論と化することもある。真に望ましきは、実現性を持つところの、進歩的な、そして親切な指導方針である。
 科学批判の範囲は広く、その課題は多い。それは殆んど未開の処女地であると云っても、よいかも知れない。吾々は科学の周囲を繞る諸間題から、科学諸部門の内部に対する検討に至るべきであり、また独り現在の問題のみに限らない。現在への関聯を考察しつつ、わが科学界の過去の遺産についての厳密なる再検討の如き、最も緊要の題目たるを失わないと思う。
 また間題の取上げ方、その観点が改められなければならない。例えば入学試験は、わが教育の最大の禍根であると云われる。それほどにも重大性を持つところの、試験制度と試験問題とは、単に文政当局者や父兄及び関係学校教師間の問題たらしめず、一個の厳粛なる社会的・科学的課題として、批判され研究されねばならないであろう。
 特に重要なるは、大衆の科学教育の問題である。この困難な課題は、溢れんばかりの科学的精神によって書かれた啓蒙的科学書の普及、地方博物館の増設、等々の如き方法によっても、― ― ―勿論それ等は相当有効ではあるが― ― ―根本的には、決して解決されるものではない。吾々に許される範囲内では、甚だ不十分ながらも、矢張り学校課程としての科学教育の改造こそ、最も基本的なことだと、私は確信する[1]。この点に就いては、特に進歩的なる専門科学者の、有力なる協同研究に待たねばならない。
 科学の発達と大衆の幸福とは、相関的でなければならぬ。国民大衆の温かなる支持・後援なくして、どうして科学研究の進展が遂行され得よう。
 [1]私は「数学教育の意義は科学的精神の開発にある」となし、その趣旨によって、 『数学教育の根本問題』(大正十三年、イデア書院、後には玉川学園出版部)を書いた。今日から見れば、まことに缺陥の多い書ではあるが、この際に、読者の再検討に接するを得ば幸である。
 究極に於て、自然科学者は、個人として、また社会人として、その自らの研究に、また日常の行動に、深く実証的精神と合理的精神とが、発揮されなければならない。それが為めには、今日清算されねばならぬ多くのものを持つ。吾々は自然科学者同志の、竝びに、社会科学者との提携によって、厳正なる科学批判を行いつつ、一歩一歩前進しなければならない。ここに現下に於ける自然科学者の任務がある。
 かくの如き自然科学者は、何よりも先ず、身を以て科学的精神に徹しなければならない。
 科学的精神は、 過去の科学的遺産を謙虚に学びながら、 しかも絶えずこれを検討して、 より新なる、より精緻な事実を発見し、より完全なる理論を創造する精神である。それは偏見とは、凡そ対蹠的のものである。それ故に科学者自身にとっては、精神の自由な状態に置かれなければならぬ。
 そこには一切の偶像を認めない、そこには強烈な批判的精神が働かねばならぬ。それは飽くまでも真実を追求する不撓の魂であり、何よりも先ず真理に徹底する精神である。不徹底に甘んじたり、何等かの権力のために事実を歪曲したりすることは、断じて科学的精神に悖るところである。
 かくて吾々の科学者は、この意味に於て、本能的に精神の自由を愛する。吾々の科学者は、真理を追求し、真理を語るの勇気がある。吾々の科学者は、この意味に於て、本来ラジカリストである。
   (1936・11・8)
 
   『中央公論』昭和11年12月号所載

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

800年(延暦19)富士山延暦噴火が始まる(新暦4月11日)詳細
1789年(寛政元)哲学者・経済学者・思想家三浦梅園の命日(新暦4月9日)詳細
1868年(慶応4)「五箇条の御誓文」が出される(新暦4月6日)詳細
1970年(昭和45)大阪で日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われる詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

hiranoyoshitarou01
 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、法学者・中国現代史研究者・平和運動家平野義太郎の生まれた日です。
 平野義太郎(ひらの よしたろう)は、東京市京橋区築地(現在の東京都中央区)において、石川島造船所(現在のIHI)創業者・平野富二の息子である平野勇造の長男として生まれました。東京開成中、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部へ進み民法研究室で学びます。
 1921年(大正10)に卒業後、同大学法学部助手となり、1923年(大正12)には助教授に昇任しました。1924年(大正13)に産業労働調査所に入り、『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』を刊行、翌年には、『法律における階級闘争』の刊行により、唯物史観の立場から法律の階級制を取り上げて注目されます。
 1927年(昭和2)にドイツのフランクフルト大学社会科学研究所に留学し、マルクス主義を研究、1929年(昭和4)に帰国しました。1930年(昭和5)に「共産党シンパ事件」において「治安維持法」違反で検挙、大学は依願免職となり、執行猶予付きの有罪判決を受けます。
 1932年(昭和7)から翌年にかけて、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』(岩波書店)の編集に参加、いわゆる「講座派」の理論的指導者の一人となり、1934年(昭和9)には、『日本資本主義社會の機構――史的過程よりの究明』を岩波書店から刊行しました。1936年(昭和11)に「コム・アカデミー事件」で検挙されたものの、翌年に起訴猶予となり釈放され、1939年(昭和14)には太平洋協会に就職します。
 その後、同協会弘報部長、後に調査部長、太平洋学術委員会委員長となり、中国、東南アジアなどの調査活動にあたりました。太平洋戦争後は、1946年(昭和21)の民主主義科学者協会(民科)創立に参加、中国研究所創設に尽力し、理事長となります。
 1948年(昭和23)に民科東京支部長となり、『平野義太郎論文集』全3巻も刊行しました。1949年(昭和24)に日本学術会議会員となり、平和を守る会書記長にも就任、1956年(昭和31)には日本平和委員会会長となって原水爆禁止やベトナム反戦など平和運動に尽力します。
 また、世界平和協議会理事、国際民主法律家協会副会長を歴任するなど国際的にも活動しました。1966年(昭和41)から1979年(昭和54)まで、龍谷大学教授を務めましたが、1980年(昭和55)2月8日に、82歳で亡くなっています。

〇平野義太郎の主要な著作

・『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』(1924年)
・『法律における階級闘争』(1925年)
・『日本資本主義社会の機構』(1934年)
・『馬城大井憲太郎伝』(1938年)
・『民族政治学の理論』(1943年)
・『民族政治の基本問題』(1944年)
・『大アジア主義の歴史的基礎』(1945年)
・『日本資本主義社会の機構と法律』(1948年)
・『日本資本主義社会と法律』(1956年)
・『自由民権運動とその発展』(1977年)
・『農業問題と土地改革』

☆平野義太郎関係略年表

・1897年(明治30)3月5日 東京市京橋区築地(現在の東京都中央区)で、平野勇造の長男として生まれる
・1921年(大正10) 東京帝国大学法学部民法研究室を卒業、同大学助手となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学法学部助教授となる
・1924年(大正13) 産業労働調査所に入る、『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』を有斐閣から刊行する
・1925年(大正14) 『法律における階級闘争』の刊行により唯物史観の立場から法律の階級制を取り上げて注目される
・1927年(昭和2) ドイツのフランクフルト大学社会科学研究所に留学する
・1929年(昭和4) ドイツから帰国する
・1930年(昭和5) 「共産党シンパ事件」において「治安維持法」違反で検挙、大学を依願免職となる
・1932年(昭和7) 『日本資本主義發達史講座』(岩波書店)編集に参加(~1933年)
・1934年(昭和9) 『日本資本主義社會の機構――史的過程よりの究明』を岩波書店から刊行する
・1936年(昭和11) 「コム・アカデミー事件」で検挙される 
・1937年(昭和12) 起訴猶予となり釈放される
・1939年(昭和14)7月 太平洋協会に就職する
・1939年(昭和14)9月 弘報部長、後に調査部長、太平洋學術委員會委員長
・1940年(昭和15) 「アメリカに於ける支那研究」、「故石本五雄少將を憶ふ」を『太平洋』に発表する
・1941年(昭和16) 「南支那海を經て海南島へ」を『太平洋』に発表する
・1942年(昭和17) 『太平洋の民族=政治學』 (清野謙次との共著) を日本評論社から刊行する
・1943年(昭和17) 『民族政治學の理論』を日本評論社から刊行する
・1944年(昭和19) 『民族政治の基本問題』を小山書店から刊行する  
・1945年(昭和20)6月 『大アジア主義の歴史的基礎』を河出書房から刊行する
・1946年(昭和21)1月  民主主義科学者協会(民科)創立に参加、中国研究所理事長となる
・1947年(昭和22) 「新しい文化と學術の創造のために」、「新中国に於ける民主主義化」を発表する
・1948年(昭和23) 民主主義科学者協会(民科)東京支部長となる、『平野義太郎論文集』全3巻を刊行する
・1949年(昭和24) 平和を守る会書記長となる、日本学術会議会員となる
・1956年(昭和31)2月 日本平和委員会会長となる
・1957年(昭和32) 国際民主法律家協会副会長となる
・1966年(昭和41) 龍谷大学教授となる 
・1979年(昭和54) 龍谷大学教授を辞める
・1980年(昭和55)2月8日 82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

765年(天平神護元)称徳天皇が「墾田永年私財法」の停止(加墾禁止令)を勅する(新暦3月30日)詳細
1870年(明治3)日本3番目の洋式灯台である品川灯台が初点灯する(新暦4月5日)詳細
1926年(大正15)「労働農民党」(委員長:杉山元治郎)が結成される詳細
1929年(昭和4)社会運動家・政治家・生物学者山本宣治の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

hatttorishisou01

 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、歴史学者服部之総の生まれた日です。
 服部之総(はっとり しそう)は、島根県那賀郡木田村(現在の旭町)の浄土宗正蓮寺の長男に生まれ、旧制浜田中学校を経て、京都の第三高等学校へ入学しました。卒業後、上京して東京帝国大学文学部社会学科へ入学、大学在学中に志賀義雄、大宅壮一らと東大新人会で活躍し、社会的関心を深めます。
 1925年(大正14)に大学卒業後、東大副手となり、1927年(昭和2)には、野坂参三の産業労働調査所の所員となって、『マルクス主義講座』に「明治維新史」を執筆し、マルクス主義史学による維新史研究に先鞭をつけました。翌年に労農党書記局長となり、3.15の共産党弾圧の際、検挙されたものの釈放されます。
 1930年(昭和5)に中央公論社初代出版部長となり、翌年には、プロレタリア科学研究所の所員となりました。1933年(昭和8)に、唯物論研究会の創立に加わり、1932年(昭和7)には、『日本資本主義発達史講座』に「明治維新の革命及び反革命」を執筆、以後講座派の代表的論客として、「幕末厳マニュ時代説」を展開します。
 しかし、1938年(昭和13)の唯物論研究会事件で検挙され、釈放後、花王石鹸に入社して上海へ渡り、同社五十年史などの編纂にあたり、宣伝部長を経て、1942年(昭和17)には、取締役となりました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、三枝博音らと鎌倉大学校(のち鎌倉アカデミアと改称)を創立、教授となり、1951年(昭和26)に日本近代史研究会を設立、翌年には、法政大学教授に就任して若い研究者を育てています。
 1955年(昭和30)に『明治の政治家たち――原敬につらなる人々』で、毎日出版文化賞を受賞しましたが、翌年3月4日に、東京において、病気により54歳で亡くなりました。

〇服部之総の主要な著作

・『明治維新史』(1927年)
・『黒船前後』(1933年)
・『維新史の方法論』(1934年)
・『蓮如』(1948年)
・『親鸞(しんらん)ノート』(1948年)
・『近代日本のなりたち』(1949年)
・『明治の政治家たち――原敬につらなる人々』(1955年)毎日出版文化賞受賞

☆服部之総関係略年表

・1901年(明治34)9月24日 島根県那賀郡木田村(現在の旭町)の浄土宗正蓮寺の長男に生まれる
・1925年(大正14) 東京帝国大学文学部を卒業、東大副手となる
・1927年(昭和2) 産業労働調査所の所員となり、『マルクス主義講座』に「明治維新史」を執筆する
・1928年(昭和3) 労農党書記局長となる、3.15の共産党弾圧の際、検挙されたものの釈放される
・1930年(昭和5) 中央公論社初代出版部長となる
・1931年(昭和6) プロレタリア科学研究所の所員となる
・1933年(昭和8) 唯物論研究会の創立にあたる
・1932年(昭和7) 『日本資本主義発達史講座』に「明治維新の革命及び反革命」を執筆する
・1938年(昭和13) 唯物論研究会事件で検挙され、釈放後、花王石鹸に入社して上海へ渡る
・1942年(昭和17) 花王石鹸取締役となる
・1946年(昭和21) 三枝博音らと鎌倉大学校(のち鎌倉アカデミアと改称)を創立、教授となる
・1951年(昭和26) 日本近代史研究会を設立する
・1952年(昭和27) 法政大学教授に就任する
・1955年(昭和30) 『明治の政治家たち――原敬につらなる人々』で、毎日出版文化賞を受賞する
・1956年(昭和31)3月4日 東京において、病気により54歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1744年(延享元)江戸時代中期の思想家・石門心学の祖石田梅岩の命日(新暦10月29日)詳細
1877年(明治10)薩摩藩士・軍人・政治家西郷隆盛が西南戦争に敗れ、城山で自刃する詳細
1966年(昭和41)熊本県の天草五橋(パールライン)が開通した日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

noroeitarou01

 今日は、昭和時代前期の1934年(昭和9)に、経済学者・社会運動家野呂栄太郎の亡くなった日です。
 野呂栄太郎(のろ えいたろう)は、明治時代後期の1900年(明治33)4月30日に、北海道夕張郡長沼村(現在の長沼町)で、農場の管理人だった父・野呂市太郎、母・波留の長男として生まれました。1907年(明治40)に小学校へ入学しましたが、運動会でのけががもとで破傷風に罹り、2年生の時に右足を膝下から切断しています。
 1920年(大正9)に私立北海中学校を優秀な成績で卒業、上京して慶応義塾大学経済学部予科へ入学しましたが、肺結核にかかり、一時療養を余儀なくされました。その後、野坂参三の指導のもとにマルクス主義を研究、1922年(大正11)に慶応の学生による三田社会問題研究会の結成に参加し、翌年には日本学生連合会の東京連合会委員長となります。
 1925年(大正14)に小樽軍事教練事件に関わって検挙され、翌年にも学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件に連座して、10ヶ月の禁固刑を受けましたが、病気療養のために保釈され、産業労働調査所調査員として勤務しました。日本と世界の政治・経済の現状分析および日本資本主義発達史研究に従事し、猪俣津南雄などの日本資本主義論に厳しい批判を行いますが、1929年(昭和4)の四・一六事件で1ヶ月ほど拘束されます。
 同年にプロレタリア科学研究所創立にも参加、翌年には日本共産党に入党し、『日本資本主義発達史』を刊行しました。1932年(昭和7)にマルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わり、「講座派」を指導したものの、産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれています。
 地下活動に入り、1933年(昭和8)以後、共産党中央委員会責任者として活動していましたが、スパイの手引きで検挙され、1934年(昭和9年)2月19日に品川警察署での拷問により病状が悪化して、数え年33歳の若さで亡くなりました。
 以下に、野呂栄太郎が書いた『日本資本主義発達史講座』趣意書を掲載しておきますのでご参照下さい。

〇野呂栄太郎の主要な著作

・『日本資本主義発達史』(1931年刊)
・編集『日本資本主義発達史講座』全7巻(1931年)

〇野呂栄太郎関係略年表

・1900年(明治33)4月30日 北海道夕張郡長沼村(現在の長沼町)で、農場の管理人だった父・野呂市太郎、母・波留の長男として生まれる
・1907年(明治40)4月 小学校へ入学する
・1914年(大正3)3月 小学校を卒業する
・1915年(大正4)4月 私立北海中学校へ入学する
・1920年(大正9)3月 私立北海中学校を優秀な成績で卒業する
・1920年(大正9)4月 慶応義塾大学経済学部予科へ入学する
・1922年(大正11)11月 三田社会問題研究会の結成に参加する
・1923年(大正12)1月 日本学生連合会の東京連合会委員長となる
・1925年(大正14)10月 小樽軍事教練事件で検挙される
・1926年(大正15)4月 学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件に連座して懲役10ヶ月の判決を受ける
・1926年(大正15)4月 慶応義塾大学予科理財科を卒業する
・1926年(大正15)8月 病気療養のために保釈され、産業労働調査所調査員として勤務する
・1929年(昭和4)4月16日 四・一六事件で拘束される
・1929年(昭和4) プロレタリア科学研究所創立に参加する
・1930年(昭和5)1月 日本共産党に入党する
・1930年(昭和5)2月20日 『日本資本主義発達史』が鉄塔書院より刊行される
・1932年(昭和7)5月 マルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わり始める
・1933年(昭和8)5月9日 産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれる
・1933年(昭和8)8月1日 国際反戦デーに、ストライキ及びデモ活動を呼びかけるも失敗する
・1933年(昭和8)8月23日 産業労働調査所が閉鎖される
・1933年(昭和8)11月28日 スパイの手引きで検挙される
・1934年(昭和9年)2月19日 品川警察署での拷問により病状が悪化し、数え年33歳の若さで亡くなる

☆『日本資本主義発達史講座』趣意書 野呂栄太郎著

 世界経済恐慌の発展は全資本主義体制の、従ってまた日本資本主義制度の根底を揺り動かしている。資本主義の一般的危機の先鋭化、その上に進行しつつある恐慌の破局的深刻化、国際的諸対立の脅威的緊張、そして階級対立闘争の不可両立的激化――すべてこれらの、もはや蔽おおわんとして蔽おおいがたき事態の急激なる悪化は、支配階級及びその代弁者どもをして今さらのように国難来を叫ばしむるにいたった。曰く、経済国難! 曰く、思想国難! 曰く、建国以来未曽有の国難!
  急迫せる情勢に転倒せる帝国主義者の脳裏には、恐らく戦争とファシズム以外の考えは浮かび得ないであろう。しかしながら、経済的発展の行詰まり、政治的支配の動揺、社会情勢の不安等々の解決は、かかる一連の事態の変化を必然にし、不可避にしたところの根本的矛盾を究きわめることなしには、問題解決の糸口をつかむことこそ不可能であろう。日本資本主義成立の歴史を顧み、その矛盾に満ちた発展の諸特質を究めることは、それゆえに、日本資本主義が当面せる諸問題の根本的解決の道を見出すべき鍵である。本講座はこの鍵を提供せんとするものである。
  かかる緊切なる当面の要求に応じて生まれた本講座は、歴史的事実の単なる羅列られつ、説明をもって能事おわれりとするものではない。いわんや、何らかの成心をもってあえて事実を虚構するがごときは、本講座の執筆者とはまったく無縁である。われわれの期するところは歴史の解釈ではなくしてその変革である。歴史を変革するとは、過去の歴史的事実を改変することではなくして、未来の歴史を創造することである。だが、われわれはそれを勝手に創ることはできない。すでに与えられたる一定の諸条件に基づいてのみ、歴史の変革も創造も可能にせられ、問題の真の解決は期待し得るであろう。
  特に問題解決のかかる諸条件を明らかにせんがために、日本資本主義発達の諸条件、その本質的諸特徴、その基本的諸矛盾を全面的に分析し、根本的に究明することは、もとより一人の能よくするところでない。といってもちろん、多数のいわゆる歴史家たちの研究に任せ得る問題でもない。本講座は、今日この問題の真の解決のために協力し得るほとんど大部分の研究家の参加を得た。それは文字通り、約三十名の執筆者の共同労作である。各執筆者の研究は、それぞれの範囲内では各自の創意を十二分に発揮しながらも、あくまで全体の緊密なる構成部分を成している。
  本講座は、今日世に問い得る限りにおいて、日本資本主義の最も包括的な科学的研究であり、その本質的矛盾の最も根本的な分析である。しかも、われわれが当面せる諸問題の根本的解決のためには、本講座はわずかに解決の鍵を提供するにすぎない。われわれは、日本資本主義の危機からの革命的活路を身をもって切り開かんとする多数読者の積極的努力によって、始めてさらに完成せらるべきことを期待する。社会的矛盾の中に真理を求め資本主義社会の発展の法則を究明せんとする一般諸君の検討を待望しつつ、あえて本講座を世に問わんとする所以である。

――一九三二年六月――

     「野呂栄太郎全集 下」(新日本出版社刊)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(元暦2)屋島の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に勝利する(新暦3月22日)詳細
1837年(天保8)大塩平八郎の乱が起きる(新暦3月25日)詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ