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 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、経済学者山田盛太郎の亡くなった日です。
 山田盛太郎は、明治時代後期の1897年(明治30)1月29日に、愛知県葉栗郡黒田町(現在の一宮市木曽川町)で生まれました。愛知県立第一中学校(現在の県立旭丘高校)卒業後、第八高等学校を経て、1920年(大正9)に東京大学経済学部経済学科へ入学します。
 1923年(大正12)に同校卒業後は、東京帝国大学経済学部副手となり、翌々年には助教授となって、マルクスの価値論、再生産論を研究しました。1930年(昭和5)の「共産党シンパ事件」で検挙され退職を余儀なくされ、その後、日本資本主義の研究に進みます。
 1932年(昭和7)には、野呂栄太郎、岩田義道らの『日本資本主義発達史講座』の編集・刊行に参加して論文を執筆しました。それに発表した論文をまとめて、1934年(昭和9)に『日本資本主義分析』を著し、「講座派」の代表者と目されるようになります。そして、櫛田民蔵、猪俣津南雄、向坂逸郎らの「労農派」と「日本資本主義論争」(封建論争ともいう)を繰り広げました。
 しかし、1936年(昭和11)に「コム・アカデミー事件」に連座して再び逮捕・投獄され、1939年(昭和14)に出獄後は、東亜研究所研究員となり、中国農業の研究に従事します。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、東京帝国大学経済学部教授として復職し、法学部講師を兼務し、1950年(昭和25)同大学経済学部長、日本学士院会員にもなりました。
 一方、1947年(昭和42)に中央農地委員会委員、1950年(昭和25)には、農地改革記録委員会委員長となって農地改革にも関わり、翌年『農地改革顛末概要』を発表します。
 1957年(昭和32)に東京大学定年退官後は、専修大学商経学部教授、龍谷大学経営学部教授を歴任しましたが、1980年(昭和55)に、83歳で亡くなりました。
 野呂栄太郎、平野義太郎と並びいわゆる「講座派」マルクス経済学の理論的主柱といわれています。

〇山田盛太郎の主要な著作

・『日本資本主義発達史講座』全7巻(岩波書店・1932~33年)編著
・『日本資本主義分析』(岩波書店・1934年)
・『再生産過程表式分析序論』(改造社・1948年)
・『農地改革の歴史的意義―問題総括への一試論―』(1949年)
・『農地改革顛末概要』(1951年)
・『日本農業再生産構造の基礎的分析』(1962年)
・『戦後目本資本主義における再生産構造の段階と循環に関する基礎的研究』(1963年)
・『戦後再生産構造の段階と農業形態』(1963年)
・『山田盛太郎著作集』(全5巻・別巻1 岩波書店)