ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本芸術院賞

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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、書家・中国書道史家西川寧の亡くなった日です。
 西川寧(にしかわ やすし)は、明治時代後期の1902年〈明治35〉1月25日に、東京市向島区において、明治の書家、西川春洞の三男として生まれました。幼少より書に親しみましたが、13歳の時に父と死別し、東京府立第三中学校を経て、1920年(大正9)に慶應義塾大学文学部予科に入学します。
 1926年(大正15)に慶應義塾大学文学部支那文学科を卒業、同予科講師となりました。1929年(昭和4)に中村蘭台主催の萬華鏡社に加わり、1930年(昭和5)に泰東書道院結成に参加、1931年(昭和6)には、最初の訪中を行い、『六朝の書道』を著します。
 1933年(昭和8)に謙慎書道会を創立、1938年(昭和13)には、外務省在外特別研究員として北京に留学し、中国文学、金石学を研究して、1940年(昭和15)に帰国しました。1941年(昭和16)に『支那の書道(猗園雑纂)』を印行し、1943年(昭和18)には、慶応義塾大学予科教授となり、田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催します。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に慶応義塾大学文学部講師となり、1947年(昭和22)には、東京国立博物館調査員となって、中国書跡の調査・研究にあたりました。1948年(昭和23)に日展審査員となり、1949年(昭和24)には、松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊し、編輯主幹を務めます。
 1950年(昭和25)に日展運営会参事となり、1955年(昭和30)に「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞、1958年(昭和33)には、日展評議員となりました。1959年(昭和34)に東京教育大学教授となり、1960年(昭和35)には、「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で、慶應義塾大学より文学博士を得ます。
 1962年(昭和37)に東京国立博物館調査員を辞め、1964年(昭和39)には、國學院大學、東京大学文学部講師となりました。1965年(昭和40)に東京教育大学教授を辞め、1969年(昭和44)に日本芸術院会員、日展常務理事となり、1972年(昭和47)には、勲三等瑞宝章を受章しています。
 1977年(昭和52)に文化功労者、日展顧問となり、1985年(昭和60)には、日本の書家として初めて文化勲章を受章しました。中国書道全般に関する深い造詣と学識により高い評価を得ましたが、1989年〈平成元〉5月16日に、東京都目黒区の病院において、87歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇西川寧の主要な著作

・『六朝の書道』(1931年)
・『書の変相』(1960年)
・『書というもの』(1969年)
・『猗園雑纂』(1985年)

☆西川寧関係略年表

・1902年〈明治35〉1月25日 東京市向島区において、明治の書家、西川春洞の三男として生まれる
・1920年(大正9) 東京府立第三中学校を卒業し、慶應義塾大学文学部予科に入学する
・1926年(大正15) 慶應義塾大学文学部支那文学科を卒業、同予科講師となる
・1929年(昭和4) 中村蘭台主催の萬華鏡社に加わる
・1930年(昭和5) 泰東書道院結成に参加する
・1931年(昭和6) 最初の訪中を行い、『六朝の書道』を著す
・1933年(昭和8) 謙慎書道会を創立する
・1938年(昭和13) 外務省在外特別研究員として北京に留学する
・1940年(昭和15) 留学先より帰国する
・1941年(昭和16) 『支那の書道(猗園雑纂)』を印行する
・1943年(昭和18) 慶応義塾大学予科教授となり、田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催する
・1946年(昭和21) 慶応義塾大学文学部講師となる
・1947年(昭和22) 東京国立博物館調査員となる
・1948年(昭和23) 日展審査員となる
・1949年(昭和24) 松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊し、編輯主幹をつとめる
・1950年(昭和25) 日展運営会参事となる
・1955年(昭和30) 「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞する
・1958年(昭和33) 日展評議員となる 
・1959年(昭和34) 東京教育大学教授となる
・1960年(昭和35) 「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で、慶應義塾大学より文学博士を得る
・1962年(昭和37) 東京国立博物館調査員を辞める
・1964年(昭和39) 國學院大學、東京大学文学部講師となる
・1965年(昭和40) 東京教育大学教授を辞める
・1969年(昭和44) 日本芸術院会員、日展常務理事となる
・1972年(昭和47) 勲三等瑞宝章を受章する
・1977年(昭和52) 文化功労者、日展顧問となる
・1985年(昭和60) 日本の書家として初めて文化勲章を受章する
・1989年〈平成元〉5月16日 東京都目黒区の病院において、87歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1623年(元和9)囲碁名人・本因坊家初代本因坊算砂の命日(新暦6月13日)詳細
1689年(元禄2)松尾芭蕉が『おくの細道』に旅立った日の新暦換算日(旅の日)詳細
1889年(明治22)東京・上野の宮内省博物館を帝国博物館に改称し、京都・奈良にも設置する官制が出される詳細
11944年(昭和19)北海道の三菱鉱業美唄炭鉱でガス爆発事故が起こり、死者109人を出す詳細
1951年(昭和26)世界保健機関(WHO)が日本の加盟を承認する詳細
1968年(昭和43)1968年十勝沖地震(M7.9)が起き、死者50人・行方不明者2人・負傷者330人を出す詳細
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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、建築家吉田五十八の亡くなった日です。
 吉田五十八(よしだ いそや)は、明治時代中頃の1894年(明治27)12月19日に、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)において、太田胃散の創業者である父・太田信義と母・トウ(銅)の5男第8子として生まれました。1897年(明治30)に父・太田信義が亡くなり、1909年(明治42)には、母方の姓が絶えるのを防ぐために吉田姓を継ぎ、以後吉田姓を名乗るようになります。
 東京開成中学校(現在の開成学園)を経て、1915年(大正4)に、東京美術学校図案科第2部に入学し、岡田信一郎に学び、在学中から住宅や店舗の設計を手がけました。1923年(大正12)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業後、欧米留学に出発し、ヨーロッパの古典建築について学び、1925年(大正14)に帰国します。
 その後、設計活動に入り、伝統的な数寄屋建築を現代化した独自の作風を確立しました。1941年(昭和16)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師に就任し、1944年(昭和19)に東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てます。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任して後進の指導に当たりつつ、住宅以外の劇場、美術館、寺院などの大規模建造物を手がけました。それらの功績により、1952年(昭和27)に日本芸術院賞を受賞、1954年(昭和29)には、日本芸術院会員となっています。
 1962年(昭和37)に東京芸術大学を退官以後は設計活動に専念し、翌年に皇居新宮殿造営顧問となり、1964年(昭和39)には、文化勲章を受章しました。1968年(昭和43)に皇居新宮殿造営顧問を辞め、アメリカ建築家協会名誉会員となったものの、1974年(昭和49)3月24日に、東京において、79歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇吉田五十八の主要な作品

・「小林古経邸」(1934年)
・「杵屋六左衛門別邸」(1936年)
・「新喜楽」(1940年)
・「東京歌舞伎(かぶき)座」改修(1951年)
・「山口蓬春画室」(1954年)
・「明治座」復興増改築(1958年)
・「梅原龍三郎邸」(1958年)
・「日本芸術院会館」(1958年)
・「五島美術館」(1960年)
・「大和文華館」(1960年)
・ローマの「日本文化会館」(1962年)
・「岸信介邸」(1969年)

☆吉田五十八関係略年表

・1894年(明治27)12月19日 東京市日本橋区(現在の東京都中央区)において、太田胃散の創業者である父・太田信義と母・トウ(銅)の5男第8子として生まれる
・1897年(明治30) 父・太田信義が亡くなる
・1909年(明治42) 母方の姓が絶えるのを防ぐために吉田姓を継ぎ、以後吉田姓を名乗る
・1915年(大正4) 東京美術学校図案科第2部に入学する
・1923年(大正12) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業、欧米留学に出発する
・1925年(大正14) 欧米留学から帰国する
・1937年(昭和12) 結婚する
・1941年(昭和16) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師に就任する
・1944年(昭和19) 東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てる
・1946年(昭和21) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任する
・1952年(昭和27) 日本芸術院賞を受賞する 
・1954年(昭和29) 日本芸術院会員となる
・1962年(昭和37) 東京芸術大学を退官する
・1963年(昭和38) 皇居新宮殿造営顧問となる
・1964年(昭和39) 文化勲章を受章する
・1968年(昭和43) 皇居新宮殿造営顧問を辞める、アメリカ建築家協会名誉会員となる
・1974年(昭和49)3月24日 東京において、79歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(寿永4)壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡する(新暦4月25日)詳細
1847年(弘化4)信濃国で善光寺地震(推定マグニチュード7.4)が起き、甚大な被害をもたらす(新暦5月8日)詳細
1891年(明治24)「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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tokuokashinsen01
 今日は、明治時代後期の1896年(明治29)に、日本画家徳岡神泉の生まれた日です。
 徳岡神泉(とくおか しんせん)は、京都府京都市上京区において、父・徳岡庄太郎、母・るいの次男として生れましたが、本名は時次郎と言いました。教業尋常小学校を経て、第一高等小学校卒業後、1909年(明治42)に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳(せいほう)の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学びます。
 1910年(明治43)に、京都市立美術工芸学校絵画科に入学、在学中に校友会展に出品し、銀牌や金牌を受賞し、1914年(大正3)に卒業後、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)へ進みました。1917年(大正6)に別科を修了したものの、芸術上の煩悶から妙心寺に参禅し、また富士山麓の辺りに逃避したりしています。
 1920年(大正9)に深沢長三郎次女、政子と結婚、号を神泉と改め、1923年(大正12)の関東大震災を期として京都に帰り、下鴨に居住、再び栖鳳門下に入塾しました。1925年(大正14)の第6回帝展に「罌粟(けし)」が初入選、翌年の第1回聖徳太子奉讃美術展に「椿図」を出品、第7回帝展に「蓮池」を出品し、特選を受けます。
 1929年(昭和4)の第10回帝展に「鯉」を出品、再び特選となり、1930年(昭和5)には、第11回帝展に「月明」を出品、帝国美術院推薦(無鑑査)となりました。1935年(昭和10)の帝展改組に際して無鑑査指定となり、1936年(昭和11)に京都市立美術工芸学校絵画科教論となり、1937年(昭和12)には、日本女子美術学校日本画部教授となり、青木生沖、中田晃陽らとともに竹立会を結成しています。
 1938年(昭和13)に新文展審査委員となり、翌年には、京都市立美術工芸学校絵画科教諭を辞任しました。太平洋戦争後、1946年(昭和21)の第2回日展以後審査員をつとめ、1950年(昭和25)の第6回日展に「鯉」を出品、文部省購入作品となり、翌年には、日本芸術院賞を受賞します。
 1952年(昭和27)に「池」で毎日美術賞受賞、1957年(昭和32)に日本芸術院会員となり、1961年(昭和36)には、第4回新日展に、代表作「仔鹿」を出品しました。中世以来の日本人の伝統的な精神構造と感覚に基づいた幽玄美を表現、京都画壇に一時代を築いたことにより、1966年(昭和41)には、文化勲章を受章したものの、この頃から体調の不安を訴えるようになります。
 1971年(昭和46)には、体調がすぐれず、画業がまったく捗らなくなってしまい、1972年(昭和47)6月9日に、京都市右京区の病院において、腎不全よる尿毒症により、76歳で亡くなり、従三位銀杯追贈されました。

〇徳岡神泉の主要な作品

・「狂女」(1919年)東京国立近代美術館蔵
・「菖蒲」(1939年)東京国立近代美術館蔵
・「芋図」(1943年)東京国立近代美術館蔵
・「赤松」(1947年)東京国立近代美術館蔵
・「鯉」(1950年)東京国立近代美術館蔵
・「流れ」(1954年)京都市美術館蔵
・「枯葉」(1958年)京都国立近代美術館蔵
・「刈田(かりた)」(1960年)東京国立近代美術館蔵
・「仔鹿(こじか)」(1961年)東京国立近代美術館蔵
・「薄(すすき)」

☆徳岡神泉関係略年表

・1896年(明治29)2月14日 京都府京都市上京区において、父・徳岡庄太郎、母・るいの次男として生れる
・1902年(明治35) 京都市上京区教業尋常小学校に入学する
・1906年(明治39) 教業尋常小学校を卒業し、第一高等小学校に入学する
・1909年(明治42) 土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学ぶ
・1910年(明治43) 京都市立美術工芸学校絵画科に入学する
・1911年(明治44) 市立美工1年校友会展に「海老」を出品、金牌受賞する
・1912年(明治45) 2年校友会展に「杉に軍鶏」を出品、銀牌を受ける
・1913年(大正2) 3年校友会展に「山の紅葉」を出品、銀牌を受ける
・1914年(大正3) 京都市立美術工芸学校絵画科を卒業、卒業制作の「寒汀」は銀牌を受賞し、学校へ買上げられ、京都市立絵画専門学校へ進む
・1916年(大正5) 在学作品「晩秋」を描く
・1917年(大正6) 京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)別科を修了する
・1918年(大正7) 自身会心の作として「魚市場」を出品するが落選する
・1919年(大正8) 第1回日本無名展に「雲の流れ」を出品、褒章を受ける
・1920年(大正9) 深沢長三郎次女、政子と結婚、号を神泉と改め、再び竹杖会に入塾する
・1923年(大正12) 関東大震災を期として京都に帰り、下鴨に居住、再び栖鳳門下に入塾する
・1925年(大正14) 第6回帝展に「罌粟(けし)」が初入選する
・1926年(大正15) 第1回聖徳太子奉讃美術展に「椿図」を出品、第7回帝展に「蓮池」を出品、特選を受ける
・1927年(昭和2) 第8回帝展に「後苑雨後」を出品する
・1928年(昭和3) 第9回帝展に「蕭条」を出品、京都市北区へ転居する
・1929年(昭和4) パリ日本美術展に「暮秋」を出品、第10回帝展に「鯉」を出品、再び特選となる
・1930年(昭和5) 第2回聖徳太子奉讃美術展に「幽光」、ベルリン日本美術展出品公開展に「牡丹」、第11回帝展に「月明」を出品、帝国美術院推薦(無鑑査)となる
・1932年(昭和7) 第13回帝展に「蓮」を出品する
・1933年(昭和8) 竹杖会第1回未公開研究会に「松」を出品、鳳賞を受け、京都の佐藤梅軒画廊で最初の個展を開く、第14回帝展に「罌粟」を出品する
・1934年(昭和9) 梥本一洋との二人展を大阪大丸に開く、京都美術館美術展に「麦」を出品、京都市購入作品となり、第15回帝展に「鶏頭」を出品する
・1935年(昭和10) 改組帝国美術院において無鑑査指定となり、大阪高島屋に第2回個展を開く
・1936年(昭和11) 京都市立美術工芸学校絵画科教論となる
・1937年(昭和12) 日本女子美術学校(長岡女子美術)日本画部教授となり、青木生沖、中田晃陽らとともに竹立会を結成する
・1938年(昭和13) 新文展審査委員となる 
・1939年(昭和14) 京都市立美術工芸学校絵画科教諭を辞任、第3回新文展に「菖蒲」を出品、文部省買い上げとなる
・1940年(昭和15) 第3回淙々会に「あじさい」、第6回九皐会に「筍」、第5回青丘会に「露」を出品する
・1941年(昭和16) 第7回春虹会に「菜の花」、第6回青丘会に「牡丹」、9月仏印巡回展内示会に「盛夏」を出品する
・1942年(昭和17) 竹内栖鳳門下の丹丘会、葱青会、竹立会などを総合して第二竹杖会を結成する
・1943年(昭和18) 第8回京都市美術展に「西瓜」を出品、審査員をつとめ、関西邦画展に「松」、第6回新文展に「芋図」を出品する
・1945年(昭和20) 再開第1回京都市美術展に「伊予蜜柑」を出品する
・1946年(昭和21) 第2回日展審査員をつとめる
・1947年(昭和22) 『第1回現代綜合美術展に「于瓢」、6月第3回京都市美術展に「于瓢」、10月第3回日展に「赤松」を出品する
・1950年(昭和25) 第6回日展に「鯉」を出品、文部省購入作品となる
・1951年(昭和26) 「鯉」で日本芸術院賞を受賞する
・1952年(昭和27) 「池」で毎日美術賞を受賞する
・1957年(昭和32) 日本芸術院会員となる
・1961年(昭和36) 第4回新日展に、代表作「仔鹿」を出品する
・1963年(昭和38) 東京、大阪で初の自薦展を開催する
・1966年(昭和41) 文化勲章を受章、この頃から体調の不安を訴えるようになるも、画業を続ける
・1971年(昭和46) 体調がすぐれず、画業がまったく捗らなくなってしまう
・1972年(昭和47)6月9日 京都において、腎不全よる尿毒症により76歳で亡くなり、従三位銀杯追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

741年(天平13)聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す(新暦3月5日)詳細
940年(天慶3)平将門が下野の豪族藤原秀郷と平貞盛らの軍勢により、猿島の北山で討たれる(新暦3月25日)詳細
1945年(昭和20)近衛文麿が昭和天皇に対して、上奏文(近衛上奏文)を出す詳細
1951年(昭和26)奄美大島日本復帰協議会(議長:泉芳朗)が結成される詳細
1967年(昭和42)小説家山本周五郎の命日詳細
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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、日本画家福王寺法林が生まれた日です。
 福王寺法林(ふくおうじ ほうりん)は、山形県米沢市矢来町において、上杉藩の槍術師範の家系である父・福王寺政雄、母・せんの長男として生まれましたが、本名は雄一と言いました。1927年(大正15)の6歳の時、父親とともに狩猟に行き、銃の暴発によって左眼を失明、1929年(昭和4)には、狩野派の画家上村廣成に師事し日本画を学びます。
 1934年(昭和9)に山形県米沢市立松岬高等小学校を家庭の事情により中退、1936年(昭和11)には、画家を志望して上京し、文京区根津千駄木町のアパートに住みました。1941年(昭和16)に召集され、中国戦線に配属されたものの、1945年(昭和20)に香港で捕虜となって、翌年復員し、山形県米沢市に帰ります。
 1949年(昭和24)に、再興第34回日本美術院展覧会に「山村風景」を出品して初入選しました。1951年(昭和26)に日本美術院同人田中青坪に師事、日本美術院院友に推挙されます。
 1953年(昭和28)に東京都三鷹市に転居し本格的に絵画制作に取り組むようになり、1955年(昭和30)には、第40回院展に「朝」を出品し奨励賞、白寿賞を受賞しました。以後院展で、第41回(1956年)「かりん」、第42回(1957年)「朴の木」が日本美術院次賞・大観賞、第43回(1958年)「麦」が佳作・白寿賞、第44回(1959年)「岩の石仏」が再び奨励賞・白寿賞、第45回(1960年)「北の海」が日本美術院賞・大観賞と続けて受賞し、同年同人に推挙されます。
 1961年(昭和36)に濤林会を結成、1971年(昭和46)には、第56回院展に「山腹の石仏」を出品し内閣総理大臣賞を受賞しました。1974年(昭和49)に、ネパール、ヒマラヤを旅行し、同年よりライフワークとなるヒマラヤシリーズに着手、1977年(昭和52)に「ヒマラヤ連峰」で、第27回芸術選奨文部大臣賞、1984年(昭和59)には、「ヒマラヤの花」で第40回日本芸術院賞を受賞します。
 1991年(平成3)に日本美術院理事、1994年(平成6)に日本芸術院会員となり、1997年(平成9)に勲三等瑞宝章、1998年(平成10)に文化功労者顕彰、2004年(平成16)には、文化勲章、米沢市名誉市民顕彰を受けました。2005年(平成17)には、山形県名誉県民顕彰を受けましたが、2012年(平成24)2月21日に、東京都内の病院において、心不全のため91歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇福王寺法林の代表的作品

・「朝」(1955年)第40回院展奨励賞、白寿賞受賞
・「岩の石仏」(1959年)第44回院展奨励賞、白寿賞受賞
・「北の海」(1960年)第45回院展日本美術院賞、大観賞受賞
・「山腹の石仏」(1971年)第56回院展内閣総理大臣賞受賞
・「ヒマラヤ連峰」(1976年)第27回芸術選奨文部大臣賞受賞
・「ヒマラヤの花」(1982年)第40回日本芸術院賞受賞

☆福王寺法林関係略年表

・1920年(大正9)11月10日 山形県米沢市矢来町において、上杉藩の槍術師範の家系である父・福王寺政雄、母・せんの長男として生まれる
・1927年(大正15) 6歳の時、父親とともに狩猟に行き、銃の暴発によって左眼を失明する
・1929年(昭和4) 狩野派の画家上村廣成に師事し日本画を学ぶ
・1932年(昭和7) 山形県米沢市立西部尋常小学校を卒業する
・1934年(昭和9) 山形県米沢市立松岬高等小学校を家庭の事情により中退する
・1936年(昭和11) 画家を志望して上京し、文京区根津千駄木町のアパートに住む
・1938年(昭和13) 師・上村廣成が逝去する
・1941年(昭和16) 召集され、中国戦線に配属される
・1945年(昭和20) 香港で捕虜となる
・1946年(昭和21) 復員して山形県米沢市に帰る
・1947年(昭和22) 第8回日本画院展に「ふるさとの山」を出品、渡部愛子と結婚する
・1949年(昭和24) 再興第34回日本美術院展覧会に「山村風景」を出品して初入選、第5回日展に「山」を出品する
・1950年(昭和25) 第35回院展に「朴青葉」、第6回日展に「山」を出品する
・1951年(昭和26) 日本美術院同人田中青坪に師事、第36回院展に「山の変電所」を出品、第7回日展に「山形七日町」を出品、日本美術院院友に推挙される
・1952年(昭和27) 第8回日展に「緑くる朝」を出品する
・1953年(昭和28) 第38回院展に「港町風景」を出品、東京都三鷹市に転居し本格的に絵画制作に取り組む
・1954年(昭和29) 第59回院展に「閑庭」を出品する
・1955年(昭和30) 第10回日本美術院小品展に゜暮夕方」を出品し奨励賞を受賞、第40回院展に「朝」を出品し奨励賞、白寿賞を受賞する
・1956年(昭和31) 第11回小品展に「かりん」を出品し試作賞を受賞、第41回院展に「かりん」を出品し日本美術院次賞、大観賞を受賞する
・1957年(昭和32) 第12回小品展に「朝」を出品、試作賞を受賞、第42回院展に「朴の木」を出品し日本美術院次賞、大観賞を受賞する
・1958年(昭和33) 第13回小品展に「落葉」を出品、試作賞を受賞、第11回日本美術協会展に「落葉」を出品、第43回院展に「麦」を出品、佳作、白寿賞を受賞する
・1959年(昭和34) 第14回日本美術院春季展に「落椿」を出品し奨励賞を受賞、第44回院展に「岩の石仏」を出品し奨励賞、白寿賞を受賞する
・1960年(昭和35) 第15回春季展に「樹間」を出品し奨励賞、第45回院展に「北の海」を出品し日本美術院賞、大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙される
・1961年(昭和36) 濤林会を結成する
・1971年(昭和46) 第56回院展に「山腹の石仏」を出品し内閣総理大臣賞を受賞する
・1974年(昭和49) ネパール、ヒマラヤに取材旅行を行ない、第59回院展に「ヒマラヤ」を出品する
・1976年(昭和51) ネパール、ヒマラヤに取材旅行を行ない、第61回院展に「ヒマラヤ連峰」を出品する
・1977年(昭和52) 前年の「ヒマラヤ連峰」で、第27回芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1978年(昭和53) 日本美術院評議員に選任される
・1982年(昭和57) 第68回院展に「ヒマラヤの花」を出品、紺綬褒章、木杯一組を受ける
・1984年(昭和59) 作品「ヒマラヤの花」で第40回日本芸術院賞を受賞する
・1985年(昭和60) ネパール、ヒマラヤに取材旅行を行ない、第40回春の院展に「聖なる山(エベレスト)」を出品する
・1991年(平成3) 日本美術院理事に選任される
・1994年(平成6) 日本芸術院会員となる
・1997年(平成9) 勲三等瑞宝章を受章する
・1998年(平成10) 文化功労者顕彰を受ける
・2004年(平成16) 文化勲章を受章、米沢市名誉市民顕彰を受ける
・2005年(平成17) 山形県名誉県民顕彰を受ける
・2012年(平成24)2月21日 東京都内の病院において、心不全のため91歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1696年(元禄9)第109代とされる明正天皇(女帝)の命日(新暦12月4日)詳細
1940年(昭和15)神武天皇即位2600年とされる「紀元二千六百年記念行事」が始まる詳細
1951年(昭和26)日教組が第1回全国教育研究大会を開催する詳細
1982年(昭和57)中央自動車道の勝沼IC~ 甲府昭和IC間が開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市が繋がる詳細
2008年〈平成20〉数学者伊藤清の命日詳細
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 今日は、平成時代の1999年(平成11)に、文芸評論家江藤淳の亡くなった日です。
 江藤 淳(えとう じゅん)は、1932年(昭和7)12月25日に、東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)において、銀行員だった父・江頭隆、母・廣子の長男としてに生まれましたが、本名は江頭淳夫(えがしら あつお)と言いました。1937年(昭和12)の4歳半の時、母を結核で失ない、1945年(昭和20)には、太平洋戦争下の空襲で、東京大久保の生家が焼失します。
 戦後、旧制湘南中学(現在の県立湘南高等学校)、旧制都立第一中学校(現在の都立日比谷高等学校)を経て、1953年(昭和28)に慶應義塾大学文学部(教養課程)に進みました。翌年に専門課程への進学に際して英文科を選びましたが、喀血して自宅で療養を余儀なくされます。
 1955年(昭和30)に「三田文学」に『夏目漱石論』を発表、初めて江藤淳を名乗り、1957年(昭和32)に卒業後、大学院文学研究科修士課程に進みました。1958年(昭和33)に『奴隷の思想を排す』を上梓、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対します。
 1959年(昭和34)に講談社から『作家は行動する』を上梓、大学院を中退、1962年(昭和37)にロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学、『小林秀雄』で第9回新潮社文学賞受賞、翌年にはプリンストン大学東洋学科で日本文学史を教えました。1964年(昭和39)に帰国し、1967年(昭和42)に遠山一行、高階秀爾と雑誌『季刊藝術』を創刊(1979年まで刊行)、1970年(昭和45)には、評伝『漱石とその時代』で、第18回菊池寛賞・第23回野間文芸賞を受賞します。
 1971年(昭和46)に東京工業大学助教授となり、翌年に中央教育審議会の委員に就任、1973年(昭和48)には、教授に昇任しました。1975年(昭和50)に、比較文学の手法に立脚した博士論文『漱石とアーサー王伝説』で文学博士号取得、第32回日本芸術院賞(文芸部門)受賞、『海は甦える』で第37回文芸春秋読者賞を受賞します。
 1990年(平成2)に東京工業大学を辞職、翌年に日本芸術院会員となり、1992年(平成4)には、慶應義塾大学環境情報学部教授となりました。1994年(平成6)に第45回NHK放送文化賞を受賞、日本文芸家協会理事長となり、日本文学大賞、文學界新人賞、群像新人文学賞、文藝賞、三島由紀夫賞などの選考委員を務めます。
 1997年(平成9)に定年まで1年を残し慶應義塾を去り、大正大学教授に就任しましたが、翌年暮れに癌により慶子夫人を亡くし、1999年(平成11)に、手記『妻と私』を発表、同年7月21日に、鎌倉市西御門の自宅において、66歳で自殺しました。

〇江藤淳の主要な著作

・『夏目漱石』(1956年)
・『奴隷の思想を排す』(1958年)
・『作家は行動する』(1959年)
・『小林秀雄』(1962年)第9回新潮社文学賞受賞
・『アメリカと私』(1965年)
・『成熟と喪失』(1967年)
・評伝『漱石とその時代』(1970年)第18回菊池寛賞・第23回野間文芸賞受賞
・『一族再会』(1972年)
・『海は甦(よみが)える』(1973年)第37回文芸春秋読者賞受賞
・『海舟余波 わが読史余滴』(1974年)
・『漱石とアーサー王伝説』(1975年)
・『忘れたこと忘れさせられたこと』(1979年)
・『落葉の掃寄せ』(1982年)
・『自由と禁忌』(1984年)
・『近代以前』(1985年)
・文学論『昭和の文人』(1989年)
・評論集『保守とはなにか』(1996年)
・手記『妻と私』(1999年)

☆江藤淳関係略年表

・1932年(昭和7)12月25日 東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)において、銀行員だった父・江頭隆、母・廣子の長男としてに生まれる
・1937年(昭和12) 4歳半の時、母を結核で失う。
・1939年(昭和14) 戸山小学校に入学するも、病弱な上に教師と合わず、不登校になる
・1942年(昭和17) 神奈川県鎌倉市の鎌倉第一国民学校に転校してから学校が好きになり、成績が上昇する
・1945年(昭和20)5月 空襲にて東京大久保の生家が焼失する
・1946年(昭和21) 神奈川県藤沢市の旧制湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)に入学する
・1948年(昭和23) 旧制の東京都立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転校する
・1951年(昭和26) 健康診断で肺浸潤が見つかったため、高校を休学して自宅療養する
・1953年(昭和28) 東京大学文科二類(現在の文科三類に相当)を受験して失敗、慶應義塾大学文学部(教養課程)に進む
・1954年(昭和29)4月 専門課程への進学に際して英文科を選ぶ
・1954年(昭和29)6月 喀血して自宅で療養する
・1955年(昭和30) 『三田文学』に「夏目漱石論」を発表。初めて江藤淳を名乗る
・1957年(昭和32) 慶應義塾大学文学部文学科(英米文学専攻)を卒業後、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に進む
・1958年(昭和33) 文藝春秋から『奴隷の思想を排す』を上梓。石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した
・1959年(昭和34) 講談社から『作家は行動する』を上梓、退学届けを提出し、正式に大学院を中退する
・1962年(昭和37) ロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学する、『小林秀雄』で第9回新潮社文学賞を受賞する
・1963年(昭和38) プリンストン大学東洋学科で日本文学史を教える
・1964年(昭和39) 日本へ帰国する
・1967年(昭和42) 遠山一行、高階秀爾と雑誌『季刊藝術』を創刊(1979年まで刊行)
・1970年(昭和45) 評伝『漱石とその時代』で、第18回菊池寛賞・第23回野間文芸賞を受賞する
・1971年(昭和46) 東京工業大学助教授となる
・1972年(昭和47) 中央教育審議会の委員に就任する
・1973年(昭和48) 東京工業大学教授となる
・1974年(昭和49) 「『フォニイ』考」で、加賀乙彦、辻邦生らの長編を、純文学ならざるものとして批判し、論争となる
・1975年(昭和50) 博士論文『漱石とアーサー王伝説』を慶應義塾大学に提出し、同大学より文学博士号を取得、第32回日本芸術院賞(文芸部門)受賞、『海は甦える』で第37回文芸春秋読者賞を受賞する
・1976年(昭和51) NHKのドキュメンタリー・ドラマ『明治の群像』のシナリオを手掛ける
・1977年(昭和52) 『文學界』1月号掲載の開高健との対談『作家の狼疾』で、埴谷を激怒させ、『江藤淳のこと』を『文藝』に掲載し批判した
・1979年(昭和54) ワシントンのウィルソン・センターで米軍占領下の検閲事情を調査する
・1980年(昭和55) 田中康夫の文藝賞受賞作『なんとなく、クリスタル』を高く評価する
・1982年(昭和57) 『海』4月号で吉本隆明と対談(『現代文学の倫理』)する
・1983年(昭和58) 「ユダの季節」で、保守派の論客である山崎正和、中嶋嶺雄、粕谷一希の党派性を批判し、保守論壇から孤立することとなる
・1988年(昭和63) 『新潮』5月号の創刊1000号記念で、大江健三郎、開高健、石原慎太郎ら同世代の作家と「文学の不易と流行」と題した座談会を行なう
・1990年(平成2) 東京工業大学を辞職する
・1991年(平成3) 日本芸術院会員となる
・1992年(平成4) 慶應義塾大学環境情報学部教授となる
・1994年(平成6) 第45回NHK放送文化賞を受賞、日本文芸家協会理事長となる
・1995年(平成7) 文藝春秋5月号で『皇室にあえて問う』を発表する
・1995年(平成7)12月7日 日本文藝家協会理事長として、公正取引委員会による出版流通の再販制度見直しに反対する声明を出す
・1997年(平成9) 定年まで1年を残し慶應義塾を去り、大正大学教授に就く
・1998年(平成10) 第13回正論大賞を受賞、暮れに癌により慶子夫人が亡くなる
・1999年(平成11)7月21日 鎌倉市西御門の自宅において、66歳で自殺する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)「開拓使官有物払下げ事件」のきっかけとなった官有施設・設備払い下げを決定詳細
1896年(明治29)北京において「日清通商航海条約」が締結される詳細
1940年(昭和15)日本労働総同盟が自主解散を決議し、産業報国会への合流を決める詳細
1941年(昭和16)文部省教学局から『臣民の道』が刊行される詳細
2000年(平成12)写真家渡辺義雄の命日詳細
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