ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本芸術院賞

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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、書家青山杉雨の生まれた日です。
 青山杉雨(あおやま さんう)は、愛知県葉栗郡草井村大字村久野において、次男として生まれましたが、本名は文雄(ふみお)といいました。1916年(大正5)、4歳の時に上京して、東京向島の養母太仁(たに)に育てられ、親戚の大池晴嵐から書の手ほどきを受けます。1930年(昭和5)に旧制芝中学校を卒業後、1934年(昭和9)に東横百貨店に勤務したものの、1937年(昭和12)には退職して、世田谷区尾山台で書道塾を始めます。1941年(昭和16)に第12回泰東書道院展総裁東久邇宮賞を受賞、1942年(昭和17)には、中国留学から戻った西川寧に師事したことが、独自の書風を確立するうえで大きな転機となりました。1945年(昭和20)に横須賀海兵団に入営しましたが、太平洋戦争後の1948年(昭和23)には、「李太白詩」で日展に初入選します。1950年(昭和25)に日展特選となり、1951年(昭和26)に毎日書道展審査員に就任、1954年(昭和29)には、日展審査員となりました。1955年(昭和30)に大東文化大学講師となり、1957年(昭和32)に第1回現代書道二十人展招待作家として出品、1961年 (昭和36)には、謙慎書道会初代理事長に就任しています。1963年(昭和38)に「周易抄」で、第6回日展文部大臣賞を受賞、1965年(昭和40)に全日本書道連盟改組に伴い、特別顧問に就任、1966年 (昭和41)には、「詩経の一節」で、日本芸術院賞を受賞しました。1972年(昭和47)に大東文化大学教授となり、1974年(昭和49)に全国書美術振興会を創立し、顧問となり、1983年 (昭和58)には、日本芸術院会員に選出されます。1984年(昭和59)に読売書法会を創立し、総務に就任、1985年(昭和60)に勲三等旭日中綬章を受章、1986年(昭和61)には、大東文化大学教授を辞め、日本書道教育会議を創立して副会長となりました。1988年(昭和63)に文化功労者となり、1990年(平成2)に成田山書道美術館設立を発議、1992年 (平成4)には、文化勲章を受章しています。篆書、隷書をもとに独自の表現様式を確立してきましたが、1993年(平成5)2月13日に、千葉県において、81歳で亡くなり、従三位と銀杯一組を追贈されました。尚、2010年(平成22)に、遺族の寄付により大東文化大学に青山杉雨賞が設けられたものの、2019年(平成31)で終了しています。

〇青山杉雨の主要な著作

・『青山杉雨書法』(1976年)
・『中国書法名蹟』(1979年)
・『書の実相 中国書道史話』(1982年)
・『江南遊 中国文人風土記』(1983年)
・『明清書道図説』(1986年)
・『文字性霊』(1991年)
・『青山杉雨作品』(1994年)
・『青山杉雨文集』(2005年)

☆青山杉雨関係略年表

・1912年(明治45)6月6日 愛知県葉栗郡草井村大字村久野に、次男として生まれる。
・1916年(大正5) 上京して、東京向島の養母太仁(たに)に育てられる
・1930年(昭和5) 旧制芝中学校を卒業する
・1934年(昭和9) 東横百貨店に勤務する
・1937年(昭和12) 東横百貨店を退職後、世田谷区尾山台で書道塾を始める
・1941年(昭和16) 第12回泰東書道院展総裁東久邇宮賞を受賞する
・1942年(昭和17) 西川寧に師事する
・1945年(昭和20) 横須賀海兵団に入営する
・1948年(昭和23) 「李太白詩」で日展に初入選する
・1950年(昭和25) 日展特選となる
・1951年(昭和26) 毎日書道展審査員に就任する
・1954年(昭和29) 日展審査員となる
・1955年(昭和30) 大東文化大学講師となる
・1957年(昭和32) 第1回現代書道二十人展招待作家として出品する
・1961年 (昭和36) 謙慎書道会初代理事長に就任する
・1963年(昭和38) 「周易抄」で、第6回日展文部大臣賞を受賞する
・1965年(昭和40) 全日本書道連盟改組に伴い、特別顧問に就任する
・1966年 (昭和41) 「詩経の一節」で、日本芸術院賞を受賞する
・1972年(昭和47) 大東文化大学教授となる
・1974年(昭和49) 全国書美術振興会を創立し、顧問となる
・1983年 (昭和58) 日本芸術院会員に選出される
・1984年(昭和59) 読売書法会を創立し、総務に就任する
・1985年(昭和60) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1986年(昭和61) 大東文化大学教授を辞め、日本書道教育会議を創立して副会長となる
・1988年(昭和63) 文化功労者となる
・1990年(平成2) 成田山書道美術館設立を発議する
・1991年(平成3) 第23回日展・天皇陛下御参観の解説をする
・1992年 (平成4) 文化勲章を受章する
・1993年(平成5)2月13日 千葉県において、81歳で亡くなり、従三位と銀杯一組を追贈される
・2010年(平成22) 遺族の寄付により大東文化大学に青山杉雨賞が設けられる(2019年で終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本画家・俳人川端龍子の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家新田次郎の誕生日詳細
1915年(大正4)焼岳(長野県・岐阜県)の噴火により、泥流が梓川をせき止め、堰止湖である大正池を形成する詳細
1949年(昭和24)「土地改良法」公布され、土地改良事業が一本化される詳細
1952年(昭和27)文部省に中央教育審議会(中教審)が設置される詳細
1979年(昭和54)日本が「国際人権規約」の批准を国会で承認する詳細
2019年(令和元)小説家・随筆家田辺聖子の命日詳細
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yamamotokyuujin01
 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、日本画家山本丘人の生まれた日です。
 山本丘人(やまもと きゅうじん)は、東京市下谷区上野広小路(現在の台東区上野3丁目)において、東京音楽学校書記だった父・昇と母・ぬい(縫)の一人息子として生まれましたが、本名は正義(まさよし)と言いました。1913年(大正2)に東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)に入学しましたが、1915年(大正4)には、東京府立工芸学校金属細工科(現在の都立工芸高等学校)へ転入、彫金を学ぶと共に、広瀬東畝、篠田柏邦に日本画の手ほどきを受けます。
 1918年(大正7)に父・昇が亡くなったものの、1919年(大正8)に府立工芸学校卒業後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備科日本画科に入学、1921年(大正10)には、日本画科選科に編入しました。松岡映丘に師事し、1924年(大正13)に卒業後、映丘主催の画塾「木之華社」に入門します。
 1926年(大正15)に新興大和絵会第6回展に出品(以後昭和6年解散時まで毎年出品)、1928年(昭和3)に第9回帝展に「公園の初夏」が初入選し、1929年(昭和4)には、新興大和絵賞・会友に推薦されました。1930年(昭和5)の第11回帝展に「不忍池」が入選し、この作品から雅号「丘人」を使い始め、以後第14回まで連続して入選します。
 1934年(昭和9)に映丘門下の杉山寧、浦田正夫、岡田昇、松岡貞夫らと新日本画研究会「瑠爽画社」を結成、1936年(昭和11)に東京府北多摩郡小金井村(現在の小金井市)に転居、文展に「海の微風」を出品し、特選となりました。1940年(昭和15)に「瑠爽画社」が解散、1943年(昭和18)には、川崎小虎を代表として加藤栄三、東山魁夷らと「国土会」を結成します。
 1944年(昭和19)に東京美術学校日本画科助教授となり、第4回野間美術奨励賞を受賞しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に文部省主催第2回日本美術展覧会(日展)審査員として「望流」を出品、1947年(昭和22)には、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)教授となります。
 1948年(昭和23)に上村松篁ら13名とで「創造美術」を結成、1949年(昭和24)の第2回創造美術展に「草上の秋」を出品、翌年に芸術選奨美術文部大臣賞を受賞しました。1951年(昭和26)に創造美術が新制作派協会(洋画、彫刻、建築)と合同し、新制作協会日本画部となり、国土会解散、東京芸術大学、女子美術大学を辞職します。
 1964年(昭和39)に「異郷落日」に対して日本芸術院賞が贈られ、1977年(昭和52)には、文化勲章を受章、文化功労者として顕彰されました。しかし、1985年(昭和60)に病に倒れ入院し、翌年2月10日に、神奈川県において、急性心不全のため、85歳で亡くなっています。
 尚、1989年(平成元)には、静岡県駿東郡小山町に「山本丘人記念館・美術館夢呂土(むろど)」が開設されました。

〇山本丘人主要な作品

・「海の微風」(1936年)文展特選
・「到春」(1942年)
・「草上の秋」(1949年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「冬岳」(1953年)
・「北濤」(1955年)東京国立近代美術館蔵
・「夕焼山水(ゆうやけさんすい)」(1961年)平木浮世絵財団蔵
・「異郷落日」(1964年)日本芸術院賞受賞
・「狭霧野(さぎりの)」(1970年)

☆山本丘人関係略年表
  
・1900年(明治33)4月15日 東京市下谷区上野広小路(現在の台東区上野3丁目)において、東京音楽学校書記だった父・昇と母・ぬい(縫)の一人息子として生まれる
・1902年(明治35) 下谷区上野桜木町34番地に転居する
・1907年(明治40) 東京市下谷区根岸尋常小学校に入学する
・1913年(大正2) 東京市下谷区根岸尋常小学校を卒業。東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)に入学する
・1915年(大正4) 東京府立工芸学校金属細工科(現在の都立工芸高等学校)へ転入、彫金を学ぶとともに、在学中に広瀬東畝、篠田柏邦に日本画の手ほどきを受ける
・1918年(大正7) 父昇死去(享年数え年53)、第1回国画創作協会第1回展を見学し感銘を受ける
・1919年(大正8) 府立工芸学校を卒業後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備科日本画科に入学する
・1920年(大正9) 夏休みの課題コンクールに「娘之坐像」を出品。教授の松岡映丘に高く評価され、以後薫陶を受ける
・1921年(大正10) 日本画科選科に編入。この年「婦女坐像(青梅)」を制作する
・1924年(大正13) 東京美術学校を「白菊」を制作して卒業後、映丘主催の画塾、木之華社に入門する
・1925年(大正14) 第六回帝展に出品するが落選。この頃、本郷洋画研究所に通う
・1926年(大正15) 新興大和絵会第6回展に出品する(以後昭和6年解散時まで毎年出品)
・1927年(昭和2) 新興大和絵会第7回展に直垂姿の松岡映丘(画人の像)を出品する
・1928年(昭和3) 第9回帝展に「公園の初夏」が初入選する
・1929年(昭和4) 新興大和絵賞・会友に推薦される
・1930年(昭和5) 第11回帝展に「不忍池」が入選。この作品から雅号「丘人」を使い始める。以後第14回まで連続して入選する
・1932年(昭和7) 大野美代と結婚、資生堂ギャラリーにて個展開催する
・1934年(昭和9) 映丘門下の杉山寧、浦田正夫、岡田昇、松岡貞夫らと新日本画研究会「瑠爽画社」を結成、夏に伊豆へ取材旅行をする
・1936年(昭和11) 東京府北多摩郡小金井村貫井243(現・小金井市貫井南町4)に転居、文部省美術展覧会鑑査展(文展)に「海の微風」を出品し、特選となる
・1938年(昭和13) 師、松岡映丘が亡くなる(享年58歳)
・1939年(昭和14) 文展、院展作家12名による「綵尚会」(関尚美堂主催)会員となる
・1940年(昭和15) 「瑠爽画社」が解散、高島屋主催「青丘会」会員となり、岡田昇らが「一采社」を結成、顧問格となる
・1942年(昭和17) 第5回新文展に無鑑査出品する
・1943年(昭和18) 川崎小虎を代表として加藤栄三、東山魁夷らと「国土会」を結成する
・1944年(昭和19) 安田靫彦に呼ばれ、東京美術学校日本画科助教授となり、第4回野間美術奨励賞を受賞する
・1946年(昭和21) 文部省主催第2回日本美術展覧会(日展)審査員として「望流」を出品する
・1947年(昭和22) 向井万吉、広田多津、吉岡堅二、福田豊四郎らと下諏訪へ旅行、女子美術専門学校(現・女子美術大学)教授となる
・1948年(昭和23) 上村松篁、秋野不矩、吉岡堅二、福田豊四郎、加藤栄三、澤宏靭、橋本明治、高橋周桑、菊池隆志、向井久万、奥村厚一、広田多津ら13名で「創造美術」を結成する
・1949年(昭和24) 創造美術研究会を開催、第2回創造美術展に「草上の秋」を出品する
・1950年(昭和25) 「草上の秋」に対して芸術選奨美術文部大臣賞が贈られ、岡鹿之助との交友が始まる
・1951年(昭和26) 橋本明治、加藤栄三、東山魁夷、森田沙夷、杉山寧と「未更会」発足、創造美術が新制作派協会(洋画、彫刻、建築)と合同し、新制作協会日本画部となり、国土会解散、東京芸術大学、女子美術大学を辞職する
・1952年(昭和27) ヴェネツィア・ビエンナーレに「山麓」を出品する
・1954年(昭和29) 小倉遊亀、吉岡堅二らと高島屋主催「鼎会」を発足させる
・1956年(昭和31) 奥村土牛、岡鹿之助、中川一政らと兼素洞主催「雨晴会」発足させる
・1957年(昭和32) ブリジストン美術館で個展を開催する
・1959年(昭和34) 貨物船にて渡欧、4月~6月パリ到着滞在後イタリアを巡り、パリでは岡鹿之助と行動を共にする
・1960年(昭和35) 神奈川県中郡大磯町瀧之沢に転居、第25回新制作展に「夕焼け山水」出品する
・1963年(昭和38) 東山魁夷、杉山寧、高山辰雄、西山英雄らと孔雀画廊主催「五山会」を発足させる
・1964年(昭和39) 「異郷落日」に対して日本芸術院賞が贈られる
・1968年(昭和43) サカモト画廊主催「十一月会」が発足する
・1972年(昭和47) 東急百貨店(東京・渋谷)にて「山本丘人展」が開催される
・1974年(昭和49) 新制作協会日本画部全会員が退会し、新たに「創画会」が発足、日展、院展、創画会の会員により「遊星会」が発足する
・1977年(昭和52) 文化勲章を授章、文化功労者として顕彰され、上村松篁、杉山寧、高山辰雄、東山魁夷らと兼素洞主催「白虹会」を発足する
・1983年(昭和58) 軽い脳溢血を起こし静養、遊星展が終了する
・1985年(昭和60) 美代夫人が亡くなり、病に倒れ入院する
・1986年(昭和61)2月10日 神奈川県において、急性心不全のため、85歳で亡くなる
・1989年(平成元) 静岡県駿東郡小山町に「山本丘人記念館・美術館夢呂土(むろど)」が開設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1710年(宝永7)江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布する(新暦5月13日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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hasudashyuugorou01
 今日は、平成時代の2010年(平成22)に、鋳金作家蓮田修吾郎が亡くなった日です。
 蓮田修吾郎(はすだ しゅうごろう)は、大正時代の1915年(大正4)8月2日に、石川県金沢市野田町において、父・蓮田修一郎、母・つぎの長男として生まれましたが、幼名は修次と言いました。1928年(昭和3)に石川県立工業学校図案絵画科に入学、1933年(昭和8)に卒業、卒業制作「藤下遊鹿」で、御大典記念奨学資金賞を受賞、東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科鋳金部予科に入学し、高村豊周に師事します。
 1938年(昭和13)に卒業、第3回実在工芸美術展では卒業制作の鋳白銅浮彫「龍班スクリーン」で実在工芸賞を受賞しました。1939年(昭和14)から軍役を勤め(~1945年)、1943年(昭和18)に満州の中央銀行造幣廠彫刻課に勤務、太平洋戦争後の1946年(昭和21)に満州国奉天より復員して帰国、金沢市に帰ります。
 1948年(昭和23)に金沢市在住の同人とR工芸集団を設立し作品を発表、1949年(昭和24)の第5回日展に鋳銅「水瓶」を初出品、初入選し、1951年(昭和26)の第7回日展に鋳白銅「鷲トロフィー」を出品、特選・白寿賞を受賞しました。1952年(昭和27)に日展無鑑査となり、1953年(昭和28)の第9回日展に鋳銅浮彫「黒豹スクリーン」を出品、北斗賞を受賞、1959年(昭和34)には、東京芸術大学美術学部非常勤講師となり、第2回日展(新日展)に黄銅浮彫「野牛とニンフ」を出品、文部大臣賞を受賞します。
 1961年(昭和36)の第4回日展に鋳銅浮彫「森の鳴動」を出品、「社団法人 現代工芸美術家協会」の設立に参画、東京芸術大学美術学部助教授に昇任、翌年に「森の鳴動」で日本芸術院賞を受賞しました。1965年(昭和40)にベルリン芸術祭使節として訪独、欧州歴訪、1966年(昭和41)に紺綬褒章を受章、1967年(昭和42)には、神奈川県鎌倉市へ住居を移しアトリエを新築します。
 1969年(昭和44)に社団法人日展が改組され、理事に就任、1971年(昭和46)に神奈川県工芸会の会長、1972年(昭和47)には、現代工芸美術家協会神静会の設立に際し会長に就任しました。1974年(昭和49)に日展の常務理事、1975年(昭和50)に東京芸術大学美術学部の教授に昇任し、日本芸術院会員となり、1976年(昭和51)には、現代工芸美術家協会の副会長となり、東京芸術大学美術学部教授を退任、「日本金属造型研究所」を設立して理事長となります。
 1981年(昭和56)に北方領土返還祈念モニュメント「四島のかけ橋」が完成、現代工芸美術家協会会長、日本金属造型振興会理事長となり、1982年(昭和57)にドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を受章、1983年(昭和58)には、石川県名誉県民、金沢市名誉市民となりました。1987年(昭和62)に文化功労者となり、1991年(平成3)に文化勲章を受章、1992年(平成4)に石川県名誉県民、金沢市名誉市民、1996年(平成8)には日展顧問となります。
 1998年(平成10)に現代工芸美術家協会の最高顧問、2007年(平成19)には、鎌倉市名誉市民となったものの、2010年(平成22)1月6日に、神奈川県鎌倉市の病院において、敗血症のため、95歳で亡くなりました。

〇蓮田修吾郎の主要な著書・作品

<著書>
・『黄銅への道 金属造型作家のあゆみ』(1979年)
・『蓮田修吾郎金属造型』(1981年)
・『公共の空間へ 金属造型作家の活動』(1982年)
・『環境造型への対話』(1986年)

<作品>
・鋳白銅浮彫「龍班スクリーン」(1938年)実在工芸賞受賞
・鋳銅浮彫「黒豹スクリーン」(1953年)北斗賞受賞
・黄銅浮彫「野牛とニンフ」(1959年)文部大臣賞受賞
・鋳銅浮彫「森の鳴動」(1961年)日本芸術院賞受賞
・鋳銅浮彫「仁王の印象」(1962年)
・「朱銅壺 遙か」(1965年)
・「ルルド雲仙」(1975年)
・モニュメント「四島のかけ橋」(1981年)
・モニュメント「森の旋律」(1987年)
・モニュメント「悠颺(ゆうよう)」(1991年)

☆蓮田修吾郎関係略年表

・1915年(大正4)8月2日 石川県金沢市野田町において、父・蓮田修一郎、母・つぎの長男として生まれる
・1922年(大正11) 静岡県立浜松師範附属小学校に入学、「王様クレヨンの全国児童選抜展」に入賞する
・1928年(昭和3) 石川県立工業学校図案絵画科に入学する
・1933年(昭和8) 石川県立工業学校図案絵画科を卒業、卒業制作「藤下遊鹿」で、御大典記念奨学資金賞を受賞、東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科鋳金部予科に入学し、高村豊周に師事する
・1938年(昭和13) 東京美術学校工芸科鋳金部を卒業、第3回実在工芸美術展では卒業制作の鋳白銅浮彫「龍班スクリーン」で実在工芸賞を受賞する
・1939年(昭和14) 軍役をつとめる(~1945年)
・1943年(昭和18) 満州の中央銀行造幣廠彫刻課に勤務する
・1946年(昭和21) 満州国奉天より復員して帰国、金沢市に帰る
・1948年(昭和23) 金沢市在住の同人とR工芸集団を設立し作品を発表する
・1949年(昭和24) 第5回日展に鋳銅「水瓶」を初出品、初入選する
・1951年(昭和26) 第7回日展に鋳白銅「鷲トロフィー」を出品、特選・白寿賞を受賞する
・1952年(昭和27) 日展無鑑査となる
・1953年(昭和28) 第9回日展に鋳銅浮彫「黒豹スクリーン」を出品、北斗賞を受賞する
・1959年(昭和34) 東京芸術大学美術学部非常勤講師となり、第2回日展(新日展)に黄銅浮彫「野牛とニンフ」を出品、文部大臣賞を受賞する
・1961年(昭和36) 第4回日展に鋳銅浮彫「森の鳴動」を出品、「社団法人 現代工芸美術家協会」の設立に参画、東京芸術大学美術学部助教授に昇任する
・1962年(昭和37) 「森の鳴動」で日本芸術院賞を受賞する
・1965年(昭和40) ベルリン芸術祭使節として訪独、欧州歴訪する
・1966年(昭和41) 紺綬褒章を受章する
・1967年(昭和42) 鎌倉へ住居を移しアトリエを新築する
・1969年(昭和44) 社団法人日展が改組、理事に就任する
・1970年(昭和45) 第2回個展を銀座石井三柳堂で開催する
・1971年(昭和46) 神奈川県工芸会の会長に就任する
・1972年(昭和47) 神奈川県と静岡県在住の工芸作家による現代工芸美術家協会神静会の設立に際し会長に就任する
・1973年(昭和48) 第3回個展を日本橋高島屋で開催する
・1974年(昭和49) 日展(改組日展)の常務理事に就任する
・1975年(昭和50) 東京芸術大学美術学部の教授に昇任し、日本芸術院会員となる
・1976年(昭和51) 現代工芸美術家協会の副会長となり、東京芸術大学美術学部教授を退任、「日本金属造型研究所」を設立して理事長となる
・1979年(昭和54) 『黄銅への道 金属造型作家のあゆみ』を出版する
・1981年(昭和56) 北方領土返還祈念モニュメント「四島のかけ橋」が完成、現代工芸美術家協会会長、日本金属造型振興会理事長となる
・1982年(昭和57) ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を受章、『公共の空間へ 金属造型作家の活動』を出版する
・1983年(昭和58) 石川県名誉県民、金沢市名誉市民に認定される
・1987年(昭和62) 文化功労者として顕彰される
・1991年(平成3) 文化勲章を受章、金沢駅モニュメント「悠颺(ゆうよう)」が完成する
・1992年(平成4) 石川県名誉県民、金沢市名誉市民となる
・1996年(平成8) 日展顧問となる
・1998年(平成10) 現代工芸美術家協会の最高顧問に就任する
・2007年(平成19) 鎌倉市名誉市民となる
・2010年(平成22)1月6日 神奈川県鎌倉市の病院において、敗血症のため、95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

757年(天平宝字元)皇族・公卿・歌人橘諸兄の命日(新暦1月30日)詳細
1215年(建保3)鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日)詳細
1822年(文政5)洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の命日(新暦2月27日)詳細
1831年(天保2)禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日)詳細
1902年(明治35)生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の誕生日詳細
1977年(昭和52)国鉄が「一枚のキップから」キャンペーンを開始する詳細
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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、洋画家・版画家小絲源太郞の生まれた日です。小絲源太郞(こいと げんたろう)は、東京市上野(現在の東京都台東区)において、祖々父の代から庶民的な料理屋を営む父・小糸源四郎、母・はなの長男として生まれましたが、本姓は小糸でした。
 1904年(明治37)に東京中学校を卒業し、両親とともに初めて白馬会展にゆき、藤島武二の「蝶」に感動、洋画家になることを決意します。1905年(明治38)に藤島武二の指導する本郷曙町の白馬会駒込研究所に入り素描を学び、海野美盛に塑像の手ほどきをうけ、翌年に東京美術学校西洋画科を受験しましたが、金工科入学となりました。
 在学中の1910年(明治43)の第4回文展に「魚河岸」が初入選し、これが黒田清輝に認められ、西洋画科へ転科をすすめられ、翌年に金工科を卒業し、改めて西洋画科に入学します。1914年(大正3)に糖尿病のため美術学校を休学し、そのまま中途退学し、1918年(大正7)には、病気療養のため画壇を離れることとなりました。
 1922年(大正11)に池之端の生家に戻り、自ら『小絲源太郎画集明治四十三年―大正十一年』を刊行します。1923年(大正12)の関東大震災のため上野池之端の家が焼失、1925年(大正14)に大田区田園調布にアトリエを新築して、画壇に復帰し、翌年には、第1回聖徳太子奉讃展に「秋林暮色」「薬草園」、第7回帝展に「遅日」を出品しました。
 1930年(昭和5)の第11回帝展で「暮春閑情」、翌年の第11回帝展で「暮春閑情」が、続けて特選となり、光風会会員となります。1933年(昭和8)に帝展の審査員、1942年(昭和17)には、文展審査員に就任しました。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に日展審査員に就任、美術団体連合展、日本国際美術展にも出品します。1954年(昭和29)に第2回日本国際美術展出品の「春雪」などで日本芸術院賞を受賞、1959年(昭和34)には、日本芸術院会員となりました。
 1960年(昭和35)に日展理事、1961年(昭和36)に日展常務理事となり、1965年(昭和40)には文化功労者となって、文化勲章も受章します。1969年(昭和44)に改組日展の顧問となり、1974年(昭和49)には、米寿を記念して編集された『小絲源太郎画集1911-1974』が刊行されました。
 1976年(昭和51)に「小絲源太郎展」(渋谷東急本店)が開かれ、初期から近作までの80余点を出品したものの、1978年(昭和53)2月6日に、老衰のため東京都大田区の自宅において、90歳で亡くなっています。

〇小絲源太郞の主要な作品

<絵画>
・「魚河岸」(1910年)第4回文展入選
・「暮春閑情」(1930年) 第11回帝展特選
・「獺祭 (だっさい) 図」(1931年)第12回帝展特選
・「惜春賦」(1932年)第13回帝展出品
・「嬋娟」(1937年)
・「春雪」(1954年)日本芸術院賞受賞
・「山粧ふ」(1956年)
・「田園調布」(1958年)
・「遠雷」(1961年)東京国立近代美術館蔵

<著作>
・随筆集『冬の虹』(1948年)
・随筆集『猿と話をする男』(1952年)
・随筆集『風神雷神』(1954年)

☆小絲源太郞関係略年表

・1887年(明治20)7月13日 東京市上野(現在の東京都台東区)において、祖々父の代から庶民的な料理屋を営む父・小糸源四郎、母・はなの長男として生まれる
・1892年(明治25) 本郷区湯島天神下の練雪小学校へ入学する
・1898年(明治31) 小学校高等科3年のとき、慶応義塾に転学したが寄宿生活を嫌って退学、湯島天神町の医者で漢学者鵜沢正躬の許に預けられ、神田の東京中学校に入学する
・1904年(明治37) 東京中学校卒業、両親とともに初めて白馬会展にゆき、藤島武二の「蝶」に感動、洋画家になることを決意する
・1905年(明治38) 藤島武二の指導する本郷曙町の白馬会駒込研究所に入り素描を学び、海野美盛に塑像の手ほどきをうける
・1906年(明治39) 東京美術学校西洋画科を受験したが金工科入学となり、一方で、白馬会菊坂研究所で素描を学ぶ
・1910年(明治43) 第13回白馬会展「静物」「海辺」「雪」「四条橋」、第4回文展に「魚河岸」が初入選し、これが黒田清輝に認められ、西洋画科へ転科をすすめられる
・1911年(明治44) 東京美術学校金工科を卒業、改めて西洋画科に入学、第5回文展に「屋根の都」を出品、東京美術学校買上げとなる
・1912年(明治45) 第1回光風会に「7月頃」を出品する
・1913年(大正2) 日本橋区本石町泰文社で小糸源太郎洋画小品展覧会を開き、国民美術協会第1回西部展覧会に「静物」「道頓堀」を出品する
・1914年(大正3) 糖尿病のため美術学校を休学し、そのまま中途退学し、第8回文展に「曇り日」(褒状)「雨」「温泉場の夏」を出品する
・1915年(大正4) 初めて長崎を見て感激、第9回文展に「雨のあと」(褒状)、「湯野村」を出品する
・1918年(大正7) 病気療養のため画壇を離れる(8年間)
・1922年(大正11) 池之端の生家に戻り、自ら『小絲源太郎画集明治四十三年―大正十一年』を刊行する
・1930年(昭和5) 第11回帝展で「暮春閑情」が特選となる
・1931年(昭和6) 第12回帝展で「獺祭図」が特選となり、光風会会員となる
・1933年(昭和8) 帝展の審査員に就任する
・1942年(昭和17) 文展審査員に就任する
・1946年(昭和21) 日展審査員に就任する
・1948年(昭和23) 随筆集『冬の虹』を朝日新聞社から出版する
・1952年(昭和27) 東京都大田区田園調布に転居し、随筆集『猿と話をする男』を筑摩書房から出版する
・1954年(昭和29) 第2回日本国際美術展出品の「春雪」などで日本芸術院賞を受賞、随筆集『風神雷神』を読売新聞社から出版する
・1959年(昭和34) 日本芸術院会員となる
・1960年(昭和35) 日展理事となり、朝日新聞主催「小絲源太郎画業五十年展」が銀座松屋で開かれる
・1961年(昭和36) 日展常務理事となる
・1965年(昭和40) 文化功労者となり、文化勲章を受章、第16回NHK紅白歌合戦で審査員の一人を務める
・1969年(昭和44) 改組日展の顧問となる
・1974年(昭和49) 米寿を記念して編集された『小絲源太郎画集1911-1974』が求龍堂から発行される
・1976年(昭和51) 「小絲源太郎展」(渋谷東急本店)が開かれ、初期から近作までの80余点を出品する
・1978年(昭和53)2月6日 老衰のため東京都大田区の自宅において、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1221年(承久3)承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流される(新暦8月2日)詳細
1596年(文禄5)慶長伏見地震が起き、伏見城天守が倒壊するなど死者1,000人以上を出す詳細
1882年(明治15)洋画家青木繁の誕生日詳細
1886年(明治19)東経135度の時刻を日本標準時と定める勅令を公布(日本標準時制定記念日)詳細
1948年(昭和23)優生手術、人工妊娠中絶等について定めた旧「優生保護法」が公布(施行は同年9月11日)される詳細
1967年(昭和42)歌人・書家・文学研究者吉野秀雄の命日詳細
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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、書家・中国書道史家西川寧の亡くなった日です。
 西川寧(にしかわ やすし)は、明治時代後期の1902年〈明治35〉1月25日に、東京市向島区において、明治の書家、西川春洞の三男として生まれました。幼少より書に親しみましたが、13歳の時に父と死別し、東京府立第三中学校を経て、1920年(大正9)に慶應義塾大学文学部予科に入学します。
 1926年(大正15)に慶應義塾大学文学部支那文学科を卒業、同予科講師となりました。1929年(昭和4)に中村蘭台主催の萬華鏡社に加わり、1930年(昭和5)に泰東書道院結成に参加、1931年(昭和6)には、最初の訪中を行い、『六朝の書道』を著します。
 1933年(昭和8)に謙慎書道会を創立、1938年(昭和13)には、外務省在外特別研究員として北京に留学し、中国文学、金石学を研究して、1940年(昭和15)に帰国しました。1941年(昭和16)に『支那の書道(猗園雑纂)』を印行し、1943年(昭和18)には、慶応義塾大学予科教授となり、田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催します。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に慶応義塾大学文学部講師となり、1947年(昭和22)には、東京国立博物館調査員となって、中国書跡の調査・研究にあたりました。1948年(昭和23)に日展審査員となり、1949年(昭和24)には、松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊し、編輯主幹を務めます。
 1950年(昭和25)に日展運営会参事となり、1955年(昭和30)に「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞、1958年(昭和33)には、日展評議員となりました。1959年(昭和34)に東京教育大学教授となり、1960年(昭和35)には、「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で、慶應義塾大学より文学博士を得ます。
 1962年(昭和37)に東京国立博物館調査員を辞め、1964年(昭和39)には、國學院大學、東京大学文学部講師となりました。1965年(昭和40)に東京教育大学教授を辞め、1969年(昭和44)に日本芸術院会員、日展常務理事となり、1972年(昭和47)には、勲三等瑞宝章を受章しています。
 1977年(昭和52)に文化功労者、日展顧問となり、1985年(昭和60)には、日本の書家として初めて文化勲章を受章しました。中国書道全般に関する深い造詣と学識により高い評価を得ましたが、1989年〈平成元〉5月16日に、東京都目黒区の病院において、87歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇西川寧の主要な著作

・『六朝の書道』(1931年)
・『書の変相』(1960年)
・『書というもの』(1969年)
・『猗園雑纂』(1985年)

☆西川寧関係略年表

・1902年〈明治35〉1月25日 東京市向島区において、明治の書家、西川春洞の三男として生まれる
・1920年(大正9) 東京府立第三中学校を卒業し、慶應義塾大学文学部予科に入学する
・1926年(大正15) 慶應義塾大学文学部支那文学科を卒業、同予科講師となる
・1929年(昭和4) 中村蘭台主催の萬華鏡社に加わる
・1930年(昭和5) 泰東書道院結成に参加する
・1931年(昭和6) 最初の訪中を行い、『六朝の書道』を著す
・1933年(昭和8) 謙慎書道会を創立する
・1938年(昭和13) 外務省在外特別研究員として北京に留学する
・1940年(昭和15) 留学先より帰国する
・1941年(昭和16) 『支那の書道(猗園雑纂)』を印行する
・1943年(昭和18) 慶応義塾大学予科教授となり、田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催する
・1946年(昭和21) 慶応義塾大学文学部講師となる
・1947年(昭和22) 東京国立博物館調査員となる
・1948年(昭和23) 日展審査員となる
・1949年(昭和24) 松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊し、編輯主幹をつとめる
・1950年(昭和25) 日展運営会参事となる
・1955年(昭和30) 「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞する
・1958年(昭和33) 日展評議員となる 
・1959年(昭和34) 東京教育大学教授となる
・1960年(昭和35) 「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で、慶應義塾大学より文学博士を得る
・1962年(昭和37) 東京国立博物館調査員を辞める
・1964年(昭和39) 國學院大學、東京大学文学部講師となる
・1965年(昭和40) 東京教育大学教授を辞める
・1969年(昭和44) 日本芸術院会員、日展常務理事となる
・1972年(昭和47) 勲三等瑞宝章を受章する
・1977年(昭和52) 文化功労者、日展顧問となる
・1985年(昭和60) 日本の書家として初めて文化勲章を受章する
・1989年〈平成元〉5月16日 東京都目黒区の病院において、87歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1623年(元和9)囲碁名人・本因坊家初代本因坊算砂の命日(新暦6月13日)詳細
1689年(元禄2)松尾芭蕉が『おくの細道』に旅立った日の新暦換算日(旅の日)詳細
1889年(明治22)東京・上野の宮内省博物館を帝国博物館に改称し、京都・奈良にも設置する官制が出される詳細
11944年(昭和19)北海道の三菱鉱業美唄炭鉱でガス爆発事故が起こり、死者109人を出す詳細
1951年(昭和26)世界保健機関(WHO)が日本の加盟を承認する詳細
1968年(昭和43)1968年十勝沖地震(M7.9)が起き、死者50人・行方不明者2人・負傷者330人を出す詳細
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