
平林たい子(ひらばやし たいこ)は、明治時代後期の1905年(明治38年)10月3日に、長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市)において、没落しつつあった旧家に生まれましたが、本名はタイと言いました。1916年(大正5)頃に、ロシア文学を読んだことがきっかけで作家になることを決心し、1917年(大正6)に諏訪高等女学校へ首席で入学、土屋文明に学び、国木田独歩や志賀直哉に傾倒し、社会主義に関心を持ち始めます。
1922年(大正11)に卒業後、堺利彦に傾倒して上京、電話交換手、店員などの職業を転々としながら、アナーキストグループに近づきましたが、関東大震災で検挙、拘留されました。釈放されると、1924年(大正13)に山本虎三と朝鮮半島や中国東北部を放浪し、帰国後は「ダムダム」「MAVO」(マヴォ)などアナーキストのグループに属します。
1926年(大正15)に朝日新聞懸賞小説に『残品』が入選、林芙美子らと女性作家グループを作り、1927年(昭和2)には、「文芸戦線」同人の小堀甚ニと結婚、『嘲る』が大阪朝日新聞の懸賞小説に入選しました。次いで、労農芸術家連盟に参加し、「文芸戦線」に『施療室』を発表して、新進のプロレタリア作家として認められ、1929年(昭和4)には、第3回渡辺賞を受賞します。
「文芸戦線」派の代表的な作家としてナップ派と対立しましたが、その後、文戦派から去り、ナップに間接的に協力したものの、1937年(昭和12)の第1次人民戦線事件で検挙され、重病になって釈放され、淀橋病院などに入院し、戦争中は沈黙を続けました。太平洋戦争後に創作活動を再開し、1946年(昭和21)に、『一人行く』、『かういう女』、『鬼子母神』、『私は生きる』などを相次いで発表、翌年には、『かういう女』で、第1回女流文学者賞を受賞します。
次第に反共・右派色を強めていき、保守系の言論人団体である日本文化フォーラム・言論人懇話会にも参加するようになりました。1952年(昭和27)にフランスのニースで開かれた世界ペン大会に出席、以降ドイツや韓国、フィリピン、ノルウェーなどを歴訪、講演や会議に出席しましたが、1954年(昭和29)には、小堀甚ニと離婚しています。
1957年(昭和32)に長編自伝小説『砂漠の花』を発表、1960年(昭和35)には、『自伝的交友録・実感的作家論』を刊行しました。1968年(昭和43)には、『秘密』によって第7回女流文学賞を受賞したものの、1972年(昭和47)2月17日に、東京の慶應義塾大学病院において、急性肺炎のため、市川房枝らにみとられて、66歳で亡くなります。
女流文学者会葬が行われ、没後に第28回日本芸術院恩賜賞(文芸部門)を受賞、遺言によって、「平林たい子文学賞」が創設されされましたが、1997年(平成)の第25回目をもって終了しました。
1922年(大正11)に卒業後、堺利彦に傾倒して上京、電話交換手、店員などの職業を転々としながら、アナーキストグループに近づきましたが、関東大震災で検挙、拘留されました。釈放されると、1924年(大正13)に山本虎三と朝鮮半島や中国東北部を放浪し、帰国後は「ダムダム」「MAVO」(マヴォ)などアナーキストのグループに属します。
1926年(大正15)に朝日新聞懸賞小説に『残品』が入選、林芙美子らと女性作家グループを作り、1927年(昭和2)には、「文芸戦線」同人の小堀甚ニと結婚、『嘲る』が大阪朝日新聞の懸賞小説に入選しました。次いで、労農芸術家連盟に参加し、「文芸戦線」に『施療室』を発表して、新進のプロレタリア作家として認められ、1929年(昭和4)には、第3回渡辺賞を受賞します。
「文芸戦線」派の代表的な作家としてナップ派と対立しましたが、その後、文戦派から去り、ナップに間接的に協力したものの、1937年(昭和12)の第1次人民戦線事件で検挙され、重病になって釈放され、淀橋病院などに入院し、戦争中は沈黙を続けました。太平洋戦争後に創作活動を再開し、1946年(昭和21)に、『一人行く』、『かういう女』、『鬼子母神』、『私は生きる』などを相次いで発表、翌年には、『かういう女』で、第1回女流文学者賞を受賞します。
次第に反共・右派色を強めていき、保守系の言論人団体である日本文化フォーラム・言論人懇話会にも参加するようになりました。1952年(昭和27)にフランスのニースで開かれた世界ペン大会に出席、以降ドイツや韓国、フィリピン、ノルウェーなどを歴訪、講演や会議に出席しましたが、1954年(昭和29)には、小堀甚ニと離婚しています。
1957年(昭和32)に長編自伝小説『砂漠の花』を発表、1960年(昭和35)には、『自伝的交友録・実感的作家論』を刊行しました。1968年(昭和43)には、『秘密』によって第7回女流文学賞を受賞したものの、1972年(昭和47)2月17日に、東京の慶應義塾大学病院において、急性肺炎のため、市川房枝らにみとられて、66歳で亡くなります。
女流文学者会葬が行われ、没後に第28回日本芸術院恩賜賞(文芸部門)を受賞、遺言によって、「平林たい子文学賞」が創設されされましたが、1997年(平成)の第25回目をもって終了しました。
〇平林たい子の主要な著作
・『残品』(1926年)朝日新聞懸賞小説入選
・『嘲(あざけ)る』(1927年)大阪朝日新聞の懸賞小説入選
・『施療室にて』(1927年)
・『敷設列車』(1929年)
・『かういふ女』(1946年)第1回女流文学者賞受賞
・『鬼子母神』(1946年)
・『私は生きる』(1947年)
・『地底の歌』(1949年)
・『砂漠の花』(1957年)
・『自伝的交友録・実感的作家論』(1960年)
・『秘密』(1967年)第7回女流文学賞受賞
・『宮本百合子』(1971~72年)
☆平林たい子関係略年表
・1905年(明治38)10月3日 長野県諏訪郡中洲村(諏訪市)において、生まれる
・1916年(大正5) ロシア文学を読んだことがきっかけで作家になることを決心する
・1917年(大正6) 諏訪高等女学校へ首席で入学する
・1922年(大正11) 諏訪高等女学校を卒業後、堺利彦に傾倒して上京、アナーキストグループに近づくが、関東大震災で検挙、拘留される
・1924年(大正13) 山本虎三と朝鮮半島や中国東北部を放浪する
・1926年(大正15) 朝日新聞懸賞小説に『残品』が入選、林芙美子らと女性作家グループを作る
・1927年(昭和2) 小堀甚ニと結婚、『嘲る』が大阪朝日新聞の懸賞小説に入選、次いで、労農芸術家連盟に参加し、「文芸戦線」に『施療室』を発表して、プロレタリア作家として認められる
・1929年(昭和4) 第3回渡辺賞を受賞する
・1937年(昭和12) 第1次人民戦線事件で検挙されたが、重病により釈放される
・1946年(昭和21) 『一人行く』『かういう女』『鬼子母神』『私は生きる』などを相次いで発表する
・1947年(昭和22) 『かういう女』で、第1回女流文学者賞を受賞する
・1952年(昭和27) ニースで開かれた世界ペン大会に出席、以降ドイツや韓国、フィリピン、ノルウェーなどを歴訪、講演や会議に出席する
・1954年(昭和29) 小堀甚ニと離婚する
・1957年(昭和32) 長編自伝小説『砂漠の花』を発表する
・1960年(昭和35) 『自伝的交友録・実感的作家論』を刊行する
・1968年(昭和43) 『秘密』によって第7回女流文学賞を受賞、病苦の中で『宮本百合子』が遺作となる
・1972年(昭和47)2月17日 東京の慶應義塾大学病院において、急性肺炎のため、市川房枝らにみとられて、66歳で亡くなって女流文学者会葬が行われ、没後に第28回日本芸術院恩賜賞(文芸部門)を受賞する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1272年(文永9) | 第88代の天皇とされる後嵯峨天皇の命日(新暦3月17日) | 詳細 |
1906年(明治39) | 大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となり、文芸協会が結成される | 詳細 |
1928年(昭和3) | 国語学者・国語辞典『言海』の編纂者である大槻文彦の命日 | 詳細 |
1946年(昭和21) | 「金融緊急措置令」(勅令第83号)が発布・施行される | 詳細 |
1955年(昭和30) | 小説家・評論家・随筆家坂口安吾の命日(安吾忌) | 詳細 |
2005年(平成17) | 愛知県常滑市に中部国際空港(愛称:セントレア)が開港する | 詳細 |