ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本芸術院会員

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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、小説家・文化庁長官だった三浦朱門が生まれた日です。
 三浦 朱門(みうら しゅもん)は、大正時代の1926年(大正15)1月12日に、東京府豊多摩郡(現在の東京都中野区)において、イタリア文学者だった父・三浦逸雄の子として生まれました。東京府立第二中学校(現在の都立立川高等学校)から旧制高知高等学校へ入学しましたが、1945年(昭和20)に陸軍二等兵として千葉県我孫子で入隊、千葉県の仮兵舎で敗戦を迎えます。
 復学後、1948年(昭和23)に東京大学文学部言語学科を卒業、日本大学芸術学部非常勤講師となりました。1950年(昭和25)に第17次『新思潮』に参加、1951年(昭和26)に『画鬼』(のちに『冥府(めいふ)山水図』)を発表し、「芥川龍之介の再来」と呼ばれるようになり、1952年(昭和27)には、日本大学芸術学部助教授となり、『斧と馬丁』で芥川賞候補となり、「第三の新人」の一人として活躍します。
 1953年(昭和28)に同人仲間だった曾野綾子と結婚、1967年(昭和42)には、日本大学芸術学部教授となり、『箱庭』で、第14回新潮社文学賞を受賞しました。しかし、1969年(昭和44)の日大闘争で学生からも孤立し、赤塚行雄とともに辞職したものの、翌年には、聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章しています。
 1983年(昭和58)に『武蔵野インディアン』で、第33回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、1985年(昭和60)には文化庁長官(~1986年)となりました。1987年(昭和62)に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞し、日本芸術院会員となり、1988年(昭和63)には、日本文芸家協会理事長(~1994年)となります。
 1991年(平成3)に中部大学女子短期大学学長(~1995年)となり、1999年〈平成11〉には、第14回産経正論大賞を受賞し、文化功労者ともなりました。2004年(平成16)に日本芸術院の院長(~2014年)となりましたが、2017年(平成29)2月3日に、東京都において、間質性肺炎のため91歳で亡くなっています。

〇三浦朱門の主要な著作

・『斧と馬丁』(1952年)芥川賞候補
・『聖陵勲章』(1953年)
・『冥府(めいふ)山水図』(1955年)
・『礁湖』(1957年)
・『不肖の父』(1958年)
・『セルロイドの塔』(1960年)
・『神話』(1966年)
・『箱庭』(1967年)新潮文学賞受賞
・『教えの庭』(1969年)
・『竹馬の友』(1969年)
・『道の半ばに』(1969年)
・『鴉(からす)』(1971年)
・『武蔵野(むさしの)インディアン』(1982年)第33回芸術選奨文部科学大臣賞受賞
・『望郷』(1987年)
・『ささやかな不仕合わせ』(1987年)

☆三浦朱門関係略年表

・1926年(大正15)1月12日 東京府豊多摩郡(現在の東京都中野区)において、イタリア文学者だった父・三浦逸雄の子として生まれる
・1945年(昭和20) 陸軍二等兵として千葉県我孫子で入隊、千葉県の仮兵舎で敗戦を迎える
・1948年(昭和23) 東京大学文学部言語学科を卒業、日本大学芸術学部非常勤講師となる
・1950年(昭和25) 第17次『新思潮』に参加する
・1951年(昭和26) 『画鬼』(のちに『冥府(めいふ)山水図』)を発表し、「芥川龍之介の再来」と呼ばれるようになる
・1952年(昭和27) 日本大学芸術学部助教授となり、『斧と馬丁』で芥川賞候補となる
・1953年(昭和28) 同人仲間だった曾野綾子と結婚する
・1967年(昭和42) 日本大学芸術学部教授となり、『箱庭』で、第14回新潮社文学賞を受賞する
・1969年(昭和44) 日大闘争で学生からも孤立し、赤塚行雄とともに辞職する
・1970年(昭和45) 聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章する
・1983年(昭和58) 『武蔵野インディアン』で、第33回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞する
・1985年(昭和60) 文化庁長官となる
・1986年(昭和61) 文化庁長官を辞める
・1987年(昭和62) 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞し、日本芸術院会員となる
・1988年(昭和63) 日本文芸家協会理事長となる
・1991年(平成3) 中部大学女子短期大学学長となる
・1994年(平成6) 日本文芸家協会理事長を辞める
・1995年(平成7) 中部大学女子短期大学学長を辞める
・1999年〈平成11〉 第14回産経正論大賞を受賞し、文化功労者となる
・2004年(平成16) 日本芸術院の院長となる
・2014年(平成26) 日本芸術院の院長を辞める
・2017年(平成29)2月3日 東京都において、間質性肺炎のため91歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

866年(慶応2)仏教学者・チベット探検家河口慧海の誕生日(新暦2月26日)詳細
1869年(明治2)洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日)詳細
1874年(明治7)板垣退助らが日本初の政党となる愛国公党を結成する詳細
1903年(明治36)日本画家岩橋英遠の誕生日詳細
1914年(大正3)桜島大正大噴火が始まる詳細
1954年(昭和29)文化財保護委員会が奈良市・大和郡山市の平城京跡の発掘を開始する詳細
2019年(平成31)哲学者梅原猛の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、彫刻家北村西望の生まれた日です。
 北村西望(きたむら せいぼう)は、明治時代前期の1884年(明治17)12月16日に、長崎県南高来郡南有馬村(現在の南島原市)において、旧名家だった父・北村陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子として生まれましたが、本名は「にしも」と読みます。。1900年(明治33)に、有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)されましたが、1901年(明治34)に母校の白木野小学校に転じて、代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめ、1902年(明治35)に、長崎師範学校に入学したものの、風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養します。
 1903年(明治36)に京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学しましたが、1907年(明治40)に卒業後、上京して東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学しました。在学中の1908年(明治41)に第2回文展への出品作「憤闘」が初入選し、以来毎年出品するようになりました。
 1912年(明治45)に東京美術学校を首席で卒業、1915年(大正4)に第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、第9回文展で「怒涛」が二等賞に入賞し認められます。1916年(大正5)の第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成、翌年の第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となり、東京市滝野川区(現在の東京都北区)に居を構え、制作につとめるようになりました。
 1919年(大正8)の第1回帝展以降審査員を務め、曠原社を結成、1921年(大正10)に東京美術学校塑造部教授となり、1922年(大正11)には、彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設します。1925年(大正14)に帝国美術院会員となり、1931年(昭和6)には、京都市立美術工芸学校教諭となりました。
 1944年(昭和19)の敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行ないます。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本芸術院会員、1949年(昭和24)に日展理事となり、1953年(昭和28)には、東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設しました。
 1955年(昭和30)に5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品し、1958年(昭和33)には、文化勲章を受章、文化功労者となり、日本芸術院選考委員となります。1962年(昭和37)に武蔵野市名誉市民、日本彫塑会名誉会長となり、1969年(昭和44)に紺綬褒章を受章、社団法人日展会長(~1974年)に就任、1972年(昭和47)には、島原市名誉市民となり、市内に記念館が開設されました。
 1980年(昭和55)に東京都名誉都民、1981年(昭和56)に東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となったものの、1987年(昭和62)3月4日に、東京都武蔵野市の自宅において、心不全のため102歳で亡くなっています。

〇北村西望の主要な作品

<彫刻>
・「憤闘」(1908年)第2回文展入選
・「怒濤」(1915年)第9回文展二等賞
・「晩鐘」(1916年)第10回文展特選 東京国立近代美術館蔵
・「燈臺」(1931年)東京銀座・数寄屋橋公園
・巨像「長崎平和祈念像」(1955年)長崎平和公園

<著作>
・『百歳のかたつむり』

☆北村西望関係略年表

・1884年(明治17)12月16日 長崎県南高来郡南有馬村(現在の南島原市)において、旧名家だった父・北村陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子として生まれる
・1892年(明治25) 白木野尋常小学校に入学する
・1896年(明治29) 有馬尋常高等小学校に進む
・1900年(明治33) 有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)される
・1901年(明治34) 母校の白木野小学校に転じて、月給6円の代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめると
・1902年(明治35) 長崎師範学校に入学したが、風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養する
・1903年(明治36) 京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学する
・1907年(明治40) 京都市立美術工芸学校卒業後、上京し東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学する
・1908年(明治41) 第2回文展への出品作「憤闘」が初入選する
・1909年(明治42) 第3回文展で「雄風」が褒状を受賞する
・1911年(明治44) 第5回文展で「壮者」も褒状を受賞する
・1912年(明治45) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)を首席で卒業する
・1915年(大正4) 第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、第9回文展で「怒涛」が二等賞に入賞し認められる
・1916年(大正5) 第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成する
・1917年(大正6) 第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となり、東京市滝野川区(現在の東京都北区)に居を構え、制作につとめる
・1919年(大正8) 第1回帝展以降審査員を務め、曠原社(こうげんしゃ)を結成する
・1921年(大正10) 東京美術学校塑造部教授となる
・1922年(大正11) 彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設する
・1925年(大正14) 帝国美術院会員となる
・1931年(昭和6) 京都市立美術工芸学校教諭となる
・1932年(昭和7) ロサンゼルスオリンピック芸術競技に「The Repose (Boxing)」を出品する
・1933年(昭和8) 2年前の1931年第12回帝展に出品した作品『燈臺』を震災記念碑として東京銀座・数寄屋橋公園に設置、東邦彫塑院顧問を務める
・1944年(昭和19) 敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行なう
・1947年(昭和22) 日本芸術院会員となる
・1949年(昭和24) 日展理事となる
・1953年(昭和28) 東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設する
・1955年(昭和30) 5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品する
・1958年(昭和33) 文化勲章を受章、文化功労者となり、日本芸術院選考委員となる
・1962年(昭和37) 武蔵野市名誉市民となり、日本彫塑会名誉会長となる
・1969年(昭和44) 紺綬褒章を受章、社団法人日展会長(~1974年)に就任する
・1972年(昭和47) 島原市名誉市民となり、市内に記念館が開設される
・1974年(昭和49) 日展名誉会長となる。
・1979年(昭和54) 生地の南有馬町の名誉町民となる。町内に西望公園が設置された
・1980年(昭和55) 東京都名誉都民となる
・1981年(昭和56) 東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となる
・1986年(昭和61) 12月より風邪を患い自宅静養となる
・1987年(昭和62)3月4日 東京都武蔵野市の自宅において、心不全のため102歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始する(電話創業の日)詳細
1907年(明治40)洋画家浅井忠の命日詳細
1932年(昭和7)東京市日本橋で白木屋大火災が起きる詳細
1966年(昭和41)国際連合総会で「国際人権規約」が採択される詳細
1971年(昭和46)全国4番目の地下鉄の札幌市営地下鉄初の北二四条駅~真駒内駅間(南北線)が開業する詳細
1972年(昭和47)全国5番目の地下鉄の横浜市営地下鉄初の伊勢佐木長者町駅~上大岡駅間(1号線)が開業する詳細
1988年(昭和63)洋画家小磯良平の命日詳細
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 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、日本画家佐藤太清が亡くなった日です。
 佐藤太清(さとう たいせい)は、大正時代の1913年(大正2)11月10日に、京都府福知山市字岡ノ上において、天田郡役所に勤務していた父・佐藤平馬、母・まさの四男として生まれましたが、本名は實(みのる)と言いました。福知山惇明尋常高等小学校を経て、1931年(昭和6)に福知山実践商業学校を卒業し、上京します。
 東京外国語大学を中退後、1933年(昭和8)には、児玉希望塾に内弟子(~1936年)として入門し、雅号を「太清」としました。花鳥画と風景画を得意とし、1943年(昭和18)に「かすみ網」が、第6回新文展で初入選し、1947年(昭和22)には、「清韻」が、第3回日展で特選を受賞します。
 1952年(昭和27)の第8回日展で、「睡蓮」が特選、「罌粟」が朝倉賞を受賞、「雨の日」が第3回日月社展で奨励賞を受賞しました。1955年(昭和30)に武蔵野美術大学参与となり、1958年(昭和33)に1959年(昭和34) 第2回新日展の審査員をつとめ、「寂」を出品、1960年(昭和35)には、新日展会員となります。
 1965年(昭和40)に日展評議員に就任、日春会の委員となり、1966年(昭和41)に「風騒」で、第9回新日展文部大臣賞を受賞、翌年には、日本芸術院賞を受賞しました。1971年(昭和46)に日展理事、翌年に社団法人日本美術家連盟委員、1973年(昭和48)には、東京都美術館後援会理事に就任しています。
 1977年(昭和52)に日展理事、翌年には、東京国立美術展覧会会場建設委員、日本美術家連盟委員に就任しました。1980年(昭和55)に日本芸術院会員、1981年(昭和56)に日展常務理事、1983年(昭和58)には、日展事務局長に就任しています。
 1985年(昭和60)に勲三等瑞宝章を受章、日展理事長(~1987年)に就任、1988年(昭和63)には、文化功労者となり、日中文化交流協会常任理事に就任しました。1992年(平成4)に文化勲章を受章、翌年に福知山市名誉市民となりましたが、1995年(平成7)に腹部大動脈瘤の手術を受けています。
 繊細で写実的な表現方法で、叙情的な花鳥画や風景画を描き、日本画壇に新境地を開きましたが、2004年(平成16)11月6日に、東京都板橋区において、多器臓不全のため90歳で亡くなり、従三位を追叙され、平成16年度区民文化栄誉賞(板橋区文化振興財団)、区政功労表彰(板橋区)が贈られました。

<佐藤太清代表的な作品>

・「かすみ網」(1943年・板橋区立美術館蔵)第6回新文展初入選
・「清韻」(1947年・山種美術館蔵)第3回日展特選受賞
・「竹窗細雨」(1951年・埼玉県立近代美術館蔵)
・「睡蓮」(1952年)第8回日展特選受賞
・「樹」(1956年・佐久市立近代美術館蔵)
・「寂」(1959年・東京都現代美術館蔵)
・「風騒」(1966年・日本芸術院蔵)第9回新日展文部大臣賞・日本芸術院賞受賞
・「燄」(1967年・茨城県近代美術館蔵))
・「洪」(1968年・福知山市佐藤太清記念美術館蔵)
・「緑雨」(1970年・東京国立近代美術館蔵)
・「夢殿」(1972年・所蔵先非公開)
・「昏」(1974年、愛媛県立美術館蔵)
・「雨の天壇」(1979年・日本芸術院蔵)
・「東大寺暮雪」(1975年・広島県立美術館蔵)
・「旅の朝」(1980年・所蔵先非公開)
・「旅の夕暮」(1981年・愛知県美術館蔵)
・「最果の旅」(1983年・福知山市佐藤太清記念美術館蔵)
・「旅愁」(1986年・光記念館蔵)

〇佐藤太清関係略年表

・1913年(大正2)11月10日 京都府福知山市字岡ノ上において、天田郡役所に勤務していた父・佐藤平馬、母・まさの四男として生まれる
・1921年(大正10) 福知山惇明尋常高等小学校入学する
・1927年(昭和2) 福知山惇明尋常高等小学校を卒業し、福知山実践商業学校に入学する
・1931年(昭和6) 福知山実践商業学校を卒業し、上京する
・1933年(昭和8) 児玉希望塾に内弟子(~1936年)として入門する
・1943年(昭和18) 「かすみ網」が、第6回新文展で初入選する
・1945年(昭和20) 第1回現代美術展覧会(朝日新聞社主催)に「迎春」を招待出品する
・1947年(昭和22) 「清韻」が、第3回日展で特選を受賞する
・1948年(昭和23) 「幽韻」が、第4回日展無鑑査出品となる
・1951年(昭和26) 「朝顔」が、第4回美術協会展で佳作賞を受賞する
・1952年(昭和27) 第8回日展で、「睡蓮」が特選、「罌粟」が朝倉賞を受賞、「雨の日」が第3回日月社展で奨励賞を受賞する
・1953年(昭和28) 第4回日月社展の審査員をつとめ、「阿修羅」を出品する
・1955年(昭和30) 武蔵野美術大学参与となる
・1958年(昭和33) 「尾山幟・佐藤太清二人展」を東洋美術館画廊(東京都・銀座)で開催する
・1959年(昭和34) 第2回新日展の審査員をつとめ、「寂」を出品する
・1960年(昭和35) 新日展会員となる
・1962年(昭和37) 第5回新日展の審査員をつとめ、「冬日」を出品する
・1965年(昭和40) 日展評議員に就任、日春会の委員となる
・1966年(昭和41) 「風騒」で、第9回新日展文部大臣賞を受賞、第1回日春展審査員となり「尾瀬」を出品する
・1967年(昭和42) 前年に出品した「風騒」で、日本芸術院賞を受賞する
・1968年(昭和43) 第11回新日展の審査員をつとめ、「洪」を出品、外務省の委嘱により国連本部(米国・ニューヨーク)に納める「白鷺」を制作する
・1970年(昭和45) 日春展運営委員となり第5回展の審査をつとめる
・1971年(昭和46) 日展理事に就任、第3回日展の審査員をつとめ、「無」出品する
・1972年(昭和47) 外務省の委嘱により在中国日本国大使館(中国・北京)に「孔雀」(昭和36年日展出品)を納め、社団法人日本美術家連盟委員に就任する
・1973年(昭和48) 第5回日展の審査員をつとめ、「清韻」を出品、第8回日春展の審査員をつとめ、「水辺」を出品、東京都美術館後援会理事に就任する
・1975年(昭和50) 日展監事、日本美術家連盟委員に就任する
・1976年(昭和51) 第8回日春展の審査員をつとめ、「孟春」(たげり)を出品する
・1977年(昭和52) 日展理事に就任、第9回日展の審査員をつとめ、「蓮」を出品、第8回日春展の審査員をつとめ、「パンジー」を出品する
・1978年(昭和53) 第10回日展の審査員をつとめ、「朝霧」を出品、東京国立美術展覧会会場建設委員、日本美術家連盟委員に就任する
・1979年(昭和54) 現代日本絵画展開催に際し文化使節として中国を訪問する
・1980年(昭和55) 日本芸術院会員となる
・1981年(昭和56) 日展常務理事に就任、渡欧してフランス、イタリア、バチカン等を訪れる
・1982年(昭和57) メキシコのマヤ遺跡を訪れる
・1983年(昭和58) 日展事務局長に就任する
・1984年(昭和59) 「佐藤太清展」(読売新聞社主催)を松屋銀座、大阪大丸にて開催する
・1985年(昭和60) 勲三等瑞宝章を受章、日展理事長(~1987年)に就任する
・1987年(昭和62) 「現代作家デッサン・シリーズI 佐藤太清展」(朝日新聞社主催)を松屋銀座(東京都・銀座)で開催する
・1988年(昭和63) 文化功労者となり、日中文化交流協会常任理事に就任する
・1992年(平成4) 文化勲章を受章する
・1993年(平成5) 福知山市名誉市民となり、福知山市美術館にて、「文化勲章記念 佐藤太清展」開催する
・1995年(平成7) 腹部大動脈瘤の手術を受ける
・1996年(平成8) 若い世代への美術奨励のために板橋区に「佐藤青少年美術奨励基金」が創設される
・2004年(平成16)11月6日 東京都板橋区において、多器臓不全のため90歳で亡くなり、従三位を追叙され、平成16年度区民文化栄誉賞(板橋区文化振興財団)、区政功労表彰(板橋区)が贈られる。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1717年(享保2)地理学者・儒学者長久保赤水の誕生日(新暦12月8日)詳細
1906年(明治39)考古学者で「騎馬民族説」を唱えた江上波夫の誕生日詳細
1937年(昭和12)「日独伊防共協定」が調印される詳細
1938年(昭和13)北海道の北炭夕張炭鉱(天竜坑)で爆発事故が起こり、死者161人、負傷者21人を出す詳細
1943年(昭和18)大東亜会議において「大東亜共同宣言」が出される詳細
1945年(昭和20)GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する詳細
1975年(昭和50)俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の命日(桂郎忌)詳細
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 今日は、平成時代の2000年(平成12)に、芸術家・皮革工芸家大久保婦久子が亡くなった日です。
 大久保婦久子(おおくぼ ふくこ)は、大正時代の1919年(大正8)1月19日に、静岡県加茂郡下田町(現在の下田市)において生まれましたが、本名はふくと言いました。静岡県立下田高等女学校(現在の県立下田南高等学校)を経て、1935年(昭和10)に、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)師範科西洋画部に入学し、在学中に皮革染織を学びます。
 1939年(昭和14)に同校を卒業し、最初は画家を志ざしましたが、戦後は、本格的に皮革工芸に取り組みました。1950年(昭和25)に東京銀座資生堂で個展を開催し、翌年から山崎覚太郎に師事、1952年(昭和27)には、「逍遥」(3枚折りスクリーン)で、第8回日展に初入選します。
 1955年(昭和30)に「春昼」(キャビネット)で、第1回新日展北斗賞を受賞し、1958年(昭和33)には、単身で渡欧し、皮革工芸研究のためイタリアに滞在しました。1961年(昭和36)に「うたげ」で、第4回新日展特選および北斗賞を受賞、翌年には、日展無鑑査となり、第1回現代工芸美術協会展に「黒い太陽」を出品して初入選します。
 1964年(昭和39)に「まりも」で第7回日展菊華賞を受賞、1965年(昭和40)に日展工芸部審査員および現代工芸美術協会会員、1966年(昭和41)には、日展会員となりました。1969年(昭和44)に総合美術展「潮」を結成、1981年(昭和56)に「折」で、第20回日本現代工芸美術展内閣総理大臣賞、1983年(昭和58)に「神話」で、第39回日本芸術院賞を受賞しています。
 1985年(昭和60)に皮革工芸では初の日本芸術院会員となり、現代工芸美術家協会副会長、1986年(昭和61)に日展常務理事に就任、1987年(昭和62)には、皮革造型グループ「ド・オーロ」を結成し、その同人となりました。1989年(平成元)に勲三等瑞宝章を受章、郷里の静岡県立美術館で「大久保婦久子展」を開催、1995年(平成7)には、文化功労者となります。
 2000年(平成12)11月3日に文化勲章を受章したものの、翌日に東京都新宿区の病院において、心不全のため81歳で亡くなりました。同年12月に、郷里の下田市から名誉市民の称号を追贈され、2004年(平成16)には、大久保の作品の有効利用および皮革工芸技術の伝承を図ることを目的に、下田市が「大久保婦久子顕彰基金条例」を制定しています。

〇大久保婦久子関係略年表

・1919年(大正8)1月19日 静岡県加茂郡下田町(現在の下田市)において、生まれる
・1931年(昭和6) 下田尋常高等小学校を卒業し、静岡県立下田高等女学校(現在の県立下田南高等学校)に入学する
・1935年(昭和10) 静岡県立下田高等女学校を卒業し、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)師範科西洋画部に入学する
・1939年(昭和14) 女子美術専門学校師範科西洋画部を卒業する
・1950年(昭和25) 東京銀座資生堂で個展を開催する
・1951年(昭和26) 山崎覚太郎に師事する
・1952年(昭和27) 「逍遥」(3枚折りスクリーン)で、第8回日展に初入選する
・1953年(昭和28) 「四季」(4枚折りスクリーン)を第9回日展に出品、「向日葵」を第39回光風展に出品する
・1955年(昭和30) 「春昼」(キャビネット)で、第1回新日展北斗賞を受賞する
・1958年(昭和33) 単身で渡欧し、皮革工芸研究のためイタリアに滞在する
・1961年(昭和36) 「うたげ」で、第4回新日展特選および北斗賞を受賞する
・1962年(昭和37) 日展無鑑査となり、第1回現代工芸美術協会展に「黒い太陽」を出品して初入選する
・1964年(昭和39) 「まりも」で第7回日展菊華賞を受賞する
・1965年(昭和40) 日展工芸部審査員および現代工芸美術協会会員となる
・1966年(昭和41) 日展会員となる
・1969年(昭和44) 総合美術展「潮」を結成する
・1979年(昭和54) 中国へ旅行する
・1980年(昭和55) 現代女流美術展に招待出品、光風会を退会する
・1981年(昭和56) 「折」で、第20回日本現代工芸美術展内閣総理大臣賞を受賞する
・1982年(昭和57) 第14回日展に「神話」を出品する
・1983年(昭和58) 「神話」で、第39回日本芸術院賞を受賞する
・1985年(昭和60) 皮革工芸では初の日本芸術院会員となり、現代工芸美術家協会副会長に就任する
・1986年(昭和61) 日展常務理事に就任する
・1987年(昭和62) 皮革造型グループ「ド・オーロ」を結成し、その同人となる。
・1989年(平成元) 勲三等瑞宝章を受章、郷里の静岡県立美術館で「大久保婦久子展」を開催する
・1995年(平成7) 文化功労者となる
・2000年(平成12)11月3日 文化勲章を受章する
・2000年(平成12)11月4日 東京都新宿区の病院において、心不全のため81歳で亡くなり、郷里の下田市から名誉市民の称号を追贈される
・2004年(平成16) 大久保の作品の有効利用および皮革工芸技術の伝承を図ることを目的に、下田市が「大久保婦久子顕彰基金条例」を制定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)武将・戦国大名・後北条氏5代目当主北条氏直の命日(新暦12月19日)詳細
1854年(嘉永7)安政東海地震が起き、甚大な被害が出る(新暦12月23日)詳細
1946年(昭和21)「国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)」が発効する詳細
1974年(昭和49)薬学者・薬化学者落合英二の命日詳細
1978年(昭和53)国鉄が「いい日 旅立ち」キャンペーンを開始する詳細
2000年(平成12)宮城県上高森遺蹟等で発見の前期旧石器が捏造と判明(旧石器捏造事件の発覚)詳細
2004年(平成16)医学者・生化学者西塚泰美の命日詳細
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 今日は、平成時代の2011年(平成23)に、小説家・エッセイスト・精神科医北杜夫の亡くなった日です。
 北杜夫(きた もりお)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)5月1日に、東京市赤坂区青山南町において、医師・歌人の父・斎藤茂吉、母・輝子の次男として生まれましたが、本名は、斎藤宗吉(さいとう そうきち)といいました。麻布中学、旧制松本高校を経て、1947年(昭和22)に東北帝国大学から改称したばかりの東北大学医学部へ進学します。
 精神科を専攻し、1952年(昭和27)に卒業後、慶應義塾大学病院に勤務しながら、同人誌「文芸首都」を拠点に小説を発表しました。1954年(昭和29)には、「文藝首都」に連載した『幽霊』を、田畑麦彦の『祭壇』と共に文芸首都社から自費出版します。
 1955年(昭和30)から山梨県甲府市里吉町の県立玉諸病院(現在は山梨県立北病院)に一年間勤務しました。1958年(昭和33)11月~翌年4月にかけて、水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、インド洋から欧州にかけて航海し、この体験に基づく旅行記的エッセイ『どくとるマンボウ航海記』を刊行するとベストセラーとなります。
 1960年(昭和35)に、ナチス政権下のドイツにおける精神科医の抵抗を描いた『夜と霧の隅で』で、第43回芥川龍之介賞、1964年(昭和39)には、『楡家の人々』で毎日出版文化賞を受賞しました。1965年(昭和40)にカラコルム・ディラン峰への遠征隊に医師として参加、翌年には、その体験を基に『白きたおやかな峰』を刊行しています。
 1976年(昭和51)に新潮社より、『北杜夫全集』全15巻の刊行を翌年にかけて行いました。1982年(昭和57)に『輝ける碧き空の下で』第一部を刊行、1986年(昭和61)に第二部を刊行し、日本文学大賞を受賞しています。
 1991年(平成3)に『青年茂吉』を刊行し、茂吉評伝四部作が開始され、1996年(平成8)には、日本芸術院会員となりました。1998年(平成10)『茂吉晩年』を刊行し、茂吉評伝四部作が完結、2001年(平成13)には、第5回海洋文学大賞特別賞を受賞しています。
 2008年(平成20)には、マンボウ昆虫展の全国巡回が開始(~2011年)されましたが、2011年(平成23)10月24日に、東京都目黒区の国立病院機構東京医療センターにおいて、腸閉塞のため、84歳で亡くなり、従四位、旭日中綬章が追贈されました。

〇北杜夫の主要な著作

・『幽霊』(1954年)
・『岩尾根にて』(1956年)
・『霊媒のいる町』(1956年)
・『夜と霧の隅で』(1960年)芥川賞受賞
・『どくとるマンボウ航海記』(1960年)
・『どくとるマンボウ昆虫記』(1961年)
・『楡家の人々』(1964年)毎日出版文化賞受賞
・『白きたおやかな峰』(1966年)
・『どくとるマンボウ途中下車』(1967年)
・『どくとるマンボウ青春記』(1968年)
・『酔いどれ船』(1972年)
・『木精』(1975年)
・『輝ける碧き空の下で』第1部・第2部(1982年・1986年)日本文学大賞受賞
・『青年茂吉』(1991年)大佛次郎賞受賞
・『壮年茂吉』(1993年)大佛次郎賞受賞
・『茂吉彷徨(ほうこう)』(1996年)大佛次郎賞受賞
・『茂吉晩年』(1998年)大佛次郎賞受賞

☆北杜夫関係略年表

・1927年(昭和2)5月1日 東京市赤坂区青山南町において、医師・歌人の父・斎藤茂吉、母・輝子の次男として生まれる
・1947年(昭和22) 東北帝国大学から改称したばかりの東北大学医学部へ進学する
・1952年(昭和27) 東福大学医学部(精神科専攻)を卒業後、慶應義塾大学病院に勤務する
・1954年(昭和29) 「文藝首都」に連載した『幽霊』を、田畑の『祭壇』と共に文芸首都社から自費出版する
・1955年(昭和30) 「文藝首都」10月号に、辻邦生との「トーマス・マンに就ての対話」を掲載、山梨県甲府市里吉町の県立玉諸病院(現在は山梨県立北病院)に一年間勤務する
・1958年(昭和33) 11月~翌年4月にかけて、水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、インド洋から欧州にかけて航海する
・1960年(昭和35) 『夜と霧の隅で』で、第43回芥川龍之介賞を受賞する
・1964年(昭和39) 『楡家の人々』で毎日出版文化賞を受賞する
・1965年(昭和40) カラコルム・ディラン峰への遠征隊に医師として参加する
・1966年(昭和41) カラコルム・ディラン峰への遠征隊の体験を基に『白きたおやかな峰』を刊行する
・1969年(昭和44) フランスのパリに滞在中の辻邦生を訪ね、連れ立ってスイスのチューリッヒ州のキルヒベルクでトーマス・マンの墓参りをする
・1976年(昭和51) 新潮社より『北杜夫全集』の刊行を開始(~1977年)する
・1980年(昭和55) テレビのトーク番組『徹子の部屋』(テレビ朝日)に出演する
・1981年(昭和56) 自宅を領土とするミニ独立国「マンボウ・マブゼ共和国」主席を名乗る
・1982年(昭和57) 『輝ける碧き空の下で』第一部を刊行する
・1986年(昭和61) 『輝ける碧き空の下で』第二部を刊行、日本文学大賞を受賞する
・1991年(平成3) 『青年茂吉』を刊行し、茂吉評伝四部作が開始される
・1996年(平成8) 日本芸術院会員となる
・1998年(平成10)『茂吉晩年』を刊行し、茂吉評伝四部作が完結する
・2001年(平成13) 第5回海洋文学大賞特別賞を受賞する
・2008年(平成20) テレビのトーク番組『徹子の部屋』(テレビ朝日)に28年ぶりに出演、マンボウ昆虫展の全国巡回が開始される(~2011年)
・2010年(平成22) 「週刊文春」連載の「新・家の履歴書」に登場し、斎藤茂吉家を回想する
・2011年(平成23)10月24日 東京都目黒区の国立病院機構東京医療センターにおいて、腸閉塞のため、84歳で亡くなり、従四位、旭日中綬章が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件)詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細
1933年(昭和8)小説家・医師(医学博士)渡辺淳一の誕生日詳細
1936年(昭和11)東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)される詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」が発効に必要な20ヶ国のに達したため発効し、国際連合が発足する(国連デー)詳細
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