ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本芸術院会員

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 今日は、平成時代の2016年(平成28)に、小説家高井有一の亡くなった日です。
 高井有一(たかい ゆういち)は、1932年(昭和7)4月27日に、東京府北豊島郡長崎町(現在の東京都豊島区)において、画家の父・田口省吾と母・信子の長男として生まれましたが、本名は田口掬汀(たぐち きくてい)と言いました。1943年(昭和8)に祖父、父があいついで亡くなり、1945年(昭和20)には、太平洋戦争下において、母・妹と共に秋田県へ疎開しています。
 成蹊高等学校へ入学して、中村草田男の授業を受け、1951年(昭和26)に成蹊大学に進学したものの、翌年に早稲田大学第二文学部英文学科に編入しました。文学サークル「現代文学会」で活動、かたわら大学の広報誌「早稲田学報」の編集助手を務め、1955年(昭和30)に卒業し、共同通信社文化部記者となります。
 1964年(昭和39)に同人雑誌「犀」の創刊に参加、翌年に『夏の日の影』を発表、1966年(昭和41)に発表した『北の河』で、第54回芥川龍之介賞を受賞しました。1975年(昭和50) 共同通信社を退社し、作家専業となり、1977年(昭和52)には、季刊誌『文体』(平凡社)で、古井由吉、坂上弘、後藤明生とともに責任編集者を務め、祖父の田口掬汀の生涯を描いた『夢の碑』で芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
 1984年(昭和59)に共同通信社の同僚だった中村輝子と結婚、『この国の空』で谷崎潤一郎賞、1990年(平成2)には、『夜の蟻』で読売文学賞を受賞しました。1992年(平成4)に立原正秋の生涯を描いた『立原正秋(せいしゅう)』で毎日芸術賞を受賞、1996年(平成8)には、日本芸術院会員となります。
 1999年(平成11)に『高らかな挽歌』で大佛次郎賞を受賞、2000年(平成12)には、日本文芸家協会理事長(~2002年)となりました。2015年(平成27)には、『この国の空』が映画化されたものの、2016年(平成28)10月26日に、東京都内の病院において、心不全のため84歳で亡くなっています。

<高井有一の主要な著作>

・『北の河』(1964年)第54回芥川賞受賞
・『少年たちの戦場』(1968年)
・『雪の涯(はて)の風葬』(1970年)
・『蟲たちの棲家』(1973年)
・『夢の碑』(1976年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・『真実の学校』(1980年)
・『青梅』(1980年)
・『この国の空』(1983年)谷崎潤一郎賞受賞
・『俄瀧』(1984年)
・『塵の都に』(1988年)
・『夜の蟻』(1989年)読売文学賞受賞
・評伝『立原正秋』(1991年)毎日芸術賞受賞
・『愛日』(1994年)
・エッセイ集『作家の生き死(しに)』(1997年)
・『高らかな挽歌』(1999年)大佛次郎賞受賞
・『時の潮』(2002年)野間文芸賞受賞

〇高井有一関係略年表

・1932年(昭和7)4月27日 東京府北豊島郡長崎町(現在の東京都豊島区)において、画家の父・田口省吾と母・信子の長男として生まれる
・1943年(昭和8) 祖父、父があいついで亡くなる
・1945年(昭和20) 母・妹と共に秋田県へ疎開する
・1951年(昭和26) 成蹊高等学校から成蹊大学に進学する
・1952年(昭和27) 早稲田大学第二文学部英文学科に編入する
・1955年(昭和30) 早稲田大学第二文学部英文学科を卒業し、共同通信社文化部記者となる
・1964年(昭和39) 同人雑誌「犀」の創刊に参加する
・1965年(昭和40) 同人雑誌「犀」に『夏の日の影』を発表する
・1966年(昭和41) 同人雑誌「犀」に発表した『北の河』で、第54回芥川龍之介賞を受賞する
・1975年(昭和50) 共同通信社を退社し、作家専業となる
・1977年(昭和52) 季刊誌『文体』(平凡社)で、古井由吉、坂上弘、後藤明生とともに責任編集者を務め、祖父の田口掬汀の生涯を描いた『夢の碑』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1984年(昭和59) 共同通信社の同僚だった中村輝子と結婚、『この国の空』で谷崎潤一郎賞を受賞する
・1990年(平成2) 『夜の蟻』で読売文学賞を受賞する
・1992年(平成4) 立原正秋の生涯を描いた『立原正秋(せいしゅう)』で毎日芸術賞を受賞する
・1996年(平成8) 日本芸術院会員となる
・1999年(平成11) 『高らかな挽歌』で大佛次郎賞を受賞する
・2000年(平成12) 日本文芸家協会理事長(~2002年)となる
・2002年(平成14) 『時の潮』で野間文芸賞を受賞する
・2008年(平成20) 日本近代文学館理事長となる
・2015年(平成27) 『この国の空』が映画化される
・2016年(平成28)10月26日 東京都内の病院において、心不全のため84歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1867年(慶応3)建築家・建築史学者伊東忠太の誕生日(新暦11月21日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
1919年(大正8)経済学者篠原三代平の誕生日詳細
1983年(昭和58)国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する詳細
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sonoayako01
 今日は、昭和時代前期の1931年(昭和6)に、小説家・エッセイスト・政治評論家曽野綾子が生まれた日です。
 曽野綾子(その あやこ)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)9月17日 東京府南葛飾郡本田町(現在の葛飾区立石)に父・町田英治郎、母・キワの次女として生まれましたが、本名は知寿子(ちずこ)と言いました。1934年(昭和9)に大森区田園調布に転居し、聖心女子学院に幼稚園から入って、ミッション教育を受けましたが、1945年(昭和20)に空襲が迫る中で、石川県金沢市に疎開し、金沢第二高等女学校(現在の石川県立金沢桜丘高等学校)に転校したものの、勤労動員令により、平野化学工場に配属されます。
 戦後の1946年(昭和21)に東京に戻り聖心女子学院に復学、1948年(昭和23)の夏には、箱根宮ノ下の富士屋ホテルに滞在してアルバイトまがいの手伝いをし、洗礼をうけました。1951年(昭和26)に、中河与一主宰の同人誌『ラマンチャ』(1951年5月号)に載った「裾野」が臼井吉見の目にとまり、第15次『新思潮』に加わり、在学中の1953年(昭和28)には、三浦朱門と結婚しています。
 1954年(昭和29)に、聖心女子大学英文学科を卒業、『遠来の客たち』が芥川賞候補にあげられ出世作となり、『バビロンの処女市』、『海の御墓』などで注目を集めました。以後、次々に作品を発表し、1969年(昭和44)に『生贄の島』、1970年(昭和45)には、『誰のために愛するか』を刊行し、ベストセラーとなり、有吉佐和子と共に脚光を浴びます。
 1972年(昭和47)に、NGO活動「海外邦人宣教者活動援助後援会」を開始し、1973年(昭和48)に、『太郎物語 高校編』、『太郎物語 大学編』を刊行、1979年(昭和54)には、ローマ教皇庁よりヴァチカン有功十字勲章を受章しました。1990年(平成2)に『天上の青』を刊行、1993年(平成5)に、日本芸術院恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となり、1995年(平成7)には、日本財団の会長に就任(~2005年)します。
 1997年(平成9)にNGO海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)代表として読売国際協力賞を受賞、2003年(平成15)には、文化功労者となりました。2009年(平成21)に、日本郵政社外取締役に就任、2010年(平成22)に『老いの才覚』を刊行、2012年(平成24)には、菊池寛賞を受賞しています。多彩な活動を展開してきましたが、2025年(令和7)2月28日に、東京都内の病院において、老衰のため、93歳で亡くなりました。

<曽野綾子の主要な著作>

・『黎明』(1955~56年)
・『リオ・グランデ』(1961年)
・『砂糖菓子の壊れるとき』(1965年)
・『生贄(いけにえ)の島』(1969年)
・『無名碑』(1969年)
・『誰のために愛するか』(1970年)
・『人間の罠(わな)』(1971~72年)
・『ある神話の背景』(1971~72年)
・『戒老録』(1972年)
・『太郎物語 高校編』(1973年)
・『太郎物語 大学編』(1973年)
・『虚構の家』(1974年)
・『幸福という名の不幸』(1975年)
・『不在の部屋』(1976~78年)
・『神の汚れた手』(1979~80年)
・『時の止まった赤ん坊』(1984年)
・『湖水誕生』(1985年)
・『天上の青』(1990年)
・『夢に殉ず』(1994年)
・『「いい人」を止めると楽になる』(1999年)
・『陸影を見ず』(1999~2000年)
・『老いの才覚』(2010年)
・『人間にとって成熟とは何か』(2013年)
・『人間の分際』(2015年)
・『夫の後始末』(2017年)

〇曽野綾子関係略年表

・1931年(昭和6)9月17日 東京府南葛飾郡本田町(現在の葛飾区立石)に父・町田英治郎、母・キワの次女として生まれる
・1934年(昭和9) 大森区田園調布に移る
・1945年(昭和20) 空襲が迫る中で、石川県金沢市に疎開し、金沢第二高等女学校(現在の石川県立金沢桜丘高等学校)に転校したものの、勤労動員令により、平野化学工場に配属される
・1946年(昭和21) 東京に戻り聖心女子学院に復学する
・1948年(昭和23) 夏、箱根宮ノ下の富士屋ホテルに滞在してアルバイトまがいの手伝いをし、洗礼をうける
・1951年(昭和26) 中河与一主宰の同人誌『ラマンチャ』(1951年5月号)に載った「裾野」が臼井吉見の目にとまり、第15次『新思潮』に加わる
・1953年(昭和28) 三浦朱門と結婚する
・1954年(昭和29) 聖心女子大学英文学科を卒業、『遠来の客たち』が芥川賞候補にあげられ出世作となり、『バビロンの処女市』、『海の御墓』などで注目を集める
・1969年(昭和44) 『生贄の島』を刊行する
・1970年(昭和45) 『誰のために愛するか』を刊行し、ベストセラーとなる
・1972年(昭和47) NGO活動「海外邦人宣教者活動援助後援会」を始める
・1973年(昭和48) 『太郎物語 高校編』、『太郎物語 大学編』を刊行する
・1979年(昭和54) ローマ教皇庁よりヴァチカン有功十字勲章を受章する
・1990年(平成2) 『天上の青』を刊行する
・1993年(平成5) 日本芸術院恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となる
・1995年(平成7) 日本財団会長職となる(~2005年)
・1997年(平成9) NGO海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)代表として読売国際協力賞を受賞する
・2000年(平成12) 元ペルー大統領のアルベルト・フジモリが日本に長期滞在した折、自宅に私人として受け入れる
・2003年(平成15) 文化功労者となる
・2009年(平成21) 日本郵政社外取締役に就任する
・2010年(平成22) 『老いの才覚』を刊行する
・2012年(平成24) 菊池寛賞を受賞する
・2025年(令和7)2月28日 東京都内の病院において、老衰のため、93歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1062年(康平4)源頼義が安倍貞任を厨川の柵で破り、前九年の役が終結する(新暦10月22日)詳細
1867年(慶応3)俳人・歌人正岡子規の誕生日(新暦10月14日)詳細
1868年(明治元)日本初の洋式燈台である観音崎灯台が起工する(新暦11月1日)詳細
1894年(明治27)日清戦争で、日本軍連合艦隊と清国軍北洋艦隊が黄海海戦を戦い、日本軍が勝って制海権を獲得する詳細
1938年(昭和13)俳人村上鬼城の命日(鬼城忌)詳細
1945年(昭和20)枕崎台風が枕崎に上陸、日本を縦断し、死者・行方不明者3,758人が出る詳細
満蒙開拓団の中で、瑞穂村開拓団集団自決が起き、495人が亡くなる詳細
1964年(昭和39)日本初の旅客用モノレールとなる東京モノレール(羽田空港~浜松町)が開業する詳細

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kikuchikeigetsu01
 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、日本画家菊池契月が亡くなった日です。
 菊池契月(きくち けいげつ)は、明治時代前期の1879年(明治12)11月14日に、長野県下高井郡中野村(現在の中野市)において、素封家であった父・細野勝太郎、母・はつの次男ととして生れましたが、本名は完爾(かんじ)と言いました。少年時代から絵を描くことを好み、1892年(明治25)に、山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に師事します。
 小学校高等科卒業後は、呉服屋、製糸工場、町役場で勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松に私淑し、やがて画家として立つことに思いを馳せていきました。1896年(明治29)に、同郷の友人・町田曲江と共に故郷を出奔して京都に出て、南画家・内海吉堂に入門し、翌年から後菊池芳文の塾へ入ります。
 1898年(明治31)の第4回新古美術品展では「文殊図」が褒状1等となり、翌年の第2回全国絵画共進会展でも「資忠決死」が褒状1等となりました。その後、新古美術品展で入賞を重ね、1903年(明治36)には、第5回内国勧業博覧会で「愴秋」が3等賞銅牌、全国絵画共進会で「閑話」2等賞銀牌となります。
 1906年(明治39)に、菊池芳文の養嗣子となって菊知性にかわり、1907年(明治40)の第1回文展に「春暖」、1908年(明治41)の第2回文展に「名士弔喪」を発表、1909年(明治42)の第3回文展では「悪者の童」が3等賞となり、京都市立美術工芸学校教諭心得ともなりました。翌年には、京都市立絵画専門学校助教諭となり、第4回文展で「供燈」が2等賞となります。
 その後も、文展での入賞を重ね、1914年(大正3)の大正博覧会では「媼」で銅牌を得て、1918年(大正7)には、京都市立絵画専門学校教授となり、文展審査委員ともなりました。1922年(大正11)に欧洲(イギリス、フランス、イタリア)へ出張し、1925年(大正14)には、帝国美術院会員となり、菊池塾を主宰するようになります。
 1932年(昭和7)に京都市立絵画専門学校並びに京都市立美術工芸学校校長となり、1934年(昭和9)には、帝室技芸員ともなりました。1936年(昭和11)に京都市立絵画専門学校教授を辞し、1937年(昭和12)には、帝国芸術院会員となります。
 大平洋戦争後は、1949年(昭和24)に日本芸術院会員、翌年に京都市立美術大学名誉教授、1952年(昭和27)には、東京芸術大学教授に就任しました。1954年(昭和29)に、「青年像」で第1回毎日美術賞を受賞、平等院鳳凰堂壁画の模写を指導し、京都市名誉市民の称号を贈られ、京都画壇で指導的立場に立ってきましたが、1955年(昭和30)9月9日に、京都市の自宅において、脳塞栓により、79歳で亡くなっています。

<菊池契月の主要な作品>

・「名士弔葬」(1908年)東京国立近代美術館蔵
・「供灯(ぐとう)」(1910年)
・「鉄漿蜻蛉(おはぐろとんぼ)」(1913年)
・「少女」(1920年)
・「立女(りつじょ)」(1924年)
・「赤童子」(1926年)京都市美術館蔵
・「南波照間(はいはてるま)」(1928年)京都市美術館蔵
・「涅歯(はくろめ)」(1933年)東京国立近代美術館蔵
・「麦姫」(1937年)東京国立近代美術館蔵
・「青年像」(1954年)第1回毎日美術賞受賞

〇菊池契月関係略年表

・1879年(明治12)11月14日 長野県下高井郡中野村(現在の中野市)において、細野勝太郎の二男として生れる
・1892年(明治25) この頃より山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に学ぶ
・1896年(明治29) 町田典江とともに京都に出る。
・1897年(明治30) 内海吉堂に師事、後菊池芳文の塾に転じる
・1898年(明治31) 第4回新古美術品展「文殊図」が褒状1等となる
・1899年(明治32) 第2回全国絵画共進会展「資忠決死」が褒状1等となる
・1900年(明治33) 第6回新古美術品展10年回顧展「聖徳太子遇飢人」が3等賞銅牌、日本絵画協会日本美術院共催第9回絵画共進会「栲幡娘姫」褒状2等となる
・1901年(明治34) 第7回新古美術品展「垓下別離」が3等賞銅牌となる
・1902年(明治35) 第8回新古美術品展「寂光院」かせ2等賞銀牌となる
・1903年(明治36) 第5回内国勧業博覧会「愴秋」3等賞銅牌、全国絵画共進会「閑話」2等賞銀牌となる
・1904年(明治37) 第9回新古美術品展「落花」3等賞銅牌となる
・1905年(明治38) 第10回新古美術品展「近藤重蔵」3等賞銅牌となる
・1906年(明治39) 第11回新古美術品展「栄華」3等賞銅牌となり、菊池芳文の養嗣子となる
・1907年(明治40) 第12回新古美術品展「姜詩妻」3等賞銅牌、第1回文展「春暖」を出品する
・1908年(明治41) 第13回新古美術品展「故園の花」2等賞銀牌、第2回文展「名士弔喪」2等賞となる
・1909年(明治42) 京都市立美術工芸学校教諭心得となり、第14回新古美術品展「達磨」2等賞銀牌、第3回文展「悪者の童」3等賞となる
・1910年(明治43) 京都市立絵画専門学校助教諭となり、第4回文展「供燈」2等賞となる
・1912年(明治45/大正元) 第17回新古美術品展「木蓮」、第6回文展「茄子」3等賞となる
・1913年(大正2) 第18回新古美術品展「煎茶人物図」、第7回文展「鉄漿蜻蛉」2等賞となる
・1914年(大正3) 大正博覧会「媼」銅牌、第8回文展「ゆふべ」2等賞となる
・1915年(大正4) 第9回文展で「浦島」が2等賞となる
・1916年(大正5) 第10回文展「花野」が推薦となる
・1917年(大正6) 第11回文展「蓮華」が推薦となる
・1918年(大正7) 京都市立絵画専門学校教授となる。第12回文展「夕至」、審査委員となる
・1919年(大正8) 第1回帝展「庭の池」、審査委員となる
・1920年(大正9) 第2回帝展「少女」、審査委員となる
・1921年(大正10) 第3回帝展「鶴」、審査委員となる
・1922年(大正11) 欧洲(イギリス、フランス、イタリア)へ出張する
・1923年(大正12) 帰国し、日本美術展に「水汲み女」を出品する
・1924年(大正13) 第5回帝展「立女」、帝展委員となる
・1925年(大正14) 帝国美術院会員となり、第1回菊池塾展に「春風払絃」を出品する
・1926年(大正15/昭和元) 第2回菊池塾展に「経政」、第7回帝展「赤童子」を出品する
・1927年(昭和2) 第3回菊池塾展に「敦盛」を出品する
・1928年(昭和3) 沖縄地方へ旅行、第4回菊池塾展「女」、第9回帝展「南波照間」、御用画「若菜、着綿」を出品する
・1929年(昭和4) 第5回菊池塾展に「桜」を出品する
・1930年(昭和5) 第6回菊池塾展に「婦女」「麦」、第1回七絃会展「搗布図」「狗児」、ローマ日本美術展「菊」「聖徳太子影」) 
・1931年(昭和6) 京都市立絵画専門学校長事務取扱、京都市立美術工芸学校長事務取扱となり、第7回菊池塾展「朱唇」、シャム日本画展「調馬」) 
・1932年(昭和7) 京都市立絵画専門学校長兼同教授、京都市立美術工芸学校長となり、第8回菊池塾展「少女」、第3回七絃会展「柘榴」を出品する
・1933年(昭和8) 京都市立絵画専門学校長を辞し教授専任となり、第9回菊池塾展「友禅の少女」、第4回七紘会展「涅歯」を出品する
・1934年(昭和9) 帝室技芸員となり、京都市展「生暖」、第5回七絃会展「菊」「早苗」、第15回帝展「散策」。第1回珊々会展「北条時宗」を出品する
・1935年(昭和10) 第1回春虹会展「旗手」、第2回珊々会展「松明牛」、第6回七絃会展「太子孝養図」を出品する
・1936年(昭和11) 京都市立絵画専門学校教授を辞し、第7回七絃会展「吉法師、竹千代」を出品する
・1937年(昭和12) 帝国芸術院会員となり、第3回春虹会展「遅日」、第3回珊々会展「朝爽」、第1回文展「麦拒」、審査員となり、第8回七絃会展「迦楼羅」を出品する
・1938年(昭和13) 第3回京都市展「清水」、第2回文展「交歓」、審査員となり、第9回七絃会展「華」を出品する
・1939年(昭和14) 第10回七紘会展に「忠度」を出品する
・1940年(昭和15) 第6回珊々会展「少年家康」、第11回七絃会展「吹奏」を出展する
・1941年(昭和16) 日本画家連盟を結成、第7回珊々会展「郭公」、第12回七紘会展「厳親」を出展する
・1942年(昭和17) 第7回京都市展「紫★」、第8回珊々会展「観画」、満洲国建国10周年慶祝絵画展「孔雀鳩」、第13回七絃会展「樵翁」、日本画家報国会献納作品展「菊図」を出展する
・1943年(昭和18) 関西邦画展に「北政所」、第8回京都市展に「小楠公弟兄」を出展する
・1944年(昭和19) 第9回京都市展に「萩」を出展する
・1947年(昭和22) 法輪寺多宝塔天井画「龍」、七絃会復活展「彼岸」を描く
・1949年(昭和24) 日本芸術院会員となる
・1950年(昭和25) 京都市立美術大学名誉教授となる
・1952年(昭和27) 東京芸術大学教授に就任する
・1954年(昭和29) 「青年像」で第1回毎日美術賞を受賞、鳳凰堂壁画の模写を指導し、京都市名誉市民の称号を贈られる
・1955年(昭和30)9月9日 京都の自宅において、脳塞栓により、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事重陽(菊の節句)です詳細
686年(朱鳥元)天武天皇(第40代天皇)の命日(新暦10月1日)詳細
1828年(文政11)政治家・伯爵副島種臣の誕生日(新暦10月17日)詳細
1911年(明治44)映画監督・随筆家吉村公三郎の誕生日詳細
1946年(昭和21)旧「生活保護法」が公布(施行は10月1日)される詳細
1982年(昭和57)長沼ナイキ訴訟で、第3審の最高裁が住民の上告を棄却し、訴訟が終結する詳細
1987年(昭和62)川口JCT~浦和IC間の開通により、東北自動車道が全通する詳細
1995年(平成7)推理小説作家高木彬光の命日詳細
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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、建築家芦原義信の生まれた日です。
 芦原義信(あしはら よしのぶ)は、大正時代の1918年(大正7)7月7日に、東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれました。府立一中(現在の都立日比谷高等学校)、旧制成城高校を経て、東京帝国大学工学部建築学科へ進み、1942年(昭和17)に卒業後、技術士官として海軍に入ります。
 1945年(昭和20)に復員後、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所しました。1952年(昭和27)に、ハーバード大学大学院に留学し、翌年には、修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所します。
 1954年(昭和29)に日本へ帰国し、法政大学工学部講師となり、1956年(昭和31)には、芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞しました。1959年(昭和34)に法政大学教授に昇進し、翌年には、ロックフェラー奨学金を受けてニューヨークに滞在、1961年(昭和36)には、学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得ています。
 1962年(昭和37)に『外部空間の構成』を刊行、1964年(昭和39)には、「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となりました。1966年(昭和41)に東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなり、1968年(昭和43)には、「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
 1970年(昭和45)に東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章、1979年(昭和54)には、アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞しました。1984年(昭和59)に「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞、1985年(昭和60)に、日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章、1987年(昭和62)には、王立オーストリア建築家協会名誉会員となります。
 1988年(昭和63)に日本芸術院会員となり、1989年(平成元)に勲二等瑞宝章を受章、1990年(平成2)に日本建築学会大賞を受賞、1991年(平成3)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に文化勲章を受章し、2003年(平成15)には、東京大学名誉教授となったものの、同年9月24日に、東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなっています。

〇芦原義信の主要な作品

<建築・設計>
・「中央公論ビル」(1956年)日本建築学会賞受賞
・「駒沢公園体育館・管制塔」(1964年)日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞受賞
・「東京銀座のソニービル」(1966年)
・「モントリオール万博・日本館」(1968年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「国立歴史民俗博物館」(1984年)日本芸術院賞受賞

<著作>
・『外部空間の構成』(1962年)
・『外部空間の設計』(1975年)
・『街並みの美学』(1979年)第33回毎日出版文化賞受賞
・『続 街並みの美学』(1983年)
・『隠れた秩序』(1986年)
・『秩序への模索』(1995年)

☆芦原義信関係略年表

・1918年(大正7)7月7日 東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれる 
・1942年(昭和17) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、技術士官として海軍に入る
・1945年(昭和20) 坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所する
・1952年(昭和27) ハーバード大学大学院に留学する
・1953年(昭和28) ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所する
・1954年(昭和29) 日本へ帰国し、法政大学工学部講師となる
・1956年(昭和31) 芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞する
・1959年(昭和34) 法政大学教授となる
・1960年(昭和35) ロックフェラー奨学金を受けニューヨークに滞在する
・1961年(昭和36) 学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得る
・1962年(昭和37) 『外部空間の構成』を刊行する
・1964年(昭和39) 「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となる
・1965年(昭和40) 武蔵野美術大学建築学科教授となる
・1966年(昭和41) 東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなる
・1968年(昭和43) 「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1970年(昭和45) 東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章する
・1979年(昭和54) アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞する
・1985年(昭和60) 日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章する
・1987年(昭和62) 王立オーストリア建築家協会名誉会員となる
・1988年(昭和63) 日本芸術院会員となる
・1989年(平成元) 勲二等瑞宝章を受章する
・1990年(平成2) 日本建築学会大賞を受賞する
・1991年(平成3) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2003年(平成15) 東京大学名誉教授となる
・2003年(平成15)9月24日 東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなる

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 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、日本画家片岡球子が亡くなった日です。
 片岡球子(かたおか たまこ)は、明治時代後期の1905年(明治38)1月5日に、北海道の札幌市において、醸造・木材商の家の長女として生まれました。1922年(大正11)に北海道庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)師範科を卒業後、上京して、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科へ入学し、1926年(大正15)に卒業後、親の反対を押し切って、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭となります。
 帝展に応募しましたが落選を続けたものの、1930年(昭和5)に「枇杷」で、日本美術院再興第17回展に初入選し、研究会員となりました。1939年(昭和14)に日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞を受賞、「緑陰」で第26回院展に入選し、院友に推挙されます。
 1942年(昭和17)に日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞、1946年(昭和21)には、安田靫彦に入門し、第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞しました。1948年(昭和23)に第33回院展入選「室内」が日本美術院賞、1950年(昭和25)に第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞、1951年(昭和26)に第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞します。
 1952年(昭和27)に第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙されました。1955年(昭和30)に、30年間勤めた横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師に就任、東京都世田谷区粕谷町に転居します。
 1960年(昭和35)に女子美術大学日本画科助教授、1961年(昭和36)に院展出品「渇仰」が文部省買い上げ優秀美術品となり、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞を受賞、日本美術院評議員に就任しました。1962年(昭和37)に初の渡欧をし、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡り、1965年(昭和40)には、女子美術大学日本画科教授に昇任しています。
 1966年(昭和41)に女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任、「面構」シリーズ、「富士山」シリーズの製作も開始しました。1970年(昭和45)に神奈川県藤沢市に転居、1973年(昭和48)には、定年により愛知県立芸術大学客員教授となります。
 1975年(昭和50)に第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞を受賞、1976年(昭和51)に勲三等瑞宝章を受章、1978年(昭和53)には、第27回神奈川文化賞を受賞しました。1981年(昭和56)に日本美術院理事、1982年(昭和57)に日本芸術院会員となり、1986年(昭和61)には、文化功労者、1989年(平成元)に第42回中日文化賞を受賞、文化勲章を受章し、1990年(平成2)には、藤沢市名誉市民に選ばれています。
 2000年(平成12)には、「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が開催されましたが、2008年(平成20)1月16日に、神奈川県内の病院において、急性心不全のため103歳でなくなり、従三位を追贈されました。

〇片岡球子の主要な作品

・「枇杷」(1930年)第17回日本美術院再興展入選
・「炬燵」(1935年)第19回日本美術院絵画部試作展試作賞受賞
・「寒空」(1938年)日本美術院絵画部研究会員研究会大観賞第一賞受賞
・「新緑」(1939年)日本美術院絵画部研究会大観賞第二賞受賞
・「緑陰」(1939年)第26回院展入選
・「祈祷の僧」(1942年)日本美術院絵画部研究会大観賞受賞
・「夏」(1946年1)第31回院展日本美術院賞受賞
・「室内」(1948年)第33回院展入選・日本美術院賞受賞
・「剃髪」(1950年)第35回院展入選・日本美術院賞・白寿賞受賞
・「行楽」(1951年)第36回院展入選・奨励賞・白寿賞受賞
・「美術部にて」(1952年)第37回院展入選・日本美術院賞・大観賞受賞
・「海岸」(1959年)日本美術院第14回春季展出品
・「渇仰」(1961年)文部省買い上げ優秀美術品
・「幻想」(1961年)第46回院展文部大臣賞受賞
・「面構・足利義政」(1966年)第51回院展出品
・「面構二 東洲斎写楽」(1971年)第56回院展出品
・「面構一 葛飾北斎」(1971年)第56回院展出品
・「面構 鳥文斉栄之」(1975年)第59回院展出品・第31回日本芸術院恩賜賞受賞
・「面構 安藤広重」(1975年)院展六十年の歩み展出品
・「喜多川歌麿」(1978年)日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)出品・国際交流基金買上げ
・「ポーズ1」(1983年)第38回春の院展出品

☆片岡球子関係略年表

・1905年(明治38)1月5日 北海道の札幌市において、醸造・木材商の家の長女として生まれる
・1922年(大正11) 北海道庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)師範科を卒業し、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科へ入学する
・1926年(大正15) 女子美術専門学校を卒業し、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭となる
・1930年(昭和5) 「枇杷」で、日本美術院再興第17回展に入選し、研究会員となる
・1935年(昭和10) 日本美術院絵画部第19回試作展入選。「炬燵」が試作賞を受賞する
・1938年(昭和13) 日本美術院絵画部研究会員研究会で「寒空」が大観賞第一賞を受賞する
・1939年(昭和14) 日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞を受賞、「緑陰」で第26回院展に入選し、院友に推挙される
・1942年(昭和17) 日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞する
・1946年(昭和21) 安田靫彦に入門し、第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞する
・1948年(昭和23) 第33回院展入選「室内」が日本美術院賞を受賞する
・1950年(昭和25) 第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞を受賞する
・1951年(昭和26) 第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞、この頃に東京芸大山本豊市教授より彫刻デッサンを学ぶ
・1952年(昭和27) 第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙される
・1955年(昭和30) 横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師に就任、横浜市南区大岡町から東京都世田谷区粕谷町に転居する
・1959年(昭和34) 日本美術院第14回春季展に「海岸」を出品する
・1960年(昭和35) 女子美術大学日本画科助教授となる
・1961年(昭和36) 院展出品「渇仰」が1960年(昭和35年)度文部省買い上げ優秀美術品となり、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞を受賞、日本美術院評議員に就任する
・1962年(昭和37) 第5回現代日本美術展に「桜島の昼」「桜島の夜」招待出品、初の渡欧をし、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡る
・1965年(昭和40) 女子美術大学日本画科教授に就任する
・1966年(昭和41) 女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任、第51回院展に「面構・足利義政」を出品してから、「面構」シリーズ制作開始、この頃から「富士山」シリーズを製作も開始する
・1970年(昭和45) 北海道庁の依頼で「函館街頭風景」を制作(道庁赤レンガに展示)、神奈川県藤沢市辻堂東海岸に転居する
・1971年(昭和46) 第56回院展に「面構一 葛飾北斎」「面構二 東洲斎写楽」出品する
・1973年(昭和48) 定年により愛知県立芸術大学客員教授となる
・1975年(昭和50) 自伝「情(こころ)ありて」を執筆、第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞を受賞、院展六十年の歩み展に「面構 安藤広重」(1973年(昭和48年))を出品する
・1976年(昭和51) 勲三等瑞宝章を受章する
・1978年(昭和53) 日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)に「喜多川歌麿」を出品、国際交流基金買上げとなり、第27回神奈川文化賞を受賞する
・1981年(昭和56) 日本美術院理事に就任する
・1982年(昭和57) 日本芸術院会員となる
・1983年(昭和58) 第38回春の院展に「ポーズ1」を出品する
・1986年(昭和61) 文化功労者に選ばれる
・1989年(平成元) 第42回中日文化賞を受賞、文化勲章を受章する
・1990年(平成2) 藤沢市名誉市民に選ばれる
・1993年(平成5) 愛知県立芸術大学教官・卒業生と約20年かけた「法隆寺金堂壁画模写」全32面が完成し、一般公開される
・1996年(平成8) 愛知県立芸術大学美術学部に愛知県奨学基金として1億円寄贈する
・1998年(平成10) 日本美術院創立百周年記念展東京展に「面構 豊太閤と黒田如水」(1970年(昭和45年))「ポーズ15」(1997年(平成9年))出品する
・1999年(平成11) 都営地下鉄大江戸線築地市場駅構内の「ゆとりの空間」に設置される「江戸の浮世絵師たち」原画を制作する
・2000年(平成12) 「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が横浜美術館で開催する
・2008年(平成20)1月16日 神奈川県内の病院において、急性心不全のため103歳でなくなり、従三位を追贈される
・2014年(平成26) 名古屋御園座の緞帳、画「富士に献花」が日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1941年(昭和16)大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合、大日本青少年団が結成される詳細
1942年(昭和17)青壮年による大政翼賛会の外郭団体として、大日本翼賛壮年団が結成される詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
2008年(平成20)細胞生物学者・医師岡田善雄の命日詳細
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