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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、横山大観らが日本美術院を再興した日です。
 日本美術院(にほんびじゅついん)は、明治時代後期の1898年(明治31)10月15日に、岡倉天心・横山大観らが創立した美術家の団体です。1898年(明治31)に、岡倉覚三(天心)が東京美術学校を排斥されて辞職した際に、自主的に連座して辞職した橋本雅邦、六角紫水、横山大観、下村観山、寺崎広業、小堀鞆音、菱田春草、西郷孤月が東京・谷中大泉寺にて結成したものでした。
 谷中初音町に研究所を建設し、日本絵画協会と連合して日本美術院展覧会を開催します。1906年(明治39)に、日本美術院規則を改正し、第1部(絵画)を東京に、第2部(彫刻)を奈良に置くようになりましたが、同年12月頃に第1部は茨城県五浦の研究所に移り、大観・春草・観山・木村武山は天心にしたがって同地に移住しました。
 1910年(明治43)に、天心がボストン美術館中国・日本美術部長として渡米したことにより、同院は事実上の解散状態となったものの、1913年(大正2)に天心が亡くなると、翌年には、大観や観山らは、日本美術院再興開院式をおこない、日本美術院を再興しています。1921年(大正10)に、日本美術院米国展覧会(1921年5月~1922年4月)が開催され、1929年(昭和4)には、再興日本美術院展覧会に日本美術院賞が設置されました。
 1958年(昭和33)には、逝去した横山大観の意向に基づき財団法人となり、1968年(昭和43)には、財団法人美術院と改称、2013年(平成25)には、公益財団法人となっています。現在は、日本画のみを対象とするようになりました。

〇日本美術院関係略年表

<1898年(明治31)> 

・7月1日 日本美術院の創設趣旨が発表される
・7月 日本美術院創立事務所を本郷区湯島天神町に開設し、日本美術院規則、日本美術院研究会員規程を制定する
・8月 下谷区谷中初音町に、日本美術院研究所の建設を開始する
・10月15日 日本美術院が創立する
・10月15日~11月15日 第5回絵画共進会(日本絵画協会及び日本美術院展覧会/第1回)が開催される

<1900年(明治33)>
・2月 日本美術院絵画部の青年研究会員により「青年絵画研究会」が発足される
・10月25日~11月30日 第9回絵画共進会(日本絵画協会及び日本美術院展覧会/第4回)が最盛期で、以後資金の欠乏、院の内紛、綱紀の乱れなどが原因で徐々に沈滞するようになる

<1905年(明治38)>
・岡倉覚三(天心)が茨城県の五浦海岸へ別荘(六角堂)を建設する

<1906年(明治39)>
・9月6日 日本美術院規則を改正し、第1部(絵画)を東京に、第2部(彫刻)を奈良に置くようになる
・12月頃 第1部は茨城県五浦の研究所に移り、大観・春草・観山・木村武山は天心にしたがって同地に移住する

<1907年(明治40)>

・9月 日本美術院五浦移転披露の観月会を開催する

<1910年(明治43)>
・岡倉がボストン美術館中国・日本美術部長として渡米したことにより、同院は事実上の解散状態となる

<1913年(大正2)>
・9月 岡倉覚三(天心)が亡くなる

<1914年(大正3)>
・4月 下谷区谷中上三崎南町52番地に、日本美術院研究所の建設を開始する
・9月2日 文展(文部省美術展覧会)に不満を持つ大観や観山らは、日本美術院再興開院式をおこない、日本美術院を再興する
・10月15日 日本美術院再興記念展覧会(~11月15日・日本橋・三越本店旧館)が開催される

<1921年(大正10)>
・5月 日本美術院米国展覧会 [1921年5月~1922年4月、ボストン、クリーブランド、フィラデルフィア、ワシントン、ニューヨーク、サンフランシスコを巡回]が開催される

<1929年(昭和4)>
・9月 再興日本美術院展覧会に日本美術院賞を設置する

<1931年(昭和6)>
・1月 横山大観提唱のもとに「日本美術院の精神的更生」についての討議を行う

<1935年(昭和10)>
・5月28日 文相松田源治が美術界の挙国一致体制をととのえるために帝国美術院を改組すると発表する
・5月31日 帝国美術院規定を廃し、帝国美術院官制が制定(勅令)される
・6月1日 栖鳳・大観・藤島・安井らを帝国美術院会員に任命し、美術界は改組をめぐって紛糾し、とりわけ旧帝展系作家に不満がおこる

<1958年(昭和33)>
・5月 日本美術院は、2月に逝去した横山大観の意向に基づき財団法人となる

<1968年(昭和43)>
・財団法人美術院となる

<1998年(平成10)>
・日本美術院創立100周年記念特別展「近代日本美術の軌跡」が東京国立博物館で展観される

<2013年(平成25)>
・公益財団法人となる

☆横山 大観】(よこやま たいかん)とは?

 明治時代後期から昭和時代中期まで活躍した日本画家で、本名は秀麿といいます。1868年(明治元年9月18日)に、常陸国水戸(現在の茨城県水戸市)で、水戸藩士酒井捨彦の長男として生まれました。
 1878年(明治11)には、一家で上京し、東京府立中学校(現在の都立日比谷高校)を経て、私立東京英語学校(現在の日本学園高校)へ入学します。1888年(明治21)には、母方の横山家を継ぎ、横山姓となりました。
 1889年(明治22)に開校した東京美術学校(現在の東京芸術大学)に第一期生として入学し、橋本雅邦や岡倉天心に学びましたが、同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいたのです。1893年(明治26)に同校を卒業後、京都美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)で教鞭をとったのち、1896年(明治29)に母校の助教授になりました。
 1897年(明治30)に日本絵画協会第2回展に出品の『無我』 で銅牌を受賞しましたが、岡倉天心校長を排斥する騒動が起こると、翌年に岡倉天心、橋本雅邦らと共に辞職し、日本美術院創立に加わります。1904年(明治37)から翌年まで欧米を旅行し、帰国後は岡倉天心らと茨城県五浦海岸(現在の北茨城市)に転居して制作に励みました。
 1907年(明治40)の文部省美術展覧会 (文展) 開設後は審査員として活躍し、『流灯』 (1909年)、『瀟湘八景』 (1912年) なども発表します。 1914年(大正3)には日本美術院の再興に尽くし、その中心作家として活躍しました。
 1931年(昭和6)帝室技芸員、1934年(昭和9)朝日文化賞受賞、1935年(昭和10)帝国美術院会員、1937年(昭和12)には第1回の文化勲章を受章します。長期にわたり画壇の第一人者であり、社会的にも大きな影響力を持ちましたが、1958年(昭和33)2月26日に、89歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1828年(文政11)越前福井藩主・政治家松平慶永(春嶽)の誕生日(新暦10月10日)詳細
1871年(明治4)社会統計学者・社会運動家高野岩三郎の誕生日(新暦10月15日)詳細
1907年(明治40)新聞記者・政治評論家陸羯南の命日詳細
1913年(大正2)思想家・美術指導者岡倉天心の命日詳細
1914年(大正3)第一次世界大戦で青島出兵が行われ、日本陸軍が山東半島への上陸を開始する詳細
1945年(昭和20)東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板上において降伏文書に調印する詳細
連合国最高司令官の事務所からの最初の指令(SCAPIN-1)が出される詳細
1990年(平成2)「児童の権利に関する条約」が国際条約として発効する詳細