ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本紀略

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 今日は、平安時代前期の800年(延暦19)に、富士山延暦噴火が始まった日ですが、新暦では4月11日となります。
 富士山延暦噴火(ふじさんえんりゃくふんか)は、800年(延暦19)から802年(延暦21)にかけての一連の富士山噴火とされ、記録に残る中でも規模が大きく、貞観噴火(864~866年)、宝永噴火(1707年)と共に、富士山三大噴火の一つとされてきました。史書の『日本紀略』には、延暦十九年六月の癸酉(6日)、駿河国言として、「自去三月十四日迄四月十八日、富士山巓自焼、昼則烟気暗瞑、夜則火花照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也」と記され、駿河国からの6月6日付報告として、3月14日~4月18日にかけて富士山が噴火し、噴煙のために昼でも暗くなり、夜は噴火の火柱が天を照らし、鳴動が雷のように聞こえ、雨のように火山灰が降って、ふもとの川が紅色に染まったことがわかります。
 また、同書の延暦二十一年正月の乙丑(8日)、駿河相模国言として、「駿河国富士山、晝夜燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘殃」と再び記され、駿河国・相模国からの1月8日付報告として、再度富士山が噴火して砂礫があられのように降ったことと噴火を沈めるための祈祷が行われたことがわかり、さらに、「五月(中略)甲戌、廃相模国足柄路開筥荷途、以富士焼砕石塞道也」と記され、同年五月甲戌(5月19日)に、富士山の噴火による砕石によってふさがれた相模国へ至る足柄路を閉鎖し、筥荷(箱根)路を開いたことがわかりました。しかし、同書の延暦二十二年(803年)五月丁巳(5月8日)の記述として、「廃相模国筥荷路、復足柄舊路」と記され、箱根路は約1年後に廃され、足柄路が復旧されたことがわかります。
 その後、9世紀後半に、平安朝廷に仕えた都良香が著した『富士山記』には、「山東脚下有小山、土俗謂之新山、本平地也、延暦廿一年三月、雲霧晦冥、十日而後成山、蓋神造也」と記され、延暦二十一年三月に富士山の東斜面において異常が生じ、10日後までに新山が誕生したことを伝え聞いたとし、これは富士山東斜面にある「西小富士」ではないかとされてきました。その他に、『宮下文書』にも詳細で膨大な記述がありますが、明らかな地質学的誤りや大幅な誇張があるのではないかとされています。
 以下に、『日本紀略』と『富士山記』の中の該当の記述を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本紀略』の中の富士山延暦噴火の部分の抜粋

・延暦十九年六月の条
 「癸酉、駿河国言、自去三月十四日、迄四月十八日、富士山嶺自焼、晝則烟気暗瞑、夜則火光照天、其聲若雷、灰下如雨。山下川水皆紅色也」

・延暦廿一年正月の条
 「乙丑(中略)駿河相模国言、駿河国富士山、晝夜燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘殃」

・延暦廿一年五月の条
 「甲戊、廃相模国足柄路、開筥荷途、以富士焼碎石塞道也」

・延暦廿二年五月の条
 「丁巳、廃相模国筥荷路、復足柄舊路」

〇『富士山記』からの抜粋

 「山東脚下有小山、土俗謂之新山、本平地也,延暦廿一年三月、雲霧晦冥、十日而後成山、蓋神造也」

  ※縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付して、旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1789年(寛政元)哲学者・経済学者・思想家三浦梅園の命日(新暦4月9日)詳細
1868年(慶応4)五箇条の御誓文」が出される(新暦4月6日)詳細
1970年(昭和45)大阪で日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われる詳細


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 今日は、794年(延暦13)に平安遷都され、桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京した日(平安遷都の日)ですが、新暦では11月22日となります。
 平安遷都(へいあんせんと)は、奈良時代末期の混乱した政治状況の下で、桓武天皇は遷都を計画し、最初は、784年(延暦3)に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、793年(延暦12年1月)の和気清麻呂の建議もあり、翌年10月22日に再遷都し、長岡京から山背国葛野郡宇太村の新京に移ったものでした。同年11月8日に、桓武天皇は詔を発して「平安京」と命名し、山背国は山城国と改められます。
 造営にあたり、まず藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ、その報告をまって早速造都に着手、唐の都長安を模し、規模は平城京より大きく、南北38町(5.31km),東西32町(4.57km)に及びました。遷都の理由は、寺院勢力が集まる大和国から脱しての政治と仏教の分断、人心の刷新などとされています。
 遷都の時点では、宮殿が出来た程度と考えられ、造都工事は大規模な蝦夷征討と並行して継続したため民力は疲弊、事業が行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣(おつぐ)の建議で、造都・征夷の二大事業は中止されました。
 尚、平安遷都1100年を記念して、1895年(明治28)に創建された平安神宮の例祭・時代祭は、10月22日に開催されています。
 以下に、『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分と『日本後紀』の平安京造営の停止の部分を抜粋しておきましたので、ご参照下さい。

〇平安京とは?

 桓武天皇の794年(延暦13)の平安遷都から1869年(明治2)の東京遷都まで、1075年ほど(内福原遷都の期間あり)都の置かれたところです。山背国(山城国)葛野郡宇太村(現在の京都府京都市)に造営され、唐の長安をモデルとして、規模は南北38町 (約5.31km) 、東西32町 (約4.57km) で、北部中央に宮城(大内裏)が設けられました。
 朱雀(すざく)大路を中心に左京と右京に分かれ、各京は9条4坊に分けられ、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。しかし、右京南部は低湿地のため発展せず、開発が遅れ、左京に都の中心が移りました。
 その後、1180年代の鎌倉幕府の成立とともに政治都市としての生命を失い、1467年からの応仁・文明の乱で大部分を焼失します。しかし、1580年代からの豊臣秀吉による新都市建設によって、今日の京都へと発展しました。

〇『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分の抜粋

<原文>

(延暦十二年の条)
正月甲午。遣大納言藤原小黒麻呂・左大辨紀古佐美等、相山背国葛野郡宇太村之地。為遷都也。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕遷于新京。
壬戌。天皇自南京、遷北京。
丁卯。遷都詔曰。云云、葛野乃大宮地者、山川毛麗久、四方国乃百姓毛参出来事毛便之弖、云云。
十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

 ※縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字にして句読点を付してあります。

<読み下し文>

(延暦十二年の条)
正月甲午、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を遣わし、山背国葛野郡宇太村[1]の地を相せしむ[2]。都を遷さむが為なり。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕[3]にて新京に遷る。
壬戌。天皇は南の京[4]より、北の京へ遷る。
丁卯。……都を遷す。詔して曰く、「云云。葛野の大宮地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も參出で來る事も便り[5]にして、云云。」
十一月丁丑。詔したまわく、云々。「山勢[6]実に前聞[7]に合ふ」、云々。「此の国は山河襟帯[8]し、自然に城をなす[9]。此の形勝[10]に因りて、新号[11]を制むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし」と、また子来の民[12]、謳歌の輩[13]、異口同辞[14]に、号して平安京と曰ふ。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝[15]の旧都[16]にして、今輦下[17]に接す、昔の号を追いて、改めて大津と称すべし、云々。」

【注釈】

[1]山背国葛野郡宇太村:やましろこくかどのぐんうたむら=現在の京都府京都市上京区辺り。
[2]相せしむ:そうせしむ=物事の姿・ありさまなどを見て、そのよしあし・吉凶などを判断させること。
[3]車駕:しゃが=天子が行幸の際に乗るくるま。
[4]南の京:みなみのきょう=奈良の平城京のこと。
[5]便り:たより=都合のよいこと。便利なこと。
[6]山勢:さんせい=山の姿。山のようす。山容。
[7]前聞:ぜんぶん=以前に聞いた事柄。昔からのいいつたえ、知識。
[8]山河襟帯:さんがきんたい=周囲に山が聳え立ち、河が帯のように巡ること。
[9]自然に城をなす:しぜんにしろをなす=自然の要害(城)を形成すること。
[10]形勝:けいしょう=敵を防ぐのに都合のよい地勢・地形。要害。
[11]新号:しんごう=新しい名称。
[12]子来の民:しらいのたみ=天使の徳を慕って集まってくる民。
[13]謳歌の輩:おうかのともがら=天使の徳を褒めたたえる人々。
[14]異口同辞:いくどうじ=口をそろえて。
[15]先帝:せんてい=先の天皇。ここでは桓武天皇の曽祖父である天智天皇のこと。
[16]旧都:きゅうと=昔の都。ここでは大津京のこと。
[17]輦下:れんか=天皇のおひざもと。都の意味。

<現代語訳>

(延暦12年の条)
1月15日、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を派遣して、山背国葛野郡宇太村の地を調査させた。都を遷そうとする為である。

(延暦13年の条)
冬の10月22日。行幸の際に乗る車で新しい京に遷る。
10月23日。天皇は南の京(平城京)より、北の京へ遷都された。
10月28日。……都を遷す。(桓武天皇が)詔して言うことには、「次のごとく、葛野郡大宮の地は、山川の自然も美しく、諸国の人々がやって来るにも便利な所であると、しかじか。」
11月8日の(桓武天皇の)詔には、次のごとく、「山背国の山容は以前に聞いていたとおりである。」また次のごとく、「此の国は山河が周りを取り囲み、自然の要害を形成している。この地勢に因んで、新しい名前を制定する。すなわち、“山背国”を改めて“山城国”と書き表すことにしよう。」と、また、天皇の徳を慕って集まった人々やそれを褒めたたえる人々が、口をそろえて、“平安京”と呼んでいる。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝(天智天皇)の旧都(大津京)であり、今新都に隣接している、昔の名称を使って、改めて大津と称することと、しかじか。」


〇『日本後紀』の平安京造営の停止の部分の抜粋

<原文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是日。中納言近衞大將從三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令參議右衞士督從四位下藤原朝臣緒嗣。與參議左大辨正四位下菅野朝臣眞道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事與造作也。停此兩事。百姓安之。眞道□執異議。不肯聽焉。帝善緒嗣議。即從停廢。有識聞之。莫不感歎。

<読み下し文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是の日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上[18]に侍す。勅有りて、参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして、天下の徳政[19]を相論[20]せしむ。時に緒嗣、議して云はく、「方今、天下の苦しむ所は軍事[21]と造作[22]と也。此の両事を停めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執[23]して肯へて聴かず。帝[24]、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃[25]に従ふ。

【注釈】

[18]殿上:でんじょう=内裏の殿舎。
[19]徳政:とくせい=徳のある政治。免税・大赦などの目立った恩恵を施す政治。仁政。
[20]相論:そうろん=自己の言い分を主張しあうこと。言い争うこと。議論すること。
[21]軍事:ぐんじ=蝦夷征討を指す。 
[22]造作:ぞうさく=平安京造営事業のこと。 
[23]確執:かくしつ=自分の意見を強く主張し、譲らないこと。
[24]帝:みかど=天皇。この場合は桓武天皇のこと。
[25]停廃:ちょうはい=予定していた事柄をとりやめること。中止。

<現代語訳>

(延暦24年の条)
12月7日。……この日、中納言近衛大将従三位の藤原朝臣内麻呂が、内裏の殿舎に待していた。桓武天皇の命令を受けて、参議右衛士督従四位下の藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下の菅野朝臣真道が、徳のある政治について議論することになった。この時に、緒嗣は、「現在、天下の民衆が苦しんでいる原因は、蝦夷征討と平安京造営事業である。この二つの事業を停止すれば民衆は安んじるでしょう。」と建議した。真道は、異議を強く主張し、同意しなかったが、桓武天皇は、緒嗣の建議を善しとして、二事業は中止されることとなった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細


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 今日は、平安時代前期の803年(延暦22)に、征夷大将軍・坂上田村麻呂に志波城の築城が命令された日ですが、新暦では4月1日となります。
 この城は、現在の岩手県盛岡市の西の郊外の交通の要衝に、征夷大将軍の坂上田村麻呂が造営した古代城柵で、『日本紀略』延暦22(803)年には、越後国から米と塩とを志波城に送ったことが書かれていました。
 蝦夷の首長アテルイ(阿弖流爲、阿弖利爲)を滅ぼした後、朝廷が蝦夷を統治するために設置したものです。陸奥国の最北に位置し、国府の多賀城に劣らない規模を持ち、政治・軍事上の拠点でしたが、雫石川の洪水被害をたびたび受けたため、10年後に主要な機能を南にある徳丹城へ移転しました。
 長らく所在地がはっきりしませんでしたが、東北自動車道建設にともなう、1976年~1977年の発掘調査で、築地塀や大溝、竪穴式住居跡が発見され、1984年(昭和59)に、『日本紀略』に記載のある「志波城」の遺跡として、国の史跡に指定されました。
 発掘の結果、城の外郭は、840m四方の築地塀で囲まれ、その外側に928m四方の堀を設けて2重に区画し、その中に官衙の建物が配され、外郭の外側には兵舎と思われる多数の竪穴住居跡があったことがわかっています。
 現在は、「志波城古代公園」として整備され、外郭南門、築地塀、政庁の南・西・東それぞれの門、官衙建物などが復元されました。復元された官衙建物は、コンピューターグラフィックで当時の姿を鑑賞できる展示室として整備されています。
 また、2015年(平成27)より、ガイダンス施設である「志波城古代公園案内所」と復元竪穴建物が公開開始となりました。

〇東北地方等に造営された主要な城柵一覧

・渟足柵(沼垂郡)647年(大化3)設置
・磐舟柵(岩船郡)648年(大化4)設置
・都岐沙羅柵(不明)設置年不明
・出羽柵(出羽郡) 760年(天平宝字4)頃設置 出羽国府
・秋田城(秋田郡) 760年(天平宝字4)頃設置
・河辺府(河辺郡) 759年(天平宝字3)設置
・雄勝城(雄勝郡) 759年(天平宝字3)設置
・由利柵( 由利郡) 設置年不明
・払田柵(不明) 9世紀初頭設置
・城輪柵(出羽郡?) 9世紀設置。
・多賀城(宮城郡) 724年(神亀元)設置 陸奥国府
・玉造柵(玉造郡) 737年(天平9)頃設置
・色麻柵(色麻郡) 737年(天平9)頃設置
・新田柵(新田郡) 737年(天平9)頃設置
・牡鹿柵(牡鹿郡) 737年(天平9)頃設置
・桃生城(桃生郡) 759年(天平宝字3)設置
・伊治城(伊治郡) 767年(神護景雲元)設置
・覚鱉城(不明) 780年(宝亀11)設置
・胆沢城(胆沢郡) 802年(延暦21)設置
・中山柵(不明) 804年(延暦23)以前設置
・志波城(志波郡) 803年(延暦22)設置
・徳丹城(志波郡) 811年(弘仁2)設置
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