
福王寺法林(ふくおうじ ほうりん)は、山形県米沢市矢来町において、上杉藩の槍術師範の家系である父・福王寺政雄、母・せんの長男として生まれましたが、本名は雄一と言いました。1927年(大正15)の6歳の時、父親とともに狩猟に行き、銃の暴発によって左眼を失明、1929年(昭和4)には、狩野派の画家上村廣成に師事し日本画を学びます。
1934年(昭和9)に山形県米沢市立松岬高等小学校を家庭の事情により中退、1936年(昭和11)には、画家を志望して上京し、文京区根津千駄木町のアパートに住みました。1941年(昭和16)に召集され、中国戦線に配属されたものの、1945年(昭和20)に香港で捕虜となって、翌年復員し、山形県米沢市に帰ります。
1949年(昭和24)に、再興第34回日本美術院展覧会に「山村風景」を出品して初入選しました。1951年(昭和26)に日本美術院同人田中青坪に師事、日本美術院院友に推挙されます。
1953年(昭和28)に東京都三鷹市に転居し本格的に絵画制作に取り組むようになり、1955年(昭和30)には、第40回院展に「朝」を出品し奨励賞、白寿賞を受賞しました。以後院展で、第41回(1956年)「かりん」、第42回(1957年)「朴の木」が日本美術院次賞・大観賞、第43回(1958年)「麦」が佳作・白寿賞、第44回(1959年)「岩の石仏」が再び奨励賞・白寿賞、第45回(1960年)「北の海」が日本美術院賞・大観賞と続けて受賞し、同年同人に推挙されます。
1961年(昭和36)に濤林会を結成、1971年(昭和46)には、第56回院展に「山腹の石仏」を出品し内閣総理大臣賞を受賞しました。1974年(昭和49)に、ネパール、ヒマラヤを旅行し、同年よりライフワークとなるヒマラヤシリーズに着手、1977年(昭和52)に「ヒマラヤ連峰」で、第27回芸術選奨文部大臣賞、1984年(昭和59)には、「ヒマラヤの花」で第40回日本芸術院賞を受賞します。
1991年(平成3)に日本美術院理事、1994年(平成6)に日本芸術院会員となり、1997年(平成9)に勲三等瑞宝章、1998年(平成10)に文化功労者顕彰、2004年(平成16)には、文化勲章、米沢市名誉市民顕彰を受けました。2005年(平成17)には、山形県名誉県民顕彰を受けましたが、2012年(平成24)2月21日に、東京都内の病院において、心不全のため91歳で亡くなり、従三位を追贈されています。