ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本画家

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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、日本画家福王寺法林が生まれた日です。
 福王寺法林(ふくおうじ ほうりん)は、山形県米沢市矢来町において、上杉藩の槍術師範の家系である父・福王寺政雄、母・せんの長男として生まれましたが、本名は雄一と言いました。1927年(大正15)の6歳の時、父親とともに狩猟に行き、銃の暴発によって左眼を失明、1929年(昭和4)には、狩野派の画家上村廣成に師事し日本画を学びます。
 1934年(昭和9)に山形県米沢市立松岬高等小学校を家庭の事情により中退、1936年(昭和11)には、画家を志望して上京し、文京区根津千駄木町のアパートに住みました。1941年(昭和16)に召集され、中国戦線に配属されたものの、1945年(昭和20)に香港で捕虜となって、翌年復員し、山形県米沢市に帰ります。
 1949年(昭和24)に、再興第34回日本美術院展覧会に「山村風景」を出品して初入選しました。1951年(昭和26)に日本美術院同人田中青坪に師事、日本美術院院友に推挙されます。
 1953年(昭和28)に東京都三鷹市に転居し本格的に絵画制作に取り組むようになり、1955年(昭和30)には、第40回院展に「朝」を出品し奨励賞、白寿賞を受賞しました。以後院展で、第41回(1956年)「かりん」、第42回(1957年)「朴の木」が日本美術院次賞・大観賞、第43回(1958年)「麦」が佳作・白寿賞、第44回(1959年)「岩の石仏」が再び奨励賞・白寿賞、第45回(1960年)「北の海」が日本美術院賞・大観賞と続けて受賞し、同年同人に推挙されます。
 1961年(昭和36)に濤林会を結成、1971年(昭和46)には、第56回院展に「山腹の石仏」を出品し内閣総理大臣賞を受賞しました。1974年(昭和49)に、ネパール、ヒマラヤを旅行し、同年よりライフワークとなるヒマラヤシリーズに着手、1977年(昭和52)に「ヒマラヤ連峰」で、第27回芸術選奨文部大臣賞、1984年(昭和59)には、「ヒマラヤの花」で第40回日本芸術院賞を受賞します。
 1991年(平成3)に日本美術院理事、1994年(平成6)に日本芸術院会員となり、1997年(平成9)に勲三等瑞宝章、1998年(平成10)に文化功労者顕彰、2004年(平成16)には、文化勲章、米沢市名誉市民顕彰を受けました。2005年(平成17)には、山形県名誉県民顕彰を受けましたが、2012年(平成24)2月21日に、東京都内の病院において、心不全のため91歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇福王寺法林の代表的作品

・「朝」(1955年)第40回院展奨励賞、白寿賞受賞
・「岩の石仏」(1959年)第44回院展奨励賞、白寿賞受賞
・「北の海」(1960年)第45回院展日本美術院賞、大観賞受賞
・「山腹の石仏」(1971年)第56回院展内閣総理大臣賞受賞
・「ヒマラヤ連峰」(1976年)第27回芸術選奨文部大臣賞受賞
・「ヒマラヤの花」(1982年)第40回日本芸術院賞受賞

☆福王寺法林関係略年表

・1920年(大正9)11月10日 山形県米沢市矢来町において、上杉藩の槍術師範の家系である父・福王寺政雄、母・せんの長男として生まれる
・1927年(大正15) 6歳の時、父親とともに狩猟に行き、銃の暴発によって左眼を失明する
・1929年(昭和4) 狩野派の画家上村廣成に師事し日本画を学ぶ
・1932年(昭和7) 山形県米沢市立西部尋常小学校を卒業する
・1934年(昭和9) 山形県米沢市立松岬高等小学校を家庭の事情により中退する
・1936年(昭和11) 画家を志望して上京し、文京区根津千駄木町のアパートに住む
・1938年(昭和13) 師・上村廣成が逝去する
・1941年(昭和16) 召集され、中国戦線に配属される
・1945年(昭和20) 香港で捕虜となる
・1946年(昭和21) 復員して山形県米沢市に帰る
・1947年(昭和22) 第8回日本画院展に「ふるさとの山」を出品、渡部愛子と結婚する
・1949年(昭和24) 再興第34回日本美術院展覧会に「山村風景」を出品して初入選、第5回日展に「山」を出品する
・1950年(昭和25) 第35回院展に「朴青葉」、第6回日展に「山」を出品する
・1951年(昭和26) 日本美術院同人田中青坪に師事、第36回院展に「山の変電所」を出品、第7回日展に「山形七日町」を出品、日本美術院院友に推挙される
・1952年(昭和27) 第8回日展に「緑くる朝」を出品する
・1953年(昭和28) 第38回院展に「港町風景」を出品、東京都三鷹市に転居し本格的に絵画制作に取り組む
・1954年(昭和29) 第59回院展に「閑庭」を出品する
・1955年(昭和30) 第10回日本美術院小品展に゜暮夕方」を出品し奨励賞を受賞、第40回院展に「朝」を出品し奨励賞、白寿賞を受賞する
・1956年(昭和31) 第11回小品展に「かりん」を出品し試作賞を受賞、第41回院展に「かりん」を出品し日本美術院次賞、大観賞を受賞する
・1957年(昭和32) 第12回小品展に「朝」を出品、試作賞を受賞、第42回院展に「朴の木」を出品し日本美術院次賞、大観賞を受賞する
・1958年(昭和33) 第13回小品展に「落葉」を出品、試作賞を受賞、第11回日本美術協会展に「落葉」を出品、第43回院展に「麦」を出品、佳作、白寿賞を受賞する
・1959年(昭和34) 第14回日本美術院春季展に「落椿」を出品し奨励賞を受賞、第44回院展に「岩の石仏」を出品し奨励賞、白寿賞を受賞する
・1960年(昭和35) 第15回春季展に「樹間」を出品し奨励賞、第45回院展に「北の海」を出品し日本美術院賞、大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙される
・1961年(昭和36) 濤林会を結成する
・1971年(昭和46) 第56回院展に「山腹の石仏」を出品し内閣総理大臣賞を受賞する
・1974年(昭和49) ネパール、ヒマラヤに取材旅行を行ない、第59回院展に「ヒマラヤ」を出品する
・1976年(昭和51) ネパール、ヒマラヤに取材旅行を行ない、第61回院展に「ヒマラヤ連峰」を出品する
・1977年(昭和52) 前年の「ヒマラヤ連峰」で、第27回芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1978年(昭和53) 日本美術院評議員に選任される
・1982年(昭和57) 第68回院展に「ヒマラヤの花」を出品、紺綬褒章、木杯一組を受ける
・1984年(昭和59) 作品「ヒマラヤの花」で第40回日本芸術院賞を受賞する
・1985年(昭和60) ネパール、ヒマラヤに取材旅行を行ない、第40回春の院展に「聖なる山(エベレスト)」を出品する
・1991年(平成3) 日本美術院理事に選任される
・1994年(平成6) 日本芸術院会員となる
・1997年(平成9) 勲三等瑞宝章を受章する
・1998年(平成10) 文化功労者顕彰を受ける
・2004年(平成16) 文化勲章を受章、米沢市名誉市民顕彰を受ける
・2005年(平成17) 山形県名誉県民顕彰を受ける
・2012年(平成24)2月21日 東京都内の病院において、心不全のため91歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1696年(元禄9)第109代とされる明正天皇(女帝)の命日(新暦12月4日)詳細
1940年(昭和15)神武天皇即位2600年とされる「紀元二千六百年記念行事」が始まる詳細
1951年(昭和26)日教組が第1回全国教育研究大会を開催する詳細
1982年(昭和57)中央自動車道の勝沼IC~ 甲府昭和IC間が開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市が繋がる詳細
2008年〈平成20〉数学者伊藤清の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1879年(明治12)に、日本画家西山翠嶂が生まれた日です。
 西山翠嶂(にしやま すいしょう)は、京都伏見で、父・西山政治郎、母・さとの子として生まれましたが、本名は卯三郎(うさぶろう)と言いました。1893年(明治26)に、竹内栖鳳に入門、翌年には、京都市工芸品展で「箕面瀑布図」が褒状、日本美術協会展で「鷹狩図」が3等を受賞するなど、若くして頭角を現し、同門の西村五雲、橋本関雪と並び称されます。
 さらに、京都市美術工芸学校へも入学して、研鑽を積み、1897年(明治30)に第1回全国絵画共進会で「義光勇戦図」が2等、翌年には、京都新古美術品展で「秋口喚渡の図」が1等を受賞しました。1899年(明治32)に京都市立美術工芸学校を卒業、京都の諸展覧会で受賞を続け、1902年(明治35)に母校への教諭となり、1905年(明治38)には、関雪、五雲らの8名で水曜会を結成、機関誌「黎明」を刊行します。
 1907年(明治40)の第1回文展で「広寒宮」が3等を受賞、その後も何回か受賞を重ね、1916年(大正5)の第10回文展から連続して3回特選となりました。1919年(大正8)に、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)教授へ就任、帝展が開設されると過去の実績により審査員に選出されます。
 1921年(大正10)に画塾青甲社を主宰、1929年(昭和4)に帝国美術院会員となり、1933年(昭和8)には、京都市立絵画専門学校校長にもなりました。1936年(昭和11)に京都市絵画専門学校、京都市美術工芸学校を辞職したものの、翌年には、帝国芸術院会員、第1回新文展審査員となります。
 1940年(昭和15)に紀元2600年奉祝美術展委員となり、1944年(昭和19)には帝室技芸員にもなりました。太平洋戦争後は、1948年(昭和23)に著書『大朴無法』を刊行、1950年(昭和25)に京都市立美術大学名誉教授となり、1951年(昭和26)に日展運営会理事に就任、1953年(昭和28)には日本芸術院会員選考委員にも就任します。
 1957年(昭和32)に文化勲章を受章、文化功労者表彰されましたが、翌年3月30日に、京都市東山区の自宅において、78歳で亡くなり、正三位勲二等旭日重光章を追贈されました。尚、堂本印象、中村大三郎、上村松篁、吉田鋤牛、森守明、沢宏靱、瀬川艶久などの多くの逸材を育てています。

〇西山翠嶂の主要な作品

・『平軍驚水禽』(1895年)第4回内国勧業博覧会褒状
・『広寒宮』(1907年)第1回文展3等賞
・『未笄の女』(1916年)第10回文展特選
・『短夜』(1917年)第11回文展特選
・『落梅』(1918年)第12回文展特選
・『木槿』(1923年)
・『くらべ馬』(1932年)
・『牛買ひ』(1934年)文部省蔵
・『黒豹』(1951年)東京地方裁判所蔵
・『東山春月』(1958年)京都観世会館壁画
・『洛北の秋』

☆西山翠嶂関係略年表

・1879年(明治12)4月2日 京都伏見で、父・西山政治郎、母・さとの子として生まれる
・1893年(明治26) 竹内栖鳳に入門する
・1894年(明治27) 京都市工芸品展で「箕面瀑布図」が褒状、日本美術協会展で「鷹狩図」が3等を受賞する
・1895年(明治28) 第4回内国勧業博覧会で「富士川水禽図」が褒状、日本青年絵画共進会「対風牡丹図」が2等を受賞する
・1896年(明治29) 大阪私立日本絵画共進会で「対風牡丹図」が2等を受賞する
・1897年(明治30) 第1回全国絵画共進会で「義光勇戦図」が2等を受賞する
・1898年(明治31) この頃から旧淀藩士中島静甫について国漢を学ぶ、京都新古美術品展で「秋口喚渡の図」が1等を受賞する
・1899年(明治32) 京都市立美術工芸学校を卒業、全国絵画共進会で「村童」、第2回全国絵画共進会で「迦葉哄笑図」ともに3等を受賞する
・1900年(明治33) 京都新古美術品展で「韓退之図」が3等を受賞する、後素青年会展「悉多発心図」優等1席受賞[1]
・1901年(明治34) 京都新古美術品展で「沙陽」が3等を受賞する
・1902年(明治35) 京都市立美術工芸学校へ奉職、小谷とみ子と結婚、京都新古美術品展で「緑陰」が3等を受賞する
・1903年(明治36) 第5回内国勧業博覧会で「詰汾興魏図」が3等を受賞する
・1904年(明治37) 朝鮮へ旅行、京都新古美術品展で「祝戸開き」が3等を受賞する
・1905年(明治38) 関雪、五雲らの8名で水曜会を結成、機関誌「黎明」を刊行(1909年まで)
・1907年(明治40) 第1回文展で「広寒宮」が3等を受賞する
・1908年(明治41) 第2回文展で「軒迷開悟」が褒状授与される
・1909年(明治42) 京都市絵画専門学校助教諭就任、第3回文展で「花見」が3等を受賞する
・1910年(明治43) 師栖鳳の東本願寺天井絵制作に帯同し、土田麦僊と制作助手を務める
・1912年(大正元) 第6回文展で「青田」が3等を受賞する
・1914年(大正3) 第8回文展で「採桑」が3等を受賞する
・1915年(大正4) 第9回文展で「農夫」が3等を受賞する
・1916年(大正5) 第10回文展で「未★の女」が特選を受賞する
・1917年(大正6) 第11回文展で「短夜」が特選を受賞する
・1918年(大正7) 第12回文展で「落梅」が特選を受賞する
・1919年(大正8) 京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)教授へ就任、第1回帝展審査員に選出、以降、第10回迄務める
・1920年(大正9) 平和記念美術展審査員を務める
・1921年(大正10) 画塾青甲社を主宰する
・1929年(昭和4) 帝国美術院会員となる
・1933年(昭和8) 京都市立絵画専門学校校長となる、大礼記念京都美術館評議員に就任する
・1936年(昭和11) 京都市絵画専門学校、京都市美術工芸学校を辞職する
・1937年(昭和12) 帝国芸術院会員、第1回新文展審査員となる
・1940年(昭和15) 紀元2600年奉祝美術展委員となる
・1941年(昭和16) 珊々会に「霧の海」、海軍省に「日出づる処」を納める
・1942年(昭和17) 師栖鳳が死去する
・1944年(昭和19) 帝室技芸員となる
・1948年(昭和23) 著書『大朴無法』を刊行する
・1950年(昭和25) 京都市立美術大学名誉教授号を付与される
・1951年(昭和26) 日展運営会理事に就任する
・1953年(昭和28) 日本芸術院会員選考委員に就任する(1957年まで)
・1957年(昭和32) 文化勲章を受章、文化功労者表彰される
・1958年(昭和33)3月30日 京都市東山区の自宅において、78歳で亡くなり、正三位勲二等旭日重光章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1481年(文明13)公卿・古典学者一条兼良の命日(新暦4月30日)詳細
1929年(昭和4)「救護法」が公布(施行は1932年1月1日)される詳細
1931年(昭和6)「労働者災害扶助法」(昭和6年法律第54号)が公布される詳細
1956年(昭和31)彫刻家・画家・詩人高村光太郎の命日詳細
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 今日は、平成時代の2001年(平成13)に、日本画家秋野不矩が亡くなった日です。
 秋野不矩(あきの ふく)は、明治時代後期の1908年(明治41)7月25日に、静岡県磐田郡二俣町城山(現在の浜松市天竜区二俣町)の神主の家に生まれましたが、本名はふくと言いました。静岡県立二俣高等女学校(現在の県立天竜高等学校)を経て、1925年(大正14)に静岡県女子師範学校2部(現在の静岡大学)へ入学し、美術教師・三沢佐助の指導を受けます。
 1926年(大正15)に卒業後、静岡県磐田郡横山尋常高等小学校へ赴任したものの、翌年には教職を辞し、父親の勧めで石井林響に入門しました。1929年(昭和4)に師・林響、脳溢血症で倒れると西山翠嶂の塾青甲社に入門します。
 1930年(昭和5)に『野を帰る』で第11回帝展に初入選、1932年(昭和7)には澤宏靱と結婚、雅号を「不矩」としました。1936年(昭和11)に『砂上』で新文展鑑査展で選奨、1938年(昭和13)に『紅裳』で第2回新文展特選となり、無監査になります。
 太平洋戦争後の1948年(昭和23)に日展、帝展、新文展の系列から離別して、創造美術協会 (現・創画会) の結成に参画、翌年には、京都市立美術専門学校助教授に就任しました。1951年(昭和26)に『少年群像』で第1回上村松園賞を受賞、1962年(昭和37)には、インド・「ビスバ・バーラティ大学」(現タゴール国際大学)客員教授に赴任して1年間滞在、インド旅行をします。
 1966年(昭和41)に京都市立美術大学教授に昇任(1973年退任)、度々インドを訪れ、インドを主題とした作品を制作するようになりました。1978年(昭和53)に京都市文化功労者、1981年(昭和56)に京都府美術工芸功労者、1983年(昭和58)に天竜市名誉市民、1986年(昭和61)に第27回毎日芸術賞、1988年(昭和63)に第1回京都美術文化賞、1990年(平成2)に第43回中日文化賞など数々の栄誉に輝きます。
 インドの大地と人々の暮らしを力強い筆と鮮やかな色彩で描き、現代日本画に新境地を開くなどの業績により、1991年(平成3)に文化功労者、1993年(平成5)に第25回日本芸術大賞受賞、そして、1998年(平成10)には故郷の静岡県天竜市に秋野不矩美術館が開館しました。1999年(平成11)に文化勲章を受章しましたが、2001年(平成13)10月11日に、京都府美山町のアトリエにおいて、93歳で亡くなっています。

〇秋野不矩の主要な作品

・『野を帰る』(1930年)第11回帝展入選
・『砂上』(1936年)新文展鑑査展選奨
・『紅裳』(1938年)第2回新文展特選
・『少年群像』(1951年)第1回上村松園賞受賞
・『インド女性』(1964年)
・『ガンガー』(1979年)
・『残雪』(1980年)
・『廻廊』(1984年)

☆秋野不矩関係略年表

・1908年(明治41)7月25日 静岡県磐田郡二俣町城山(現在の浜松市天竜区二俣町)の神主の家に生まれる。
・1920年(大正9) 二俣尋常高等小学校6年で図画教師・鈴木俊平の影響を受ける
・1925年(大正14)3月 静岡県立二俣高等女学校(現在の県立天竜高等学校)を卒業する
・1925年(大正14)4月静岡県女子師範学校2部(現在の静岡大学)へ入学し、美術教師・三沢佐助の指導を受ける
・1926年(大正15)4月 静岡県磐田郡横山尋常高等小学校へ赴任する
・1927年(昭和2)9月 教職を辞し、父親の勧めで石井林響に入門する
・1929年(昭和4)3月 師・林響、脳溢血症で倒れる
・1929年(昭和4)11月 西山翠嶂の塾青甲社に入門する
・1930年(昭和5) 『野を帰る』で第11回帝展に初入選する
・1932年(昭和7)  澤宏靱と結婚、京都市左京区田中樋口町に住み、雅号を「不矩」とする
・1933年(昭和8)1月 秋野不矩後援会が発足する
・1933年(昭和8)1月 長男・癸巨矢(きくし)が誕生する
・1933年(昭和8)10月 「奈那久佐(七草)会」を京都大阪の同志で結成、後の春泥社につながる
・1935年(昭和10)4月 次男・亥左牟(いさむ)が誕生する
・1935年(昭和10)12月 父・惣吉が亡くなるく
・1936年(昭和11) 『砂上』で新文展鑑査展で選奨となる
・1937年(昭和12)6月 京都の女流画家の会『春泥社』に結成参加(梶原緋佐子、三谷十糸子、広田多津)する
・1937年(昭和12)10月 三男・子弦(みつる)が誕生する
・1937年(昭和12)10月 京都市東山区粟田口に転居する
・1938年(昭和13) 『紅裳』で第2回新文展特選となる
・1940年(昭和15)1月 長女・靱子(ゆきこ)が誕生する
・1942年(昭和17)5月 四男・矩之(のりゆき)が誕生する
・1944年(昭和18)12月 京都市左京区岡崎法勝寺町へ転居する
・1945年(昭和20)2月 五男・等(ひとし)が誕生する
・1948年(昭和23)1月 「創造美術」を結成する
・1949年(昭和24)9月 京都市立美術専門学校助教授に就任する
・1950年(昭和25)4月 京都市立美術大学助教授に就任(美專兼任)する
・1950年(昭和25)9月 「創造美術」と「新制作派協会」が合流「新制作協会日本画部」となる
・1951年(昭和26)2月 『少年群像』で第1回上村松園賞を受賞する
・1958年(昭和33)10月 澤宏靱と離婚する
・1962年(昭和37)7月 インド・「ビスバ・バーラティ大学」(現タゴール国際大学)客員教授に赴任する
・1962年(昭和37)10月 インド旅行をする
・1964年(昭和39) 個展(東京高島屋美術画廊)を開催する
・1966年(昭和41)5月 京都市立美術大学教授に昇任する
・1969年(昭和44)12月 ミクロネシア旅行(1ヶ月)をする
・1971年(昭和46)10月 インド・アフガニスタン旅行(約3ヶ月)をする
・1972年(昭和47) 画室(岡崎)がほぼ全焼する
・1973年(昭和48)7月 京都市左京区岡崎法勝寺町の画室が全焼する
・1974年(昭和49)2月 京都市左京区八瀬近衛町に移転する
・1974年(昭和49)3月 京都市立芸術大学美術学部退職
・1974年(昭和49)5月 新制作協会から日本画部が退会。創画会を結成
・1974年(昭和49)5月 インド旅行(約1年)をする
・1974年(昭和49)7月 京都市立芸術大学名誉教授となる
・1976年(昭和51)10月 京都市左京区八瀬近衛町の画室、火災。伏見区墨染の末男井上等宅に同居する
・1977年(昭和52)4月 インド旅行(約1年)をする
・1978年(昭和53)5月 マラリアで倒れる
・1978年(昭和53)11月 京都市文化功労者表彰を受ける
・1980年(昭和55)10月 京都府北桑田郡美山町の三男子弦宅隣に画室をもつ
・1981年(昭和56)10月 京都府美術工芸功労者表彰を受ける
・1982年(昭和57)9月 インド訪問(3ヶ月)ナンドラル・ボース生誕100年祭出席。アテシャ生誕千年を記念して「チベット高僧アテシャ」贈呈
・1983年(昭和58)11月 天竜市名誉市民となる
・1985年(昭和60)2月~4月 「女流画家インドを描く 秋野不矩自選展」が開催される
・1986年(昭和61)1月 第27回毎日芸術賞を受賞する
・1988年(昭和63)2月 「秋野不矩作品展」が開催される
・1988年(昭和63)5月 第1回京都美術文化賞を受賞する
・1988年(昭和63)5月 インド旅行をする
・1990年(平成2)5月 第43回中日文化賞を受賞する
・1991年(平成3)7月 インド旅行をする
・1991年(平成3)11月 文化功労者顕彰を受ける
・1992年(平成4)11月~12月 個展「秋野不矩インド」が開催される
・1993年(平成5)6月 第25回日本芸術大賞を受賞する(財・新潮文芸 振興会)
・1993年(平成5)8月 インド旅行をする
・1993年(平成5)10月〜翌年4月 「秋野不矩展」が開催される
・1995年(平成7)12月 インド・カンボジア旅行をする
・1996年(平成8)2月 カンボジア(アンコールワット)を旅行する
・1996年(平成8)9月 天竜市立秋野不矩美術館起工式を挙行する
・1996年(平成8)10月 京都府あけぼの賞を受賞する
・1996年(平成8)10月 インド旅行(約1ヶ月)をする
・1997年(平成9)2月 インド旅行(約1ヶ月)をする
・1997年(平成9)10月 「秋野不矩展-デッサンから本画へ-」(ギャラリー鉄斎堂)
・1998年(平成10)2月 インド旅行(約1ヶ月)をする
・1998年(平成10)3月 「秋野不矩展-インド 大地と生命の讃歌-」が開催される
・1998年(平成10)4月 天竜市立秋野不矩美術館竣工式を挙行する
・1999年(平成11)1月 第17回京都府文化賞特別功労賞を受賞する
・1999年(平成11)2月 インド旅行(約40日)をする
・1999年(平成11)11月 文化勲章を受章する
・2000年(平成12)2月 アフリカ旅行(1ヶ月)をする
・2001年(平成13)10月11日 京都府美山町のアトリエにおいて、93歳でなくなる、従三位に叙される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1231年(寛喜3)第83代の天皇とされる土御門天皇が、配流先の阿波国で亡くなる(新暦11月6日)詳細
1940年(昭和15)俳人種田山頭火の命日(一草忌)詳細
1945年(昭和20)幣原首相・マッカーサー会談で、GHQから「五大改革指令」が通達される詳細
1950年(昭和25)新日本観光地百選」が毎日新聞紙上で発表される詳細


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katayamananpuu01

 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、日本画家堅山南風の生まれた日です。
 堅山南風(かたやま なんぷう)は、熊本県熊本市で、父・武次郎、母・シゲの三男として生まれましたが、本名は熊次(くまじ)と言いました。1888年(明治21)に母、1893年(明治26)に父を亡くし、以後祖父によって養育されます。
 1904年(明治37)に破産により代々の家を閉じて、西子飼町源空寺に仮寓、9月に祖父武八が亡くなりました。1906年(明治39)頃に地元杉谷雪樵系の画家福島峰雲に師事、1909年(明治42)に上京し「南風」の号を自ら選び、歴史画家高橋広湖の門に入ります。
 翌年に巽画会に絵巻物「風の往来」を出品して三等褒賞を受けましたが、文展には4年連続して落選しました。1913年(大正2)に巽画会に出品の「遅日」が二等褒賞、「霜月頃」が第7回文展に初入選、最高の二等賞となり、横山大観の激賞を受けます。
 翌年に横山大観に師事、「日和つづき」を第1回院展に出品し入選しました。1916年(大正5)から荒井寛方のインド旅行にでかけ、翌年に帰国、1921年(大正10)に織田観潮、鴨下晃湖らと絵画研究会翡翠会を結成、1924年(大正13)には、日本美術院同人に推挙されます。
 1926年(大正15)に東京府美術院評議員に任命され、「魚楽図連作」(1926年)、「夏題十趣」(1927年)、「銷夏帖連作」(1929年)、「射翠帖連作」(1934年)などを発表しました。1940年(昭和15)に前年度院展出品作「千里壮心」が第1回西日本文化賞に選ばれましたが、太平洋戦争末期に空襲が激しくなると、1945年(昭和20)6月には、横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開します。
 太平洋戦争後は、日展にも出品するようになり、1946年(昭和21)に日展審査員、1955年(昭和30)には日展運営会参事ともなりました。1958年(昭和33)に芸術院会員、1963年(昭和38)に文化功労者、1964年(昭和39)に勲三等旭日中綬章、1968年(昭和43)には文化勲章と数々の栄誉にも輝きます。
 鯉をはじめとする花鳥画などにすぐれ、晩年になっても、日光山輪王寺薬師堂の鳴竜の天井画を復原したり、1975年(昭和50)にタヒチへ写生旅行に行ったりしていたものの、1980年(昭和55)12月30日に静岡県田方郡の別荘において、93歳で亡くなりました。

〇堅山南風の主要な作品

・『霜月頃』(1913年)第7回文展二等賞
・『魚楽図連作』(1926年)
・『夏題十趣』(1927年)
・『銷夏帖連作』(1929年)
・『O氏像(奥村土牛)』(1929年)
・『M先生(武者小路実篤)』(1932年)
・『大観先生』(1932年)
・『射翠帖連作』(1934年)
・『白雨』(1951年)東京国立近代美術館蔵
・『応接間の人』(1958年)東京国立近代美術館蔵
・『静子夫人』(1960年)
・『K先生』(1964年)
・日光山輪王寺薬師堂天井画『鳴竜』(1968年)
・『新涼の客(汀女(ていじょ)さん)』(1969年)

☆堅山南風関係略年表

・1887年(明治20)9月12日 熊本県熊本市で、父・武次郎、母・シゲの三男として生まれる
・1888年(明治21)8月1日 母・シゲが落雷のため不慮の死をとげる
・1893年(明治26)5月21日 父・武次郎が病没、以後祖父に養育される
・1894年(明治27)4月 熊本市立壷川小学校に入学する
・1898年(明治31)3月 壷川小学校を卒業、4月に高木高等小学校に入学する
・1903年(明治36) 熊本市物産館で開催された橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら20数人出品の日本美術院巡回展を見、朦朧派の新しい画風に心酔する
・1904年(明治37) 破産し、代々の家を閉じて、西子飼町源空寺に仮寓する、9月に祖父武八が亡くなる
・1906年(明治39)頃 地元杉谷雪樵系の画家福島峰雲に師事する
・1909年(明治42)5月3日 上京し「南風」の号を自ら選び、神風の紹介で、熊本山鹿出身の歴史画家高橋広湖の門に入る
・1910年(明治43)3月 第11回巽画会に「往来」を出品し三等褒賞を受ける
・1911年(明治44) 生活の窮状を見かねた師広湖が、『報知新聞』連載小説「徳川栄華物語」の挿絵を代筆させ、月30円の手当てを与える
・1912年(明治45) 巽画会出品の「路辺」が一等褒状を受賞する
・1913年(大正2) 巽画会に出品の「遅日」が二等褒賞、「霜月頃」が第7回文展に初入選、最高の二等賞となり、横山大観の激賞を受ける
・1914年(大正3) 横山大観に師事、「日和つづき」を第1回院展に出品し入選する
・1915年(大正4)3月 佐藤光(のち、三栄と改名)と結婚、第2回院展に労働者の群像を描いた「作業」を出品し、入選する
・1916年(大正5)11月25日 荒井寛方のインド旅行に便乗して海路カルカッタに向かう
・1917年(大正6)4月 帰国する
・1920年(大正9) 健康恢復と気分転換を図るため、弓道を始める
・1921年(大正10)10月 織田観潮、鴨下晃湖らと絵画研究会翡翠会を結成する
・1924年(大正13)3月 日本美術院同人に推挙される
・1926年(大正15) 東京府美術院評議員に任命される
・1936年(昭和11)頃 俳句を作り始め、武蔵野吟社に入社する
・1940年(昭和15)4月 前年度院展出品作「千里壮心」が第1回西日本文化賞に選ばれる
・1945年(昭和20)6月 横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開する
・1946年(昭和21) 日展審査員となる
・1955年(昭和30) 日展運営会参事となる
・1956年(昭和31) 熊本県文化功労者に推挙される
・1958年(昭和33) 芸術院会員となる
・1963年(昭和38) 文化功労者となる
・1964年(昭和39) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1968年(昭和43) 文化勲章を受章、日光山輪王寺薬師堂の鳴竜の天井画を復原する
・1969年(昭和44) 熊本市名誉市民となる
・1975年(昭和50) タヒチへ写生旅行する
・1980年(昭和55)12月30日 静岡県田方郡の別荘において、93歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1242年(仁治3)第84代の天皇とされる順徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細


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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、日本画家・南画家小室翠雲の生まれた日です。
 小室翠雲(こむろ すいうん)は、栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)で、呉服商を営む小室牧三郎の長男として生まれましたが、本名は貞次郎(ていじろう)と言いました。父は風流を好み、文人墨客との交友が多く、渓村と号して画を描いていて、幼い頃から画技の初歩や書法、詩文、俳句などを学ばされます。
 1887年(明治20)に小学校中等科を中退して上京、印刷見習工として働きましたが、1年余りで帰郷しました。1889年(明治22)に田崎草雲に師事し、南画を学んだものの、1898年(明治31)に草雲が没すると、翌年には上京して南画会に加わり、貧苦の中でも独学で中国画を学びます。
 1907年(明治40)の文展開設に際し、高島北海、荒木十畝らと正派同志会を結成し文展新派に対抗しました。翌年の第2回文展で「青山白雲」が3等賞となり、以来毎年入賞、1914年(大正3)には、文展審査員となります。
 1919年(大正8)に帝展審査員となり、1921年(大正10)に田近竹邨、矢野橋林らと日本南画院を創立、翌年(大正11)には、中国に渡航しました。1923年(大正12)に京橋の自宅で関東大震災にあいましたが、南画壇の発展のために活動し、1924年(大正13)には帝国美術院会員ともなります。
 1931年(昭和6)にドイツのベルリン日本画展に代表として渡欧、1934年(昭和9)に高島屋で、翌年には三越で個展を開きました。1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1941年(昭和16)には、大東南宗院を設立します。1944年(昭和19)には帝室技芸員となったものの、翌年3月30日に数え年72歳で亡くなりました。

〇小室翠雲の主要な著作

<絵画>

・『山海の図』(1908年)第4回文展2等賞
・『寒林幽居』(1913年)第7回文展2等賞
・『逍遥』(1914年)第8回文展出品
・『南航北馬』(1921年)第3回帝展出品
・『海寧観潮』(1922年)第4回帝展出品
・『広寒宮』(1925年)第6回帝展出品
・『周濂渓』(1927年)第8回帝展出品
・『田家新味』(1930年)第11回帝展出品
・『承徳佳望』(1934年)第15回帝展出品

<著書>

・『南画新論』
・『翠雲随筆』

☆小室翠雲関係略年表

・1874年(明治7)8月31日 栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)で、呉服商を営む小室牧三郎の長男として生まれる
・1887年(明治20) 小学校中等科を中退して上京、印刷見習工として働く
・1888年(明治20) 1年余りで帰郷する
・1889年(明治22) 田崎草雲に師事する
・1898年(明治31) 師の田崎草雲が没する
・1899年(明治32) 上京して南画会に加わる
・1907年(明治40) 文展開設に際し、正派同志会を結成し文展新派に対抗する
・1908年(明治41) 第2回文展で「青山白雲」が3等賞となる
・1908年(明治42) 第3回文展で「雪中山水」が3等賞となる
・1908年(明治43) 第4回文展で「山海の図」が2等賞となる
・1908年(明治44) 第5回文展で「春景山水」「秋景山水」が3等賞となる
・1908年(大正元) 第6回文展で「四時佳興」が3等賞となる
・1913年(大正2) 第7回文展で「寒林幽居」が2等賞となる
・1914年(大正3) 文展審査員となる
・1919年(大正8) 帝展審査員となる
・1921年(大正10) 田近竹邨、山田介堂、池田桂仙、山田竹圃、矢野橋村等と日本南画院を創立する
・1922年(大正11) 中国に渡航する
・1923年(大正12) 京橋の自宅で関東大震災にあう、粉杢切を焼く、後焼け残つた蔵幅を売り立てて崇文院叢書刊行会をかく
・1924年(大正13) 帝国美術院会員
・1926年(大正15) 正5位に叙せられる
・1928年(昭和3) 大礼記念章が授与される
・1931年(昭和6) ドイツ日本画展に代表として渡欧する
・1934年(昭和9) 高島屋で個展を開く
・1935年(昭和10) 三越で個展を開く、日本南画院が解散する
・1936年(昭和11)11月 南画連盟が結成される 
・1937年(昭和12) 帝国芸術院会員となる
・1940年(昭和15)5月 小室翠雲心印画塾を創立する
・1941年(昭和16)8月 翠雲が代表となり大東南宗院を創設する
・1942年(昭和17) 三越で個展を開く
・1944年(昭和19)7月1日 帝室技芸員となる
・1945年(昭和20)3月30日 数え年72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1878年(明治11)日本画家鏑木清方(かぶらき きよかた)の誕生日詳細
1896年(明治29)陸羽地震(マグニチュード7.2)が起こり、死者209人、負傷者779人を出す詳細
1913年(大正2)お雇い外国人であるドイツ人医師E・von ベルツの命日詳細
1970年(昭和45)小説家・検察官・弁護士佐賀潜の命日詳細


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