ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本画家

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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、日本画家山本丘人の生まれた日です。
 山本丘人(やまもと きゅうじん)は、東京市下谷区上野広小路(現在の台東区上野3丁目)において、東京音楽学校書記だった父・昇と母・ぬい(縫)の一人息子として生まれましたが、本名は正義(まさよし)と言いました。1913年(大正2)に東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)に入学しましたが、1915年(大正4)には、東京府立工芸学校金属細工科(現在の都立工芸高等学校)へ転入、彫金を学ぶと共に、広瀬東畝、篠田柏邦に日本画の手ほどきを受けます。
 1918年(大正7)に父・昇が亡くなったものの、1919年(大正8)に府立工芸学校卒業後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備科日本画科に入学、1921年(大正10)には、日本画科選科に編入しました。松岡映丘に師事し、1924年(大正13)に卒業後、映丘主催の画塾「木之華社」に入門します。
 1926年(大正15)に新興大和絵会第6回展に出品(以後昭和6年解散時まで毎年出品)、1928年(昭和3)に第9回帝展に「公園の初夏」が初入選し、1929年(昭和4)には、新興大和絵賞・会友に推薦されました。1930年(昭和5)の第11回帝展に「不忍池」が入選し、この作品から雅号「丘人」を使い始め、以後第14回まで連続して入選します。
 1934年(昭和9)に映丘門下の杉山寧、浦田正夫、岡田昇、松岡貞夫らと新日本画研究会「瑠爽画社」を結成、1936年(昭和11)に東京府北多摩郡小金井村(現在の小金井市)に転居、文展に「海の微風」を出品し、特選となりました。1940年(昭和15)に「瑠爽画社」が解散、1943年(昭和18)には、川崎小虎を代表として加藤栄三、東山魁夷らと「国土会」を結成します。
 1944年(昭和19)に東京美術学校日本画科助教授となり、第4回野間美術奨励賞を受賞しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に文部省主催第2回日本美術展覧会(日展)審査員として「望流」を出品、1947年(昭和22)には、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)教授となります。
 1948年(昭和23)に上村松篁ら13名とで「創造美術」を結成、1949年(昭和24)の第2回創造美術展に「草上の秋」を出品、翌年に芸術選奨美術文部大臣賞を受賞しました。1951年(昭和26)に創造美術が新制作派協会(洋画、彫刻、建築)と合同し、新制作協会日本画部となり、国土会解散、東京芸術大学、女子美術大学を辞職します。
 1964年(昭和39)に「異郷落日」に対して日本芸術院賞が贈られ、1977年(昭和52)には、文化勲章を受章、文化功労者として顕彰されました。しかし、1985年(昭和60)に病に倒れ入院し、翌年2月10日に、神奈川県において、急性心不全のため、85歳で亡くなっています。
 尚、1989年(平成元)には、静岡県駿東郡小山町に「山本丘人記念館・美術館夢呂土(むろど)」が開設されました。

〇山本丘人主要な作品

・「海の微風」(1936年)文展特選
・「到春」(1942年)
・「草上の秋」(1949年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「冬岳」(1953年)
・「北濤」(1955年)東京国立近代美術館蔵
・「夕焼山水(ゆうやけさんすい)」(1961年)平木浮世絵財団蔵
・「異郷落日」(1964年)日本芸術院賞受賞
・「狭霧野(さぎりの)」(1970年)

☆山本丘人関係略年表
  
・1900年(明治33)4月15日 東京市下谷区上野広小路(現在の台東区上野3丁目)において、東京音楽学校書記だった父・昇と母・ぬい(縫)の一人息子として生まれる
・1902年(明治35) 下谷区上野桜木町34番地に転居する
・1907年(明治40) 東京市下谷区根岸尋常小学校に入学する
・1913年(大正2) 東京市下谷区根岸尋常小学校を卒業。東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)に入学する
・1915年(大正4) 東京府立工芸学校金属細工科(現在の都立工芸高等学校)へ転入、彫金を学ぶとともに、在学中に広瀬東畝、篠田柏邦に日本画の手ほどきを受ける
・1918年(大正7) 父昇死去(享年数え年53)、第1回国画創作協会第1回展を見学し感銘を受ける
・1919年(大正8) 府立工芸学校を卒業後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備科日本画科に入学する
・1920年(大正9) 夏休みの課題コンクールに「娘之坐像」を出品。教授の松岡映丘に高く評価され、以後薫陶を受ける
・1921年(大正10) 日本画科選科に編入。この年「婦女坐像(青梅)」を制作する
・1924年(大正13) 東京美術学校を「白菊」を制作して卒業後、映丘主催の画塾、木之華社に入門する
・1925年(大正14) 第六回帝展に出品するが落選。この頃、本郷洋画研究所に通う
・1926年(大正15) 新興大和絵会第6回展に出品する(以後昭和6年解散時まで毎年出品)
・1927年(昭和2) 新興大和絵会第7回展に直垂姿の松岡映丘(画人の像)を出品する
・1928年(昭和3) 第9回帝展に「公園の初夏」が初入選する
・1929年(昭和4) 新興大和絵賞・会友に推薦される
・1930年(昭和5) 第11回帝展に「不忍池」が入選。この作品から雅号「丘人」を使い始める。以後第14回まで連続して入選する
・1932年(昭和7) 大野美代と結婚、資生堂ギャラリーにて個展開催する
・1934年(昭和9) 映丘門下の杉山寧、浦田正夫、岡田昇、松岡貞夫らと新日本画研究会「瑠爽画社」を結成、夏に伊豆へ取材旅行をする
・1936年(昭和11) 東京府北多摩郡小金井村貫井243(現・小金井市貫井南町4)に転居、文部省美術展覧会鑑査展(文展)に「海の微風」を出品し、特選となる
・1938年(昭和13) 師、松岡映丘が亡くなる(享年58歳)
・1939年(昭和14) 文展、院展作家12名による「綵尚会」(関尚美堂主催)会員となる
・1940年(昭和15) 「瑠爽画社」が解散、高島屋主催「青丘会」会員となり、岡田昇らが「一采社」を結成、顧問格となる
・1942年(昭和17) 第5回新文展に無鑑査出品する
・1943年(昭和18) 川崎小虎を代表として加藤栄三、東山魁夷らと「国土会」を結成する
・1944年(昭和19) 安田靫彦に呼ばれ、東京美術学校日本画科助教授となり、第4回野間美術奨励賞を受賞する
・1946年(昭和21) 文部省主催第2回日本美術展覧会(日展)審査員として「望流」を出品する
・1947年(昭和22) 向井万吉、広田多津、吉岡堅二、福田豊四郎らと下諏訪へ旅行、女子美術専門学校(現・女子美術大学)教授となる
・1948年(昭和23) 上村松篁、秋野不矩、吉岡堅二、福田豊四郎、加藤栄三、澤宏靭、橋本明治、高橋周桑、菊池隆志、向井久万、奥村厚一、広田多津ら13名で「創造美術」を結成する
・1949年(昭和24) 創造美術研究会を開催、第2回創造美術展に「草上の秋」を出品する
・1950年(昭和25) 「草上の秋」に対して芸術選奨美術文部大臣賞が贈られ、岡鹿之助との交友が始まる
・1951年(昭和26) 橋本明治、加藤栄三、東山魁夷、森田沙夷、杉山寧と「未更会」発足、創造美術が新制作派協会(洋画、彫刻、建築)と合同し、新制作協会日本画部となり、国土会解散、東京芸術大学、女子美術大学を辞職する
・1952年(昭和27) ヴェネツィア・ビエンナーレに「山麓」を出品する
・1954年(昭和29) 小倉遊亀、吉岡堅二らと高島屋主催「鼎会」を発足させる
・1956年(昭和31) 奥村土牛、岡鹿之助、中川一政らと兼素洞主催「雨晴会」発足させる
・1957年(昭和32) ブリジストン美術館で個展を開催する
・1959年(昭和34) 貨物船にて渡欧、4月~6月パリ到着滞在後イタリアを巡り、パリでは岡鹿之助と行動を共にする
・1960年(昭和35) 神奈川県中郡大磯町瀧之沢に転居、第25回新制作展に「夕焼け山水」出品する
・1963年(昭和38) 東山魁夷、杉山寧、高山辰雄、西山英雄らと孔雀画廊主催「五山会」を発足させる
・1964年(昭和39) 「異郷落日」に対して日本芸術院賞が贈られる
・1968年(昭和43) サカモト画廊主催「十一月会」が発足する
・1972年(昭和47) 東急百貨店(東京・渋谷)にて「山本丘人展」が開催される
・1974年(昭和49) 新制作協会日本画部全会員が退会し、新たに「創画会」が発足、日展、院展、創画会の会員により「遊星会」が発足する
・1977年(昭和52) 文化勲章を授章、文化功労者として顕彰され、上村松篁、杉山寧、高山辰雄、東山魁夷らと兼素洞主催「白虹会」を発足する
・1983年(昭和58) 軽い脳溢血を起こし静養、遊星展が終了する
・1985年(昭和60) 美代夫人が亡くなり、病に倒れ入院する
・1986年(昭和61)2月10日 神奈川県において、急性心不全のため、85歳で亡くなる
・1989年(平成元) 静岡県駿東郡小山町に「山本丘人記念館・美術館夢呂土(むろど)」が開設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1710年(宝永7)江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布する(新暦5月13日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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komatsuhitoshi01
 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、日本画家小松均の生まれた日です。
 小松均(こまつ ひとし)は、山形県北村山郡亀井田村深堀(現在の大石田町豊田)において、曹洞宗延命寺の住職であった父・小松梅男、母・フヨの長男として生まれましたが、翌年に父が亡くなったため、同郡白鳥村で農業を営む母方の伯父、細谷金四郎宅に母子共に身を寄せました。1910年(明治43)に母が再婚後も細谷家で養われ、1916年(大正5)には、富並尋常高等小学校を卒業し、伯父の農業を手伝うようになります。
 1919年(大正8)頃、神奈川県川崎市に出、洋服屋の小僧となり、のち東京・神田の書籍店、菊屋に移りましたが一旦帰郷し、下駄屋に丁稚奉公し、1920年(大正9)に再び上京し、万玄社に勤め、新聞配達をするかたわら、画家を志して川端画学校に通って岡村葵園に学びました。1923年(大正13)の第5回中央美術展に「嫁して行く村の乙女」を出品し入選、第4回国画創作協会展に「晩秋の野に死骸を送る村人たち」を出品して入選します。
 1924年(大正14)に京都府京都市の東山に転居、土田麦僊の山南塾に入り、東山洋画研究所でデッサンを学び、第11回日本美術院試作展に「倉のある雪の日の子守子」が入選、1926年(大正15)には、第5回国画創作協会展に「秋林」「夕月」を出品し国画賞を受賞、奨学金を受け、会友となりました。1928年(昭和3)に第7回国画創作協会展に「雪」「八瀬」を出品、福田豊四郎、吉岡堅二らとともに新樹社を設立、京都府愛宕郡大原村(現在の京都市左京区大原)に転居します。
 1929年(昭和4)の第10回帝展に「渓流」を出品し初入選、1930年(昭和5)の第11回帝展に「櫟林」を出品し特選、1931年(昭和6)の第12回帝展に「山路」を出品し入選し、日本画家としての評価を得ました。1934年(昭和9)に福田豊四郎や吉岡堅二らとともに山樹社を結成、1935年(昭和10)に満州に渡り、1937年(昭和12)には、津田青楓、中川一政、矢野橋村、菅楯彦らと墨人会を結成し、第1回展を大阪・朝日会館で開催します。
 1938年(昭和13)に傷病兵慰問のため、中国に渡り、上海・鎮江・蘇州・杭州・南京を巡り、1939年(昭和14)に麦僊の山南塾再興を企て、山南会をおこし、1940年(昭和15)には仏画の大作制作を志しました。1945年(昭和20)に仏画の大作を描き続けながら、終戦を迎え、翌年には、第31回院展に「牡丹」を出品、日本美術院賞を受け、同人となり、大原で自給自足の生活をしながら、その自然を題材に制作を続けます。
 1965年(昭和40)の第50回院展に「吾が窓より(夏山)」を出品して文部大臣賞、1975年(昭和50)に故郷の最上川を題材とした連作で芸術選奨文部大臣賞、1979年(昭和54)には、第64回院展に「雪の最上川」を出品、内閣総理大臣賞を受賞しました。1980年(昭和55)に勲四等旭日小綬章を受章し、出生地の大石田町の名誉町民となり、1981年(昭和56)には、16歳まで過ごした村山市の名誉市民となります。
 さらに、1986年(昭和61)に文化功労者となり、1987年(昭和62)には、第2回関西大賞大画仙賞を受賞しました。1988年(昭和63)には、「ぼくの むら」で、第35回サンケイ児童出版文化賞美術賞を受賞しましたが、1989年(平成元)8月23日に、京都府京都市左京区大原の自宅において、87歳で亡くなっています。尚、没後の1990年(平成2)に京都市の旧宅に「小松均美術館」が開館しました。

〇小松均の主要な著作

・『おのれの子・作品集』(1943年)
・『おのれの子・素描集』(1946年)

☆小松均関係略年表

・1902年(明治35)1月19日 山形県北村山郡亀井田村深堀(現在の大石田町豊田)において、曹洞宗延命寺の住職であった父・小松梅男、母・フヨの長男として生まれる
・1903年(明治36) 父・小松梅男が死去したため、山形県北村山郡白鳥村で農業を営む母方の伯父、細谷金四郎宅に母子は身を寄せる
・1910年(明治43) 母が再婚、均はその後も細谷家で養われる
・1914年(大正3) 白鳥小学校を卒業し、富並尋常高等小学校に入学し、往復16キロの山路を学校に通う
・1916年(大正5) 富並尋常高等小学校を卒業し、伯父の農業を手伝う
・1919年(大正8) この頃、神奈川県川崎市に出、洋服屋の小僧となり、のち東京・神田の書籍店、菊屋に移り、この頃から画学生に憧がれたが一旦帰郷し、下駄屋に丁稚奉公する
・1920年(大正9) 再び上京し、万玄社に勤め、新聞配達をするかたわら、画家を志して川端画学校に通って岡村葵園に学ぶ
・1923年(大正13) 第5回中央美術展に、再婚の際の母の姿をテーマに「嫁して行く村の乙女」を出品し入選、第4回国画創作協会展に、父の死を追想して描いた「晩秋の野に死骸を送る村人たち」を出品して入選する
・1924年(大正14) 京都府京都市の東山に転居、土田麦僊の山南塾に入り、東山洋画研究所でデッサンを学ぶ、第11回日本美術院試作展に「倉のある雪の日の子守子」が入選する
・1926年(大正15) 第5回国画創作協会展に「秋林」「夕月」を出品し国画賞を受賞、奨学金を受け、会友となる
・1928年(昭和3) 第7回国画創作協会展に「雪」「八瀬」を出品、福田豊四郎、吉岡堅二らとともに新樹社を設立、京都府愛宕郡大原村(現在の京都市左京区大原)に転居する
・1929年(昭和4) 第10回帝展に「渓流」を出品し初入選する
・1930年(昭和5) 第11回帝展に「櫟林」を出品し特選となる
・1931年(昭和6) 第12回帝展に「山路」を出品し入選する
・1934年(昭和9) 福田豊四郎や吉岡堅二らとともに山樹社を結成する
・1935年(昭和10) 満州に渡る
・1937年(昭和12) 津田青楓、中川一政、矢野橋村、菅楯彦らと墨人会を結成し、第1回展を大阪・朝日会館で開催する
・1938年(昭和13) 傷病兵慰問のため、中国に渡り、上海・鎮江・蘇州・杭州・南京を巡る
・1939年(昭和14) 麦僊の山南塾再興を企て、山南会をおこす
・1940年(昭和15) 法隆寺金堂壁画模写事業が始まったのに刺激され、仏画の大作制作を志す
・1945年(昭和20) 仏画の大作を描き続けながら、終戦を迎える
・1946年(昭和21) 第31回院展に「牡丹」を出品、日本美術院賞を受け、同人となる
・1965年(昭和40) 第50回院展に「吾が窓より(夏山)」を出品、文部大臣賞を受賞する
・1973年(昭和48) 画業50年記念展を大阪阪神百貨店で開催する
・1975年(昭和50) 故郷の最上川を題材とした連作で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1979年(昭和54) 第64回院展に「雪の最上川」を出品、内閣総理大臣賞を受賞する
・1980年(昭和55) 勲四等旭日小綬章を受章し、出生地の大石田町の名誉町民となる
・1981年(昭和56) 16歳まで過ごした村山市の名誉市民となり、小松均展を高知県立郷土文化会館で開催する
・1984年(昭和59) 画業65年記念、小松均展を神戸大丸、新潟伊勢丹、仙台十字屋で開催する
・1986年(昭和61) 自然への感応・15年の足跡 小松均展を東京池袋、西武アート・フォーラムで開催、文化功労者となる
・1987年(昭和62) 第2回関西大賞大画仙賞を受賞する
・1988年(昭和63) 「ぼくの むら」で、第35回サンケイ児童出版文化賞美術賞を受賞する
・1989年(平成元)8月23日 京都府京都市左京区大原の自宅において、87歳で亡くなる
・1990年(平成2) 京都市の旧宅に小松均美術館が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

823年(弘仁14)嵯峨天皇から空海が教王護国寺(東寺)を下賜される(新暦3月5日)詳細
1926年(大正15)共同印刷の労働組合がにストライキを決議し、争議に突入する(共同印刷争議)詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣により、「空襲対策緊急強化要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)GHQが極東国際軍事裁判所の設置を命令、「極東国際軍事裁判所条例」が制定される詳細
1960年(昭和35)「新日米安全保障条約」に調印する詳細
1976年(昭和51)電気通信工学者・大阪大学総長・八木アンテナ社長・参議院議員八木秀次の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、日本画家橋本明治が生まれた日です。
 橋本明治(はしもと めいじ)は、島根県那賀郡浜田町(現在の浜田市)において、父・橋本太一郎、母・トメの長男として生まれ、祖父・市太郎の影響で絵画や俳諧を愛好しました。1920年(大正9)に島根県立浜田中学校へ入学、通信教育によって日本画を学び始め、1923年(大正12)には、島根県展で「ガラシャ婦人像」が入選します。
 1925年(大正14)に中学校を卒業、翌年に上京し、川端画学校予備校を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科へ入学しました。在学中の1929年(昭和4)に、第10回帝展で「花野」が初入選、翌年の第11回帝展でも「かぐわしき花のかずかず」が連続入選し、子木社に参加します。
 1931年(昭和6)に同校を首席で卒業し、研究科へと進み、松岡映丘に師事しました。帝室博物館の依嘱を受けて、1936年(昭和11)に「粉河寺縁起絵巻」、1937年(昭和12)に高山寺「仏眼仏母像」を模写、同年に第1回新文展で「浄心」、翌年の第2回新文展で「夕和雲」が連続特選となります。
 1940~50年(昭和15~25)に法隆寺金堂壁画模写の主任に選ばれて壁画を模写、その間、1948年(昭和23)に創造美術結成に参加・会員となったものの、1950年(昭和25)に脱退し日展へ復帰しました。1951年(昭和26)の第7回日展に「赤い椅子」を出品、翌年この作品で芸能選奨文部大臣賞を受賞、日展審査員ともなります。
 1954年(昭和29)の第10回日展に「まり千代像」を出品、翌年この作品で、日本芸術院賞を受賞、第11回日展に「六世歌右衛門」を出品しました。1958年(昭和33)に日展評議員となり、翌年の第2回新日展に「月庭」を出品しています。
 1967年(昭和42)に再度金堂壁画を模写、第10回新日展に「女優」(モデル司葉子)を出品、翌年には、皇居新宮殿正殿東廊下の杉戸絵「朝陽桜」を描きました。1969年(昭和44)に日展理事、1971年(昭和46)に日本芸術院会員、1972年(昭和47)に日展常務理事となり、出雲大社庁舎壁画「龍」を描いています。
 1974年(昭和49)に文化勲章を受章、文化功労者、浜田市名誉市民ともなり、1987年(昭和62)に島根県立博物館内に橋本明治記念室が開設されました。独特の作風を確立して、風俗画を多く描き、日本を代表する画家として揺るぎない地位を確立したものの、1991年(平成3)3月25日に、東京都杉並区内の自宅において急性肺炎のため、86歳で亡くなっています。

〇橋本明治の主要な作品

・「ガラシャ婦人像」(1923年)島根県展入選
・「花野」(1929年)第10回帝展入選
・「かぐわしき花のかずかず」(1930年)第11回帝展入選
・「浄心」(1937年)第1回新文展特選
・「夕和雲」(1938年)第2回新文展特選
・「赤い椅子」(1951年)芸能選奨文部大臣賞受賞
・「まり千代像」(1954年)日本芸術院賞受賞 東京国立近代美術館蔵
・「六世歌右衛門」(1955年)第11回日展出品
・「石橋」(1961年)東京国立近代美術館蔵
・「女優」(1967年)司葉子がモデル

☆橋本明治関係略年表

・1904年(明治37)8月5日 島根県那賀郡浜田町(現在の浜田市)において、父・橋本太一郎、母・トメの長男として生まれる
・1917年(大正6) 浜田町立松原尋常小学校を卒業し、高等科へと進む
・1920年(大正9) 島根県立浜田中学校へ入学、通信教育によって日本画を学び始める
・1923年(大正12) 島根県展で「ガラシャ婦人像」が入選する
・1925年(大正14) 浜田中学校を卒業する
・1926年(大正15) 上京し、川端画学校予備校を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科へ入学する
・1929年(昭和4) 在学中、第10回帝展で「花野」が初入選する
・1930年(昭和5) 子木社に参加、第11回帝展で「かぐわしき花のかずかず」が入選する
・1931年(昭和6) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科を首席で卒業し、同校研究科へと進み、松岡映丘に師事する
・1936年(昭和11) 帝室博物館の依嘱を受けて、「粉河寺縁起絵巻」を模写する
・1937年(昭和12) 帝室博物館の依嘱を受けて、高山寺「仏眼仏母像」を模写、第1回新文展で「浄心」が特選となる
・1938年(昭和13) 第2回新文展で「夕和雲」が特選となる
・1940~50年(昭和15~25) 法隆寺金堂壁画模写の主任に選ばれ、壁画を模写する
・1948年(昭和23) 創造美術結成に参加・会員となる
・1950年(昭和25) 創造美術を脱退し日展へ復帰する
・1951年(昭和26) 第7回日展に「赤い椅子」を出品する
・1952年(昭和27) 日展審査員となり、前年の「赤い椅子」で芸能選奨文部大臣賞を受賞する
・1954年(昭和29) 第10回日展に「まり千代像」を出品する
・1955年(昭和30) 前年の「まり千代像」で日本芸術院賞を受賞、第11回日展に「六世歌右衛門」を出品する
・1958年(昭和33) 日展評議員となる
・1959年(昭和34) 第2回新日展に「月庭」を出品する
・1967年(昭和42) 再度金堂壁画を模写、第10回新日展に「女優」(モデル司葉子)を出品する
・1968年(昭和43) 皇居新宮殿正殿東廊下の杉戸絵「朝陽桜」を描く
・1969年(昭和44) 日展理事となる
・1971年(昭和46) 日本芸術院会員となる
・1972年(昭和47) 日展常務理事となり、出雲大社庁舎壁画「龍」を描く
・1974年(昭和49) 文化勲章を受章、文化功労者、浜田市名誉市民となる
・1987年(昭和62) 島根県立博物館内に橋本明治記念室が開設される
・1991年(平成3)3月25日 東京都杉並区内の自宅において急性肺炎のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

630年(舒明天皇2)犬上御田鍬・藥師惠日が第1回遣唐使として唐に派遣される(新暦9月16日)詳細
1864年(文久4)四国艦隊下関砲撃事件が起きる(新暦9月5日)詳細
1873年(明治9)武士等の家禄・賞典禄を廃止し、金禄公債を発行するための「金禄公債証書発行条例」が公布される詳細
1882年(明治15)「戒厳令」(明治15年太政官布告第36号)が公布され、有時の際の戒厳について規定される詳細
1911年(明治44)小説家田宮虎彦の誕生日詳細
1983年(昭和58)俳人・国文学者中村草田男の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1971年(昭和46)に、日本画家山口蓬春の亡くなった日です。
 山口蓬春(やまぐち ほうしゅん)は、明治時代後期の1893年(明治26)10月15日に、北海道松前郡松城町(現在の松前郡松前町字松城)において、日本銀行福山派出所勤務であった父・山口慶治、母・武子(本名・たけ)の三男として生まれましたが、本名を三郎(さぶろう)と言いました。1897年(明治30)頃に、父・慶治の日本銀行札幌出張所への転勤により札幌に転居、さらに、1903年(明治36)頃に、父の転職のため仙台を経由して上京して京橋に住みます。
 1906年(明治39)に大倉商業学校(現在の東京経済大学の前身)に入学しましたが、水彩画に熱中し、1909年(明治42)頃には、中途退学し、赤坂溜池の白馬会絵画研究所に通い始めました。1910年(明治43)に私立高輪中学校(現在の高輪学園)第3学年に編入し、1913年(大正2)に卒業、一年志願兵として入隊します。
 1914年(大正3)に父・慶治が死去、輜重兵第一大隊を除隊し、1915年(大正4)には、東京美術学校西洋画科に入学しました。在学中の1916年(大正5)の第3回二科展に「漁村の一部」が初入選、駐日イタリア大使に買上げられ、翌年の第4回二科展でも「庭園初夏」が入選します。
 しかし、1918年(大正7)に中途退学の上で日本画学科へ再入学し、松岡映丘に師事し、大和絵を習得するようになり、雅号を「蓬春」としました。1923年(大正12)に日本画科を首席で卒業、高木保之助とともに、松岡映丘を指導者とする新興大和絵会の同人となります。
 1924年(大正13)の第5回帝国美術院美術展覧会(帝展)で「秋二題」が初入選、翌年の第6回帝展でも「神苑春雨」が入選し、皇后買上げとなりました。1926年(大正15)の第7回帝展では、「三熊野の那智の御山」が特選となり、第2回帝国美術院賞をも受賞、翌7年の第8回帝展でも「緑庭」が前年に引き続き特選となります。
 1928年(昭和3)の第9回帝展に「潮音」が推薦となり、以後無鑑査となり、翌年の第10回帝展で審査員となりました。1930年(昭和5)に、中村岳陵、福田平八郎らと研究団体六潮会を結成、帝国美術学校に教授として迎えられます。
 1935年(昭和10)に帝展審査員や帝国美術学校教授を辞任し、独自の制作活動を強め、太平洋戦争下の1943年(昭和18)には、横山大観を会長とした日本美術報国会で日本画部の幹事長を務めました。1945年(昭和20)の東京大空襲を受けて、東京の自宅を離れ、山形県東置賜郡赤湯町(現在の南陽市)に疎開します。
 1947年(昭和22)に神奈川県三浦郡葉山町にあった山﨑種二の別送を提供されて転居、翌年には、葉山町内で住宅を購入し永住しました。1950年(昭和25)に日展運営会参事、日本芸術院会員となり、1954年(昭和29)に日展運営会理事、1958年(昭和33)には、日展常務理事となります。
 西欧的モダニズムを融合した独自の画風を確立し、1965年(昭和40)には、文化勲章を受章、文化功労者となりました。1969年(昭和44)に日展顧問となり、4年がかりで取り組んだ皇居宮殿正殿松の間杉戸「楓」が完成しましたが、1971年(昭和46)5月31日に、神奈川県葉山町において、77歳で亡くなっています。
 尚、1991年(平成3)には、葉山の旧邸宅において、「山口蓬春記念館」が開設されました。

〇山口蓬春の主要な作品

・「三熊野の那智の御山」(1926年)第7回帝展帝国美術院賞受賞
・「緑庭」(1926年)第8回帝展特選
・「市場」(1932年)東京芸術大学蔵
・「榻上の花」(1949年)東京国立近代美術館蔵
・「秋」(1962年)東京国立近代美術館蔵
・「夏の印象」

☆山口蓬春関係略年表

・1893年(明治26)10月15日 北海道松前郡松城町(現在の松前郡松前町字松城)において、日本銀行福山派出所勤務であった父・山口慶治、母・武子(本名・たけ)の三男として生まれる
・1897年(明治30)頃
 父・慶治の日本銀行札幌出張所への転勤により、山口一家は札幌に転居する
・1900年(明治33) 札幌の創成小学校に入学する
・1903年(明治36)頃 一家は父の転職のため仙台を経由して上京して京橋に住み、築地の文海小学校に転入する
・1906年(明治39)3月 文海小学校を卒業、赤坂葵町の大倉商業学校(現在の東京経済大学の前身)に入学する
・1908年(明治41)頃 珠算が不得手のため落第?珠算塾に通い、水彩画に熱中し、三宅克己著『水彩画指南』を模写する
・1909年(明治42)頃 大倉商業学校を中途退学し、赤坂溜池の白馬会絵画研究所に通う
・1910年(明治43) 私立高輪中学校(現・高輪学園)第3学年に編入する
・1911年(明治44) 在学中、引き続き赤坂葵橋の白馬会絵画研究所へ通う
・1912年(明治45)頃、「風景」など後期印象派風の油彩画を描く
・1913年(大正2) 私立高輪中学校を卒業し、一年志願兵として入隊する
・1914年(大正3) 父・慶治が死去、輜重兵第一大隊を除隊、美術学校へ進む準備に没頭する
・1915年(大正4) 東京美術学校西洋画科に入学する
・1916年(大正5) 第3回二科展に「漁村の一部」が初入選、駐日イタリア大使に買上げられる
・1917年(大正6) 第4回二科展に「庭園初夏」が入選する
・1918年(大正7) 東京美術学校西洋画科を退学、東京美術学校日本画科の専科に合格、入学後本科に転科、この頃から雅号を「蓬春」とする
・1920年(大正9) 校内の日本画全級コンクールで「クリスマスイヴ」が第一席となる
・1921年(大正10) 新潟県・赤倉に写生旅行、第2回中央美術社展に山口蓬春の名で「薄暮」を出品する
・1922年(大正11) 東京府主催の平和記念東京博覧会美術展に「雪の鳳凰堂[春浅き朝]」が入選する
・1923年(大正12) 東京美術学校日本画科を首席で卒業、高木保之助とともに、松岡映丘を指導者とする新興大和絵会の同人となる
・1924年(大正13) 帝国美術院主催の第5回帝国美術院美術展覧会(帝展)に山口蓬春の名で出品、「秋二題」が初入選する
・1925年(大正14) 第6回帝展に「神苑春雨」が入選、皇后買上げとなる
・1926年(大正15) 東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷字本村376番地(現・渋谷区本町3丁目あたり)に転居、第7回帝展に「三熊野の那智の御山」を出品、特選となり、第2回帝国美術院賞をも受賞、作品は皇室買上げとなる
・1927年(昭和2) 第8回帝展に「緑庭」を出品、前年に引き続き特選となる
・1928年(昭和3) 第9回帝展に「潮音」が推薦となり、以後無鑑査となる
・1929年(昭和4) 第10回帝展で審査員となる
・1930年(昭和5) 福田平八郎、中村岳陵、牧野虎雄、中川紀元、木村荘八、横川毅一郎、外狩素心庵らとともに研究団体六潮会を結成、帝国美術学校(日本画科長:平福百穂)に教授として迎えられる
・1931年(昭和6) 新興大和絵会、声明を発表して解散する
・1932年(昭和7) 作品集『蓬萊集』を発行、伊東深水らと青々会を結成、第13回帝展に審査員として「市場」を出品、政府買上げとなる
・1935年(昭和10) 帝展審査員や帝国美術学校教授を辞任し、独自の制作活動を強める
・1943年(昭和18) 横山大観を会長とした日本美術報国会で日本画部の幹事長を務める
・1945年(昭和20) 東京大空襲を受けて、東京の自宅を離れ、山形県東置賜郡赤湯町(現在の南陽市)に疎開する
・1947年(昭和22) 神奈川県三浦郡葉山町にあった山﨑種二の別送を提供されて転居する
・1948年(昭和23) 葉山町内で住宅を購入し転居する
・1950年(昭和25) 日展運営会参事、日本芸術院会員となる
・1954年(昭和29) 日展運営会理事となる
・1958年(昭和33) 日展常務理事となる
・1965年(昭和40) 文化勲章を受章、文化功労者となる
・1969年(昭和44) 日展顧問となり、4年がかりで取り組んだ皇居宮殿正殿松の間杉戸『楓』が完成する
・1970年(昭和45) 「喜寿記念 山口蓬春展」が横浜高島屋で開催される
・1971年(昭和46)5月31日 神奈川県葉山町において、77歳で亡くなる
・1985年(昭和60) 蔵書や作品群などを鎌倉市の神奈川県立近代美術館に寄贈される
・1991年(平成3) 葉山の旧邸宅において、「山口蓬春記念館」が開設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1933年(昭和8)「塘沽協定」 の締結によって、満州事変が終結する詳細
1937年(昭和12)文部省編纂『国体の本義』が発行され、全国の学校等へ配布される詳細
1943年(昭和18)御前会議において「大東亜政略指導大綱」が決定される詳細
1944年(昭和19)俳人・翻訳家・新聞記者嶋田青峰の命日(青峰忌)詳細
1949年(昭和24)「国立学校設置法」が公布され、各都道府県に新制国立大学69校が設置される詳細
1974年(昭和49)写真家木村伊兵衛の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1896年(明治29)に、日本画家徳岡神泉の生まれた日です。
 徳岡神泉(とくおか しんせん)は、京都府京都市上京区において、父・徳岡庄太郎、母・るいの次男として生れましたが、本名は時次郎と言いました。教業尋常小学校を経て、第一高等小学校卒業後、1909年(明治42)に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳(せいほう)の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学びます。
 1910年(明治43)に、京都市立美術工芸学校絵画科に入学、在学中に校友会展に出品し、銀牌や金牌を受賞し、1914年(大正3)に卒業後、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)へ進みました。1917年(大正6)に別科を修了したものの、芸術上の煩悶から妙心寺に参禅し、また富士山麓の辺りに逃避したりしています。
 1920年(大正9)に深沢長三郎次女、政子と結婚、号を神泉と改め、1923年(大正12)の関東大震災を期として京都に帰り、下鴨に居住、再び栖鳳門下に入塾しました。1925年(大正14)の第6回帝展に「罌粟(けし)」が初入選、翌年の第1回聖徳太子奉讃美術展に「椿図」を出品、第7回帝展に「蓮池」を出品し、特選を受けます。
 1929年(昭和4)の第10回帝展に「鯉」を出品、再び特選となり、1930年(昭和5)には、第11回帝展に「月明」を出品、帝国美術院推薦(無鑑査)となりました。1935年(昭和10)の帝展改組に際して無鑑査指定となり、1936年(昭和11)に京都市立美術工芸学校絵画科教論となり、1937年(昭和12)には、日本女子美術学校日本画部教授となり、青木生沖、中田晃陽らとともに竹立会を結成しています。
 1938年(昭和13)に新文展審査委員となり、翌年には、京都市立美術工芸学校絵画科教諭を辞任しました。太平洋戦争後、1946年(昭和21)の第2回日展以後審査員をつとめ、1950年(昭和25)の第6回日展に「鯉」を出品、文部省購入作品となり、翌年には、日本芸術院賞を受賞します。
 1952年(昭和27)に「池」で毎日美術賞受賞、1957年(昭和32)に日本芸術院会員となり、1961年(昭和36)には、第4回新日展に、代表作「仔鹿」を出品しました。中世以来の日本人の伝統的な精神構造と感覚に基づいた幽玄美を表現、京都画壇に一時代を築いたことにより、1966年(昭和41)には、文化勲章を受章したものの、この頃から体調の不安を訴えるようになります。
 1971年(昭和46)には、体調がすぐれず、画業がまったく捗らなくなってしまい、1972年(昭和47)6月9日に、京都市右京区の病院において、腎不全よる尿毒症により、76歳で亡くなり、従三位銀杯追贈されました。

〇徳岡神泉の主要な作品

・「狂女」(1919年)東京国立近代美術館蔵
・「菖蒲」(1939年)東京国立近代美術館蔵
・「芋図」(1943年)東京国立近代美術館蔵
・「赤松」(1947年)東京国立近代美術館蔵
・「鯉」(1950年)東京国立近代美術館蔵
・「流れ」(1954年)京都市美術館蔵
・「枯葉」(1958年)京都国立近代美術館蔵
・「刈田(かりた)」(1960年)東京国立近代美術館蔵
・「仔鹿(こじか)」(1961年)東京国立近代美術館蔵
・「薄(すすき)」

☆徳岡神泉関係略年表

・1896年(明治29)2月14日 京都府京都市上京区において、父・徳岡庄太郎、母・るいの次男として生れる
・1902年(明治35) 京都市上京区教業尋常小学校に入学する
・1906年(明治39) 教業尋常小学校を卒業し、第一高等小学校に入学する
・1909年(明治42) 土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学ぶ
・1910年(明治43) 京都市立美術工芸学校絵画科に入学する
・1911年(明治44) 市立美工1年校友会展に「海老」を出品、金牌受賞する
・1912年(明治45) 2年校友会展に「杉に軍鶏」を出品、銀牌を受ける
・1913年(大正2) 3年校友会展に「山の紅葉」を出品、銀牌を受ける
・1914年(大正3) 京都市立美術工芸学校絵画科を卒業、卒業制作の「寒汀」は銀牌を受賞し、学校へ買上げられ、京都市立絵画専門学校へ進む
・1916年(大正5) 在学作品「晩秋」を描く
・1917年(大正6) 京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)別科を修了する
・1918年(大正7) 自身会心の作として「魚市場」を出品するが落選する
・1919年(大正8) 第1回日本無名展に「雲の流れ」を出品、褒章を受ける
・1920年(大正9) 深沢長三郎次女、政子と結婚、号を神泉と改め、再び竹杖会に入塾する
・1923年(大正12) 関東大震災を期として京都に帰り、下鴨に居住、再び栖鳳門下に入塾する
・1925年(大正14) 第6回帝展に「罌粟(けし)」が初入選する
・1926年(大正15) 第1回聖徳太子奉讃美術展に「椿図」を出品、第7回帝展に「蓮池」を出品、特選を受ける
・1927年(昭和2) 第8回帝展に「後苑雨後」を出品する
・1928年(昭和3) 第9回帝展に「蕭条」を出品、京都市北区へ転居する
・1929年(昭和4) パリ日本美術展に「暮秋」を出品、第10回帝展に「鯉」を出品、再び特選となる
・1930年(昭和5) 第2回聖徳太子奉讃美術展に「幽光」、ベルリン日本美術展出品公開展に「牡丹」、第11回帝展に「月明」を出品、帝国美術院推薦(無鑑査)となる
・1932年(昭和7) 第13回帝展に「蓮」を出品する
・1933年(昭和8) 竹杖会第1回未公開研究会に「松」を出品、鳳賞を受け、京都の佐藤梅軒画廊で最初の個展を開く、第14回帝展に「罌粟」を出品する
・1934年(昭和9) 梥本一洋との二人展を大阪大丸に開く、京都美術館美術展に「麦」を出品、京都市購入作品となり、第15回帝展に「鶏頭」を出品する
・1935年(昭和10) 改組帝国美術院において無鑑査指定となり、大阪高島屋に第2回個展を開く
・1936年(昭和11) 京都市立美術工芸学校絵画科教論となる
・1937年(昭和12) 日本女子美術学校(長岡女子美術)日本画部教授となり、青木生沖、中田晃陽らとともに竹立会を結成する
・1938年(昭和13) 新文展審査委員となる 
・1939年(昭和14) 京都市立美術工芸学校絵画科教諭を辞任、第3回新文展に「菖蒲」を出品、文部省買い上げとなる
・1940年(昭和15) 第3回淙々会に「あじさい」、第6回九皐会に「筍」、第5回青丘会に「露」を出品する
・1941年(昭和16) 第7回春虹会に「菜の花」、第6回青丘会に「牡丹」、9月仏印巡回展内示会に「盛夏」を出品する
・1942年(昭和17) 竹内栖鳳門下の丹丘会、葱青会、竹立会などを総合して第二竹杖会を結成する
・1943年(昭和18) 第8回京都市美術展に「西瓜」を出品、審査員をつとめ、関西邦画展に「松」、第6回新文展に「芋図」を出品する
・1945年(昭和20) 再開第1回京都市美術展に「伊予蜜柑」を出品する
・1946年(昭和21) 第2回日展審査員をつとめる
・1947年(昭和22) 『第1回現代綜合美術展に「于瓢」、6月第3回京都市美術展に「于瓢」、10月第3回日展に「赤松」を出品する
・1950年(昭和25) 第6回日展に「鯉」を出品、文部省購入作品となる
・1951年(昭和26) 「鯉」で日本芸術院賞を受賞する
・1952年(昭和27) 「池」で毎日美術賞を受賞する
・1957年(昭和32) 日本芸術院会員となる
・1961年(昭和36) 第4回新日展に、代表作「仔鹿」を出品する
・1963年(昭和38) 東京、大阪で初の自薦展を開催する
・1966年(昭和41) 文化勲章を受章、この頃から体調の不安を訴えるようになるも、画業を続ける
・1971年(昭和46) 体調がすぐれず、画業がまったく捗らなくなってしまう
・1972年(昭和47)6月9日 京都において、腎不全よる尿毒症により76歳で亡くなり、従三位銀杯追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

741年(天平13)聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す(新暦3月5日)詳細
940年(天慶3)平将門が下野の豪族藤原秀郷と平貞盛らの軍勢により、猿島の北山で討たれる(新暦3月25日)詳細
1945年(昭和20)近衛文麿が昭和天皇に対して、上奏文(近衛上奏文)を出す詳細
1951年(昭和26)奄美大島日本復帰協議会(議長:泉芳朗)が結成される詳細
1967年(昭和42)小説家山本周五郎の命日詳細
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