ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本民藝館

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 今日は、昭和時代前期の1936年(昭和11)に、東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)された日です。
 日本民藝館(にほんみんげいかん)は、東京都目黒区駒場にある美術館で、民芸品の収集展示を行ってきました。民芸運動の創始者である柳宗悦が、1926年(大正15)に、濱田庄司、河井寬次郎、富本憲吉の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表、地方民芸の指導開発を目的として収集が開始されます。
 1927年(昭和2)に銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催、翌年には、東京・上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に「民藝館」を出品しました。その後、1931年(昭和6)に静岡県浜松市に「日本民藝美術館」が開設され、1934年(昭和9)には、日本民藝協会が発足し、柳宗悦が初代会長となります。
 そして、実業家で社会事業家の大原孫三郎をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、1936年(昭和11)10月24日に東京での「日本民藝館」の開設に至り、柳宗悦が初代館長となりました。日本・朝鮮・中国などの陶磁器や木漆器、染織品等の民芸品を収集・展覧を続け、現在では、世界各地の「民衆的工芸品」約 1万7,000点を収蔵するようになり、国指定重要文化財の絵唐津芦文壺なども含まれています。
 その中には、民芸運動の同志として活躍した、浜田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ、富本憲吉(以上陶芸)、芹沢銈介(染色)、棟方志功(版画)らの作品も多数収蔵されてきました。尚、2021年(令和3)に、本館(附属塀を含む)、西館旧柳宗悦邸主屋、西館長屋門(附属塀を含む)が東京都指定有形文化財(建造物)に指定されています。

〇柳 宗悦(やなぎ むねよし)とは?

 大正時代から昭和時代に活躍した、民芸運動の創始者・美術評論家・宗教哲学者です。
 明治時代中頃の1889年(明治22)3月21日に、東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区)で、海軍少将だった父・柳楢悦、母・勝子の三男として生まれましたが、名は「そうえつ」とも読ませていました。学習院へ進み、1910年(明治43)の高等科在学中に武者小路実篤らと「白樺」の創刊に参加します。
 この頃バーナード・リーチを知り、W.ブレイクを研究するようになり、1911年(明治44)に東京帝国大学哲学科に進み、心理学を専攻、『科学と人生』を刊行しました。1913年(大正2)に大学を卒業、翌年に声楽家中島兼子と結婚、『ヰリアム・ブレーク』を洛陽堂から出版し、1919年(大正8)には、東洋大学教授として宗教学を教えるようになります。
 1921年(大正10)に日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催、1923年(大正12)の関東大震災を機に京都へ転居し、同志社大学と同志社女学校専門学部、関西学院の講師となりました。木喰五行明満の仏像の美しさにひかれ、1924年(大正13)から全国の木喰仏調査を開始、翌年には京都同志社女学校専門部教授に就任します。
 1926年(大正15)に陶芸家の富本憲吉の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表、翌年には銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催しました。1928年(昭和3)に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に民藝館」を出品、初の本格的な工芸論『工藝の道』を刊行、1930年(昭和5)にヨーロッパを廻って帰国後、翌年には雑誌「工芸」を創刊します。
 1934年(昭和9)に日本民藝協会を発足させて会長に就任、1936年(昭和11)には、実業家の大原孫三郎の支援によって、東京駒場に「日本民藝館」を開設、初代館長となりました。1938年(昭和13)に京城に「朝鮮民族美術館」を開設、翌年に日本民藝協会機関誌「月刊民藝」が創刊され、1940年(昭和15)には、民衆的工芸の意味で“民芸”という語を創出し、浜田庄司、河井寛次郎らと民芸運動を推進、専修大学教授となります。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に日米教育委員となり、1951年(昭和26)に雑誌「大法論」に「南無阿弥陀仏」を21回にわたり連載しはじめ、翌年には国際工芸家会議に列席のため毎日新聞文化使節を兼て渡欧米しました。1957年(昭和32)に文化功労者となり、1960年(昭和35)には、朝日文化賞を受賞しましたが、1961年(昭和36)5月3日に、東京において、72歳で亡くなっています。

☆日本民藝館関係略年表

・1924年(大正13) 「朝鮮民族美術館」(現ソウル)を朝鮮王朝の王宮であった景福宮内に開設する
・1925年(大正14) 「民藝」という造語が作られる
・1926年(大正15) 「日本民藝美術館設立趣意書」が発表され、地方民芸の指導開発を目的として収集が開始される
・1927年(昭和2) 銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催する
・1928年(昭和3) 東京・上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に「民藝館」を出品する
・1931年(昭和6)10月24日 浜松に「日本民藝美術館」が開設される
・1934年(昭和9) 日本民藝協会が発足し、柳宗悦が初代会長となる
・1935年(昭和10) 東京に柳宗悦邸(現在の西館)が完成する
・1936年(昭和11) 東京に「日本民藝館」が開設され、柳宗悦が初代館長に就任する
・1939年(昭和14) 日本民藝協会機関誌「月刊民藝」が創刊される
・1961年(昭和36)5月3日 初代館長の柳宗悦が亡くなる 
・1982年(昭和57) 旧大広間のあった位置に新館が建て替えられる
・2021年(令和3) 本館(附属塀を含む)、西館旧柳宗悦邸主屋、西館長屋門(附属塀を含む)が東京都指定有形文化財(建造物)に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細


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 今日は、昭和時代中期の1961年(昭和36)に、民芸運動の創始者・美術評論家・宗教哲学者柳宗悦が亡くなった日です。
 柳宗悦(やなぎ むねよし)は、明治時代中頃の1889年(明治22)3月21日に、東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区)で、海軍少将だった父・柳楢悦、母・勝子の三男として生まれましたが、名は「そうえつ」とも読ませていました。学習院へ進み、1910年(明治43)の高等科在学中に武者小路実篤らと「白樺」の創刊に参加します。
 この頃バーナード・リーチを知り、W.ブレイクを研究するようになり、1911年(明治44)に東京帝国大学哲学科に進み、心理学を専攻、『科学と人生』を刊行しました。1913年(大正2)に大学を卒業、翌年に声楽家中島兼子と結婚、『ヰリアム・ブレーク』を洛陽堂から出版し、1919年(大正8)には、東洋大学教授として宗教学を教えるようになります。
 1921年(大正10)に日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催、1923年(大正12)の関東大震災を機に京都へ転居し、同志社大学と同志社女学校専門学部、関西学院の講師となりました。木喰五行明満の仏像の美しさにひかれ、1924年(大正13)から全国の木喰仏調査を開始、翌年には京都同志社女学校専門部教授に就任します。
 1926年(大正15)に陶芸家の富本憲吉の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表、翌年には銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催しました。1928年(昭和3)に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に民藝館」を出品、初の本格的な工芸論『工藝の道』を刊行、1930年(昭和5)にヨーロッパを廻って帰国後、翌年には雑誌「工芸」を創刊します。
 1934年(昭和9)に日本民藝協会を発足させて会長に就任、1936年(昭和11)には、実業家の大原孫三郎の支援によって、東京駒場に「日本民藝館」を開設、初代館長となりました。1938年(昭和13)に京城に「朝鮮民族美術館」を開設、翌年に日本民藝協会機関誌「月刊民藝」が創刊され、1940年(昭和15)には、民衆的工芸の意味で“民芸”という語を創出し、浜田庄司、河井寛次郎らと民芸運動を推進、専修大学教授となります。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に日米教育委員となり、1951年(昭和26)に雑誌「大法論」に「南無阿弥陀仏」を21回にわたり連載しはじめ、翌年には国際工芸家会議に列席のため毎日新聞文化使節を兼て渡欧米しました。1957年(昭和32)に文化功労者となり、1960年(昭和35)には、朝日文化賞を受賞しましたが、1961年(昭和36)5月3日に、東京において、72歳で亡くなっています。

〇柳宗悦の主要な著作

・『科学と人生』(1911年)
・『ヰリアム・ブレーク』(1914年)
・『雑器の美』(1927年)
・『工芸の道』(1928年)
・『美の法門』(1949年)
・『朝鮮とその芸術』(1954年)
・『木喰上人』(1955年)
・『南無阿弥陀仏』(1955年)
・『民芸四十年』(1958年)
・『日本の民芸』(1960年)

☆柳宗悦関係略年表

・1889年(明治22)3月21日 東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区)で、海軍少将だった父・柳楢悦、母・勝子の三男として生まれる
・1910年(明治43) 学習院高等科在学中に武者小路実篤らと「白樺」の創刊に参加する
・1911年(明治44) 東京帝大哲学科に進む、『科学と人生』を刊行する
・1913年(大正2) 東京帝大文科大学哲学科を卒業する
・1914年(大正3) 声楽家中島兼子と結婚する、『ヰリアム・ブレーク』を洛陽堂から出版する
・1919年(大正8) 東洋大教授として宗教学を教える
・1921年(大正10) 日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催する
・1923年(大正12) 関東大震災を機に京都へ転居し、同志社大学と同志社女学校専門学部、関西学院の講師となる
・1924年(大正13) 木喰五行明満の仏像の美しさにひかれ、全国の木喰仏調査を開始する
・1925年(大正14) 京都同志社女学校専門部教授に就任する
・1926年(大正15) 陶芸家の富本憲吉の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表する、同志社大学英文科講師、関西学院英文科講師に就任する
・1927年(昭和2)6月 銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催する
・1928年(昭和3) 上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に民藝館」を出品、初の本格的な工芸論『工藝の道』を刊行する
・1930年(昭和5) ヨーロッパを廻って帰国する
・1931年(昭和6) 雑誌『工芸』を刊行する
・1934年(昭和9) 日本民藝協会を発足させ、会長に就任する
・1936年(昭和11) 実業家の大原孫三郎の支援によって、東京駒場に「日本民藝館」を開設、初代館長となる
・1937年(昭和12) 国際女子学園講師に就任する
・1938年(昭和13) 京城に朝鮮民族美術館を開設する
・1939年(昭和14) 日本民藝協会機関誌「月刊民藝」が創刊される
・1940年(昭和15) “民芸”という語を創出し、浜田庄司、河井寛次郎らと民芸運動を推進、専修大学教授となる
・1946年(昭和21) 日米教育委員となる
・1951年(昭和26) 雑誌「大法論」に「南無阿弥陀仏」を21回にわたり連載しはじめる
・1952年(昭和27) 国際工芸家会議に列席のため毎日新聞文化使節を兼て渡欧米する
・1957年(昭和32) 文化功労者となる
・1960年(昭和35) 朝日文化賞を受賞する
・1961年(昭和36)5月3日 東京において、72歳で亡くなる
・1984年(昭和59)9月 韓国政府から宝冠文化勲章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)戊辰戦争で奥羽の反官軍25藩による奥羽列藩同盟が成立する(新暦6月22日)詳細
1910年(明治43)青森県青森市で、青森大火が起き、死者26名、負傷者160名、焼失戸数5,200戸以上を出す詳細
1962年(昭和37)国鉄で三河島事故が起こり、列車三重衝突により、死者160人・負傷者296人を出す詳細
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