ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本書紀

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 今日は、古墳時代の571年(欽明天皇32)に、第29代の天皇とされる欽明天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月24日となります。
 欽明天皇(きんめいてんのう)は、509年(継体天皇3)頃?に、父・継体天皇の皇子(母は皇后手白香皇女)として生まれたとされますが、名は、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)と言いました。
 『日本書紀』によれば、宣化天皇が亡くなった後、539年に即位し、都を大和磯城嶋金刺宮(やまとしきしまのかなさしのみや)に遷したとされますが、531年即位したとも言われています。治世の初めは、大伴金村と物部尾輿が大連、蘇我稲目が大臣でしたが、まもなく金村が朝鮮政策の失敗を攻撃されて失脚しました。
 その後、百済の聖明王が仏像経論を献じ、公式にはこれが仏教の最初の渡来とされていますが、この年を『日本書紀』が壬申年(552年)とするのに対し、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は戊午年(538年)としていて食い違いがあり、安閑・宣化2天皇の治世の有無をめぐり論争となってきました。また、国内では崇仏の是非をめぐって蘇我・物部両氏の対立が起こりますが、崇仏をすすめる大臣の蘇我稲目が力を強めます。
 対外的には、朝鮮との関係が新羅の進出に伴ってふるわず、562年(欽明天皇23)には任那の日本府が滅亡する事態となりました。欽明天皇はこのことを遺憾とし、その回復を遺詔して、571年(欽明天皇32年4月15日)に、病死したとされます。
 以下に、このことを記した『日本書紀』巻第19 欽明天皇32年(571年)の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』巻第19 欽明天皇32年(571年)の条

<原文>

卅二年春三月戊申朔壬子、遣坂田耳子郎君、使於新羅、問任那滅由。是月、高麗、獻物幷表、未得呈奏、經歷數旬、占待良日。夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫。皇太子向外不在、驛馬召到、引入臥內、執其手詔曰「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」是月、天皇遂崩于內寢、時年若干。
五月、殯于河內古市。秋八月丙子朔、新羅遣弔使未叱子失消等、奉哀於殯。是月、未叱子失消等罷。九月、葬于檜隈坂合陵。

<読み下し文>

卅二年春三月戊申朔壬子、坂田耳子郎君を遣して、新羅に使して、任那の滅びし由を問はしむ。是の月、高麗獻物幷に表、未だ呈奏すことを得ず、數の旬を經歷て、良き日を占へ待つ。夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫、皇太子外に向きて在りまさず。驛馬はせて召し到り、臥內に引入れ、其の手を執り詔して曰く「朕れ疾甚し、後事を以て汝に屬く。汝、須らく新羅を打ち、任那を封し建て、更に夫婦を造し、惟れ舊曰の如くならしむべし、死るとも恨むこと無し。」是の月、天皇遂に內寢に崩りましぬ、時に年若干。
五月、河內の古市に殯す。秋八月丙子朔、新羅、弔使未叱子、失消等を遣して、殯に奉哀る。是の月、未叱子、失消等罷る。九月、檜隈坂合陵に葬めまつる。
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 今日は、古墳時代の585年(敏達天皇14)に、仏教排斥を唱える物部守屋が、仏像・寺院等を焼打ちにした日ですが、新暦では5月4日となります。
 仏教は、欽明天皇の時代に伝来したと言われていますが、敏達天皇の御代になって、585年(敏達天皇14)2月に、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めました。天皇はこれを許可しましたが、この頃から疫病が流行し出します。
 同年3月1日に守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めました。天皇は仏法を止めるよう詔し、3月30日に、守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵しました。その上で、使者(佐伯造御室)を派遣して、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって、海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑に処するという事件が起こります。
 しかし、疫病は更にひどくなって、天皇も病に伏すことになりました。馬子は、自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、天皇は馬子に限り許すことになります。
 しばらくして敏達天皇が亡くなった後も、仏教を広めようとする蘇我氏と旧来の神々を崇める物部氏との対立は続き、とうとう、2年後の587年(用明天皇2)7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めました。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて守屋の館を攻め、守屋は射殺されます。これ以後、蘇我氏の勢力が増大しました。
 以下に、このことを記した『日本書紀』巻20の渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)14年の条の該当部分を抜粋し、注釈と現代語訳を付けておきましたので、ご参照下さい。

〇「日本書紀」巻第二十 渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)十四年の条

<原文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫、奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」詔曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。
是日、無雲風雨。大連、被雨衣、訶責馬子宿禰與從行法侶、令生毀辱之心。乃遣佐伯造御室更名、於閭礙、喚馬子宿禰所供善信等尼。由是、馬子宿禰、不敢違命、惻愴啼泣、喚出尼等、付於御室。有司、便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭。

 「岩波古典文学大系本」(卜部兼方・兼右本)より

<読み下し文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫と、奏して曰く、「何の故にか肯て臣が言を用いたまはぬ。考天皇[1]より陛下に及び、疫疾[2]流く行はれて、國の民絶えつ可し。豈に專に蘇我臣が佛法を興し行ふに由るに非ずや。」詔して曰く、「灼然なり[3]、宜しく佛法を斷めよ。」丙戌、物部弓削守屋大連、自ら寺に詣りて、胡床[4]に踞坐り[5]、其の塔を斫倒し、火を縱けて之を燔く、幷せて佛像と佛殿とを燒く。既にして燒けし所の餘りの佛像を取りて、難波[6]の堀江に棄てしむ。
是の日に、雲無くて風ふき雨ふる。大連、被雨衣[7]して、馬子宿禰と從ひて法を行へる侶とを訶責[8]して、毀り辱かしむるの心を生さしむ。乃ち佐伯造御室(更の名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰の供る所の善信等の尼を喚さしむ。是に由りて、馬子宿禰、敢て命に違はず、惻み愴き啼泣つヽ、尼等を喚し出して、御室に付く。有司[9]、便ち尼等の三衣[10]を奪ひて、海石榴市[11]の亭[12]に禁錮へ[13]、楚撻ちき[14]。

【注釈】
[1]考天皇:かぞのみかど=欽明天皇のこと。
[2]疫疾:えやみ=疫病。
[3]灼然なり:いやちこなり=明白となること。とてもはっきりすること。非常に明らかになること。
[4]胡床:あぐら=腰を掛ける座具の一種。床几のこと。
[5]踞坐り:しりうたげをすわり=うずくまること。しゃがむこと。あぐらをかくこと。
[6]難波:なには=現在の大阪市およびその周辺地域の古称。
[7]被雨衣:あまよそい=雨具を付けること。
[8]訶責:かしゃく=しかり責めること。責めさいなむこと。
[9]有司:つかさ=役人。
[10]三衣:さんえ=僧の着る大衣、七条、五条の三種の袈裟のこと。僧衣。
[11]海石榴市:つばきいち=現在の奈良県桜井市付近にあった。
[12]亭:うまやたち=駅舎。駅家。大和政権が運営した交通施設で、馬や人員を常備した。
[13]禁錮へ:からめとらえへ=受刑者を監獄に拘置すること。
[14]楚撻ちき:しりかたうちき=鞭打ちの刑にする。

<現代語訳>

3月1日、大連の物部弓削守屋と大夫の中臣勝海が奏上するのには、「どうして私どもの進言を用いられないのですか。欽明天皇より陛下の御代に至るまで、疫病が流行し、国民が死に絶えそうです。これは専ら、蘇我氏が仏法を広めたことによるのに間違えありません。」天皇が詔して、「これは明白である。すぐに仏法を止めるように。」と言われた。30日に大連の物部弓削守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、火を着けた。同時に仏像と仏殿も焼き、焼損した仏像を集めて、難波の堀江に投げ込ませた。
この日、雲も見えないのに風雨となり、大連(物部弓削守屋)は雨具をつけた。馬子宿禰やこれに従っていた仏法信者を面罵し、人々の信頼がなくなるようにした。その上で、佐伯造御室(別名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰に従っている善信等の尼を召喚させた。これについては、馬子宿禰はあえて命令には逆らわず、ひどく嘆き泣き叫びながら、尼らを呼び出して、使者の御室に託した。役人たちは、尼達の三衣を剥ぎとって、捕縛して海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑にした。
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 今日は、奈良時代の720年(養老4)に、舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上した日ですが、新暦では7月1日となります。
 これは、天武天皇の時に着手され、舎人親王が中心となって、完成した日本最初の国史でした。全30巻(1、2は神代、巻3~30は神武天皇から持統天皇まで)で、系図1巻を付すとされていますが現存していません。
 漢文の編年体で記述され、同時代に成立した『古事記』よりも詳細で、かつ異説や異伝までも掲載し、客観性がみられ、史書として整っているとされてきました。帝紀・旧辞のほか諸氏の記録、寺院の縁起、朝鮮側資料などを利用して書かれたと考えられますが、漢文による潤色が著しく、漢籍や仏典をほとんど直写した部分もあります。
 神代巻や古い時代の巻は多量の神話や伝説を含み、また歌謡128首も掲載されるなど、上代文学史上においても貴重なものとされてきました。
 以後、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』 、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』と作成されて、これら6つの国史をあわせて、六国史と呼んでいます。

〇六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
 全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
 全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
 全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
 全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する

〇『日本書紀』卷第一の冒頭部分

<原文>

神代上

古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者薄靡而爲天・重濁者淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故、天先成而地後定。然後、神聖、生其中焉。故曰、開闢之初、洲壞浮漂、譬猶游魚之浮水上也。于時、天地之中生一物、狀如葦牙。便化爲神、號國常立尊。至貴曰尊、自餘曰命、並訓美舉等也。下皆效此。次國狹槌尊、次豐斟渟尊、凡三神矣。乾道獨化、所以、成此純男。

<読み下し文>

神代上(かみのよのかみのまき)

 古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、渾沌たること鷄(とり)の子の如くして、溟涬(ほのか)に牙(きざし)を含めり。其(そ)れ清く陽(あきらか)なるは、薄靡(たなび)きて天(あめ)と爲り、重く濁れるは、淹滞(つつ)いて地(つち)と爲るに及びて、精(くわ)しく妙(たえ)なるが合えるは摶(むらが)り易(やす)く、重く濁れるが凝(こ)るは竭(かたま)り難し。故(かれ)、天(あめ)先(ま)ず成りて、地(つち)後に定まる。 然して後に、神聖(かみ)其の中に生る。故、曰く、開闢の初めに洲壤(くにつち)浮き漂うこと譬(たと)えば游(あそ)ぶ魚の水の上に浮べるが猶(ごと)し。 時に、天地の中に一つ物生(な)れり。 状(かたち)葦牙(あしかび)の如(ごと)し。便(すなわ)ち神と化爲(な)る。 國常立尊(くにのとこたちのみこと)と號(もう)す。【至りて貴きを尊と曰い、それより餘(あまり)を命と曰う。並びに美(み)舉(こ)等(と)と訓(よ)む。下(しも)皆(みな)此(これ)に效(なら)え】
 次に國狹槌尊(くにのさづちのみこと)。次に豐斟渟尊(とよくむぬのみこと)。凡(およ)そ三はしらの神。 乾道(あめのみち)獨(ひと)り化(な)す。 所以(ゆえ)に此れ純(まじりなき)男(お)と成す。
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 今日は、飛鳥時代の646年(大化2)に、「改新の詔」が発布された日ですが、新暦では1月22日となります。
 これは、飛鳥時代の645年(大化元)に起きた「大化の改新」において、新たな施政の基本方針を示すために、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮で出されたとされる詔です。
 『日本書紀』の大化2年正月に所載されていて、「(1)屯倉、田荘などの私有地、ならびに子代、部曲などの私有民の廃止によって、公地公民制を敷く。(2)天皇の所在する京都・畿内を設定し、地方の行政区画と中央集権体制を整備する。(3)戸籍・計帳を作成して、班田収授法を実施する。(4)これまでの賦役を廃止し、新しい税制を打ち立てる。」の四ヶ条からなっていました。
 しかし、学者の間で「郡評論争」が起こり、藤原京から出土した木簡等により、編者により潤色されたものではないかと考えられるようになったのです。
 実際には、これらの改革が一度に実施されたのではなく、近江朝から天武・持統朝へと引き継がれる中で、律令体制として整えられていったのではないかとされるようになりました。

〇「改新の詔」(全文)大化2年正月

二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。

其一曰。罷昔在天皇等所立。子代之民。處々屯倉及別臣連。伴造。國造。村首所有部曲之民。處處田庄。仍賜食封大夫以上。各有差。降以布帛賜官人。百姓有差。又曰。大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。

其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。驛馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌按検戸口督察奸非。其坊令取坊内明廉強直堪時務者充。里坊長並取里坊百姓清正強幹者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿内國。凡郡以四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。其郡司並取國造性識清廉堪時務者爲大領少領。強幹聰敏工書算者爲主政主帳。凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。

其三曰。初造戸籍。計帳。班田收授之法。凡五十戸爲里。毎里置長一人。掌按検戸口。課殖農桑禁察非違。催駈賦役。若山谷阻險。地遠人稀之處。隨便量置。凡田長卅歩。廣十二歩爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。

其四曰。罷舊賦役而行田之調。凡絹絁絲綿並隨郷土所出。田一町絹一丈。四町成疋。長四丈。廣二尺半。絁二丈。二町成疋。長廣同絹。布四丈。長廣同絹絁。一町成端。〈綿絲絇屯諸處不見。〉別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄。亦随郷土所出。凡官馬者。中馬毎一百戸輸一疋。若細馬毎二百戸輸一疋。其買馬直者。一戸布一丈二尺。凡兵者。人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者。改舊毎卅戸一人〈以一人充廝也。〉而毎五十戸一人〈以一人充廝。〉以充諸司。以五十戸充仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺。庸米五斗。凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戸充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁。

                  『日本書紀』第二十五巻より

   *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

二年春正月甲子の朔、賀正の禮畢りて、即ち改新之詔を宣ひて曰く

 其の一に曰はく、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民、処処の屯倉、及び別には臣・連・伴造・国造・村首の所有る部曲の民、処処の田庄を罷めよ。仍りて食封を大夫以上に賜ふこと各差有らむ。降りて布帛を以て、官人・百姓に賜ふこと差有らむ。又曰はく、大夫は民を治めしむる所なり。能く其の治を尽すときは則ち民頼る。故、其の禄を重くせむことは、民の為にする所以なり。

 其の二に曰はく、初めて京師を修め、畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、及び鈴契を造り、山河を定めよ。凡そ京には坊毎に長一人を置き、四の坊に令一人を置きて、戸口を按へ検め、奸しく非を督し察むることを掌れ。其の坊令には坊の内に明廉く強く直しくして時の務に堪ふる者を取りて充てよ。里坊の長には並びに里坊の百姓の清く正しく強幹しき者を取りて充てよ。若し当里坊に人なくば、比の里坊に簡び用ゐることを聴せ。凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、(兄、此をば制と云ふ)、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里以下、四里以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。其の郡司には並びに国造の性識清廉くして時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強く幹しく聡敏くして書算に工なる者を主政・主帳とせよ。凡そ駅馬・伝馬を給ふことは皆鈴・伝符の剋の数に依れ。凡そ諸国及び関には鈴契を給ふ。並びに長官執れ、無くば次官執れ。

 其の三に曰はく、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。凡そ五十戸を里とす。里毎に長一人を置く。戸口を按へ検め、農桑を課せ殖ゑ、非違を禁め察め、賦役を催し駈ふことを掌れ。若し山谷阻険しくして、地遠く人なる処には、便に随ひて量りて置け。凡そ田は長さ三十歩、広さ十二歩を段とせよ。十段を町とせよ。段ごとに租稲二束二把、町ごとに租稲二十二束とせよ

 其の四に曰はく、旧の賦役を罷めて、田の調を行へ。凡そ絹・絁・糸・綿は、並びに郷土の出す所に随へ。田一町に絹一丈、四町にして匹を成す。長さ四丈、広さ二尺半。絁は二丈、二町にして匹を成す。長さ広さ絹に同じ。布四丈、長さ広さ絹・絁に同じ。一町にして端を成す。(糸・綿の絇屯は諸の処に見ず)、別に戸別の調を収れ。一戸に貲布一丈二尺。凡そ調の副物の塩・贄は亦>郷土の出す所に随へ。凡そ官馬は中の馬は一百戸毎に一匹を輸せ。若し細馬ならば二百戸毎に一匹を輸せ。其馬買はむ直は一戸に布一丈二尺。凡そ兵は人の身ごとに刀・甲・弓・矢・幡・鼓を輸せ。凡そ仕丁は旧の三十戸毎に一人を改めて、(一人を以て廝に充つ)、五十戸毎に一人を、(一人を以て廝に充つ)、以て諸司に充てよ。五十戸を以て、仕丁一人の粮に充てよ。一戸に庸布一丈二尺、庸米五斗。凡そ采女は、郡の少領以上の姉妹、及び子女の形容端正しき者を貢れ。(従丁一人。従女二人)、一百戸を以て、采女一人の粮に充てよ。庸布・庸米は、皆仕丁に准へ。

<現代語訳>

大化2年正月元旦,新年の儀式を終えて,改新の詔が宣布された。

1. 従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。その代わりに食封を大夫以上の者に身分に応じて与えることとする。その下の諸官人や庶民にはその身分に応じて布帛を与えることとする。また、大夫は民を治めるものである。その政治を誠意を尽くして行えば、民は頼ってくるものである。よって、その禄を重くするのは、民のためにするものである。

2. 初めて都を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・木契を作成し、国や郡の境界を設定することとする。京には坊毎に長を一人置きなさい。四つの坊には令を一人置き、戸口を調べて、邪な悪いやつを正し、監察する役としなさい。その坊令には、坊の内で潔白で強く実直で、時節の政務に対応できるものを採用して当てなさい。里坊の長には、里坊の庶民の中から清く正しく、意志が強いものを採用して当てなさい。もしその里坊に適当な人物がいない場合は、隣の里坊から選んで採用してもよい。だいたい畿内の範囲は、東は名墾横河から、南は紀伊の兄山から、西は明石の櫛淵から、北は近江の狹々波の合坂山を畿内国とする。郡は40里を大郡とせよ。30里以下、4里より以上を中郡とし、3里を小郡とせよ。郡司には国造の中から清廉で政務に役立つ者を大領・少領に選任し、強健・明敏で読み書き計算のすぐれた者を主政・主帳に任ぜよ。駅馬・伝馬の数は、駅鈴・伝符に刻んだ数による。諸国と関には駅鈴と木契(割符)を与える。長官が取りなさい。そうでなければ、次官が取るものとする。

3. 初めて戸籍・計帳・班田収授法を定めることとする。およそ50戸を里とし、里ごとに里長一人を置く。戸口を調べて、農耕と養蚕を課して増えさせ、法を犯すものを禁じ、監察し、賦役を促し駆り立てるのを役目としなさい。もし、山谷が険しい辺境の地で人があまりいない地域には、報告に従って、調べたことにして処理しなさい。田の広さは、長さ三十歩・幅二十歩を一段とし、十段をもって一町とする。一段からの租税の稲は二束二把、一町からは二十二束と決める。

4. 旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。絹・絁・絲・綿などは、その土地で産出するものを納めよ。田が1町ならば絹を1丈。4町で1匹となる。長さ4丈は広さ2尺半。絁ならば2丈、2町で1匹となる。長さと広さは絹と同じとする。布ならば4丈、長さ広さは絹・絁と同じで、1町で1匹となる。また戸毎に調を徴収せよ。一戸にあら布一丈二尺。調の付加税の塩・贄(魚介類・海藻など)はその土地の産物から選べ。官馬は、中の馬は100戸ごとに1匹を献上しなさい。もし、良い馬ならば200戸ごとに1匹を献上しなさい。その馬を他に置き換える場合の値は、1戸に布1丈2尺とする。兵器は、一人につき、刀・甲・弓・矢・幡・鼓を献上しなさい。おおよそ、役所に仕える雑役夫は、従来30戸に一人を出すのを改めて50戸毎に一人を出して各役所に割当て、五十戸から納入されるものを、役所に仕える雑役夫一人分の食料として充当せよ。後宮に奉仕する女官として、郡の少領以上の家の姉妹・子女の容姿端麗な者を差し出せ。100戸から納入されるものを、後宮に奉仕する女官一人の食料として充当せよ。庸布・庸米は、諸官司の雑役夫と同じとする。

【注釈】
[1]改新之詔:かいしんのみことのり=新たな施政の基本方針を示すため、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮で出されたとされる詔。
[2]子代の民:こしろのたみ=皇室の私有民で、天皇が皇太子のために設置したもの。
[3]屯倉:みやけ=皇室の私有地。
[4]臣・連・伴造・国造・村首:おみ・むらじ・とものみやつこ・くにのみやつこ・むらのおびと=諸豪族の呼称。
[5]部曲の民:かきのたみ=豪族の私有民。
[6]田庄:たどころ=豪族の私有地。
[7]食封:へひと・じきふ=国家が指定した一定地域の郷戸が出す祖税を官人の俸禄として支給する制度。
[8]大夫:まえつきみ・たいふ=中・上の役人で、国政審議に参加する官。
[9]各差有らむ:おのおのしなあらん=各々の地位に応じて給付するという意味。
[10]布帛:ふはく・きぬ=絹織物。
[11]官人:つかさ=役人。
[12]民頼る:たみかうぶる=民が頼ってくる。
[13]禄:たまもの・ろく=民の取り分。
[14]京師:みさと・けいし=天子の住む都のこと。
[15]機内国司:うちつくにみこともち=大和周辺の国の長官。機内・国司と分けて読む説もある。
[16]郡司:こおりのみやつこ=郡の長官の意味だが、金石文や木簡では大宝令まで評が用いられたので、改竄説がある。
[17]関塞:せきそこ=険要の地を守る軍塁。軍事上の防御施設。関所。
[18]斥候:うかみ・せっこう=北辺の守備兵。敵の内情を偵察する者。スパイ。
[19]防人:さきもり=西海の防衛隊。辺境、特に大宰府管内の守備兵。
[20]駅馬:はいま・えきば=駅におく馬。律令制では、駅家に備えて駅使の乗用に使った馬。
[21]伝馬:つたわりうま・てんま=郡におく馬。律令制では郡ごとの郡家に5疋常備された官馬。
[22]鈴契:すずしるし=駅鈴と木契(割符)のことで、駅馬・伝馬の利用や関を通過するための証明とした。
[23]山河を定めよ:やまかわをさだめよ=地方の境界を定めよ。
[24]坊毎:まちごと=町ごと。
[25]坊令:ぼうれい=京の四坊ごとに置かれた責任者。住民 の有力者が充てられ、治安の維持などに当たった。
[26]強幹しき者:いさをしきもの=意志が強い者。
[27]名墾横河:ながりのよこかわ=伊賀名張郡名張川。
[28]紀伊の兄山:きいのせのやま=現在の和歌山県伊都郡かつらぎ町に背山・対岸に妹山がある。
[29]明石の櫛淵:あかしのくしぶち=播磨国明石郡の内、塩屋あたりや界(境)川をあてるなど諸説 あり。
[30]合坂山:あうさかやま=現在の滋賀県大津市にある。
[31]大領:こおりのみやつこ=律令制の官職で、郡司の中の四等官(大領・少領・主政・主帳)の1番目。
[32]少領:すけのみやつこ=律令制の官職で、郡司の中の四等官(大領・少領・主政・主帳)の2番目。
[33]書算:てかきかずとる・しょさん=読み書き計算。書道と算術。
[34]主政:しゅせい・まつりごとひと=律令制の官職で、郡司の中の四等官(大領・少領・主政・主帳)の3番目。
[35]主帳:しゅちょう・ふびと=律令制の官職で、郡司の中の四等官(大領・少領・主政・主帳)の4番目。
[36]戸籍:へのふみた・こせき=人民登録の基本台帳で、6年ごとに作成された。
[37]計帳:かずのふみた・けいちょう=調・庸の課税台帳。
[38]班田収授の法:あかちだをさめさづくるののり=6歳以上の男女に口分田を班給し、徴税する制度。
[39]農桑:なりわいくわ・のうそう=農耕と養蚕。
[40]賦役:ぶえき・えつき=労働する税。労働で納める課役。
[41]便:たより=報告。
[42]租:たちから・そ=穀物の税。
[43]調:みつぎ・ちょう=一定基準で田地に賦課する税。
[44]絹:かとり=絹を固く織ったもの。
[45]絁:ふとぎぬ=目の粗い絹。
[46]絲:いと=生糸。
[47]綿:わた=絹綿(真綿)。
[48]貲布:さよみのぬの・さいみ= 織り目の粗い麻布。
[49]副物:そわりつもの=付加税。
[50]贄:にえ=朝廷に献上する食料用の魚介類・海藻など。
[51]官馬:つかさうま=公に献上する馬。
[52]中の馬:なかのうま=中級の馬。
[53]細馬:よきうま・さいば=上級の馬。駿馬。良馬。
[54]兵:つわもの=兵器。兵士。
[55]仕丁:つかえのよぼろ・しちょう=諸官司の雑役をするもの。
[56]廝:し=めしつかい。しもべ。下男。こもの。
[57]諸司:もろつかさ・しょし=役所。役人。
[58]粮:かて=食糧。食物。
[59]庸布:ちからしろのぬの・ようふ=税(庸)として納めた布。
[60]庸米:ちからしろのこめ・ようまい=税(庸)として納めた米。
[61]采女:うねめ=後宮に奉仕する女官。
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