即位3年に新羅から医者を招聘して天皇の病気を治療させ、即位4年には、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施しました。即位5年に葛城玉田宿禰の叛意が露顕してこれを誅殺し、即位7年に皇后の妹の弟姫(衣通郎姫)が入内、藤原宮(現在の奈良県橿原市)に住まわせたものの、翌年には、衣通郎姫が茅渟宮(現在の大阪府泉佐野市)へ移っています。
即位9年に茅渟宮へ頻繁に行幸しましたが、翌年には皇后に諌められ、茅渟行幸が稀になりました。即位23年に木梨軽皇子を立太子したものの、翌年には木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚しています。
『日本書紀』では、即位42年1月14日に亡くなったとされるものの、その年齢については諸説存在してきました。陵墓は、河内長野原陵(大阪府藤井寺市)とされ、新羅王から弔使が送られています。
尚、『宋書倭国伝』の倭の五王のうち、済(せい)にあてるのが定説とされ、済は太祖元嘉20年(443年)に宋に奉献し、済が没したのち、世子興(安康)が貢献したとあることから、五世紀前半に在位したと考えられてきました。
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