ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本書紀

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 今日は、古墳時代の允恭天皇42年に第19代の天皇とされる允恭天皇の亡くなった日です。
 允恭天皇(いんぎょうてんのう)は、仁徳天皇64年?に大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子(母は葛城襲津彦の女・磐之媛命)として生まれたとされ、名は『日本書紀』によると雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)と言いました。反正天皇5年1月に、瑞歯別天皇(反正天皇)が皇太子を定めずして崩御したため、同母弟であったため、群臣達に天皇として推挙され、即位元年12月に第19代とされる天皇として即位します。
 即位3年に新羅から医者を招聘して天皇の病気を治療させ、即位4年には、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施しました。即位5年に葛城玉田宿禰の叛意が露顕してこれを誅殺し、即位7年に皇后の妹の弟姫(衣通郎姫)が入内、藤原宮(現在の奈良県橿原市)に住まわせたものの、翌年には、衣通郎姫が茅渟宮(現在の大阪府泉佐野市)へ移っています。
 即位9年に茅渟宮へ頻繁に行幸しましたが、翌年には皇后に諌められ、茅渟行幸が稀になりました。即位23年に木梨軽皇子を立太子したものの、翌年には木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚しています。
 『日本書紀』では、即位42年1月14日に亡くなったとされるものの、その年齢については諸説存在してきました。陵墓は、河内長野原陵(大阪府藤井寺市)とされ、新羅王から弔使が送られています。
 尚、『宋書倭国伝』の倭の五王のうち、済(せい)にあてるのが定説とされ、済は太祖元嘉20年(443年)に宋に奉献し、済が没したのち、世子興(安康)が貢献したとあることから、五世紀前半に在位したと考えられてきました。
 以下に、『宋書倭国伝』 を全文、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』による允恭天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・仁徳天皇64年? 大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子(母は葛城襲津彦の女・磐之媛命)として生まれる
・反正天皇5年1月 群臣達に天皇として推挙される
・即位元年12月 第19代とされる天皇として即位する
・即位3年8月 新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療
・即位4年9月 諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施
・即位5年7月 葛城玉田宿禰の叛意が露顕、これを誅殺する
・即位7年12月 皇后の妹の弟姫(衣通郎姫)が入内、藤原宮に住まわせる
・即位8年2月 衣通郎姫が茅渟宮へ移る
・即位9年 茅渟宮へ頻繁に行幸
・即位10年 皇后に諌められ、茅渟行幸が稀になる
・即位23年3月 木梨軽皇子を立太子
・即位24年6月 木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚
・即位42年1月 崩御。78歳(『古事記』『旧事紀』)、80歳(『愚管抄』『神皇正統記』)、81歳(北野本『日本書紀』)、68歳(『日本書紀』一本)
・即位42年10月 河内長野原陵に葬られる
・即位42年11月 新羅王から弔使が送られる

☆『宋書倭国伝』 (全文) 457年(永明5)成立 

倭國在高驪東南大海中丗修貢職
髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授
太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽 
二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王 
二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻 
丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王 
順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬?甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無?前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

『宋書』倭国伝より

*縦書きの原文を横書きに改めてあります。
 
<読み下し文>

倭国は高驪[1]の東南、大海の中にあり、世々貢職[2]を修む。 
高祖[3]の永初二年[4]、詔して日く、「倭の讃[5]、万里[6]貢を修む。遠誠宣しくあらわすべく、除授を賜ふ[7]べし」と。 
太祖[8]の元嘉二年[9]、讃[5]また司馬曹達を遣わして表を奉り方物[10]を献ず。 讃[5]死して弟珍[11]立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられん[18]ことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。珍[11]また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。 
二十年、倭国王済[19]、使を遣はして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。 
二十八年、使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。済[19]死す。世子[21]興[22]、使を遣わして貢献す。 
世祖[23]の大明六年[24]、詔して曰く、「倭王世子[21]興[22]、奕世戴ち忠、藩[25]を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職[2]を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」と。興[22]死して弟武[26]立ち、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。 
順帝[27]の昇明二年[28]、使を遣わして上表[29]して曰く、「封国[30]は偏遠にして、藩[25]を外に作す[31]。昔より祖禰[32]、躬ら甲冑を環き、山川を跋渉[33]して、寧処[34]に遑あらず。東は毛人[35]を征すること五十五国、西は衆夷[36]を服すること六十六国を渡りて海北[37]を平ぐること九十九国。王道融泰[38]にして、土を廓き畿を遐にす累葉朝宗して歳に愆たず。臣、下愚[39]なりといえども、忝なくも先緒[40]を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極[41]に帰崇[42]し、道百済[13]を遙て、船舫[43]を装治[44]す。而るに句驪[45]無道[46]にして、図りて見呑せんと欲し、辺隷[47]を掠抄[48]し、虔劉[49]して巳まず。毎に稽滞[50]を致し、以って良風を失い、路に進と日うと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考済[19]、実に寇讐[51]の天路を壅塞[52]するを忿り、控弦[53]百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功[54]をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇[55]にあり兵甲[56]を動かさず。これを以て、偃息[57]して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父・兄の志しを申べんと欲す。義士[58]虎賁[59]、文武功を効し、自刃前に交わるとも亦顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司[60]を仮し、その余は咸な仮授[61]して以て忠節を勧む」と。詔して武[26]を使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事安東大将軍倭王に叙す。
 
【注釈】

[1]高驪:こうらい=高句麗。朝鮮三国の一つで、朝鮮半島北部にあった。 
[2]貢職:こうしょく=貢物。貢献物。 
[3]高祖:こうそ=宋の初代皇帝武帝。 
[4]永初二年:えいしょにねん=武帝の年号で、西暦では421年。 
[5]讃:さん=応神天皇、仁徳天皇、履中天皇に比定する説がある。 
[6]万里:ばんり=非常に遠い距離。きわめて遠いこと。 
[7]除授を賜ふ:じょじゅをたまふ=官職・爵位を授ける。 
[8]太祖:たいそ=宋の第三代皇帝文帝。 
[9]元嘉二年:げんかにねん=文帝の年号で、西暦では425年。 
[10]方物:ほうぶつ=その地方の産物。土産。 
[11]珍:ちん=仁徳天皇、反正天皇に比定する説がある。 
[12]使持節都督:しじせつととく=支配を委ねられた地域の最上級軍政官。 
[13]百済:くだら=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南西部にあった。 
[14]新羅:しらぎ=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南東部にあった。 
[15]任那:みなま=朝鮮半島南部にあった日本の植民地。 
[16]秦韓:しんかん=朝鮮半島南東部の地域。 
[17]慕韓:ぼかん=朝鮮半島南西部の地域。 
[18]表して除正せられん:ひょうしてじょせいせられん=文書で正式に任命されること。 
[19]済:せい=允恭天皇に比定されている。 
[20]加羅:から=任那諸国中の一国。 
[21]世子:せし=跡継ぎ。 
[22]興:こう=安康天皇に比定されている。 
[23]世祖:せそ=宋の第四代皇帝孝武帝。 
[24]大明六年:だいめいろくねん=孝武帝の年号で、西暦では462年。 
[25]藩:はん=領域のこと。 
[26]武:ぶ=雄略天皇に比定されている。 
[27]順帝:じゅんてい=宋の第八代皇帝順帝。 
[28]昇明二年:しょうめいにねん=順帝の年号で、西暦では478年。 
[29]上表:じょうひょう=君主に文書をたてまつること。また、その文書。上書。上疏。 
[30]封国:ほうこく=王として封ぜられた国。宋から支配を任された国。 
[31]外に作す:そとになす=外側を形成する。 
[32]祖禰:そでい=祖先。 
[33]跋渉:ばっしょう=山野を越え、川をわたり、各地を歩き回ること。 
[34]寧処:ねいしょ=やすらかな所。安んずる処。また、やすらかに居ること。 
[35]毛人:もうじん=東方の服属していない人々。蝦夷か? 
[36]衆夷:しゅうい=西方の服属していない人々。九州南部の熊襲等か? 
[37]海北:かいほく=朝鮮半島か? 
[38]融泰:ゆうたい=行き届いていて、平安である。 
[39]下愚:かぐ=はなはだ愚かであること。また、その人。至愚。 
[40]先緒:せんしょ=先人の遺した事業。先祖の遺業。前緒。 
[41]天極:てんきょく=地軸の延長と天球との交点、または北極星のことだが、ここでは中国を指す。 
[42]帰崇:きすう=すぐれたものを深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じること。 
[43]船舫:ふなもやい=船をつなぎとめること。船を進めないで一か所に止めておくこと。ふなもよい。 
[44]装治:そうち=旅装を整える。旅支度をする。 
[45]句驪:くり=高句麗のこと。 
[46]無道:ぶどう=人の道にはずれること。また、そのさま。非道。 
[47]辺隷:へんれい=国境の人民。 
[48]掠抄:りゃくしょう=かすめとること。 
[49]虔劉:けんりゅう=むりに奪いとったり、殺したりする。 
[50]稽滞:けいりゅう=とどこおる。停留。 
[51]寇讐:こうしゅう=敵。かたき。 
[52]壅塞:ようそく=ふさぐこと。また、ふさがること。 
[53]控弦:こうげん=弓を引くこと。また、その兵士。 
[54]垂成の功:すいせいのこう=完全な成功。 
[55]諒闇:りょうあん=天皇が、その父母の死にあたり喪に服する期間。 
[56]兵甲:へいこう=武器と甲冑(かっちゅう)。転じて、兵士。また、いくさ。 
[57]偃息:えんそく=くつろいでやすむこと。休息。 
[58]義士:ぎし=義を守り行なう士。節義の人。高節の士。義人。 
[59]虎賁:こほん=剛勇をもって主君に仕える人。 
[60]開府儀同三司:かいふぎどうさんし=従一位の唐名。もと中国の官名で、漢代末期から開府の制度がはじまり、その中でとくに重んぜられて、三公(三司)と同じ儀制を認められた者の呼び名。 
[61]仮授:かじゅ=許し授ける。  

<現代語訳>  宋書倭国伝

倭国は高句麗の東南の大海の中にあって、代々貢物を送ってきていた。 
高祖(宋の武帝)の永初2年(421年)に、詔して言うには、「倭王の讃は、とても遠い所から貢物を献上してきた。遠方からの誠意に報いて、官職を授けよう。」と。 
太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425年)、讃王はまた司馬曹達を遣わして、上表文を奉り、倭の特産物を献上した。 讃王が死んで、弟の珍が王となった。使者を遣わして貢物を献上し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、文書で正式に任命されることを求めてきた。詔を下して安東将軍倭国王に任じた。珍王はまた倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に任命されんことを求めた。詔を下して同じように聞き入れた。 
元嘉20年(443年)、倭国王の済は、使者を遣わして貢物を献上してきた。そこで安東将軍倭国王に任命した。 
元嘉28年(451年)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の官職を加え、安東将軍はそのままとした。同じく上奏していた23人を将軍や郡長官に任命した。済王が死に、跡継ぎの興が、使者を遣はして貢物を献上してきた。 
世祖(宋の孝武帝)の大明6年(462年)、詔して言うには、「倭王の跡継ぎ興は、これまでと変わらず忠節を重ね、領域を守る外海の垣根となり、中国の感化をうけて辺境を守り、うやうやしく貢物を献上し、新たにその守りを嗣いだ。よろしく爵号を授けるべきで、安東将軍倭国王とする。」と。興王が死に、弟の武が王となり、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称した。 
宋の順帝の昇明2年(478年)、使者を遣わして上表文を奉って言うには、「封ぜられた国ははるか遠くにあり、領域の外側を形成しています。昔より祖先は、自ら甲冑を身に着け、山野を越え、川をわたり、各地を歩き回って、安んずる暇もありませんでした。東は蝦夷を征すること55国、西は熊襲等を服属させること66国、海を渡って朝鮮半島を平定すること99国となります。王権が行き届いて平安で、封土も広大です。我が国は先祖代々中国の天子に拝謁するのに、毎年時節をたがえ誤ることはありませんでした。私は、はなはだ愚かではありますが、かたじけなくも先祖の遺業を継いで、統治下にある人々を駆り率い、中国の教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じ、往来の道は百済を経由すべく、船をつなぎとめて旅装を整えています。しかし、高句麗は人の道にはずれ、はかりごとをしてこれを飲み込もうとして、国境の人民を略奪、殺害しています。そのどれもが滞ってしまい、従って良い風を失い、航路を進もうとしても、あるいは通じ、あるいは通ぜずといった状態です。わたくしの亡父の済は、実に敵(高句麗)の中国への路をふさぐことを怒り、弓矢をもつ兵士百万、正義の声に感激して、まさに大挙して向かおうとしましたが、にわかに父(済王)と兄(興王)を失ってしまい、完全な成功を成すための最後の一撃を加えることが出来ませんでした。そのまま喪に服する期間にあたり、兵士を動かさず。このようなわけで、休止せざるを得ず、いまだに戦いに勝つことが出来ないでいます。今に至って、武器を整え兵を訓練して、父・兄の志しを果たしたいと欲しています。義士も勇士も文官も武官も力を発揮して、敵と刃を交えようともおのれを顧み怯むことなどありません。もし皇帝の徳を以て援護していただけたら、この強敵を打ち破ることも、また我が地の乱れを収めることも、今までの功績に見劣りすることなどはないでしょう。ひそかに自ら開府儀同三司の任を負わせ、その他の部下・諸将にもみな許し授けていただければ、もって忠節を勧むでしょう。」と。詔を下して、武王を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命した。
 
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 今日は、古墳時代の雄略天皇23年(479年?)に、第21代の天皇とされる雄略天皇の亡くなった日(『日本書紀』による)です。
 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、生年は不詳ですが、父は允恭天皇の第五皇子(母は忍坂大中姫命)とされ、名は『日本書紀』では大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)、『古事記』では大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)とされてきました。記紀によれば、同母兄の安康天皇を殺害した眉輪王(まゆわのおおきみ)を誅し、さらに履中天皇の皇子の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)らをも殺して、泊瀬朝倉宮に即位したとされています。
 平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣に、大伴連室屋と物部連目を大連とし、秦氏や漢氏をはじめ渡来人をも重用して王権を強化、諸氏族の反乱を鎮圧し、朝鮮半島の乱れに乗じて、百済や新羅、高麗への影響力強化を画策するなど、対外関係においても注目すべきことが伝えられてきました。また、『宋書』倭国伝にみえる倭王武は雄略天皇に比定され、478年に南朝宋へ遣使上表し、「使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸事事安東大将軍倭王」に任命され、『南斉書』には479年に倭王武が鎮東大将軍になったと記されています。
 そして、『日本書紀』によれば、雄略天皇22年1月1日に白髪皇子(後の22代清寧天皇)を皇太子とし、翌年8月7日に病いのために数え年62歳で亡くなり、陵墓は丹比高鷲原陵(現在の大阪府羽曳野市島泉)とされてきました。尚、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘「獲加多支鹵大王」と熊本県江田船山古墳出土大刀銘「獲〇〇〇鹵大王」は、雄略天皇に比定されています。
 以下に、参考のため『宋書』倭国伝を掲載しておきましたので、御参照下さい。

〇『宋書』倭国伝とは?

 中国の『宋書』夷蛮伝の東夷の条に属している倭国伝のことです。『宋書』は、中国南朝の宋(420 ~ 479年)について書かれた歴史書、本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体のもので、沈約が斉の武帝に命ぜられて編纂しました。夷蛮伝は、宋朝と諸国の交渉記事中心に記述されていて、倭国伝には、“倭の五王”(讃・珍・済・興・武)と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが書かれています。その中で、讃は応神・仁徳・履中のいずれか、珍は仁徳か反正、済は允恭、興は安康、武は雄略の各天皇に比定されてきました。ここに記された武(雄略天皇)の上表文は有名です。

☆『宋書』倭国伝

<原文>

倭國在高驪東南大海中丗修貢職
髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授
太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽
二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王
二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻
丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

<読み下し文>

倭国は高驪[1]の東南、大海の中にあり、世々貢職[2]を修む。
高祖[3]の永初二年[4]、詔して日く、「倭の讃[5]、万里[6]貢を修む。遠誠宣しくあらわすべく、除授を賜ふ[7]べし」と。
太祖[8]の元嘉二年[9]、讃[5]また司馬曹達を遣わして表を奉り方物[10]を献ず。
讃[5]死して弟珍[11]立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられん[18]ことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。
珍[11]また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。
二十年、倭国王済[19]、使を遣はして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。
二十八年、使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。済[19]死す。世子[21]興[22]、使を遣わして貢献す。
世祖[23]の大明六年[24]、詔して曰く、「倭王世子[21]興[22]、奕世戴ち忠、藩[25]を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職[2]を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」と。興[22]死して弟武[26]立ち、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。
順帝[27]の昇明二年[28]、使を遣わして上表[29]して曰く、「封国[30]は偏遠にして、藩[25]を外に作す[31]。昔より祖禰[32]、躬ら甲冑を環き、山川を跋渉[33]して、寧処[34]に遑あらず。東は毛人[35]を征すること五十五国、西は衆夷[36]を服すること六十六国を渡りて海北[37]を平ぐること九十九国。王道融泰[38]にして、土を廓き畿を遐にす累葉朝宗して歳に愆たず。臣、下愚[39]なりといえども、忝なくも先緒[40]を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極[41]に帰崇[42]し、道百済[13]を遙て、船舫[43]を装治[44]す。而るに句驪[45]無道[46]にして、図りて見呑せんと欲し、辺隷[47]を掠抄[48]し、虔劉[49]して巳まず。毎に稽滞[50]を致し、以って良風を失い、路に進と日うと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考済[19]、実に寇讐[51]の天路を壅塞[52]するを忿り、控弦[53]百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功[54]をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇[55]にあり兵甲[56]を動かさず。これを以て、偃息[57]して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父・兄の志しを申べんと欲す。義士[58]虎賁[59]、文武功を効し、自刃前に交わるとも亦顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司[60]を仮し、その余は咸な仮授[61]して以て忠節を勧む」と。詔して武[26]を使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事安東大将軍倭王に叙す。

【注釈】

[1]高驪:こうらい=高句麗。朝鮮三国の一つで、朝鮮半島北部にあった。
[2]貢職:こうしょく=貢物。貢献物。
[3]高祖:こうそ=宋の初代皇帝武帝。
[4]永初二年:えいしょにねん=武帝の年号で、西暦では421年。
[5]讃:さん=応神天皇、仁徳天皇、履中天皇に比定する説がある。
[6]万里:ばんり=非常に遠い距離。きわめて遠いこと。
[7]除授を賜ふ:じょじゅをたまふ=官職・爵位を授ける。
[8]太祖:たいそ=宋の第三代皇帝文帝。
[9]元嘉二年:げんかにねん=文帝の年号で、西暦では425年。
[10]方物:ほうぶつ=その地方の産物。土産。
[11]珍:ちん=仁徳天皇、反正天皇に比定する説がある。
[12]使持節都督:しじせつととく=支配を委ねられた地域の最上級軍政官。
[13]百済:くだら=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南西部にあった。
[14]新羅:しらぎ=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南東部にあった。
[15]任那:みなま=朝鮮半島南部にあった日本の植民地。
[16]秦韓:しんかん=朝鮮半島南東部の地域。
[17]慕韓:ぼかん=朝鮮半島南西部の地域。
[18]表して除正せられん:ひょうしてじょせいせられん=文書で正式に任命されること。
[19]済:せい=允恭天皇に比定されている。
[20]加羅:から=任那諸国中の一国。
[21]世子:せし=跡継ぎ。
[22]興:こう=安康天皇に比定されている。
[23]世祖:せそ=宋の第四代皇帝孝武帝。
[24]大明六年:だいめいろくねん=孝武帝の年号で、西暦では462年。
[25]藩:はん=領域のこと。
[26]武:ぶ=雄略天皇に比定されている。
[27]順帝:じゅんてい=宋の第八代皇帝順帝。
[28]昇明二年:しょうめいにねん=順帝の年号で、西暦では478年。
[29]上表:じょうひょう=君主に文書をたてまつること。また、その文書。上書。上疏。
[30]封国:ほうこく=王として封ぜられた国。宋から支配を任された国。
[31]外に作す:そとになす=遠いところにある。
[32]祖禰:そでい=祖先。
[33]跋渉:ばっしょう=山野を越え、川をわたり、各地を歩き回ること。
[34]寧処:ねいしょ=やすらかな所。安んずる処。また、やすらかに居ること。
[35]毛人:もうじん=東方の服属していない人々。蝦夷か?
[36]衆夷:しゅうい=西方の服属していない人々。九州南部か?
[37]海北:かいほく=朝鮮半島か?
[38]融泰:ゆうたい=行き届いていて、平安である。
[39]下愚:かぐ=はなはだ愚かであること。また、その人。至愚。
[40]先緒:せんしょ=先人の遺した事業。先祖の遺業。前緒。
[41]天極:てんきょく=地軸の延長と天球との交点。北極星。
[42]帰崇:きすう=すぐれたものを深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じること。
[43]船舫:ふなもやい=船をつなぎとめること。船を進めないで一か所に止めておくこと。ふなもよい。
[44]装治:そうち=旅装を整える。旅支度をする。
[45]句驪:くり=高句麗のこと。
[46]無道:ぶどう=人の道にはずれること。また、そのさま。非道。
[47]辺隷:へんれい=国境の人民。
[48]掠抄:りゃくしょう=かすめとること。
[49]虔劉:けんりゅう=むりに奪いとったり、殺したりする。
[50]稽滞:けいりゅう=とどこおる。停留。
[51]寇讐:こうしゅう=敵。かたき。
[52]壅塞:ようそく=ふさぐこと。また、ふさがること。
[53]控弦:こうげん=弓を引くこと。また、その兵士。
[54]垂成の功:すいせいのこう=完全な成功。
[55]諒闇:りょうあん=天皇が、その父母の死にあたり喪に服する期間。
[56]兵甲:へいこう=武器と甲冑(かっちゅう)。転じて、兵士。また、いくさ。
[57]偃息:えんそく=くつろいでやすむこと。休息。
[58]義士:ぎし=義を守り行なう士。節義の人。高節の士。義人。
[59]虎賁:こほん=剛勇をもって主君に仕える人。
[60]開府儀同三司:かいふぎどうさんし=従一位の唐名。もと中国の官名で、漢代末期から開府の制度がはじまり、その中でとくに重んぜられて、三公(三司)と同じ儀制を認められた者の呼び名。
[61]仮授:かじゅ=許し授ける。

<現代語訳>

倭国は高句麗の東南の大海の中にあって、代々貢物を送ってきていた。
高祖(宋の武帝)の永初2年(421年)に、詔して言うには、「倭王の讃は、とても遠い所から貢物を献上してきた。遠方からの誠意に報いて、官職を授けよう。」と。
太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425年)、讃王はまた司馬曹達を遣わして、上表文を奉り、倭の特産物を献上した。
讃王が死んで、弟の珍が王となった。使者を遣わして貢物を献上し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、文書で正式に任命されることを求めてきた。詔を下して安東将軍倭国王に任じた。
珍王はまた倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に任命されんことを求めた。詔を下して同じように聞き入れた。
元嘉20年(443年)、倭国王の済は、使者を遣わして貢物を献上してきた。そこで安東将軍倭国王に任命した。
元嘉28年(451年)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の官職を加え、安東将軍はそのままとした。同じく上奏していた23人を将軍や郡長官に任命した。済王が死に、跡継ぎの興が、使者を遣はして貢物を献上してきた。
世祖(宋の孝武帝)の大明6年(462年)、詔して言うには、「倭王の跡継ぎ興は、これまでと変わらず忠節を重ね、領域を守る外海の垣根となり、中国の感化をうけて辺境を守り、うやうやしく貢物を献上し、新たにその守りを嗣いだ。よろしく爵号を授けるべきで、安東将軍倭国王とする。」と。興王が死に、弟の武が王となり、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称した。
宋の順帝の昇明2年(478年)、使者を遣わして上表文を奉って言うには、「封ぜられた国ははるか遠くにあり、領域の外側を形成しています。昔より祖先は、自ら甲冑を身に着け、山野を越え、川をわたり、各地を歩き回って、安んずる暇もありませんでした。東は蝦夷を征すること55国、西は熊襲等を服属させること66国、海を渡って朝鮮半島を平定すること99国となります。王権が行き届いて平安で、封土も広大です。我が国は先祖代々中国の天子に拝謁するのに、毎年時節をたがえ誤ることはありませんでした。私は、はなはだ愚かではありますが、かたじけなくも先祖の遺業を継いで、統治下にある人々を駆り率い、中国の教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じ、往来の道は百済を経由すべく、船をつなぎとめて旅装を整えています。しかし、高句麗は人の道にはずれ、はかりごとをしてこれを飲み込もうとして、国境の人民を略奪、殺害しています。そのどれもが滞ってしまい、従って良い風を失い、航路を進もうとしても、あるいは通じ、あるいは通ぜずといった状態です。わたくしの亡父の済は、実に敵(高句麗)の中国への路をふさぐことを怒り、弓矢をもつ兵士百万、正義の声に感激して、まさに大挙して向かおうとしましたが、にわかに父(済王)と兄(興王)を失ってしまい、完全な成功を成すための最後の一撃を加えることが出来ませんでした。そのまま喪に服する期間にあたり、兵士を動かさず。このようなわけで、休止せざるを得ず、いまだに戦いに勝つことが出来ないでいます。今に至って、武器を整え兵を訓練して、父・兄の志しを果たしたいと欲しています。義士も勇士も文官も武官も力を発揮して、敵と刃を交えようともおのれを顧み怯むことなどありません。もし皇帝の徳を以て援護していただけたら、この強敵を打ち破ることも、また我が地の乱れを収めることも、今までの功績に見劣りすることなどはないでしょう。ひそかに自ら開府儀同三司の任を負わせ、その他の部下・諸将にもみな許し授けていただければ、もって忠節を勧むでしょう。」と。詔を下して、武王を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命した。

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 今日は、飛鳥時代の604年(推古天皇12)に、日本最初の成文法とされる「十七条憲法」が出された日ですが、新暦では5月6日となります。
 十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)は、聖徳太子(厩戸皇子)が作ったとされる、17ヶ条からなる条文で、『日本書紀』第22巻の推古12年(604)4月戊辰(4月3日)条に「皇太子親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条を作る」と書かれていました。その内容は、法典というより道徳律で、当時の朝廷に仕える諸氏族などの人々に対し、守るべき態度・行為の規範を示した官人服務規定ともいうべきものとされています。
 仏教思想を基調とし、儒家・法家の思想の影響が強く、天皇を中心とする中央集権的国家建設を目指すもので、大化改新の政治的理念となりました。後世の法典編纂の上に大きな影響を与え、『御成敗式目』、『建武式目』、『朝倉孝景条々』などには形式上及び内容上に多くの影響を与えているとされます。
 以下に、『日本書紀』第22巻の推古天皇12年条の「十七条憲法」の記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』第22巻 推古天皇12年条の「十七条憲法」の記述

<原文>

夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。
 一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。
 二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能敎従之。其不歸三寶、何以直枉。
 三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、萬気得通。地欲天覆、則至懐耳。是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。
 四曰、群卿百寮、以禮爲本。其治民之本、要在禮乎、上不禮、而下非齊。下無禮、以必有罪。是以、群臣禮有、位次不亂。百姓有禮、國家自治。
 五曰、絶饗棄欲、明辨訴訟。其百姓之訟、一百千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利爲常、見賄廳讞。便有財之訟、如右投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。
 六曰、懲惡勸善、古之良典。是以无匿人善、見-悪必匡。其諂詐者、則爲覆二國家之利器、爲絶人民之鋒劔。亦佞媚者、對上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大亂之本也。
 七曰、人各有任。掌宜-不濫。其賢哲任官、頌音則起。姧者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久、社禝勿危。故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。
 八曰、群卿百寮、早朝晏退。公事靡盬。終日難盡。是以、遲朝不逮于急。早退必事不盡。
 九曰、信是義本。毎事有信。其善悪成敗、要在于信。群臣共信、何事不成。群臣无信、萬事悉敗。
 十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。、我獨雖得、從衆同擧。
 十一曰、明察功過、賞罰必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿、宜明賞罰。
 十二曰、國司國造、勿収斂百姓。國非二君。民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。
 十三曰、諸任官者、同知職掌。或病或使、有闕於事。然得知之日、和如曾識。其以非與聞。勿防公務。
 十四曰、群臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、々亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。所以、智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治國。
 十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同、非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。
 十六曰、使民以時、古之良典。故冬月有間、以可使民。從春至秋、農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。
 十七曰、夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故與衆相辮、辭則得理。

     『日本書紀』第二十二巻 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇十二年

<読み下し文>

夏四月丙寅の朔戊辰、皇太子[1]親ら肇めて憲法十七条を作りたまふ。

一に曰はく、和を以て貴しと為し[2]、忤ふること[3]無きを宗と為す[4]。人皆党有りて[5]、亦達者少し[6]。是を以て或は君父に順はずして、乍た隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論ふに諧へば[7]、則ち事理自ら通ふ[8]、何事か成らざらむ。

二に曰はく、篤く三宝[9]を敬へ。三宝[9]は仏法僧なり。則ち四生[10]の終帰[11]、万国の極宗なり[12]。何の世、何の人か是の法を貴ばざる。人尤だ悪しきもの鮮なし。能く教ふるをもて従ふ。其れ三宝[9]に帰せずんば、何を以てか枉れるを直さむ。

三に曰はく、詔を承けては必ず謹め[13]。君をば天とす。臣をば地とす。天覆ひ地載す。四時[14]順り行き、方気通ふを得。地天を覆と欲するときは、則ち壊れを致さむのみ。是を以て君言ふときは臣承る。上行へば下靡く。故に詔を承けては必ず慎め。謹まざれば自らに敗れむ。

四に曰はく、群卿百寮[15]、礼を以て本と為よ。其れ民を治むる本は、要は礼に在り。上礼無きときは下斉らず。下礼無きときは以て必ず罪有り。是を以て群臣礼有るときは、位の次て乱れず。百姓[16]礼有るときは、国家自ら治まる。

五に曰はく、饗を絶ち、欲を棄て、明に訴訟を弁へよ。其れ百姓[16]の訟は一日に千事あり。一日すら尚爾り。況んや歳を累ぬるをや。須らく訟を治むべき者、利を得て常と為し、賄なひを見て讞を聴さば、便ち財有るものの訟は、石をもて水に投ぐるが如し。乏しき者の訟は、水をもて石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき民、則ち所由を知らず。臣道亦焉に於て闕けむ。

六に曰はく、悪を懲し善を勧むるは、古の良き典なり。是を以て人の善を慝すこと無く、悪を見ては必ず匡せ。若し諂ひ詐いつはる者は、則ち国家を覆すの利器たり。人民を絶つ鋒剣たり。亦侫媚者[17]は、上に対ひては則ち好みて下の過を説き、下に逢ては則ち上の失を誹謗る。其れ如此の人は、皆君に忠无く民に仁無し。是れ大きなる乱の本なり。

七に曰はく、人各任掌ること有り。宜しく濫れざるべし。其れ賢哲[18]官に任すときは、頌音[19]則ち起り、奸者[20]官を有つときは、禍乱[21]則ち繁し。世に生れながら知ること少けれども、尅く念ひて聖を作せ。事大小と無く、人を得て必ず治む。時急緩と無く、賢に遇ひて自ら寛なり。此に因て国家永久、社稷[22]危きこと無し。故れ古の聖王、官の為に以て人を求む、人の為に官を求めたまはず。

八に曰はく、群卿百寮[15]、早く朝り晏く退でよ。公事監靡く、終日にも尽し難し。是を以て遅く朝れば急に逮ばず。早く退れば必ず事尽さず。

九に曰はく、信は是れ義の本[23]なり。事毎に信有れ。若し善悪成敗[24]、要は信に在り。君臣共に信あるときは何事か成らざらむ。群臣信无くは、萬事悉に敗れむ[25]。

十に曰はく、忿を絶ち[26]瞋を棄て[27]、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各執ること有り。彼是なれば吾は非なり、我是なれば則ち彼非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ。是非の理、誰か能く定む可き。相共に賢愚、鐶の端无きが如し。是を以て彼の人は瞋ると雖も、還て我が失を恐る。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同く挙へ。

十一に曰はく、功過[28]を明察[29]にして、賞罰必ず当てよ。日者、賞功に在らず、罰罰に在らず。事を執れる群卿、宜しく賞罰を明にすべし。

十二に曰はく、国司[30]国造、百姓[16]に歛ること勿れ[31]、国に二君非く、民に両主無し、率土[32]の兆民[33]、王[34]を以て主と為す。所任官司は皆是れ王臣なり。何ぞ敢て公と与に百姓[16]に賦斂らむ。

十三に曰はく、諸の任官者、同じく職掌[35]を知れ。或は病し或は使して、事に闕ることあり。然れども知るを得ての日には、和ふこと曾より識るが如くせよ。其れ与り聞くに非ざるを以て、公務を防ぐること勿れ。

十四に曰はく、群卿百寮[15]、嫉み妬むこと有る無れ。我既に人を嫉めば、人亦我を嫉む。嫉妬の患、其の極りを知らず。所以に智己れに勝れば、則ち悦ばず。才己れに優れば、則ち嫉妬む。是を以て五百にして乃ち賢に遇はしむれども、千載[36]にして以て一聖を待つこと難し。其れ聖賢を得ざれば、何を以てか国を治めむ。

十五に曰はく、私を背いて公に向く[37]は、是れ臣の道なり。凡そ夫人私有れば必ず恨有り、憾有れば必ず同らず。同らざれば則ち私を以て公を妨ぐ。憾起れば則ち制に違ひ法を害る。故に初の章に云へり、上下和諧れと。其れ亦是の情なる歟。

十六に曰はく、民を使ふに時を以てする[38]は古の良典なり。故れ冬の月[39]には間有り、以て民を使ふ可し。春従り秋に至つては、農桑[40]の節なり、民を使ふ可らず。其れ農らずば何を以てか食はむ。桑ひせずば何をか服む。

十七に曰はく、夫れ事は独り断む可らず。必ず衆と与に宜しく論ふべし。少事は是れ軽し、必ずしも衆とす可らず。唯大事を論はんに逮びては、若し失有らんことを疑ふ。故に衆と与に相弁ふるときは、辞則ち理を得。

【注釈】

[1]皇太子:こうたいし=聖徳太子(厩戸皇子)を指すとされる。
[2]和を以て貴しと為し:わをもってとうとしとなす=『礼記』や『論語』からの引用。
[3]忤ふること:さかふること=逆らったり、背いたり、争ったりすること。
[4]無きを宗と為す:なきをむねとなす=『礼記』儒行や『論語』学而に基づいている。
[5]人皆党有りて:ひとみなたむらありて=世間では徒党を組みたがるものだが。
[6]達者少し:さとるひとすくなし=『春秋左氏伝』僖公による。
[7]事を論ふに諧へば:ことをあげつらふにかなへば=意見を述べあうこと。
[8]事理自ら通ふ:ことわりおのづからかよふ=道理が自然に通ずる。
[9]三宝:さんぼう=仏・法・僧のことで、仏教を表す。
[10]四生:ししょう=『法華経』にみえる胎生・卵生・湿生・化生の称で、すべての生物のこと。
[11]終帰:しゅうき=最終的なよりどころ。帰結点。
[12]万国の極宗なり:よろずのくにのきわめのむねなり=すべての国々に共通する最も優れた教え。
[13]必ず謹め:かならずつつしめ=必ず心服しなさい。
[14]四時:よつのとき=春夏秋冬の四季。
[15]群卿百寮:まえつきみたちつかさつかさ=朝廷の身分の高い役人。
[16]百姓:おおみたから=班田農民・地方豪族・官人貴族などの人々。庶民。
[17]侫媚者:かだみこぶるひと=こびへつらう者。おべっか者。〔
[18]賢哲:けんてつ/さかしひと=賢人と哲人。かしこくて、物事の道理に通じていること。また、そういう人や、そのさま。
[19]頌音:しょうおん/ほむるこえ=ほめたたえる声。頌栄。
[20]奸者:かんじゃ/かだましきひと=心の正しくない人。悪い人。
[21]禍乱:からん/わざわいみだれ=世の乱れや騒動。
[22]社稷:しゃしょく/くに=天下の土地を祭る国家的祭祀のことで、国家の代名詞。
[23]義の本:ことわりのもと=人として行うべき道。
[24]成敗:せいはい/なりならぬこと=成功と失敗。
[25]萬事悉に敗れむ:よろずのことことごとくにやぶれむ=すべてが失敗する。
[26]忿を絶ち:こころのいかりをたち=心の怒りをなくし。
[27]瞋を棄て:おもえりのいかりをすてて=憤りの表情を棄て。
[28]功過:いさみあやまり=てがらとあやまち。功罪。
[29]明察:あきらかにみて=はっきりと真相や事態を見抜くこと。
[30]国司:くにのみこともち=大化の改新以前に国司はなかったので、編纂時の改竄ともされる。
[31]歛ること勿れ:おさむろことなかれ=恣意に徴税してはならない。
[32]率土:くにのうち=陸地の続くかぎり。国の果て。国土。
[33]兆民:おおみたから=たくさんの人民。万民。
[34]王:きみ=天皇の事。
[35]職掌:つかさこと=担当の職務、また役目。また、その担当者。
[36]千載:ちとせ=千年。長い年月。
[37]私を背いて公に向く:わたくしをそむきておおやけにおもむく=私欲を捨てて、国家の利益をはかる。
[38]時を以てする:ときをもってする=時期をよく考える、ここでは農閑期を指す。
[39]冬の月:ふゆのつき=10月から12月。
[40]農桑:なりわいこかい=農耕と養蚕。

<現代語訳>

夏4月3日に、皇太子は自らはじめて憲法十七条を作った。

一にいう、和を大切にし、人と争うことがないように心がけよ。世間では徒党を組みたがるものだが、世の道理がわかっている者は決して多くはない。従って、あるいは君主や親に従わなかったり、また近隣の人々と仲たがいしたりする。しかし、上が和ぎ下が睦みあえば、意見を述べあうこと、すなわち道理が自然に通じて、何事もうまくいくものであろう。

二にいう、篤く仏教を敬へ。三宝は仏・法・僧のことである。すなわちすべての生物の最終的なよりどころであり、すべての国々に共通する最も優れた教えである。どの時代、どの人がこの教えを貴ばないでおられるだろうか、いやおられない。心底からの悪人は稀であり、よく教えれば従うものである。それ仏教に帰依しないならば、どうしてゆがんだ心を正せるだろうか。

三にいう、天皇の命を受けたらしっかりと従いなさい。天皇は天、臣下は地のようなものだ。天が万物を覆い、地が万物を載せている。四季が順調に移ろい、万物の霊気が通うことが出来る。地が天を覆おうとするなら、すなわち秩序が破壊されるばかりである。ここをもって、君主の言に臣下は必ず承服する。上の者が行えば下の者が従うものである。従って、詔を承けたならば必ず従え。従わなければ、自ら滅んでしまうであろう。

四にいう、朝廷の身分の高い役人は、礼を根本とせよ。それ民を治むる根本は礼にある。上の者に礼が無きときは下の者の秩序も整わず。下の者に礼無きときは必ず犯罪が起きる。こだからこそ、群臣に礼が有るときは、序列が乱れず。庶民に礼が有るときは、国家は自然と治まるものであろう。

五にいう、饗応を絶ち、物欲を棄て、公明に訴訟を裁きなさい。それ庶民の訴えは一日に千件もある。一日でもそうならば、月日を重ねればなおさらのことだ。近頃訴訟に携わる者は、私利を得るのを常として、賄賂を見て申し立てを聴いているようだ、すなわち財力の有る者の訴えは、石を水に投げ込むように必ず聞き届けられるが、貧しい者の訴えは、水を石げかけるがごとく手ごたえがないものとなっている。これでは貧しき者は、どうしてよいかわからず。臣としての道に背くこととなるだろう。

六にいう、悪を懲らしめ、善を勧めるのは、昔からの良き教えである。従って、人の善行は隠すことなく周知させ、悪行を見たならば必ず正さなければならない。もし、こびへつらい欺く者があれば、すなわち国家を覆す利器ともなり、人民を滅ぼす鋭い剣ともなる。また、こびへつらう者は、上の者に対しては、すなわち好みて下の者の過失を唱え、下の者に向かってはすなわち上の者の過失を誹謗するものである。このような人は、みな天皇に忠義がなく、人民には仁がないものである。これは大きな乱れの元となろう。

七にいう、人にはそれぞれの任務があり、その職掌を守り、濫用しないようにせよ。物事の道理に通じている者が官に任是られているときは、ほめたたえる声が起り、心の正しくない者が官に有るときは、世の乱れや騒動が繁しくなる。世間には生れながらにして物事をわきまえている人は少ないけれども、よく思慮を働かせ、聖人となるのだ。事の大小に関係無く、適材を得て必ず治められる。時の流れに関係なく、賢人が出出現すれば自ら寛容な世となる。これによって国家は永久で、国家が危いことはない。よって、昔の聖王は、官のために適材の人を求めたのであり、人のために官を求めたりはしなかった。

八にいう、朝廷の身分の高い役人は、朝早くから出仕し、遅くに退出するようにせよ。公務は揺るがせに出来ないものであり、一日中務めても、すべて終えることは難しい。従って、遅く出仕したのでは緊急の用事に間に合わないし、早く退出したのでは必ず仕事を残してしまうであろう。

九にいう、信はこれ人として行うべき道である。事毎に信有れ。事のよしあし、成功と失敗の要点は信にかかっている。群臣が共に信あるときはどのようなことでも成功するだろう。群臣に信がなければ、すべてが失敗するであろう。

十にいう、心の怒りをなくし、憤りの表情を棄て、他の人が違うことを怒らないようにせよ。人にはみな心がある。心にはそれぞれの思慮することが有る。相手が是としても自分が非のときがあり、自分が是としても、相手が非のときもある。自分は必ずしも聖人ではなく、相手も必ずしも愚というわけではない。ともにこれ凡人なのだ。これが良いとか悪いとか、だれが定め得るのだろう。お互いに賢くもあり愚かでもあり、それは耳輪には端がないようなものである。従って、相手が怒ったら、むしろ自分が過失を犯しているのではないかと恐れなさい。自分はこれが正しいと思っても、衆人の意見を尊重し、一緒に行動した方が良いであろう。

十一にいう、功罪をはっきりと見抜いて、賞罰を必ず行わなければならない。近頃、賞と功が一致せず、罰と罰も一致しないことが良くある。政務にたずさわる群卿は、賞罰を適正、明確に行うべきであろう。

十二にいう、国司や国造は、庶民に対し恣意に徴税してはならない。国に二人の君主はなく、民に二人の主はいない。国土のたくさんの人民は、天皇を以て主人としている。国政を任せられている官司の人々は、みな天皇の臣なのである。どうして国家と並んで庶民から徴税することが許されるものであろうか。

十三にいう、諸々の任官している者は、その担当の職務を熟知せよ。あるいは病気になり、あるいは使いに出て、執務できないこともある。しかし、政務を執れる時にはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。そのようなことに自分は関知しないといって、公務を妨げるようなことがあってはならない。

十四にいう、朝廷の身分の高い役人は、恨んだり妬んだりしてはならない。自分が人に嫉妬すれば、人もまた自分を嫉妬するものである。嫉妬の憂いは際限がない。従って、英知が自分より勝れば、すなわち悦ばず。才能が自分に優れば、すなわち嫉妬する。それでは、500年を経て賢人に出会うことも、千年を経て一人の聖人が現れることも難しいだろう。賢人や聖人を得なくては、どうして国を治めることができようか。

十五にいう、私欲を捨てて、国家の利益をはかることは、これ臣たる者の道である。およそ人というものは私心が有れば必ず恨みを買うものであり、恨みが有れば必ず不和が生じる。不和が生じればすなわち私心をもって公務を妨げることになる。恨みの気持ちが起これば制に反し、法を犯すことになる。従って、一の章で、「上下の人々が相和し協調するようと。」述べたのもこの思いからである。

十六にいう、民を使役するのは農閑期とするは、昔からの良い教えである。従って、冬の月(10~12月)に余暇が有れば、民を使役するべきである。春から秋にかけては、農耕と養蚕の季節であり、民を使役してはならない。農耕をしなかったならば何を食べたらよいのか。養蚕をしなかったならば何を着ればよいのか。

十七にいう、物事は独断で決めてはならない。必ずみなと共に論じ合うようにすべきである。些細なことは必ずしも皆にはからなくてもよい。ただ大事の場合は、独断では誤った判断をするかも知れない。従って、人々と共に議論するときは、道理にかなった方法を見出すことができるであろう。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1673年(寛文13)日本黄檗宗の開祖隠元隆琦の命日(新暦5月19日)詳細
1881年(明治14)洋画家児島虎次郎の誕生日詳細
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 今日は、奈良時代の735年(天平7)に、皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王が亡くなった日ですが、新暦では12月2日となります。
 舎人親王(とねりしんのう)は、飛鳥時代の676年(天武天皇5)に、飛鳥(現在の奈良県)で、天武天皇の第3皇子(母は天智天皇の娘新田部皇女)として生まれました。695年(持統天皇9)に浄広弐に叙せられ、701年(大宝元年)には、大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品に叙せられます。
 718年(養老2)に一品に叙せられ、翌年には元正天皇の詔によって、皇太子の補佐役となり、内舎人2人・大舎人4人・衛士30人を賜与、封800戸を加えられ、計2,000戸となりました。720年(養老4)に、かねてから勅命を受けて太安万侶らとともに編修した『日本書紀』30巻、系図1巻を完成させて奏上しています。
 720年(養老4)に藤原不比等(ふひと)がなくなると、知太政官事となって政務を総覧し、724年(神亀元年)には、聖武天皇の即位に際し、封500戸を加えられました。729年(神亀6)の長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問して自害させ、また、藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べています。
 しかし、735年(天平7年11月14日)に奈良平城京において、数え年60歳で亡くなり、太政大臣を贈られました。歌人としても知られ、後に編纂された『万葉集』に短歌3首入集しています。
 尚、子の大炊王が淳仁天皇となったので、759年(天平宝字3)に崇道尽敬皇帝の称が追号されました。

<代表的な歌>

・「大夫(ますらを)や 片恋ひせむと 嘆けども 鬼(しこ)の大夫 なほ恋ひにけり」 (万葉集)
・「ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手の 高屋の上に たなびくまでに」 (万葉集)
・「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰」 (万葉集)

〇舎人親王関係略年表(日付は旧暦です)

・676年(天武天皇5年) 飛鳥において、天武天皇の第3皇子(母は天智天皇の娘新田部皇女)として生まれる
・695年(持統天皇9年1月5日) 浄広弐に叙せられる
・701年(大宝元年) 大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品に叙せられる
・704年(大宝4年1月11日) 封200戸を加えられる
・714年(和銅7年1月3日) 封200戸を加えられる
・718年(養老2年1月5日) 一品に叙せられる
・719年(養老3年) 元正天皇の詔によって、皇太子の補佐役となる
・719年(養老3年) 内舎人2人・大舎人4人・衛士30人を賜与、封800戸を加えられる(計2,000戸となる)
・720年(養老4年5月) 勅命を受けて太安万侶らとともに編修した『日本書紀』30巻、系図1巻を完成させて奏上する
・720年(養老4年8月4日) 知太政官事となって政務を総覧する
・724年(神亀元年) 聖武天皇の即位に際し、封500戸を加えられる
・729年(神亀6年2月) 長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問し、自害させる
・729年(神亀6年8月) 藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べる
・735年(天平7年11月14日) 奈良平城京において、数え年60歳で亡くなり、太政大臣を贈られる
・759年(天平宝字3年6月16日) 淳仁天皇より、崇道尽敬皇帝を追号される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事) 

1971年(昭和46)言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日詳細
1973年(昭和48)関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する詳細


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 今日は、飛鳥時代の684年(天武天皇13)に、「八色の姓(やくさのかばね)」を制定した日ですが、新暦では11月13日となります。
 八色の姓(やくさのかばね)は、天武天皇が制定した姓制度で、「はっしきのせい」、「はっしきのかばね」とも呼ばれてきました。従来の姓制度を改めて、新たに①真人(まひと)、②朝臣(あそみ)、③宿禰(すくね)、④忌寸(いみき)、⑤道師(みちのし)、⑥臣(おみ)、⑦連(むらじ)、⑧稲置(いなき)の順に、八姓(はっせい)を定め、家格の尊卑を明らかにすると同時に氏族を朝廷の統制のもとにおこうとしものです。
 皇室との親疎や政界での地位を規準に、継体朝以後の天皇を祖とする公姓の豪族に真人、皇別の諸氏に朝臣、臣・連姓の有力氏族に宿禰、帰化系氏族に忌寸、技芸を世襲する氏族に道師、宿禰にもれた旧来の臣・連姓の氏族に臣と連、もとの稲置姓の氏族に稲置をそれぞれ与えられたとされますが、道師は実例がなくはっきりしていません。
 以下に、『日本書紀』巻第29の天武天皇13年の条に載っている、「八色の姓」制定の部分を掲載(現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』巻第29で姓を与えたことが確認できる記事

・683年(天武12年9月23日) 倭直など38氏に連の姓を授ける。
・684年(天武13年10月1日) 守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・息長公・羽田公・酒人公・山道公の13氏に真人の姓を授ける。
・684年(天武13年11月1日) 大三輪君など52氏に朝臣の姓を授ける。
・684年(天武13年12月2日) 大伴連など50氏に宿禰の姓を授ける。
・685年(天武14年6月20日) 大和連など11氏に忌寸の姓を授ける。

〇『日本書紀』巻第29 天武天皇13年の条

<原文>

 冬十月己卯朔、詔曰、更改諸氏之族姓、作八色之姓、以混天下萬姓。一曰眞人、二曰朝臣、三曰宿禰、四曰忌寸、五曰道師、六曰臣、七曰連、八曰稻置。是日、守山公・路公・高橋公・三国公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公、十三氏賜姓曰眞人。

<読み下し文>

 冬十月己卯朔、詔して日く、「また諸の氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混す。一に日く、真人、二に日く、朝臣、三に日く、宿禰、四に日く、忌寸、五に日く、道師、六に日く、臣、七に日く、連、八に日く、稲置」。是の日に、守山公・路公・高橋公・三国公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公、十三氏に姓を賜ひて真人と日う。

<現代語訳>

 冬10月1日。(天武天皇は)詔の中で次のように言いました。「さらに諸々の氏族の族姓(かばね)を改めて、八色の姓を作って、天下のすべての姓を統一する。一番目は真人(まひと)、二番目は朝臣(あそみ)、三番目は宿禰(すくね)、四番目は忌寸(いみき)、五番目は道師(みちのし)、六番目は臣(おみ)、七番目は連(むらじ)、八番目は稲置(いなぎ)」。この日に、守山公(もりやまのきみ)・路公(みちのきみ)・高橋公(たかはしのきみ)・三国公(みくにのきみ)・当麻公(たきまのきみ)・茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たじひのきみ)・猪名公(いなのきみ)・坂田公(さかたのきみ)・羽田公(はたのきみ)・息長公(いきながのきみ)・酒人公(さかひとのきみ)・山道公(やまじのきみ)の13氏に姓を与えて真人と言うようになりました。

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