ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本少国民文化協会

shyoukokuminbunka01
 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、東京市・九段の軍人会館で、日本少国民文化協会の設立総会が行われた日です。
 日本少国民文化協会(にほんしょうこくみんぶんかきょうかい)は、児童文化を統制・指導し、その分野での国策協力を進めるために、少年文化団体を一元化したものでした。その目的は、「皇国ノ道ニ則リ国民文化ノ基礎タル日本少国民文化ヲ確立シ以テ皇国民ノ錬成ニ資ス」とされ、同年1月の大日本青年団の設立、4月からの国民学校開始と深く関係しています。
 1937年(昭和12)に日中戦争が勃発するなかで、翌年4月1日に「国家総動員法」が公布され、同年10月には、児童文学、心理児童学、教育学等の分野を代表する専門家たちの協力のもと、内務省警保局図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を通達しました。1940年(昭和15)9月30日に、官民合同発起による「児童文化新体制懇談会」が開かれ、文学、演劇、紙芝居、出版、映画など、少国民文化各分野の関係者30数名が官民合同の強力な指導機関の設置を熱心に要望し、12月24日には、大政翼賛会文化部の斡旋による官民合同の児童文化懇談会である「日本児童文化協会(仮称)設立準備懇談会」が開催されます。
 1941年(昭和16)6月に「日本児童文化協会要綱」が最終的に決定されましたが、創立準備委員会の中で「児童」という言葉から「小国民」に変更されました。同年12月23日に九段の軍人会館で「日本少国民文化協会」の設立総会が行われ、創立発起人等の官民関係者300数名が靖国の神前で少国民文化の改善、向上、確立のために挺身することを誓い、12月30日には社団法人設立の認可を受けます。
 そして、翌年2月11日の建国記念日に東条英機首相や谷正政之情報局総裁隣席のもと、情報局講堂において発会式が行われ、文学、舞踊、音楽、レコードの四部会共同作なる『日本のあしおと』が京橋区昭和国民学校児童の唱歌、石川漠門下の舞踊で発表されました。山本有三、城戸幡太郎、小川未明、百田宗治、波多野完治、阪本越郎、佐伯郁郎、北原白秋など著名な児童文化関係者が300名以上集まり、文学部会 (詩、童謡、童話文学、少年文学、科学読物、歴史、地理読物、翻訳文学、評論)。絵画部会(挿絵、動画、漫画、特殊研究会)、童話部会、玩具部会(玩具、人形類、節句品)、生活用品部会、紙芝居部会 (街頭紙芝居、教育紙芝居)、舞踊部会、音楽部会、出版部会、演劇部会(専門劇、学校劇、人形劇)、映画部会、畜音器、レコード部会の12部会に分かれて活動を展開します。
 東京・銀座三越6階に構えた事務所を拠点に、6月より機関誌『少国民文化』を発刊、11月より月刊の「協会報」が出されました。1943年(昭和18)6月に、「必勝18年の新方針、新事業」が講じられ、母の錬成、作家の錬成、海事思想の普及、航空思想、科学技術思想、健兵、強兵思想普及、愛国子守歌の制定が行われ、9月8日には、「協会が真に決戦に即応する少国民文化の士気高揚指導に目的事業の方向を凝集せしめる」ため、定款の変更が行われています。
 しかし、戦局の悪化に伴って活動も停滞気味となり、1944年(昭和19)3月に月刊の「協会報」が、12月には機関誌『少国民文化』が終刊となり、銀座の事務所も空襲で焼け、1945年(昭和20)2月以降は本郷の民家に移転しました。そして、太平洋戦争後の1945年(昭和20)10月頃に一片の声明も出さずに解散、12月には新聞に解散公告が掲載されて幕を閉じます。

〇日本少国民文化協会関係略年表

<1937年(昭和12)>
・7月 日中戦争が勃発する
・9月 国民精神総動員運動が開始される

<1938年(昭和13)>
・4月1日 「国家総動員法」が公布される
・10月 児童文学、心理児童学、教育学等の分野を代表する専門家たちの協力のもと、内務省警保局図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を通達する

<1940年(昭和15)>
・2月 有光社の季刊の綜合理論誌『新児童文化』が創刊される
・9月30日 官民合同発起による「児童文化新体制懇談会」が開かれ、文学、演劇、紙芝居、出版、映画など、少国民文化各分野の関係者30数名が官民合同の強力な指導機関の設置を熱心に要望する
・12月24日 大政翼賛会文化部の斡旋による官民合同の児童文化懇談会である「日本児童文化協会(仮称)設立準備懇談会」が開催される

<1941年(昭和16)>
・3月 日本児童文化協会設立の仕事の一切が情報局に移される
・6月 「日本児童文化協会要綱」の最終的な決定を見る
・8月1日 情報局講堂で日本児童文化協会設立連絡会が開催され、500数名の出席者が見守る中、事実上、協会が誕生する
・8月18日 第一回の創立準備委員会で児童という言葉が一般社会の通用語となっておらず、協会の性格を規定する上からも上田課長は「児童」の名称に異を唱え、協会の名称として他に適当のものを選定したいとする
・12月23日 九段の軍人会館で「日本少国民文化協会」の設立総会が行われ、創立発起人等の官民関係者300数名が靖国の神前で少国民文化の改善、向上、確立のために挺身することを誓う
・12月30日 社団法人設立の認可を受ける

<1942年(昭和17)>
・2月11日 建国記念日に東条英機首相や谷正政之情報局総裁隣席のもと、情報局講堂にて発会式が行われる
・2月17日 銀座三越6階に構えた事務所を拠点に、本格的に活動を始動する
・3月 少国民文化宣揚講演会(少文協主催)が開催される
・3月 誉の家の「ヨイコ」表彰式(市銃後奉公会総合会主催)が開催される
・3月 大東亜戦争と少国民展覧会(少文協主催)が開催される
・4月 少年保護記念展(少文協、司法保護協会主催)が開催される
・4月 少国民向き良い本の選び方展覧会(文学・出版・絵本の三部会の協力)が開催される
・5月 第二回少国民海洋畫展(日本海運報国団、日本海事振興会、少文協、少国民新聞主催)が開催される
・6月  少文協の機関誌『少国民文化』が発刊される
・7月 海の少国民大会が開催される
・7月 軍人援護精神昂揚の綴り方募集が行われる
・9月 『少国民進軍歌』(少文協、軍事保護院)が出される
・10月 軍人援護少国民文化大会(少文協、軍事保護院、軍人援護会主催)が開催される
・11月 月刊の「協会報」が発刊される
・11月 全国少国民ミンナウタヘ大会(少文協、日本放送協会主催/情報局、文部省後援)が開催される
・12月 大詔奉戴一周年記念大東亜少国民大会(東京朝日新聞社、東京府、市、大日本興亜同盟、少文協主催)が開催される
・12月 「少国民ちかひの大会」(少文協、朝日新聞社主催)が開催される

<1943年(昭和18)>
・2月 少国民演劇脚本募集が行われる
・2月 紙芝居企画審査が行われる
・2月 戦時下の玩具与へ方展覧会(東京)(少文協主催)が開催される
・3月 生産増強に小戦士を送る大会 少文協、東京府、市、産報、東京産報、大政翼賛会主催)が開催される
・5月 「愛国イロハカルタ」の公募・選定が行われる
・5月 少文協文学部会の機関誌『少国民文学』が創刊される
・5月7日 この日付けの一文で、理事長小野俊一は、協会が必ずしも所期の目的達成のために円滑に運営されていない現実を受け止め、協会の本質が文化統制機関、国民運動的翼賛団体、あるいはその両者を兼ねるものなのか再確認することが必要との所感を示す
・6月 「少国民海の歌」がつくられる
・6月 「必勝18年の新方針、新事業」が講じられ、母の錬成、作家の錬成、海事思想の普及、航空思想、科学技術思想、健兵、強兵思想普及、愛国子守歌の制定が行われる
・7月 海行く少国民大会(船舶運営会、日本海運協会、毎日新聞社、少文協主催)が開催される
・7月 軍人援護紙芝居競演会が行われる
・7月 海洋少国民劇幻燈脚本当選者が発表される
・8月 軍人援護紙芝居入選作品披露会が開催される
・8月 鉱山戦士慰問作品(少文協、鉱山統制会主催)が選定される
・9月8日 「協会が真に決戦に即応する少国民文化の士気高揚指導に目的事業の方向を凝集せしめる」ため、定款の変更が行われる
・9月 少国民海の展覧会(少文協主催)が開催される
・11月 第二回大東亜少国民ミンナウタヘ大会が開催される
・12月 軍人慰問帖展示会が開催される
・12月 少国民文化報国挺身隊の結成式が開催される

<1944年(昭和19)>
・1月 「愛国子守歌」(少文協、大日本婦人会、朝日新聞社主催)が募集される
・2月 幼児科学玩具の募集が行われる
・2月 大東亜少国民結集大会(少文協主催)が開催される
・3月 月刊の「協会報」が終刊となる
・3月 少国民総進軍大会(少文協主催)が開催される
・5月 少国民海軍大会(少文協、海軍協会東京都支部主催)が開催される
・6月 文化財展示実演会(空襲挺身活動用)が開催される
・7月 「少国民海洋絵画」(少文協、船舶運営会、日本海運協会、大日本海洋連盟共同主催)が公募される
・9月 少国民歌の歌詞募集が行われる
・10月 少国民絵画普及常設展が開催される
・11月 愛国子守歌発表会が開催される
・空襲が激しくなると、少文協は学童集団疎開の慰問派遣センターとしての役割を担うようになる
・12月 少文協の機関誌『少国民文化』が終刊となる

<1945年(昭和20)>
・2月以降 事務所が爆撃で焼け、持ち主が空き家になっていた本郷の民家に移転する
・10月頃 一片の声明も出さずに解散する
・12月 新聞に解散公告が掲載され、少文協は3年の歴史に幕を閉じる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1613年(慶長18)徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布される(新暦1614年2月1日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1912年(大正元)北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)で爆発事故が起こり、死者216人、負傷者13人を出す詳細
1942年(昭和17)大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が結成される詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
2008年(平成20)小説家早乙女貢の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1942年(昭和17)に、東条英機首相臨席のもと、日本少国民文化協会の発会式が、東京の情報局講堂で行われた日です。
 日本少国民文化協会(にほんしょうこくみんぶんかきょうかい)は、児童文化を統制・指導し、その分野での国策協力を進めるために、少年文化団体を一元化したものでした。その目的は、「皇国ノ道ニ則リ国民文化ノ基礎タル日本少国民文化ヲ確立シ以テ皇国民ノ錬成ニ資ス」とされ、同年1月の大日本青年団の設立、4月からの国民学校開始と深く関係しています。
 1937年(昭和12)に日中戦争が勃発するなかで、翌年4月1日に「国家総動員法」が公布され、同年10月には、児童文学、心理児童学、教育学等の分野を代表する専門家たちの協力のもと、内務省警保局図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を通達しました。1940年(昭和15)9月30日に、官民合同発起による「児童文化新体制懇談会」が開かれ、文学、演劇、紙芝居、出版、映画など、少国民文化各分野の関係者30数名が官民合同の強力な指導機関の設置を熱心に要望し、12月24日には、大政翼賛会文化部の斡旋による官民合同の児童文化懇談会である「日本児童文化協会(仮称)設立準備懇談会」が開催されます。
 1941年(昭和16)6月に「日本児童文化協会要綱」が最終的に決定されましたが、創立準備委員会の中で「児童」という言葉から「小国民」に変更されました。同年12月23日に九段の軍人会館で「日本少国民文化協会」の設立総会が行われ、創立発起人等の官民関係者300数名が靖国の神前で少国民文化の改善、向上、確立のために挺身することを誓い、12月30日には社団法人設立の認可を受けます。
 そして、翌年2月11日の建国記念日に東条英機首相や谷正政之情報局総裁隣席のもと、情報局講堂において発会式が行われ、文学、舞踊、音楽、レコードの四部会共同作なる『日本のあしおと』が京橋区昭和国民学校児童の唱歌、石川漠門下の舞踊で発表されました。山本有三、城戸幡太郎、小川未明、百田宗治、波多野完治、阪本越郎、佐伯郁郎、北原白秋など著名な児童文化関係者が300名以上集まり、文学部会 (詩、童謡、童話文学、少年文学、科学読物、歴史、地理読物、翻訳文学、評論)。絵画部会(挿絵、動画、漫画、特殊研究会)、童話部会、玩具部会(玩具、人形類、節句品)、生活用品部会、紙芝居部会 (街頭紙芝居、教育紙芝居)、舞踊部会、音楽部会、出版部会、演劇部会(専門劇、学校劇、人形劇)、映画部会、畜音器、レコード部会の12部会に分かれて活動を展開します。
 東京・銀座三越6階に構えた事務所を拠点に、6月より機関誌『少国民文化』を発刊、11月より月刊の「協会報」が出されました。1943年(昭和18)6月に、「必勝18年の新方針、新事業」が講じられ、母の錬成、作家の錬成、海事思想の普及、航空思想、科学技術思想、健兵、強兵思想普及、愛国子守歌の制定が行われ、9月8日には、「協会が真に決戦に即応する少国民文化の士気高揚指導に目的事業の方向を凝集せしめる」ため、定款の変更が行われています。
 しかし、戦局の悪化に伴って活動も停滞気味となり、1944年(昭和19)3月に月刊の「協会報」が、12月には機関誌『少国民文化』が終刊となり、銀座の事務所も空襲で焼け、1945年(昭和20)2月以降は本郷の民家に移転しました。そして、太平洋戦争後の1945年(昭和20)10月頃に一片の声明も出さずに解散、12月には新聞に解散公告が掲載されて幕を閉じます。

〇日本少国民文化協会関係略年表

<1937年(昭和12)>
・7月 日中戦争が勃発する
・9月 国民精神総動員運動が開始される

<1938年(昭和13)>
・4月1日 「国家総動員法」が公布される
・10月 児童文学、心理児童学、教育学等の分野を代表する専門家たちの協力のもと、内務省警保局図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を通達する

<1940年(昭和15)>
・2月 有光社の季刊の綜合理論誌『新児童文化』が創刊される
・9月30日 官民合同発起による「児童文化新体制懇談会」が開かれ、文学、演劇、紙芝居、出版、映画など、少国民文化各分野の関係者30数名が官民合同の強力な指導機関の設置を熱心に要望する
・12月24日 大政翼賛会文化部の斡旋による官民合同の児童文化懇談会である「日本児童文化協会(仮称)設立準備懇談会」が開催される

<1941年(昭和16)>
・3月 日本児童文化協会設立の仕事の一切が情報局に移される
・6月 「日本児童文化協会要綱」の最終的な決定を見る
・8月1日 情報局講堂で日本児童文化協会設立連絡会が開催され、500数名の出席者が見守る中、事実上、協会が誕生する
・8月18日 第一回の創立準備委員会で児童という言葉が一般社会の通用語となっておらず、協会の性格を規定する上からも上田課長は「児童」の名称に異を唱え、協会の名称として他に適当のものを選定したいとする
・12月23日 九段の軍人会館で「日本少国民文化協会」の設立総会が行われ、創立発起人等の官民関係者300数名が靖国の神前で少国民文化の改善、向上、確立のために挺身することを誓う
・12月30日 社団法人設立の認可を受ける

<1942年(昭和17)>
・2月11日 建国記念日に東条英機首相や谷正政之情報局総裁隣席のもと、情報局講堂にて発会式が行われる
・2月17日 銀座三越6階に構えた事務所を拠点に、本格的に活動を始動する
・6月  少文協の機関誌『少国民文化』が発刊される
・11月 月刊の「協会報」が発刊される

<1943年(昭和18)>
・5月 少文協文学部会の機関誌『少国民文学』が創刊される
・5月7日 この日付けの一文で、理事長小野俊一は、協会が必ずしも所期の目的達成のために円滑に運営されていない現実を受け止め、協会の本質が文化統制機関、国民運動的翼賛団体、あるいはその両者を兼ねるものなのか再確認することが必要との所感を示す
・6月 「必勝18年の新方針、新事業」が講じられ、母の錬成、作家の錬成、海事思想の普及、航空思想、科学技術思想、健兵、強兵思想普及、愛国子守歌の制定が行われる
・9月8日 「協会が真に決戦に即応する少国民文化の士気高揚指導に目的事業の方向を凝集せしめる」ため、定款の変更が行われる

<1944年(昭和19)>
・3月 月刊の「協会報」が終刊となる
・空襲が激しくなると、少文協は学童集団疎開の慰問派遣センターとしての役割を担うようになる
・12月 少文協の機関誌『少国民文化』が終刊となる

<1945年(昭和20)>
・2月以降 事務所が爆撃で焼け、持ち主が空き家になっていた本郷の民家に移転する
・10月頃 一片の声明も出さずに解散する
・12月 新聞に解散公告が掲載され、少文協は3年の歴史に幕を閉じる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1883年(明治16) 日本画家小林古径の誕生日 詳細
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