ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本学術会議会員

tsudakyousuke01
 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、薬学者・有機化学者津田恭介の生まれた日です。
 津田恭介(つだ きょうすけ)は、台湾・基隆庁基隆(キールン)保仙洞(セントウ)において、父・津田宗助、母・フサの子として生まれました。1917年(大正6)に父の転勤で台北に転居し、1919年(大正8)に台北中学へ入学し、1923年(大正12)に4年で卒業後、旧制浦和高等学校理科乙類に入学します。
 1925年(大正14)に母・フサが亡くなりましたが、1926年(大正15)に東京帝国大学医学部薬学科へ入学し、1929年(昭和4)に卒業後、薬化学教室の無給副手となりました。1930年(昭和5)に薬化学教室の助手に昇格し、1936年(昭和11)に論文「マトリンの構造研究補遺」で、東京大学より薬学博士を得て、翌年には、落合英二との共著『有機微量小量定量分析法』が刊行されます。
 1938年(昭和13)に東京帝国大学助教授に昇格し、1939年(昭和14)に伝染病研究所の長谷川秀治教授の研究室で実験化学療法を学び、1941年(昭和16)には東大薬学と伝研と兼任し、合成と動物実験とを連結してスルホンアミドの研究を行ないました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に父・宗助が亡くなり、1949年(昭和24)にフグ毒の研究を開始、1951年(昭和26)には、九州大学医学部教授となります。
 1954年(昭和29)にノルデヒドロ-α-マトリニジンの合成に成功し、チューリヒ工科大学ルジーチカ教授の下に留学、1955年(昭和30)には、東京大学応用微生物研究所教授・薬学部教授併任となりました。1956年(昭和31)にステロイドの微生物転換に関する研究に取り組み、1957年(昭和32)に日本薬学会学術賞を受賞、1961年(昭和36)頃から、モルフィン塩基の微生物による転換の研究に移り、坦子菌のヒイロタケによる水酸化反応を見出します。
 1963年(昭和38)に日本学術会議会員(~1966年)に選ばれ、1964年(昭和39)には、テトロドトキシンの構造決定に成功し、「フグ毒の単離と化学構造決定」で、朝日文化賞を受賞しました。1965年(昭和40)に東京大学応用微生物研究所研究所所長、東京大学評議員となり、1966年(昭和41)には、「苦蔘(くしん)塩基を中心とする荳科(とうか)アルカロイドの化学的研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1967年(昭和42)に東京大学を定年退官し、共立薬科大学学長(~1984年)に就任、1968年(昭和43)には、国際誌の「テトラヘドロン」、同速報誌のアジア地区編集委員(~1976年)として、編集・審査に取り組みました。1975年(昭和50)に厚生省中央薬事審議会会長(~1981年)、1977年(昭和52)に勲二等旭日重光章を受章、1979年(昭和54)には、宮内庁から依頼されて、宮中の講書始の儀で御進講をします。
 1979年(昭和54)にスイス工科大学の招待によりスイスへ出張、1980年(昭和55)に文化功労者となり、1982年(昭和57)には、文化勲章を受章します。1986年(昭和61)には、ヒューマンサイエンス振興財団会長に就任しましたが、1999年(平成11)6月17日に、東京都において、92歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇津田恭介の主要な著作

・落合英二との共著『有機微量少量分析法』(1937年)
・『植物塩基』
・『薬品合成化学』
・『医薬品合成化学』

☆津田恭介関係略年表

・1907年(明治40)2月10日 台湾・基隆庁基隆(キールン)保仙洞(セントウ)において、父・津田宗助、母・フサの子として生まれる
・1917年(大正6) 父の転勤で台北に転居する
・1919年(大正8) 台北中学へ入学する
・1923年(大正12) 旧制浦和高等学校理科乙類に入学する
・1925年(大正14) 母・フサが亡くなる
・1926年(大正15) 東京帝国大学医学部薬学科へ入学する
・1929年(昭和4) 東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、薬化学教室の無給副手となる
・1930年(昭和5) 東京帝国大学医学部薬化学教室の助手に昇格する
・1936年(昭和11) 論文「マトリンの構造研究補遺」で、東京大学より薬学博士を得る
・1937年(昭和12) 落合、津田共著『有機微量小量定量分析法』(南山堂書店)が刊行される
・1938年(昭和13) 東京帝国大学助教授となる
・1939年(昭和14) 伝染病研究所の長谷川秀治教授の研究室で実験化学療法を学ぶ
・1941年(昭和16) 東大薬学と伝研と兼任し、合成と動物実験とを連結してスルホンアミドの研究を行なう
・1946年(昭和21) 疎開先の福島で、父・宗助が亡くなる
・1949年(昭和24) フグ毒の研究を開始する
・1951年(昭和26) 九州大学医学部教授となる
・1954年(昭和29) ノルデヒドロ-α-マトリニジンの合成に成功し、チューリヒ工科大学ルジーチカ教授の下に留学する
・1955年(昭和30) 東京大学応用微生物研究所教授・薬学部教授併任となる
・1956年(昭和31) ステロイドの微生物転換に関する研究に取り組む
・1957年(昭和32) 日本薬学会学術賞を受賞する
・1961年(昭和36) この頃から、モルフィン塩基の微生物による転換の研究に移り、坦子菌のヒイロタケによる水酸化反応を見出す
・1963年(昭和38) 日本学術会議会員に選ばれる(~1966年)
・1964年(昭和39) テトロドトキシンの構造決定に成功し、「フグ毒の単離と化学構造決定」で、朝日文化賞を受賞する
・1965年(昭和40) 東京大学応用微生物研究所研究所所長、東京大学評議員となる
・1966年(昭和41) 「苦蔘(くしん)塩基を中心とする荳科(とうか)アルカロイドの化学的研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1967年(昭和42) 東京大学を定年退官し、共立薬科大学学長に就任する
・1968年(昭和43) 国際誌の「テトラヘドロン」、同速報誌のアジア地区編集委員(~1976年)として、編集・審査に取り組む
・1975年(昭和50) 厚生省中央薬事審議会会長(~1981年)となる
・1976年(昭和51) 日本学士院会員となる
・1977年(昭和52) 勲二等旭日重光章を受章する
・1979年(昭和54) 宮内庁から依頼されて、宮中の講書始の儀で御進講する
・1979年(昭和54) スイス工科大学の招待によりスイスへ出張する
・1980年(昭和55) 文化功労者として顕彰される
・1982年(昭和57) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) 共立薬科大学学長を辞める
・1986年(昭和61) ヒューマンサイエンス振興財団会長に就任する
・1999年(平成11)6月17日 東京都において、92歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)鎌倉永安寺で第4代鎌倉公方足利持氏が叔父満貞と共に自害し、鎌倉府が滅亡する(新暦3月24日)詳細
1657年(明暦3)儒学者・政治家新井白石の誕生日(新暦3月24日)詳細
1903年(明治36)病理学者吉田富三の誕生日詳細
1904年(明治37)「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられて、日露戦争に対して正式に宣戦が布告される詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立大会が開かれる詳細
1940年(昭和15)「津田事件」により、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』等の著書4冊が発禁となる詳細
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yonezawafumiko01
 今日は、平成時代の2019年(平成31)に、物理学者米沢富美子が亡くなった日です。
 米沢富美子(よねざわ ふみこ)は、昭和時代前期の1938年(昭和13)10月19日に、大阪府吹田市において、奥家に生まれましたが、5歳の時に父親がニューギニアで戦死しました。母の影響で数学に目覚め、1948年(昭和23)の小学校5年生の時、知能テストでIQ175と判明、1950年(昭和25)の小学校卒業に際して、成績優秀につき、大阪府知事賞を受けています。
 中学時代は数学部に所属し、高校課程の数学の多くを修得、1957年(昭和32)に大阪府立茨木高等学校を卒業後、京都大学理学部物理学科へ進学しました。1961年(昭和36)に卒業後、同大学大学院理学研究科物理学専攻に進学し、松原武生の指導を受け、山一證券に勤務していた米沢允晴と結婚します。
 1963年(昭和38)に夫がロンドン単身赴任、それを追いかけて渡英し、京都大学博士課程1年在学のまま、キール大学大学院に留学、ロイ・マクウィーニ(Roy McWeeny)に師事しました。1964年(昭和39)に英国留学を終えて日本に帰国し、博士課程2年に復学、1966年(昭和41)に京都大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了し、理学博士となり、京都大学基礎物理学研究所助手となり、コヒーレントポテンシャル近似(CPA)に関する理論を発表します。
 1972年(昭和47)に夫のニューヨーク転勤に伴って渡米し、イェシヴァ大学客員研究員となり、1974年(昭和49)には、ニューヨーク市立大学大学院センター客員研究員となりました。1975年(昭和50)に日本に帰国し、翌年には、京都大学基礎物理学研究所助教授となり、手島工学研究賞を受賞しています。
 1981年(昭和56)に新設された慶應義塾大学理工学部に助教授として招聘され、1983年(昭和58)には教授に昇任しました。1984年(昭和59)に「非結晶物質基礎物性の理論的研究」で第4回猿橋賞を受賞しましたが、乳癌の宣告を受け、1996年(平成8)には夫・允晴が病死しています。
 同年に、女性として初の日本物理学会会長(~1997年)となり、エイボン女性大賞を受賞しました。1998年(平成10)に大佛次郎賞選考委員(~2000年)、2000年(平成12)には、日本学術会議第18期会員(~2003年)となります。
 2001年(平成13)に「複雑系・不規則系の基礎理論を確立、日本物理学会長を勤めるなど物理学研究に貢献」で第6回日本女性科学者の会・功労賞、2002年(平成14)には、福澤賞を受賞しました。2004年(平成16)に慶應義塾大学を定年退職し、名誉教授となり、2005年(平成17)には、ロレアル-ユネスコ女性科学賞、内閣総理大臣賞、大阪府知事賞、吹田市長賞を受賞します。
 2008年(平成20)に朝日賞選考委員(~2012年)となったものの、2018年(平成30)に脳梗塞で倒れ、一時は回復しましたが、2019年(平成31)1月17日に、東京都内の自宅において、心不全のため亡くなりました。尚、日本物理学会はその功績をたたえて、米沢富美子記念賞を設立しています。

〇米沢富美子の主要な著作

・『ブラウン運動』(1986年)
・『アモルファスな話』(1988年)
・『ランダムな構造に秩序をみる』(1990年)
・『人生は夢へのチャレンジ 女性科学者として』(1991年)
・『複雑さを科学する』(1995
・『科学する楽しさ 21世紀へのチャレンジ』(1996年)
・『科学の世界にあそぶ』オーム社 (1996年)
・『心が空を駆ける』(2000
・『真理への旅人たち 物理学の20世紀』(2003年)
・『人物で語る物理入門(上、下)』(2005~06年)
・『〈あいまいさ〉を科学する』(2007年)
・『猿橋勝子という生き方』(2009年)
・『まず歩きだそう 女性物理学者として生きる』(2009年)
・『朗朗介護』(2011年)
・『金属-非金属転移の物理』(2012年)
・『人生は、楽しんだ者が勝ちだ』(2014年)
・『不規則系の物理 コヒーレント・ポテンシャル近似とその周辺』(2015年)

☆米沢富美子関係略年表

・1938年(昭和13)10月19日 大阪府吹田市において、奥家に生まれる
・1943年(昭和18) 5歳の時に、元証券マンの父親がニューギニアで戦死する
・1948年(昭和23) 小学校5年生の時、知能テストでIQ175と判明する
・1950年(昭和25) 小学校卒業に際して、成績優秀につき、大阪府知事賞を受ける
・1957年(昭和32) 大阪府立茨木高等学校を卒業し、京都大学理学部物理学科へ進学する
・1961年(昭和36) 京都大学理学部物理学科卒業後、大学院理学研究科物理学専攻に進学し、松原武生の指導を受け、結婚する
・1963年(昭和38) 夫がロンドン単身赴任、それを追いかけて渡英し、京都大学博士課程1年在学のまま、キール大学大学院に留学、ロイ・マクウィーニ(Roy McWeeny)に師事する
・1964年(昭和39) 英国留学を終えて日本に帰国し、博士課程2年に復学する
・1966年(昭和41) 京都大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了し、理学博士となり、京都大学基礎物理学研究所助手となり、コヒーレントポテンシャル近似(CPA)に関する理論を発表する
・1972年(昭和47) 夫のニューヨーク転勤に伴って渡米し、イェシヴァ大学客員研究員となる
・1974年(昭和49) ニューヨーク市立大学大学院センター客員研究員となる
・1975年(昭和50) 日本に帰国する
・1976年(昭和51) 京都大学基礎物理学研究所助教授となり、手島工学研究賞を受賞する
・1981年(昭和56) 新設された慶應義塾大学理工学部に助教授として招聘される
・1983年(昭和58) 慶應義塾大学理工学部教授となる
・1984年(昭和59) 「非結晶物質基礎物性の理論的研究」で第4回猿橋賞を受賞、乳癌の宣告を受ける
・1996年(平成8) 夫・允晴が病死、女性として初の日本物理学会会長(~1997年)となり、エイボン女性大賞を受賞する
・1998年(平成10) 大佛次郎賞選考委員(~2000年)となる
・2000年(平成12) 日本学術会議第18期会員(~2003年)となる
・2001年(平成13) 「複雑系・不規則系の基礎理論を確立、日本物理学会長を勤めるなど物理学研究に貢献」で第6回日本女性科学者の会・功労賞を受賞する
・2002年(平成14) 福澤賞を受賞する
・2004年(平成16) 慶應義塾大学を定年退職し、名誉教授となる
・2005年(平成17) ロレアル-ユネスコ女性科学賞、内閣総理大臣賞、大阪府知事賞、吹田市長賞を受賞する
・2008年(平成20) 朝日賞選考委員(~2012年)となる
・2018年(平成30) 脳梗塞で倒れるが、一時は回復する
・2019年(平成31)1月17日 東京都内の自宅において、心不全のため亡くなり、日本物理学会米沢富美子記念賞が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)民撰議院設立建白書が出される詳細
1885年(明治18)思想家・作家・ジャーナリスト・社会運動家大杉栄の誕生日詳細
1943年(昭和18)戦費捻出目的でたばこが大幅値上げ(金鵄10銭→15銭、ひかり18銭→30銭、朝日25銭→45銭)される詳細
1944年(昭和19)「緊急国民勤労動員方策要綱」が閣議決定される詳細
1995年(平成7)兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起き、死者・行方不明者 6,437人を出す詳細
2017年(平成29)発生生物学者・生物科学の権威岡田節人の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1977年(昭和52)に、生理学者久野寧の亡くなった日です。
 久野 寧(くの やす)は、明治時代前期の1882年(明治15)3月30日に、愛知県名古屋市において、父・久野賢宗の五男として、生まれました。1903年(明治36)に、愛知県立医学校(名古屋大学医学部の前身)を卒業後、1年間の兵役を経て、東京帝国大学生理学教室に入り大沢謙二教授に師事、その後京都帝国大学医科大学に転じ、以後京都医学専門学校教授となります。
 1911年(明治44)に、満州に渡り、南満医学堂(後の満州医科大学)教授となり、1913年(大正2)には、ドイツ・イギリスに留学しました。1920年(大正9)頃より、発汗の研究に従事し、1934年(昭和9)には、イギリスのロンドンで、『The Physiology of Human Perspiration(人の発汗生理)』を刊行します。
 1935年(昭和10)に満州医科大学を定年で辞め、日本に戻って京都大学講師となり、1937年(昭和12)には、名古屋医科大学教授に就任しました。名古屋医科大学の帝国大学への改組に伴い、1939年(昭和14)に名古屋帝国大学教授となり、1941年(昭和16)には、「人体発汗の研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞します。
 1944年(昭和19)に設立されたビタミンB研究委員会(設立当初はビタミンB1連合研究打合会)の初代委員長に就任しました。太平洋戦争後、1946年(昭和21)に『汗』を刊行、1948年(昭和23)に日本学術会議会員に選出され、翌年に設立された日本ビタミン学会初代理事長となり、日本学士院会員ともなります。
 1952年(昭和27)に名古屋大学医学部長となり、1955年(昭和30)には退官して名誉教授となり、日本ビタミン学会理事長も辞めましたが、引き続き京都府立医科大学教授も務めました。1956年(昭和31)に三重県立医科大学(現在の三重大学医学部)教授となり、『Human Perspiration(人の発汗)』を刊行します。
 1963年(昭和38)にビタミンB協会(後にビタミン協会)を設立し会長となり、三重県立医科大学を退職、文化功労者となり、文化勲章を受章しました。発汗生理学の開拓者で、体温調節の生理では世界的権威でしたが、1977年(昭和52)12月30日に、京都府京都市において、95歳で亡くなっています。

〇久野寧の主要な著作

・『The Physiology of Human Perspiration(人の発汗生理)』(1934年)
・『熱帯生活問題』(1943年)
・『汗』(1946年)
・『気候と人生』(1949年)
・『Human Perspiration(人の発汗)』(1956年)
・『汗の話』(1963年)

☆久野寧関係略年表

・1882年(明治15)3月30日 愛知県名古屋市において、父・久野賢宗の五男として、生まれる
・1903年(明治36) 愛知県立医学校(名古屋大学医学部の前身)を卒業する
・1911年(明治44) 南満医学堂(後の満州医科大学)教授となる
・1913年(大正2) ドイツ・イギリスに留学する
・1920年(大正9) この頃より、発汗の研究に従事する
・1934年(昭和9) イギリスのロンドンで、『The Physiology of Human Perspiration(人の発汗生理)』を刊行する
・1935年(昭和10) 満州医科大学を定年で辞め、京都大学講師となる
・1937年(昭和12) 名古屋医科大学教授となる
・1939年(昭和14) 名古屋帝国大学教授となる
・1941年(昭和16) 「人体発汗の研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1944年(昭和19) 設立されたビタミンB研究委員会(設立当初はビタミンB1連合研究打合会)の初代委員長となる
・1946年(昭和21) 『汗』を刊行する
・1948年(昭和23) 日本学術会議会員に選出される
・1949年(昭和24) 設立された日本ビタミン学会初代理事長となり、日本学士院会員となる
・1952年(昭和27) 名古屋大学医学部長となる
・1955年(昭和30) 名古屋大学を退官して名誉教授となり、日本ビタミン学会理事長も辞める
・1956年(昭和31) 三重県立医科大学(現在の三重大学医学部)教授となり、『Human Perspiration(人の発汗)』を刊行する
・1963年(昭和38) ビタミンB協会(後にビタミン協会)を設立し会長となり、三重県立医科大学を退職、文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1977年(昭和52)12月30日 京都府京都市において、95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1391年(明徳2/元中8)武将・守護大名(丹波・和泉・山城・但馬)山名氏清が明徳の乱に敗れ戦死する(新暦1392年1月24日)詳細
1867年(慶応3)小説家・評論家斎藤緑雨の誕生日(新暦1868年1月24日)詳細
1881年(明治14)画家・歌人・随筆家小杉放庵の誕生日詳細
1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
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nagaharakeiji01
 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、日本史学者永原慶二が亡くなった日です。
 永原慶二(ながはら けいじ)は、大正時代の1922年(大正11)7月12日に、中国関東州大連市において生まれましたが、東京で育ちました。1942年(昭和17)に、東京高等学校文科乙類を卒業後、東京帝国大学文学部国史学科に入学したものの、翌年に文科系学生の徴兵猶予停止(学徒出陣)に伴い、海軍の大竹海兵団に入団します。
 1944年(昭和19)に東京帝国大学国史学科卒業となり、終戦後に帰郷し、同大学大学院に入学しました。1947年(昭和22)に、東京大学史料編纂所員となり、『大日本史料』第三編の編纂業務に従事しましたが、1958年(昭和33)には、一橋大学助教授となり、日本経済史講座を担当することとなり、中世史を主に社会経済史的な視点から研究します。
 1962年(昭和37)に、一橋大学より「日本封建制成立過程の研究」により経済学博士の学位を取得し、翌年には、同大学教授に昇任しました。1970年(昭和45)に歴史学研究会委員長(1973年まで)、1978年(昭和53)に日本学術会議会員(1985年まで)、文化財保護審議会専門委員(1993年まで)、1983年(昭和58)には、比較家族史研究会会長(1989年まで)と要職を歴任します。
 1986年(昭和61)に一橋大学教授を退官し、同大学名誉教授、日本福祉大学経済学部教授(1988年まで)となり、1988年(昭和63)には、和光大学人文学部教授(1993年まで)となり、1993年(平成5)の退官にあたって名誉教授となりました。教科書検定に反対の立場を取り、1997年(平成9)まで続いた、家永三郎の教科書訴訟を支援しましたが、2004年(平成16)7月9日に、東京都新宿区の病院において、81歳で亡くなっています。

〇永原慶二の主要な著作

・『日本封建社会論』(1955年)東京大学出版会
・『源頼朝』(1958年)岩波書店、
・『日本封建制成立過程の研究』(1961年)岩波書店
・『日本の歴史10 下剋上の時代』(1965年)中央公論社
・『日本の中世社会』(1968年)岩波書店
・『日本経済史』(1970年)有斐閣
・『日本中世社会構造の研究』(1973年)岩波書店
・『荘園』(1978年)評論社
・『室町戦国の社会 商業・貨幣・交通』(1992年)吉川弘文館
・『20世紀日本の歴史学』(2003年)吉川弘文館

☆永原慶二関係略年表

・1922年(大正11)7月12日 中国関東州大連市において生まれる
・1942年(昭和17) 東京高等学校文科乙類を卒業後、東京帝国大学文学部国史学科に入学する
・1943年(昭和18) 文科系学生の徴兵猶予停止にともない、海軍の大竹海兵団に入団する
・1944年(昭和19) 東京帝国大学国史学科卒業する
・1945年(昭和20) 終戦後に帰郷し、東京帝国大学大学院に入学する
・1947年(昭和22) 東京大学史料編纂所員となり、『大日本史料』第三編の編纂業務に従事する
・1958年(昭和33) 一橋大学助教授となり、日本経済史講座を担当する
・1962年(昭和37) 一橋大学より「日本封建制成立過程の研究」により経済学博士の学位を取得する
・1963年(昭和38) 一橋大学教授に昇任する
・1970年(昭和45) 歴史学研究会委員長となる(1973年まで)
・1978年(昭和53) 日本学術会議会員となる(1985年まで)、文化財保護審議会専門委員となる(1993年まで)
・1983年(昭和58) 比較家族史研究会会長となる(1989年まで)
・1986年(昭和61) 一橋大学教授を退官し、同大学名誉教授、日本福祉大学経済学部教授となる(1988年まで)
・1988年(昭和63) 和光大学人文学部教授となる(1993年まで)
・1993年(平成5) 和光大学退官にあたって名誉教授となる
・2004年(平成16)7月9日 東京都新宿区の病院において、81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

967年(康保4)律令政治の基本細則「延喜式」が施行される(新暦8月17日)詳細
1185年(元暦2)京都地方で文治地震が起こり、大きな被害が出る(新暦8月13日)詳細
1922年(大正11)小説家・医師森鴎外の命日(鴎外忌)詳細
1945年(昭和20)和歌山大空襲において、和歌山城が消失し、焼失家屋31,137戸、死者・行方不明者1,424人を出す詳細
1955年(昭和30)イギリスのロンドンで、「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出される詳細
1976年(昭和51)静岡県の大井川鐵道が、日本で初めて蒸気機関車の動態保存運転を開始する詳細
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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、病理学者吉田富三が生まれた日です。
 吉田富三(よしだ とみぞう)は、福島県石川郡浅川町本町において、父・吉田喜市郎、母・ナヲの長男として生まれましたが、1915年(大正4)に浅川小学校卒業後、上京しました。錦城中学校を経て、1923年(大正12)に旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部医学科へ入学します。
 1927年(昭和2)に卒業し、同大学病理学教室(主任教授、長與又郎)の副手となり、1929年(昭和4)には、佐々木研究所に入所、佐々木隆興(たかおき)の指導を受けました。1932年(昭和7)に、オルト・アミドアゾトルオオール経口投与によるラット発癌実験開始、肝臓癌生成に成功、1934年(昭和9)には、「Virchows Archiv」283巻1号に、佐々木隆興と連名で肝臓癌生成結果を発表します。
 1935年(昭和10)に佐々木研究所を退所し、海外留学してベルリン大学レスレ教授の教室に入り、イギリス、アメリカでも学び、1937年(昭和12)に帰国しましたが、この間に、論文「上皮化生の問題に対する実験的補遺(独文)」で東京帝国大学より医学博士号を授与され、「オルト・アミドアゾトルオオール経口投与による肝臓癌生成の実験的研究」で、帝国学士院恩賜賞を佐々木隆興と共同受賞しました。1938年(昭和13)に長崎医科大学教授に就任、病理学を担当、1943年(昭和18)には、ラット腹水肉腫を発見、「長崎系腹水肉腫」と呼びます。
 1944年(昭和19)に東北帝国大学教授に就任、「Proc Imp Acad」20巻8号にシロネズミの悪性腫瘍を発表、1948年(昭和23)には、「長崎系腹水肉腫」が吉田肉腫と改名されました。1951年(昭和26)にラット腹水肝癌を発見、吉田肉腫の研究で朝日賞を受賞、日本学術会議会員となります。
 1952年(昭和27)に東京大学教授(病理学)に就任、がん化学療法薬ナイトロミンを開発、1953年(昭和28)には、佐々木研究所所長、「吉田肉腫の病理学的研究」で、2度目の日本学士院恩賜賞を受賞しました。1958年(昭和33)に東京大学医学部長に就任、東京大学伝染病研究所教授を併任、1959年(昭和34)には、文化勲章を受章、科学技術会議専門委員ともなります。
 その後、1961年(昭和36)にペルジア大学(イタリア)より名誉学位授与、国語審議会委員、1962年(昭和37)に藤原賞受賞、1963年(昭和38)には、東京大学を退官し、癌研究会癌研究所所長に就任、ロベルト・コッホ賞コッホ・ゴールドメダルを受賞、1965年(昭和40)には故郷である福島県浅川町より名誉町民の称号を授与されました。1966年(昭和41)に国際癌学会会長(東京)に就任、1968年(昭和43)に日本ユネスコ国内委員会副会長など要職にも就きましたが、1973年(昭和48)4月27日に、東京において、70歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。

〇吉田富三の主要な著作

・『癌ノ発生 — 癌原性物質ノ研究概観』(1949年)日本医書出版
・翻訳書『ウィルヒョウ  細胞病理学』(1957年)南山堂
・『吉田肉腫 — 癌化学療法の基礎的研究』(1964年)寧楽書房
・『美と教養 — 心の対話』(1968年)日本ソノサービスセンター
・『雑念雑記』(1972年)南山堂
・『生命と言葉 — 随想集』(1972年)読売新聞社

☆吉田富三関係略年表

・1903年(明治36)2月10日 福島県石川郡浅川町本町において、父・吉田喜市郎、母・ナヲの長男として生まれる
・1915年(大正4) 浅川小学校卒業後、上京する
・1920年(大正9) 錦城中学校を卒業する
・1923年(大正12) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部医学科へ入学する
・1927年(昭和2) 東京帝国大学医学部を卒業し、病理学教室(主任教授、長與又郎)の副手となる
・1929年(昭和4) 佐々木研究所に入所する
・1932年(昭和7) 佐々木隆興の指導の下、オルト・アミドアゾトルオオール経口投与によるラット発癌実験開始、肝臓癌生成に成功する
・1934年(昭和9) 「Virchows Archiv」283巻1号に、佐々木隆興と連名で肝臓癌生成結果を発表する
・1935年(昭和10) 佐々木研究所を退所し、海外留学してベルリン大学レスレ教授の教室に学ぶ、癌学会山極賞、服部報公会賞を受賞する
・1936年(昭和11) 論文「上皮化生の問題に対する実験的補遺(独文)」で東京大学より医学博士号を授与され、「オルト・アミドアゾトルオオール経口投与による肝臓癌生成の実験的研究」で、帝国学士院恩賜賞を佐々木隆興と共同受賞する
・1937年(昭和12) 海外留学から帰国する
・1938年(昭和13) 長崎医科大学教授に就任、病理学を担当する
・1943年(昭和18) ラット腹水肉腫を発見、「長崎系腹水肉腫」と呼ぶ
・1944年(昭和19) 東北帝国大学教授に就任、「Proc Imp Acad」20巻8号にシロネズミの悪性腫瘍(吉田肉腫)を発表する
・1948年(昭和23) 「長崎系腹水肉腫」が吉田肉腫と改名される
・1951年(昭和26) ラット腹水肝癌を発見、吉田肉腫の研究で朝日賞を受賞、日本学術会議会員となる
・1952年(昭和27) 東京大学教授(病理学)に就任、がん化学療法薬ナイトロミンを開発する
・1953年(昭和28) 佐々木研究所所長、「吉田肉腫の病理学的研究」で、2度目の日本学士院恩賜賞を受賞する
・1958年(昭和33) 東京大学医学部長に就任、東京大学伝染病研究所教授を併任する
・1959年(昭和34) 文化勲章を受章、科学技術会議専門委員となる
・1960年(昭和35) 日本学術会議会員となる
・1961年(昭和36) 第50回日本病理学会会長、ペルジア大学(イタリア)より名誉学位を授与され、国語審議会委員となる
・1962年(昭和37) 第9回国際癌会議組織委員会委員長となり、藤原賞を受賞する
・1963年(昭和38) 東京大学を退官し、癌研究会癌研究所所長に就任、ロベルト・コッホ賞コッホ・ゴールドメダルを受賞する
・1965年(昭和40) 故郷である福島県浅川町より名誉町民の称号を授与される
・1966年(昭和41) 国際癌学会会長(東京)に就任する
・1968年(昭和43) 日本ユネスコ国内委員会副会長となる
・1971年(昭和46) 第18回日本医学会総会で特別講演(癌の成長)する
・1973年(昭和48)4月27日 東京において、70歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)鎌倉永安寺で第4代鎌倉公方足利持氏が叔父満貞と共に自害し、鎌倉府が滅亡する(新暦3月24日)詳細
1657年(明暦3)儒学者・政治家新井白石の誕生日(新暦3月24日)詳細
1904年(明治37)「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられて、日露戦争に対して正式に宣戦が布告される詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立大会が開かれる詳細
1940年(昭和15)「津田事件」により、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』等の著書4冊が発禁となる詳細
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