ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本学士院賞

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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、生化学者江上不二夫が生まれた日です。
 江上不二夫(えがみ ふじお)は、1910年(明治43)11月21日に東京において生まれ、1933年(昭和8)には、東京帝国大学理学部化学科を卒業しました。1934年(昭和9)にフランス政府の招聘留学生としてストラスブール大学、パリ生物物理化学研究所に学びましたが、1937年(昭和12)には帰国し、東京帝国大学理学部助手となります。
 1942年(昭和17)に、名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授となり、東京大学より「スルファターゼ模型に関する研究」で理学博士を得ました。1943年(昭和18)に同大学理学部教授に昇進し、1953年(昭和28)には、「生体酸化環元の研究」で中日文化賞、翌年には、日本化学会賞を受賞しています。
 1957年(昭和32)にタカジアスターゼから核酸分解酵素の1種であるリボヌクレアーゼ T1を分離・精製に成功し、国際的に知名度を高め、1958年(昭和33)には、東京大学理学部教授となりました。1961年(昭和36)に国際生化学連合の評議員(~1970年)となり、1966年(昭和41)に「リボヌクレアーゼT1に関する研究」で、朝日賞、1967年(昭和42)には、『生命を探る』で、毎日出版文化賞を受賞、国際生化学会議を日本に誘致して事務局長を務めています。
 1968年(昭和43)に埼玉大学理工学部教授を併任、日本生化学会会長となり、1969年(昭和44)には、日本学術会議会長(~1972年)となりました。1971年(昭和46)に三菱化成生命科学研究所初代所長となって、“生命の起源”の研究に打ち込み、「リボヌクレアーゼに関する研究」で日本学士院賞を受賞、レジオン・ドヌール勲章も受章し、1977年(昭和52)には、国際生命の起源学会会長に就任します。
 1980年(昭和55)には、三菱化成生命科学研究所名誉所長となりましたが、1982年(昭和57)7月17日に、東京において、71歳で亡くなりました。尚、兄は東洋史学・考古学者で「騎馬民族説」を唱えた江上波夫です。

〇江上不二夫の主要な著作

・『生体の化学』(1946年)
・『生化学研究の進み方』(1950年)
・『核酸および核蛋白質』(1951年)
・『生命を探る』(1967年)
・『生物化学概説』(1975年)

☆江上不二夫関係略年表

・1910年(明治43)11月21日 東京において、生まれる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学理学部化学科を卒業する
・1934年(昭和9) フランス政府の招聘(しょうへい)留学生としてストラスブール大学、パリ生物物理化学研究所に学ぶ
・1937年(昭和12) 帰国し、東京帝国大学理学部助手となる
・1942年(昭和17) 名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授となり、東京大学より「スルファターゼ模型に関する研究」で理学博士を得る
・1943年(昭和18) 名古屋帝国大学理学部教授となる
・1953年(昭和28) 「生体酸化環元の研究」で、中日文化賞を受賞する
・1954年(昭和29) 日本化学会賞を受賞する
・1957年(昭和32) タカジアスターゼから核酸分解酵素の1種であるリボヌクレアーゼ T1を分離・精製に成功し、国際的に知名度を高める
・1958年(昭和33) 東京大学理学部教授となる
・1961年(昭和36) 国際生化学連合の評議員となる(~1970年)
・1966年(昭和41) 「リボヌクレアーゼT1に関する研究」で、朝日賞を受賞する
・1967年(昭和42) 『生命を探る』で、毎日出版文化賞を受賞、国際生化学会議を日本に誘致して事務局長を務める
・1968年(昭和43) 埼玉大学理工学部教授併任となり、日本生化学会会長となる
・1969年(昭和44) 日本学術会議会長(~1972年)となる
・1971年(昭和46) 三菱化成生命科学研究所初代所長となり、「リボヌクレアーゼに関する研究」で日本学士院賞を受賞、レジオン・ドヌール勲章を受章する
・1977年(昭和52) オパーソン博士の後を継いで、国際生命の起源学会会長となる
・1980年(昭和55) 三菱化成生命科学研究所名誉所長となる
・1982年(昭和57)7月17日 東京において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

734年(天平6)「得度・授戒の制」が定められる(新暦12月20日)詳細
1889年(明治22)東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座四丁目)に歌舞伎座が開場する詳細
1956年(昭和31)歌人・美術史家・書道家会津八一の命日(八一忌・秋艸忌)詳細
1903年(明治36)小説家伊藤永之介の誕生日詳細
1969年(昭和44)俳人石田波郷の命日詳細
1978年(昭和53)第20回ユネスコ総会で「体育およびスポーツに関する国際憲章」が採択される詳細
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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、金属工学者荒田吉明が生まれた日です。
 荒田吉明(あらた よしあき)は、京都府において生まれ、1949年(昭和24)に大阪帝国大学工学部溶接工学科を卒業しました。1951年(昭和26)に大阪大学工学部助手となり、1953年(昭和28)に講師、1957年(昭和32)に大阪大学大学院工学研究科博士課程終了(学位論文「鉄炭素系の炭化物」)、1964年(昭和39)に教授となります。
 1965年(昭和40)にオハイオ州立大学客員教授、1972年(昭和47)に大阪大学溶接工学研究所教授、1977年(昭和52)に大阪大学溶接工学研究所長(1981年まで)となりました。「超高エネルギ密度熱源と高度加工への適用」という画期的な新分野を開拓し、1980年(昭和55)にゴールドシュミット・クラーモント賞、1982年(昭和57)に大阪大学溶接工学研究所超高エネルギー密度熱源センター長となり、ポーランド国家勲章を受章、1985年(昭和60)には、日本学士院賞を受賞します。
 1987年(昭和62)にワルシャワ工科大学名誉博士号、1988年(昭和63)に大阪大学を退官し、学内に「荒田記念館」が建設され、近畿大学教授、日本学士院会員、米国レーザー学会フェローとなり、1990年(平成2)に天津大学ゴールドキー、1992年(平成4)にアーサー・シャーロウ賞、1993年(平成5)に米国金属学会フェロー、1994年(平成6)に国際溶接学会「荒田吉明賞」を受賞するなど国際的に高く評価されました。国内でも、1995年(平成7)に文化功労者、2004年(平成16)に瑞宝重光章、2005年(平成17)に国際常温核融合学会賞、2006年(平成18)に文化勲章受章など数々の栄誉に輝きます。
 2008年(平成20)に大阪大学で固体内核融合の実験を報道関係者に広く公開、2009年(平成21)に静岡県産業経済会館でJCF9(第9回常温核融合研究会)にて、前年の公開実験の再現に成功したと発表しましたが、2018年(平成30)6月5日に、腎不全のため94歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇荒田吉明の主要な著作

・『プラズマ工学』(1965年)
・『新エネルギー創生を目指して』(2007年)

☆荒田吉明関係略年表

・1924年(大正13)5月22日 京都府において、生まれる
・1949年(昭和24) 大阪帝国大学工学部溶接工学科を卒業する
・1951年(昭和26) 大阪大学工学部助手となる
・1953年(昭和28) 大阪大学工学部講師となる
・1957年(昭和32) 大阪大学大学院工学研究科博士課程終了(学位論文「鉄炭素系の炭化物」)
・1964年(昭和39) 大阪大学工学部教授となる
・1965年(昭和40) オハイオ州立大学客員教授となる
・1972年(昭和47) 大阪大学溶接工学研究所教授となる
・1977年(昭和52) 大阪大学溶接工学研究所長(1981年まで)となる
・1980年(昭和55) ゴールドシュミット・クラーモント賞を受賞する
・1982年(昭和57) 大阪大学溶接工学研究所超高エネルギー密度熱源センター長となり、ポーランド国家勲章を受章する
・1985年(昭和60) 「超高エネルギ密度熱源の開発と熱加工への適用」で、日本学士院賞を受賞する
・1987年(昭和62) ワルシャワ工科大学名誉博士号を得る
・1988年(昭和63) 大阪大学を退官し、学内に「荒田記念館」が建設され、近畿大学教授、日本学士院会員、米国レーザー学会フェローとなる
・1990年(平成2) 天津大学ゴールドキーを得る
・1992年(平成4) アーサー・シャーロウ賞を受賞する
・1993年(平成5) 米国金属学会フェローとなる
・1994年(平成6) 国際溶接学会「荒田吉明賞」を受賞する
・1995年(平成7) 文化功労者となる
・2004年(平成16) 瑞宝重光章を受章する
・2005年(平成17) 国際常温核融合学会賞を受賞する
・2006年(平成18) 文化勲章を受章する
・2008年(平成20) 大阪大学で固体内核融合の実験を報道関係者に広く公開する
・2009年(平成21) 静岡県産業経済会館でJCF9(第9回常温核融合研究会)にて、2008年の公開実験の再現に成功したと発表する
・2018年(平成30)6月5日 腎不全のため94歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1737年(元文2)江戸幕府第10代将軍徳川家治の誕生日(新暦6月20日)詳細
1859年(安政6)小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者坪内逍遥の誕生日(新暦6月22日)詳細
1939年(昭和14)全国学校教職員及び学生生徒御親閲式で、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が発布される詳細
1945年(昭和20)「戦時教育令」を公布し、各学校、職場に学徒隊を結成させる詳細
1989年(平成元)考古学者相沢忠洋の命日詳細
1992年(平成4)「生物の多様性に関する条約」が採択される(国際生物多様性の日)詳細
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 今日は、平成時代の2020年(平成32)に、物理化学者長倉三郎が亡くなった日です。
 長倉三郎(ながくら さぶろう)は、大正時代の1920年(大正9)10月3日に、静岡県駿東郡鷹根村(現在の沼津市)柳沢において生まれました。県立沼津中学校(現在の沼津東高校)、旧制静岡高等学校を経て、1943年(昭和18)に、東京帝国大学理学部化学科を卒業します。
 大学院へ進学したものの、休学して海軍技術見習尉官に任じられ、青島方面特別根拠地付を命じられ、海軍技術大尉として終戦を迎えました。1945年(昭和20)に東京帝国大学放射線化学研究所嘱託となり、水島三一郎に師事、翌年同研究所助手となり、1949年(昭和24には助教授に昇任します。
 1953年(昭和28)に、論文「不飽和化合物の電子構造の研究」によって、東京大学より理学博士号を取得、1955年(昭和30)からアメリカへ留学し、ロバート・マリケン(シカゴ大学)が主宰する分子構造・分光研究室で研究に従事、1957年(昭和32)に帰国しました。1959年(昭和34)に、東京大学物性研究所教授となり、1961年(昭和36)に理化学研究所主任研究員を兼務、1966年(昭和41)には、「分子の電子構造ならびに分子間の相互作用に関する研究」によって、第18回日本化学会賞を受賞します。
 1971年(昭和46)に「分子化合物の電子論研究」により朝日賞、1978年(昭和53)には、「短寿命励起分子及び反応中間体の電子構造と反応性の研究」により、第68回日本学士院賞を受賞しました。1981年(昭和56)に定年退官して名誉教授、分子化学研究所所長となり、国際純正・応用化学連合 IUPACの会長に日本人で初めて就任、1984年(昭和59)には、日本化学会会長、日本学士院会員となります。
 1985年(昭和60)に日本化学会会長を辞め、岡崎国立共同研究機構の機構長となり、文化功労者、1988年(昭和63)には、岡崎国立共同研究機構の機構長を辞め、総合研究大学院大学長となりました。1990年(平成2)に文化勲章を受章、1991年(平成3)に沼津市名誉市民、1992年(平成4)には武蔵野市名誉市民となります。
 1995年(平成7)に総合研究大学院大学長を辞め、公益財団法人神奈川科学技術アカデミー理事長となり、勲一等瑞宝章を受章するなど数々の栄誉に輝きました。2001年(平成13)に日本学士院第23代院長となり、2003年(平成15)に公益財団法人神奈川科学技術アカデミー理事長を辞め、武蔵野地域自由大学学長となります。
 2008年(平成17)には、神奈川大学特別招聘教授となりましたが、2020年(平成32)4月16日に、東京において、99歳で亡くなり、従三位が追贈されました。

〇長倉三郎の主要な著作

・水島三一郎との共著『量子化学』(1959年)
・『有機電子理論 主として分子軌道法による』(1966年)
・『「複眼的思考」ノススメ 調和が必要な変革の時代を迎えて』(2011年)

☆長倉三郎関係略年表

・1920年(大正9)10月3日 静岡県駿東郡鷹根村(現在の沼津市)柳沢において、生まれる
・1938年(昭和13) 県立沼津中学校(現在の沼津東高校)を卒業する
・1941年(昭和16) 旧制静岡高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部へ進む
・1943年(昭和18) 東京帝国大学理学部化学科を卒業する
・1945年(昭和20) 東京帝国大学放射線化学研究所嘱託となり、水島三一郎に師事する
・1946年(昭和21) 東京帝国大学放射線化学研究所助手となる
・1949年(昭和24) 東京大学放射線化学研究所助教授となる
・1953年(昭和28) 論文「不飽和化合物の電子構造の研究」によって、東京大学より理学博士号を得る
・1955年(昭和30) アメリカへ留学し、ロバート・マリケン(シカゴ大学)が主宰する分子構造・分光研究室で研究に従事する
・1957年(昭和32) 留学先から帰国する
・1959年(昭和34) 東京大学物性研究所教授となる
・1961年(昭和36) 理化学研究所主任研究員を兼務する
・1966年(昭和41) 「分子の電子構造ならびに分子間の相互作用に関する研究」によって、第18回日本化学会賞を受賞する
・1971年(昭和46) 「分子化合物の電子論研究」により朝日賞を受賞する
・1978年(昭和53) 「短寿命励起分子及び反応中間体の電子構造と反応性の研究」で第68回日本学士院賞を受賞する
・1981年(昭和56) 定年退官して名誉教授、分子化学研究所所長となり、国際純正・応用化学連合 IUPACの会長に日本人で初めて就任する
・1984年(昭和59) 日本化学会会長、日本学士院会員となる
・1985年(昭和60) 日本化学会会長を辞め、岡崎国立共同研究機構の機構長となり、文化功労者ともなる
・1988年(昭和63) 岡崎国立共同研究機構の機構長を辞め、総合研究大学院大学長となる
・1990年(平成2) 文化勲章を受章する
・1991年(平成3) 沼津市名誉市民となる
・1992年(平成4) 武蔵野市名誉市民となる
・1995年(平成7) 総合研究大学院大学長を辞め、公益財団法人神奈川科学技術アカデミー理事長となり、勲一等瑞宝章を受章する
・1996年(平成8) インド国立科学アカデミー ジャワハルラール・ネルー生誕百年記念メダルを得る
・1997年(平成9) チェコ科学アカデミー ヤロスラフ・ヘイロフスキー名誉メダルを得る
・2001年(平成13) 日本学士院第23代院長となる
・2003年(平成15) 公益財団法人神奈川科学技術アカデミー理事長を辞め、武蔵野地域自由大学学長となる
・2007年(平成16) 日本学士院第23代院長を辞める
・2008年(平成17) 神奈川大学特別招聘教授となる
・2016年(平成28) 武蔵野地域自由大学学長を辞める
・2020年(平成32)4月16日 東京において、99歳で亡くなり、従三位が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)大隈重信らが立憲改進党を結成する詳細
1884年(明治31)柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)完成により長浜~敦賀の鉄道(敦賀線、後の北陸本線)が開業する詳細
1910年(明治43)輪島町の大火で、全焼1,055軒、半焼15軒の被害を出す詳細
1945年(昭和20)小説家田村俊子の命日詳細
1956年(昭和31)日本道路公団が設立される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1984年(昭和59)に、電子工学者岡部金治郎の亡くなった日です。
 岡部金治郎(おかべ きんじろう)は、明治時代後期の1896年(明治29)3月27日に、愛知県名古屋市に生まれました。旧制愛知第5中学(現在の県立瑞陵高校)を経て、1916年(大正5)には、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)紡織科を卒業します。
 1917年(大正6)に、高田商会大阪支店に入社しましたが、東北帝国大学理科大学助手となり、1918年(大正7)に、東北帝国大学理科大学物理科へ入学しました。翌年に、工学部電気工学科に転じ、1922年(大正11)には、卒業して、同大学講師となり、1925年(大正14)には、助教授に昇任します。
 1927年(昭和2) に“分割陽極マグネトロン”を開発し、実用に耐える極超短波の発生が初めて可能となり、無線通信界に一大センセーションをまき起こしました。1929年(昭和4)に、論文『「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究』 で、東北帝国大学より工学博士の学位を授与され、名古屋高等工業学校教授となります。
 1934年(昭和9)に名古屋高等工業学校教授を辞め、翌年には、大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残し、大阪帝国大学理学部助教授に就任しました。1936年(昭和11)に極超短波の研究で朝日文化賞を受賞、1939年(昭和14)には、教授に昇任し、日本の十大発明家選ばれ、昭和天皇より宮中賜餐の栄を受けます。
 1941年(昭和16)に日本学士院賞恩賜賞を受賞、大阪大学産業科学研究所教授となり、1944年(昭和19)には、文化勲章も受章しました。太平洋戦争後、1951年(昭和26)に同研究所所長となったものの、1955年(昭和30)に定年退官し、翌年には、大阪大学名誉教授となり、近畿大学教授に就任します。
 1966年(昭和41)に近畿大学九州工学部長となり、1969年(昭和44)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1972年(昭和47)に近畿大学を辞めましたが、1984年(昭和59)4月8日には、愛知県において、老衰のため、88歳で亡くなっています。

〇岡部金治郎の主要な著作

・『特殊熱電子管』(1946年)
・『電子工学』(1948年)
・『超高周波』(1954年)
・『人間は死んだらどうなるか』(1971年)

☆岡部金治郎関係略年表

・1896年(明治29)3月27日 愛知県名古屋市に生まれる
・1916年(大正5) 名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)紡織科を卒業する
・1917年(大正6) 高田商会大阪支店に入社、東北帝国大学理科大学助手となる
・1918年(大正7) 東北帝国大学理科大学物理科入学する
・1919年(大正8) 東北帝国大学工学部電気工学科に入学する
・1922年(大正11) 東北帝国大学(現在の東北大学)工学部電気工学科を卒業し、講師となる
・1925年(大正14) 東北帝国大学助教授となる
・1927年(昭和2)  “分割陽極マグネトロン”を開発し、実用に耐える極超短波の発生が初めて可能となり、無線通信界に一大センセーションをまき起こす
・1929年(昭和4) 論文『「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究』 で、東北帝国大学より工学博士の学位を授与され、名古屋高等工業学校教授となる
・1934年(昭和9) 名古屋高等工業学校教授を辞める
・1935年(昭和10) 大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残し、大阪帝国大学理学部助教授に就任する
・1936年(昭和11) 極超短波の研究で朝日文化賞を受賞する
・1939年(昭和14) 大阪帝国大学教授に昇任、日本の十大発明家選ばれ、昭和天皇より宮中賜餐の栄を受ける
・1941年(昭和16) 日本学士院賞恩賜賞を受賞、大阪大学産業科学研究所教授となる
・1944年(昭和19) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26) 大阪大学産業科学研究所所長となる
・1955年(昭和30) 大阪大学産業科学研究所所長を定年退官する
・1956年(昭和31) 大阪大学名誉教授となり、近畿大学教授に就任する
・1966年(昭和41) 近畿大学九州工学部長を務める
・1969年(昭和44) 勲一等瑞宝章を受章する
・1972年(昭和47) 近畿大学教授を辞める
・1984年(昭和59)4月8日 愛知県において、老衰のため、88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1896年(明治29)「移民保護規則」にかわり、「移民保護法」が公布(施行は6月1日)される詳細
1940年(昭和15)「国民体力法」が公布(施行は同年9月25日)される詳細
1942年(昭和17)政府の外郭団体としての財団法人大日本体育会が発足する詳細
1948年(昭和23)東宝争議(第3次)が勃発する詳細
1959年(昭和34)俳人・小説家高浜虚子の命日(椿寿忌)詳細
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nozoetetsuo01
 今日は、平成時代の1996年(平成8)に、有機化学者野副鉄男が亡くなった日です。
 野副鉄男(のぞえ てつお)は、明治時代後期の1902年(明治35)5月16日に、宮城県仙台市で生まれました。宮城県仙台第一中学校、旧制第二高等学校を経て、1923年(大正12)に東北帝国大学理学部化学科に入学します。
 1926年(大正15)に卒業後、翌年に台湾総督府中央研究所の助手となり、1929年(昭和4)に台湾に台北帝国大学が新設されると理農学部化学科助教授となりました。1936年(昭和11)に「高級テルペン類似体及び其の配糖体の研究」により、大阪帝国大学理学部から理学博士号を取得、台湾檜の色素成分からヒノキチオールを分離、その基本構造が七員環化合物(トロポロン)であることをつきとめます。
 1937年(昭和12)には、台北帝国大学理学部化学科教授に昇任し、1942年(昭和17)には、日本化学会真島賞を受賞しました。1945年(昭和20)に、台北帝国大学は中国側に接収されて国立台湾大学となったものの、中華民国側の要請を受けて、引き続き教授として留任します。
 1948年(昭和23)に帰国後、東北大学理学部化学科講師を経て教授となり、翌年には、七員環化合物(トロポロン)の合成にも成功しました。これらの研究により、1952年(昭和27)に朝日賞、1953年(昭和28)に日本学士院賞を受賞します。
 1958年(昭和33)に文化勲章を受章、1959年(昭和34)に仙台市名誉市民となり、1966年(昭和41)には、東北大学理学部化学科教授を定年退官し、名誉教授となるなど数々の栄誉に輝きました。さらに、1972年(昭和47)に勲一等瑞宝章を受章、1975年(昭和50)に日本化学会長となり、1979年(昭和54)には、日本学士院会員となり、台湾から中華民国文化褒章を授与されます。
 1981年(昭和56)にドイツ化学会ホフマン賞、1983年(昭58年)には、「非ベンゼン系芳香族化学への貢献」で、有機合成化学協会賞特別賞を受賞したものの、1996年(平成8)4月4日に、東京において、93歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇野副鉄男関係略年表

・1902年(明治35)5月16日 宮城県仙台市で生まれる
・1921年(大正10) 宮城県仙台第一中学校を卒業し、旧制第二高等学校へ入学する
・1923年(大正12) 東北帝国大学理学部化学科に入学する
・1926年(大正15) 東北帝国大学理学部化学科を卒業する
・1927年(昭和2) 台湾総督府中央研究所の助手となる
・1929年(昭和4) 台北帝国大学理農学部化学科助教授となる
・1936年(昭和11) 「高級テルペン類似体及び其の配糖体の研究」により、大阪帝国大学理学部から理学博士号を取得、台湾檜の色素成分からヒノキチオールを分離、その基本構造が七員環化合物(トロポロン)であることをつきとめる
・1937年(昭和12) 台北帝国大学理学部化学科教授となる
・1942年(昭和17) 日本化学会真島賞を受賞する
・1945年(昭和20) 中国に留用され台湾大学教授となる
・1948年(昭和23) 帰国後、東北大学理学部化学科講師を経て教授となる
・1949年(昭和24) 七員環化合物(トロポロン)の合成にも成功する
・1952年(昭和27) 「ヒノキチオールの研究」で、朝日賞を受賞する
・1953年(昭和28) 「ヒノキチオール及びその関連化合物に関する研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1958年(昭和33) 文化勲章を受章する
・1959年(昭和34) 仙台市名誉市民となる
・1966年(昭和41) 東北大学理学部化学科教授を定年退官し、名誉教授となる
・1972年(昭和47) 勲一等瑞宝章を受章する
・1975年(昭和50) 日本化学会長となる
・1979年(昭和54) 日本学士院会員となり、台湾から中華民国文化褒章を授与される
・1981年(昭和56) ドイツ化学会ホフマン賞を受賞する
・1983年(昭58年) 「非ベンゼン系芳香族化学への貢献」で、有機合成化学協会賞特別賞を受賞する
・1996年(平成8)4月4日 東京において、93歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1284年(弘安7)鎌倉幕府第8代執権北条時宗の命日(新暦4月20日)詳細
1609年(慶長14)江戸時代の大名・備前岡山藩初代藩主池田光政の誕生日(新暦5月10日)詳細
1885年(明治18)小説家中里介山の誕生日詳細
1949年(昭和24)「団体等規制令」が公布・施行される詳細
1973年(昭和48)劇作家・演出家・作詞家菊田一夫の命日詳細
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