ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本史

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 今日は、太平洋戦争下の1944年(昭和19)に、「緊急学徒勤労動員方策要綱」が東條英機内閣によって閣議決定された日です。
 これは、戦局が厳しくなってくる中で、激増の見込まれた労務需要に応じるため、学徒動員を「勤労即教育ノ本旨ニ徹シ」て強化し、「動員期間ハ一年ニ付概ネ四カ月ヲ標準トシ且継続シテ」行なう建て前とし、通年動員を認めたものでした。前年10月決定した「教育に関する戦時措置方策」で、年間の3分の1を勤労にあててよいことは同じでしたが、その動員期間が断続するものでなく「継続」するものとなり、動員の性格が従来の「教育実践ノ一環トシテ」の勤労動員から、「勤労即教育」と見なければならなくなった点は、大きな相違点となります。
 また、前日の1月17日には、「緊急国民勤労動員方策要綱」も閣議決定され、国民全体の勤労動員が強化されました。
 以下に、「緊急学徒勤労動員方策要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「学徒勤労動員」とは?

 昭和時代前期の日中戦争最中の1938年(昭和13)6月に、文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、学生・生徒は長期休業中に3~5日勤労奉仕することを義務づけられました。それを恒常化したのが1939年(昭和14)の木炭や食料の増産運動からで、学生・生徒は正課として作業に参加することになったのです。
 さらに、1941年(昭和16)2月には、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出され、同年8月には学校報国隊が結成されました。
 その後、太平洋戦争に突入し、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年(昭和18)6月24日に、東条内閣によって、「学徒戦時動員体制確立要綱」が出され、学徒勤労が決戦教育体制として位置づけられ、同年10月の「教育に関する戦時措置方策」で、年間の3分の1を勤労にあててよいこととなります。
 翌年1月8日には「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定され、勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられ、3月には通年実施と決定し、どんどん拡大していきました。その法令上の措置として、1944年(昭和19)8月23日に公布・施行されたものが、「学徒勤労令」で、同じ日に「女子挺身隊勤労令」も出されます。
 その後、動員は徹底的に強化され、11月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令されました。また、12月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置が決まり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとします。
 このような学徒の全面的な動員に対して、政府は12月「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、これに基づいて動員学徒援護会が設置されました。
 以後、この勅令は、昭和20年勅令第96号および同勅令第510号により2度改正がなされて、強化されます。
 この結果、敗戦時での動員学徒数は340万人を超えたといわれ、学徒動員による空襲等による死亡者は10,966人、傷病者は9,789人にも及びました。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、1945年(昭和20)10月11日をもって、この勅令は廃止されることになります。

〇緊急学徒勤労動員方策要綱 1944年(昭和19)1月18日 閣議決定

第一 方針

学徒勤労動員ニ関シテハ先ニ決定セル「学徒戦時動員体制確立要綱」及「教育ニ関スル戦時非常措置方策」ノ趣旨ヲ更ニ徹底シ勤労即教育ノ本旨ニ徴シ総合的且計画的ナル学徒勤労動員ヲ強力ニ実施シ戦力増強ニ挺身セシムルト共ニ戦局ノ現段階ニ処スベキ学徒ノ教育錬成ヲ完カラシムルモノトス

第二 要領

一、動員学徒ヲ勤労セシムベキ工場事業場ヲ特定シ通勤距離、学校又ハ学科ノ種類、学徒ノ年齢及性別等ヲ考慮シ学校ト工場事業場トヲ緊結シ其ノ特定部署ニ対シ通年恒常循環的ニ学徒ヲ動員スル如ク計画ヲ樹立スルコト
二、学徒ノ動員ハ学校ヲ基本トスル団体組織ニ依ルモノトシ当該学校ノ教職員ヲ中心トシテ之ヲ組織スルコト
三、学徒ノ従事スベキ工場事業場ニ於ケル作業ハ学校又ハ学科ノ種類、学徒ノ年齢及性別ヲ勘案シテ之ヲ適正ナラシムルコト
四、同一学徒ヲ勤労ニ動員スル期間ハ差当リ一年ニ付概ネ四ケ月ヲ標準トシ且継続シテ之ヲ行フヲ立前トスルコト
 尚学校又ハ学科ノ種類ニ依リテハ其ノ期間ヲ更ニ長期ナラシムルコトヲ考慮スルコト
五、状況ニ依リ工場事業場ヲシテ学校ノ校地、校舎内ニ設備ヲ講ジ又ハ材料ヲ供給セシメ学校内ニ於テ学徒ヲシテ生産ニ従事セシムルコトニ付テモ方途ヲ講ズルコト
六、前各項ノ外学徒ノ動員ニ関シテハ「学徒戦時動員体制確立要綱」(昭和十八年六月二十五日閣議決定)ニ依ルコト
七、特ニ学徒動員ノ運営ヲ円滑ニシ且其ノ教育実践ノ完璧ヲ期スル為文部省(又ハ地方長官)ノ推薦ニ係ル教職員又ハ関係官吏ヲシテ軍需監理官又ハ労務監理官ヲ兼任セシムルト共ニ関係工場事業場ニ学徒専門ノ勤労係員ヲ設置セシメ之ヲ文部省(又ハ地方庁)ノ嘱託トシ工場事業場ニ於ケル学徒勤労管理ノ徹底的刷新ヲ図ルコト
八、学徒動員ノ方法其ノ他必要ナル事項ニ付更ニ国家総動員法ニ基キ法的措置ヲ講ズルコト
九、学徒勤労管理関係者ノ識見向上ノ為速ニ講習其ノ他ノ必要ナル措置ヲ講ズルコト

備考

一、学徒ニ対シテハ其ノ動員セラレテ従事シタル工場事業場ノ作業ニ即応シ短期技術教育訓練ヲ実施スルト共ニ右教育訓練ヲ経タル学校卒業者ノ所遇ノ向上並ニ資格検定ニ付考慮スルコト
二、学徒勤労ニ対スル報酬方法ニ関シ別途考究スルモノトスルコト

 「内閣制度百年史 下」 内閣制度百年史編纂委員会編より

☆学徒勤労動員関係略年表

<1938年(昭和13)>
・6月9日 文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、学生・生徒は長期休業中に3~5日勤労奉仕することを義務づけられる

<1939年(昭和14)>
・3月 文部省は中等学校以上に対し、集団勤労作業を「漸次恒久化」し、学校の休業時以外も随時これを行ない、正課に準じることを指示する

<1941年(昭和16)>
・2月 「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」で、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出される
・8月 文部省の指示によって全国の諸学校において学校報国隊が結成される
・12月8日 太平洋戦争に突入

<1943年(昭和18)>
・6月24日 東条内閣によって、「学徒戦時動員体制確立要綱」が出され、学徒勤労が決戦教育体制として位置づけられる
・10月12日 「教育に関する戦時措置方策」で、年間の3分の1を勤労にあててよいこととなる

<1944年(昭和19)>
・1月8日 「緊急学徒勤労動員方策要綱」が出され、勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられる
・2月25日 閣議において「決戦非常措置要綱」が決定される
・3月7日 「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、勤労動員は通年実施となる
・4月27日 「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」で軍需工場へ動員されるようになる
・7月19日 文部省「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」が出され、中等学校低学年生徒の動員、深夜業を中等学校3年以上の男子だけでなく女子学徒にも課すことを指令
・8月23日 法令上の措置として、「学徒勤労令」が公布・施行される
・8月23日 「女子挺身隊勤労令」が出される
・11月 夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令される
・12月 中等学校卒業者の勤労動員継続の措置が決まり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとなる
・12月19日 「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、動員学徒援護会が設置される

<1945年(昭和20)>
・3月18日 「決戦教育措置要綱」が閣議決定され、一年の授業停止による学徒勤労総動員の体制がとられる
・5月22日 「戦時教育令」が公布される
・8月15日 「ポツダム宣言」を受諾する玉音放送が流され、太平洋戦争に敗れる
・10月11日 「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、勅令が廃止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1045年(寛徳2)第69代の天皇とされる後朱雀天皇の命日(新暦2月7日)詳細
1657年(明暦3)江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出す(新暦3月2日)詳細
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 今日は、江戸時代後期の1818年(文政元)に、洋風画家・蘭学者・随筆家司馬江漢の亡くなった日ですが、新暦では11月19日となります。
 司馬江漢(しば こうかん)は、1747年(延享4)に、江戸本芝の町家に生まれましたが、本名は安藤峻(通称は勝三郎・吉次郎)と言いました。1761年(宝暦11)15歳の時に、父の死をきっかけに、表絵師の駿河台狩野派の狩野美信(洞春)に学びましたが、19歳の頃、浮世絵師の鈴木春信にも学んで、春重の名を与えられ錦絵の版下を描いています。
 25歳の頃、宋紫石から南蘋派の写生体漢画を学び、一方で、1781年(天明1)頃まで肉筆美人画も多く描きました。また、平賀源内とも交わって、秋田蘭画の小田野直武に洋風画法を学び、1783年(天明3)には、大槻玄沢の協力を得て、日本最初のエッチング「三囲景図」を制作します。
 秋田蘭画を展開し、西洋画法による日本風景図を確立、油彩画も制作しました。長崎に赴いて学び、西洋科学の紹介者としても活躍、『地球全図略説』(1793年)、『和蘭天説』(1796年)、『和蘭通舶』(1805年)、『刻白爾天文図解』(1808年)などを著し、地動説の啓蒙にも努めています。
 晩年は、『独笑妄言』(1810年)『春波楼筆記』、『無言道人筆記』(1814年)などの随筆により、独特の人生哲学を説きましたが、1818年(文政元年10月21日)に、江戸において、数え年72歳で亡くなりました。

〇司馬江漢の代表的な絵画作品

・銅版画「三囲(みめぐり)景図」(1783年)神戸市立博物館蔵
・銅版画「銅版地球全図」
・洋風画「相州鎌倉七里浜図」(1796年)神戸市立博物館蔵 国指定重要文化財
・洋風画「異国風景人物図」神戸市立博物館蔵

〇司馬江漢の主要な著作

・『西遊旅譚』(1784年)
・『地球全図略説』(1793年)
・『和蘭天説』(1796年)
・『西洋画談』(1799年)
・『和蘭(オランダ)通舶』(1805年)
・『刻白爾(コッペル)天文図解』(1808年)
・随筆『独笑妄言(どくしょうもうげん)』(1810年)
・随筆『春波楼筆記』(1814年)
・随筆『無言道人筆記』(1814年)
・『天地理談』(1814年)
・『西遊日記』(1815年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1684年(貞享元)江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の誕生日(新暦11月27日)詳細
1971年(昭和46)小説家志賀直哉の命日(直哉忌)詳細
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 今日は、明治時代前期の1879年(明治12)に、経済学者・社会思想家河上肇の生まれた日です。
 河上肇(かわかみ はじめ)は、山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)で、旧岩国藩の下級士族の家に生まれました。岩国学校を経て、1898年(明治31)に山口高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学します。
 在学中に、内村鑑三、木下尚江らの講演を聞き、聖書を読み、1901年(明治34)には足尾鉱毒問題に関心を持って持ち物をすべて寄付しました。翌年大学卒業後、1903年(明治36)に東京帝国大学農科大学実科講師に就任し、経済原論、農政学業を教えるとともに刻苦して経済学を学びます。
 1905年(明治38)に「社会主義評論」を千山万水楼主人の筆名で「読売新聞」に連載、教職を辞し、無我愛を主張する伊藤証信の「無我苑」の生活に入りますが、間もなく脱退し、読売新聞社に入社しました。1907年(明治40)に「日本経済新誌」を創刊し、編集主幹となりましたが、翌年には京都帝国大学の講師、1909年(明治42)に助教授となって、研究生活を送ります。
 1913年(大正2)から2年間ヨーロッパへ留学し、帰国後教授となり経済学史や経済原論を担当、1916年(大正5)から「大阪朝日新聞」に『貧乏物語』を連載し、翌年出版して注目されました。1918年(大正7)に雑誌『社会問題研究』を刊行するとともに、マルクス主義の体系的な把握に努めるようになります。
 1923年(大正12)にマルクスの『賃労働と資本・労賃、価格及び利潤』を翻訳出版し、1925年(大正14)には『マルクス資本論略解』を刊行しました。1928年(昭和3)に『マルクス主義講座』の推薦文で筆禍を招き大学を辞職後、大山郁夫らと新労農党を結成したものの、意見が対立して別れます。
 その後、雑誌「改造」に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれました。1931年(昭和6)にマルクスの『政治経済学批判』、『資本論』(第1巻)を翻訳して刊行、翌年から地下運動に入り、コミンテルンが発表した「32年テーゼ」を翻訳します。
 その中で、日本共産党へ入党しましたが、1933年(昭和8)に検挙され、「治安維持法」違反で豊多摩刑務所に収監されました。1937年(昭和12)に出獄後は、『自叙伝』等の執筆に専念したものの、太平洋戦争後の1946年(昭和21)1月30日に、京都市左京区の自宅において、68歳で亡くなっています。

〇河上肇の主要な著作

・『日本尊農論』(1905年)
・『経済学原論』(1907年)
・『貧乏物語』(1917年)
・『資本主義経済学の史的発展』(1923年)
・翻訳『賃労働と資本・労賃、価格及び利潤』カール・マルクス作(1923年)
・『マルクス資本論略解』(1925年)
・『経済学大綱』(1928年)
・『マルクス主義経済学』(1928年)
・『第二貧乏物語』(1930年)
・翻訳『政治経済学批判』カール・マルクス作(1931年)
・翻訳『資本論(第1巻)』カール・マルクス作(1931年)
・『資本論入門』5巻(1932年)
・『雑草集 詩集』(1946年)
・『旅人 河上肇詩集』(1946年)
・『自叙伝』(1947~48年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)源平合戦富士川の戦いが行われる(新暦11月9日)詳細
1856年(安政3)農政家・思想家二宮尊徳の命日(新暦11月17日)詳細
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 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、彫刻家山本豊市が生まれた日です。
 山本豊市(やまもと とよいち)は、東京の四谷(現在の新宿区)で生まれましたが、本名は豊と言いました。錦成中学校在学中に戸張孤雁を知り、1917年(大正6)に卒業後に師事し、翌年より3年間、太平洋画会研究所でデッサンも学びます。
 1921年(大正10)の第8回再興院展に『トルソ(胴)』が初入選し、以後同展に出品、1923年(大正12)には、日本美術院院友に推挙されました。翌年から渡仏し、1925年(大正14)にA.マイヨールに師事して4年間学び、1928年(昭和3)にシベリヤ経由で帰国し、マイヨールを日本に紹介します。
 その後、1930年(昭和5)より日本大学で講師として教え、1932年(昭和7)には日本美術院同人となりました。その中で、日本の伝統的素材である漆を西洋的な造形に生かした乾漆技法を研究、1936年(昭和11)の第1回改組帝展に乾漆像『岩戸神楽』を出品、日本古来の素材を近代彫刻のなかによみがえらせたものとして高く評価されます。
 太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に東京美術学校講師となり、戦後院展に出品する一方、1950年(昭和25)より新樹会に参加、1953年(昭和28)には、前年作の『頭像』、『エチュード』により第5回毎日芸術賞を受賞しました。また、同年より東京芸術大学教授となり、1967年(昭和42)に停年退官後は、同大学名誉教授となるとともに、愛知県立芸術大学で教授として、後進の指導にあたります。
 一方で、1951年(昭和36)に彫刻家集団・SASを結成、1963年(昭和38)には国画会と合同、その彫刻部会員として、1975年(昭和50)の退会まで同会に出品しました。1983年(昭和58)には文化功労者として顕彰されましたが、1987年(昭和62)2月2日に、東京都新宿区の自宅において、87歳で亡くなっています。

〇山本豊市の代表的な作品

・『トルソ(胴)』(1921年)第8回日本美術院展入選
・『腰かけた女』(1925年)
・『スペインの娘』(1926年)
・『岩戸神楽』(1936年)第1回改組帝展出品
・『頭像』(1952年)第5回毎日美術賞受賞
・『エチュード』(1952年)第5回毎日美術賞受賞
・『とぶ』(1957年)
・『女の顔』(1958年)芸術選奨文部大臣賞受章
・『立女』(1959年)第4回新樹会展出品
・『大船観音』(1960年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1929年(昭和4)東京の日比谷公園に日比谷公会堂(当時東洋一の規模)が開場する詳細
1956年(昭和31)日本とソビエト連邦が「日ソ共同宣言」に調印する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、「国家総動員法」に基づいて「価格等統制令」が公布された日(施行は同月20日)です。
 「価格等統制令(かかくとうとうせいれい)」は、「国家総動員法」第19条に基づいて、物価のみならず、運送費、保管料、損害保険料、賃貸料などほとんどすべての価格を、同年9月18日現在の水準に釘づけする(公定価格)ことを目的としたもので、「9・18停止令」とも呼ばれました。同時に「地代家賃統制令」、「賃金臨時措置令」、「会社職員給与臨時措置令」も公布され、地代、家賃、賃金等も凍結されます。
 この背景には、日中戦争の長期化により生活に必要な物資や食糧が欠乏した上、さらに1939年(昭和14)9月には、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、諸物価が上昇したことがありました。しかし、表向きでは物資の値上げは出来なくなったものの、いわゆる闇価格が横行して、賃金が据え置かれた国民の窮乏化はさらに促進されることになります。
 ちなみに、1940年(昭和15)5月に司法省経済実務家会同に提出された資料によると、闇取引価格は、公定価格に対して綿糸・綿製品で4倍余、キャラコ・別珍で3~9倍、米・木炭で約4倍、丸釘・ブリキ・亜鉛板などが3~9倍となっていました。また、これによる経済の混乱は著しく、統制経済違反で多くの国民が摘発を受けることにもなります。
 この勅令は、太平洋戦争後の1946年(昭和21)3月3日に「物価統制令」が公布されたことにより廃止されました。
 以下に、「価格等統制令」(全21条)の最初の部分(第1条・第2条)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「価格等統制令」(全21条) 昭和14年10月16日勅令第703号

第一条 国家総動員法(昭和十三年勅令第三百十七号ニ於テ南洋群島二於テ依ル場合ヲ含ム以下同ジ)第十九条ノ規定ニ基キ価格、運送賃、保管料、損害保険料、賃貸料又ハ加工賃(以下価格等ト称ス)ニ関シ必要ナル命令ヲ為スハ別ニ定ムルモノヲ除クノ外本令ノ定ムル所ニ依ル

第二条 価格等ハ昭和十四年九月十八日(以下指定期日ト称ス)ニ於ケル額ヲ超エテ之ヲ契約シ、支払ヒ又ハ受領スルコトヲ得ズ但シ閣令ノ定ムル所ニ依リ価格等ノ支払者又ハ受領者ニ於テ行政官庁ノ許可ヲ受ケタル場合及本令施行ノ際現ニ存スル契約ニシテ其ノ際左ノ各号ノ一ニ該当スルモノニ付テハ此ノ限ニ在ラズ
一 注文生産品ノ価格ニ付生産者ガ生産ニ着手シタルモノ
ニ 其ノ他ノ価格ニ付買主其ノ他ノ支払者ガ目的物ノ引渡ヲ受ケタルモノ
三 運送賃又ハ加工賃ニ付運送人又ハ加工者ガ目的物ノ引渡ヲ受ケタルモノ
四 保管料、損害保険料又ハ賃貸料ニ付支払者ガ履行遅滞ニ在ルモノ
前項ノ指定期日ニ於ケル額ハ価格等ノ受領者ニ付テノ額ニ依リ受領者別ニ定マルモノトシ指定期日ニ為シタル契約アル場合ハ其ノ契約額(同ジ事情ノ下ニ於テ数種ノ契約額アリタルトキハ其ノ最高額)、偶々指定期日ニ為シタル契約ナカリシ場合ハ契約ヲ為シタルベキ額とス
価格等ニ付前項ノ規定ニ依ル額ナキ場合ニ於テハ閣令ノ定ムルモノヲ以テ指定期日ニ於ケル額トス

 (以下略)

 注:縦書きの原文を横書きに改め、旧字を新字に置き換えてあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)小説家葉山嘉樹の命日詳細
1955年(昭和30)長崎県大村湾口に当時日本一長さ(支間長:216m)の西海橋が開通する詳細

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