ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本化学会会長

mukaiyamateruaki01
 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、有機化学者向山光昭が生まれた日です。
 向山光昭(むかいやま てるあき)は、長野県上伊那郡手良村(現在の伊那市手良)において、父・向山幹夫と母・あき子の次男として生まれましたが、幼児期に東京へ転居しました。成蹊学園を経て、1945年(昭和20)に東京工業大学化学科に入学したものの、戦中から戦後の食糧難に苦しみます。
 その後、星野敏雄教授に師事し、1948年(昭和23)に卒業後、星野研究室に特別研究生として残り、1953年(昭和28)には、学習院大学理学部化学科講師となりました。1957年(昭和32)に助教授に昇任し、東京大学より博士号を取得、「置換尿素とウレタン類の熱解離反応の研究」で、第6回日本化学会進歩賞を受賞します。
 1958年(昭和33)に東京工業大学理学部化学科に移り助教授となり、1963年(昭和38)には教授に昇任しまた。1973年(昭和48)に東京大学理学部化学教室に移り、向山アルドール反応と呼ばれる化学反応を発見、第25回日本化学会学会賞を受賞します。
 1975年(昭和50)に第6回内藤記念科学振興賞、1978年(昭和53)に東レ科学技術賞、1983年(昭和58)には、日本学士院賞恩賜賞を受賞しました。1986年(昭和61)に日本化学会会長となり、コペルニクス・メダル(ポーランド)を授与され、1987年(昭和62)には、東京大学を定年退官し、東京理科大学理学部応用化学科に移り教授となり、「有機合成化学の新手法開拓に関する研究」で、藤原賞を受賞します。
 1989年(平成元)に有機合成化学協会会長となり、1991年(平成3)に有機合成化学協会会長を辞め、東京理科大学研究所長に着任、1992年(平成4)には、東京理科大学特任教授に着任、文化功労者となりました。1994年(平成6)に日本学士院会員となり、「有機合成化学における新機軸の確立」で、第10回有機合成化学協会特別賞を受賞、フランス共和国国家功労章「シュバリエ」を受章、1996年(平成8)には、アメリカ化学会想像的有機合成化学賞を受賞します。
 1997年(平成9)に文化勲章を受章、1998年(平成10)にテトラヘドロン賞(英国)を受賞、2002年(平成14)に東京理科大学を退職し、北里研究所基礎研究所有機合成化学研究室室長となり、2004年(平成16)には、全米科学アカデミー会員となりました。2006年(平成18)にバートン・ゴールドメダルを授与され、2009年(平成21)に北里研究所を退職し、東京化成工業株式会社基礎研究所技術顧問となりましたが、2018年(平成30)11月17日に、東京都内の病院において、肺炎により91歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇向山光昭の主要な著作

・『有機化学 (基礎化学シリーズ)』(1970年)
・『有機合成反応―新しい可能性を求めて』(1987年)
・『有機合成反応〈2〉さらなる可能性を求めて』(2010年)

☆向山光昭関係略年表

・1927年(昭和2)1月5日 長野県上伊那郡手良村(現在の伊那市手良)において、父・向山幹夫と母・あき子の次男として生まれる
・1933年(昭和6) 成蹊小学校(成蹊学園)へ入学する
・1939年(昭和14) 成蹊小学校から旧制成蹊中学校へ進む
・1943年(昭和18) 旧制成蹊中学校から旧制成蹊高等学校へ進む
・1945年(昭和20) 旧制成蹊高等学校を繰り上げ卒業し、東京工業大学化学科に入学、星野敏雄教授に師事する
・1948年(昭和23) 東京工業大学化学科を卒業後、星野研究室に特別研究生として残る
・1953年(昭和28) 学習院大学理学部化学科講師となる
・1957年(昭和32) 学習院大学理学部化学科助教授となり、東京大学より博士号を取得、「置換尿素とウレタン類の熱解離反応の研究」で、第6回日本化学会進歩賞を受賞する
・1958年(昭和33) 東京工業大学理学部化学科助教授となる
・1963年(昭和38) 東京工業大学理学部化学科教授となる
・1973年(昭和48) 東京大学理学部化学教室に移り、向山アルドール反応と呼ばれる化学反応を発見、第25回日本化学会学会賞を受賞する
・1975年(昭和50) 「生理活性物質の新合成法に関する研究」で第6回内藤記念科学振興賞を受賞する
・1978年(昭和53) 「新しい有機合成反応の開拓と天然有機化合物の合成」で、東レ科学技術賞を受賞する
・1983年(昭和58) 「有機合成化学の新手法開拓と生体関連物質の合成」で、日本学士院賞恩賜賞を受賞する
・1986年(昭和61) 日本化学会会長となり、コペルニクス・メダル(ポーランド)を授与される
・1987年(昭和62) 東京大学を定年退官し、東京理科大学理学部応用化学科に移り教授となり、「有機合成化学の新手法開拓に関する研究」で、藤原賞を受賞する
・1989年(平成元) 有機合成化学協会会長となる
・1991年(平成3) 有機合成化学協会会長を辞め、東京理科大学研究所長に着任する
・1992年(平成4) 東京理科大学特任教授に着任、文化功労者となる
・1994年(平成6) 日本学士院会員となり、「有機合成化学における新機軸の確立」で、第10回有機合成化学協会特別賞を受賞、フランス共和国国家功労章「シュバリエ」(Chevalier de l’Ordre National, France)を受章する
・1996年(平成8) ACS Award for Creative Work in Synthetic Organic Chemistry(アメリカ化学会想像的有機合成化学賞)を受賞する
・1997年(平成9) 文化勲章を受章する
・1998年(平成10) テトラヘドロン賞(英国)を受賞する
・2002年(平成14) 東京理科大学を退職し、北里研究所基礎研究所有機合成化学研究室室長となる
・2004年(平成16) 全米科学アカデミー会員となる
・2006年(平成18) Sir Derek Barton Gold Medal(バートン・ゴールドメダル)を授与される
・2009年(平成21) 北里研究所を退職し、東京化成工業株式会社基礎研究所技術顧問となる
・2018年(平成30)11月17日 東京都内の病院において、肺炎により91歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(正平3)楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との四条畷の戦いに敗れ自刃(新暦2月4日)詳細
1593年(文禄2)第106代の天皇とされる正親町天皇の命日(新暦2月6日)詳細
1963年(昭和38)「三八豪雪」が始まり、日本海側に記録的大雪をもたらす詳細
1974年(昭和49)中国の北京において、「日中貿易協定」が締結(同年6月22日発効)される詳細
1978年(昭和53)陶芸家・人間国宝濱田庄司の命日詳細
1995年(平成7)地球物理学者・歌人和達清夫(筆名:西須諸次)の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

nagakurasaburou01
 今日は、平成時代の2020年(平成32)に、物理化学者長倉三郎が亡くなった日です。
 長倉三郎(ながくら さぶろう)は、大正時代の1920年(大正9)10月3日に、静岡県駿東郡鷹根村(現在の沼津市)柳沢において生まれました。県立沼津中学校(現在の沼津東高校)、旧制静岡高等学校を経て、1943年(昭和18)に、東京帝国大学理学部化学科を卒業します。
 大学院へ進学したものの、休学して海軍技術見習尉官に任じられ、青島方面特別根拠地付を命じられ、海軍技術大尉として終戦を迎えました。1945年(昭和20)に東京帝国大学放射線化学研究所嘱託となり、水島三一郎に師事、翌年同研究所助手となり、1949年(昭和24には助教授に昇任します。
 1953年(昭和28)に、論文「不飽和化合物の電子構造の研究」によって、東京大学より理学博士号を取得、1955年(昭和30)からアメリカへ留学し、ロバート・マリケン(シカゴ大学)が主宰する分子構造・分光研究室で研究に従事、1957年(昭和32)に帰国しました。1959年(昭和34)に、東京大学物性研究所教授となり、1961年(昭和36)に理化学研究所主任研究員を兼務、1966年(昭和41)には、「分子の電子構造ならびに分子間の相互作用に関する研究」によって、第18回日本化学会賞を受賞します。
 1971年(昭和46)に「分子化合物の電子論研究」により朝日賞、1978年(昭和53)には、「短寿命励起分子及び反応中間体の電子構造と反応性の研究」により、第68回日本学士院賞を受賞しました。1981年(昭和56)に定年退官して名誉教授、分子化学研究所所長となり、国際純正・応用化学連合 IUPACの会長に日本人で初めて就任、1984年(昭和59)には、日本化学会会長、日本学士院会員となります。
 1985年(昭和60)に日本化学会会長を辞め、岡崎国立共同研究機構の機構長となり、文化功労者、1988年(昭和63)には、岡崎国立共同研究機構の機構長を辞め、総合研究大学院大学長となりました。1990年(平成2)に文化勲章を受章、1991年(平成3)に沼津市名誉市民、1992年(平成4)には武蔵野市名誉市民となります。
 1995年(平成7)に総合研究大学院大学長を辞め、公益財団法人神奈川科学技術アカデミー理事長となり、勲一等瑞宝章を受章するなど数々の栄誉に輝きました。2001年(平成13)に日本学士院第23代院長となり、2003年(平成15)に公益財団法人神奈川科学技術アカデミー理事長を辞め、武蔵野地域自由大学学長となります。
 2008年(平成17)には、神奈川大学特別招聘教授となりましたが、2020年(平成32)4月16日に、東京において、99歳で亡くなり、従三位が追贈されました。

〇長倉三郎の主要な著作

・水島三一郎との共著『量子化学』(1959年)
・『有機電子理論 主として分子軌道法による』(1966年)
・『「複眼的思考」ノススメ 調和が必要な変革の時代を迎えて』(2011年)

☆長倉三郎関係略年表

・1920年(大正9)10月3日 静岡県駿東郡鷹根村(現在の沼津市)柳沢において、生まれる
・1938年(昭和13) 県立沼津中学校(現在の沼津東高校)を卒業する
・1941年(昭和16) 旧制静岡高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部へ進む
・1943年(昭和18) 東京帝国大学理学部化学科を卒業する
・1945年(昭和20) 東京帝国大学放射線化学研究所嘱託となり、水島三一郎に師事する
・1946年(昭和21) 東京帝国大学放射線化学研究所助手となる
・1949年(昭和24) 東京大学放射線化学研究所助教授となる
・1953年(昭和28) 論文「不飽和化合物の電子構造の研究」によって、東京大学より理学博士号を得る
・1955年(昭和30) アメリカへ留学し、ロバート・マリケン(シカゴ大学)が主宰する分子構造・分光研究室で研究に従事する
・1957年(昭和32) 留学先から帰国する
・1959年(昭和34) 東京大学物性研究所教授となる
・1961年(昭和36) 理化学研究所主任研究員を兼務する
・1966年(昭和41) 「分子の電子構造ならびに分子間の相互作用に関する研究」によって、第18回日本化学会賞を受賞する
・1971年(昭和46) 「分子化合物の電子論研究」により朝日賞を受賞する
・1978年(昭和53) 「短寿命励起分子及び反応中間体の電子構造と反応性の研究」で第68回日本学士院賞を受賞する
・1981年(昭和56) 定年退官して名誉教授、分子化学研究所所長となり、国際純正・応用化学連合 IUPACの会長に日本人で初めて就任する
・1984年(昭和59) 日本化学会会長、日本学士院会員となる
・1985年(昭和60) 日本化学会会長を辞め、岡崎国立共同研究機構の機構長となり、文化功労者ともなる
・1988年(昭和63) 岡崎国立共同研究機構の機構長を辞め、総合研究大学院大学長となる
・1990年(平成2) 文化勲章を受章する
・1991年(平成3) 沼津市名誉市民となる
・1992年(平成4) 武蔵野市名誉市民となる
・1995年(平成7) 総合研究大学院大学長を辞め、公益財団法人神奈川科学技術アカデミー理事長となり、勲一等瑞宝章を受章する
・1996年(平成8) インド国立科学アカデミー ジャワハルラール・ネルー生誕百年記念メダルを得る
・1997年(平成9) チェコ科学アカデミー ヤロスラフ・ヘイロフスキー名誉メダルを得る
・2001年(平成13) 日本学士院第23代院長となる
・2003年(平成15) 公益財団法人神奈川科学技術アカデミー理事長を辞め、武蔵野地域自由大学学長となる
・2007年(平成16) 日本学士院第23代院長を辞める
・2008年(平成17) 神奈川大学特別招聘教授となる
・2016年(平成28) 武蔵野地域自由大学学長を辞める
・2020年(平成32)4月16日 東京において、99歳で亡くなり、従三位が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)大隈重信らが立憲改進党を結成する詳細
1884年(明治31)柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)完成により長浜~敦賀の鉄道(敦賀線、後の北陸本線)が開業する詳細
1910年(明治43)輪島町の大火で、全焼1,055軒、半焼15軒の被害を出す詳細
1945年(昭和20)小説家田村俊子の命日詳細
1956年(昭和31)日本道路公団が設立される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

morinoyonezou01
 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、物理化学者森野米三の生まれた日です。
 森野米三(もりの よねぞう)は、大阪府大阪市において生まれ、今宮中学校(現在の府立今宮高校)、大阪高校を経て、東京帝国大学理学部に入学し、片山正夫に師事しました。1931年(昭和6)に同大学理学部化学科を卒業し、化学研究所の研究生(片山研究室)となり、1937年(昭和12)には、「液体及ビ液体混合物ノ界面自由エネルギーニ就テ」で理学博士を取得します。
 1940年(昭和15)に東京帝国大学助教授となり、翌年には、水島三一郎と共同でラマン分光法を使いエタン誘導体の回転異性体を発見しました。1942年(昭和17)に「分子の基準振動に関する研究」で日本化学会櫻井褒賞を受賞、翌年には、名古屋帝国大学教授となります。
 1945年(昭和20)に東京大学教授を兼任し、1948年(昭和23)に専任となり、1964年(昭和39)には、「気体電子線回折およびマイクロ波分光による分子構造の研究」で日本学士院賞を受賞しました。1969年(昭和44)に東京大学を定年退官し、名誉教授となり、翌年に相模中央化学研究所所長、1971年(昭和46)には社団法人日本化学会会長となります。
 1972年(昭和47)に財団法人相模中央化学研究所副理事長となり、1973年(昭和48)には、「分子構造の研究」で藤原賞を受賞しました。1976年(昭和51)に分子科学研究所評議員、財団法人東レ科学振興会評議員となり、1978年(昭和53)には、財団法人相模中央化学研究所最高顧問となります。
 構造化学分野の創始に貢献したことにより、1980年(昭和55)に勲二等瑞宝章を受章、翌年には、文化功労者顕彰を受けました。1982年(昭和57)に財団法人伊藤科学振興会評議員、財団法人東レ科学振興会理事、1984年(昭和59)に岡崎国立共同研究機構分子科学研究所研究顧問となり、1985年(昭和60)には、私財5千万円で「公益信託分子科学研究奨励森野基金」を設立します。
 1992年(平成4)に文化勲章を受章、1993年(平成5)には、財団法人相模中央化学研究所顧問となったものの、1995年(平成7)10月24日に、神奈川県において、87歳で亡くなりました。

〇森野米三関係略年表

・1908年(明治41)8月31日 大阪府大阪市において生まれる
・1931年(昭和6) 東京帝国大学理学部化学科を卒業し、化学研究所の研究生(片山研究室)となる
・1937年(昭和12) 東京帝国大学助手となり、「液体及ビ液体混合物ノ界面自由エネルギーニ就テ」で理学博士を得る
・1940年(昭和15) 東京帝国大学助教授となる
・1941年(昭和16) 水島三一郎と共同でラマン分光法を使いエタン誘導体の回転異性体を発見する
・1942年(昭和17) 「分子の基準振動に関する研究」で日本化学会櫻井褒賞を受賞、名古屋帝国大学講師となる
・1943年(昭和18) 名古屋帝国大学教授となる
・1945年(昭和20) 東京大学教授を兼任する
・1948年(昭和23) 東京大学教授専任となる
・1964年(昭和39) 「気体電子線回折およびマイクロ波分光による分子構造の研究」で日本学士院賞を受賞する
・1969年(昭和44) 東京大学を定年退官し、名誉教授となる
・1970年(昭和45) 相模中央化学研究所所長となる
・1971年(昭和46) 社団法人日本化学会会長となる
・1972年(昭和47) 財団法人相模中央化学研究所副理事長となる
・1973年(昭和48) 「分子構造の研究」で藤原賞を受賞する
・1976年(昭和51) 分子科学研究所評議員、財団法人東レ科学振興会評議員となる
・1978年(昭和53) 財団法人相模中央化学研究所最高顧問となる
・1980年(昭和55) 勲二等瑞宝章を受章する
・1981年(昭和56) 文化功労者顕彰を受ける
・1982年(昭和57) 財団法人伊藤科学振興会評議員、財団法人東レ科学振興会理事となる
・1984年(昭和59) 岡崎国立共同研究機構分子科学研究所研究顧問となる
・1985年(昭和60) 私財5千万円で「公益信託分子科学研究奨励森野基金」を設立する
・1992年(平成4) 文化勲章を受章する
・1993年(平成5) 財団法人相模中央化学研究所顧問となる
・1995年(平成7)10月24日 神奈川県において、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)日本画家、南画家小室翠雲の誕生日詳細
1878年(明治11)日本画家鏑木清方(かぶらき きよかた)の誕生日詳細
1896年(明治29)陸羽地震(マグニチュード7.2)が起こり、死者209人、負傷者779人を出す詳細
1913年(大正2)お雇い外国人であるドイツ人医師E・von ベルツの命日詳細
1970年(昭和45)小説家・検察官・弁護士佐賀潜の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ