ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本労働総同盟

dainihonroudousoudoumeiyuua
 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、友愛会が7周年大会で、大日本労働総同盟友愛会に改称し、理事の合議制、会長の公選などを決定した日です。
 友愛会(ゆうあいかい)は、鈴木文治等によって結成された労働者団体です。当初は労使協調主義の立場にたち、共済・修養を目的とした性格が強いものでした。その後、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義が発展して労働者が増加する中で、組織は拡大し、1918年(大正7)には120支部、会員約3万人に発展することになります。
 また、1917年(大正6)のロシア革命、1918年(大正7)の米騒動などの民衆蜂起の高揚、1919年(大正8)のILO(国際労働機関)の創設と労働憲章の発表などに影響されて、労働者の階級的自覚も高まって、1919年(大正8)8月30日の7周年大会では、大日本労働総同盟友愛会と改称し、理事の合議制、会長の公選などを決定するに至ります。そして、労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導し、1921年(大正10)には、日本労働総同盟と再度改称しました。

〇友愛会綱領(1912年結成当初)

第一条:我等は互に親睦し、一致協力して、相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
第二条:我等は公共の理想に従い、識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す。
第三条:我等は共同の力に依り、着実なる方法を以て、我等の地位の改善を図らんことを期す。

〇20ヶ条の主張(1919年第7周年大会)

(1)労働非商品の原則
(2)労働組合の自由
(3)十四歳未満の幼年労働の廃止
(4)最低賃金制度の確立
(5)同一労働に対する男女平等賃金制の確立
(6)一周一日、日曜日の休日
(7)八時間労働および一週四十八時間制
(8)夜業禁止
(9)婦人労働監督官の設置
(10)労働保険法の実施
(11)争議仲裁法の発布
(12)失業防止
(13)内外労働者の同一待遇
(14)労働者住宅を公営にて改良をはかること
(15)労働賠償制度の確立
(16)内職労働の改善
(17)契約労働の廃止
(18)普通選挙
(19)治安警察法の改正
(20)教育制度民主化

〇友愛会関係略年表(日本労働総同盟と改称まで)

・1912年(大正元)8月1日、東京帝国大学卒業の法学士鈴木文治(ぶんじ)を会長に15人の労働者によって結成される
・1912年(大正元)11月 機関紙『友愛新報』を創刊する
・1914年(大正3)11月 月刊誌『労働及産業』と改題する
・1916年(大正5)6月 日本の労働組合で初めて婦人部を設け、機関誌『友愛婦人』を発刊する
・1917年(大正6) 労働争議を直接組織したり指導するようになる
・1918年(大正7)4月 120支部、会員約3万人に発展する
・1918年(大正7) 米騒動が起きる
・1919年(大正8) 国際労働機関(ILO)が創設され労働憲章が発表される
・1919年(大正8)8月30日 大日本労働総同盟友愛会と改称し、会長独裁制を理事合議制に改め、主張として労働者の要求20項目(労働組合の自由など)を掲げる
・1920年(大正9)1月 月刊誌『労働及産業』を『労働』と改題する
・1920年(大正9)10月 「大」の字を去って、日本労働総同盟友愛会と改称する
・1921年(大正10)10月 「友愛会」の文字も捨て、名実ともに労働組合としての日本労働総同盟となる

☆日本労働総同盟(にほんろうどうそうどうめい)とは?

 大正時代の1912年(大正元)に鈴木文治等によって結成された労働者団体「友愛会」が前身となります。当初は労使協調主義の立場にたち、共済・修養を目的とした性格が強いものでした。その後、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義が発展して労働者が増加する中で、組織は拡大し、1918年(大正7)には120支部、会員約3万人に発展することになります。
 また、1917年(大正6)のロシア革命、1918年(大正7)の米騒動などの民衆蜂起の高揚、1919年(大正8)のILO(国際労働機関)の創設と労働憲章の発表などに影響されて、労働者の階級的自覚も高まって、1919年(大正8)には、「大日本労働総同盟友愛会」と改称するに至りました。そして、労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導し、1921年(大正10)には、日本労働総同盟と再度改称します。
 1923年(大正12)の共産党弾圧事件の後、松岡駒吉・西尾末広らの右派が勢力を得て、改良主義的・議会主義的傾向が強まり、1925年(大正14)5月には、左派系組合を除名し、総同盟は二つに分裂、左派系は「日本労働組合評議会」を結成し、総同盟の勢力は半減(第1次分裂)します。その後、1926年(大正15)に中間派により「日本労働組合同盟」が分離結成され(第2次分裂)、1929年(昭和4)には、脱退派が「労働組合全国同盟」(全国同盟)を結成(第3次分裂)しました。
 1931年(昭和6)の満州事変後、反無政府主義、反共産主義、反ファシズムの三反主義を掲げるようになり、1932年(昭和7)には、改良主義組合を糾合して、「全国労働組合会議」・「日本海員組合」など11団体28万人からなる「日本労働組合会議」(日労会議)の結成により、当時の労働運動の最大勢力となります。さらに、1936年(昭和11)に中間派の統一した「全国労働組合同盟」(全労)と合同して「全日本労働総同盟」(全総)を結成しました。
 1937年(昭和12)から始まる日中戦争では「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示します。しかし、旧全労系は組合の産業報国会への解消を主張して、1939年(昭和14)に脱退、残留派は「日本労働総同盟」の名称に戻した組合を残しつつ、産業報国会への協力の方針を取りました。
 ところが、政府の労働組合否認や軍部の圧力に抗しきれず、1940年(昭和15)には、ついに自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めています。その後、同年11月23日に、労働者を戦争協力に動員することを目的として設立された官民共同の勤労者統制組織「大日本産業報国会」が結成されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)江戸幕府が古賀謹一郎を頭取として、九段下に洋学所(後の蕃書調所)を設立する(新暦10月10日)詳細
1863年(文久3)洋画家原田直次郎の誕生日(新暦10月12日)詳細
1872年(明治5)「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)が出される(新暦10月2日)詳細
1900年(明治33)幸徳秋水の『自由党を祭る文』が「万朝報」に掲載される詳細
1940年(昭和15)松岡洋右外相とアンリ仏大使が「北部仏印進駐に関する協定(松岡・アンリ協定)」を締結する詳細
1941年(昭和16)「金属類回収令」が公布される詳細
1984年(昭和59)小説家・劇作家・演出家有吉佐和子の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、野田醤油労働組合が全員参加の無期限ストライキ(第2次野田醤油労働争議)に突入した日です。
 野田醤油労働争議(のだしょうゆ ろうどうそうぎ)は、千葉県東葛飾郡野田町(現在の野田市)にある野田醤油株式会社(現在のキッコーマン)において、1922年(大正11)~1928年(昭和3)にかけて、連続的に闘われた労働争議でした。1921年(大正10)に、野田醤油労働組合が結成され、日本労働総同盟支部として全国的な労働組織に所属します。
 1923年(大正12)3月16日に、組合員2,600人がストライキに突入(第1次争議)し、4月12日には、労使双方から知事一任を取り付け、調停案による決着がはかられ、作業量の見直しや解雇者の再採用などを文書で確認し、争議が終わりました。その後、1927年(昭和2)4月に、野田醤油労働組合は、会社に賃上げなどを要求しましたが交渉は決裂、会社側は露骨な組合切りくずしを始めたため、同年9月16日に、労働者1,358人は、待遇改善を再度求めて、全員参加の無期限ストライキに突入(第2次争議)します。
 会社側は、ストライキ参加者1,047名を解雇し、町の諸機関、警察、暴力団などを利用して弾圧を開始しました。組合側はこれに対抗して、日本労働総同盟(総同盟)の全面指導下に闘争を展開し、児童の同盟休校、醤油不買などを展開し、欲年3月20日には、東京駅頭丸の内ビル脇で野田争議団副団長堀越梅男による昭和天皇への直訴事件も起きます。
 その後、双方の調停役を務める協調会が斡旋し千葉県知事が立ちあって労使双方による交渉が持たれ、4月20日のストライキ勃発から216日目に、300人の再雇用と解雇手当総額45万円を内容とした「野田醤油問題解決協定」が成立し、組合側の惨敗で終了しました。4月30日には、争議団は解散を決議し、総同盟関東労働同盟会醸造労組野田支部は壊滅しています。
 尚、『文藝戦線』1928年2月号に、黒島伝治と鶴田知也の共同執筆で、「野田争議の実状」というルポが発表され、さらに同誌の1929年4月号に、黒島伝治が「野田争議敗戦まで」を書いて、その争議の実状が流布されました。

〇黒島伝治著「野田争議敗戦まで」(抜粋)

 一昨年の九月十六日大争議が勃発すると、会社は組合を叩き潰すことに、全力を傾注した。それから組合は、田中内閣の極端な反動政策と必死になった会社の圧迫、堕落幹部の裏切に耐え、二百十七日間頑張った。会社は反動団体の暴力を利用して組合員がそれに応じると、官権の峻厳な取締によって、争議団を崩壊させようとしたり、スパイを使って組合を切崩そうとしたり、組合員の食糧庫である購買組合を遠島某に大部の金を掴まして差押えさせたり、附近の村から新工員を募って、事業を継続するなど、約二百円の金を費って、組合叩潰しに熱中した。暴力団は争議団の演説会場を攪乱した。それから組合の事務所を叩潰した。ある晩には組合員の三名が、暴漢に鋭利な短刀で刺され、悲鳴が町にこだました。負傷者は医者に連れて行かれて手当を受けたが、不思議な事は、五分も経たない内に、会社から医者へ電話が掛り、傷の軽重を問合せて来たという。暴力団の背後に会社が、糸を繰っていることはこれによっても明白である。四月二十日になって、到頭争議団も屈伏するの止むなきに至った。その前、協調会で取交された覚書は、会社側から云えば、まるで征服者の解決条件である。争議団から云えば戦敗者の屈服的な解決条件であった。七百名の解雇者を出さなければならない。七百名と云えば争議団の殆ど七割である。

☆野田醤油労働争議関係略年表

・1919年(大正8)1月 野田町(当時)に本社・工場を構える野田醤油の労働者1300人が給与と賞与の増額を求めてストライキに入り、賃金増額の要求が拒否されると辞職戦術をとって多数の労働者が転職した
・1921年(大正10)1月 野田醤油労働組合が結成される
・1921年(大正10)12月 日本労働総同盟支部として全国的な労働組織に所属する
・1923年(大正12) 工場経営の方針転換に着手する
・1923年(大正12)3月16日 組合員2,600人がストライキに突入する(第1次争議)
・1923年(大正12)4月12日 労使双方から知事一任を取り付け、調停案による決着がはかられ、作業量の見直しや解雇者の再採用などを文書で確認し、争議が終わる
・1927年(昭和2)4月 野田醤油労働組合は、会社に賃上げなどを要求する
・1927年(昭和2)9月16日 野田醤油会社の労働者1,358人は、待遇改善を再度求めて、全員参加の無期限ストライキに突入する(第2次争議)
・1928年(昭和3)2月 黒島伝治と鶴田知也の共同執筆で、『文藝戦線』1928年2月号に「野田争議の実状」というルポが発表される
・1928年(昭和3)3月 『プロレタリア芸術』1928年3月号に、西沢隆二がこの争議に取材した、「野田へ行く」という短い作品を発表する
・1928年(昭和3)3月20日 東京駅頭丸の内ビル脇で野田争議団副団長堀越梅男による天皇直訴事件が突発する
・1928年(昭和3)4月20日 ストライキ勃発から216日目に、300人の再雇用と解雇手当総額45万円を内容とした「野田醤油問題解決協定」が成立し、組合の惨敗で終了する
・1928年(昭和3)4月30日 争議団は解散を決議し、総同盟関東労働同盟会醸造労組野田支部は壊滅する
・1929年(昭和4)4月 黒島伝治が『文芸戦線』1929年4月号に「野田争議敗戦まで」を書く

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1086年(応徳3)藤原通俊が『後拾遺和歌集』を完成し、奏上する(新暦10月26日)詳細
1789年(寛政元)江戸幕府が旗本・御家人救済の為の「棄捐令」を発布する(新暦11月3日)詳細
1793年(寛政5)武士・画家渡辺崋山の誕生日(新暦10月20日)詳細
1890年(明治23)和歌山県串本沖でオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号遭難事件が起こる詳細
1948年(昭和23)アイオン台風が関東・東北に襲来し、死者・行方不明者838人を出す詳細
1961年(昭和36)第2室戸台風が近畿地方に上陸し、死者行方不明202人を出す詳細
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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、「日本労働総同盟」が自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めた日です。
 「全日本労働総同盟」(全総)は、1937年(昭和12)に日中戦争が勃発すると、「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示しましたが、時の政府は産業報国運動を推進ました。そこで、旧全労系は組合の産業報国会への解消を主張して、1939年(昭和14)7月に脱退、残留派は「日本労働総同盟」の名称に戻した組合を残しつつ、産業報国会への協力の方針を取ります。
 しかし、政府の労働組合否認や軍部の圧力に抗しきれず、1940年(昭和15)7月21日には、ついに自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めました。その後、同年11月23日に、労働者を戦争協力に動員することを目的として設立された官民共同の勤労者統制組織「大日本産業報国会」が結成されています。

〇大日本産業報国会(だいにっぽんさんぎょうほうこくかい)とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)11月23日に、戦時下において、労働者を戦争協力に動員することを目的として設立された官民共同の勤労者統制組織です。
 日中戦争が全面化する中で、1938年(昭和13)7月30日に、協調会時局対策委員会第二専門委員会が作成した「労資関係調整方策」の建議に基づいて産業報国連盟が発足、自主的運動をたてまえに産業報国運動が全国的に始まりました。連盟は「労資一体」、「産業報国」の理念を普及しますが、実際の指導は官憲が担うことになり、1939年(昭和14)4月28日、内務・厚生両省は知事ないしは警視総監を会長とする道府県産業報国連合会の設置を指示、警察の指導下で事業所単位に単位産業報国会(会長は社長、各役員はおおむね職制が任命される)が続々と結成され、その各府県連合会の会長に道府県知事、支部長には各管区の警察署長が就きます。
 その結果会員数は、同年中に299万人、翌年には、482万人(推定組織率66%)に達しました。1940年(昭和15)11月4日に第二次近衛文麿内閣は、「勤労新体制確立要綱」を閣議決定し、これに基づいて産業報国連盟は解散、同年11月23日の大日本産業報国会設立へと至ります。同会の会長には平尾釟三郎、理事長には湯沢三千男が就き、産業報国精神の高揚、職場規律の確立、生産力増強達成などを目指しました。
 また、労務管理、特配物資配給機関としても機能し、機関紙誌として「産業報国新聞」、「産報」、「職場の光」、「ちから」を発行します。1942年(昭和17)6月23日には、農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会と共に大政翼賛会に加わり、以後労働強化・戦争協力を労働者に強制していきました。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)9月30日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解散しています。

〇大日本産業報国会創立宣言

 今や世界は未曽有の転換期に際会す。皇国亦東亜新秩序建設に任じ、世界新秩序完成に邁進せんとす。その使命洵に宏大なり。
 然れども高度国防国家体制とその根幹たる新産業労働体制を確立するに非ざれば、何んぞその使命を果し得べけん。
 凡そ皇国産業の真姿は、肇国の精神に基づき、全産業一体、事業一家、以て職分に奉公し皇運を扶翼し奉るにあり。全産業人は、資本経営労務の有機的一体を具現し、皇民勤労の真諦を発揮し、以て国力の増強に邁進せざるべからず。皇国躍進の基調竝に存す。我等皇国産業に与る者、夙に念ひをここに致し、洽く職場に産業報国会を組織し、産業報国精神の高揚実践に挺身し来れり。為に全産業人協心戮力の実漸く挙り、勤労の創意、能力亦大に伸暢し、産業労働界はその面目を一新せんとす。この成果と組織を総括して一大国民運動たらしむるの要今や極めて切なるものあり。
 皇紀二千六百年の秋、新嘗祭の佳き日をトし、我等ここに大日本産業報国会を結成し、光輝ある新任務に就かんとす。我等の使命は、実に愛国の至情を産業報国運動に結集して曠古の国難を克服し、以て永遠不動の皇国産業道を樹立せんとするにあり。責務の重きを念ひ、決意更に新たなり。勇躍、我等行かんとす!
 職場は我等にとって臣道実践の道場なり。勤労は我等にとって奉仕なり、歓喜なり、栄誉なり。手段に非ずして目的なり。艱苦欠乏何かあらん。剛健なる意志、不屈の気概、範を垂れ衆を化し、塵烟の下、響音の裡分を尽し職に生き、以て皇国の弥栄を効さむ。
 右宣言す。
 紀元二千六百年十一月二十三日

〇大日本産業報国会綱領

一、我等ハ国体ノ本義ニ徹シ全産業一体報告ノ実ヲアゲ以テ皇運ヲ扶翼シ奉ラムコトヲ期ス
一、我等ハ産業ノ使命ヲ体シ事業一家職分奉公ノ誠ヲ徹シ以テ皇国産業ノ興隆ニ総力ヲ竭サムコトヲ期ス
一、我等ハ勤労ノ真義ニ生キ剛健明朗ナル生活ヲ建設シ以テ国力ノ根抵ニ培ハムコトヲ期ス

   国立国会図書館デジタルコレクション「大日本産業報国会要覧」より

〇「日本労働総同盟」とは? 

 大正時代の1912年(大正元)に鈴木文治等によって結成された労働者団体「友愛会」が前身となります。当初は労使協調主義の立場にたち、共済・修養を目的とした性格が強いものでした。
 その後、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義が発展して労働者が増加する中で、組織は拡大し、1918年(大正7)には120支部、会員約3万人に発展することになります。また、1917年(大正6)のロシア革命、1918年(大正7)の米騒動などの民衆蜂起の高揚、1919年(大正8)のILO(国際労働機関)の創設と労働憲章の発表などに影響されて、労働者の階級的自覚も高まって、1919年(大正8)には、「大日本労働総同盟友愛会」と改称するに至りました。そして、労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導し、1921年(大正10)には、日本労働総同盟と再度改称します。
 1923年(大正12)の共産党弾圧事件の後、松岡駒吉・西尾末広らの右派が勢力を得て、改良主義的・議会主義的傾向が強まり、1925年(大正14)5月には、左派系組合を除名し、総同盟は二つに分裂、左派系は「日本労働組合評議会」を結成し、総同盟の勢力は半減(総同盟の第1次分裂)します。その後、1926年(大正15)に中間派により「日本労働組合同盟」が分離結成され(総同盟の第2次分裂)、1929年(昭和4)には、脱退派が「労働組合全国同盟」(全国同盟)を結成(総同盟の第3次分裂)しました。
 1931年(昭和6)の満州事変後、反無政府主義、反共産主義、反ファシズムの三反主義を掲げるようになり、1932年(昭和7)には、改良主義組合を糾合して、「全国労働組合会議」・「日本海員組合」など11団体28万人からなる「日本労働組合会議」(日労会議)の結成により、当時の労働運動の最大勢力となります。さらに、1936年(昭和11)に中間派の統一した「全国労働組合同盟」(全労)と合同して「全日本労働総同盟」(全総)を結成しました。
 1937年(昭和12)から始まる日中戦争では「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示します。しかし、旧全労系は組合の産業報国会への解消を主張して、1939年(昭和14)に脱退、残留派は「日本労働総同盟」の名称に戻した組合を残しつつ、産業報国会への協力の方針を取りました。ところが、政府の労働組合否認や軍部の圧力に抗しきれず、1940年(昭和15)には、ついに自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めています。

☆「日本労働総同盟」関係略年表(友愛会結成~日本労働総同盟解散まで)

・1912年(大正元)8月1日、東京帝国大学卒業の法学士鈴木文治(ぶんじ)を会長に15人の労働者によって「友愛会」が結成される
・1912年(大正元)11月 機関紙『友愛新報』を創刊する
・1914年(大正3)11月 月刊誌『労働及産業』と改題する
・1916年(大正5)6月 日本の労働組合で初めて婦人部を設け、機関誌『友愛婦人』を発刊する
・1917年(大正6) 労働争議を直接組織したり指導するようになる
・1918年(大正7)4月 120支部、会員約3万人に発展する
・1918年(大正7) 米騒動が起きる
・1919年(大正8) 国際労働機関(ILO)が創設され労働憲章が発表される
・1919年(大正8)9月 大日本労働総同盟友愛会と改称し、会長独裁制を理事合議制に改め、主張として労働者の要求20項目(労働組合の自由など)を掲げる
・1920年(大正9)1月 月刊誌『労働及産業』を『労働』と改題する
・1920年(大正9)10月 「大」の字を去って、「日本労働総同盟友愛会」と改称する
・1921年(大正10)10月 「友愛会」の文字も捨て、名実ともに労働組合としての「日本労働総同盟」となる
・1923年(大正12) 共産党弾圧事件ののち、松岡駒吉・西尾末広らの右派が勢力を得て、改良主義的・議会主義的傾向が強まる
・1925年(大正14)5月 左派系組合を除名し、総同盟は二つに分裂、左派系は「日本労働組合評議会」を結成し、総同盟の勢力は半減する(総同盟の第1次分裂)
・1926年(大正15)12月 中間派により「日本労働組合同盟」が分離結成される(総同盟の第2次分裂)
・1929年(昭和4)9月 脱退派が「労働組合全国同盟」(全国同盟)を結成する(総同盟の第3次分裂)
・1931年(昭和6) 満州事変後、反無政府主義、反共産主義、反ファシズムの三反主義を掲げる
・1932年(昭和7) 「全国労働組合会議」・「日本海員組合」など11団体28万人からなる「日本労働組合会議」(日労会議)の結成により、当時の労働運動の最大勢力となる
・1936年(昭和11)1月 中間派の統一した「全国労働組合同盟」(全労)と合同して「全日本労働総同盟」(全総)を結成する
・1937年(昭和12) 日中戦争では「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示す
・1939年(昭和14)7月 産業報国会との統合に積極的だった中間派の全国労働組合同盟(全労)系が分裂し、「日本労働総同盟」に改称する
・1940年(昭和15)7月21日 自主解散を決議し、産業報国会への合流を決める

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)開拓使官有物払下げ事件」のきっかけとなった官有施設・設備払い下げを決定詳細
1896年(明治29)北京において「日清通商航海条約」が締結される詳細
1941年(昭和16)文部省教学局から『臣民の道』が刊行される詳細
2000年(平成12)写真家渡辺義雄の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、日本労働運動の先駆的指導者・政治家鈴木文治の亡くなった日です。
 鈴木文治(すずき ぶんじ)は、1885年(明治18)9月4日に、宮城県栗原郡金成村(現在の栗原市)の酒造業を営む旧家鈴木益治の長男として生まれました。10歳の頃に父親と共にキリスト教に入信、宮城県尋常中学校志田郡立分校(現在の古川高等学校)を経て、1902年(明治35)に旧制山口高等学校に入学します。1905年(明治38)に旧制山口高等学校卒業後、東京帝国大学法科に入学、同郷の先輩である吉野作造と共に、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属、社会問題に関心を持ちました。
 1909年(明治42)に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、秀英社に入社、翌年に東京朝日新聞に移り、貧民問題の取材に取り組みます。1911年(明治44)にユニテリアン派の統一基督教弘道会(会長安部磯雄)に幹事として就職、翌年には、労働者の地位向上を目指して、14名の賛同者とともに「友愛会」を発足させ会長となりました。
 労働者の修養、共済を目的とし労使協調主義を取りましたが、1915年(大正4)と翌年の2度にわたり、渡米して米国の労働組合事情を学び、ゴンパースの知己を得て、AFL(アメリカ労働総同盟)大会にも出席、次第に団結権、ストライキ権を主張するようになります。この頃より「友愛会」は全国的労働組合に成長していき、1919年(大正8)に「大日本労働総同盟友愛会」と改称され、アメリカのワシントンでの第1回国際労働会議にも参加し、ILO創設にも参画しました。
 労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導したりするようになり、1921年(大正10)には「日本労働総同盟」と改称されます。一方で農民運動にも関わり、1923年(大正12)に『農村問題講話』、『農村問題早わかり』を刊行、翌年には、日本農民組合関東同盟会長となりました。
 1925年(大正14)には、日本労働総同盟(総同盟)を除名された左派系労働組合が「日本労働組合評議会」を結成して分裂しましたが、会長職にとどまります。1926年(大正15)に社会民衆党の結成に参加し中央執行委員となり、1928年(昭和3)の第1回目の男子普通選挙となる第16回衆議院議員総選挙に旧大阪4区から立候補し当選しました。
 しかし、1930年(昭和5)の総選挙で落選、「日本労働総同盟」会長も退任します。1932年(昭和7)の無産政党合同により社会大衆党顧問に就任、1936年(昭和11)の総選挙に社会大衆党公認で旧東京6区から当選、1937年(昭和12)にも再選を果たしました。ところが、1940年(昭和15)に反軍演説を行った民政党代議士斎藤隆夫の除名問題で、党議に反して採決に対し棄権すると、除名処分となり、勤労国民党の結成を準備しましたが禁止され、戦時中は憲兵隊の監視下におかれます。
 太平洋戦争後、1945年(昭和20)の日本社会党の結成に参加し、翌年の総選挙に出馬、その選挙運動中に、宮城県仙台市において、心臓喘息により、60歳で急逝しました。

〇鈴木文治の主要な著作

・『日本の労働問題』(1919年)
・『農村問題講話』(1923年)
・『農村問題早わかり』(1923年)
・『民衆政治講座』(1929年)
・『労働運動二十年』(1931年)
・『米國勞働界現状と其の對日風潮』(1938年)
・『国際労働問題』

☆鈴木文治関係略年表

・1885年(明治18)9月4日 宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる
・1902年(明治35) 旧制山口高等学校に入学する
・1905年(明治38) 旧制山口高等学校卒業後、東京帝国大学法科に入学する 
・1909年(明治42) 東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、秀英社に入社する
・1910年(明治43) 東京朝日新聞に入社、貧民問題の取材に取り組む
・1911年(明治44) ユニテリアン派の統一基督教弘道会(会長安部磯雄)に幹事として就職する
・1912年(大正元) 労働者の地位向上を目指して、14名の賛同者とともに「友愛会」を発足させ会長となる
・1915年(大正4) 渡米して米国の労働組合事情を学ぶ
・1916年(大正5) 2度目の渡米をして米国の労働組合事情を学ぶ
・1919年(大正8) 「友愛会」が「大日本労働総同盟友愛会」と改称される、ILO創設に参画する、『日本の労働問題』を刊行する
・1921年(大正10) 「大日本労働総同盟友愛会」が「日本労働総同盟」と改称される
・1923年(大正12) 『農村問題講話』、『農村問題早わかり』を刊行する
・1924年(大正13) 日本農民組合関東同盟会長となる
・1926年(大正15) 社会民衆党の結成に参加し中央執行委員となる
・1928年(昭和3) 第1回目の男子普通選挙となる第16回衆議院議員総選挙に旧大阪4区から立候補し当選する
・1929年(昭和4) 『民衆政治講座』を刊行する 
・1930年(昭和5) 第17回衆議院議員総選挙で落選、「日本労働総同盟」会長を退任する
・1931年(昭和6) 『労働運動二十年』を刊行する
・1932年(昭和7) 無産政党合同により社会大衆党顧問に就任する
・1936年(昭和11) 第18回衆議院議員総選挙に社会大衆党公認で旧東京6区から当選する
・1937年(昭和12) 第19回衆議院議員総選挙に社会大衆党公認で旧東京6区から当選する
・1940年(昭和15) 反軍演説を行った民政党代議士斎藤隆夫の除名問題で、党議に反して採決に対し棄権すると、除名処分となる
・1945年(昭和20) 日本社会党の結成に参加する
・1946年(昭和21)3月12日 宮城県仙台市において、心臓喘息により60歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1633年(寛永10)第110代の天皇とされる後光明天皇の誕生日(新暦4月20日)詳細
1705年(宝永2)思想家・儒学者・古義学派の創始者伊藤仁斎の命日(新暦4月5日)詳細
2011年(平成23)九州新幹線の新八代~博多が延伸開業し、鹿児島ルートの全線開通となる詳細
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 今日は、大正時代の1912年(大正元)に、日本初の労働組合である友愛会が結成された日です。
 友愛会(ゆうあいかい)は、鈴木文治等15名によって結成された労働者団体で、当初は労使協調主義の立場にたち、共済・修養を目的とした性格が強いものでした。その後、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義が発展して労働者が増加する中で、組織は拡大し、1918年(大正7)には120支部、会員約3万人に発展することになります。
 また、1917年(大正6)のロシア革命、1918年(大正7)の米騒動などの民衆蜂起の高揚、1919年(大正8)のILO(国際労働機関)の創設と労働憲章の発表などに影響されて、労働者の階級的自覚も高まって、1919年(大正8)には、大日本労働総同盟友愛会と改称するに至りました。そして、労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導し、1921年(大正10)には、日本労働総同盟と再度改称します。

〇友愛会綱領(1912年結成当初)

第一条:我等は互に親睦し、一致協力して、相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
第二条:我等は公共の理想に従い、識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す。
第三条:我等は共同の力に依り、着実なる方法を以て、我等の地位の改善を図らんことを期す。

〇20ヶ条の主張(1919年第7周年大会)

(1)労働非商品の原則
(2)労働組合の自由
(3)十四歳未満の幼年労働の廃止
(4)最低賃金制度の確立
(5)同一労働に対する男女平等賃金制の確立
(6)一周一日、日曜日の休日
(7)八時間労働および一週四十八時間制
(8)夜業禁止
(9)婦人労働監督官の設置
(10)労働保険法の実施
(11)争議仲裁法の発布
(12)失業防止
(13)内外労働者の同一待遇
(14)労働者住宅を公営にて改良をはかること
(15)労働賠償制度の確立
(16)内職労働の改善
(17)契約労働の廃止
(18)普通選挙
(19)治安警察法の改正
(20)教育制度民主化

☆友愛会関係略年表(日本労働総同盟と改称まで)

・1912年(大正元)8月1日、東京帝国大学卒業の法学士鈴木文治(ぶんじ)を会長に15人の労働者によって結成される
・1912年(大正元)11月 機関紙『友愛新報』を創刊する
・1914年(大正3)11月 月刊誌『労働及産業』と改題する
・1916年(大正5)6月 日本の労働組合で初めて婦人部を設け、機関誌『友愛婦人』を発刊する
・1917年(大正6) 労働争議を直接組織したり指導するようになる
・1918年(大正7)4月 120支部、会員約3万人に発展する
・1918年(大正7) 米騒動が起きる
・1919年(大正8) 国際労働機関(ILO)が創設され労働憲章が発表される
・1919年(大正8)9月 大日本労働総同盟友愛会と改称し、会長独裁制を理事合議制に改め、主張として労働者の要求20項目(労働組合の自由など)を掲げる
・1920年(大正9)1月 月刊誌『労働及産業』を『労働』と改題する
・1920年(大正9)10月 「大」の字を去って、日本労働総同盟友愛会と改称する
・1921年(大正10)10月 「友愛会」の文字も捨て、名実ともに労働組合としての日本労働総同盟となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1810年(文化7)江戸幕府の老中・下総佐倉藩主堀田正睦の誕生日(新暦8月30日)詳細
1885年(明治18)医師・詩人木下杢太郎の誕生日詳細
1907年(明治40)民俗学者・農村指導者・社会教育家宮本常一の誕生日詳細
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