
三木淳(みき じゅん)は、大正時代の1919年(大正8)9月14日に、岡山県児島郡藤戸町(現在の倉敷市)において、父・為吉、母・いそゑの三男として生まれました。岡山県立第一岡山中学校(現在の県立岡山朝日高等学校)を経て、1938年(昭和13)には、慶應義塾大学経済学部予科に入学、慶應フォトフレンズに入会します。
在学中から写真家を志し、木村伊兵衛、土門拳らを知り、1941年(昭和16)に土門に弟子入りし、文楽人形の撮影などの助手を務めました。1943年(昭和18)に戦況悪化のため慶應義塾大学経済学部を繰り上げ卒業し、陸軍第七航空教育隊(静岡県三方原)に入隊します。
1945年(昭和20)に陸軍航空本部西部出張所(熊本市)に転属となりましたが、敗戦にともない西部軍司令部経理部が解散、陸軍主計少尉として除隊しました。1947年(昭和22)に上海帰りの名取洋之助の誘いを受けて、稲村隆正と共にサンニュース・フォトス社に入社したものの、翌年には、退社しています。
1949年(昭和24)にシベリア抑留の元日本兵らを乗せた引き揚げ船、高砂丸の帰還を舞鶴(京都府)で取材、写真が認められ、タイム・ライフ社に正式入社しも翌年には、土門拳と木村伊兵衛を顧問に招き「集団フォト」を結成しました。1951年(昭和26)に「イサム・ノグチ」の写真により、アルス写真年鑑最高賞を受賞、1952年(昭和27)にニッコールクラブが設立され、常任幹事となり、1953年(昭和28)には、タイム・ライフ社から国連軍報道班員として朝鮮戦争に派遣されています。
1954年(昭和29)にタイム・ライフ社から招かれ渡米したものの、1956年(昭和31)には退社し、フリーランスの報道写真家となりました。1958年(昭和33)にブラジル日本移民50年祭に招待され、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、メキシコを取材、日本写真家協会(JPS)の会員となり、翌年には、初の個展となる『メキシコ写真展』(日本橋髙島屋)を開催、第3回日本写真批判家協会作家賞を受賞します。
1960年(昭和35)に富士プロフェッショナル年間最高写真賞、雑誌『日本』に発表したルポルタージュ「麻薬を捜せ」で、第1回講談社写真賞を受賞しました。1962年(昭和37)に第12回日本写真協会年度賞を受賞、『世界美術大系第7巻 インド美術』(講談社)を刊行、ICIE優秀賞を受賞します。
1974年(昭和49) 第3代ニッコールクラブ会長(~1992年)に就任、1977年(昭和52)に日本大学芸術研究所教授となり、同大学芸術学部写真学科で教鞭(~1992年)を執り、1981年(昭和56)には、第3代日本写真家協会(JPS)会長に就任しました。1983年(昭和58)に国内初の写真専門美術館、「土門拳記念館」(山形県酒田市)開館して初代館長(~1992年)に就任、紫綬褒章を受章しています。
1985年(昭和60)に九州産業大学大学院芸術研究科教授に就任、1989年(平成元)には、日本写真作家協会(JPA)が発足して初代会長(~1992年)に就任、勲三等瑞宝章を受章しました。1990年(平成2)に第40回日本写真協会功労賞を受賞したものの、1992年(平成4)2月22日に、東京都港区の病院において、急性心不全により、72歳で亡くなり、正五位を追贈されています。
1945年(昭和20)に陸軍航空本部西部出張所(熊本市)に転属となりましたが、敗戦にともない西部軍司令部経理部が解散、陸軍主計少尉として除隊しました。1947年(昭和22)に上海帰りの名取洋之助の誘いを受けて、稲村隆正と共にサンニュース・フォトス社に入社したものの、翌年には、退社しています。
1949年(昭和24)にシベリア抑留の元日本兵らを乗せた引き揚げ船、高砂丸の帰還を舞鶴(京都府)で取材、写真が認められ、タイム・ライフ社に正式入社しも翌年には、土門拳と木村伊兵衛を顧問に招き「集団フォト」を結成しました。1951年(昭和26)に「イサム・ノグチ」の写真により、アルス写真年鑑最高賞を受賞、1952年(昭和27)にニッコールクラブが設立され、常任幹事となり、1953年(昭和28)には、タイム・ライフ社から国連軍報道班員として朝鮮戦争に派遣されています。
1954年(昭和29)にタイム・ライフ社から招かれ渡米したものの、1956年(昭和31)には退社し、フリーランスの報道写真家となりました。1958年(昭和33)にブラジル日本移民50年祭に招待され、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、メキシコを取材、日本写真家協会(JPS)の会員となり、翌年には、初の個展となる『メキシコ写真展』(日本橋髙島屋)を開催、第3回日本写真批判家協会作家賞を受賞します。
1960年(昭和35)に富士プロフェッショナル年間最高写真賞、雑誌『日本』に発表したルポルタージュ「麻薬を捜せ」で、第1回講談社写真賞を受賞しました。1962年(昭和37)に第12回日本写真協会年度賞を受賞、『世界美術大系第7巻 インド美術』(講談社)を刊行、ICIE優秀賞を受賞します。
1974年(昭和49) 第3代ニッコールクラブ会長(~1992年)に就任、1977年(昭和52)に日本大学芸術研究所教授となり、同大学芸術学部写真学科で教鞭(~1992年)を執り、1981年(昭和56)には、第3代日本写真家協会(JPS)会長に就任しました。1983年(昭和58)に国内初の写真専門美術館、「土門拳記念館」(山形県酒田市)開館して初代館長(~1992年)に就任、紫綬褒章を受章しています。
1985年(昭和60)に九州産業大学大学院芸術研究科教授に就任、1989年(平成元)には、日本写真作家協会(JPA)が発足して初代会長(~1992年)に就任、勲三等瑞宝章を受章しました。1990年(平成2)に第40回日本写真協会功労賞を受賞したものの、1992年(平成4)2月22日に、東京都港区の病院において、急性心不全により、72歳で亡くなり、正五位を追贈されています。
〇三木淳の主要な著作
・写真集『写真・メキシコ 遺跡の中の青春』(1961年)
・写真集『サンバ・サンバ・ブラジル』(1967年)
・写真集『写真創価学会』(1968年)
・写真集『三木淳写真集 慶應義塾』(1979年)
・写真集『昭和写真・全仕事SERIES 7 三木淳』(1982年)
・写真集『宮中歳時記』(1984年)
・写真集『三木淳写真集 LIFEのカメラ・アイ』(1989年)
・写真集『英国物語』(1990年)
・写真集『蘭嶼』(1993年)
☆三木淳関係略年表
・1919年(大正8)9月14日 岡山県児島郡藤戸町(現在の倉敷市)において、父・為吉、母・いそゑの三男(兄二人、姉二人の末子)として生まれる
・1926年(大正15) 天城尋常高等小学校に入学する
・1932年(昭和7) 岡山県立第一岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学する
・1937年(昭和12) 岡山県立第一岡山中学校を卒業、大阪商科大学(大阪市立大学)を受験するも不合格に終わる
・1938年(昭和13) 慶應義塾大学経済学部予科に入学、慶應フォトフレンズに入会する
・1941年(昭和16) 雑誌『写真文化』の石津良介編集長が井戸川渉(文)とコンビで取材を依頼される
・1942年(昭和17) 写真の教えを受けるため、国際報道工芸社の名取洋之助を訪ねる
・1943年(昭和18) 戦況悪化のため慶應義塾大学経済学部を繰り上げ卒業し、陸軍第七航空教育隊(静岡県三方原)に入隊する
・1945年(昭和20) 陸軍航空本部西部出張所(熊本市)に転属となるが、敗戦にともない西部軍司令部経理部が解散、陸軍主計少尉として除隊する
・1947年(昭和22) 上海帰りの名取洋之助の誘いを受けて、稲村隆正と共にサンニュース・フォトス社に入社する
・1948年(昭和23) 名取と反りが合わなかった三木は、サンニュース・フォトス社を退社する
・1949年(昭和24) シベリア抑留の元日本兵らを乗せた引き揚げ船、高砂丸の帰還を舞鶴(京都府)で取材、写真が認められ、タイム・ライフ社に正式入社する
・1950年(昭和25) 土門拳と木村伊兵衛を顧問に招き「集団フォト」を結成、長谷川康子と結婚する
・1951年(昭和26) 「イサム・ノグチ」の写真により、アルス写真年鑑最高賞を受賞する
・1952年(昭和27) ニッコールクラブが設立され、常任幹事となる
・1953年(昭和28) ライフから国連軍報道班員として朝鮮戦争に派遣される
・1954年(昭和29) タイム・ライフ社から招かれ渡米する
・1955年(昭和30) 出演映画『十二人の写真家』(勅使河原宏監督)公開される
・1956年(昭和31) タイム・ライフ社を退社し、フリーランスの報道写真家となる
・1958年(昭和33) ブラジル日本移民50年祭に招待され、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、メキシコを取材、日本写真家協会(JPS)の会員となる
・1959年(昭和34) 初の個展となる『メキシコ写真展』(日本橋髙島屋)を開催、第3回日本写真批判家協会作家賞を受賞する
・1960年(昭和35) 富士プロフェッショナル年間最高写真賞、雑誌『日本』に発表したルポルタージュ「麻薬を捜せ」で、第1回講談社写真賞を受賞する
・1961年(昭和36) 写真集『写真メキシコ-遺跡のなかの青春』(社会思想研究会出版部、現代教養文庫)を刊行する
・1962年(昭和37) 第12回日本写真協会年度賞を受賞、『世界美術大系第7巻 インド美術』(講談社)を刊行、ICIE(International Council of Industrial Editors)優秀賞を受賞する
・1963年(昭和38) 個展『蘭嶼-石に生きる』(東京富士フォトサロン)を開催する
・1964年(昭和39) 個展『ニューヨーク五番街物語』(日本橋髙島屋)を開催、『赤ひげ-2人の日本人・黒沢と三船』(キネマ旬報別冊)を刊行、ICIE最優秀賞、ICIE優秀賞を受賞する
・1965年(昭和40) 個展『サンバ・サンバ・ブラジル』(東京富士フォトサロン)を開催、ADC賞銅賞、全国PR誌コンクール最優秀賞を受賞する
・1966年(昭和41) 『アサヒカメラ教室3 スナップ写真』<アサヒカメラ教室3全7巻>(朝日新聞社)を刊行する
・1967年(昭和42) 写真集『サンバ・サンバ・ブラジル』(研光社)を刊行、全国カタログポスター展優秀賞を受賞する
・1968年(昭和43) 銀座にニコンサロンが開設され、常任理事(~1992年)とな、写真集『写真創価学会』(河出書房)を刊行する
・1969年(昭和44) ICIE最優秀賞を受賞する
・1970年(昭和45) 『アサヒカメラ教室 第2巻 風景写真』<サヒカメラ教室第2巻全7巻>(朝日新聞社)を刊行する
・1973年(昭和48) 個展『命を賭ける』(銀座、新宿ニコンサロン)を開催する
・1974年(昭和49) 第3代ニッコールクラブ会長(~1992年)に就任する
・1975年(昭和50) 『野生時代 独占総集・野生号 邪馬台国への道を行く』(角川書店)を刊行する
・1976年(昭和51) 個展『邪馬台国への道』(銀座、新宿ニコンサロンなど)を開催、『特集アメリカ』(「旅」別冊、JTB出版)を刊行する
・1977年(昭和52) 個展『私のニューヨーク』(銀座、大阪ニコンサロン)を開催、日本大学芸術研究所教授となり、同大学芸術学部写真学科で教鞭(~1992年)を執る
・1979年(昭和55) 写真集『慶應義塾』(美術出版社)を刊行する
・1981年(昭和56) 第3代日本写真家協会(JPS)会長に就任する
・1982年(昭和57) 個展『なぜ写真を撮るかPart I』(フォトギャラリーワイド)、個展『なぜ写真を撮るかPart II』(ナガセフォトサロン)を開催、写真集『昭和写真・全仕事(7)三木淳』(朝日新聞社)を刊行する
・1983年(昭和58) 国内初の写真専門美術館、「土門拳記念館」(山形県酒田市)開館して初代館長(~1992年)に就任、紫綬褒章を受章する
・1984年(昭和59) 写真集『宮中歳時記』(中央公論社)、『ニコン党入門』(池田書店)を刊行する
・1985年(昭和60) 九州産業大学大学院芸術研究科教授に就任する
・1988年(昭和63) 個展ニコンサロン開館20周年記念展『三木淳写真展-ある日そのとき』(銀座ニコンサロン)、個展『あなた知っていますか』(コダックフォトサロン)を開催、日本写真家協会(JPS)会長を辞任、第38回写真協会年度賞を受賞する
・1989年(平成元) 『LIFEのカメラアイ』(小学館)を刊行、日本写真作家協会(JPA)発足、初代会長(~1992年)に就任、勲三等瑞宝章を受章する
・1990年(平成2) 個展「ビートルズのリヴァプール」(銀座、大阪ニコンサロン)を開催、『英国物語』(グラフィック社)を刊行、第40回日本写真協会功労賞を受賞する
・1992年(平成4)2月22日 東京都港区の病院において、急性心不全により、72歳で亡くなり、正五位を追贈される
・1993年(平成5) 追悼写真展『新東京百景』(銀座、大阪ニコンサロン)が開催、酒田市特別功労賞を受賞、追悼写真集『蘭嶼-ニコンサロンブック20-』(ニッコールクラブ)が刊行される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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