ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本共産党

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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、GHQの「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書(民主化指令)」(SCAPIN-93)に基づき、日本政府が、日本共産党を合法化し、徳田球一ら政治犯439人を釈放、自由戦士出獄歓迎人民大会が開催された日です。
 自由戦士出獄歓迎人民大会(じゆうせんししゅつごくかんげいじんみんたいかい)は、東京都芝区田村町飛行館に於いて、開催された出獄者を歓迎する集会で、解放運動犠牲者救援会と政治犯人釈放運動委員会などに結集した人々によって企てられたものでした。この日、府中刑務所内の予防拘禁所から徳田球一を始め、志賀義雄、金天海、黒木重徳、西沢隆二、山辺健太郎、椎野悦朗、松本一三など16名が午前10時に釈放され、雨の中を約700名の出迎えが『歓迎出獄革命戦士』、『人民共和政府樹立』、『朝鮮独立万歳』などのプラカードや赤旗をふりかざす中、刑務所の門前で徳田、志賀、金天海三氏が天皇制打倒、人民共和政府樹立のため奮闘を誓うと演説を行ない、出獄声明書『人民に訴う』が出されます。また同日に豊多摩拘置所からは神山茂夫、中西功等が出獄しました。
 その後の自由戦士出獄歓迎人民大会は、当日が雨だったため、急遽会場を日比谷公園から田村町の飛行館に変更、収容人員6~700人ほどの会場に1,000人を超える人々がおしかけ、廊下から階段、屋外にまであふれる盛況を呈したとされますが、出獄した徳田らはこの大会に臨む予定のところ、米軍第一騎兵師団で獄中の状況を聴取されたため時間がかかり、ついに歓迎大会には姿を見せなかったとされます。その中で、14時半から開始され、『働かせろ、食わせろ、家を与えろ』、『民主主義万歳』、『生活必要物資は人民管理の下に』などのビラが撤かれる中に、自由法曹団の布施、梨木、栗林各弁護士、中西伊之助、伊藤憲一氏らが天皇制打倒を演説し、また同志の思い出を語ったのち、街頭デモに移り、総司令部前で万歳を叫んで解散しました。

〇GHQ民主化指令(人権指令)とは?

 太平洋戦争敗戦後の占領下での、GHQの連合国最高司令官指令(SCAPIN)の一つで、正式名称を「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-93)といい、1945年(昭和20)10月4日に出されたものです。その内容は、①天皇に関する議論をふくむ思想、言論の自由を抑圧する一切の法令の廃止、②治安維持法関連の一切の法令の廃止、③政治犯の即時釈放(10月10日までに)、④思想警察その他一切の類似機関の廃止、⑤内務大臣および警察関係の首脳部、その他日本全国の思想警察および弾圧活動に関係ある官吏の罷免を日本政府に要求するものでした。
 しかし、内務大臣山崎巌は「治安維持法」なしでは、治安維持に責任が持てないとして辞意を表明、東久邇宮内閣はこの指令実行によって、国内で革命が起こることを危惧し、指令の実行をためらって、翌日に内閣総辞職に至ります。同月9日、連合国軍最高司令官マッカーサーにより就任を了承された幣原喜重郎が内閣を組閣し、政務を遂行することとなりました。
 その中で、この指令に基づき10月10日以降に共産党員など政治犯約3,000人を釈放、「国防保安法」・「軍機保護法」・「言論出版集会結社等臨時取締法」・「不穏文書臨時取締法」(10月12日廃止)、「治安維持法」・「思想犯保護観察法」(10月13日廃止)、「治安警察法」(10月20廃止)、「宗教団体法」(12月28日廃止)、など15の法律・法令も廃止されていきます。一方、10月11日には、幣原首相・マッカーサー(連合国最高司令官)会談が行われ、その時にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)指令として、いわゆる「五大改革指令」が口頭で通達されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)北海道石狩町で開拓使石狩缶詰所が創業、本格的な缶詰生産が始まる(缶詰の日)詳細
1934年(昭和9)彫刻家高村光雲の命日詳細
1964年(昭和39)第18回オリンピック・東京大会が開幕する詳細
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noroeitarou01

 今日は、昭和時代前期の1934年(昭和9)に、経済学者・社会運動家野呂栄太郎の亡くなった日です。
 野呂栄太郎(のろ えいたろう)は、明治時代後期の1900年(明治33)4月30日に、北海道夕張郡長沼村(現在の長沼町)で、農場の管理人だった父・野呂市太郎、母・波留の長男として生まれました。1907年(明治40)に小学校へ入学しましたが、運動会でのけががもとで破傷風に罹り、2年生の時に右足を膝下から切断しています。
 1920年(大正9)に私立北海中学校を優秀な成績で卒業、上京して慶応義塾大学経済学部予科へ入学しましたが、肺結核にかかり、一時療養を余儀なくされました。その後、野坂参三の指導のもとにマルクス主義を研究、1922年(大正11)に慶応の学生による三田社会問題研究会の結成に参加し、翌年には日本学生連合会の東京連合会委員長となります。
 1925年(大正14)に小樽軍事教練事件に関わって検挙され、翌年にも学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件に連座して、10ヶ月の禁固刑を受けましたが、病気療養のために保釈され、産業労働調査所調査員として勤務しました。日本と世界の政治・経済の現状分析および日本資本主義発達史研究に従事し、猪俣津南雄などの日本資本主義論に厳しい批判を行いますが、1929年(昭和4)の四・一六事件で1ヶ月ほど拘束されます。
 同年にプロレタリア科学研究所創立にも参加、翌年には日本共産党に入党し、『日本資本主義発達史』を刊行しました。1932年(昭和7)にマルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わり、「講座派」を指導したものの、産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれています。
 地下活動に入り、1933年(昭和8)以後、共産党中央委員会責任者として活動していましたが、スパイの手引きで検挙され、1934年(昭和9年)2月19日に品川警察署での拷問により病状が悪化して、数え年33歳の若さで亡くなりました。
 以下に、野呂栄太郎が書いた『日本資本主義発達史講座』趣意書を掲載しておきますのでご参照下さい。

〇野呂栄太郎の主要な著作

・『日本資本主義発達史』(1931年刊)
・編集『日本資本主義発達史講座』全7巻(1931年)

〇野呂栄太郎関係略年表

・1900年(明治33)4月30日 北海道夕張郡長沼村(現在の長沼町)で、農場の管理人だった父・野呂市太郎、母・波留の長男として生まれる
・1907年(明治40)4月 小学校へ入学する
・1914年(大正3)3月 小学校を卒業する
・1915年(大正4)4月 私立北海中学校へ入学する
・1920年(大正9)3月 私立北海中学校を優秀な成績で卒業する
・1920年(大正9)4月 慶応義塾大学経済学部予科へ入学する
・1922年(大正11)11月 三田社会問題研究会の結成に参加する
・1923年(大正12)1月 日本学生連合会の東京連合会委員長となる
・1925年(大正14)10月 小樽軍事教練事件で検挙される
・1926年(大正15)4月 学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件に連座して懲役10ヶ月の判決を受ける
・1926年(大正15)4月 慶応義塾大学予科理財科を卒業する
・1926年(大正15)8月 病気療養のために保釈され、産業労働調査所調査員として勤務する
・1929年(昭和4)4月16日 四・一六事件で拘束される
・1929年(昭和4) プロレタリア科学研究所創立に参加する
・1930年(昭和5)1月 日本共産党に入党する
・1930年(昭和5)2月20日 『日本資本主義発達史』が鉄塔書院より刊行される
・1932年(昭和7)5月 マルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わり始める
・1933年(昭和8)5月9日 産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれる
・1933年(昭和8)8月1日 国際反戦デーに、ストライキ及びデモ活動を呼びかけるも失敗する
・1933年(昭和8)8月23日 産業労働調査所が閉鎖される
・1933年(昭和8)11月28日 スパイの手引きで検挙される
・1934年(昭和9年)2月19日 品川警察署での拷問により病状が悪化し、数え年33歳の若さで亡くなる

☆『日本資本主義発達史講座』趣意書 野呂栄太郎著

 世界経済恐慌の発展は全資本主義体制の、従ってまた日本資本主義制度の根底を揺り動かしている。資本主義の一般的危機の先鋭化、その上に進行しつつある恐慌の破局的深刻化、国際的諸対立の脅威的緊張、そして階級対立闘争の不可両立的激化――すべてこれらの、もはや蔽おおわんとして蔽おおいがたき事態の急激なる悪化は、支配階級及びその代弁者どもをして今さらのように国難来を叫ばしむるにいたった。曰く、経済国難! 曰く、思想国難! 曰く、建国以来未曽有の国難!
  急迫せる情勢に転倒せる帝国主義者の脳裏には、恐らく戦争とファシズム以外の考えは浮かび得ないであろう。しかしながら、経済的発展の行詰まり、政治的支配の動揺、社会情勢の不安等々の解決は、かかる一連の事態の変化を必然にし、不可避にしたところの根本的矛盾を究きわめることなしには、問題解決の糸口をつかむことこそ不可能であろう。日本資本主義成立の歴史を顧み、その矛盾に満ちた発展の諸特質を究めることは、それゆえに、日本資本主義が当面せる諸問題の根本的解決の道を見出すべき鍵である。本講座はこの鍵を提供せんとするものである。
  かかる緊切なる当面の要求に応じて生まれた本講座は、歴史的事実の単なる羅列られつ、説明をもって能事おわれりとするものではない。いわんや、何らかの成心をもってあえて事実を虚構するがごときは、本講座の執筆者とはまったく無縁である。われわれの期するところは歴史の解釈ではなくしてその変革である。歴史を変革するとは、過去の歴史的事実を改変することではなくして、未来の歴史を創造することである。だが、われわれはそれを勝手に創ることはできない。すでに与えられたる一定の諸条件に基づいてのみ、歴史の変革も創造も可能にせられ、問題の真の解決は期待し得るであろう。
  特に問題解決のかかる諸条件を明らかにせんがために、日本資本主義発達の諸条件、その本質的諸特徴、その基本的諸矛盾を全面的に分析し、根本的に究明することは、もとより一人の能よくするところでない。といってもちろん、多数のいわゆる歴史家たちの研究に任せ得る問題でもない。本講座は、今日この問題の真の解決のために協力し得るほとんど大部分の研究家の参加を得た。それは文字通り、約三十名の執筆者の共同労作である。各執筆者の研究は、それぞれの範囲内では各自の創意を十二分に発揮しながらも、あくまで全体の緊密なる構成部分を成している。
  本講座は、今日世に問い得る限りにおいて、日本資本主義の最も包括的な科学的研究であり、その本質的矛盾の最も根本的な分析である。しかも、われわれが当面せる諸問題の根本的解決のためには、本講座はわずかに解決の鍵を提供するにすぎない。われわれは、日本資本主義の危機からの革命的活路を身をもって切り開かんとする多数読者の積極的努力によって、始めてさらに完成せらるべきことを期待する。社会的矛盾の中に真理を求め資本主義社会の発展の法則を究明せんとする一般諸君の検討を待望しつつ、あえて本講座を世に問わんとする所以である。

――一九三二年六月――

     「野呂栄太郎全集 下」(新日本出版社刊)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(元暦2)屋島の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に勝利する(新暦3月22日)詳細
1837年(天保8)大塩平八郎の乱が起きる(新暦3月25日)詳細


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kawakamihajime01

 今日は、明治時代前期の1879年(明治12)に、経済学者・社会思想家河上肇の生まれた日です。
 河上肇(かわかみ はじめ)は、山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)で、旧岩国藩の下級士族の家に生まれました。岩国学校を経て、1898年(明治31)に山口高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学します。
 在学中に、内村鑑三、木下尚江らの講演を聞き、聖書を読み、1901年(明治34)には足尾鉱毒問題に関心を持って持ち物をすべて寄付しました。翌年大学卒業後、1903年(明治36)に東京帝国大学農科大学実科講師に就任し、経済原論、農政学業を教えるとともに刻苦して経済学を学びます。
 1905年(明治38)に「社会主義評論」を千山万水楼主人の筆名で「読売新聞」に連載、教職を辞し、無我愛を主張する伊藤証信の「無我苑」の生活に入りますが、間もなく脱退し、読売新聞社に入社しました。1907年(明治40)に「日本経済新誌」を創刊し、編集主幹となりましたが、翌年には京都帝国大学の講師、1909年(明治42)に助教授となって、研究生活を送ります。
 1913年(大正2)から2年間ヨーロッパへ留学し、帰国後教授となり経済学史や経済原論を担当、1916年(大正5)から「大阪朝日新聞」に『貧乏物語』を連載し、翌年出版して注目されました。1918年(大正7)に雑誌『社会問題研究』を刊行するとともに、マルクス主義の体系的な把握に努めるようになります。
 1923年(大正12)にマルクスの『賃労働と資本・労賃、価格及び利潤』を翻訳出版し、1925年(大正14)には『マルクス資本論略解』を刊行しました。1928年(昭和3)に『マルクス主義講座』の推薦文で筆禍を招き大学を辞職後、大山郁夫らと新労農党を結成したものの、意見が対立して別れます。
 その後、雑誌「改造」に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれました。1931年(昭和6)にマルクスの『政治経済学批判』、『資本論』(第1巻)を翻訳して刊行、翌年から地下運動に入り、コミンテルンが発表した「32年テーゼ」を翻訳します。
 その中で、日本共産党へ入党しましたが、1933年(昭和8)に検挙され、「治安維持法」違反で豊多摩刑務所に収監されました。1937年(昭和12)に出獄後は、『自叙伝』等の執筆に専念したものの、太平洋戦争後の1946年(昭和21)1月30日に、京都市左京区の自宅において、68歳で亡くなっています。

〇河上肇の主要な著作

・『日本尊農論』(1905年)
・『経済学原論』(1907年)
・『貧乏物語』(1917年)
・『資本主義経済学の史的発展』(1923年)
・翻訳『賃労働と資本・労賃、価格及び利潤』カール・マルクス作(1923年)
・『マルクス資本論略解』(1925年)
・『経済学大綱』(1928年)
・『マルクス主義経済学』(1928年)
・『第二貧乏物語』(1930年)
・翻訳『政治経済学批判』カール・マルクス作(1931年)
・翻訳『資本論(第1巻)』カール・マルクス作(1931年)
・『資本論入門』5巻(1932年)
・『雑草集 詩集』(1946年)
・『旅人 河上肇詩集』(1946年)
・『自叙伝』(1947~48年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)源平合戦富士川の戦いが行われる(新暦11月9日)詳細
1856年(安政3)農政家・思想家二宮尊徳の命日(新暦11月17日)詳細
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