今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、児童文学者浜田広介が亡くなった日です。
浜田広介(はまだ ひろすけ)は、明治時代後期の1893年(明治26)5月25日に、山形県東置賜郡屋代村大字一本柳(現在の高畠町)において、農業を営む父・浜田為助、母・やすの長男として生まれましたが、本名は広助と言いました。アンデルセン童話を愛読し、米沢中学校(現在の米沢興譲館高等学校)を経て、1914年(大正3)に早稲田大学高等予科へ入学、「萬朝報」の懸賞小説に短編小説『零落』が入選します。
1917年(大正6)に「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話に「黄金の稲束」が一等入選し、これを機に児童雑誌「良友」に寄稿するようになり、翌年には、「呼子鳥」を発表、早稲田大学英文科卒業後、コドモ社へ入社し、「良友」の編集者となり、『途暗し』で北村透谷賞を受賞しました。1921年(大正10)に島崎藤村の紹介で実業之日本社に入社、最初の童話集『椋鳥の夢』を新生社より刊行、1923年(大正12)には、「黒いきこりと白いきこり」、「龍の目の涙」を発表、実業之日本社で「幼年之友」の編集しましたが、関東大震災を機に退社し、文筆1本で生きる決意をします。
1925年(大正14)に早稲田大学童話会を立ち上げ、1928年(昭和3)に友人の妹、渡部トクと結婚、「5匹のやもり」を発表、1933年(昭和8)には、「泣いた赤おに」を書きました。1940年(昭和15)に『ひらがな童話集』で、第1回児童文化賞(幼年物)、1942年(昭和17)に『竜の目の涙』で、第2回野間文芸奨励賞、1953年(昭和28)には、『ひろすけ童話集』で、第3回芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞します。
1955年(昭和30)に日本児童文芸家協会の初代理事長に推され、1957年(昭和32)に『浜田広介童話選集』で、第4回サンケイ児童出版文化賞、1961年(昭和36)には、『あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための』で、第8回サンケイ児童出版文化賞を受賞しました。1963年(昭和38)に「ないた赤おに」で、第2回国際アンデルセン賞国内賞を受賞、1964年(昭和39)に鳩峰高原に「むくどりの碑」が建立され、1966年(昭和41)には、日本児童文芸家協会会長となり、母校屋代小学校に「道ばたの石の碑」が建立されています。
1972年(昭和47)に高畠町名誉町民となり、庁舎前に「回顧の碑」が建立されたものの、1973年(昭和48)11月17日に、東京都大田区田園調布の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなりました。尚、1989年(平成元)に故郷の山形県高畠町に、「浜田広介記念館」が開館しています。
1917年(大正6)に「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話に「黄金の稲束」が一等入選し、これを機に児童雑誌「良友」に寄稿するようになり、翌年には、「呼子鳥」を発表、早稲田大学英文科卒業後、コドモ社へ入社し、「良友」の編集者となり、『途暗し』で北村透谷賞を受賞しました。1921年(大正10)に島崎藤村の紹介で実業之日本社に入社、最初の童話集『椋鳥の夢』を新生社より刊行、1923年(大正12)には、「黒いきこりと白いきこり」、「龍の目の涙」を発表、実業之日本社で「幼年之友」の編集しましたが、関東大震災を機に退社し、文筆1本で生きる決意をします。
1925年(大正14)に早稲田大学童話会を立ち上げ、1928年(昭和3)に友人の妹、渡部トクと結婚、「5匹のやもり」を発表、1933年(昭和8)には、「泣いた赤おに」を書きました。1940年(昭和15)に『ひらがな童話集』で、第1回児童文化賞(幼年物)、1942年(昭和17)に『竜の目の涙』で、第2回野間文芸奨励賞、1953年(昭和28)には、『ひろすけ童話集』で、第3回芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞します。
1955年(昭和30)に日本児童文芸家協会の初代理事長に推され、1957年(昭和32)に『浜田広介童話選集』で、第4回サンケイ児童出版文化賞、1961年(昭和36)には、『あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための』で、第8回サンケイ児童出版文化賞を受賞しました。1963年(昭和38)に「ないた赤おに」で、第2回国際アンデルセン賞国内賞を受賞、1964年(昭和39)に鳩峰高原に「むくどりの碑」が建立され、1966年(昭和41)には、日本児童文芸家協会会長となり、母校屋代小学校に「道ばたの石の碑」が建立されています。
1972年(昭和47)に高畠町名誉町民となり、庁舎前に「回顧の碑」が建立されたものの、1973年(昭和48)11月17日に、東京都大田区田園調布の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなりました。尚、1989年(平成元)に故郷の山形県高畠町に、「浜田広介記念館」が開館しています。
〇浜田広介の主要な著作
・小説『途暗し』(1918年)北村透谷賞受賞
・処女童話集『椋鳥の夢』(1921年)
・「ないた赤おに」(1933年)第2回国際アンデルセン賞国内賞受賞
・『ひらがな童話集』(1940年)第1回児童文化賞(幼年物)受賞
・『竜の目の涙』(1942年)第2回野間文芸奨励賞受賞
・『ひろすけ童話集』(1953年)第3回芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門)受賞
・『浜田広介童話選集』(1957年)第4回サンケイ児童出版文化賞受賞
・『あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための』(1961年)第8回サンケイ児童出版文化賞受賞
☆浜田広介関係略年表
・1893年(明治26)5月25日 山形県東置賜郡屋代村大字一本柳(現在の高畠町)において、農業を営む父・浜田為助、母・やすの長男として生まれる
・1914年(大正3) 米沢中学校(現在の米沢興譲館高等学校)を卒業し、早稲田大学高等予科へ入学、「萬朝報」の懸賞小説に短編小説『零落』が入選する
・1917年(大正6) 「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話に「黄金の稲束」が一等入選し、これを機に児童雑誌「良友」に寄稿する
・1918年(大正7) 「呼子鳥」を「良友」に発表、早稲田大学英文科を卒業後、コドモ社へ入社し、「良友」の編集者となり、『途暗し』で北村透谷賞を受賞する
・1919年(大正8) 「良友」を編集しながら、同誌に「椋鳥の夢」「光の星」「花びらの旅」「お月様と鯉の子」「一つの願い」などを次々と発表する
・1920年(大正9) コドモ社を退社する
・1921年(大正10) 島崎藤村の紹介で実業之日本社に入社し、最初の童話集『椋鳥の夢』を新生社より刊行する
・1923年(大正12) 「黒いきこりと白いきこり」「龍の目の涙」を発表、実業之日本社で「幼年之友」の編集をするが、関東大震災を機に退社し、文筆1本で生きる決意をする
・1925年(大正14) 早稲田大学童話会を立ち上げる
・1928年(昭和3) 友人の妹、渡部トクと結婚、「5匹のやもり」を発表する
・1933年(昭和8) 「泣いた赤おに」を書く
・1940年(昭和15) 『ひらがな童話集』で、第1回児童文化賞(幼年物)を受賞する
・1942年(昭和17) 『竜の目の涙』で、第2回野間文芸奨励賞を受賞する
・1953年(昭和28) 『ひろすけ童話集』で、第3回芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞する
・1955年(昭和30) 日本児童文芸家協会の初代理事長に推される
・1957年(昭和32) 『浜田広介童話選集』で、第4回サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1961年(昭和36) 『あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための』で、第8回サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1963年(昭和38) 「ないた赤おに」で、第2回国際アンデルセン賞国内賞を受賞する
・1964年(昭和39) 鳩峰高原に「むくどりの碑」が建立される
・1966年(昭和41) 日本児童文芸家協会会長となり、母校屋代小学校に「道ばたの石の碑」が建立される
・1972年(昭和47) 高畠町名誉町民となり、庁舎前に「回顧の碑」が建立される
・1973年(昭和48)11月17日 東京都大田区田園調布の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなる
・1989年(平成元) 故郷の山形県高畠町に記念館が建てられる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
717年(養老元) | 美濃国の醴泉によって、元号を「霊亀」から「養老」へ改元(養老改元)する(新暦12月24日) | 詳細 |
1716年(享保元) | 江戸城内で御城将棋が開催され、以降この日に御城碁と共に定例化される | 詳細 |
1905年(明治38) | 日本と大韓帝国との間で、「第二次日韓協約」が調印される | 詳細 |
1951年(昭和26) | 神奈川県鎌倉市に「神奈川県立近代美術館」が開館する | 詳細 |
1986年(昭和61) | 将棋棋士・14世名人木村義雄の命日 | 詳細 |
1990年(平成2) | 長崎県の雲仙普賢岳で198年ぶりの噴火(雲仙普賢岳1990年噴火)が始まる | 詳細 |