ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本ペンクラブ会長

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 今日は、平成時代の2017年(平成29)に、詩人・評論家大岡信の亡くなった日です。
 大岡信(おおおか まこと)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)2月16日に、静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれました。静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)、旧制第一高等学校を経て、1950年(昭和25)に、東京大学文科に入学します。
 在学中に、日野啓三、佐野洋らと『現代文学』を創刊し、1953年(昭和28)に文学部国文科を卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属されました。1954年(昭和29)に、谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加、1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行します。
 1963年(昭和38)に読売新聞社を退職、翌年には、明治大学助教授となり、1969年(昭和44)には、評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞しました。1970年(昭和45)に明治大学教授に昇任、この頃から連句(連詩)をはじめ、1972年(昭和47)には、評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞します。
 1979年(昭和54)に「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞、翌年には、『折々のうた』で菊池寛賞を受賞しました。1987年(昭和62)に明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任、1989年(平成元)には、日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞します。
 1990年(平成2)に『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1993年(平成5)には、『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞めました。1994年(平成6)に第51回恩賜賞・日本芸術院賞、1995年(平成7)に日本芸術院会員、1996年(平成8)に朝日賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞、1997年(平成9)には文化功労者となるなど、数々の栄誉に輝きます。
 さらに、2002年(平成14)に国際交流基金賞、2003年(平成15)に文化勲章、2004年(平成16)にフランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエ受章と続きました。2007年(平成19)に「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了、2009年(平成21)に静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館するなどしたものの、2017年(平成29)4月5日に、静岡県三島市において、呼吸不全のため86歳で亡くなっています。

〇大岡信の主要な著作

・詩集『記憶と現在』(1956年)
・評論『超現実と抒情(じょじょう)』(1965年)
・評論『蕩児(とうじ)の家系』(1969年)藤村記念歴程賞受賞
・評論『紀貫之』(1971年)読売文学賞受賞
・詩集『春 少女に』(1979年)無限賞受賞
・詩集『故郷の水へのメッセージ』(1989年)第7回現代詩花椿賞受賞
・評論『詩人・菅原道真』(1989年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・詩集『地上楽園の午後』(1993年)詩歌文学館賞受賞
・随筆『折々のうた』(1979~2007年)菊池寛賞受賞

☆大岡信関係略年表

・1931年(昭和6)2月16日 静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれる
・1943年(昭和18) 静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)に入学する
・1947年(昭和22) 沼津中学4年から旧制第一高等学校文科丙類に入学する
・1950年(昭和25) 東京大学文科に入学する
・1953年(昭和28) 東京大学卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属される
・1954年(昭和29) 谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加する
・1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行する
・1959年(昭和34) 「フォートリエ展」カタログ作成に協力する
・1962年(昭和37) 武満徹の管弦楽曲のために「環礁」を書き下ろす
・1963年(昭和38) 読売新聞社を退職する
・1965年(昭和40) 明治大学助教授となる
・1969年(昭和44) 評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞する
・1970年(昭和45) 明治大学教授となり、この頃から連句(連詩)をはじめる
・1972年(昭和47) 評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞する
・1979年(昭和54) 「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『折々のうた』で菊池寛賞を受賞する
・1987年(昭和62) 明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任する
・1989年(平成元) 日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞する
・1990年(平成2) 『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1993年(平成5) 『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞める
・1994年(平成6) 第51回恩賜賞・日本芸術院賞を受賞する
・1995年(平成7) 日本芸術院会員となる
・1996年(平成8) 朝日賞を受賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞を受賞する
・1997年(平成9) 文化功労者となる
・2002年(平成14) ことばと文学による国際文化交流と相互理解に多大な貢献をしたとして、国際交流基金賞を受賞する
・2003年(平成15) 文化勲章を受章する
・2004年(平成16) フランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章する
・2007年(平成19) 「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了する
・2009年(平成21) 静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館する
・2017年(平成29)4月5日 静岡県三島市において、呼吸不全のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1880年(明治13)「集会条例」(明治13年太政官布告第12号)が公布される詳細
1939年(昭和14)「映画法」が公布され、脚本の事前検閲、外国映画の上映制限などが決まる詳細
1964年(昭和39)詩人・翻訳家三好達治の命日(達治忌)詳細
1984年(昭和59)染色工芸家芹沢銈介の命日詳細
1998年(平成10)明石海峡大橋が開通する詳細
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 今日は、平成時代の2019年(平成31)に、哲学者梅原猛の亡くなった日です。
 梅原猛(うめはら たけし)は、1925年(大正14)3月20日 宮城県仙台市で、当時東北帝国大学の学生だった父・梅原半二、母・石川千代の子として生まれました。乳児期に実母を亡くし、生後1年9ヶ月の時に愛知県知多郡内海町(現在の南知多町)の伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られて養子となります。
 1942年(昭和17)に旧制の私立東海中学校(現在の東海中学校・高等学校)卒業後、旧制第八高等学校へ進み、1945年(昭和20)に京都帝国大学文学部入学しました。しかし、直後に徴兵されて大日本帝国陸軍の二等兵として入営、第216師団野砲兵第216連隊(九州防衛隊)で終戦を迎えます。
 1945年(昭和20)9月に京都帝国大学に復学し、1948年(昭和23)に文学部哲学科を卒業すると大学院に進学し、山内得立、田中美知太郎に指導を受けました。龍谷大学、立命館大学の講師を経て、1967年(昭和42)に立命館大学文学部教授となり、同年に『地獄の思想』を出しています。
 1970年(昭和45)に大学紛争によって、立命館大学を辞職し、1972年(昭和47)に京都市立芸術大学美術学部教授となりました。同年に『隠された十字架 法隆寺論』で第26回毎日出版文化賞を受賞、1974年(昭和49)に『水底の歌 柿本人麿論』で第1回大佛次郎賞を受賞、同年に京都市立芸術大学学長となっています。
 一方、国際日本文化研究センターの設立にも尽力し、1987年(昭和62)に初代所長に就任、日本古代史の再検討に打ち込み、縄文文化やアイヌ、沖縄の文化にも強い関心を寄せて、大胆な仮説を展開し、「梅原古代学」を確立しました。また、1986年(昭和61)に3世市川猿之助のために『ヤマトタケル』、『ギルガメシュ』などを書き下ろすなど、スーパー歌舞伎でも話題となります。
 1997年(平成9)に日本ペンクラブ会長となり、同年にMIHO MUSEUM初代館長、2001年(平成13)にはものつくり大学初代総長となるなど要職を歴任しました。その間、1991年(平成3)に第44回中日文化賞、1992年(平成4)に文化功労者、1998年(平成10)に京都市名誉市民、1999年(平成11)には文化勲章など数々の栄誉にも輝きます。
 晩年まで多彩な活動を展開しましたが、2019年(平成31)1月12日 に京都府京都市において、肺炎のため93歳で亡くなりました。

〇梅原猛の主要な著作

・『地獄の思想』(1967年)
・『隠された十字架一法隆寺論』(1972年)第26回毎日出版文化賞受賞
・『水底の歌―柿本人麿(かきのもとのひとまろ)論』(1973年)第1回大佛次郎賞受賞
・『黄泉の王 私見・高松塚』(1973年)
・『日本人の「あの世」観』(1989年)
・『葬られた王朝一古代出雲の謎を解く』(2010年)
・『親鸞「四つの謎」を解く』(2014年)
・『空海の人生と思想』
・『法然』

☆梅原猛関係略年表

・1925年(大正14)3月20日 宮城県仙台市で、父・梅原半二、母・石川千代の子として生まれる
・1942年(昭和17)3月 旧制東海中学校(現在の東海中学校・高等学校)を卒業する
・1945年(昭和20)3月 旧制第八高等学校(現在の名古屋大学教養部)を卒業する
・1945年(昭和20)4月 京都帝国大学文学部入学、直後に徴兵されて陸軍二等兵として入営する
・1945年(昭和20)8月 熊本県宇城市の第216師団野砲兵第216連隊(九州防衛隊)で終戦を迎える
・1945年(昭和20)9月 京都帝国大学に復学する
・1948年(昭和23) 京都大学文学部哲学科を卒業する
・1949年(昭和24) 京都大学大学院特別研究生(哲学専攻)となる
・1952年(昭和27) 龍谷大学文学部専任講師となる
・1955年(昭和30) 立命館大学文学部専任講師となる
・1957年(昭和32) 立命館大学文学部助教授となる
・1963年(昭和38) 「壬生忠岑『和歌体十種』について」という論文を書く
・1967年(昭和42) 立命館大学文学部教授となる
・1967年(昭和42) 『地獄の思想』を出版する
・1970年(昭和45) 立命館大学文学部教授辞職(大学紛争に当たり)する
・1972年(昭和47) 京都市立芸術大学美術学部教授となる
・1972年(昭和47) 『隠された十字架 法隆寺論』で第26回毎日出版文化賞を受賞する
・1974年(昭和49) 『水底の歌 柿本人麿論』で第1回大佛次郎賞を受賞する
・1974年(昭和49) 京都市立芸術大学学長となる
・1983年(昭和58) 京都市立芸術大学学長に再選される
・1986年(昭和61) 京都市立芸術大学名誉教授となる
・1986年(昭和61) 3世市川猿之助のために『ヤマトタケル』を書き下ろす
・1986年(昭和61) 国際日本文化研究センター創設準備室長となる
・1987年(昭和62)5月 国際日本文化研究センター初代所長となる
・1989年(平成元) 『日本人の「あの世」観』を出版する
・1991年(平成3) 「国際日本文化研究センターの創設と多年にわたる独創的な日本研究」に対して第44回中日文化賞を受賞する
・1992年(平成4)  文化功労者顕彰を受ける
・1995年(平成7)5月  国際日本文化研究センター退任。国際日本文化研究センター顧問・名誉教授となる
・1997年(平成9) 日本ペンクラブ会長となる
・1997年(平成9) MIHO MUSEUM初代館長となる
・1998年(平成10) 京都市名誉市民顕彰を受ける
・1999年(平成11) 文化勲章を受章する
・2001年(平成13)4月 ものつくり大学初代総長となる
・2004年(平成16) 護憲運動を牽引する「九条の会」の呼びかけ人となる
・2011年(平成23)4月 東日本大震災復興構想会議特別顧問(名誉議長)となる
・2019年(平成31)1月12日 京都府京都市において、肺炎のため93歳で亡くなる
・2019年(平成31) 従三位となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日)詳細
1914年(大正3)桜島大正大噴火が始まる詳細
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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の亡くなった日です。
 正宗白鳥(まさむね はくちょう)は、明治時代前期の1879年(明治12)3月3日に、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)で、豪農の旧家だった父・正宗浦二、母・美禰の長男として生まれましたが、本名は忠夫(ただお)と言いました。旧藩校閑谷黌を卒業し、1896年(明治29)に上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)英語専修科に入学します。
 在学中にキリスト教夏期学校で内村鑑三に学び、キリスト教の洗礼を受けました。1901年(明治34)に卒業後、母校の出版部を経て、1903年(明治36)に読売新聞社に入社して、文芸・美術・演劇を担当します。
 翌年『寂寞』を発表して小説を書きはじめ、1907年(明治40)には最初の短編集『紅塵』を刊行し、新進作家として認められました。1908年(明治41)に「早稲田文学」へ発表した『何処へ』などで、自然主義文学運動の中心作家の一人となります。
 『安土の春』、『光秀と紹巴』(ともに1926年)などの戯曲も手掛け、1928年(昭和3)から翌年にかけての外遊後は、『文壇人物評論』などの評論分野でも活躍しました。1935年(昭和10)に島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立、1943年(昭和18)から会長に就任します。
 太平洋戦争後は、1950年(昭和25)に文化勲章受章、翌年文化功労者となったのをはじめ、1957年(昭和32)に批評活動で第5回菊池寛賞、1959年(昭和34)に小説『今年の秋』で第11回読売文学賞・小説賞を受賞するなど数々の栄誉に輝きました。しかし、1962年(昭和37)10月28日に、東京において、83歳で亡くなっています。

〇正宗白鳥の主要な著作

・小説『寂寞』(1904年)
・小説『塵埃』(1907年)
・小説『何処へ』(1908年)
・小説『微光』(1910年)
・小説『泥人形』(1911年)
・小説『入江のほとり』(1915年)
・小説『牛部屋の臭ひ』(1916年)
・小説『死者生者』(1916年)
・小説『牛部屋の臭ひ』(1916年)
・小説『毒婦のやうな女』(1920年)
・戯曲『人生の幸福』(1924年)
・戯曲『安土 (あづち) の春』(1926年)
・戯曲『光秀と紹巴』(1926年)
・評論『文壇人物評論』(1932年)
・評論『文壇的自叙伝』(1938年)
・評論『自然主義盛衰史』(1948年)
・小説『日本脱出』(1949年)
・評論『内村鑑三』(1950年)
・自伝『文壇五十年』(1954年)
・小説『今年の秋』(1959年)読売文学賞受賞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日)詳細
1891年(明治24)濃尾地震が起き、死者7,273人を出す詳細
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