
在学中に、日野啓三、佐野洋らと『現代文学』を創刊し、1953年(昭和28)に文学部国文科を卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属されました。1954年(昭和29)に、谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加、1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行します。
1963年(昭和38)に読売新聞社を退職、翌年には、明治大学助教授となり、1969年(昭和44)には、評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞しました。1970年(昭和45)に明治大学教授に昇任、この頃から連句(連詩)をはじめ、1972年(昭和47)には、評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞します。
1979年(昭和54)に「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞、翌年には、『折々のうた』で菊池寛賞を受賞しました。1987年(昭和62)に明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任、1989年(平成元)には、日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞します。
1990年(平成2)に『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1993年(平成5)には、『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞めました。1994年(平成6)に第51回恩賜賞・日本芸術院賞、1995年(平成7)に日本芸術院会員、1996年(平成8)に朝日賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞、1997年(平成9)には文化功労者となるなど、数々の栄誉に輝きます。
さらに、2002年(平成14)に国際交流基金賞、2003年(平成15)に文化勲章、2004年(平成16)にフランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエ受章と続きました。2007年(平成19)に「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了、2009年(平成21)に静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館するなどしたものの、2017年(平成29)4月5日に、静岡県三島市において、呼吸不全のため86歳で亡くなっています。