ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本プロレタリア作家同盟

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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、詩人壺井繁治が亡くなった日です。
 壺井繁治(つぼい しげじ)は、明治時代後期の1897年(明治30)10月18日に、香川県小豆郡苗羽村大字堀越(現在の小豆島町)で、壺井増十郎・トワの四男として生まれました。1917年(大正6)に上京し、早稲田大学政経学科へ入学、1918年(大正7)に学資稼ぎのため、アルバイトで勤めた東京中央郵便局の書留係で労働争議を経験、大学を中退し、1922年(大正11)には、プロレタリア文学の出版社だった自然社へ就職します。
 1924年(大正13)に萩原恭次郎、岡本潤らと「赤と黒」を創刊、アナーキスト詩人として活躍、1925年(大正14)には、同郷の岩井(壺井)栄と結婚しました。次第に社会意識を高め、1927年(昭和2)にアナーキズム系の詩誌「文芸解放」を創刊、その11号に「我等は如何に彼等と対立するか」を掲載し、アナキズムからマルキシズムへの転回を示し、黒色青年連盟員に襲撃され重傷を負います。
 1928年(昭和3)に三好十郎らと左翼芸術家同盟を結成、同年には全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加しましたが、夏には検挙されて市ヶ谷刑務所にはじめて長期拘留されました。1929年(昭和4)にナップ機関紙「戦旗」の編集を引き受け、日本プロレタリア作家同盟中央委員となったものの、1930年(昭和5)に「治安維持法」違反容疑により豊多摩刑務所に入獄します。
 1932年(昭和7)に日本プロレタリア文化連盟弾圧により再び入獄し、1934年(昭和9)には、転向出獄して、東京市新宿区上落合に住みました。1935年(昭和10)に風刺集団サンチョ・クラブを結成、“村長”として風刺文学運動を続け、1942年(昭和17)には、夫妻で長年住みなれた上落合をあとにし、鷺宮の新居へと引っ越します。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20)に新日本文学会の創立に参加し、発起人となったものの、1962年(昭和37)には、詩人会議グループを結成し、「詩人会議」を創刊しました。政治性、社会性の濃い詩風で、民主主義詩運動を推進するなど、反骨、抵抗の詩人として活躍しましたが、1975年(昭和50)9月4日に、東京において、77歳で亡くなっています。

〇壺井繁治の主要な著作

・詩集『果実』(1946年)
・詩集『壺井繁治詩集』(1948年)
・評論集『抵抗の精神』(1949年)
・詩集『頭の中の兵士』(1956年)
・評論集『現代詩の精神』(1956年)
・詩集『風船』(1957年)
・評論集『現代詩の流域』(1959年)
・詩集『馬』(1966年)
・散文詩集『奇妙な洪水』(1972年)
・詩集『老齢詩抄』(1976年)

☆壺井繁治関係略年表

・1897年(明治30)10月18日 香川県小豆郡苗羽村大字堀越(現在の小豆島町)で、壺井増十郎・トワの四男として生まれる
・1903年(明治36) 苗羽尋常小学校へ入学する
・1917年(大正6) 上京し、早稲田大学政経学科へ入学する
・1918年(大正7) 学資稼ぎのため、アルバイトで勤めた東京中央郵便局の書留係で労働争議を経験する
・1922年(大正11) プロレタリア文学の出版社だった自然社へ就職する
・1922年(大正11) 個人誌『出発』を刊行する
・1924年(大正13) 萩原恭次郎、岡本潤らと「赤と黒」を創刊、アナーキスト詩人として活躍する
・1925年(大正14) 同郷の岩井(壺井)栄と結婚する
・1927年(昭和2) 「文芸解放」を創刊する
・1927年(昭和2)12月 「文芸解放」11号に「我等は如何に彼等と対立するか」を掲載し、アナキズムからマルキシズムへの転回を示し、黒色青年連盟員に襲撃され重傷を負う
・1928年(昭和3)2月 三好十郎らと左翼芸術家同盟を結成する
・1928年(昭和3)3月 全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加する
・1929年(昭和4)10月 ナップ機関紙「戦旗」の編集を引き受ける
・1929年(昭和4) 日本プロレタリア作家同盟中央委員となる
・1930年(昭和5)10月 「治安維持法」違反容疑により豊多摩刑務所に入獄する
・1932年(昭和7)6月 日本プロレタリア文化連盟弾圧により再び入獄する
・1934年(昭和9)5月 転向出獄して、東京市新宿区上落合に住む
・1935年(昭和10) サンチョ・クラブを結成、“村長”として風刺文学運動を続ける
・1942年(昭和17)9月 夫妻で長年住みなれた上落合から、鷺宮の新居へと引っ越す
・1942年(昭和17) 第一詩集『壺井繁治詩集』を刊行する
・1945年(昭和20)12月 新日本文学会の創立に参加し、発起人となる
・1962年(昭和37)7月 詩人会議グループを結成し、「詩人会議」創刊する
・1975年(昭和50)9月4日 東京において、77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1702年(元禄15)武士・尾張藩士・国学者・俳人横井也有の誕生日(新暦10月24日)詳細
1820年(文政3)備中鴨方藩士・文人画家浦上玉堂の命日で(新暦10月10日)詳細
1913年(大正2)政治家田中正造の命日詳細
1994年(平成6)関西国際空港が開港する(関西国際空港開港記念日)詳細


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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、小説家橋本英吉の亡くなった日です。
 橋本英吉(はしもと えいきち)は、1898年(明治31)11月1日に、福岡県築上郡東吉富村(現在の吉富町)において、製材所に勤める父と小作田を耕す母の子として生まれましたが、本名は白石亀吉と言いました。父の急死後、豆腐屋を家業とする白石家の養子となり、高等小学校卒業後は、郵便局員を経て三井田川鉱業所に入り支柱夫を8年ほどします。
 1923年(大正12)に上京して、モノタイプの技術を身に着け、1925年(大正14)には、博文館印刷(後の共同印刷)のモノタイプ工となり、徳永直を知りましたが、翌年の争議で解雇され、その後労働運動のオルグ活動をしました。『炭脈の昼』を発表し、1927年(昭和2)に文芸春秋社社員となり、横光利一の影響をうけます。
 翌年に前衛芸術家同盟に参加、「戦旗」に『棺と赤旗』を発表し、プロレタリア作家として認められ、1929年(昭和4)には文芸春秋社を退社しました。1931年(昭和6)に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)書記長となり、日本プロレタリア文化連盟(コップ)結成のために尽力したものの、1932年(昭和7)に検挙され転向のやむなきに至ります。
 1934年(昭和9)にリアリズムに徹した長編小説『炭坑』を発表、1936年(昭和11)に『欅の芽立』で第5回文学界賞を受賞、1942年(昭和17)には、『柿の木と毛虫』が第16回芥川賞の候補となりましたが、入選しませんでした。1943年(昭和18)に『筑豊炭田』が第1回歴史文学賞の候補となり、戦時下では農民文学で活動しましたが、太平洋戦争末期の空襲下で、静岡県田方郡大仁町(現在の伊豆の国市)へ疎開します。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に富士山での気象観測に苦闘する野中至夫妻を描いた『富士山頂』を刊行、これは佐伯清によって映画化されました。その後、『星の夜の広場にて』(1948年)、『マルクスの微笑』(1948年)などを刊行しています。
 1971年(昭和46)に日本民主主義文学同盟に加盟、「文化評論」に『三脚の鼎』を発表、1976年(昭和51)には、「文化評論」に、自伝的作品『若き坑夫の像』を連載しましたが、1978年(昭和53)4月20日に、静岡県田方郡大仁町(現在の伊豆の国市)において、79歳で亡くなりました。

〇橋本英吉の主要な著作

・『炭脈の昼』 (1926年)
・『棺と赤旗』 (1928年)
・『市街戦』(1930年)
・『労働市場』(1930年)
・『炭坑』(1934年)
・『欅の芽立』(1936年)第5回文学界賞受賞
・『衣食住その他 短篇集』(1939年)
・『坑道』(1939年)
・『草上の饗宴』(1940年)
・『四季の感情』(1940年)
・『富士』(1941年)
・『食欲と情熱』(1941年)
・『系図』(1942年)
・『柿の木と毛虫』(1942年)第16回芥川賞候補
・『金づちの富士登山』(1943年)
・『柿の木』(1943年)
・『筑豊炭田』(1943年)第1回歴史文学賞候補
・『東方の種族』(1943年)
・『忠義』(1943年)
・『小鳥峠』(1944年)
・『賭ける女』(1946年)
・『富士山頂』(1946年)
・『星の夜の広場にて』(1948年)
・『マルクスの微笑』(1948年)
・『黒い掌』(1955年)
・『ぼたん雪』(1955年)
・『三脚の鼎』(1971年)
・『若き坑夫の像』(1976年)

☆橋本英吉関係略年表

・1898年(明治31)11月1日 福岡県築上郡東吉富村(現在の吉富町)に生まれる
・1923年(大正12) 上京して、モノタイプの技術を身に着ける
・1925年(大正14) 共同印刷のモノタイプ工となり、徳永直を知る
・1926年(大正15) 共同印刷争議で解雇される、『炭脈の昼』を発表する
・1927年(昭和2) 文芸春秋社社員となる
・1928年(昭和3) 前衛芸術家同盟に参加、「戦旗」に『棺と赤旗』を発表し、プロレタリア作家として認められる
・1929年(昭和4) 文芸春秋社を退社する
・1931年(昭和6) 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)書記長となり、日本プロレタリア文化連盟(コップ)結成のために尽力する
・1932年(昭和7) 検挙され転向する
・1934年(昭和9) リアリズムに徹した長編小説『炭坑』を発表する
・1936年(昭和11) 東京へ移住、『欅の芽立』で第5回文学界賞を受賞する
・1942年(昭和17) 『柿の木と毛虫』が第16回芥川賞の候補となるも、入選しなかった
・1943年(昭和18) 『筑豊炭田』が第1回歴史文学賞の候補となる
・1945年(昭和20) 太平洋戦争末期の空襲下で、静岡県田方郡大仁町へ疎開する
・1946年(昭和21) 富士山での気象観測に苦闘する野中至夫妻を描いた『富士山頂』を刊行する
・1971年(昭和46) 日本民主主義文学同盟に加盟、「文化評論」に『三脚の鼎』を発表する
・1976年(昭和51) 「文化評論」に、自伝的作品『若き坑夫の像』を連載する
・1978年(昭和53)4月20日 静岡県田方郡大仁町(現在の伊豆の国市)において、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1546年(天文15)河越城の戦いで北条氏康が河越城包囲の上杉方を夜襲し勝利する(新暦5月19日)詳細
1651年(慶安4)江戸幕府三代将軍徳川家光の命日(新暦6月8日)詳細
1947年(昭和22)飯田大火で4,010戸が焼失する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、小説家・詩人高見順の亡くなった日です。
 高見順(たかみ じゅん)は、明治時代後期の1907年(明治40)1月30日に、福井県坂井郡三国町(現在の坂井市三国町)で、福井県知事阪本釤之助の非嫡出子(母は高間古代)として生まれましたが、本名は高間義雄と言いました。1908年(明治41)に母と共に上京し、1919年(大正8)に東京府立第一中学校へ入学して、白樺派などの文学に親しみます。
 1924年(大正13)に中学校を卒業後、第一高等学校文科甲類入学し、一高社会思想研究会に入会、翌年にはダダイスムの雑誌「廻転時代」を創刊、1926年(大正15)には、校友会文芸部委員に就任しました。1927年(昭和2)に第一高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部英文学科に入学、同人雑誌「文芸交錯」創刊に参加します。
 翌年に左翼芸術同盟に参加し、機関紙「左翼芸術」に小説『秋から秋まで』を発表、東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した「大学左派」創刊にも参加しました。1929年(昭和4)に「大学左派」の後身「十月」や「時代文化」の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進み、翌年に東京帝国大学を卒業後、コロムビア・レコード会社へ入社します。
 1931年(昭和6)頃から日本プロレタリア作家同盟員として活動し、1933年(昭和8)には、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されたものの、「転向」を表明し、半年後に釈放され、雑誌「日暦」創刊に参加しました。1935年(昭和10)に饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』を「日暦」に発表、第1回芥川賞候補となって作家としての地位を確立、翌年には『文芸時評』で文学界賞を受賞、「人民文庫」の創刊に「日暦」同人とともに参加、コロムビア・レコード会社を退社して文筆生活に入ります。
 1939年(昭和14)、「文芸」に長編小説『如何なる星の下に』の連載を開始し、高い評価を受け、1941年(昭和16)に陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣され、1944年(昭和19)に中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席、1945年(昭和20)には日本文学報国会へも参加しました。太平洋戦争後は、久米正雄、川端康成、中山義秀らと出版社「鎌倉文庫」を創立、1946年(昭和21)には、そこから小説『今ひとたびの』を刊行します。
 1947年(昭和22)に池田克己らと「日本未来派」を創刊、詩作を再開、1958年(昭和33)には、日本ペンクラブ専務理事に就任しました。1959年(昭和34)に評論『昭和文学盛衰史』で毎日出版文化賞、1963年(昭和38)に長編小説『いやな感じ』で新潮社文学賞、1964年(昭和39)には、日本近代文学館設立運動により菊池寛賞、詩集『死の淵より』で野間文芸賞受章など数々の栄誉にも輝いています。
 しかし、翌年8月17日に、食道癌のため千葉県の放射線医学総合研究所病院において、58歳で亡くなり、文化功労者が追贈されました。

〇高見順の主要な著作

・短編小説『感傷』(1933年)
・長編小説『故旧忘れ得べき』(1935年)第1回芥川賞候補
・評論『描写のうしろに寝てゐられない』(1936年)
・長編小説『如何(いか)なる星の下(もと)に』(1939~40年)
・評論『文学非力説』(1941年)
・長編小説『わが胸の底のここには』(1946~47年)1957年続編を発表するが未完
・小説『今ひとたびの』(1946年)
・詩集『樹木派』(1950年)
・長編小説『胸より胸に』(1950~51年)
・長編小説『生命の樹(き)』(1956~58年)
・評論『昭和文学盛衰史』(1958年)毎日出版文化賞受賞
・長編小説『激流』1部(1959~63年)
・長編小説『激流』2部(1963年~未完)
・長編小説『いやな感じ』(1960~63年)新潮社文学賞受賞
・詩集『死の淵(ふち)より』(1964年)野間文芸賞受賞
・日記『高見順日記』正続16巻(1941~65年)

☆高見順関係略年表

・1907年(明治40)1月30日 福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)で、福井県知事阪本釤之助の非嫡出子(母は高間古代)として生まれる
・1908年(明治41) 母と共に上京する
・1919年(大正8) 東京府立第一中学校へ入学する
・1924年(大正13) 東京府立第一中学校を卒業、第一高等学校文科甲類入学し、一高社会思想研究会に入会する
・1925年(大正14) ダダイスムの雑誌「廻転時代」を創刊する
・1926年(大正15) 校友会文芸部委員に就任する
・1927年(昭和2) 第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部英文学科に入学、同人雑誌「文芸交錯」創刊に参加する、
・1928年(昭和3) 左翼芸術同盟に参加し、機関紙「左翼芸術」に小説『秋から秋まで』を発表する。東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した「大学左派」創刊にも参加する
・1929年(昭和4) 「大学左派」の後身「十月」や「時代文化」の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進む
・1930年(昭和5) 東京帝国大学を卒業、研究社英和辞典臨時雇として勤務後、コロムビア・レコード会社へ入社する
・1931年(昭和6)頃 日本プロレタリア作家同盟員として活動する 
・1933年(昭和8) 治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、「転向」を表明し、半年後に釈放され、雑誌「日暦」創刊に参加する
・1935年(昭和10) 饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』を「日暦」に発表、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立、水谷秋子と結婚する
・1936年(昭和11) 『文芸時評』で文学界賞を受章、「人民文庫」の創刊に「日暦」同人とともに参加、コロムビア・レコード会社を退社して文筆生活に入る
・1938年(昭和13) 浅草五一郎アパート(曽我廼家五一郎が経営)に部屋を借りて浅草生活を始める
・1939年(昭和14) 「文芸」に長編小説『如何なる星の下に』の連載を開始し、高い評価を受ける
・1941年(昭和16) 陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣される
・1944年(昭和19) 中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席する
・1945年(昭和20)6月 日本文学報国会参加する
・1945年(昭和20)9月 久米正雄、川端康成、中山義秀らと出版社「鎌倉文庫」を創立する
・1946年(昭和21)9月 「鎌倉文庫」から小説『今ひとたびの』を刊行する 
・1947年(昭和22)5月 池田克己らと「日本未来派」を創刊、詩作を再開する
・1950年(昭和25)6月 「婦人公論」に長編小説『胸より胸に』の連載を開始する
・1958年(昭和33)2月 日本ペンクラブ専務理事に就任する
・1959年(昭和34)9月 評論『昭和文学盛衰史』で毎日出版文化賞を受賞する
・1962年(昭和37)5月 伊藤整、小田切進らと日本近代文学館設立準備会を発足させる
・1963年(昭和38)10月 長編小説『いやな感じ』で新潮社文学賞を受賞する
・1964年(昭和39)3月 日本近代文学館設立運動により菊池寛賞を受章する
・1964年(昭和39)12月 詩集『死の淵より』で野間文芸賞を受章する
・1965年(昭和40)8月17日 食道癌のため千葉県の放射線医学総合研究所病院において、58歳で亡くなり、文化功労者が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)経世家・陽明学者熊沢蕃山の命日(新暦9月9日)詳細
1945年(昭和20)小説家島木健作の命日詳細
1949年(昭和24)国鉄東北本線の旅客列車が福島県内で転覆させられる事故(松川事件)が起こる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、小説家・教育評論家本庄陸男の亡くなった日です。
 本庄陸男(ほんじょう むつお)は、1905年(明治38)2月20日に北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれました。その後、北見渚滑に再移住し、紋別高等小学校卒業後、尋常小学校の代用教員をしていましたが、16歳の時、樺太に渡って、王子製紙に1年間勤務、その貯金を持って、上京して青山師範学校へ入学します。
 在学中から文学活動を始め、雑誌に小品を投稿したり、教育評論を発表し、1925年(大正14)に卒業後、本郷誠之小学校に勤務しました。新興教育運動に参加するようになり、下町にある深川の明治小学校に自ら望んで転任します。
 その中で、前衛芸術家連盟に参加、1928年(昭和3)に全日本無産者芸術連盟(ナップ)に合流し、「文学新聞」の発行責任者を務め、出版部員として活動しました。同年に、『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となり、1930年(昭和5)には、教員組合事件で明治小学校を免職となります。
 それを機にプロレタリア文学の作家活動に専念し、小説、童話、評論などを発表、1931年(昭和6)の日本プロレタリア作家同盟(ナップ文学部の後身)第4回大会で中央委員となり、1934年(昭和9)の日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加し『白い壁』などを発表して、注目されました。1936年(昭和11)に雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となり、同年の『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞します。
 1938年(昭和13)に同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、歴史長編小説『石狩川』の連載を開始、明治初期の北海道開拓団の苦闘を描いて代表作となりました。しかし、肺結核に侵され、1939年(昭和14)7月23日に東京において、34歳の若さで亡くなっています。

〇本庄陸男の主要な著作

・『北の開墾地』(1928年)
・『資本主義下の小学校』(1928年)発禁
・『白い壁』(1935年)
・『橋梁(きょうりょう)』(1936年)
・『女の子男の子』(1936年)第2回人民文庫賞受賞
・『石狩は懐く』(1939年)
・『石狩川』(1939年)

☆本庄陸男関係略年表

・1905年(明治38)2月20日 北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれる
・1913年(大正2) 9歳の時、一家の破産で、北見渚滑に再移住する
・1919年(大正8) 紋別高等小学校を卒業し、第三渚滑尋常小学校代用教員となる
・1920年(大正9) 16歳の時、樺太に渡り、王子製紙に勤務する
・1921年(大正10) 17歳の時、上京して青山師範学校本科へ編入する
・1925年(大正14) 青山師範学校を卒業、本郷誠之小学校に勤務する
・1928年(昭和3) 全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加する
・1928年(昭和3) 『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となる
・1929年(昭和4)4月 自ら望んで下町にある深川の明治小学校に転任する
・1930年(昭和5)2月 教員組合事件で明治小学校を免職となる
・1931年(昭和6)7月 日本プロレタリア作家同盟第4回大会で中央委員となる
・1934年(昭和9) 日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加する
・1935年(昭和10) 雑誌「現実」に『白い壁』を発表して注目される
・1936年(昭和11) 雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となる
・1936年(昭和11) 『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞する
・1938年(昭和13) 同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、代表作『石狩川』の連載を開始する
・1939年(昭和14)7月23日 東京で肺結核のため34歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)小説家幸田露伴の誕生日(新暦8月22日)詳細
1918年(大正7)富山県魚津町の主婦らが米の県外積出し阻止の行動を起こす(米騒動の始まり)詳細
1976年(昭和51)文化財保護審議会が7ヶ所を初の重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出す詳細
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