ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日本の十大発明家

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 今日は、江戸時代後期の1864年(元治元)に、化学者池田菊苗の生まれた日ですが、新暦では10月8日となります。
 池田菊苗(いけだ きくなえ)は、山城国京都において、薩摩藩の京都藩邸の留守居役池田春苗の次男として生まれましたが、幼名は完二郎と言いました。9歳の時に東京に出て約2年間英語を勉強し、京都に帰ってからも宣教師から英語を学びます。
 1880年(明治13)の16歳の時、大阪衛生試験所長村橋次郎から化学を学び、翌年に親に内緒で家出して上京、1882年(明治15)には、大学予備門に入学しました。予備門理科を卒業後、東京帝国大学(現在の東京大学)理学部化学科に入学し、桜井錠二教授に師事、1889年(明治22)には、卒業して大学院へ進学します。
 1891年(明治24)に高等師範学校教授となり、1896年(明治29)には、東京帝国大学理科大学化学科の助教授に就任しました。1899年(明治32)に物理化学の研究のためドイツに留学、ドイツ・ライプツィヒ大学のオストワルド教授に師事、1901年(明治34)には、ロンドンに滞在し、夏目漱石と同じ下宿に住み親交を持ち、帰国後、東京帝国大学物理化学教授に昇進します。
 1902年(明治35)に理学博士の学位を取得、1907年(明治40)には、甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手しました。1908年(明治41)に昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見、グルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得します。
 1909年(明治42)にうまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売され、1912年(大正元)には、勲三等瑞宝章を受章しました。1913年(大正2)に日本化学会会長、1917年(大正6)に理化学研究所の創立に参加して化学部長、1919年(大正8)には、帝国学士院会員となります。
 1922年(大正11)に理化学研究所主任研究員となり、1923年(大正12)には、東京帝国大学を退職し、正三位となりました。1926年(大正15)に帝国発明協会恩賜記念賞・大賞を受賞、1931年(昭和6)には、自宅に研究室を設けて、香気、臭気など特異な分野を研究します。
 1932年(昭和7)に理化学研究所を退職、日本学術会議の化学関係担当常置委員長となったものの、1936年(昭和11)5月3日に、東京において、71歳で亡くなりました。尚、他に酸性白土を利用した乾燥剤など日本の特許40件、欧米などの特許20件を取得しています。
 没後の1985年(昭和60)には、日本の産業財産権制度百周年記念事業の一環で、日本の十大発明家として顕彰されました。

〇池田菊苗関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1864年(元治元年9月8日) 山城国京都において、薩摩藩の京都藩邸の留守居役池田春苗の次男として生まれる
・1880年(明治13) 大阪衛生試験所で化学を学び始める
・1881年(明治14) 親に内緒で家出して上京する
・1882年(明治15) 大学予備門に入学する
・1889年(明治22) 帝国大学理科大学化学科(現在の東京大学理学部化学科)を卒業し、大学院へ進学する
・1891年(明治24) 高等師範学校教授に就任し、従七位となる
・1896年(明治29) 東京帝国大学理科大学化学科の助教授に就任する
・1899年(明治32) 物理化学の研究のためドイツに留学、ドイツ・ライプツィヒ大学のオストワルド教授に師事する
・1901年(明治34) ロンドンに滞在し、夏目漱石と同じ下宿に住み親交を持ち、帰国後、東京帝国大学物理化学教授に昇進する
・1902年(明治35) 理学博士の学位を取得する
・1904年(明治37) 従五位となる
・1907年(明治40) 甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手する
・1908年(明治41) 昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見、グルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得する
・1909年(明治42) うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売される
・1912年(大正元) 勲三等瑞宝章を受章する
・1913年(大正2) 日本化学会会長となる
・1917年(大正6) 理化学研究所の創立に参加し、化学部長となる
・1919年(大正8) 帝国学士院会員となる
・1922年(大正11) 理化学研究所主任研究員となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学を退職し、正三位となる
・1926年(大正15) 帝国発明協会恩賜記念賞・大賞を受賞する
・1931年(昭和6) 自宅に研究室を設けて、香気、臭気など特異な分野を研究する
・1932年(昭和7) 理化学研究所を退職、日本学術会議の化学関係担当常置委員長となる
・1936年(昭和11)5月3日 東京において、71歳で亡くなる
・1985年(昭和60) 日本の産業財産権制度百周年記念事業の一環で、日本の十大発明家として顕彰される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1658年(万治元)江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消が始まる(新暦10月4日)詳細
1775年(安永4)俳人加賀千代女(千代尼)の命日(新暦10月2日)詳細
1873年(明治6)教育家・婦人ジャーナリストの先駆者羽仁もと子の誕生日詳細
1904年(明治37)「屯田兵条例」が廃止され、屯田兵制度が終わる詳細
1951年(昭和26)「サンフランシスコ平和条約」が調印される詳細
「日米安全保障条約」(旧)が調印される詳細
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okabekinjirou01
 今日は、昭和時代後期の1984年(昭和59)に、電子工学者岡部金治郎の亡くなった日です。
 岡部金治郎(おかべ きんじろう)は、明治時代後期の1896年(明治29)3月27日に、愛知県名古屋市に生まれました。旧制愛知第5中学(現在の県立瑞陵高校)を経て、1916年(大正5)には、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)紡織科を卒業します。
 1917年(大正6)に、高田商会大阪支店に入社しましたが、東北帝国大学理科大学助手となり、1918年(大正7)に、東北帝国大学理科大学物理科へ入学しました。翌年に、工学部電気工学科に転じ、1922年(大正11)には、卒業して、同大学講師となり、1925年(大正14)には、助教授に昇任します。
 1927年(昭和2) に“分割陽極マグネトロン”を開発し、実用に耐える極超短波の発生が初めて可能となり、無線通信界に一大センセーションをまき起こしました。1929年(昭和4)に、論文『「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究』 で、東北帝国大学より工学博士の学位を授与され、名古屋高等工業学校教授となります。
 1934年(昭和9)に名古屋高等工業学校教授を辞め、翌年には、大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残し、大阪帝国大学理学部助教授に就任しました。1936年(昭和11)に極超短波の研究で朝日文化賞を受賞、1939年(昭和14)には、教授に昇任し、日本の十大発明家選ばれ、昭和天皇より宮中賜餐の栄を受けます。
 1941年(昭和16)に日本学士院賞恩賜賞を受賞、大阪大学産業科学研究所教授となり、1944年(昭和19)には、文化勲章も受章しました。太平洋戦争後、1951年(昭和26)に同研究所所長となったものの、1955年(昭和30)に定年退官し、翌年には、大阪大学名誉教授となり、近畿大学教授に就任します。
 1966年(昭和41)に近畿大学九州工学部長となり、1969年(昭和44)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1972年(昭和47)に近畿大学を辞めましたが、1984年(昭和59)4月8日には、愛知県において、老衰のため、88歳で亡くなっています。

〇岡部金治郎の主要な著作

・『特殊熱電子管』(1946年)
・『電子工学』(1948年)
・『超高周波』(1954年)
・『人間は死んだらどうなるか』(1971年)

☆岡部金治郎関係略年表

・1896年(明治29)3月27日 愛知県名古屋市に生まれる
・1916年(大正5) 名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)紡織科を卒業する
・1917年(大正6) 高田商会大阪支店に入社、東北帝国大学理科大学助手となる
・1918年(大正7) 東北帝国大学理科大学物理科入学する
・1919年(大正8) 東北帝国大学工学部電気工学科に入学する
・1922年(大正11) 東北帝国大学(現在の東北大学)工学部電気工学科を卒業し、講師となる
・1925年(大正14) 東北帝国大学助教授となる
・1927年(昭和2)  “分割陽極マグネトロン”を開発し、実用に耐える極超短波の発生が初めて可能となり、無線通信界に一大センセーションをまき起こす
・1929年(昭和4) 論文『「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究』 で、東北帝国大学より工学博士の学位を授与され、名古屋高等工業学校教授となる
・1934年(昭和9) 名古屋高等工業学校教授を辞める
・1935年(昭和10) 大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残し、大阪帝国大学理学部助教授に就任する
・1936年(昭和11) 極超短波の研究で朝日文化賞を受賞する
・1939年(昭和14) 大阪帝国大学教授に昇任、日本の十大発明家選ばれ、昭和天皇より宮中賜餐の栄を受ける
・1941年(昭和16) 日本学士院賞恩賜賞を受賞、大阪大学産業科学研究所教授となる
・1944年(昭和19) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26) 大阪大学産業科学研究所所長となる
・1955年(昭和30) 大阪大学産業科学研究所所長を定年退官する
・1956年(昭和31) 大阪大学名誉教授となり、近畿大学教授に就任する
・1966年(昭和41) 近畿大学九州工学部長を務める
・1969年(昭和44) 勲一等瑞宝章を受章する
・1972年(昭和47) 近畿大学教授を辞める
・1984年(昭和59)4月8日 愛知県において、老衰のため、88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1896年(明治29)「移民保護規則」にかわり、「移民保護法」が公布(施行は6月1日)される詳細
1940年(昭和15)「国民体力法」が公布(施行は同年9月25日)される詳細
1942年(昭和17)政府の外郭団体としての財団法人大日本体育会が発足する詳細
1948年(昭和23)東宝争議(第3次)が勃発する詳細
1959年(昭和34)俳人・小説家高浜虚子の命日(椿寿忌)詳細
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yagihidetsugu01
 今日は、昭和時代後期の1976年(昭和51)に、電気通信工学者・大阪大学総長・八木アンテナ社長・参議院議員八木秀次が亡くなった日です。
 八木秀次(やぎ ひでつぐ)は、明治時代前期の1886年(明治19)1月28日に、大阪府大阪市東区北浜4丁目において、両替商を営む父・八木忠兵衛、母・みちの三男として生まれました。1903年(明治36)に、北野中学を首席で卒業し、第三高等学校理科に入学します。
 在学中に無線に興味を持ち、1909年(明治42)に卒業、仙台高等工業学校電気科講師となったものの、一年志願兵として中野電信隊に入営しました。1910年(明治43)に陸軍工兵軍曹を経て、仙台高等工業学校電気科教授となります。
 1913年(大正2)に欧米留学し、ドレスデン工科専門大学(現・ドレスデン工科大学)のバルクハウゼン教授に師事、翌年にスイス滞在中、第一次世界大戦が勃発したため、留学地をイギリスに移し、ユニバーシティカレッジのフレミング教授の下で実験研究に従事、1915年(大正4)には、渡米し、ハーバード大学のピアス(英語版)教授に師事しました。1916年(大正5)に欧米留学より帰国、1919年(大正8)には、東北帝国大学工学部教授となり、工学博士の学位を取得します。
 1924年(大正13)に東北帝国大学工学部長となり、1925年(大正14)には、八木・宇田アンテナの基礎理論を提案、翌年には特許(特許第69115号)を取得しました。1929年(昭和4)に東北帝国大学工学部長となり、1931年(昭和6)には、大阪帝国大学理学部創立委員を受諾、翌年に設立された大阪帝国大学理学部の教授を兼任します。
 1936年(昭和11に東北帝国大学教授を退官して、大阪帝国大学の専任となり、翌年には電気通信学会会長となりました。1939年(昭和14)に大阪帝国大学理学部長となり、1940年(昭和15)に電気学会会長、1942年(昭和17)には、東京工業大学学長に就任します。
 1943年(昭和18)に日本音響学会会長、1944年(昭和19)には、内閣技術院総裁に就任しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に戦争調査会の第五部会(科学技術)の部会長に任命され、勲一等瑞宝章を受章します。
 1946年(昭和21)に大阪帝国大学総長に就任したものの、GHQの公職追放者指定を受けて辞職、日本アマチュア無線連盟会長に就任しました。1951年(昭和26)に日本学士院会員に選任され、大阪大学名誉教授、民主社会主義連盟会長に就任、藍綬褒章を受章します。
 1952年(昭和27)に八木アンテナ株式会社社長に就任、翌年の第3回参議院議員選挙に全国区から右派社会党公認で出馬して補欠当選(3年任期)しました。1955年(昭和30)に五島慶太に請われて武蔵工業大学学長に就任、1956年(昭和31)の第4回参議院議員選挙で落選、文化勲章を受章します。
 1957年(昭和32)に日本経営管理士会(現・日本経営管理協会)第2代会長に就任、1958年(昭和33)には、デンマーク工学アカデミー「プールゼン金牌(英語版)」、1962年(昭和37)には、第2回モントルー国際テレビジョンシンポジウム(スイス開催)表彰を受けました。1974年(昭和49)に東北大学名誉教授となりましたが、1976年(昭和51)1月19日に、東京において、89歳で亡くなり、従二位と旭日大綬章を追贈されています。
 八木‐宇田アンテナの発明、指向性超短波空中線方式、高周波光力変調方式など通信工学の業績が大きかったので、1985年(昭和60)には、特許制度制定百周年を記念して人選された「日本の十大発明家」の一人に選ばれました。

〇八木秀次の主要な著作

・『八木秀次随筆集』
・『技術人夜話』

☆八木秀次関係略年表

・1886年(明治19)1月28日 大阪府大阪市東区北浜4丁目において、両替商を営む父・八木忠兵衛、母・みちの三男として生まれる
・1903年(明治36) 北野中学を首席で卒業し、第三高等学校理科に入学する
・1906年(明治39) 東京帝国大学工科大学電気工学科に入学する
・1909年(明治42) 東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業、仙台高等工業学校電気科講師、一年志願兵として中野電信隊に入営する
・1910年(明治43) 陸軍工兵軍曹、仙台高等工業学校電気科教授となる
・1913年(大正2) ドイツ留学し、ドレスデン工科専門大学(現・ドレスデン工科大学)のバルクハウゼン教授に師事する
・1914年(大正3) スイス滞在中に第一次世界大戦が勃発したため、留学地をイギリスに移し、ユニバーシティカレッジのフレミング教授の下で実験研究に従事する
・1915年(大正4) 渡米し、ハーバード大学のピアス(英語版)教授に師事する
・1916年(大正5) 欧米留学より帰国する
・1919年(大正8) 東北帝国大学工学部教授となり、工学博士の学位を取得、安部恒子と結婚する
・1923年(大正12) 正五位となる
・1924年(大正13) 東北帝国大学工学部長となり、勲四等瑞宝章を受章する
・1925年(大正14) 八木・宇田アンテナの基礎理論を提案、指向性短波アンテナの特許を単独名で出願する
・1926年(大正15) 八木・宇田アンテナを特許化(特許第69115号)する
・1928年(昭和3) 従四位となり、勲三等瑞宝章を受章する
・1929年(昭和4) 東北帝国大学工学部長となる
・1931年(昭和6) 大阪帝国大学理学部物理学科の初代主任教授就任を打診されて、一度は断るものの、再度の依嘱により諾意、理学部創立委員を受諾する
・1932年(昭和7) 大阪帝国大学理学部創立委員が正式に決まり、創立委員会が開かれる。10月に大阪帝国大学教授を兼任する
・1933年(昭和8) 正四位となる
・1934年(昭和9) 大阪帝国大学教授兼東北帝国大学教授として更任する
・1935年(昭和10) 勲二等瑞宝章を受章する
・1936年(昭和11) 依願免兼官により、東北帝国大学教授を退官して、大阪帝国大学の専任となる
・1937年(昭和12) 電気通信学会会長となる
・1938年(昭和13) 従三位となる
・1939年(昭和14) 大阪帝国大学理学部長となる
・1940年(昭和15) 電気学会会長となる
・1942年(昭和17) 東京工業大学学長に就任する
・1943年(昭和18) 日本音響学会会長。10月に興亜工業大学(現・千葉工業大学)の顧問(顧問教授)の本多光太郎の後任として、同大学の相談役に就任する
・1944年(昭和19) 内閣技術院総裁に就任、正三位となる
・1945年(昭和20) 宮中講書始洋書進講、戦争調査会の第五部会(科学技術)の部会長に任命され、勲一等瑞宝章を受章する
・1946年(昭和21) 大阪帝国大学総長に就任するも、GHQの公職追放者指定を受けて辞職、日本アマチュア無線連盟会長に就任する
・1951年(昭和26) 日本学士院会員に選任され、大阪大学名誉教授、民主社会主義連盟会長に就任、藍綬褒章を受章する
・1952年(昭和27) 八木アンテナ株式会社社長に就任する
・1953年(昭和28) 第3回参議院議員選挙に全国区から右派社会党公認で出馬して51位で補欠当選(3年任期)する
・1955年(昭和30) 五島慶太に請われて武蔵工業大学(現・東京都市大学)学長に就任する
・1956年(昭和31) 第4回参議院議員選挙で落選、文化勲章を受章する
・1957年(昭和32) 日本経営管理士会(現・日本経営管理協会)第2代会長に就任する
・1958年(昭和33) デンマーク工学アカデミー「プールゼン金牌(英語版)」を受賞する
・1960年(昭和35) 八木アンテナ株式会社社長を辞める
・1962年(昭和37) 第2回モントルー国際テレビジョンシンポジウム(スイス開催)表彰を受ける
・1974年(昭和49) 東北大学名誉教授となる
・1976年(昭和51)1月19日 東京において、89歳で亡くなり、従二位と旭日大綬章を追贈される
・1985年(昭和60) 特許制度制定百周年を記念して人選された「日本の十大発明家」の一人に選ばれる
・1995年(平成7) IEEE(米国電気電子学会)によって八木・宇田アンテナ発明を顕彰するIEEEマイルストーンが、東北大学に設置される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

823年(弘仁14)嵯峨天皇から空海が教王護国寺(東寺)を下賜される(新暦3月5日)詳細
1926年(大正15)共同印刷の労働組合がにストライキを決議し、争議に突入する(共同印刷争議)詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣により、「空襲対策緊急強化要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)GHQが極東国際軍事裁判所の設置を命令、「極東国際軍事裁判所条例」が制定される詳細
1960年(昭和35)「新日米安全保障条約」に調印する詳細
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