
石館守三(いしだて もりぞう)は、明治時代後期の1901年(明治34)1月24日に、青森県青森市で薬種商を営む父・石館喜久造、母・みきの三男として生まれました。青森県立青森中学校、第二高等学校を経て、1922年(大正11)に、東京帝国大学医学部薬学科へ入学します。
3年のときから朝比奈泰彦教授に師事し、1925年(大正14)に卒業後、大学に残って研究生活を続け、1930年(昭和5)には、樟脳(しょうのう)の生化学的研究により、薬学博士となりました。1933年(昭和8)に、服部報公会賞を受賞、1936年(昭和11)に、生薬・植物化学研究のためドイツへ留学、ハイデルベルク大学などで学びます。
1938年(昭和13)に、ドイツ留学から帰国し、東京帝国大学助教授から、1942年(昭和17)に教授へ昇任、1944年(昭和19)には、「樟脳に関する研究」で、帝国学士院賞を受賞しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、ハンセン病治療薬「プロミン」の合成で日本薬学会賞、1948年(昭和23)には、「ジキタリス葉の強心性配糖体の研究」で日本薬学会賞・薬事日報学術賞を受賞しています。
1958年(昭和33)に、東京大学初代薬学部長に就任しましたが、1961年(昭和36)には、定年退官し名誉教授となり、青森市褒章を受章、日本分析化学会名誉会員となりました。その後、1965年(昭和40)に国立衛生試験所所長、1966年(昭和41)に中央薬事審議会長、1970年(昭和45)に日本薬剤師会会長に就任し、重責を担います。
日本の薬学の進歩、地位向上に決定的役割を果たした功績により、1971年(昭和46)に従四位勲二等旭日重光章、米国薬剤師会名誉会員、1972年(昭和47)にパリ大学名誉博士、パリ大学薬学部アカデミー会員、1973年(昭和48)に第3回「佐藤尚武郷土大賞」、1983年(昭和58)に第28回日本薬剤師会賞、環境庁長官表彰など数々の栄誉に輝きました。「日本のハンセン病化学療法の父」とも称され、1996年(平成8)に、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受けたものの、同年7月18日に、東京都杉並区の自宅において、95歳で亡くなっています。
3年のときから朝比奈泰彦教授に師事し、1925年(大正14)に卒業後、大学に残って研究生活を続け、1930年(昭和5)には、樟脳(しょうのう)の生化学的研究により、薬学博士となりました。1933年(昭和8)に、服部報公会賞を受賞、1936年(昭和11)に、生薬・植物化学研究のためドイツへ留学、ハイデルベルク大学などで学びます。
1938年(昭和13)に、ドイツ留学から帰国し、東京帝国大学助教授から、1942年(昭和17)に教授へ昇任、1944年(昭和19)には、「樟脳に関する研究」で、帝国学士院賞を受賞しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、ハンセン病治療薬「プロミン」の合成で日本薬学会賞、1948年(昭和23)には、「ジキタリス葉の強心性配糖体の研究」で日本薬学会賞・薬事日報学術賞を受賞しています。
1958年(昭和33)に、東京大学初代薬学部長に就任しましたが、1961年(昭和36)には、定年退官し名誉教授となり、青森市褒章を受章、日本分析化学会名誉会員となりました。その後、1965年(昭和40)に国立衛生試験所所長、1966年(昭和41)に中央薬事審議会長、1970年(昭和45)に日本薬剤師会会長に就任し、重責を担います。
日本の薬学の進歩、地位向上に決定的役割を果たした功績により、1971年(昭和46)に従四位勲二等旭日重光章、米国薬剤師会名誉会員、1972年(昭和47)にパリ大学名誉博士、パリ大学薬学部アカデミー会員、1973年(昭和48)に第3回「佐藤尚武郷土大賞」、1983年(昭和58)に第28回日本薬剤師会賞、環境庁長官表彰など数々の栄誉に輝きました。「日本のハンセン病化学療法の父」とも称され、1996年(平成8)に、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受けたものの、同年7月18日に、東京都杉並区の自宅において、95歳で亡くなっています。
〇石館守三の主要な著書
・『微量定性分析』
・『生活環境と発がん』
☆石館守三関係略年表
・1901年(明治34)1月24日 青森県青森市で薬種商を営む父・石館喜久造、母・みきの三男として生まれる
・1918年(大正7) 青森県立青森中学校を卒業する
・1919年(大正8) 第二高等学校理科二類に進学する
・1922年(大正11) 第二高等学校を卒業、東京帝国大学医学部薬学科へ入学する
・1925年(大正14) 東京帝国大学医学部薬学科を卒業する
・1926年(大正15) 倉田清・芳子の長女光子と結婚する
・1930年(昭和5) 樟脳(しょうのう)の生化学的研究により、薬学博士となる
・1933年(昭和8) 服部報公会賞を受賞する
・1936年(昭和11) 生薬・植物化学研究のためドイツへ留学する
・1938年(昭和13) ドイツ留学から帰国する
・1942年(昭和17) 東京帝国大学教授となる
・1944年(昭和19) 「樟脳に関する研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1946年(昭和21) ハンセン病治療薬「プロミン」を合成、日本薬学会賞を受賞する
・1948年(昭和23) 「ジキタリス葉の強心性配糖体の研究」で、日本薬学会賞・薬事日報学術賞を受賞する
・1958年(昭和33) 東京大学初代薬学部長に就任する
・1961年(昭和36) 定年退官し名誉教授となり、青森市褒章を受章、日本分析化学会名誉会員となる
・1965年(昭和40) 国立衛生試験所所長に就任する
・1966年(昭和41) 中央薬事審議会長となる
・1970年(昭和45)12月 日本薬剤師会会長に就任する
・1971年(昭和46) 従四位勲二等旭日重光章を受章、米国薬剤師会名誉会員となる
・1972年(昭和47) パリ大学名誉博士、パリ大学薬学部アカデミー会員となる
・1973年(昭和48) 第3回「佐藤尚武郷土大賞」を受賞する
・1974年(昭和49) 財団法人笹川記念保健協力財団を設立する
・1977年(昭和52) 日本癌学会名誉会員となる
・1983年(昭和58) 第28回日本薬剤師会賞、環境庁長官表彰を受ける
・1989年(平成元) タイ王国王冠勲章を受章する
・1991年(平成3) 中華人民共和国衛生奨、大韓民国国民勲章牡丹章を受章する
・1994年(平成6) アジア薬剤師連合会・特別功労賞を受賞する
・1996年(平成8) 日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける