ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:日刊新聞

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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、自由民権派の日刊新聞『東洋自由新聞』が創刊された日です。
 『東洋自由新聞(とうようじゆうしんぶん)』は、東京で創刊された、フランス帰りの西園寺公望を社長とし、中江兆民を主筆に据えた、自由民権派の日刊新聞でした。フランス的な自由民権と君民共治を主張、社員に松田正久、相田正文、松沢求策、林正明らがいて、内外の報道記事も充実し、自由民権運動の中心的言論機関になろうとします。
 しかし、華族出身の西園寺が中心となったことに驚いた政府は、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視を通して新聞との絶縁を迫ったものの拒否され、4月8日には、明治天皇から退社せよという内勅が出されて、ついに屈服し、翌日辞任に至りました。このいきさつを檄文にして配布した松沢は、逮捕されて懲役70日に刑に処され、資金提供者である稲田が手を引くと資金が欠乏します。
 その結果、同紙は4月30日「東洋自由新聞顛覆す」の社説を掲げて、第34号で休刊となり、廃刊に至りました。
 以下に、中江兆民が書いた『東洋自由新聞』第一号社説を掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇『東洋自由新聞』第一号社説 中江兆民 1881年(明治14)3月18日付

吾儕[1]のこの新聞紙を発兌[2]するや、まさに以て海内[3]三千五百万の兄弟とともに共に向上の真理を講求[4]して、以て国家に報効[5]するあらんと欲せんとするなり。乃ち尋常紙上に記載する事件の首において次を逐ふて我儕[1]の所見を叙述し、以てあまねく可否を江湖[6]の君子に問んとし、ここにその目を掲するに左の数項の外に出でず。曰く自由の説、曰く君民共治[7]の説、曰く地方分権の説、曰く外交平和の説、曰く教育、曰く経済、曰く法律、曰く貿易、曰く兵制なり。これ固より一朝一夕の能よく尽す所にあらず、まさに日を積み月を累ねてまさに始て自ら尽して余りなきことを得べし。今や第一号を発するに臨み、先づ吾儕[1]社名の義を取る所の自由の説を述べて以て端を啓くといふ。
 自由の旨趣その目二、曰くリベルテーモラル(即ち心神の自由)、曰くリベルテーポリチック(即ち行為の自由)なり。請ふ先づひろく自由の本義を説き、しかる後二者の自由に及ばむ。
 それリベルテーの語はこれを訳して自主、自由、不羈独立[8]等といふ。しかれどもその意義の深微[9]に至りてはこの数語の能く尽す所にあらず。けだし古昔[10]羅馬[11]にありては政権を有する士君子即ちいはゆる良家子に当つるにこの称を以てして、以為らくわが天然に得る所の情性に従ふてその真を保つことを得る者独り以てこの称に当るべしと。意けだし此を以てその束縛[12]箝制[13]を受けたる奴隷囚虜[14]の属に別たんと欲するなり。
 第一、リベルテーモラルとは我が精神心思の絶ゑて他物の束縛[12]を受けず、完然発達して余力なきを得るをいふこれなり。古人いはゆる義と道とに配する浩然[15]の一気は即ちこの物なり。内に省みて疚し[16]からず、自ら反して縮きもまたこの物にして、乃ち天地に俯仰[17]して愧怍[18]するなく、これを外にしては政府教門の箝制[13]する所とならず、これを内にしては五慾六悪の妨碍[19]する所とならず、活溌々[20]転轆々[21]として凡そその馳驁[22]するを得る所はこれに馳驁[22]し、いよいよ進みて少しも撓まざる[23]者なり。故に心思[24]の自由は我が本有[25]の根基[26]なるを以て、第二目行為の自由より始めその他百般自由の類は皆此ここより出で、凡そ人生の行為、福祉、学芸皆此より出づ。けだし吾人[27]の最もまさに心を留めて涵養[28]すべき所この物より尚なるはなし。
 第二、リベルテーポリチックは即ち行為の自由にして人々の自らその処する所以の者、及びその他人とともにする所以の者皆この中にあり。その目を挙ぐ、曰く一身の自由、曰く思想の自由、曰く言論の自由、曰く集会の自由、曰く出版の自由、曰く結社の自由、曰く民事の自由、曰く従政の自由なり。
 心思[24]の自由は天地を極め古今を窮めて一毫[29]増損[30]なき者なり。しかれども文物の盛否と人の賢愚[31]とに因り、その及ぶ所あるいは少差異なきこと能はず。行為の自由に至りては気候の寒熱、土壌の肥硬、風俗の淑慝[32]等に因り、その差異更に甚しき者あり。ああ心思[24]の自由なり行為の自由なりこれ豈少差異あるべけんや。しかして古より今に及ぶまで差異なきこと能はず。これ正に我儕の慷慨悲憤[33]する所以にしてこの新紙の設くる所以なり。けだし自由の物たる、これを草木に譬ふればなほ膏液の如し。故に人の干渉を恃み人の束縛を受るの人民は、なほ窖養[34]の花、盆栽の樹のその天性の香色を放ち、その天稟[35]十分の枝葉を繁茂暢達[36]せしむること能はずして、遽かに[37]これを見れば美なるが如きも、迫りてこれを眂る[38]ときは生気索然[39]として、かつて観るべき者あることなきが如し。もしそれ山花野艸[40]に至りてはこれに異なり、その香馥郁[41]としてその色蓊鬱[42]たり。隻弁[43]単葉といへども皆尽く霊活[44]ならざるなし。自由の人におけるその貴ぶべきことけだしかくの如し。
 凡そこの二個の自由は見今[45]衣冠[46]文物の最と夸称[47]する欧米諸国にありては、これを保有すること果して何らの層に至れるや。またその諸国の中いづれか最も高層に至れるや。いづれか最も下層に居るや。また本邦を把りてこれを比するときはそのいづれに擬するを得るや。これ皆我儕のまさに号を逐ふて論述せんと欲する所なり。古徳[48]言ふあり、任重ふして道遠しと。また曰く、斃れて後已む[49]と。我儕の任ずる所もまた甚重からずや。斃れて後已む[49]に至りては固より我儕の薺甘[50]する所なりといへども、独り恐らくは真理の終に獲べからざることを。切に冀くは世の閎覧[51]博物の君子、指教[52]を吝まず[53]我儕の足らざるを補ひ、以て世に益するあらば幸甚。

【注釈】

[1]吾儕:わがせい=自称。対等の相手に対して自身をいう場合に用いる。
[2]発兌:はつだ=書籍・新聞などを発行すること。
[3]海内:かいない=四海の内。国内。
[4]講求:こうきゅう=物事を深く調べ求めること。十分に研究すること。
[5]報効:ほうこう=功を立てて、恩にむくいること。
[6]江湖:こうこ=世の中。世間。一般社会。
[7]君民共治:くんみんきょうち=君主と、人民の代表者である議会とが、共同で国の政務に当たること。君民同治。
[8]不羈独立:ふきどくりつ=他の束縛を受けず、自力で物事を行なうこと。
[9]深微:しんび=奥深く微妙なこと。また、そのさま。
[10]古昔:こせき=むかし。いにしえ。往昔。
[11]羅馬:ろーま=ローマ。
[12]束縛:そくばく=まとめてしばること。しばり捕らえること。
[13]箝制:かんせい=自由にさせないこと。自由を奪うこと。
[14]囚虜:しゅうりょ=敵にとらわれること。また、その人。虜囚。捕虜。
[15]浩然:こうぜん=心などが広くゆったりとしているさま。
[16]疚し:やまし=良心がとがめる。後ろめたい。
[17]俯仰:ふぎょう=うつむくことと仰ぐこと。転じて、たちいふるまい。起居動作。
[18]愧怍:きさく=罪をおそれ恥じる。
[19]五慾六悪の妨碍:ごよくろくあくのぼうがい=人間の欲望による妨害の意味。
[20]活溌々:かっぱつぱつ=魚がはねるように勢いのよいさま。気力にあふれ、きわめて勢いのよいこと。また、そのさま。
[21]転轆々:てんろくろく=車がスムーズに回転するさま。
[22]馳驁:ちぶ=馳せりおごる。
[23]撓まざる:たわまざる=飽きて疲れない。心がくじけない。
[24]心思:しんし=こころ。思い。考え。
[25]本有:ほんゆう=生まれながらに備えていること。固有。生得。
[26]根基:こんき=ねもと。根底。
[27]吾人:ごじん=わたくし、我々。
[28]涵養:かんよう=水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること。
[29]一毫:いちごう=1本の細い毛すじ。転じて、わずか。寸毫。
[30]増損:ぞうそん=ますこととへらすこと。増減。
[31]賢愚:けんぐ=かしこいこととおろかなこと。かしこい人とおろかな人。
[32]淑慝:しゅくとく=よいことと悪いこと。よしあし。善悪。
[33]慷慨悲憤:こうがいひふん=世の有様や、自己の運命などについていきどおり、嘆き悲しむこと。悲憤慷慨。
[34]窖養:こうよう=あなぐらで養う。
[35]天稟:てんぴん=生まれつきの才能。天性。てんりん。
[36]暢達:ちょうたつ=のびのびしていること。また、そのさま。
[37]遽かに:にわかに=急にあわてふためいて。あわただしく。また、すみやかに。すばやく。
[38]眂る:みる=見る。まっすぐと視線を向けて見る。
[39]索然:さくぜん=心ひかれるものがなくて興ざめするさま。空虚なさま。
[40]野艸:やそう=山野に自生する草。野の草。
[41]馥郁:ふくいく=香気の盛んにかおるさま。よいかおりのいっぱいに漂っているさま。
[42]蓊鬱:おううつ=草木が盛んに茂るさま。
[43]隻弁:せきべん=一つの花びら。
[44]霊活:れいかつ=活気のあること。機敏なこと。また、そのさま。
[45]見今:げんこん=今の時代。
[46]衣冠:いかん=衣服と冠。
[47]夸称:こしょう=誇張して言う。
[48]古徳:ことく=昔の徳の高い人。いにしえのひじり。
[49]斃れて後已む:たおれてのちやむ=死んだあとでやっと終わる。死ぬまで、けんめいに努力して途中でくじけない。
[50]薺甘:せいかん=なずなに甘んじる。
[51]閎覧:こうらん=広くみる。
[52]指教:しきょう=さし示して教えること。指導。
[53]吝まず:おしまず=もの惜しみをしない。けちらない。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1473年(文明5)武将・守護大名山名持豊(宗全)の命日(新暦4月15日)詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣で「決戦教育措置要綱」が閣議決定される詳細
1965年(昭和40)愛知県犬山市に「博物館明治村」が開村する詳細
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 今日は、明治時代中頃の1889年(明治22)に、陸羯南(くがかつなん)を社長兼主筆として東京で日刊新聞「日本」が創刊された日です。
 日刊新聞「日本(にっぽん)」は、1888年(明治21)に創刊された日刊紙「東京電報」を改題したもので、国家主義的な中立系といわれ、谷干城、三浦梧楼らが資金的に援助しました。記者には福本日南、三宅雪嶺、古島一雄、池辺三山、長谷川如是閑、丸山幹治、正岡子規らを集め、近代的ナショナリズムの立場から過度の欧化政策を批判、薩長藩閥政府を攻撃したため、創刊後の約8年間に 30回も発行停止処分を受けます。
 日清戦争では開戦を主張したものの、その後は次第に経営困難となり、羯南も病に倒れ、1906年(明治39)6月に伊藤欽亮に譲渡されました。それによって、如是閑らの有力記者もこぞって退社し、性格を変えて、立憲政友会から支援を受けた保守系新聞となります。
 1914年(大正3)末、東京・神田雉子町の日本新聞社社屋が火事で焼失し、事業継続が困難になって廃刊しました。その後、1925年(大正14)に小川平吉の手により「日本新聞」として再創刊され、日本主義を主張する新聞として続いたものの、1927年(昭和2)に慶應義塾大学教授の若宮卯之助が編集顧問兼主筆に就任すると、超国家主義を主張するようになり、1935年(昭和10)7月まで日刊紙として継続されています。
 以下に、「日本」1889年(明治22)2月11日付創刊号に掲載された創刊に関わる記事を2つ掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日本」創刊号 1889年(明治22)2月11日付記事

   「日本」創刊の趣旨

 新聞紙たるものは政権を争ふの機関にあらざれば則ち私利を射るの商品たり。機関を以て自ら任ずるものは党義に偏するの謗を免れ難く商品を以て自ら居るものは或は流俗を趁ふの嘲を招く今の世に当り新聞紙たるものゝ位置亦困難ならずや。然りと雖も自党の利益を謀るに偏して漫に異論を唱へ曲事を掩ひ以て自ら政党の機関なりと称するものは新聞紙たるの職分に欠く所なき歟。時の流行を趁ひ俗の好嗜に投じ昨是今非毫も定見あるなく恣に文筆を弄して只管読客の意を迎へ以て自ら政党外に中立すと称するもの亦た新聞紙たるの職分に欠く所なき歟。
 我「日本」は固より現今の政党に関係あるにあらず然れども亦た商品を以て自ら甘ずるものにもあらず吾輩の採る所既に一定の義あり「日本」の趣旨を特に掲出して初刊の緒言に代ふ
 徳操勇気の以て其本領を保つなく唯だ勢に趨り俗に媚るは自立の道にあらざるなり一個人と一国民とに論なく苟も自立の資を備ふる者は必ず毅然侵す可らざるの本領を保つを要す近世の日本は其本領を失ひ自ら固有の事物を棄るの極殆と全国民を挙げて泰西に帰化せんとし日本と名づくる此島地は漸く将に輿地図の上にただ空名を懸くるのみならんとす二三有識の士あり能く時弊を痛言して大勢の狂奔を壅ぎたれども是唯壅ぎたるに止て未之を正路に反へすの功を全ふせず日本国民は方に渦水の上に漂ひて其根拠を失ふものゝ如し「日本」は自揣らず此漂揺せる日本を救ひて安固なる日本と為さんことを期し先づ日本の一旦亡失せる「国民精神」を回復し且つ之を発揚せんことを以て自ら任ず「日本」は国民精神の回復発揚を自任すと雖も泰西文明の善美は之を知らざるにあらず其権利自由及平等の説は之を重んじ其哲学道義の理は之を敬し其風俗慣習も或る点は之れを愛し特に理学経済実業の事は最も之を欣慕す然れども之れを日本に採用するには其泰西事物の名あるを以てせずして只日本の利益及幸福に資するの実あるを以てす故に「日本」は狭隘なる攘夷論の再挙にあらず博愛の間かんに国民精神を回復発揚するものなり
 「日本」は外部に向て国民精神を発揚すると同時に内部に向ては「国民団結」の鞏固を勉むべし故に「日本」は国家善美の淵源たる皇室と社会利益の基礎たる平民との間を近密ならしめ貴賎貧冨及都鄙の間に甚しき隔絶なからしめ国民の内に権利及幸福の偏傾なからしめんことを望む「日本」は国民の富力を増さんが為め実業の進歩を期し国民の智力を増さんが為め教育の改良を期す
 「日本」は批評諷刺の方法に依り常に善悪邪正の分を明かにせんことを勉むべし蓋し今日百般改良の実を挙げんには政治法律の力よりも寧ろ社会の公徳を啓発するに如しくものなしと信ずればなり要するに「日本」は内外に向て共に信義を旨とし我が「君子国」の称を回復発揚するに外ならず是の故に「日本」は必しも二十三年(の憲法発布=文藝館注)を俟て多数を国会に占めんと欲する一政党派の欲望を充たすの目的あるにあらず又徒に文舞はし筆をも弄びて無責任の言論を恣にするのみにあらず「日本」は日本の前途に横はる内外の妨障を排し「日本国民」をして其天賦の任務を竭さしめんことを謀るに在り
 若し夫れ新聞紙たるの価値如何は読者の慧眼の在るあり「日本」豈に自ら予め之を誇称せんや

(明治二十二年二月「日本」)

   「日本」と云ふ表題

 本紙を発行するに当り読者の誤解なきを保し難ければ予め一言し置くべき事あり本紙の表題を目して或は傲慢に過ぐると為す者あらん歟、此の表題を掲ぐるに当り吾輩わがはいにして之を一の特有名称となし専用若しくは誇示するの意ありとせば傲放の譏固より免れ難しと雖も吾輩は何ぞ此の痴愚虚飾を事とせんや日本は往時西洋諸国を蔑視して毫も其の事情を弁へざりしが一たび国を開きて此等諸外国と交を結びてより有形無形数多の点に於て彼の我に優ること遠きを知り頓に洋風模倣の意を生じ百事則を彼に取るに至れり是に於て西洋事物の我国に伝来すること決水も啻ならざるは数の免れざる所にして怪むに足らざることなれども其結果に至りては大に吾輩の望を失へる所なり有益純良なる結果と共に悲むべき痛むべき事実も亦出現し来れり、
 第一に政治論に就きて之を言へば権利及び自由の説は一方には共和的無政府に近き粗暴劇烈なる主義を生じたると同時に他の一方には極端なる独逸主義の論者はビスマルクの専制主義を羨慕するあり学説に就きて之れを言へば一方には鄙猥なる疑世論及び虚無論ありて之を奉信する人々は空寂無為の内に人世の活動を忘れ冷淡嘲笑の間に社会の事物を議し又は只だ肉体五官の楽を是れ事として一世を徒費せんとす他の一方にはダルウヰン及スペンセルを妄信する軽卒なる学者あり至適生存の理を諸般の事に適用して百事泰西の開化に若しかずとなし甚しきに至りては我日本人民をも悉皆カウカシヤン人種に化せんことを望む者あり。此他或はベンタムに沈溺し或はミルを過信し真正の最多幸福主義を誤りて最も淺劣なる貧楽主義に陥る者あり彼の経済と実業とは吾輩も亦之を我国に適用して最も便益あるべしと信ずる所なり然れども是亦西洋主義の極端論に苦められて弊を受くること甚し、此等の徒は動もすれば時代と場所とを顧みずして僅々の年月にバルミンガム若くはシカゴの盛観を我国に致さんと期し二三の牛蜞のために貧困なる幾百万人の利を擲つも恬然意に介する所なし此の徒は只だ富人政治のみを以て極楽界と看做すものなり、
 我工藝は欧洲著名の批評家も其の特立固有の美あることを許せり然れども是も亦西洋の機械製品に若かずとなして放擲する者あり所謂演劇院本等の改良論も亦同一の心酔に出でたるものなり、法律は人民に必要緊急なるよりして起るべきものなるに是も亦西洋の甲国又は乙国の法律を翻訳模擬するに外ならず、人民の風俗も亦容易に変更すべしとの妄想を抱くものあり其理由は人民の習慣伝制嗜好経済等に適すると否とにあらず只彼は欧洲にして此は日本なれば宜しく欧洲風に化せしむべしと云ふにあり、斯くて男女日用衣食住の具、遊戯歌舞の法に至るまで挙げて西洋に傚ひ資本もなく技巧もなくして開明国の奢侈を我が首府に移さんことを望み躬親ら世界の首府とも謂ふべき巴里の豪華を夢みつゝあるが如きは徒に西洋に心酔する者の通観なり、
 以上に述ぶる所は是れ実に近来に起りたる事実の重なるものなり其他は枚挙に遑あらず、
 今吾輩が非として論ずる所は此の極端なる西洋主義にあり其理由は他なし只此の西洋心酔を以て我国の利に非ずと信ずればなり、抑々今日に於て西洋諸国の我に優れる開化を占むることは何人たりとも之を知らざる者なかるべし吾輩も亦権利自由の説を重じ此等諸国の法律を貴ぶ者なり吾輩は哲学道義の理を敬し西洋諸国の工技文藝を愛するものなり其経済的実業的の事に感服するものなり風俗習慣の或るものに就きても吾輩も亦西洋を欣慕することなきに非ず、然れども此等重愛する事を我国に伝へて採用するに至りては大に其適否を考へざるべからず採用は実に主要の問題なり吾人は西洋事物を只其西洋事物たるを以て採用せず日本の利益幸福なるが故に之を採用する者なり西洋に於て善良なる事物も我国に移して適当ならざるものは棄てゝ之れを顧みざるなり、吾輩が本紙を発刊するの意も亦実に此にあり日本のため日本存在のためにありて毫も他に非ず読者幸に此意を諒せば吾輩の此の表題を掲ぐるも亦失当ならざることを知るべし。

(明治二十二年二月「日本」)

    「日本ペンクラブ 電子文藝館」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1856年(安政3)江戸幕府が洋学所を「蕃書調所」と改称する(新暦3月17日)詳細
1883年(明治16)日本画家小林古径の誕生日詳細
1945年(昭和20)ヤルタ会談で協議の上、米・英・ソ3ヶ国政府首脳によってヤルタ協定が結ばれる詳細
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 今日は、明治時代後期の1892年(明治25)に、黒岩涙香により、日刊新聞「萬朝報」が創刊された日です。
 「萬朝報(よろずちょうほう)」は、黒岩涙香が主筆を務めていた「都新聞」の社長と対立して退社後、東京で朝報社を設立して創刊した日刊新聞でした。「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」の編集方針のもとに小型4ページの紙面に盛りこまれた多様な上流社会のスキャンダル記事や娯楽記事、涙香の翻訳小説で都市中・下流層の人気を博します。
 1893年(明治26)に山田藤吉郎の経営していた「絵入自由新聞」(1882年9月創刊)と合併、以後は黒岩が編集、山田が経営実務を担当しました。第三面に社会記事をはでに取り扱い「三面記事」の語を生み、1900年(明治33)頃から内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らの論客を迎え、進歩的色彩の強い言論新聞となります。
 日露戦争(1904~05年)開戦前には、非戦論を唱えましたが、黒岩が開戦論に転じたため、内村、幸徳、堺らは退社しました。その後、報道体制の確立にも後れをとったため、新聞界の主流から次第に離れ、大正政変では憲政擁護を主張して一時的に人気を回復したものの、第2次大隈重信内閣を支持してから勢力を失い、1920年(大正9)10月6日の黒岩涙香の死後は衰退します。
 1923年(大正12)9月1日の関東大震災で大打撃をうけ、1940年(昭和15)に「東京毎夕新聞」に吸収され、廃刊となりました。以下に、「萬朝報」発刊の辞を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇黒岩涙香とは?

 明治時代から大正時代に活躍した、小説家・評論家・翻訳家・ジャーナリストです。江戸時代後期の1862年(文久2年9月29日)に、土佐国安芸郡川北村(現在の高知県安芸市川北)において、土佐藩郷士の父・黒岩市郎と母・信子の次男として生まれましたが、本名は周六と言いました。
 幼少時には、藩校文武館で漢籍を学び、16歳で大阪に出て中之島専門学校(後の大阪英語学校)で英語力を身につけます。その後17歳で上京し、成立学舎や慶應義塾に入学しましたが、卒業には至りませんでした。
 折からの自由民権運動に参加し、1882年(明治15)に、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」に関する論文を書いて、官吏侮辱罪に問われ有罪となり、投獄されて労役に服します。同年に創刊された『絵入自由新聞』に入社し、2年後には主筆となって、論文や探偵小説を掲載して活躍しました。
 1889年(明治22)に、『都新聞』に移り、多くの小説を書いて、評判となります。しかし、社長と対立して退社後、1892年(明治25)に朝報社を設立し、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊しました。
 同誌は、黒岩の『鉄仮面』ボアゴベイ原作(1892~93年)、『白髪鬼』マレー・コレリ原作(1893年)、『幽霊塔』ベンジスン夫人原作(1899~1900年)などの翻案小説連載と上流階級の腐敗を暴露したセンセーショナルなスキャンダル記事によって人気を博し、大衆新聞として一躍東京一の発行部数となります。さらに、日清戦争後は、幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦、石川三四郎などの論客を迎えて、進歩的な論陣を張り、1901年(明治34)には、社会救済を目指す理想団と称する団体を組織し、社会改良運動を起こそうとしました。
 一方で、五目並べを組織化して「連珠(聯珠)(れんじゅ)」と命名、1904年(明治37)に東京連珠社を設立し段位制を制定、自ら初代名人となって高山互楽を名乗り、『聯珠真理』(1906年)を刊行したりしています。ところが、日露戦争(1904~05年)に際しては、それまで非戦論を唱えていた黒岩が、時局の進展にともない開戦論に転じたため、社員内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らが連袂退社することになりました。
 それからも、大正初期の憲政擁護運動や1914年(大正3)のシーメンス事件では政府攻撃のキャンペーンを張りましたが、続く大隈内閣を擁護したことから、不評を招きます。晩年は、長男のために米問屋兼小売商の増屋商店を開業したりしましたが、1920年(大正9)10月6日、肺癌のため東京において、59歳で亡くなりました。

☆「萬朝報」発刊の辞 黒岩涙香(周六)

 <目的> 萬朝報(よろづてうほう)は何が為めに発刊するや、他なし普通一般の多数民人に一目能く時勢を知るの便利を得せしめん為のみ、此 の目的あるが為めに我社は勉めて其価を廉にし其紙を狭くし其文を平易にし且つ我社の組織を独立にせり
 <代価> 近年新聞紙の相場次第に騰貴し今や低きも一銭五厘以上なるに及べり、然れども今日我国今日の社会に於て一銭五厘は大金なり、人々 日々に欠く可からざる入湯の料より高く、重宝無類なる郵便はがきの価より高し、新聞紙一枚買ふには一度の入湯を廃せざる可からず、一度の音信消息(いんし んせうそく)を見合せざる可からず、否(いな)廃しても猶足らず見合せても猶届かざるなり、実際に於て真逆(まさか)に入浴を廃せずば以て新聞紙を買ふ能 はずと云ふ程の人も有るまじけれど算盤珠(そろばんだま)の上に於ては入浴を廃するに同じ音信消息を見合すに同じ、富者とて算盤玉の上に違ひは有る筈なし 此故に新聞紙の価高きは普通一般の便に非ず、多数民人の利に非ず、広く社会を益するの主意に非ず
 <紙幅> 新聞紙の記事は成る可く簡単なるを宜(よ)しとす、長きは暇潰しなり、読て心力を疲れしむるなり、昼間は用事を妨ぐること多くし て夜は則ち油を費すこと多し、故に我社は勉めて記事を簡単にす、記事短かければ紙面も従て広きに及ばず、要するに新聞紙は長尻の客の如きか、長尻の客に迷 惑せし実験ある人は必ずキリヽと締りたる新聞紙の便利なるを会得せん
 <文章> 陽春白雪を唱へば和する者少く下俚巴人(かりはじん)に至りて一座皆和して楽しむが如く新聞紙の文章高尚に失するときは家内中に て一番学問のある其家の旦那唯一人楽しむ可きも之を平易にし通俗にし何人にも分り易からしめば旦那の後は細君(さいくん)読み番頭読み小僧読み下女下男読 み詰(つま)る所一銭の価にて家内中皆益するが故に此上なき安きものなり一人頭(ひとりあたま)には一厘に足らぬ事ともならん一家経済の秘伝は此辺に在り と知る可し
 <独立> 此頃の新聞紙は「間夫(まぶ)が無くては勤まらぬ」と唱ふ売色遊女の如く皆内々に間夫を有し其機関と為(な)れり、独り公やけに 我は自由党機関なりと大声狂呼する自由新聞が猶(まだ)しも男らしき程の次第ぞかし、或は政府或は政党或は野心ある民間の政治家、或は金力ある商界の大頭 皆な新聞紙の間夫なり、斯(かか)る新聞紙に頼(よ)りて普通一般の民人が真成の事実を知り公平の議論を聞かんこと覚束(おぼつか)なし、我社幸か不幸か 独立孤行なり、政府を知らず政党を知らず何ぞ況(いは)んや野心ある政治家をや、又況んや大頭なる者をや、嗚呼(ああ)我社は唯だ正直一方道理一徹あるを 知るのみ、若(も)し夫れ偏頗(へんぱ)の論を聞き陰険邪曲の記事を見んと欲する者は去て他の新聞を読め

   「萬朝報」創刊号(明治25年11月1日発行)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1868年(明治元)灯台記念日(日本最初の洋式灯台である観音埼灯台起工日の新暦換算日)詳細
1961年(昭和36)国会議事堂わきの現在地に、国立国会図書館本館が開館する詳細
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