ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:方丈記

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 今日は、鎌倉時代の1212年(建暦2)に、鴨長明が随筆『方丈記』を書き上げた日ですが、新暦では4月22日となります。
 『方丈記』(ほうじょうき)は、鴨長明著の随筆で、鎌倉時代の1212年(建暦2)に成立したと考えられてきました。人生の無常、有為転変の相と日野山閑居のさまを描写しています。
 また、文中で1177年(安元3)の安元の大火、1180年(治承4)の治承の竜巻、と福原への遷都、1181~82年(養和年間)の養和の飢饉、1185年(元暦2)の大地震などの天変地異や政治的事件等についても記載されていて、歴史資料としても注目されてきました。仏教的無常観と深い自照性をもち、代表的な隠者文学とされ、その文章は、簡明な和漢混淆文で、そ完成形として高く評価されています。
 吉田兼好著『徒然草』、清少納言著の『枕草子』と共に、日本三大随筆の一つと言われてきました。
 以下に、『方丈記』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『方丈記』の冒頭部分

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。
 (後略)

☆鴨長明(かものちょうめい)とは?

 平安時代後期から鎌倉時代に活躍した歌人・随筆家です。1155年(久寿2)頃に、京都下鴨神社禰宜であった父・鴨長継の次男として生まれましたが、名は「ながあきら」と読みました。
 1161年(応保元)に7歳で従五位下に叙爵され、二条天皇中宮高松院の北面に伺候するなどしましたが、1172年(承安2)頃に父を亡くし、後ろ盾をなくします。その後、琵琶を中原有安に、和歌を俊恵 (しゅんえ) に学び、1181年(養和元)頃に歌集『鴨長明集』を編纂しました。
 勅撰集『千載和歌集』(1187年成立)に1首入集し、初めて勅撰歌人となり、以降、石清水宮若宮社歌合、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、俊成卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠します。その中で、後鳥羽院に歌才を認められ、1200年(正治2)『正治二年院第二度百首』の歌人に選ばれ、翌年には『新古今和歌集』編纂のための和歌所寄人となりました。
 しかし、1204年(元久元)に河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に就くことに失敗し、1204年(元久元)に50歳で出家、法名を蓮胤 (れんいん) と号して、後に日野の外山に隠棲します。そこで、日本の三大随筆の一つとされる『方丈記』(1212年成立)、歌論書『無名抄』(1211年以後成立?)、仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』(1215年頃成立?)を著しました。
 歌人としても、『千載和歌集』以下の勅撰集に25首が入集していますが、1216年(建保4)閏6月10日(8日とも)に京都において、数え年62歳?で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1827年(文政10)医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日)詳細
1946年(昭和21)連合国最高司令官に対し、「米国教育使節団第一次報告書」が提出される詳細
1959年(昭和34)砂川闘争に関して、砂川事件第一審判決(伊達判決)が出される詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
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 今日は、平安時代末期の1177年(安元3)に、京都で安元の大火(太郎焼亡)が起こった日ですが、新暦では6月3日となります。
 安元の大火(あんげんのたいか)は、この日の夜半に、樋口富小路(現在の京都市下京区万寿寺通富小路)付近で発生し、折からの南東の強風にあおられて、北西方面に扇状に延焼しました。その結果、焼失範囲は、東は富小路、西は朱雀大路、千本通、南は六条大路、北は大内裏までのおよそ180余町(約180万㎡)に及び、2万余家が焼亡し、死者も数千人にのぼったとされています。
 愛宕太郎坊天狗(愛宕山の天狗)が引き起こしたと噂されて、太郎焼亡(たろうじようもう)とも呼ばれてきました。主要な建物では、大極殿を含む八省院全部と朱雀門・応天門・神祇官など大内裏南東部、大学寮・勧学院、関白藤原基房ら公卿の邸宅14家などを焼失しています。
 平安京大内裏の大極殿の焼亡は、876年(貞観18)、1058年(天喜6)に次いで三度目でしたが、以後再建されることはありませんでした。『玉葉』、『愚昧記』、『清獬眼抄』、『方丈記』、『平家物語』などにこの大火の記載がされています。
 以下に、鴨長明著『方丈記』と『平家物語』の安元の大火に関する記述を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇『方丈記』鴨長明著の安元の大火に関する記述

<原文>

予ものの心を知れりし[1]より、四十あまりの春秋を送れるあひだに、世の不思議[2]を見る事ややたびたびになりぬ。去 安元三年[3]四月廿八日かとよ、風烈しく吹きて、静かならざりし夜、戌の時[4]ばかり、都の東南より火出で来て、西北に至る。はてには朱雀門[5] 大極殿[6] 大学寮[7] 民部省[8]などまで移りて、一夜のうちに塵灰[9]となりにき。火元は樋口富の小路[10]とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。
吹きまよふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を、地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて[11]、あまねく[12]紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔飛ぶがごとくして、一二町[13]を越えつつ移りゆく。その中の人現し心[14]あらむや。或は煙にむせびて倒れ伏し、或は焔にまぐれて[15]たちまちに死ぬ。或は身ひとつからうじてのがるるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍[16]万宝さながら[17]灰燼となりにき。その費[18]いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。ましてその外数へ知るに及ばず。惣て[19]都のうち三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬牛のたぐひ辺際[20]を知らず。
人のいとなみ皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家を作るとて、宝を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなく[21]ぞ侍る。

【注釈】

[1]ものの心を知れりし:もののこころをしれりし=物事がわかりはじめてから。大人の考えていることがわかりだす年齢以後。十代の後半期から。
[2]世の不思議:よのふしぎ=現実の世界では予想できない事態。
[3]安元三年:あんげんさんねん=1177年のこと。
[4]戌の時:いぬのとき=午後八時。
[5]朱雀門:すざくもん=大内裏の外郭にあった門の一つで、大内裏の南面中央にあった。
[6]大極殿:だいごくでん=大内裏にある朝堂院の正殿で、殿内中央に高御座があり、元来は天皇が国政を行う所。
[7]大学寮:だいがくりょう=朱雀門外にあり、式部省に属して中央官庁の官吏養成に関する教育と事務を管掌した機関。
[8]民部省:みんぶしょう=大内裏の内、諸国の戸口・戸籍・山川・道路・租税・賦役などに関する事務をつかさどった。
[9]塵灰:じんかい/ちりはひ=ちりとはい。特に、火事などの後の灰。灰塵。
[10]樋口富の小路:ひぐちとみのこうぢ=樋口は五条街の東西の街路、富小路は南北の街路でその交わったあたり。
[11]映じて:えいじて=光や影が映って見えて。照り映えて。
[12]あまねく=残る所なく行き渡っている。
[13]町:ちょう=距離の単位を表し、1町は60間(約110m)となる。
[14]現し心:うつしごころ=平常普通の精神状熊。平常心。
[15]まぐれて=目がくらくらして。目がくらんで。
[16]七珍:しちちん=七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)をいう。
[17]さながら=そっくり全部。
[18]費:ついえ=損害。被害。
[19]惣て:そうじて=おおよそ。だいたい。一般に。
[20]辺際:へんさい=はて、かぎり。
[21]あぢきなく=つまらなく。努力のかいがなく。

<現代語訳>

私が物事がわかりはじめてから、四十余年の月日が経過する内に、現実の世界では予想できない事態を目の当たりにすることが、時と共に度重なった。去る安元3年(1177年)の4月28日のことだったか、風が激しく吹き、ちっとも静かにならない夜、午後8時頃、都の東南から出火して、西北方向へ延焼していった。しまいには朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などにまで燃え広がり、一晩で灰となってしまった。火元は樋口富の小路だとか言うことだ。舞人を泊めていた仮屋から失火したという。
吹き迷う風によって、あちこちに燃え移るうちに、まるで扇を広げたかのごとくに拡散した。遠くの家では煙にむせ、近辺ではさかんに炎を地に吹きつけていた。その風が空に灰を吹き上げていたので、火の光に照らし出され、一面をを赤く染める中、風に耐え切れず、焼け落ちる家の板きれだろう、風に吹きちぎられた炎が飛ぶようにして、一町も二町も飛び越えては、燃え移って行く。その中にいる人が、普通の気持で、気をたしかに持っていられようか。ある人は煙にむせて倒れ伏し、ある人は炎に目がくらんで、すぐさま死んでしまう。あるいは体一つでかろうじて逃げ出した人も、家財道具を持ち出す余裕はなかった。多くの珍しい宝物も、そっくり灰燼に帰してしまった。その損害はどれほど大きなものか、はかりしれない。公卿の家だけでも、16軒が焼けた。まして、その他の家数は数えようもない。全体では京都の三分の一にも達するという。男女の死者は数十人、馬や牛などにいたっては、どのくらいであったかわからない。
人間の営みは、みんな愚かなことではあるが、これほどに危険のある、京都の街中に家を建てるといって、財産を使い、心を悩ますことは、もっとも愚かでつまらないことだと言いたい。

〇『平家物語』巻第一の内裏炎上(安元の大火)の記述

<原文>

同じき四月廿八日、亥の刻[1]ばかり、樋口富小路[2]より、火出で来て、辰巳の風[3]はげしう吹きければ、京中おほく焼けにけり。大きなる車輪の如くなるほむらが、三町五町をへだてて、戌亥の方[4]へ筋たがへ[5]に飛び越え飛び越え焼きゆけば、恐ろしなんどもおろかなり。あるいは具平親王の千種殿[6]、あるいは北野の天神の紅梅殿[7]、橘逸成の蠅松殿[8]、鬼殿[9]、高松殿[10]、鴨居殿[11]、東三条[12]、冬嗣の大臣の閑院殿[13]、昭宣公の堀川殿[14]、これを始めて、昔今の名所丗余箇所、公卿[15]の家だにも十六箇所まで焼にけり。その外殿上人[16]、諸大夫[17]の家々は記すに及ばず。果ては大内[18]に吹きつけて、朱雀門[19]より始めて、応天門[20]・会昌門[21]・大極殿[22]・豊楽院[23]・諸司八省[24]・朝所[25]、一時がうちに灰燼[26]の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、七珍[27]万宝、さながら塵灰[28]となりぬ。その間の費へ[29]いかばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人、牛馬のたぐひは数を知らず。これだだごとにあらず、山王[30]の御とがめとて、比叡山より大きなる猿どもが二三千おりくだり、手々に松火をともひて京中を焼くとぞ、人の夢には見えたりける。
大極殿[22]は、清和天皇[31]の御宇、貞観十八年に始めて焼けたりければ、同じき十九年正月三日、陽成院[32]の御即位は、豊楽院[23]にてぞありける。元慶元年四月九日、事始めあって、同じき二年十月八日にぞつくり出だされたりける。後冷泉院[33]の御宇、天喜五年二月廿六日、また焼けにけり。治歴四年八月十四日、事始めありしかども、つくりも出だされずして、後冷泉院[33]崩御なりぬ。後三条院[34]の御宇、延久四年四月十五日つくり出だして、文人詩を奉り、伶人楽を奏して遷幸[35]なし奉る。今は世末になって、国の力も衰へたれば、その後はつひにつくられず。

【注釈】

[1]亥の刻:いのこく=午後十時頃。
[2]樋口富小路:ひぐちとみのこうぢ=樋口は五条街の東西の街路、富小路は南北の街路でその交わったあたり。
[3]辰巳の風:たつみのかぜ=東南の風。
[4]戌亥の方:いぬいのかた=西北の方。
[5]筋たがへに:すじたがへに=斜めに。
[6]千種殿:ちぐさどの=具平親王の邸宅で、六条坊門の南、西洞院の東にあった。
[7]紅梅殿:こうばいどの=菅原道真の邸宅で、京都市綾小路通の南、西洞院通の東で五条坊門の北一町にあった。
[8]蠅松殿:はいまつどの=橘逸勢の邸宅で、姉小路の北、堀川東にあった。
[9]鬼殿:おにどの=京都三条の南、西洞院の東にあった藤原朝成の憤死した家をさす。
[10]高松殿:たかまつどの=京都市中京区姉小路の北、西洞院の東にあった醍醐天皇の皇子源高明の邸宅。
[11]鴨居殿:かもいどの=二条の南、室町の西一町、南北二町の邸宅。
[12]東三条:とうさんじょう=摂関家藤原氏の京邸で、三条坊門の北、西洞院の東にあり、平安時代後期には師通,忠実,忠通,頼長の邸宅となり、寝殿造の一例として名高かった。
[13]閑院殿:かんいんどの=藤原冬嗣の邸宅で、二条大路の南、西洞院大路の西にあった。
[14]堀川殿:ほりかわどの=藤原基経の邸宅で、二条南、堀川の東、南北二町にあった。
[15]公卿:くぎょう=公と卿の総称。公は太政大臣、左大臣、右大臣をいい、卿は大・中納言、参議および三位以上の貴族をいい、あわせて公卿という。
[16]殿上人:でんじょうびと=電常備と清涼殿の殿上の間(ま)に昇ることを許された人。公卿を除く四位・五位の中で特に許された者、および六位の蔵人をいう。
[17]諸大夫:しょだいぶ=公卿・殿上人を除く地下の四位、五位の廷臣。
[18]大内:たいだい=皇居の異称。内裏。禁中。宮中。大内山。
[19]朱雀門:すざくもん=大内裏の外郭にあった門の一つで、大内裏の南面中央にあった。
[20]応天門:おうてんもん=平安京大内裏八省院南面の正門で朱雀門に相対する。
[21]会昌門:かいしょうもん=平安京の大内裏朝堂院(八省院)の門。朝堂院二十五門の一つ。
[22]大極殿:だいごくでん=大内裏にある朝堂院の正殿で、殿内中央に高御座があり、元来は天皇が国政を行う所。
[23]豊楽院:ぶらくいん=平安京大内裏の南部、朝堂院の西にあった一画。公的儀式のための宴会場で、大嘗会、節会、賜宴、饗宴、射礼などが行なわれた。
[24]諸司八省:しょしはっしょう=多くの役所、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の総称。
[25]朝所:あいたんどころ=太政官庁内の北東部にあった建物の名。ここで参議以上の人が会食し、また政務も行なった。
[26]灰燼:かいじん=灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと。
[27]七珍:しちちん=七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙をいう。
[28]塵灰:じんかい=ちりとはい。特に、火事などの後の灰。灰塵。
[29]費へ:ついへ=損害。被害。
[30]山王:さんのう=滋賀県大津市坂本にある日吉大社の祭神。また、その別称。
[31]清和天皇:せいわてんのう=第56代とされる天皇で、在位は858~876年だった。
[32]陽成院:ようぜいいん=第57代とされる天皇で、在位は876~884年、清和天皇の第1皇子でその譲位により即位した。
[33]後冷泉院:ごれいぜいいん=第70代とされる天皇で、在位は1045~1068年だった。
[34]後三条院:ごさんじょういん=第71代とされる天皇で、在位は1068~1072年だった。
[35]遷幸:せんこう=天皇・上皇が他の場所に行くこと。遷御。

<現代語訳>

同年4月28日、午後10時頃、樋口富小路より出火して、東南の風がはげしく吹いたので、京中の多くが焼けた。大きな車輪のような炎が、三町・五町を隔てて、西北の方向へ斜めに飛び越え飛び越えて延焼していったので、恐ろしいどころではなかった。あるいは具平親王の千種殿、あるいは北野の天神の紅梅殿、橘逸成の蠅松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条、藤原冬嗣大臣の閑院殿、藤原基経の堀川殿、これらを始めとして、今昔の名所30ヶ所余り、公卿の家だけでにも16ヶ所まで焼失した。そのほか殿上人や諸大夫の家々は記すまでもない。ついには内裏に火が吹きつけて、朱雀門を始め、応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・諸司八省・朝所は、一時の内に灰燼に帰してしまった。家々の日記、代々の文書、珍しい多くの宝物も、すっかり塵と灰になってしまった。その損害はどれほどになるであろうか。焼死した者は数百人、牛馬の類は数え切れないほどだ。これはただ事ではない、山王権現のお咎めというので、比叡山から大きな猿達が二、三千匹降り下ってきて、手に手に松明を灯して京中を焼いてしまったのだと、人が夢に見るほどであった。
大極殿は、清和天皇の御世、貞観18年(876年)に始めて焼けてしまったので、貞観19年1月3日の陽成天皇の即位式は、豊楽院で行われた。元慶元年(877年)4月9日に着工式があって、元慶2年(878年)10月8日に竣工した。後冷泉天皇の御世、天喜5年(1057年)2月26日、再び焼失してしまった。治歴4年(1068年)8月14日、着工式があったけれども、竣工しない内に、後冷泉天皇が崩御されてしまった。後三条天皇の御世、延久4年(1072年)4月15日に竣工して、文人が詩を奉納、楽人が音楽を奏して、天皇をお迎えした。今は末世になって、国力も衰微したので、その後は終に再建されることはなかった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1948年(昭和23)夏時刻法」(サマータイム法)が公布・施行される詳細
1952年(昭和27)日米安全保障条約」(旧)が発効する詳細
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