ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:新聞記者

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 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、新聞記者・政治評論家陸羯南が亡くなった日です。
 陸羯南(くが かつなん)は、江戸時代後期の1857年(安政4年10月14日)に、陸奥国弘前(現在の青森県弘前市)において、弘前藩の御茶坊主頭だった父・中田謙斎と母・なほの子として生まれましたが、幼名は巳之太郎、のち実(みのる)と言いました。1871年(明治4)頃から、藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学びはじめ、1873年(明治6)には、旧藩校の後身・東奥義塾へ進みます。
 1874年(明治7)に宮城師範学校に転校しましたが、1876年(明治9)には、宮城師範学校校長の松林義規に逆らい退校処分を受けて上京し、フランス法律学専修の司法省法学校に合格しました。1879年(明治12)に、賄征伐(調理場荒らし)のいたずらの譴責がこじれ、羯南は犯人でなかったが、義憤から原敬・福本日南・加藤恒忠・国分青崖らと退校し、故郷青森に帰り『青森新聞』編集長となったものの、翌年に「讒謗律」に触れ罰金刑を受けます。
 1881年(明治14)に上京し、新設の農商務省などのフランス語の翻訳を下請けして食いつなぎ、1883年(明治16)には、太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めました。1885年(明治18)に文書局が廃止され内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進したものの、1888年(明治21)には依願退職し、谷干城,杉浦重剛らの支援を受けて新聞『東京電報』を創刊します。
 1889年(明治22)に改組して、新聞『日本』を創刊し、社主兼主筆となり、1890年(明治23)には、東邦協会の設立に参画して評議員となり、国家経済会設立の発起人ともなりました。1892年(明治25)に隣りに移り住んだ正岡子規を支援し、紙面を提供、1895年(明治28)には、三国干渉に対し受け入れ論の東京日々新聞と論戦します。
 1896年(明治29)に各社新聞同盟を結成し、「新聞紙条例」撤廃の運動を主導、翌年には、「新聞紙条例」の緩和に成功しました。1898年(明治31)に創立された東亜同文会の幹事長になり、1900年(明治33)には、近衛篤麿・富田鉄之助らと、日露開戦やむなしと議し、国民同盟会に相談役として参画します。
 1901年(明治34)に近衛に従い清国・韓国を視察、近衛から日本新聞への資金援助を得、1902年(明治35)には、『日本人』誌の三宅雪嶺の外遊中、その社説執筆を分担しました。1903年(明治36)に米欧旅行に出発、翌年帰国し、その後の静養中に肺結核を発症、1905年(明治38)の夏からは三宅雪嶺が『日本新聞』の社説を書くようになります。
 1906年(明治39)に健康不良と経営悪化から、『日本新聞』を伊藤欽亮に譲渡しましたが、引き続き社説欄を担当したものの、1907年(明治40年)9月2日に、神奈川県鎌倉市において、肺結核により、51歳で亡くなりました。

〇陸羯南の主要な著作

・『予算論』(1890年)
・『近時政論考』(1891年)
・『行政時言』(1891年)
・『予算弁妄』(1891年)
・『原政及国際論』(1893年)

☆陸羯南関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1857年(安政4年10月14日) 陸奥国弘前(現在の青森県弘前市)において、弘前藩の御茶坊主頭だった父・中田謙斎と母・なほの子として生まれる
・1871年(明治4年)頃 藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学びはじめる
・1873年(明治6年) 旧藩校の後身・東奥義塾へ進む
・1874年(明治7年) 宮城師範学校に転校する
・1876年(明治9年) 宮城師範学校校長の松林義規に逆らい退校処分を受けて上京し、フランス法律学専修の司法省法学校に合格する
・1879年(明治12年) 賄征伐(調理場荒らし)のいたずらの譴責がこじれ、羯南は犯人でなかったが、義憤から原敬・福本日南・加藤恒忠・国分青崖らと退校し、故郷青森に帰り『青森新聞』編集長となる
・1880年(明治13年) 「讒謗律」に触れ罰金刑を受ける
・1881年(明治14年) 上京し、新設の農商務省などのフランス語の翻訳を下請けして食いつなぐ
・1883年(明治16年) 太政官御用掛となり、新設の文書局に勤める
・1884年(明治17年) 依田學海らの媒酌で、今居てつと結婚する
・1885年(明治18年) 文書局が廃止され内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進する
・1888年(明治21年) 春に内閣官報局を依願退職し、谷干城,杉浦重剛らの支援を受けて新聞『東京電報』を創刊する
・1889年(明治22年) 新聞『日本』を創刊し、社主兼主筆となる
・1890年(明治23年) 東邦協会の設立に参画して評議員となり、国家経済会設立の発起人ともなる
・1892年(明治25年) 隣りに移り住んだ正岡子規を支援し、紙面を提供する
・1895年(明治28年) 三国干渉に対し受け入れ論の東京日々新聞と論戦する
・1896年(明治29年) 各社新聞同盟を結成し、「新聞紙条例」撤廃の運動を主導する
・1897年(明治30年) 「新聞紙条例」の緩和に成功する
・1898年(明治31年) 創立された東亜同文会の幹事長になる
・1900年(明治33年) 近衛篤麿・富田鉄之助らと、日露開戦やむなしと議し、国民同盟会に相談役として参画する
・1901年(明治34年) 近衛に従い清国・韓国を視察、近衛から日本新聞への資金援助を得る
・1902年(明治35年) 『日本人』誌の三宅雪嶺の外遊中、その社説執筆を分担する
・1903年(明治36年) 米欧旅行に出発する
・1904年(明治37年) 米欧旅行から帰国、その後の静養中に肺結核を発症する
・1905年(明治38年) 夏からは三宅雪嶺が『日本新聞』の社説を書くようになる
・1906年(明治39年) 健康不良と経営悪化から、『日本新聞』を伊藤欽亮に譲渡したが、引き続き社説欄を担当する
・1907年(明治40年)9月2日 神奈川県鎌倉市において、肺結核により、51歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1828年(文政11)越前福井藩主・政治家松平慶永(春嶽)の誕生日(新暦10月10日)詳細
1871年(明治4)社会統計学者・社会運動家高野岩三郎の誕生日(新暦10月15日)詳細
1913年(大正2)思想家・美術指導者岡倉天心の命日詳細
1945年(昭和20)東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板上において降伏文書に調印する詳細
連合国最高司令官の事務所からの最初の指令(SCAPIN-1)が出される詳細
1990年(平成2)「児童の権利に関する条約」が国際条約として発効する詳細
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 今日は、1850年に新聞記者・小説家である小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の生まれた日です。
 小泉八雲の本名は、パトリック・ラフカディオ・ハーンといい、1850年6月27日に当時のイギリス領であったレフカダ島で生まれました。
 1852年、両親と共に父の家があるダブリンに移住し、幼少時代を過ごしたのです。フランス・イギリスで教育を受けた後、1859年にアメリカに渡り、20代前半からジャーナリストとして活躍し始め、文芸評論から事件報道まで行いました。
 1890年(明治23)、アメリカの出版社通信員として来日したものの、その契約を破棄して、島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられて、松江にやってきたのです。そして、翌年に元松江藩士の娘セツと結婚し、約5ヶ月間新婚生活を松江で過ごしました。
 その後八雲は、熊本の第五高等学校へ転任、そして1894年(明治27)には、外国人居留地の神戸に移り、英字新聞の記者となります。
 1896年(明治29)には帰化して、東京帝国大学や東京専門学校(現早稲田大学)で英文学を講じました。しかし、1904年(明治37)9月26日に、狭心症のため東京において、54歳で亡くなっています。
 この間、14年を日本で過ごしましたが、怪談「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名で、翻訳、紀行、随筆、文芸批評、民俗学などの分野でも多くの作品を残しました。

〇小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の主要な著作
 『飛花落葉集』1884年
 『ゴンボ・ゼーブ』 1885年
 『クレオール料理』 1885年
 『中国怪談集』 1887年
 『チータ』 1889年
 『ユーマ』 1890年
 『仏領西インドの二年間』 1890年
 『知られざる日本の面影』 1894年
 『東の国より』 1895年
 『心』 1896年
 『仏陀の国の落穂』 1897年
 『異国風物と回想』 1898年
 『霊の日本にて』 1899年
 『影』 1900年
 『日本雑録』 1901年
 『骨董』 1902年
 『怪談』 1904年
 『日本―一つの解明』 1904年
 『天の河綺譚その他』 1905年
 以下に、『怪談』の中の「耳なし芳一の話」の冒頭部分を引用しておきます。

☆「耳なし芳一の話」戸川明三訳の冒頭部分
 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。
 平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮もがいていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然ちゃんと行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。
 幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。
 芳一には出世の首途かどでの際、はなはだ貧しかったが、しかし助けてくれる深切な友があった。すなわち阿彌陀寺の住職というのが、詩歌や音楽が好きであったので、たびたび芳一を寺へ招じて弾奏させまた、吟誦さしたのであった。後になり住職はこの少年の驚くべき技倆にひどく感心して、芳一に寺をば自分の家とするようにと云い出したのであるが、芳一は感謝してこの申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を与えられ、食事と宿泊とに対する返礼として、別に用のない晩には、琵琶を奏して、住職を悦ばすという事だけが注文されていた。

(後略)
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