ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:新田義貞

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 今日は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3)に、久米川の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府の軍勢を破った日ですが、新暦では6月24日となります。
 久米川の戦い(くめがわのたたかい)は、鎌倉幕府と倒幕勢力による内乱「元弘の乱(げんこうのらん)」における合戦の一つで、倒幕勢力の新田義貞軍が武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)で、鎌倉幕府軍を破った戦いでした。1333年(元弘3年5月8日)に、新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げます。
 その後、南下するに従い、鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、まず5月11日に入間川を渡って、小手指原(現在の埼玉県所沢市)に入ったところで、迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍に対し、小手指原の戦いが行われました。幕府軍は新田軍が入間川を渡りきる前に迎撃するつもりでしたが、新田軍の動きが迅速であったため、布陣の余裕はなく、小手指原において、両者の遭遇戦の形で合戦に至ります。
 新田軍と幕府軍との激戦は、30余回もの打ち合いとなりました。兵数は幕府軍の方が勝っていたものの、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていきます。
 日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、やむなく新田軍は入間川(現在の埼玉県狭山市)、幕府軍は久米川(現在の東京都東村山市)にそれぞれ引き上げて軍勢を立て直しました。そして、幕府軍は久米川(現在の柳瀬川)で新田軍の南下を食い止めるべく、久米川の南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)で迎え出ます。
 小手指原で勝利した新田軍はそのままの勢いで八国山に陣を張り、ここから指揮をとり麓の幕府軍と対峙しました。新田軍の奇襲から久米川の戦いは始まり、幕府軍の大将桜田貞国は新田軍を挟撃しようとしましたが、幕府軍の本陣が手薄になると、新田軍は一気に本陣を突いて勝負を決めます。
 そこで、幕府軍は分倍河原(現在の東京都府中市)まで退却、執権北条高時の弟の北条泰家を大将とする10万の援軍と合流し、迎え撃とうとしました。これを5月15日に反幕府方の新田義貞軍が攻撃したものの、今度は援軍を得ていた幕府方が優勢になり、反幕府方の新田軍は堀金(現在の埼玉県狭山市)までの退却を余儀なくされます。
 しかし、相模国の軍勢を率いた三浦義勝が新田軍の援軍に入ると、翌16日早朝には義勝を先鋒として義貞は2万の軍勢で一気に分倍河原に押し寄せ、緊張が緩んでいた幕府方に奇襲をかけて大勝し、鎌倉幕府方は敗走することになりました。ここで幕府方を圧倒したことで、反幕府方には次々と援軍が合流し、ついには60万もの大軍勢となります。その後、反幕府方は勢いに乗り、5月21日には、義貞率いる軍勢が稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入り、翌22日には鎌倉幕府を滅亡させることとなりました。
 現在でも、久米川周辺には、戦にちなんだ史跡も数多く残されていて、新田義貞が桜田貞国を破った地には「久米川古戦場跡」と刻まれた石碑が残り、久米川古戦場跡に隣接する小高い丘は、久米川の戦いで新田義貞が本陣を置いた地で、頂上付近には「将軍塚」の石碑や「元弘青石塔婆所在跡」などの史跡が点在しています。
 以下に、『太平記』巻第十の久米川の戦いに関する部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『太平記』巻第十 (69)新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事より

新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事

(前略)
路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。
(後略)

    「ウィキソース」より

☆新田義貞の挙兵から鎌倉幕府滅亡までの略年表(日付は旧暦です)

<1333年(元弘3)>
・5月8日 新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げる
・5月9日 義貞挙兵の報を受けた幕府の評定が鎌倉で行われる
・5月10日 桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府方が迎撃に向かう
・5月11日 小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月12日 久米川の戦い(現在の東京都東村山市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月15・16日 分倍河原の戦い(現在の東京都府中市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月16日 関戸の戦い(現在の東京都多摩市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月18日 反鎌倉幕府方は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始する
・5月21日 新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入る
・5月22日 東勝寺で北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣が自害し、鎌倉幕府が滅亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1718年(享保3)俳人で蕉門の十哲の一人とされる立花北枝の命日(新暦6月10日)詳細
1925年(大正14)「治安維持法」が施行される詳細
1962年(昭和37)劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の命日詳細
1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する詳細
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 今日は、南北朝時代の1337年(延元2/建武4)に、金ヶ崎の戦いにおいて、越前国金ヶ崎城が落城し、恒良親王が捕われ尊良親王が自害、新田義貞が敗走した日ですが、新暦では4月7日となります。
 金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は、南北朝時代の1336年(延元元/建武3)から翌年3月にかけて、越前国金ヶ崎城(現在の福井県敦賀市)に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる室町幕府・北朝方の軍勢との間で行われた戦いでした。金ヶ崎城は、中世の山城(標高86m)で、1336年(延元元/建武3)に、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が皇太子恒良親王と皇子尊良親王を奉じて北陸路に向った際、気比氏治に迎えられて入城しましたが、北朝方の越前国守護斯波高経に包囲されます。
 しかし、日本海に突出した岬の山上にあった堅固な要害だったため、攻めあぐね、兵糧攻めを行いました。翌年に足利尊氏は、高師泰を大将に各国の守護を援軍として派遣し、厳しく攻め立てます。新田義貞らは援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕らを残し、兵糧の尽きたこの城を脱出し、杣山城で態勢を立て直そうとしました。
 その後、義貞は金ヶ崎城を救援しようとしますが途中で阻まれ、3月3日には北朝方が金ヶ崎城に攻め込みます。そのため、兵糧攻めによる飢餓と疲労で困憊していた城兵は次々と討ち取られて3月6日に落城、尊良親王は自害、新田一族の十余人、少納言一条行房ほかは殉死、恒良親王は脱出したものの、北朝方に捕らえられました。
 尚、現在は城跡に恒良、尊良両親王を祀る金崎宮があり、月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定されました。
 金ヶ崎城落城の様子を『太平記』では以下のように描いています。

〇『太平記』金崎城落事(巻第十八)

 ・・・・・・・・
瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。 ・・・・・・・・

            流布本『太平記』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

803年(延暦22)征夷大将軍・坂上田村麻呂に志波城の築城が命令される(新暦4月1日)詳細
1297年(永仁5)鎌倉幕府により「永仁の徳政令」が出される(新暦3月30日)詳細
1945年(昭和20)「国民徴用令」等5勅令を廃止・統合し、新たに「国民勤労動員令」が公布される詳細
1946年(昭和21)憲法改正過程において、日本政府より「憲法改正草案要綱」 が発表される詳細
2005年(平成17)新交通システムの一つで、日本初の実用磁気浮上式鉄道である、愛知高速交通東部丘陵線が開業する詳細
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 今日は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3)に、小手指原の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府軍を破った日ですが、新暦では6月23日となります。
 小手指原の戦い(こてさしがはらのたたかい)は、鎌倉幕府と倒幕勢力による内乱「元弘の乱(げんこうのらん)」における合戦の一つで、倒幕勢力の新田義貞軍が武蔵国入間郡小手指原で鎌倉幕府軍を破った戦いでした。
 1333年(元弘3年5月8日)に、新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げます。その後、南下するに従い、鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、まず5月11日に入間川を渡って、小手指原(現在の埼玉県所沢市)に入ったところで、迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍に対し、この戦いが行われました。
 幕府軍は新田軍が入間川を渡りきる前に迎撃するつもりでしたが、新田軍の動きが迅速であったため、布陣の余裕はなく、小手指原において、両者の遭遇戦の形で合戦に至ります。新田軍と幕府軍との激戦は、30余回もの打ち合いとなりました。
 兵数は幕府軍の方が勝っていたものの、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていきます。日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、やむなく新田軍は入間川(現在の埼玉県狭山市)、幕府軍は久米川(現在の東京都東村山市)にそれぞれ引き上げて軍勢を立て直しました。
 翌日の久米川の戦いでも、新田軍が優勢となります。そこで、幕府軍は分倍河原(現在の東京都府中市)まで退却、執権北条高時の弟の北条泰家を大将とする10万の援軍と合流し、迎え撃とうとしました。
 これを5月15日に反幕府方の新田義貞軍が攻撃したものの、今度は援軍を得ていた幕府方が優勢になり、反幕府方の新田軍は堀金(現在の埼玉県狭山市)までの退却を余儀なくされます。しかし、相模国の軍勢を率いた三浦義勝が新田軍の援軍に入ると、翌16日早朝には義勝を先鋒として義貞は2万の軍勢で一気に分倍河原に押し寄せ、緊張が緩んでいた幕府方に奇襲をかけて大勝し、鎌倉幕府方は敗走することになりました。
 ここで幕府方を圧倒したことで、反幕府方には次々と援軍が合流し、ついには60万もの大軍勢となります。その後、反幕府方は勢いに乗り、5月21日には、義貞率いる軍勢が稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入り、翌22日には鎌倉幕府を滅亡させることとなりました。
 現在でも、小手指原周辺には、戦にちなんだ史跡も数多く残されていて、「白旗塚(しらはたづか)」は義貞が源氏の白旗を立てた場所とされ、その北の「誓詞橋(せいしがはし)」は倒幕を誓った場所と言われています。また、長久寺(久米)の南の柳瀬川にかかる「勢揃橋(せいぞろいばし)」は新田軍が勢揃いした場所と伝えられてきました。また、八国山の「将軍塚(しょうぐんづか)」は、義貞が戦の際に陣を敷き、軍勢を指揮した場所とされています。
 以下に、『太平記』巻第十の小手指原の戦いに関する部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『太平記』巻第十 (69)新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事より

新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事

(前略)
路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。
(後略)

    「ウィキソース」より

☆新田義貞の挙兵から鎌倉幕府滅亡までの略年表(日付は旧暦です)

<1333年(元弘3)>

・5月8日 新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げる
・5月9日 義貞挙兵の報を受けた幕府の評定が鎌倉で行われる
・5月10日 桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府方が迎撃に向かう
・5月11日 小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月12日 久米川の戦い(現在の東京都東村山市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月15・16日 分倍河原の戦い(現在の東京都府中市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月16日 関戸の戦い(現在の東京都多摩市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月18日 反鎌倉幕府方は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始する
・5月21日 新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入る
・5月22日 東勝寺で北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣が自害し、鎌倉幕府が滅亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(寿永2)倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る(新暦6月2日)詳細
1473年(文明5)武将・守護大名・室町幕府管領細川勝元の命日(新暦6月6日)詳細
1942年(昭和17)詩人萩原朔太郎の命日(朔太郎忌)詳細
1955年(昭和30)宇高連絡船の紫雲丸と第3宇高丸が衝突し紫雲丸が沈没して死者167名を出す(紫雲丸事故)詳細
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 今日は、南北朝時代の建武2年に、箱根・竹ノ下の戦いが起き、建武新政府に叛旗を翻した足利尊氏が新田義貞軍を破って、南北朝動乱が始まった日ですが、新暦では1336年1月24日となります。
 箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、鎌倉で建武新政府に反旗を翻した足利尊氏・直義軍と後醍醐天皇の宣旨を受けて尊良親王を奉じた新田義貞軍との間の箱根・竹ノ下での戦いでした。
 1335年(建武2)8月に、北条高時の遺児時行が起こした中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は、鎌倉を奪還しますが、この知らせを受けた後醍醐天皇は、尊氏を従二位に昇叙し、帰京命令を出します。しかし、尊氏はこれに従わずに鎌倉に留まり、建武新政府に叛旗を翻しました。
 そこで、同年11月に、後醍醐天皇の尊氏追討の宣旨を受けた新田義貞が尊良親王を奉じて京都を出立し、東進しながら各地で足利軍を破り、関東への出入口である駿豆国境付近に陣を取ります。ここに至って、ようやく尊氏も鎌倉から出陣し、義貞は、三島にて軍勢をニ手に分けて、自らは大友氏・菊池氏など7万騎を率いて箱根峠へ向かい、脇屋義助を副将軍にした別動隊は、尊良親王らと7千騎にて、足柄峠を目指しました。
 これに対し、足利勢は、直義が箱根に布陣し、尊氏は竹ノ下前面の足柄峠に布陣します。同年12月11日に両軍は激突。箱根方面では義貞軍が直義軍を押し気味に戦局が展開、尊氏と義助の主戦場は足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となりました。
 ところが翌日には、新田勢の大友貞載と塩冶高貞が、尊氏軍に寝返えったため、脇屋義助らは総崩れとなり、新田勢は敗走します。13日には、伊豆国府を尊氏軍が奪回し、義貞軍は東海道を総崩れで京都に敗走、尊氏軍はこれを追って上洛しました。
 以下に、『太平記』巻第十四の「箱根竹下合戦事」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『太平記』巻第十四

箱根竹下合戦事

去程に同十二月十一日両陣の手分有て、左馬頭直義箱根路を支へ、将軍は竹下へ向べしと被定にけり。此間度々の合戦に打負たる兵共、未気を直さで不勇、昨日今日馳集たる勢は、大将を待て猶予しける間、敵已に伊豆の府を打立て、今夜野七里山七里を超ると聞しかば、足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・佐々木佐渡判官・赤松雅楽助貞則、「加様に目くらべして、鎌倉に集り居ては叶まじ、人の事はよし兎も角もあれ、いざや先竹下へ馳向て、後陣の勢の著ぬ先に、敵寄せば一合戦して討死せん。」とて、十一日まだ宵に竹下へ馳向ふ。其勢僅なりしかば、物冷しくぞ見へたりける。されども義を守る勇士共なれば、族に多少不可依とて、竹下へ打襄て敵の陣を遥に直下たれば、西は伊豆の府、東は野七里山七里に焼双べたる篝火の数幾千万とも不知けり。只晴天の星の影、滄海に移る如く也。さらば御方にも篝火を焼せんとて、雪の下草打払ひ、処々刈集めて幽に火を吹著たれば、夏山の茂みが下に夜を明す、照射の影に不異。されども武運強ければにや、敵今夜は寄来らず。夜已に明なんとしける時、将軍鎌倉を打立せ給へば、仁木・細河・高・上杉、是等を宗との兵として都合其勢十八万騎竹下へ著給へば、左馬頭直義六万余騎にて箱根峠へ著給ふ。去程に、明れば十二日辰刻に、京勢共伊豆の府にて手分して、竹下へは中務卿親王に卿相雲客十六人、副将軍には脇屋治部大輔義助・細屋右馬助・堤卿律師・大友左近将監・佐々木塩冶判官高貞を相副て、已上其勢七千余騎、搦手にて被向けり。箱根路へは又新田義貞宗徒の一族二十余人、千葉・宇都宮・大友千代松丸・菊池肥後守武重・松浦党を始として、国々の大名三十余人、都合其勢七万余騎、大手にてぞ被向ける。同日午刻に軍始まりしかば、大手搦手敵御方、互に時を作りつゝ、山川を傾け天地を動し、叫喚で責戦ふ。去程に、菊池肥後守武重、箱根軍の先懸して、敵三千余騎を遥の峯へ巻上げ、坂中に楯を突双て、一息継て怺へたり。是を見て、千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曾・熱田の大宮司、一勢々々陣を取て曳声を出して責上々々、叫喚で戦たり。中にも道場坊助注記祐覚は、児十人同宿三十余人、紅下濃の鎧を一様に著て、児は紅梅の作り花を一枝づゝ甲の真額に挿たりけるが、楯に外れて一陣に進みけるを、武蔵・相摸の荒夷共、「児とも云はず只射よ。」とて、散々に指攻て射ける間、面に進みたる児八人矢庭に倒れて小篠の上にぞ臥たりける。党の者共是を見て、頚を取らんと抜連て打て下けるを、道場坊が同宿共児を討せて何か可怺。三十余人太刀・長刀の鋒を双べて手負の上を飛超々々、「坂本様の袈裟切に成仏せよ。」と云侭に、追攻々々切て廻りける間、武士散々に被切立て、北なる峯へ颯と引と、且し息をぞ継だりける。此隙に祐覚が同宿共、面々の手負を肩に引懸て、麓の陣へぞ下りける。義貞の兵の中に、杉原下総守・高田薩摩守義遠・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守・長浜六郎左衛門・高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門とて、党を結だる精兵の射手十六人あり。一様に笠験を付て、進にも同く進み、又引時も共に引ける間、世の人此を十六騎が党とぞ申ける。彼等が射ける矢には、楯も物具もたまらざりければ、向ふ方の敵を射すかさずと云事なし。執事舟田入道は、馳廻て士卒を諌め、大将軍義貞は、一段高き処に諸卒の振舞を被実検ける間、名を重じ命を軽ずる千葉・宇都宮・菊池・松浦の者共、勇進で戦ける間、鎌倉勢馬の足を立兼て、引退者数を不知けり。懸る処に竹下へ被向たる中書王の御勢・諸庭の侍・北面の輩五百余騎、憖武士に先を不被懸とや思けん。錦の御旌を先に進め竹下へ押寄て、敵未一矢も不射先に、「一天君に向奉て曳弓放矢者不蒙天罰哉。命惜くば脱甲降人に参れ。」と声々にぞ呼りける。是を見て尾張右馬頭・舎弟式部大夫・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・三浦因幡守・佐々木佐渡判官入道・赤松筑前守貞則、自宵一陣に有けるが、「敵の馬の立様、旌の紋、京家の人と覚るぞ、矢だうなに遠矢な射そ。只抜連れて懸れ。」とて三百余騎双轡、「弓馬の家に生れたる者は名をこそ惜め、命をば惜まぬ者を。云処虚事か実事か、戦て手並の程を見給へ。」とて一同に時を咄と挙げ、喚てこそ懸たりけれ。官軍は敵をかさに受て麓に引へたる勢なれば、何かは一怺も可怺、一戦にも不及して、捨鞭を打てぞ引たりける。是を見て土岐・佐々木一陣に進て、「言ばにも似ぬ人々哉、蓬し返せ。」と恥しめて、追立々々責ける間、後れて引兵五百余騎、或は生捕れ或被討、残少に成にけり。手合せの合戦をしちがへて官軍漂て見へければ、仁木・細河・高・上杉の人々勇進で、中書王の御陣へ会尺もなく打て懸る。されば引漂たる京勢にて、可叶様無りけるを、中書王の副将軍脇屋右衛門佐、「云甲斐なき者共が憖に一陣に進て御方の力を失こそ遺恨なれ。こゝを散さでは叶まじ。」とて、七千余騎を一手になして、馬の頭を雁行に連ねて、旌の足を龍装に進めて、横合に閑々と懸られける。勝誇たる敵なれば何かは少しも疼むべき。十字に合て八字に破る。大中黒と二つ引両と二の旌を入替々々、東西に靡き南北に分れ、万卒に面を進め一挙に死をぞ争ひける。誠に両方名を被知たる兵共なれば誰かは独も可遁。互に討つ討れつ、馬の蹄を浸す血は混々として洪河の流るゝが如く也。死骸を積める地は、累々として屠所の肉の如く也。無慙と云も疎也。爰に脇屋右衛門佐子息式部大夫とて、今年十三に成けるが、敵御方引分れける時、如何して紛れたりけん、郎等三騎相共に敵の中にぞ残りける。此人幼稚なれども心早き人にて、笠符引切て投捨、髪を乱し顔に振懸て、敵に不被見知とさはがぬ体にてぞ御坐ける。父義助是をば不知、「義治が見へぬは誅れぬるか、又生捕れぬるか、二の間をば離れじ。彼死生を見ずば、片時の命生ても何かはすべき。勇士の戦場に命を捨る事只是子孫の後栄を思ふ故也。されば未幼なき身なれども、片時の別を悲んで此戦場にも伴ひつる也。其死生を知らでは、如何さて有べき。」とて、鎧の袖に泪をかけ、大勢の中へ懸入り給けるが、「誠に父の子を思ふ志、今に初ぬ事なれども、哀なる御事哉。いざや御伴仕らん。」とて義助の兵共轡を双べ三百余騎、主を討せじと懸入ける。義助の二度の懸に、指もの大勢戦疲れて、一度にばつとぞ引たりける。是に理を得て、義助尚追北進まれける処に、式部大夫義治、我が父と見成して馬を引返し、主従四騎にて脇屋殿に馳加はらんと馬を進められけるを、誰とは不知、片引両の笠符著たる兵二騎、御方が返すぞと心得て、「やさしくこそ見へさせ給候へ。御供申て討死し候。」とて、連て是も返しけり。式部大夫義治は父の義助の勢の中へつと懸入り様に、若党にきつと目くはせゝられければ義治の郎従よせ合せて、つゞいて返しつる二騎の兵を切落し、頚を取てぞ指挙たる。義助是を見給て死たる人の蘇生したる様に悦て、今一涯の勇みを成し、「且く人馬を休めよ。」とて、又元の陣へは引返されける。一陣余に闘ひくたびれしかば、荒手を入替て戦しめんとしける処に、大友左近将監・佐々木塩冶判官が、千余騎にて後に引へたるが、如何思けん一矢射て後、旗を巻て将軍方に馳加り、却て官軍を散々に射る。中書王の御勢は、初度の合戦に若干討れて、又も戦はず。右衛門佐の兵は両度の懸合に人馬疲れて無勢也。是ぞ荒手にて一軍もしつべき者と憑れつる大友・塩冶は、忽に翻て、親王に向奉て弓を引、右衛門佐に懸合せて戦しかば、官軍争か堪ふべき。「敵の後ろを遮らぬ前に、大手の勢と成合ん。」とて、佐野原へ引退く。仁木・細川・今川・荒川・高・上杉・武蔵・相摸の兵共、三万余騎にて追懸たり。是にて中書王の股肱の臣下と憑み思食たりける二条中将為冬討れ給ければ、右衛門佐の兵共返合々々、三百騎所々にて討死す。是をも顧ず引立たる官軍共、我先にと落行ける程に、佐野原にもたまり得ず、伊豆の府にも支へずして、搦手の寄手三百余騎は、海道を西へ落て行く。

    「ウィキソース」より

〇南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3年10月27日) 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1645年(正保元)臨済宗の僧沢庵宗彭の命日で「沢庵忌」とされる(新暦1646年1月27日)詳細
1959年(昭和34)三井三池炭鉱で指名解雇を通告し、「三井三池争議」が始る詳細
1986年(昭和61)歌人宮柊二の命日 詳細
1997年(平成9)地球温暖化防止京都会議(COP3)が閉幕、温室効果ガスの削減目標を定めた「京都議定書」を採択する詳細
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 今日は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3)に、鎌倉幕府方の北条泰家軍と反鎌倉幕府方の新田義貞軍との間で、分倍河原の戦いが始まった日ですが、新暦では6月27日となります。
 分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府方と新田義貞率いる反幕府方との間で行われた合戦で、反幕府方の勝利となり、義貞は勢いに乗って鎌倉へ攻め入り,鎌倉幕府を倒すこととなりました。1333年(元弘3)5月8日に、新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げます。
 その後、南下するに従い、鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍に対し、5月11日に小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)、5月12日に久米川の戦い(現在の東京都東村山市)と、相次いで打ち破りました。そこで、鎌倉幕府方は分倍河原まで退却、執権北条高時の弟の北条泰家を大将とする10万の援軍と合流し、迎え撃とうとします。
 これを5月15日に反幕府方の新田義貞軍が攻撃したものの、今度は援軍を得ていた幕府方が優勢になり、反幕府方の新田軍は堀金(現在の埼玉県狭山市)までの退却を余儀なくされました。しかし、相模国の軍勢を率いた三浦義勝が新田軍の援軍に入ると、翌16日早朝には義勝を先鋒として義貞は2万の軍勢で一気に分倍河原に押し寄せ、緊張が緩んでいた幕府方に奇襲をかけて大勝し、鎌倉幕府方は敗走することになります。
 ここで幕府方を圧倒したことで、反幕府方には次々と援軍が合流し、ついには60万もの大軍勢となりました。その後、反幕府方は勢いに乗り、5月21日には、義貞率いる軍勢が稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入り、翌22日には鎌倉幕府を滅亡させることとなります。
 以下に、『太平記』巻第十の分倍河原の戦いの部分を抜粋して掲載しておきますので、御参照下さい。

〇新田義貞の挙兵から鎌倉幕府滅亡までの略年表(日付は旧暦です)

<1333年(元弘3)>

・5月8日 新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げる
・5月9日 義貞挙兵の報を受けた幕府の評定が鎌倉で行われる
・5月10日 桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府方が迎撃に向かう
・5月11日 小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月12日 久米川の戦い(現在の東京都東村山市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月15・16日 分倍河原の戦い(現在の東京都府中市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月16日 関戸の戦い(現在の東京都多摩市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月18日 反鎌倉幕府方は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始する
・5月21日 新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入る
・5月22日 東勝寺で北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣が自害し、鎌倉幕府が滅亡する

〇「太平記」巻第十 (69)新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事より

去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相摸入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。義貞は敵に荒手の大勢加りたりとは不思寄。十五日の夜未明に、分陪へ押寄て時を作る。鎌倉勢先究竟の射手三千人を勝て面に進め、雨の降如散々に射させける間、源氏射たてられて駈ゑず。平家是に利を得て、義貞の勢を取篭不余とこそ責たりけれ。新田義貞逞兵を引勝て、敵の大勢を懸破ては裏へ通り、取て返ては喚て懸入、電光の如激、蜘手・輪違に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵而も荒手にて、先度の恥を雪めんと、義を専にして闘ひける間、義貞遂に打負て堀金を指て引退く。其勢若干被討て痛手を負者数を不知。其日軈て追てばし寄たらば、義貞爰にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵・上野の者共が、討て出さんずらんと、大様に憑で時を移す。是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1884年(明治17)群馬県陣場ヶ原に農民と自由党員が集結、警察分署と高利貸しを襲撃したが挫折する(群馬事件詳細
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